新・私の本棚 川村 明「九州王朝説批判」最新版 5/9
~七世紀の倭都は筑紫ではなかった サイト記事批判
2016/03/20 2018/05/05 2019/03/01 04/20 2020/06/24 2021/09/12改稿 2022/07/30
私の見立て ★★★☆☆ 賢察に潜む見過ごしの伝統
*謁見の場
さて、書紀を援用する氏の解釈に従うと、隋使は、恐らく半年近くたって、遠路遙か「大阪湾岸」に上陸して、宿舎で接待され、更に日を経て大和に招かれ、倭王と会見したらしいのです。
*知られざる交流史~放念された伝統
隋書にある俀王の言葉は、「中国に大隋のあることは知っていたが、これまで、(山中に)引きこもっていたので、使いを出せなかった。先年、使節を送ったのは、大隋の恩恵に浴したいためであった」とありますが、大いに不審です。
そもそも、隋以前、歴代王朝への長年の遣使があったのです。隋書に書かれている遣使の歴史は、俀王が、歴代蕃王の伝統の継承者であると宣言しているものであり、隋朝文林郎たる裴世清には、すべて既知であったはずです。
長安ないしは洛陽の鴻廬には、秦漢代以来の「鴻臚」の貯えた、れっきとした公文書が保管されていたのです。もちろん、「皇帝御覧」の神聖不可侵の文書記録ですから、改竄、差替は不可能の極みです。また、各文書上申部門には、全て控えがあり、皇帝に上申した内容は、部門公文書に所蔵されています。中国史料は、そのように、改竄、変造に対して、絶大な抵抗力を持っているのです。いや、これは、度々触れるように、西晋が、匈奴などの侵略で国を喪った際に、継承が断たれたのですが、その際、侵入者は、公文書撲滅の意識は無かったので、全滅まではしなかったと見えます。
ここで確認すると、隋使来訪は、二回目の遣隋使派遣に対する応答です。
初回遣使で、使人は、国書での提示ともに、鴻臚の審問に応えて口頭で国情、風俗を述べています。なかには、俀王の政事について述べた下りがあって、皇帝隋文帝は、これを「道理」に反するものとして叱責し、改めるように厳命しています。
何しろ、俀国使人は、自国が勝手に制定している官制など、「礼」に外れた蕃制を得々と語っているのです。これも、南朝と称した「賊」の認めた無礼なのかと、怒りを覚えたはずです。
皇帝の叱責を受けた使人は、当然、帰国次第、俀王に皇帝の指示を伝え、改めさせると約束したものと思われます。
ところが、八年後の遣使の献じた国書には、大隋の仏教興隆に感銘を受け、仏僧を留学させたいと述べていますが、俀王の政事をどのように改めたか明言がないように見えます。煬帝は、先帝の指示に対する応答がないのは、無礼と感じたものと思われます。
*海西の由来
また、しきりに、隋帝を、「海西」の君主と称しています。当時の常識としては、西域の萬二千里の蕃国安息国の更に西、大海の向こう岸にある海西、幽冥の地に擬しているものと思われますが、東夷の蕃王天子と西戎(蕃王)天子と対等の位置付けに擬されて、無礼この上なしと怒気を発したものと思われます。そもそも、中国では、天子は、唯一不可侵であるので、このような無礼は、死に値する罪科です。
周が殷(商)を打倒したのは、天下に天命を受けた天子は唯一で、天命を喪った天子は直ちに撲滅しなければならない、としたものであり、東夷の天子は、西戎の天子を滅ぼすと挑戦したものとも解されるのです。
東夷の自称天子は、定説では、全て承知の上で、西戎天子と対等との姿勢を示したことになっていますが、世上、「夜郎自大」と言われたり、蟻が大山と背比べするようなものといわれたり、「井蛙」、つまり、井の中の蛙と言われたり、無知な蛮人の暴言は、正史に晒し者になっているのです。
以上のような背景を見ると、隋使にして見れば、皇帝が使人に与えた指示が、代々の蕃王に継承されず、無礼の罪すら謝罪しないとしたら、互いに取り決めすることは無意味になるのです。
礼を知らないという煬帝の非難の中には、拝謁の際の勅諚、つまり、厳命された取り決めが維持されないのは無礼である、と言う主旨も含まれていたのではないでしょうか。蛮人は物の道理を知らないから、無知による無礼の失言は直ちに咎めるべきではないという天子の寛容性は、限度に達したと見るものでしょうか。
「礼」の中には、約束を守るという大原則が含まれているように思います。もちろん、国内史料には、そのような究極の「無礼」の自覚も反省もないのです。
*倭国紀年
ここで、氏は、日本書紀記事の信頼性の裏付けとして、隋書と書紀の紀年の整合を言い立てます。
・部分引用(…は中略記号)
「しかも…「明年」とは、直前(中略)に大業3年とあることから、大業4年のことであることがわかり、これは推古16年にあたる。ところがよく知られているように、『日本書紀』の推古16年条には、…中国の使者裴世清…が、大和を訪れて天皇と会見した記事があり、これらを同一事件であるとして何の矛盾もないように見える。」
後年の書紀編纂時に、編纂部門全体としては、史記、漢書、三國志から隋書に至る正史や晋起居註などの中国史料を参照できたのは、明らかですから、書紀の史料批判に際しては、隋書記事に合うように、書紀の紀年を操作したのではないかという素朴、自然、順当、普通の議論(異論)克服の「試錬」が必要でしょう。
「何の矛盾もないように見える」などと温厚な断定表現ですが、単なる見てくれで安心してはならないのです。
素人考えですが、隋初まで中国と交流が無かった「ヤマト」が神功皇后紀に魏志記事を挿入したように、大変「巧妙に」紀年を中国暦と整合させたと見て取れます。素人が感じる疑念を解消していただかなくては困るのです。
このように、(中国)史官の史書編纂は、「述べて作らず」が厳命されているので、「書紀」の度を過ごした創作志向には、(中国)「正史」に寄せる信頼と同等の信頼は置けないのです。
未完
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