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2022年7月30日 (土)

新・私の本棚 川村 明「九州王朝説批判」最新版 8/9

 ~七世紀の倭都は筑紫ではなかった サイト記事批判
2016/03/20 2018/05/05 2019/03/01 04/20 2020/06/24 2021/09/12改稿 2022/07/30

私の見立て ★★★☆☆ 賢察に潜む見過ごしの伝統

*「九州王朝説」の成り行き~難波東都論
 因みに、ご参考までに申し上げると、氏が否定する「九州王朝説」論は、近来、筑紫京都~難波東都論の首都~副都仮説が提言されています。
 なお、タイトルに関して難詰した「都」の時代混乱は、川村氏独自の錯覚ではなく、国内古代史学界に普遍的なのですが、ここに説明無しに掲題している以上、用語の不見識は、氏の責任とみたのです。

 ちなみに、氏の動機は、古田武彦氏なる個人論調への攻撃なので当人がいなくなれば空振りですが、論敵は論旨を後継者に託して続いているのです。

 そう力まなくても、隋書には、俀国は、漢魏晋以来南朝の宋、齊、梁を経て、統一後の隋まで一貫して貢献していたとあり、これに耳を貸せば良いでしょう。

*避けられない時代錯誤
 氏の「浪漫」派史観の弱点は、「時代錯誤」でしょう。特に七世紀初頭の「中国人が中国人である皇帝に上申した古代史書」の実務的記事を、はるか後世、古代中国語の読み書きを知らないで育った「現代人」が、すらすら明快に読めるという決め込みに、何の抵抗も感じないところに疑問があります。

*幻の瀬戸内海一貫帆走
 ついでながら、六世紀末当時、「瀬戸内海航路」は影も形もなく、小型船舶による輸送経路が繋がっていただけで、「ヤマト」は交信・交流に厖大な時間を要する遠隔地であるため、漢倭交流から隔離されていたと見えるのです。そのため、筑紫での貴重な記録が継承できなかったのでしょう。
 言うまでもなく、隋使乗船は、百済人の助言で竹斯まで到達しても、大型の帆船の案内人がない状態で、序の口の関門海峡すら越せなかったでしょう。

*竹斯国東岸海港
 竹斯国から東に向かって海港に出るというものの、東方の芸予諸島、備讃瀬戸の多島海、明石/鳴門海峡の難関は、隋唐の帆船では越せなかったでしょう。いずれにしろ、自前の船舶、船員、操船技術で航路開拓していなければ、隋船は航行できないのです。いや、開拓したとしても、元来難業なのです。
 隋使は、生還を期せない冒険航海など考えなかったのであり、使節自身はもとより、連座という事で人質になっている家族の生死に関わるので、殊更命を惜しんだのです。
 因みに、当記事筆者は、先の背景から、「倭の五王」の南朝遣使はもとより、後の初期遣唐使船まで、帆船航行に不安のない九州母港とみています。ここは、あくまで、川村氏の所説の批判であるので、自説を押しつけないように言及を避けているのですが、別に、何の定見も持たずに、重箱の隅をつついているのではないのです。諸兄姉には、自明事項と思いますが、道理の通じない読者があれば、万一にも誤解しそうなので、くどくど書いた次第です。

*倭人伝解釈の確認~三世紀古代国家の構想
 ここまで書き進んで、川村氏は、倭人伝解釈に於いて「畿内説」を採用しているように見えてきました。

 私見によれば、「畿内説」は、単に「邪馬台国」比定地の一説ではなく、三世紀時点、九州北部を遠隔支配する古代国家が成立していて、当然、文書行政国家の統制を保つために、街道網が整備され、国の礎が築かれていたという壮大な巨像を築き上げているものであり、倭人伝を根拠史料とするために、随分強引な二次創作で、お手盛りの「倭人伝」を創造しているように見えるのです。僅か二千字程度の史料に少なからぬ誤記、誤字、曲筆を言い立てているのは、お手盛りの「倭人伝」を創造していると評しても、言いすぎではないでしょう。

 ちなみに、そのように早々に古代国家が形成されていたら、当然、東西の二大要地を周旋/往来する街道交通、文書連絡は、さらに遡って確立済みであり、また、必然的に文書行政の国家であったから、それから四世紀を経た七世紀には、当然、楽々と東西連携して隋使の受入ができたというお考えなのでしょうが、ここまで当記事で随時触れたように、そのような古代国家の形成は、万全の論証を具備しない限り、随分尚早と見えるのです。

 考古学の見地でいくと、国内に文書連絡があれば、それぞれの要地に厖大な文書、文書稿が生成、廃棄されねばならず、当時、木簡と帛書に頼っていたとすれば、少なくとも、厖大な木簡文書遺物が出土するはずです。であれば、不確かな推量に頼らずとも、遺物に依拠した考察が展開できるはずですが、そのような成果発表は、ほとんど見かけません。

 いや、後年の遣唐使が美しい紙質の手帳を駆使していたと伝えられているので、何れかの時期に、各地に製紙工房が林立したのでしょうか。何しろ、文書行政は、戸籍を国政の基礎としているので、萬戸の国は萬戸分、十萬戸の国は十萬戸分の戸籍を記帳、保管、集計、例えば十年ごとに全面更新しなければならなかったのです。更新というのは、旧戸籍を廃棄し、新戸籍を書き上げるのであり、旧戸籍は、裏紙用紙として多用途に活用したとしても、いずれは、裏面の余白も尽きるのであり、こよりとして帳票の綴じ紐にしたり、火口(ほくち)として、竈などの焚き付けに供したとしても、あるいは、遙か後世では、襖の下張にしたとしても、所蔵したり、廃棄したりで残されるものとみるのです。つまり、何も残らないはずはないのです。

 と言うものの、それは、各人の構想の問題であり、確たる信念があっての七世紀論であれば、当記事は、単なるアラ探しにとどまるかも知れません。それはそれとして、ご一考頂ければ幸いと思い、自説を述べているのです。

                               未完

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