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2022年7月30日 (土)

新・私の本棚 川村 明「九州王朝説批判」最新版 1/9

 ~七世紀の倭都は筑紫ではなかった サイト記事批判
2016/03/20 2018/05/05 2019/03/01 04/20 2020/06/24 2021/09/12改稿 2022/07/30

私の見立て ★★★☆☆ 賢察に潜む見過ごしの伝統

▢「九州王朝説批判」抜き書きの弁
 当記事は、書籍の批評ではなく、川村明氏の個人サイト記事の批判ですが、決して、個人攻撃でないと了解いただきたい。氏ほどの見識の方が、中国史書の書法に行き届いていないために、見過ごしによる誤解と見える発言が散見されるので、誠実、率直に指摘しているものです。
 当連載記事は、当初掲示以来、五年以上たった今、少ないとは言え、閲覧件数が維持されているので、全体の言い回しを調整の上、追記し、再読して、部分的に取りだして、9ページに分割の上、再掲示しました。以後、時に応じて、補充しています。

*「古田武彦 九州王朝説」批判の由来
 因みに、川村氏の記事は、古田武彦氏の主張の各条批判なので両大家の角逐に口は挟めないのですが、論議起点たる史料確認が不十分なまま書紀記事の吟味に没入、注力して、私見では、些末、細瑾に囚われているので、論争の原点を見直して頂きたく、ご再考を促す趣旨で筆を執っています。(古田武彦氏は、既に故人になられましたが、古田氏の後継者は健在なので、聞く耳があれば、ご一考頂きたいのです)

 ここに書きまとめた当記事は、倭人伝から隋書にいたる中国史料を基点とした考察であり、その視点から言うと、日本書紀は、「史料批判、つまり、資料としての検証を要する外部文献」です。史学の基本である史料批判抜きの「書紀」視点で進めた解釈と異なる起点から解釈を試みます。

追記:まず、ここまで言いそびれていた批判を一つ述べます。
 第2章 七世紀の倭都は筑紫ではなかった(Historical)

〇「倭都」は無かった。 追記 2021/09/12
 「中國哲學書電子化計劃」の収蔵史料の魏晋代以前の文書の全文検索で「倭都」なる漢語は見つかりません。
 つまり、古代史において「倭都」は無法であり、ここに掲示していると著者の見識を疑われるのです。
 これは氏の独断でなく、国内史学界で常用されているのでしょうが、小生は、一介の素人であって、遠慮なく正論を唱えることができるのです。

*「都」の字義
 端的に言うと、「都」の示す意味は、殷周代以来、三世紀、さらには、七世紀に向かって、変遷を重ねています。言う迄も無いのですが、この期間、中国に「世紀」の概念は無いので、本来、世紀で論じるのは無意味なのですが、便宜症、つまり、他に、適当な紀年法がないので、大勢に従うことにします。

 漢字の考証という事で言うと、「都」は、本来、つまり、殷周代の用法では、「すべて」、「つどう」の意味で、当然、以降の秦漢魏晋代にも、その意味は脈々と受け継がれています。
 後世、地域の交通、市糴の要(かなめ)を「都」と形容し、それが王城、王居の意味となったようで、時に、古代王朝の王の居所/居処を示す意味で使われたのです。
 つまり、天下形勢変動に応じ、時代、状況に即して「都」の意味が異なるので、当然、書き手と読み手の理解のずれ、つまり、誤解を招きます。例えば、唐代編纂の隋書「俀国伝」で「都於邪靡堆」と風聞に基づいて書いた趣旨は、時代、状況不明で、理解困難な事例の最たるものです。

*笵曄「後漢書」評判記の試み
 いつ、誰が書いた文献の引用なのか、知るすべがないのです。衆知の如く、笵曄「後漢書」は「邪馬臺国」であり、魏志「倭人伝」は「邪馬壹国」なので、「邪靡堆」は、無根拠の誤記と見えます。南北朝の時代を、荒廃した中原地域を支配した北朝は、手に入る中国古典資料をもとに、秦漢以来の国政を復元しようとしたはずですが、後漢、魏、西晋まで辛うじて維持されていた、歴代政権の公文書は喪われていて、西晋の公式文書であった魏志は、比較的高度な写本を獲得したようですが、南朝劉宋時、逆臣として斬首の目に遭った笵曄の遺著は、どのようにして、北朝の蔵書となったか不明です。後漢代の正史は、西晋代に到っても確立していなくて、劉宋の高官であった笵曄は、先行する「後漢書」候補を参照した上で、文章家としての贅を尽くした「後漢書」を編纂したと見えますが、あくまで、先行史書と併存する「一史書」との評価にとどまっていたと見えます。
 唐の統一政権下、旧南朝政権の蔵書を徴用して、中原政権に相応しい正史編纂の偉業を成し遂げた関係者の労苦は、大いに讃えるべきですが、記事内容に関しては、慎重な「査定」が必要と言わざるを得ません。
 と言うことで、隋唐史官の手にあった南朝編纂史書「後漢書」の素性は、大変不確かと言わざるを得ません。

 我々、遙か後世の東夷の無教養、無学な輩は、何としても、安直な受け売りを避けねばならないのです。

*日本語に残る古代語~倭人伝考
 日本語には、隋唐代の中国語が生き残っているという説が在りますが、日本語の「都」は、渡来以来、時代を経て風化し、今日、単に大きな「街」(まち)と解され、「商都」「工都」など、各地に、色とりどりの「みやこ」ならぬ「まち」が言い慣わされるため、国家元首居所は、特に「首都」と言わざるを得ないのです。この場合、「都」は最上位の「まち」、《東京》と解されても、「東京都」は、最大の地方公共団体に過ぎないのです。まずは、諸兄姉の脳内辞書を点検して、中国史書の解釈に取り組む必要があるのです。

 つまり、「都於邪靡堆」の「都」の解釈は、いずれの時代のいずれの史料を承継しているのか、精査が必要です。因みに、倭人伝の「都水行十日、陸行一月」は、未踏の倭に至る行程、道里を縷々述べた後での総括であり、ここで求められるのは、郡を発して以来の総所要期間と見るのが「普通」と見えます。つまり、「都合水行十日、陸行一月」であり、部分日程の総計日数であることを示していると見ると、自然に解釈できるのです。

*牛馬のいない倭地の事情
 「倭人伝」の編纂にあたっては、新参の東夷「倭人」に至る文書送達日数が必須事項であり、倭人の地には、中原地域と異なり、街道がない、つまり、文書使が騎馬で疾駆し、宿場ごとに馬を替えて乗り継ぐ「インフラストラクチャー」(道路、水道、宿場制度など、古代社会の基礎構造)が存在しないため、国間道里を書いても到達日数が保証されないという背景から、倭人は、「行程道里を言うとき所要日数で言う」という定見を明記したと見えるのです。

 このあたり、世上、俗耳に馴染んでいる考証の大半が、そっぽを向いて空転し、世間に混沌を広げているのではないかと、懸念しています。
 もちろん、国内史学界用語が、中国史料が書かれている語彙を、しばしば逸脱して、時代錯誤の「造語」に走っているのは、時に、中国古代史家から指摘があるのですが、これだけ蔓延していると、「つけるクスリがない」という例に、散見どころでない頻度で、おめにかかるのです。

*無理な造語
 このように、丁寧に考察を深めていくと、氏の見解は、(中国)史料に根拠の無い造語を起用しているので、はなから無効と見え、露呈した疑問点を克服すべく、考え直して頂く方が良いでしょう。

 「七世紀の倭都は筑紫ではなかった」と、今ひとつの「なかった」提言ですが、このたびは、大きな空振りと見えます。
 隋書「俀国伝」収録の裴清記には、当然「倭都」はありません。また、魏志倭人伝の従郡至倭行程に「倭都」はなく、東夷蕃国の倭に至高の「都」があったとする確たる記事があるわけでもないのです。

 以上、広く諸史料を読みふけって総括した論議で、明解な論拠が示せないので温めていたものですが、この際、言うことに決めたのです。

 氏の潤沢な考察の瑕瑾をつくようで恐縮ですが、遅まきながら、史眼のブレの可能性を指摘しておきます。

                               未完

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