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2022年7月30日 (土)

新・私の本棚 川村 明「九州王朝説批判」最新版 7/9

 ~七世紀の倭都は筑紫ではなかった サイト記事批判
2016/03/20 2018/05/05 2019/03/01 04/20 2020/06/24 2021/09/12改稿 2022/07/30

私の見立て ★★★☆☆ 賢察に潜む見過ごしの伝統

2.職分誤認
 隋使裴世清は「文林郎」でしたが、書紀は「鴻臚寺掌客」と誤記しています。
 あえて、論外な書紀記事の不規則発言を許すと、どちらも、官位の下辺で略同格ですが、「文林郎」は文書管理部局の散官で教養を有し、「掌客」は、蕃客接待専任部署の実務担当で、権能が異なります。書紀記事は、官制や「客」の意義に無知な者の憶測と見られます。
 書紀記事をあえて信じると、裴世清は、国書で鴻臚の蕃客接待の下級官人と紹介され、返書では、鴻臚寺掌客の使人派遣に感謝したことになり、極端な事実誤認が浮き彫りになります。まことに不合理です。

 つまり、それら記事は、書紀にとどまるものであり、隋国に対して表明されたものではないのです。言うならば、記事捏造です。

 隋使は、特任外交官、行人、使人です。そうしないで、原職としていると、随行官が服従しませんから、臨時に、高官に擬されていたことになります。蛮人への「大使」は、大抵、臨時の高官なのです。

3.国書捏造
 隋帝は、「無礼、無作法で、服属を認めない」頑冥な蕃夷に、皇帝名の国書を呈するわけはないのです。
 正使は、あくまで「表敬訪問」であり、接見の場では、余人を排した場で、口頭で非礼を叱責し、俀王に改悛を求めた筈です。
 初回の無作法に続く再犯であり、重罪と悟らせる必要があったのです。当然、そのような応酬は、国史に残せません。皇帝に大変な不面目を浴びせるからです。
 これに対し、書紀は、「存在しない国書」の物々しい文言を滔々と述べ、後世に隋帝の国書の継承がないのを言い訳してか、こともあろうに、正使は、裴世清大使と同行した(と誤認した)百済訪問時に、不法にも、百済によって国書を「盗まれた」と詐称しています。俀国正使が、隋使と同行して、百済を訪問したというのは、不合理な推定であり、採用できないものです。
 倭の正使は、少なくとも、警備を含めて、数人では済まない一団であり、それこそ、国書強奪は、血の雨が降る大事件なので、隋使に知られずには済まなかったとみられます。史料を見る限り、俀国正使は、隋使に随行せず、早々に単独帰国したと見る方が妥当です。
 (存在しなかった)国書喪失という国家重大事件は、明らかに無残な捏造で、遣隋使が親族連座の重罪を犯し、流罪に値すると裁定した上で、君主が正使を免罪したなど、無法な事態収拾に苦闘したと見受けます。

 書紀の記録を見る限り、正使は、隋使に国書喪失を知られたら不名誉との理由で寛大に赦免され、後に正使に起用されています。まことに不合理です。
 隋使は、国書を携えて来訪したのであれば、会見の際に俀王に授けるのであり、例えば、正使に渡した国書を仮のものとして、正式国書と入れ替えに回収するなどと言い出せば、応答に窮するのです。

 そもそも、百済は、長年中国政権と交信しているから、このような際に、隋と俀のやりとりを妨害したら、とんでもない懲罰を受けるのは自明であり、また、隋国書を奪っても、実質的に得るものはないことも自明であり、して見ると、国書掠奪などは意味不明な一大事なのです。
 何しろ、書紀の字面では、隋使は、倭使と同道して百済に寄港したことになっていて、言わば、隋使の鼻先で窃盗を行うなど、論外の愚行で、あり得ないことです。

 とは言え、書紀の記録に依れば、正使は流罪に値する罪科を犯したのであり、免罪されても、正使一族は消しようのない汚名を曝しています。

 綜合して評価すると、国書事件は、史実に反する、誤解に基づく捏造であり、書紀記事の信頼性を大いに損ねています。

 案ずるに、隋使来訪、応接の文書記録が一切継承されていないため、正史編纂の際に、何らかの文書をたたき台に、一連の事情を創作したと見えます。その際、隋書「俀国伝」が参照できていたら、隋使の官位取り違いなど、低次元の錯誤は是正できたはずですが、編者の手元には、隋書のそちこちの走り書きの抜き書きだけで、貴重書隋書全文は、到来していたとしても、機密文書として秘蔵されていて、容易に参照できなかったと見えます。

◯まとめ
 日本書紀には、隋使が竹斯で何をしたか、皆目書かれていないのです。隋書で目を引く阿蘇山や有明海らしき紹介記事は、初回遣隋使の提出資料に基づくようですが、だからといって、初見の東方往還記がないのは、まこと不可解です。何のために、煬帝が、巨費を投じて、不遜な蕃王の領分を探索させたか、まことに不可解です。

 「普通に」考えると、朝鮮半島や中国大陸との交信、文物交換には、九州北部に外交権限と武力、経済力を持った高官/長老が常駐していたはずです。「武力」は、外敵侵攻を阻止する兵力と推定できますが、兵力推定できる戸数、口数は提出されていないのです。つまり、使人の往き来はあっても、俀国は、隋に臣従しなかったと見えます。

 竹斯が、「単なる出先」に過ぎなかったとするのなら、急遽、「ヤマト」から、接待にふさわしい高官と実務担当者の一行を、大量の資材、機材と共に派遣したはずです。また、隋使一行(十人程度でなく、百人規模とされる)を歓待するには、恰幅の良い迎賓館の急遽新造が必要だったはずです。それにしても、遠距離支配を想定したとしても、交通どころか文書通信すら覚束ないのに、どのように国家を維持できたか大変疑問です。

*筑紫幕府説/筑紫都督説
 結局、竹斯国のような地方拠点には、十分な兵力を備え、そのために、周辺諸国から税の取り立て、兵士召集の大権と、外敵侵攻に王命を待たずして即座に反撃できる特権が必要であり、要するに、一種「幕府」(中国史用語)を開設したと見ます。
 別の言い方で「総督」に準じる「都督」なる地方官がありますが、「都」はすべての意で「郡太守」が地域の諸事を委任したので強力ではありません。
 以上は、王に諸事を報告するのに数か月を要する遠隔支配体制に必要・不可欠です。一方、竹斯に王城があれば、文書連絡ができなくても、騎馬文書使、伝令がいなくても、徒歩で良いから、伝令で王に速報でき、「幕府」、「都督」は必要ないのです。このあたり、小手先の韜晦ではやり過ごせないのではないでしょうか。

 「単なる出先」でなかったら、渉外活動の克明な文書記録があるはずですが、国内史料は、竹斯での歓迎、渉外について沈黙していると見え、不可解です。記録がなければ、後代の漢使来貢に対応する際に、より所がないという不都合な事態になるのです。いや、竹斯に「鴻臚寺」組織を設けて、国家としての対応を制度化したのなら別ですが、どうなのでしょうか。

 ちなみに、大唐の律令には、四夷の蕃使、典蕃/典客を掌客する組織規定はあっても、皇帝を上回る至高の天子の使節は、もとより対等の「敵国」(匹敵、同格の国)使節を接待する規定などないのです。

                               未完

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