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2022年8月29日 (月)

新・私の本棚 河村 哲夫 講座【西日本古代通史】「邪馬台国論争のいま」Ⅰ 壹臺 1/2

 アイ&カルチャ天神 講座 【西日本古代通史】資料平成26年8月5日
私の見立て ★★★★☆ 沈着な論評         2020/09/22  補記 2022/08/29

〇はじめに
 今般、若干の事情があって、河村氏の講演資料を(有償にて)提供戴いたので、学恩に報いるために、以下、冒頭部分の批判を試みたものです。
 案ずるに、氏の本領は国内古代史分野にあり、以下引用する中国史料文献考証は、第三者著作から採り入れたものと思われますが、素人目にも、検証不十分な原資料を、十分批判せずに採り入れていると見えるので、氏の令名を穢すことがないよう、敢えて、苦言を呈するものです。
 なお、当部分は、氏の講演全二十四回のごく一部に過ぎない瑕瑾なので、軽く見ていただいて結構です。
 また、「邪馬臺国」が、実は、「邪馬壹国」を後漢書が誤解したものが引き継がれたものであったとしても、氏の講演、著作の全貌を毀傷するものではないことは、ご理解いただけるものと考えます。あくまで、学術的な論証手法の瑕瑾を指摘しているだけです。

〇「邪馬台国か邪馬壱国か」
第9回『魏志倭人伝』を読む①倭の国々 1、『魏志倭人伝』
⑴邪馬台国か邪馬壱国か

①「邪馬台国」ではなく「邪馬壱国」が正しいとする説がある(古田武彦氏)
コメント これは古田氏の説でなく、三国志現存史料は、全て「邪馬壹国」(壱)との客観的事実を述べている。この「客観的事実」を否定して、「邪馬台国」とする強固な論証は皆無である。原点の取り違えと見える。

・現存する最古の南宋(一一二七~一二七九)時代の『三国志』のテキストには、「邪馬壱国」と記されている。
※陳寿が3世紀末頃に著した『魏志倭人伝』の原本そのものは失われている。

コメント 古代史書の残存原本は皆無である。取り立てて言う事ではない。

②その他の文献
『魏略』の逸文、『梁書』『北史』『翰苑』『太平御覧』などには、「邪馬台国」と記されている。

コメント 「魏略の佚文」は、氏の指摘の通り、原本でも正統な写本でもない。「翰苑」は、史書でなく、誤記山積の断簡であり、信じることができない。
 どちらも考慮に値しないごみ(ジャンク)である。
 「太平御覧」は、類書と呼ばれる「全書」であり、史書としての厳密な編纂がされていない。従って、低質の「史料」と言わざるを得ない。
 「梁書」、「北史」は、公式史書と見なされているが、不確かな後世多重孫引きによる編纂であり、信ずるに足りない。
 考慮に足る後世史書は、笵曄「後漢書」である。

※これらはいずれも現存する南宋時代の『三国志』よりも成立が古い。

コメント 「三国志」は、「南宋時代」の新規著作ではなく、三世紀に編纂された史書であり、どの参考資料よりも「成立が古い」。

 各資料/史料の現存刊本は、いずれも、南宋以降のものである。概して、南宋紹興年間に開始された、古典書復刻大事業で、順次全面的な校訂、版刻を行ったのであり、言わば、「同期生」である。その時点で、絶滅していた「翰苑」は、例外で、唯一「断簡」が生存しただけである。

 この当たり、苦し紛れの理屈づけが混乱して、誰かが、何か、素人臭い勘違いをしたようである。そして、言いだした以上、頑強に固執しているように見受けられる。
 そのような他愛ない勘違いを、無批判に継承していては、見識を疑われるだけである。

③したがって南宋時代の『三国志』が、台を壱と誤植してしまった可能性が高い
コメント 南宋時代の『三国志』 、つまり、「三国志」の南宋刊本は、ページごとに木版を彫っていて活字植字ではないので、「誤植」つまり、印刷工房工人の活字拾い間違いは、原理的/物理的にあり得ない。もちろん、「三国志」に人格はなく、自分で自分を植字することもない。「頭上注意」である。
 二種刊本のうち、「紹興本」は、南宋紹興年間に、天下最高の衆知を集めて、北宋末の大動乱で全滅した北宋刊本を、刊本から起こされた数種の」良質の写本をもとに復元して、言わば、決定版と言える「本」を確定し、南宋の印刷工房を駆使して刊行したものである。
 南宋刊本の木版を彫った刻工は、少なからぬ数の実名が残されていることでわかるように、南宋代の天下最高の専門職人であり、誤刻が露見すれば厳罰に処されるから、万全を期して厳重に校正したのである。
 以上に示した南宋刊本の際は、大勢の専門家が作成した決定稿をもとに、刻工が正確無比に木版を彫ったのであり、無謀な誤写は、北宋刊本以前と見るしかない。

 巷説は、【三世紀に「三国志」の上程後、誤写が発生した、つまり、百五十年後の范曄「後漢書」で見る「邪馬臺国」が、後に改竄された】というようである。
 笵曄と同時代の裴松之は、皇帝の命で、当時帝室で所蔵していた「三国志」の校訂と付注に取り組んだのである。
 東晋南遷時の混乱で三国志原本に不安があったのかも知れないが、まずは、帝室所蔵以外の上質写本を呼集して、原本を基準として、校正したと見える。「上質」写本に、無残な改竄があれば、摘発され、是正されたはずであるが、裴松之は、そのような異常事態を一切述べてない。つまり、南朝劉宋代、「三国志」原本は、ほぼ、完全無欠であったと見るべきである。

※そもそも「臺」と「壹」は字形が似ている。『魯魚の誤り』という言葉があるが、両者は誤植の起きやすい字といえる。

コメント あくまで、タラレバの憶測でしかない。因みに、可能性が二千分の一であっても「高い」と見れば、それは高いのであろうか。意見は人によって異なるものである。繰り返すが、事は、印刷工房の植字工の手違いという「誤植」問題ではない。

 因みに、正史の写本、刻本は、厳格に実施される国家事業であるから、「誤認されやすい」字は、関係者が、一段と厳重に確認するので、むしろ、誤認は発生しがたい。

 但し、「正史」以外の緩やかな写本は、氏が指摘するように、誤写は絶無ではないから、むしろ、列挙された史料の編纂に使用されたものが、「魏志」の正確な写本であったという証拠はない」から、その段階までに、誤写が発生した可能性は、極めて高い。
 そのように憶測を根拠とした「証拠」に基づいて、現に存在する南宋刊本二種の現に書かれている文字を否定するのは、非科学的な恣意に過ぎない。

                                未完

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