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2022年8月29日 (月)

新・私の本棚 河村 哲夫 講座【西日本古代通史】「邪馬台国論争のいま」Ⅱ 道里 2/3

 アイ&カルチャ天神   資料 平成26年8月5日
私の見立て ★★★★☆ 沈着な道里論評         2020/09/24 補記 2022/08/29

⑻邪馬台国  承前
㈢〈六百里=水行二十日+水行十日+陸行一月とする説〉
・不弥国までの七百里に対馬と壱岐の一辺四百里と三百里の七百里を加え、残る不弥、投馬、邪馬台の六百里を、水行と陸行2ヵ月かけることになる。
問題点・・さらに日数がかかりすぎる。

コメント 趣旨不明、意味不明です。門前払いすべきです。

㈣〈投馬国水行二十日と邪馬台国水行十日陸行一月は別々とする説〉

問題点・・苦肉の策問

コメント また一つの「趣旨不明、意味不明。門前払い 」です。

㈤〈放射状説〉
・伊都国から先は伊都国を起点にして、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国へ別々の道をたどる「放射式読み方」説。
問題点・・恣意的解釈

コメント 当説は、ほぼ榎一雄氏創唱のようです。なお、蛮夷伝の道里行程記事で、蕃王王治などの地域中心を扇の要とする「放射状」記述とするのは、班固「漢書」西域伝で前例のある「正史」書法です。知識、見識に富む識者の意義深い提言を、考証することなく等閑に付しているのは不審です。

㈥〈選択的道程説〉
・水行なら二十日で、陸行なら一月、所要日数は二十日あるいは一月との説。
問題点・・文法的に問題あり。

コメント また一つの「趣旨不明、意味不明。門前払い 」です。根拠の不確かな文法論議でなく、厳密な時代考証で評価されるべきです。

〈一日誤記説〉
・九州説では、陸行一月はかかりすぎだから、一日の間違いだとする。

〈方角修正説〉
・畿内説では、日数はあっているが、方角の南は東の間違いだとする。
㈦、㈧ 問題点・・恣意的読み替え

コメント ㈦、㈧ 共に、「単なる勝手な言い逃れであり、棄却すべきである」という点は、同感です。

㈨〈公休説〉
問題点・・公務員的発想

コメント 論外の児戯。「公休日」、「お役所仕事」、「接待漬け」など、論者の妄想、願望、公務員への私怨、偏見が拡大投影されています。
 研究機関の研究者は、基本的に公務員であり、つまり、研究者の大半を蔑視する見解は、意味もなく、敵を作っているものと見えます。

 当然ながら、論議は論理的に行うべきであり、現代人の見当違いの感情論を持ち出すべきではありません。いうまでもなく、魏使は、監査役付きです。曹操規準を見くびってはなりません。できの悪い、すべり放しの漫談ネタでしょうか。

㈩〈虚数説〉
・一万二千里というのは、まったくでたらめな虚数である。
・松本清張は『古代史疑』において、一万二千里は、漠然と遠い地域を指す場合にしばしば用いられた数字で実測ではないとする。その例として、『漢書西域伝』の大宛、烏弋、安息、月氏、康居道里が、「揃って長安から万二千里前後とは、明らかにいいかげんである」と断じている。
問題点・・陳寿は歴史を書こうとしている。

コメント 「まったくでたらめな」「虚数」は、数学における重大な原義を見損なった、まことに粗忽な罵倒です。清張氏は、学者ではないので、論議の段取りが無理になっているようです。単に、帳尻合わせの「虚構」と云えば良かったのです。

 西域諸国道里は、万二千里の「規準」に纏わり、例示されている諸国は、千里と離れてない塩梅の隣国であり、書かれている道里は、西域都護が得た百里単位の里数に即しているのであり、決してデタラメではありません。(筍悦「前漢紀」安息道里は、万二千六百里)
 清張氏の正鵠を得た着眼には、ここでも脱帽しますが、以下の詰めが甘いのは、人気作家として多忙を極めたからでしょうか。補佐役に恵まれず独走したと見られます。陳寿は、計算の合わない「しくじり」は、何としても避けたはずです。

 問題点として、物々しくあげられている「陳寿は歴史を書こうとしている 」と言うのは、誠に至言ですが。何が「問題」なのか、理解に苦しみます。陳寿に対して、自己流の同時代歴史の著作を創作しようといしたたと見ているのでしょうか。随分言葉足らずで、特に、「歴史」の意味付けが、軽薄な現代言葉に染まっているのかと疑われます。
 河村氏の意見を推定すると、陳寿は「規準」を熟知の上で、筋の通る数字を書いたのです。現代人の(欲ボケ)感性で批判してはなりません。皇帝以下の読者が納得しないと、解雇で済まないときは、家族ともども「馘首」、刑死なので、全ての記事が真剣勝負です。

 因みに、当ブログ筆者の意見としては、陳寿は、班固「漢書」西域伝に心服していて、これに付け加えるべき業績がなかったという理由から、魏志西域伝を割愛したと見るのです。何しろ、魏代、蜀漢の北伐で、関中平原以西は、魏の支配下になかったので、魏代「西域」は、はなから虚構だったのです。

 この意見は、陳寿が、後世の笵曄「後漢書」の底本となった、同時代の各家「後漢書」を参照していたとの見解を否定するものではありません。むしろ、後漢代後半の桓帝、霊帝以降の東夷事績が、後漢公文書にほとんど記録されていなかったことを前提に、魏志東夷傳を書いたと見るものです。

                               未完

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