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2022年9月

2022年9月29日 (木)

新・私の本棚 渡邉 義浩 「魏志倭人伝の謎を解く」増訂 1/4

中公新書 2012年5月         2014/05/27
私の見立て ★★☆☆☆ 「先入観」の塗りつけられた誤解継承  2019/04/21  増訂 2022/09/29

▢増補改訂の弁
 近来、本書を権威として暴論を繰り出している論客を見かけたので、丁寧に論駁することにしました。(本書が暴論を説いているという事ではない)特に、氏が提起している「理念的」「道里」論に主語がないため、「倭人伝」道里記事の解釈に混乱をかき立てている点に疑問を感じるのです。

⚪「はじめに」

 この部分に著者の所信が明記されているので、それなりに「フェア」なのでしょうか。それにしても、この「わずかな」記述の中でも、著者の「先入見」が露呈し、本著が「倭人伝」の客観的な論考とは言えないものであることがわかります。
 以下、最初が肝心なので、どこがどう不都合なのか、丁寧に解き明かすことにします。

*虚言の山積
 「しかし、約二千字に過ぎない倭人伝の記述は、その全てが事実に基づいているわけではない」
 何気なく「過ぎない」と言い切って、何気なく著者の価値観を押しつけています。これは、正統な論議に自信のない論者の常套手段、いうならば使い古された、見え透いた手口であり、これもまた、論争敗者のささやかな隠れ家です。

 続いて、「その全てが事実に基づいているわけではない」と、筆勢に載せて断言していますが、いかなる著作も「全てが事実に基づいている」訳はなく、必ず、誤解(勘違い)や誇張(言葉の綾)や創作(理屈づけ)が含まれているのは、自明です。そして、二千年前の史官の信奉した「事実」は、後世東夷の無教養の蛮人の感じる「事実」と整合するわけがないのです。良心を備えた論者は、このような意味のない虚言は、控えるものです。
 こうしてみると、著者の断言に特段の意義はなく、氏の私見に基づく一片の壮語なのです。

 続いて、倭人伝の記述には、多くの「偏向(歪んだ記述)」が含まれている、と断言しています。ここで、「いかなる著作も、全てが事実に基づいている訳ではない」と言う原則に立ち返ると、それは、本来、「偏向」と言うより「観察の誤差」と呼ぶべきものです。
 「観察の誤差」は、いかなる観察にも避けられないものであり、取り除くことはできないということを、読者は、全て、承知の上で読んでいるのです。

*傾いた史料観
 因みに、氏は、無造作に『「三国志」が全体として持つ「偏向」』と虚言を弄していますが、「三国志」は、それぞれ独特の「偏向」を持った「魏国志」、「呉国志」、「蜀国志」の三部の国史の合わされたものとみることも有力な見方です。少なくとも、「呉国志」は、東呉史官が編纂した「呉書」が、亡国の際に、晋帝に貢納されたものであり、「呉書」には、陳寿がほとんど改竄の手を加えていないので、東呉史官の「偏見」が温存されていると見る者ではないでしょうか。
 このあたり、素人が口を挟まなくても、三国志第一人者は百も承知の筈ですが、ことを簡単にするために、ドロドロと子供だましの詭弁を塗りつけていて、結局、信用を無くしています。

 また、正史編者たらんとして史料編纂に取り組んでいる史官/編者が、何らかの編纂方針に従って、言葉遣いなどを工夫するのも「曲筆」などと非難すべきでなく、「修辞」、「修飾」と言うべきです。

 このような、ことさら厳めしい言葉遣いを投げつけることによって、著者の価値観を読者に押しつけるのは、壮語と言うより、業界の旧弊と呼ぶべき悪しき習慣であると考えます。

*誤爆御免
 本論は、書評として不釣り合いなほどに著者の手口の不都合を言い立てていることと思いますが、それは、著者が、今日までに「常套手段の弊害」を学びとっていないように読み取れるからです。いや、あるいは、承知の上で、方便としてこのような「迂遠」な論義を展開しているのかも知れませんが、素人論者としては、書かれていない真意を忖度して、論義を撓めることには、同意できないのです。

 本著の主部の論旨展開は、不都合な壮語を取り除けば、むしろ堅実なものと思うのですが、何分にも、「業界の旧弊」と見られる「偏向」と「曲筆」が、説得力を失わせていることが気がかりです。

 いや、ひょっとすると、これらは、師匠筋に当たる岡田英弘氏の遺した歴史資産であり、渡邉氏は、一も二もなく継承するしかないのかもわかりませんが、それにしても、もう少し合理的な資産継承は、できないものなのでしょうか。

*価値観の押しつけ
 『「倭人伝」は、「三国志」のほんの一部分に過ぎない』と言うのも、またもや、渡邉氏の個人的な価値観の押しつけであって、「倭人伝」は、「三国志」の一部分、字数で言うと0.5パーセント程度とことさらに壮語していますが、これは、小学生にもわかる算数であって、著者ならではの高度な知見ではないのです。

 また、物の道理として、本書の主題である「倭人伝」の考察に際しては、まずは、「倭人伝」自身を、それ自体で解釈するのが、「第一歩」であって、外部の状勢を斟酌するのは、二の次で良いのです。そして、渡邉氏が本書で示された、外部状勢に基づく「賢察」は、大半が勘違いであって、「倭人伝」の適正な解釈の「重大な妨げ」になっているのです。

                                未完

新・私の本棚 渡邉 義浩 「魏志倭人伝の謎を解く」増訂 2/4

中公新書 2012年5月         2014/05/27
私の見立て ★★☆☆☆ 「先入観」の塗りつけられた誤解継承  2019/04/21  増訂 2022/09/29

*文字の価値
 そもそも、記事の充実度は、目方で量ることはできず、また、文字数で数えて評価するものでもないはずです。
 文字数で勝負するのであれば、「誤字」も「誤記」も「虚言」も、それぞれ、充実度に貢献することになり、まことに不合理な事態となってしまいます。

 また、数字の大小の評価も、決して一意的に定まるものではなく、「倭人伝」は、「魏志」の一部を成すものなので、中国全体の記事が「約三十七万字に及ぶ」「三国志」の中で「二千字」にわたって、不釣り合いに紙数を費やして詳述されているという見方も成立します。

 こうしてみていくと、「神のごとき公正や中立」があり得ない以上、論者の見方は、いずれかの「偏った」見方であるのは避けられないのであり、著者の個人的で「偏った」見方が、論説の言い回しに、堂々と反映されるのはしかたないことですが、それを、何気なく提示して、こっそりもたれかけさせる言い回しは、品がないという感じがします。ちなみに、「及ぶ」と言うのも、何気なく、著者の卑俗な、現代物質文明に毒された価値観を押しつけています。

*周知、自明
 直後に、「三国志」は、「邪馬台国」を記録するために著された史書ではないと、またもや、子供じみた当たり前の意見を壮語していますが、これもまた、周知、自明の話であって、何も新たな知見を知らせてくれているわけではないのです。
 余言の羅列という感じがします。一方、「倭人伝」は、「倭人」を記録するために書かれたのであり、その中で、「倭人」の「国」について記録しているわけですから、著者の発言は、意味/意義不明の妄言ともとれます。

*「はじめに」のまとめ
 ここに、本著を上梓するに至った著者の抱負が示されています。
 『「倭人伝」の歪みを取り除き、邪馬台国の真実を示して行こう』との趣旨/抱負を述べていますが、物の道理として、「真実」は、無限とも思える情報量を有し、ひとたび、何者かの記述によって伝えられたとき、伝えられなかった部分は知ることはできないのです。それは、「歪み」以外の何かです。

 記述の「歪み」を取り除けば、残されるのは無面目の混沌であって、元なる真実ではないのは避けられない道理です。
 
*空虚な壮語
 著者の壮語癖は、本文の冒頭にも示されていて、「三国志は、書かれた当初から正史であったわけではない」と一発ぶち上げていますが、この発言はすぐさま、『「正史」は唐時代から始まった呼称である、従って、西晋の時代に「正史」と言う呼称はなかった』と揉み消されていて、この壮語は実弾ではなく、儀礼的な空砲であったことが示されています。

 丁寧に言うと、「三国志」は、「書かれた」のではなく、「編纂された」のであり、免官されて在野の人であった陳寿が、遺著として残していたものですから、残されていた著作は、形式的には「私撰」史書であり、西晋朝に認定されたのは、筆写された遺著が上程され、西晋皇帝によって嘉納された「三国志原本」が公認された後の話ですから、「正史」となり得たのは、その後のことです。
 
 また、「正史」なる後世概念を論じるとしても、「三国志」上申当時に、既に、先行する「史記」、「漢書」の二史書は知られていて、概念としての「正史」は、すでに存在していたと思われるのです。単に、公言されていなかったものと見えるのです。

 しかるが故に、それに続く正史として「後漢書」と「魏書」が、強く期待されていたのであり、「三国志」は、それに応える編纂事業だったと考えるのです。言うまでもないことです。

 因みに、後知恵として追記すると、当時、後漢献帝の指示に基づいて編纂された荀悦「漢紀」(「前漢紀」)が、周知であったのです。
 笵曄「後漢書」荀悦伝に曰わく、「帝好典籍,常以班固漢書文繁難省,乃令悅依左氏傳體以為漢紀三十篇,詔尚書給筆札」。つまり、班固「漢書」が「繁雑」なのを厭わしく思った献帝が簡要を求めた勅撰史書であり、筆写が奨励されたものの、遂に「正史」の地位を得ることはなかったのです。

 いや、「三国志学」の第一人者にして、袁宏「後漢紀」の部分訳を手がけている渡邉氏が、荀悦「漢紀」を知らないはずはないのですが、ここでも、子供だましの虚言を弄しているのが、多くの初学の人々に錯覚を与えているのを歎くものです。

                                未完

新・私の本棚 渡邉 義浩 「魏志倭人伝の謎を解く」増訂 3/4

中公新書 2012年5月         2014/05/27
私の見立て ★★☆☆☆ 「先入観」の塗りつけられた誤解継承  2019/04/21  増訂 2022/09/29

・本文について - 冒頭論評
 4ページ末尾で、「これは、歴史事実とは異なる。劉備も孫権も皇帝に即位しているからである」と壮語して、それを認めない「正史」は偏向していると、論断しています。
 率直なところ、皇帝は、まずは自称です。同時代で言えば、先だって、袁術が皇帝と自称していますが、これも、「歴史事実」と言うべきものです。確かに、袁術は皇帝に即位したのですが、程なく自滅していて、著者は、自身の価値観から、ほぼ無視しています。但し、袁術の天子は、自称/僭称であり、後漢皇帝の認めるものでなかったので、後漢書も、三国志も、皇帝本紀を立てていないのです。
 自称「皇帝」を皇帝と認めるのは、論者の価値観であり、劉備も孫権も、「皇帝」を自称したが、皇帝に即位してはいないとするのが、後漢献帝から正しく禅譲を受けた魏帝を天子と認めた「三国志」の堂々たる価値観です。

 さすがの陳寿も、「東呉」、「蜀漢」に皇帝本紀は設けていません。当呉降伏時に西晋皇帝に献上された韋昭「呉書」は、歴代皇帝の本紀を立てていたと見えますが、さすがに、「三国志」呉志として収録される際に、編纂/改竄されているのです。

 そのような編纂を「偏向」と断じるのは、二千年後生の無教養な東夷の迷妄に過ぎません。

・何気ない見過ごし
 因みに、少し手前で、何気なく、曹魏について、中国の北半分を支配、と書いていますが、これは、何気なく著者の価値観を押しつけているのです。
 「北半分」と書くと、なんだ、天下は半分こ、残りの南半分を蜀漢と東呉が半分こ、曹魏は、ただの50㌫政権、残りは、25㌫ 政権が二個あって、それぞれ五十歩百歩の状態だったと思わせたいようです。しかし、それは、著者の個人的な価値観であって、著者の言う「歴史事実」とは異なるのです。

 曹魏の持ち分は、天下の要所を締めていて、半分こなどではないのです。周代の世界観で言うと、曹魏は、関中と関東を支配していて、当時の世界観では、天下の全てを占めていると見ることができます。まして、東呉は、ほぼ終止、曹魏の臣下に近い位置付けであったし、蜀漢の創業者は、後漢天子に背いて討伐される所を、成都に亡命したものであり、後漢から天下を譲られた曹魏の天下から見ると、鼠賊、叛徒に過ぎなかったのです。

 冷静に観察すると、曹魏は、曹操の時代に、形としては後漢朝の復興というものの、その過程で、東西の二大古都である「長安」「洛陽」を包含し伝統的に中国の中核とされる「中原」を支配し、伝統文物の作成を担当した官営工房である「尚方」を運用して典礼と暦法を復活し、史官を整えたのであり、とにかく、正統王朝に要求される面目と体裁を、絶大な努力で整備し、さらに、曹丕の代になって、天下の大勢から見て天命を失ったと見える後漢朝から中国の政権を正統を引き継いだのが、曹魏の功績だったと見えるのです。

 この視点から評価すると、蜀漢、東呉のいずれも、曹魏の足下にも及ばず、従って、叛徒を担いだ地方政権と位置づけるのが、史官としての順当な評価です。
 三国鼎立は、蜀漢の価値観に影響され、名ばかりの「皇帝」の名目に影響されて、この視点から確認できる「歴史事実」、「史実」を見失っていると思います。

 ちなみにこの視点は、西晋代、三国志編纂時までの「世界観」であり、異民族政権に中原を奪われて江南に逼塞した東晋以降の南朝各国や後に中原を追われた南宋にとっては、中原を支配しているものが天子であるという「世界観」は、自己の正当性を否定することから、「史官としての順当な評価」も変質し、異なった後世視点が形成されますが、三国志編纂時には、あくまで、曹魏の同時代視点が正統だったのです。

・小総括
 以上の論を総括すると、著者の考える「歴史事実」は、著者が先入見としている歴史観であり、このような無教養な後生東夷の歴史観と同時代中原人の歴史観と、どちらを尊重するかと言うことでしかないのです。いや、よく言われる「蟻が富士山と背比べする」と評しても、蟻が背比べを挑む「権利」自体は、誰にも奪うことができないとも言えます。

 そうした考察の提示のつかみの部分で、市井の一私人に、歴史観の浅いところを指摘されていては、肝腎の論考の展開が軽く見られようというものです。

                                                          未完

新・私の本棚 渡邉 義浩 「魏志倭人伝の謎を解く」増訂 4/4

中公新書 2012年5月         2014/05/27
私の見立て ★★☆☆☆ 「先入観」の塗りつけられた誤解継承  2019/04/21  増訂 2022/09/29

*「魏志」私論
 「魏志」は、紀元三世紀の曹魏で展開された事件の無限の積層である「歴史」を、限られた言葉で書きまとめているのです。なお、「歴史」という単語は、現代では、「歴史」や「伝統」を有しない米国「文化」の影響で、不当な拡張と無神経な誤用が著しいので、慎重に読んでいただく必要があります。
 ここで言う「限られた言葉」とは、無限ではないとの意味です。いくら字数を費やしても、歴史(歴史事実)を書き尽くすことはできないと言いたいのです。百文字でも、一億文字でも、一兆文字でも、歴史の一部、一視点から見た、一局面を捉えようとした試みであって、「歴史」そのものではないのです。
 歴史の「客観的な事実」を「歴史事実」として、神のごとき視点と言葉遣いで著述する事は、誰にも出来ないのです。
 そうした冷静な認識のもと「壮語」や何気ないもたれかけ、という役に立たない隠れ家を遠ざければ、「魏志」の行間から、歴史事実の片鱗が垣間見えるはずです。

 司馬遷「史記」の書かれた漢武帝時代、班固「漢書」の書かれた後漢代、いずれも、漢王朝の威光が維持された時代です。これに対して、曹魏は、統一国家の面目を辛うじて維持したもの、と言えるでしょう。

 「(後)漢後継」と言うことは、中国全土を支配して、天下を正すという大命を与えられたのですが、先に挙げたように、絶大な努力で正統王朝に要求される面目と体裁を整備したにもかかわらず、蜀漢、東呉と言う(曹魏正統という、伝統的な視点で言うと)「不法」に自立した反乱勢力との抗争に明け暮れて、統一国家の復興を成し遂げず、また、曹丕、曹叡と天寿を全うできない皇帝が相次いで、「王朝から天命が去った」と見なされ、西晋に国を譲ったのです。而して、曹魏は、正統王朝の証(あかし)として、「後漢書」を編纂することができなかったのです。

 陳寿は、「史官」であり、その本分に即して、そのように「天下国家」の面目を整えられなかった曹魏の正史を、司馬遷「史記」及び班固「漢書」に匹敵する堂々たる史書の体裁で編纂すべきでない、と考えたのでしょうか。そうであれば、これこそ「春秋の筆法」と呼ぶべきものです。
 これもまた、陳寿の史眼で捉えた「歴史事実」なのです。

*総括
 本書での著者の論考自体は、「魏志」、特に「倭人伝」の書きぶりを高く評価しているように見受けます。
 しかし、著者の論考の基礎は、「倭人伝」原文から「倭人伝」原文を読み解く』のではなく、時代観察者にして「正史」編纂者である陳寿に不可避な「誤差」に、二千年後生の無教養な東夷読解者の「誤差」を高々と積み上げたために「歴史事実」から大きく遠のいていると見るべき「読み下し文」に論考の基礎を置いているので、歴史事実の開拓者たろうとする著者の抱負に、早々と背いているように見えます。謹んで、ご自愛をお勧めします。

 当ブログ筆者は、一介の私人として、「倭人伝」の解釈に取り組むにあたり、世上に氾濫している諸兄姉の著述が、ほぼ国内史論に根ざしていて、「倭人伝」事態で無く、「個人的な思い込み」の正当化に奔走するあまり、自己流に改竄した「倭人伝」を俎上に上せ、陳寿に対して、曲筆、偏向の誹謗を浴びせていることを歎いたものです。
 渡邉氏は、本書に於いて、中国史書の研究を氏の学究の原点/出発点とし、国内史料を遠ざけたとしていますが、まことに同感に堪えないものです。いや、知らずして先人の後追いをしていたことは、むしろ誇りとしていますが、以後の氏の論考が、当初の抱負と乖離して、国内先哲の追従に逸れているように見えることを歎くものです。

*おことわり
 以上の論じ方は、それぞれ先賢の著作から教示を受けたものですが、随分我流にこね回しているので、あえて、出典を上げていない物です。

                             以上

2022年9月28日 (水)

新・私の本棚 サイト記事批判 探訪する古代史~『魏志倭人伝』を探訪する(2)1/2

 VERY BOOKS 探訪する古代史 「よっしー」      2022/06/29 2022/09/28
 『魏志倭人伝』を探訪する(2)
 
◯はじめに
 当サイトは、「よっしー」氏による倭人伝論の開闢で、「俗説」の欠陥を指摘させていただくことにする。要するに、氏が論拠とした「俗説」が、蔓延しているので是正を図ったもので、個人的批判ではない。

*「第一人者」偶像批判
『三国志』研究の第一人者の渡邉義浩氏は、…『魏志倭人伝』は倭国について理念的にしかも好意的に描かれていると述べている。
 「第一人者」とは、渡邉氏所属団体のチャンピオンであって、統一戦は聞かない。「三國志」は、中国史史料であり、研究は、本国にとどまらず、欧米に広がっている。夜郎自大。安易な提灯持ちは大概にした方がいい。

*薄葬論是正
例えば、『論語』の一文に…「その墓には)棺はあるが槨(かく)はない」とあるように当時の中国では薄葬が尊重されている。…倭人の条では「その遺体には棺はあるが槨はなく、盛り土をして塚をつくる」と薄葬である…
 この部分は雑駁で、「第一人者」の見解ではないと思う。(以下同様)
 「論語」の「当時」は、春秋時代であって地方ごとに異なった文化が生きていたのであり、「文化」が「中国」全体で統一されたわけではない。「厚葬」、「薄葬」は、太古以来、王朝によって変遷が激しいと見るべきである。後漢末に権力を握った魏武曹操が、「厚葬」を虚礼として廃した「薄葬」令を発していて、三国の中でも、魏には生きていたが、呉、蜀がどうであったか、「魏志」には書かれていない。

*曹操薄葬令
 因みに、曹操が「厚葬」を排除したのは、後漢霊帝没後の全国動乱時、暴漢董卓の長安遷都によって廃都となった洛陽近辺の後漢皇帝陵を自身が発掘して、埋蔵財宝を収集したことから来ている。天下の秘宝を、陵墓に死蔵することを非難したのである。
 また、皇帝埋葬時に財宝を埋めても、後世「必ず」暴かれるから、盗掘を遠ざけるよう「薄葬」を公布し陵墓を隠したが、曹操墓盗掘の悪党は、獲物がない腹立ちから、曹操の遺骨をたたき壊したと見える。
 正確と見える論議でも、論拠を広く求めると、あやふやなホラになり論議への信頼が失われる。核心の事実確認に、もっと努力を払うべきである。
 氏の説く時代背景は、同様に曖昧で混沌としているので、助けにならない。

*曖昧さを離れて
 このような時代背景から『魏志倭人伝』を読むと、これまで曖昧と思われたいくつかの記述が納得のいくものとなる。
 「これまで曖昧と思われたいくつかの記述」と大風呂敷であるが、提示されているのは、一点にすぎない。

*蔓延する大月氏誤認
 『魏志倭人伝』は帯方郡から女王国までの距離を1万2千余里としている理由を、渡邉義浩氏は「朝貢する夷狄が遠方であればあるほど、それを招いた執政者の徳は高い。邪馬台国を招いた執政者の徳を大月氏国のそれと同等以上にするためには、邪馬台国は洛陽から1万7千里の彼方にある必要がある。」という。洛陽から大月氏国までが1万6千3百70里であるからでる(ママ)。また、洛陽から帯方郡までが5千里なので、帯方郡から邪馬台国までは1万2千余里となるわけである。
 「大月氏国のそれ(徳か)と同等以上」は、「第一人者」の錯乱か、引用者の錯乱か、ともあれ、錯乱文である。
 ことは、万里、万二千里の刻みであるから、蛇足論の百里桁と万七千里は、無意味である。因みに、なぜか、ここは、漢数字に近い合理的な表記である。

 と言うものの、ここは、大ぼらの吹きどころと見たか、主語不明であるが、洛陽から「邪馬台国」までの道里が、神がかりで万七千里と規定され、洛陽から帯方郡まで、引用者の神がかりで「五千里」と決め込んで、従って、帯方郡から「邪馬台国」まで、「万二千里」としたという曲芸が語られているが、神がかりでは論義できない。洛陽から帯方郡までの道里は、出所不明である。

 笵曄「後漢書」に収録された司馬彪「続漢書」「郡国志」、以下、後漢書「郡国志」には、「樂浪郡 雒陽東北五千里」と書かれているだけで、帯方郡自身は登場せず、前身の帯方縣しか書かれていないから、結局、洛陽から帯方郡までの道里は不明と言うべきである。(公孫氏は、楽浪郡の南方に帯方郡を新設したが、洛陽に何も報告していないのである)
 因みに、世評の高い笵曄「後漢書」西域伝によると、「大月氏国」は、「去洛陽萬六千三百七十里」であるから、この点だけは、ご教授の通りであるが、そこには、当然、帯方郡も「倭人」もない。不可解である。

 「後漢書」「郡国志」によると、楽浪郡「雒陽東北三千二百六十里」となっている。また、後漢書「東夷伝」によれば、「其大倭王居邪馬臺國。樂浪郡徼,去其國萬二千里」とある。
 ここで、「其國」が、其の大倭王、つまり、「倭の大倭王の居処」と言う理解が正しいとして、「素直に」足し算すれば、洛陽から其の国までの道里は、「萬九千里」程度となるが、ちゃんと、数字の意義を確認すると、「洛陽~楽浪」が、街道道里であるのに対して、「去其國萬二千里」は、根拠不明の見立てに過ぎず、足し算すれば答えが出るというのは、余りに脳天気である。
 また、後漢書「東夷伝」の記事は、文脈から後漢桓帝/霊帝期のものと見えるので、魏代の大月氏/貴霜国来貢とは、時代が相違する。これを、ただ、東西の極端として天秤に乗せて比較するのも、随分脳天気である。「第一人者」は、笵曄「後漢書」の権威/第一人者でもあるので、このあたりの時代/地域錯誤は、十分ご承知の上での戯れ言かと見える。脳天気と評した由縁である。

 ついでながら、皇帝曹叡(明帝)を「執政者」、天子の使い走りとは「時代錯誤」である。史実は、司馬懿は、大将軍といえども、皇帝の走狗、猟犬であり、任務としていた蜀漢が無力化した上に、景初の遼東征伐が終われば、最早猟場はないから、大将軍は無用であり、無用になれば煮られる定めである。この部分は、勿体ぶっているが、後世東夷の蛮人は、同時代の背景を知らずに、結果論ばかりであるから、諸事、根拠不明であり、「第一人者」の錯乱か、引用者の錯乱か、ともあれ、また一つの錯乱文である。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事批判 探訪する古代史~『魏志倭人伝』を探訪する(2)2/2

 VERY BOOKS 探訪する古代史 「よっしー」      2022/06/29
 『魏志倭人伝』を探訪する(2)

*大月氏の正体
 言い置くと、「大月氏」は、匈奴裸足の凶賊が西域の果てに逃亡して築いた盗賊国家であり、後漢西域都督に、屡々反乱した札付きの悪玉であったが、討伐には、多大な兵力と国費を要するので、飴玉をしゃぶらせていた。大月氏は数代で貴霜(クシャン)に吸収され、往時の印綬を担ぎ出したと見える。
 そのような不穏な来歴は、洛陽の所管官庁、鴻臚に残されていて、史官は、正体を見失うことはなかったのである。枯れ木の賑わいである。

*洛陽道里批判
 洛陽から大月氏までの道里は計算でなく「見立て」である。漢代、西域の果て安息諸国は、京師長安から万二千里と格付けされ、代が変わっても東京雒陽道里に関係無く「万二千里の国」と格付けが維持された。測量し直したわけではない。

 別に、あれこれ忖度して捏造したのではなく、景初の倭人招請に先立って、そのように身上書が奏上され皇帝の承認を得て公文書に記載されたのである。

*司馬氏観の錯誤
また、邪馬台国が魏に朝貢できたのは、司馬懿が公孫氏を滅ぼしたからであり、司馬懿の功績である。司馬氏が治める晋の士官である陳寿は、その邪馬台国のことを理念的に好意的に記すことで、司馬氏に忖度しているのである。

 倭人来訪は、明帝が帯方郡を直轄して来貢を命じたためであり、司馬懿の遼東討滅とは関係無い。
 司馬懿は、遼東からの帰還時、西方軍務を予定されていて、東夷管理は、念頭に無かったのである。全て、勝手な憶測である。

*史官倫理の誤解
 その後に続く陳寿観は、現代人の尊大な「小人史観」に彩られ、「けったい」である。評者たる「第一人者」の自画像が掲示されている。
 倭人を「理念的に好意的に記すことで、司馬氏に忖度」と決め付けるが、陳寿は、動乱の世に史官倫理を貫いていて、保身汲々の「小人」ではない。
 以上、史官倫理を唾棄する「第一人者」の「小人史観」に追従しているるが、倭人伝踏破という壮大な行程には、丁寧な基礎固めが必要ではないか。
 古人(莊子)曰く「小人則以身殉利,士則以身殉名,大夫則以身殉家,聖人則以身殉天下。」
 陳寿は、保身、走利の「小人」ではない。

*史観の混濁
 因みに、「司馬氏が治める晋の士官(ママ)」と言うのは、時代錯誤の誤解であり、陳寿が服属したのは、(司馬氏が君臨する)「天下」であり、所詮、曹氏の天下を引き継いだにすぎない。司馬一族の私物ではない。このあたり、ちゃんと理解すべきである。
 総じて、氏が依拠しているのは、後世の無学、無謀な個人の風評所感であり、少し調べれば裏付けのないドブドロと露呈するのは示したとおりである。

*まとめ
 これまでの先人たる諸兄姉の偉業を拝見すると、初動段階で、誤解を多用したため、忽ち迷走して、是正できないことが多い。
 本件は、まだ、出発点なので、早めに苦言を呈するのである。
 念押しであるが、本論は、氏の視点である「北九州説」に異を唱えているものではない。陳寿が、倭人を高める趣旨で書いたことに反対して稲野でもない。不出来な先行資料(主として、第一人者著作)に無批判に追従して、氏の視点を歪めている惨状を歎いているのである。

                                以上

新・私の本棚 サイト記事批判 探訪する古代史~『魏志倭人伝』を探訪する(3) 再

 VERY BOOKS 探訪する古代史 「よっしー」      2022/07/06 タイトル復元 2022/07/07 2022/09/28

〇追加論評の弁
 いきなり奈落である。氏が「倭人伝」を「探訪」するはずが、孫宋健(ママ)なるトンデモ論者のトンデモ本追従である。本を買ったのでないから、金は返ってこないが、トンデモ本に追従して、氏の曲筆は、根拠も提言もなく、「探訪」もない「理念」を曝されても困ったものである。

*「トンデモ本」丸呑みの罪

 理念であっても実態と違えば嘘である。それでは、『魏志倭人伝』は理念と忖度で嘘にまみれた書なのであろうか?
 この後世東夷は、「倭人伝」でなく改竄日本文で論じ、「実態」を一切知らない。氏の理解と違うと嘘なのか、間違いは嘘ではないのか。自大尊大である。
 トンデモ論者が、『「書法」と言えば万事免罪』と宣言した後は、全て無茶である。肝心の行程論で諸説を一蹴し、トンデモ「大放射説」の「理念」を陳列するのには、閉口する。特に、帯方郡~「邪馬台国」直行説は、本来、一発廃棄、ゴミ箱入りである。

*読めない倭人伝のトンデモ論
 しかしながら、『魏志倭人伝』では、「其の道理(ママ)を計るに、正に会稽・東冶(ママ)の東に在るべし」と奇妙(ママ)な言い回しで断(ママ)じている。

 倭人伝」は、全文中国語であり、不出来な日本語文の「在るべし」なる「言い回し」を「奇妙」と褒め倒して談じても無意味だし、「東冶」とトンデモ記事は書いていない。錯誤連発で、引き続き(ママ)の山である。いくら書き飛ばしのブログでも、いっさい読み返しはしないのだろうか。因みに、古文で「奇妙」は絶賛表現である。

 『魏志倭人伝』では対馬国1,000戸(ママ)、一支(ママ)国3,000戸(ママ)、末盧国4,000戸(ママ)、伊都国1,000戸(ママ)、不弥国1,000戸(ママ)、奴国20,000戸(ママ)、投馬国50,000戸(ママ)、邪馬台国70,000戸(ママ)と記載がある。
 衆知の如く、「倭人伝」にそんな記載はない。何を見て書いたのか、うろ覚えで書いたのか。

 数字は、縦書き漢数字であり、横書き算用数字でない。戸(家)は「有」、投馬国以降は「可」。さらに言うと、「邪馬台(壹)国 可70,000戸」とは書いてない。
 記憶の錯綜した私家改竄本を、うろ覚えで論じるのは、何とも見苦しい。

*勝手引用の迷走

 (好意的に記されている邪馬台国)
なる段落を読みなおすと、氏は、どうも、『「三国志」研究の第一人者の渡邉義浩氏』の著書を、個人的に勝手引用しているようだが、ここまで、独解力どころか、引用力も欠如している氏の紹介では、「第一人者」も褒め言葉に見えない。体力、知力、どのあたりの第一人者なのか、検証されていないから、信用できないのであり、あるいは、氏の「筆法」の発揮された屈折表現かと思うのである。
 というのは、「倭人伝」に書かれているのは「好意的」な評価と見えないからである。
 倭人は、文字を知らず、従って、先哲の書を読まず、牛馬を用いず、それゆえ、我が身を労して汗と泥にまみれて生き、食に到っては、文明人にあるまじき生食主義で、香辛料、薬味も知らず、礼に到らない。更に、衣服は文明人のものではないから、見るからに蕃風である。そして、王位にありながら政務を執らない「女王」を担いでいるのは、「礼」に反している。
 これは、倭人に阿諛追従するものではなく、「率直な」評価であり、「苦言」であると見るべきである。これらの難点を克服すれば、いつの日にか「文明人」の末席に加わるだろうという程度である。

 と言うものの、後世東夷は、依然として蛮人と言わざるを得ない。なにしろ、「三国志」の深意どころか、あからさまな文意を読解できていないからである。
 「第一人者」は、実際には、何を書いたのだろうか。不可解である。

*恐れるべきは自身の迷走
 「恐るべき中国の史家たち」などと言うが、ほら吹きを恐れては、トンデモ論者を勇気づけるだけである。敵は、厳めしい顔で睨んでいても、噛みつかないから、怖がらないことである。それでも、怖かったら、壺に入れて封印し、地下深くに埋めることである。
 敵は、手軽にアメをしゃぶりたくて、賢そうに芸/雑技を見せているだけである。よい子は、「畏るべき」と畏怖の念をこめて書くべきである。

*陳寿の曲芸筆~余談
 陳寿は、「倭人伝」だけで飯を食っていたわけでは無い。「三國志」全文をまとめるのに苦闘していたのに、東夷伝末尾の「倭人伝」に渾身のわざとばかり、錯綜した書法を費やすのだろうか。

 陳寿が深く尊敬していた蜀漢宰相諸葛亮は、北伐軍を率いて前線にありながら、成都から取り寄せた宰相決裁文書をことごとく決裁したという。何しろ、杖刑以上は全て決裁したから、毎回文書が山を成したようで、そのために過労死したかと言われている。陳寿も、「倭人伝」の書法にまで高度な曲芸を物したのであれば、やはり過労死だろうか。うそ寒い話である。

*また一つのゴミ種
 俗説は、「邪馬台国」所在地説は、誰が数えて、試食したのか、千に余る誤説の山だという。そのゴミならぬ誤説の山から、組みしやすい一説を取り上げて、一舐め、一囓りして、また一つ誤説を積み上げるのは趣味が悪い。氏には、継承も創造もないのか。

 いや、初回を読んで、聞く耳を持っているかも知れないと感じた/期待したのが、勘違いだったようである。
 当記事は、氏の無邪気な暴言の数々が、無垢な世人に広がらないように、合理的な苦言をまとめたのである。他意はない。

                                以上

2022年9月26日 (月)

新・私の本棚 古田 武彦 九州王朝の歴史学~「国都方数千里」談義 再訂 1/2

 第四章 新唐書日本伝の史料批判  ミネルヴァ書房 2013年3月刊
私の見立て ★★★☆☆ 当記事範囲 功罪相半ばの卓見 2020/11/09
 改定2021/01/11 再訂 2021/01/12、01/31、 2021/07/22、2022/09/26

□はじめに
 本書は、章末に[注]、巻末に人名、事項索引を備え、専門書の体が整っています。学術書として十分な校訂を経ているという事です。なお、本稿は、1991年4月刊原著の復刊、確定稿の資料批判です。

○一字の解釈考
 新唐書「日本伝」は、改国号記事の後、次のように書きます。(句点一部解除)
 使者不以情故疑焉又妄夸 其国都方数千里
 「東アジア民族史 2」(平凡社 東洋文庫 小林秀雄他 訳注)は「国都は、数千里四方であると誇大に偽っている」としていて、定説めいています。対して古田氏の読みは、(其国)「都(すべて)方数千里なり」で画期的です。

*誤解の是正 [概数表記割愛御免]
 (後世人にとって)自然に読めてしまう「国都」「方数千里」解釈は、すぐわかるように、文としての意味が通らず、途方もないのです。

 何しろ、新唐書「日本伝」で、「国都」の所在地も城名も書かずに「方数千里」と広大さを語るのは、正史たる史書として法外です。「新唐書」は、個人の思いつきの産物でなく、衆知の結集ですから、本来、そのような不体裁はあり得ないのです。つまり、後世中国史家の句読が錯誤に陥っているのです。
 加えて、東夷夷蛮の国の王の居処を、「国都」と尊称するのは、唐代としても、不敬の極みで、ここでも、解釈が齟齬しています。
 古典書を、「先入観に囚われて軽率に誤読する」のは、東夷だけの特技ではないのです。

 是正は、「其国都」「方数千里」を止め、「其国」「都方数千里」とします。つまり、「其国都」が「方数千里」ではなく、「其国」が「都(すべて)方数千里」と読みなおすのが妥当で、以下、意味が通るのです。比較的意味の通りやすい「日本語」に飜訳するなら、「都合」とするところですが、「読み下し」では、限界を超えた感じもします。

 「国都」を、国内史料風に、国の「京都」(けいと)と解すると、例えば、平城京が、一辺数千里の正方形を満たしているという意味であり、中国側の鴻廬、つまり、異人受け入れ部門からすると、「おまえ、自分の言っている意味がわかっているのか」と言う事になりますが、来訪している行人、使節は、ただの子供の使いですから、返事のしようがないのです。まして、いや、これは、「国土」の書き間違いなどと言い逃れはできないのです、何しろ、国書には、国王の印璽が押されているから、一切、訂正できないのです。
 先賢諸兄姉から、その辺りの事情について、説明がないので、当否はともかく、素人考えでそのように解するしかないのです。

 本能のままに「自然に」読むのを控えて、丁寧に、其の「深意」を読み解く、高度に知性的な努力が必要なのです。

 ただし、古田氏の採用した「方里」が正方形一辺の里数を示しているとする「方里」解釈には、難があります。但し、話が長いので、別稿に譲ります。

○舊唐書記事参照
 「舊唐書倭国伝」の「日本国条」は、「又云其国界、東西南北各数千里」であり、「方里」も「国都」も書かず、順当な記述です。編纂者の古典教養が偲ばれます。いくら、「蕃人の国書をそのまま取り次ぐべし」と言われても、物には限界があるのです。

 「舊唐書」を是正したと言う触れ込みの「新唐書」の「日本」伝が、冒頭の「東西五月行、南北三月行」の記事で矩形/方形領域を描きながら、天皇系譜記事と「日本」国号起源報告の後、面積表現として「方里」を申告したとしたら意図不明です。因みに、隋書では、俀国は道里を知らないと書いているのです。

*古典史書用語の復旧
 ここまで確認した限りでは、新唐書は、『漢魏晋の「方里」と「都」の規律を復旧した』と見えますが、理解した上で適確に再現したかどうかは、不明です。何しろ、後世句読で、時代最高の権威者が其の原則を失念しているのですから、あくまで、勝手とは言え、有力な仮説という事です。

*藩王に国都なし
 漢書以来の正統派正史は、漢蕃関係古制として、蕃王の居を都と称しません。
 国内の「王」の治所を「都」と呼ぶことすらないから、遥か格下の蕃王、藩王が、其の居処を「都」と称するのは、死に値する僭越です。

 但し、西晋滅亡中原喪失以降、つまり、漢蕃関係崩壊以後、北方蛮族から出て中原を占有した北魏、東魏、西魏、北周、北齊の北朝系王朝は、四夷は、ことごとく蛮夷たる自身の輩(ともがら)、共に「客」であったもの同士という共感からか、蕃王の居を「都」と称しましたが、全土を統一した隋、唐は、中華正統意識から、漢蕃関係を古制に復旧したようです。
 語義は著者の世界観に左右されるのです。従って、新唐書は、漢魏晋の「方里」と「都」で書かれているものと見えます。

*おことわり
 以上は、大変高度な審議なので、国内史料に、長年慣れ親しんでいる方々には、俄に信じがたいかも知れませんが、当ブログ筆者たる当方は、こじつけや飛躍のない、順当な論考と考えています。また、後述するように、倭人伝の道里行程記事の明快な解釈に繋がるものです。

 以上、九章算術」及び関係論考、さらには、正史、ないしは準ずる史書である司馬遷「史記」大宛伝、班固「漢書」西域伝、袁宏「後漢紀」、魚豢「魏略」西戎伝、そして、范曄「後漢書」西域伝の関連記事を一応通読した上での「素人考え」の意見ですので、ご理解の上、反論があれば、具体的に指摘いただければ幸いです。

                                       未完

新・私の本棚 古田 武彦 九州王朝の歴史学~「国都方数千里」談義 再訂 2/2

 第四章 新唐書日本伝の史料批判  ミネルヴァ書房 2013年3月刊
私の見立て ★★★☆☆ 当記事範囲 功罪相半ばの卓見 2020/11/09
 改定2021/01/11 再訂 2021/01/12、01/31、 2021/07/22、2022/09/26

*短里制実施例と解釈
 古田氏は、
 『「方数千里」は、「日本」の領域(面積)を示す幾何学的な矩形、ないしは方形の表現であり、現在知れている日本列島の地形から判断して、一里四百五十㍍の「普通里」、つまり、古来通用している「里」でなく、魏晋代に通用していた(と古田氏が提起している)「普通里」の六分の一の「短里」七十五㍍が整合する
 と説きました。(四百五十㍍、七十五㍍は、当ブログの造語)
 魏晋朝限りだったはずの「短里」が、遙か後世の新唐書に援用されたとの主旨ですが、以下の通り、論拠が整っていないものと見えます。

 なぜ、「倭」継承を嫌った「日本」が、中国魏晋代独特の古制と見なされている「短里」を持ちだしたか、まことに不可解です。漠然とした国界だけで国の形が不確かなのに、「方数千里」を「数千里四方」と解するのも不可解であり、これを、単に「誇大」と見たのは古典知識に欠けた鴻廬寺掌客の浅慮、短慮と思うのですが、史官は、史実の記録として、公文書記録の通りに書いたのでしょう。
 何しろ、当時、どこにも、現代知られているような地形、道里の見て取れる「地図」は存在しないので、「国界」、つまり、国の形と広がりは、知りようがなかったのです。

 因みに、魏志「烏丸東夷伝」の数カ国記事の「方里」は、いずれも、中原の土地制度の通用しない、また、地形不明な辺境国の国力を表示したものであり、いずれにしろ、それぞれの「国」の正確な領域、形と広がりは知られていなかったのです。
 かといって、領域の知られていそうな比較的近隣の諸国に「方里」を適用した記事は、韓伝、倭人伝以外に無いので、「方里」の検証は、不可能なのです。
 と言うことで、不可能な検証の論議は無駄なので、「理解不能」を暫定的結論として先に進みます。

 因みに、魏志「東夷伝」の関係記事は、後漢末期から魏明帝景初年間まで、遼東太守として、「小天子」の威光を展開していた公孫氏の「郡志」記事の反映と見えるので、同時代他地域に同様の事例を見出すのは、困難(不可能)なはずです。景初年間、司馬氏の討伐で遼東郡文書は全滅したのですが、いち早く、皇帝命で楽浪、帯方両郡が、平和裏に接収されたので、公孫氏時代、両郡に控えとして収蔵されていた郡志(郡公文書)が魏帝のもとに回収できたものと見えます。

*「倭」に対する誤解払拭~余談
 少し離れますが、正史記事とは言え、「倭」が悪い文字と解するのは、東夷蛮人の誤解、と言うか、勝手なこじつけであり、今さら、古代人を教え諭す術はないのですが、それにしても、現代論者各兄姉の通説、風説追従の様(さま)は、安直に過ぎると考えます。

 もともと、無教養な「倭の言い立て」を記録したのでしょうが、後に正史記事を書くに際して、史官は、鴻廬寺掌客の受け答えが不合理、不正確と見えても、訂正はできず、そのまま正史記事にしたと見えます。
 東夷の後裔の素人でも、中国語の古典書では、倭は、めでたい文字と解されていたと知っているので、ここでも、「上覧を経た公式記録文書は(明らかに誤伝でも)訂正できない」という、厳格な正史編纂方針が窺えるのです。むしろ、古典書以来の定則に反する、「反則」となる蕃人の意見を、「蛮人の不見識を示すために」ことさら記したものと見えます。世上好まれている「春秋の筆法」とまで言うものではないでしょうが。
 このように、正史に書かれているからと言って、史官が「正しい」と確認した内容でないことは、あり得るのです。ちゃんと、文脈、前後関係から、真意を読み取るべきです。一度、考えてみていただきたいのです。 

*「方里」解釈への異議
 「方*里」を、「正方形一辺*里」の幾何学図形とする解釈例がありますが、そのような面積数値の使われた由来、根拠が不明です。面積は、辺の自乗で読者の理解を超えて増倍し、収拾が付かなくなるのです。その仮説に従うと「方四千里」は、「方四百里」の両辺を十倍していることになるので、面積は「方四百里」の百倍になるのです。
 私見では、「方里」は、国内戸籍/土地台帳情報に基づく「農地面積総計」であり、また、「数千里」は、少なくとも、東夷伝の概数語法の定則から「二、三千里」と見ています。
 また、基本的に、「五千里」は、一万里に到る千里代の十進範囲を四分割する程度の概数で「五千里」程度と思います。つまり、(「千」)、「二/三千」、「五千」、「七/八千」、「一万」という感じです。現代では、あまり見かけない大雑把な概数観ですが、それが時代相応とする合理的な意見に対して、現代人の「素直」な感情的な解釈を適用していては、時代人の真意を知ることはできないでしょう。

 こうした概数表示の初歩的な常識からして、数千里は 二,三千里の意です。その倍に当たる五千里程度を、無造作に数千里とするのは、余りに大まかすぎます。五千里に近ければ、常識的には「五千余里」と書くものでしょう。
 恣意で概数表記解釈を撓めるのは、古代史学界の因習の一つに見えます。

 つまり、各地方の検地担当者が、一戸ずつの農地面積を「頃、畝」で書き留めたものを集計して得た「頃、畝」を、四百五十㍍程度と見られる「普通里」に即して、一里四方の面積である「方里」に換算した統計数字と見えます。

*追記:2022/09/26
 最新の見解として、魏志「東夷伝」の「方里」は、当時の遼東郡太守公孫氏が、後漢、魏の統制が及ばないのを良いことに自立していた時代に、勝手に各国列伝を編纂したものと思われる「独自制度」であり、そのため、中原諸国、諸郡制度と異なる東夷諸国の国力指標として運用していたものであり、帯方郡にその写しが残されていたものが、早期に魏帝の命で帯方郡が接収された際に、新任太守から魏帝に提出されたと見えます。皇帝御覧を得て公文書に綴じ込まれたら、以後、訂正できないのです。
 それ故、陳寿が、高句麗、韓、対海、一大の列伝に於いて、魏帝の公文書を参照したものと思われるのです。

 例題は、国(農地)としては、魏志東夷伝の韓国(方四千里)より狭く/弱小であり、高句麗(方二千里)より少々広く/富裕であることになります。もっとも、以上の解釈は「倭人伝」基準ですから、魏晋南朝の文法(書法のこと)を継承したかどうか不確かな唐代文書が、これを正しく継承したかどうか、それが、「新唐書」に正しく継承されたかどうか、やや不安が残ります。

*試算の試み
 領域農地を「方二千五百里」(二千五百平方里)と見れば、一辺五十里、二十五㌔㍍四方の範囲であり、その程度の戸籍整備範囲と見えます。
 「方二千五百里」は、常用単位で万畝程度であり、一戸あたり五十畝と見ると(憶測です)、二万戸に相当しますが、どの程度の領域がわからないので、それが多いとも少ないとも言えないのです。
 はっきりしているのは、戸数や方里と収穫量や動員可能兵力は、堅固な相関関係があるということだけです。一方、未開地、荒れ地の面積など、何の意味もないのです。

〇倭人伝道里記事への波及
 本記事は、近来、古賀達也氏が提起した『「南至邪馬壹國女王之所 都水行十日陸行一月」を「女王之所都」と解するのは誤解であり、「都云々」は、(「都合云々」、)つまり「すべて水行十日陸行一月」の意と解すべきである』との倭人伝解釈を支持する一件と思われます。なお「都合云々」 は、当ブログの追記。

 倭人伝道里行程論、里程論の長年の論議に於いて、大変意義深い、画期的な提言と思うのですが、余り、反響がないのが残念です。目立たない提言ですが、実は、この提言を認めると行程記事の目的地が、九州島内から出られなくなるのであり、いわば、畿内説に引導を渡す議論なので、いわば「命がけ」で黙殺されるのでしょうか。
 いや、古田氏の著書を始め、「倭都」「王都」が氾濫しているので、「都水行十日陸行一月」は表面化を許されず、長く潜伏しているのかも知れません。

 因みに、古代史の泰斗、上田正昭師は(今般の「都」の新解釈は抜きで)総日数表示という解釈に対して、「史学に於いて、自身の論議を進めるのに都合がよいと言うだけで肯定的に評価するのは、正しい態度ではない。用例、前例の確保が不可欠である」と苦言を呈されていたように思います。当解釈を加味して、それでも、証拠不十分と仰るかどうか、上田師のご意見をお伺いしたかったところです。

 因みに、このような定則の提言に対して、散発の例外用例を指摘して異議とする向きがありますが、特に、人文科学、歴史学の分野では、いかなる定則にも例外は存在する(例外があるのが、定則の正しい根拠である)というのが古来の常識であり、また、用例解釈は、厳密に考証してから取り上げるべきだということも、手抜きしてはならないと考えるものです。
 むしろ、唐代の常識が、遙かに歴史を遡上する魏晋代に、既に常識であったかどうかの「時代考証」が先行すべきでしょう。

 倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(1)
                                以上

2022年9月24日 (土)

倭人伝の散歩道 番外 纏向 「驚き桃の木」の 毎日新聞古代史報道 2018 補充再掲

私の見立て★☆☆☆☆                  2018/05/14 補充 2022/09/24

◯旧聞紹介のお詫び 
 今回やり玉に挙げるのは、2018年の毎日新聞大阪夕刊一面の古代史記事である。当時、いち早く批判したのだが、他の全国紙の報道姿勢と比較検証できていなかったので、ここに改めて、公正に批判することにした。

▢「驚き桃の木」2018/05/14
 「驚き桃の木」とは、「纏向で卑弥呼時代の種」と断定的な大見出しを付けているからである。
 卑弥呼時代のモモの種 邪馬台国、強まる畿内説
 ニュースソースは、桜井市纒向学研究センターの研究紀要とのことだが、同センターのサイトに発行の告知はないし、当然、公開されていなくて、どこまでが発表内容であって、どこからが記者の私見なのか内容確認のしようがない。

 
通常、このような大発表は、各社担当記者を集めて、「プレスレリース」なる概要資料を配り、それに基づき記者会見と質疑応答をするものだと思うのであるが、「プレスレリース」は、発表されていないように見える。古代史学界の報道対応は、どうなっているのだろうか。

*2018/05/16追記 補充 2022/09/24

研究紀要の刊行案内が掲示されたので、ここに紹介する。相変わらず、意味なく右クリック禁止なので、メニューから「コピー」した。
目次紹介も何もないので、内容は一切不明のままである。

2018年3月刊ものが今公表された理由もわからない。
-----引用
***纒向学研究 第6号 2018年3月刊
桜井市纒向学研究センターでは、センターで行われた研究の成果を広く学会や社会に発信するために研究紀要を刊行しています。
第6号となる本号には、所員1名のほか、外部研究者6名の方々に寄稿いただいた、「纒向学」に関わる研究・分析の成果をまとめた論文などが収録されています。
1部 1000円。(公財)桜井市文化財協会(桜井市芝58-2 市立埋蔵文化財センター内 TEL 0744-42-6005)にて頒布しています。
---引用完

 仕方ないので、ライバル朝日新聞、日経新聞のサイト記事と比較せざるを得ない。
 毎日新聞
 見出し 卑弥呼時代のモモの種 邪馬台国、強まる畿内説 (ネット)
     纏向で卑弥呼時代の種 畿内説更に強まる (紙面)
 まとめ 今回の分析は、遺跡が邪馬台国の重要拠点だったとする「畿内説」を強める画期的な研究成果といえる。
 おまけが、解説欄である。
 解説 所在地論争終熄間近
 まとめ 近畿か九州かという所在地論争は終熄に近づいていると言っていい。

 どなたが、このような厳めしいご託宣を下されたかというと、山成孝治なる署名記者だが、どんな資格で仕切っているのかは、書かれていない。「卑弥呼時代」などと、新規造語を曝け出していて不自然である。天下の毎日新聞記者は、何を書いても批判されない神のごとき叡知の持ち主と自画自賛しているのではないか。このような低劣な記事が誌面を汚しているということは、編集部門内で、ダメ出ししなかったことを示しているのは、情けない限りである。

 
正直、このような、不勉強で子供じみたご託宣を見せられるくらいなら、宅配読者としては、相当分白紙紙面の方が、まだましである。

 また、論争は、双方が納得して初めて終熄(収束?)するのであり、一方の陣営が何か発表しても、他方の反論を見ないままに、新聞社が意見を固めていいわけではないのは、衆知のことである。
 因みに、朝日新聞、日経新聞の記事は、以下のように、賢明にも一方的な決めつけを避けている。賢明というが、全国紙として当然の態度である。

 あるいは、参照困難なので割愛したが、産経新聞紙記事では、次のように異論を明示している。
高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。

報道は、特定の機関の「提灯持ち」に耽らず、冷静に、公平に。報道の姿勢は、かくありたいものである。

 朝日新聞
 見出し 卑弥呼の世の?桃の種か 纒向遺跡で出土、年代測定
 まとめ 『今回の分析結果は所在地論争に影響を与えそうだ。』と評している。
  古代史学の「イロハ」として、遺物、遺跡から打ち出される考古学的な見解と史書の文献解釈から来る意見は、付き合わせるべきではない、ということがある。

 まとめ 発表内容を紹介した後、『邪馬台国畿内説に立つ専門家からは「卑弥呼の居館では」との声も出ている。』と、言わずもがなの「風評」を付け足している。

 今回の記事で言うと、毎日新聞は、学術的に書かれているはずの「紀要」が断言していないと思われる事項を、記者の個人的な偏見に基づいて、勝手に断定していて、まことに不穏当/不謹慎である。特に、毎日新聞文化面の「解説」欄は、記者の私見書き放題の感があり、何とも、もったいないのである。
 「紀要」が表明しているのは、桃の種の時代鑑定のはずであり、それが、遺跡の時代鑑定に連動して良いかどうかは、まだ、疑問の余地が残されているはずである。

 まして、古代史文献「倭人伝」に書かれている「卑弥呼」の時代について考えると、CE135ー230年とされた時代が、卑弥呼の存命中の時代なのかどうか、明記されていないから、不確定としか言いようがない。
 CE135であれば、後漢朝が、まだまだ元気だった順帝の時代であり、倭国が乱れたとされる桓帝、霊帝代以降の後漢代末期に比して、遙か以前である。卑弥呼は、影も形もない頃であることは間違いない。
 そうでなくても、考古学上の年代判定は、50年程度の前後は、当然想定済みなのである。「年月」が書かれていない遺物からは、推定しかできないのであり、今回のC14鑑定も、最後は、鑑定者の手加減、さじ加減、親の欲目で、大きくずれ兼ねないのである。
 ここで言うように、中国史書に書かれた「卑弥呼」の住まいが、どこにあったかという決定的な議論に辿り着くには、解決すべき課題が、幾重にも、幾方向にも山積しているのは衆知、自明である。簡単に結論に飛びつくのは、不勉強な半素人である。

 もし、センターが、今回の鑑定結果が、年代論に終止符を打つとか、所在地論争を終熄
(収束?)させる、などと書いていたら、それは、国費、公費で成立している学術研究団体として自滅行為である。
 と言うことで、「解説」は、毎日新聞(記者)の独断・暴走と思われる。
 それにひきかえ、朝日新聞と日経新聞は、当然ながら、メディアの分を堅持していて、見事である。
 ただし、朝日新聞も、無造作に『邪馬台国は中国の歴史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に記録され、その時代は卑弥呼が倭(日本)王に共立され、死去するまでの2世紀末~3世紀前半とされる。』と書いているのは、全国紙にしては低次元の誤解表現である。
    1. 邪馬台国は、魏志には書かれていない。
      文献(魏志)に「邪馬壹国」と書かれていることに異論はない。
    2. 邪馬台国の時代は書かれていない。
      文献(魏志)に 卑弥呼の死去時期(三世紀前半)は書かれているが、共立時期は明確ではない。
    3. 「魏志倭人伝」という「中国の歴史書」はない。
      魏志(魏書)第三十巻の一部であって、独立した「書」ではない
      ことに異論はない。
    4. 三世紀当時に「日本」はなかった。
      日本が八世紀冒頭に誕生した
      ことに正当な異論はない。
    5. 「その時代」は不明である。
      「その国」がいつ始まったか、いつ終わったか、文献(魏志)には一切書かれていない。
      この誤解は誠に独創的であるが、正当な「新説」ではない。
  このように、質の悪い誤解を蔓延させているのは情けないのである。

以上

2022年9月21日 (水)

今日の躓き石 恥知らずな造語と手ひどい蔓延 「リベンジ消費」

                             2022/09/21

 今回の題材は、「無教養」と言われそうなスポーツ界のカタカナ語漬けの世界ではない。「会社四季報オンライン」のネット記事である。

 『リベンジ消費期待高まる宿泊業は「ビジホ」の進化に要注目』と引用記号無しの堂々たる見出しで、「ビジホ」の 片言の割に物々しいが、物知らず、恥知らずの悪乗り姿勢は、スポーツ面記事の褒めそやす、無差別テロ紛いの血まみれの「復讐譚」礼賛と変わらない。
 道ばたの落とし物は、うまそうに見えても、食べ物とは限らない。まして、通りすがりの「拾い食い」に品位がないのは、当人が気にしなければ、野次馬が言ってもしょうがないのであるが、せめて、健康のために、はしたない行いは控えた方が良いと思うのである。

 それにしても、権威ある経済記事を求めているはずの読者にしてみると、世も末である。

 「廉恥を知らない」、つまり、破廉恥な言い出しっぺは、飲み屋の声のでかいおっさんなのか、政府の知恵袋なのか知らないが、いきなり世間の高みに怒声が響き渡るから、結構高貴な方の造語なのだろう。それにしても、ダメだしなしの結構な身分である。このような新造語は、発案者に著作権があるはずだから、ちゃんと広報に実名を掲載して欲しいものである。無断流用、絶対禁止である。

 それが無理でも、発案者の実名が「リベンジポルノ」の破廉恥さと同等の品性の持ち主として、長期掲示されたら良いのにと思うのである。

 それまでは、会社四季報オンラインが、恥をさらすことになる。いや、記事署名もあるのだが、武士の情けで、トドメはささない。

以上

2022年9月15日 (木)

新・私の本棚 播田 安弘 「日本史サイエンス <弐>」 短評

 「邪馬台国はどこにあったのか」講談社 ブルーバックス 2022/05/20
 私の見立て ★★★☆☆ 格調高い編集、丁寧な「大ぼら」 2022/09/15

◯総評~第一章 「邪馬台国はどこにあったのか」
 当書評の対象は、「倭人伝」論ですから、本章のみに限定します。
 氏の失敗は、取り組む課題が理解できていないことです。そのために、「ジャンク」とも見える圏外情報に囚われています。また、その「ジャンク」を咀嚼も味見もせずに、するりと摂取したために、途方も無い先入観を植え付けられて、有らぬ方に偏った心証を持って論じています。それは、「サイエンス」から、地平線を越えて遙かに遠ざかる道です。

①日食談義~場違いな「太陽論」
 「日食」論は、とんでもない勘違いです。唯一最善の基本資料である「魏志倭人伝」(以下「倭人伝」)には、日食記事は存在しないのです。つまり、ここに述べられた「日食」は二千年後世東夷の臆測であり、「倭人伝」の「科学的」解明には、本質的に無関係です。

②古代船冒険談義~見当外れな「海」
 一連の「古代船」冒険の棚卸しですが、不成功の解決策が見えません。氏の船舶構造専門家としての見解は、素人として拝聴するしかないのでしょうが、「尊師」に相談しないから失敗したと言うだけでは、改善の仕様がありません。

 殊更に、ここで氏の評価を批判するのは、当時、対馬と対岸の間を「軽舟」が渡船/便船として往来し、時代/地域相応の貿易/市糴が行われていた時代背景を見定めてないからです。「大きな船」といえども、紹介された「古代船」諸事例のように、重量船体、多数の漕ぎ手の力業では「なかった」のです。
 対岸までの航行は、早ければ半日仕事で、天候も波濤もそこそこなので、甲板/船倉のない軽量、軽装備であり、屈強の漕ぎ手が随時交替して休養を取るので、槽運として持続可能だったのです。
 「倭人伝」は、当時、当たり前のことは書いていないわけですが、当たり前のことを知らない論者がひしめいている世間では、誰も氏に助言てきなかったのでしょう。ちゃんとした相手に相談しないと、泥沼に引きずり込まれる例です。

③「邪馬師」の残光~間違えた相談相手
 記事中、女王が「大陸」に向けて「取宝船」を送り出したとしていますが、「倭人伝」に書かれていない「夢想」です。そのような夢物語は、随分心地良いのでしょうが、あくまで手前味噌の創作なので、この場で論義するのは、場違いと自覚して頂きたいのです。氏の名声があれば、新刊本はとことん売れるでしょうが、史学とは別の話です。

 いや、これは、氏が相談した「山師」ならぬ「邪馬師」の執念/生き甲斐かも知れませんが、当時の市糴は、単に、半島まで渡船で乗り付けて、街の市で商いすれば完結していたのです。「大陸」がどこのことか趣旨不明ですが、洛陽まで行けという事なのでしょうか。困ったものです。
 どうしても、遠出したくて辛抱できなかったとしても、渡海上陸した後は、安全な街道行で半島中部の帯方郡まで出向けば、片道四十日程度で用が済んだのです。それでも、往復の行程は、どこから食糧を入手し、どの程度、宿所に払い、関税を払うのでしょうか。経路諸国は、普段、近隣交易で収益を得ているので、頭越しに乗り越えていく「輩」から、たっぷり関税を取り立てたはずです。「輩」は、道中の安全が大事ですから、沈まない行程に、むしろ悦んで通行料を払ったと見えるのです。

 当時、中原世界と異なって、共通通貨はなかったわけですから、どのようにして価格交渉するのかも興味が募ります。遠隔地では、物々交換しようにも、「相場」、つまり、互いの価値観がわからないので、売買がなり立つとは見えないのです。当ブログで、「近隣市糴」をも何よりも推奨する背景です。

 くり返しになるかも知れませんが、堅実な考察は、時代・地域相応の世界観の確立から始めるべきです。氏が相談した先賢諸兄姉の意見は、当然、最高の敬意をもって、絶対に尊重すべきですが、第三者の目から見ると、所詮、懲りない「敗軍の将」の兵談の類いであり、ホラ話に無批判に追従しては、年代物で、先人の足跡かが呼び寄せている陥穽に、また一人の犠牲として落ちるだけです。

 因みに、倭人伝に書かれた帯方郡への使節も、国家安寧がかかっていた以上、当然、安全/迅速な経路を辿って参上したのであって、必死の「冒険航海」など到底あり得なかったし、魏の皇帝も、当然、道中が間違いなく安全と見て、大量で、高貴な贈り物を公式経路を通して送りつけたのに違いないです。
 倭人伝は、淡々と書き進んでいますが、「当然」の事項は割愛するのが「当然」です。

 普通、このように時代背景を確認して取り組むのが「科学的」考察の「イロハ」の筈です。まずは、当時の唯一最善資料「倭人伝」を、その言葉で解釈するべきであり、史料が適確に解釈できないでは、事態の「科学的」解明はできないのです。

④倭人伝談義~粗略な本論/正論無視
 「倭人伝」談義では、詠み人知らずの日本文を落第生「邪馬師」をなぞって解釈し、さながら水に墜ちた様を笑うだけで何も示さないので、味が悪いのです。氏は、「全員間違っている」などと、無謀で恥知らずな断言はしていませんが、「落第生」を見習って難儀な「思い込み」を抱えているように読めるのは、まことに勿体ないところです。
 例えば、「野性号」の例で言えば、誤解した「狗邪韓国」寄港に固執したのに始まり、とにかく、強引に、一路漕ぎ続ける無謀な手法であり、時代を問わず、生身の人間が想定した行程を一貫槽行するのは、常用行程としては、はなから不可能です。
 魏使の乗船と仮定しても、大量の下賜物と多数の人員を運ぶことのできない想定であることは、自明のように見えるのですが、これは、氏の責任ではないので、深入りしないことにします。

*「倭人伝」解釈の関所~行程記事読解の「破綻」
 ほどなく、『「倭人伝」の記述通りの行程を進むと「邪馬台国の存在が破綻してしまう」』断言的に責任転嫁します。資料解釈の前提たるべき「邪馬台国」は、資料上に実在しないので「破綻」の仕様がなく、実は、氏の思念が「破綻」しているのが、鏡に映って見えているのかと懸念させる自嘲発言です。(講談社編集部にしては不用意で、編集事故かも知れません)
 因みに、大抵の場合、このような場違いな強弁は、論争弱者のボロ隠しであり、それだけで、ほぼ、敗北宣言に見えてしまうのです。ご自愛頂きたいものです。素人目には、『「倭人伝」の記述』が、理解できていないのに過ぎないと見え、土壇場で、見苦しい言い逃れと見えます。

 そこで、氏は忽然と、「倭人伝」の問題に対して、「方位」誤認に始まる年代物、つまり、博物館の倉庫に隠匿されるべき骨董品、「レジェンド」の類いと見なされている「史料改竄」を推進し、一方、「倭人伝」を合理的に解釈しようとする正論には、見向きもしないのです。誠に、残念な転進ですが、作戦的な変身ならぬ「変針」は、堂々と論拠を示すものではないかと見えます。

 ここで、氏は、突然、三世紀、瀬戸内海航路は通行できなかったと思われると、専門家として、慎重な見方を示します。素人目にも至難な航路を古代人が安全通行できないのは、まことに妥当で、曇天に叡知の陽光が垣間見えた気がしますが、闇夜の明かりはそこまででした。
 素人の理解では。「瀬戸内海航路は通行できなかった」と定見が示された以上、当該経路を主張する論者諸兄姉は、これに対して反論し、克服する義務が生じたものと見えます。

⑤唐突な日本海航行~あり得ない遠隔支配
 氏は、一転して、日本海側海上航行を経た畿内説を持ち出します。
 転進の背景は、倭人伝道里記事を「普通」に解すると、女王國は、九州北部にとどまるとの「邪馬師」所説「破綻」を救済しようとするように見えますが、畿内説「破綻」の原因は、既に台頭しているので、このような小手先の言い逃れでは、解消しないものと見ます。

 素人考えでも、「国の政治・経済の要である伊都」から「女王居処」まで、日々迅速に連絡できなくては、国が維持できないので、両者は至近距離にあったと、当然のこととして見るのです。
 氏の「畿内説」想定は、伊都から畿内まで一ヵ月以上で「遠隔支配」であり、伊都は自立してしまいます。まして、市糴の経路が、伊都を通過しないのは、倭人伝に画かれている国家像と、甚だしく乖離しています。普通に言うと、依然として、「畿内説」は、一から十まで破綻しているのです。

 氏は、格別の名声の持ち主として、世上の尊敬を集めているはずですから、「畿内説」救済の聖戦に挑むのであれば、そのような一般人の普通・素朴な解釈に対して、適確に反論し克服する義務を背負っているように見えます。あえて、率直な苦言を呈する次第です。

◯結語~望まれる「サイエンス」の王道回帰
 氏には、国内諸兄姉の非科学的な先行論義に惑わされない、講談社「ブルーバックス」の名声に相応しい論理的思考の好著を望みます。

                                以上

新・私の本棚 山下 壽文 「末羅国伊都国間の道程を巡る諸説の検討」改訂

 ~唐津平野の地形を中心として 季刊 邪馬台国 142号 投稿記事 令和四年八月一日
 私の見立て★★★★☆ 好記事     2022/09/15 改訂 2023/08/30

◯総評
 本稿は、現代の精緻な地理識で「倭人伝」を批判する方針で丁寧に論じられたことに敬意を表するが、当方の「道里行程記事」解釈と意見が別れ、一言批判する。なお、本稿は「投稿記事」であり、編集部見解と輻輳するかも知れない。
 なお、後記するように、当稿は、氏の「道程」論本体部分に干渉するものではない。

*通説、異説の取り扱い
 「はじめに」で、「倭人伝」末羅条の「東南陸行五百里到伊都国」の道里に対して、「水行」と読む異説(風評か)が紹介されている。氏は、慎重に、「陸行」「通説」ながら「道程」に「陸行」と「水行」の両論があるとしている。
 この際の「通説」は、「倭人伝」原史料に基づく、厳正な「定説」であり、これに「異説」を唱えるには、厳格な自己検証が不可欠なのである。
 にもかかわらず、山下氏は、出典を明らかにしない風聞を提示して、論義を開始している。これは、論考の根底を踏み外しているが、季刊「邪馬台国」氏は、安本美典氏の「誌是」に反して、無審査で掲載しているようである。もったいないことである。これでは、山下氏が、児戯に類する雑文を投稿したことになり、氏の名声を損なうと見える。

*合理的な解釈訴求
 末羅条記事は、『末羅に至る三度の渡海「水行」から、末羅で陸行に復元した』と明記しているにも拘わらず、「陸行」は改竄であるとの、誠に稚拙極まりない思いつきであり、一考に値しないと見える。西晋史官陳寿が、慎重な推敲を経た「倭人伝」 記事を「水行」と読む「異説」は、「説」に足りない「憶測」であり、はなから棄却である。
 「倭人伝」は、中国史書の道里記事で空前の「水行」を「大海中の洲島を渡海し伝い行く」例外的用語と定義したのであり、末羅が「伊都と隔絶した海島」と書かれていない上に、「さらに海を渡ると書いていない」以上、ここに「水行」が出る幕は金輪際無いことは、一字書換で済まないのである。「水」「陸」は、随分字形が違い、それは略字でも容易に識別されたはずであるから、子供でない限り、誤写しないのである。

 氏は、現代日本人が「憶測」で倭人伝記事を覆すことの愚を歎いておられるので、この点以外では、堅実な考察を進めていただけるものと思う。なお、「異説」を「さかな」にしたと見える道程地図論は、山下氏を非難するためではないので、当論の圏外である。

*即決の勧め~同感と不同意
 無効な見解を即決せず審議を重ねるのは、氏の見識に勿体ないと思う。
 「おわりに」で逡巡の背景をみると、氏は、倭人伝道里を直線的と決め込んだために、いずれも不合理と頓挫、苦吟しているようである。
 率爾ながら、「伊都から女王まで水行十日陸行一月」との素人目にも「不合理な通説」に固執せず、柔軟な視野で読みなおすようお勧めする。何か得るものがあるはずである。
 「倭人伝」論で、「通説」は「浅慮の旧弊」の同義語、骨董品、「レジェンド」なので、ちゃんと「壊れ物」扱いして頂きたいものである。

*用語の時代錯誤~定番の苦言
 因みに、氏は、「道程」と暢気に書いているが、砂浜は「道」や「禽鹿径」ではない。タイトルで、きっちり底が抜けている。因みに、「道程」は、「中国哲學書電子化計劃」のテキスト検索では、唐代「白居易」漢詩だけで、魏晋代には存在しなかったと見える。これでは、タイトル審査で落第、ゴミ箱直行である。

 魏志「倭人伝」は、三世紀中国人著作物であり、真意を解読するには、まずは、現代日本人の「辞書」を脇にどけて挑む必要がある。氏の一助になれば幸いである。

*「魏船」来航幻想~無視された無理難題
 氏は、魏使が、自前の船舶で末羅に来航したと決め込んでいるが検証済みだろうか。
 山東半島から帯方郡の海津(渡し場)までは、騙し騙し軽微な便船でこなしたとしても、遙か末羅まで、海図も寄港地案内も、何も頼るものもない、絶海、未踏の行程をどう解決したか、慎重に検証して欲しいものである。もちろん、「騙し騙し」は、冗談であって、迚も迚も、「自前の船舶」、つまり、海域に不似合いで、水先案内の着いていない異国の船舶は、死にに行くようなものである。

 何しろ、「倭人伝」には「狗邪韓国の海岸に出て、初めて海を渡った(水行した)」としか書いていないのである。何か、夢でも見ているのだろうか。

                                以上

追記:2023/08/30
 今回読みなおして、氏の真意を探り直したのであるが、所詮、氏の素人考えを古来の「素人考え」なる「通説」と対比して論じているようにしか見えないのである。当ブログは、「通説」を世上俗耳に訴えている「俗説」と同義語扱いしていて、本来の「定説」が霞んでいるが、依拠文献である「倭人伝」の正当な解釈が、「俗説」と同列に扱われているのは、名人とも、もったいないのである。
 つまり、倭人伝の冒頭に展開されている「道里行程」記事は、中原政権である魏が、麾下の帯方郡から、新参の東夷である倭に至る行程を公認したものであり、世上誤解されているように、魏使の訪倭記を書き留めたものではないのは、明らかである。要するに、「道里行程」記事の主部は、魏明帝が派遣した魏使について、所要日数を明示したものであり、六倍にも達しようという道里の誇張など、本来あり得ないのであるし、所要日数の見積もりは、最大この程度かかる、という想定であり、これは、帯方郡に確認させれば、せいぜい数ヵ月で確認できるので、大幅な誇張などあり得ないのである。誇張して露見すれば、関係者一同、馘首死罪であるから、妥当な日数なのである。
 また、道中で、狗邪韓国から三度の渡海が特記されているが、この間は、並行した陸上街道がないので、それぞれ、陸上街道で一千里と見立てたものまで有るから、末羅国から、始めて「陸行」された以上、伊都国までは、陸続きなのが明記されているのである。この点を偽っても、何の効用もないから、偽りないものと見るべきなのである。
 さて、氏は、そのように確定した末羅国~伊都国行程に関して、なぜか「倭人伝」記事に反する「水行」を想定し、海面上昇などの異次元要素を持ち込んで「倭人伝」の誤記だとする「異説」の支持を図っているのである。しかし、これは、論証の存在しない「思いつき」に反応しているものであり、方向違いなのである。つまり、資料解釈を覆すには、採りよう、つまり「倭人伝」を克服する確定知りようがなければならないのである。そうでなければ、そのような思いつきは、門前払いして、却下すべきなのである。まして、「定説」の否定に走るべきではないのである。
 肝心なのは、問われるべきは「倭人伝」の文献考証であり、編者である陳寿が、「倭人伝」編纂の際に知るはずもない、倭地の地形は、お呼びでないのである。
 「倭人伝」は、三国志「魏志」の一部分であり、当時の皇帝以下の高官を読者として想定し、明快な読み物としたのであるから、氏が論じているような現地事情は、関係無いのである。逆に、当時読者が、即座に理解できたような明解な記事であるから、高度な計算を強いたり、面倒な謎解きを書き込んだりすることは、あり得ないのである。現代人が題意を読み取れないのは、所詮、東夷で、古代人の常識である教養を持たないから、理解できないだけなのである。
 誠に単純明快だと思うのだが、中な管理会を得られていないようなので、氏の玉稿の批判をサカナに、ここでも説いているのである。氏は、明らかに、古代史論の論客ではない、いわば門外漢なので、以上の批判に特段の他意はない。
 本誌掲載までに、然るべき助言がなかったのを残念に思うのである。

                              以上

2022年9月 6日 (火)

新・私の本棚 笛木 亮三 「卑弥呼の遣使は景初二年か三年か」(2) 結論批判

 「その研究史と考察」 季刊 邪馬台国142号 投稿原稿 令和四年八月一日
 私の見立て ★★★★☆ 丁寧な労作の失墜   2022/09/06
 
〇竜頭蛇尾
 序章紹介に続いて、本稿は、結尾部分に移動する。
 氏は、延々と続く、迷い箸にも似た「煩悶」、つまり「研究史」考察の果てに、末尾で忽然と東夷伝序文に着目し、既に陳腐化、風化した解釈により「帯方郡収容」は公孫氏滅亡後と断定しているように見える。

 本稿読者には、頭から氷水を浴びる「サプライズ」、すなわち不愉快極まりない「ドッキリ」である。

*サイト記事の史料批判は、筆者批判
 氏の結尾は、某サイト主の一文に依拠しているが、同主は中国文を読解できないと自認し、翻訳文を根拠としているのだが、その過程で、原文の「又」を、自己流の「さらに」と決め込んでいるので批判するのに困る。
 後述するように、漢文の「又」は、漢文において、さまざまなな意味を持っていて、どの意味を採用するか、苦心するのだが、同主は、そのような苦心に無頓着で、翻訳文に採用された日本語の「さらに」を、自身の解釈に採用するのだが、後述するように、魏志の翻訳文で「さらに」と言うのは、日常語、現代語の「さらに」ではなく、漢文の「又」を精密に投影しようとしているのであるから、安易な断定は、禁物なのである。
 このあたりの機微は、中國古典資料の飜訳に於いて、もっとも高度な配慮が必要なものである。つまり、日本語の用語は、時代によって、意味が変動しているのは当然であるが、さらに、使用されている文脈によって異同があるため、不連続な「意訳」を行うと、滑らかな訳文のように見えて、原文との連係が喪われるのである。
 「又」を「さらに」と置き換えたのは、その際に「又」の複数の意義が喪われないことから、誤解を誘う「意訳」に陥らないものとしたように見える。ただし、読者に、そのような慎重な解釋の素養がなければ、そのような配慮は水泡に帰して、単なる「意訳」に堕したと見られてしまうのである。

*至高の飜訳
 筑摩書房刊 正史「三国志」第一巻 魏書訳文は、端倪すべからざる翻訳者の畢生の偉業であり、中国古典書の飜訳であるから、現代人がすらすら読めるものでなく、適確な読解には、相当の「勉強」を求められる。同主は無頓着だが、引用された資料展開は、翻訳者に「誤解」の責めを負わせようとしているのであり、随分、論者として無責任であり、翻訳者に失礼と思われる。
 素人でも、史料解釈には、丁寧な解釈に最善を尽くすものではないかと、愚考する次第である。それは。飜訳の解釈の錯誤/誤解に及ぶのである。「勉強」は、夜更かしを強制しているのではない。二重、三重に模索して欲しいと言っているだけである。

*辞書確認
 権威のある国語辞典「辞海」を参照すると、「さらに」、「又」の項には、これらの言葉が、『それまでの事項(甲)を受け、「それとはべつに」と新たな事項(乙)に繋ぎ、「甲乙並記」と解釈する』ことが「できる」(排除されてはいない)と明確に示唆されていて、漢文の「又」の多様な語義を忠実に引き継いでいるとわかる筈である。

 同主は、日本語解釈が世人なみに不確実で思い込みが強い筈であるから、その「個性的な」見解が適正であるかどうか、論拠として採るかどうか、氏としては、慎重に「裏」を取る必要を示している。
 本件のように、両様の解釈が成り立ちうると判断される場合、一刀両断で断定せずに、両論を考慮するのが常識と見えるのである。いや、論者が誰であれ、論拠として依存すると決める前には、慎重な検証が必要なのである。

 笛木氏が、引用された個性的な固執解釈を深く審議することなく、つまり、「辞海」などの国語辞書で追試することなく、断定的判断に追従したのは、氏としては軽率である。
 少なくとも、本稿に於いて、多数の諸兄姉の意見を審議したのであるから、それらの思索を読者に辿らせておいて、ここに来て、コロリと「どんでん返し」しては、貴稿の筋が通らないのではないかと危惧される。

 同書翻訳者は、「魏志」東夷伝が三世紀の中国人のために書かれたことに深く留意し、飜訳によって原文解釈が曲がらないように、心をこめて飜訳したのであるから、自身の限られた語感でなく、適切な辞書に従って解釈すべきである。

*後世史料観~余談
 また、別の要素として、「太平御覧」、「梁書」などの「後世資料」の「又」は、魏書の「又」と同義と断定的に解釈できないと見られるのである。要するに、資料の文脈を掘り下げて、その時代背景を考慮して、その真意を察するしか無いのである。三国志の編纂が、同時代でないにしろ、編纂時と時代的に接近し、文化背景が維持されていたのと異なり、中原文化が破壊され、南方に逃避した残党が、遂に、北方の異民族の手で、無理矢理復元された時代であるから、「後世資料」の「又」の用法が、魏書の「又」の用法と、安易に同一視できないのは、むしろ当然と思われる。いや、場違いな感慨で失礼する。

*結論の試み
 以上で、魏志東夷伝記事の「又」の翻訳文の独自解釈に依拠して、「景初二年」解釈を決定的に排除することはできないことが理解できる筈である。世の中は、そんなに甘くないのである。

◯まとめ
 笛木氏には、是非とも、本稿の結尾を、御再考いただきたいのである。氏が、膨大な資料の慎重な審議を重ねて、この解釈に到着したのであれば、このような「どんでん返し」形式を避け、読者が、安心して追従できる、着実な著作として頂きたいものである。

 因みに、「御再考頂きたい」とは、「御意見を変えて頂きたい」の趣旨であり、英語の"I would appreciate if you would kindly reconsider, Your Honor." とほぼ同義(敬語表現)である。事実上、「教育的指導」だが、深意を露骨に示さないのが礼儀というものと思うが、ここは、不躾にも「率直」に書いている。

 某サイト主は、とにかく頑冥で、思い込みに一途に固執し、他人の意見にとんと耳を貸さないので、笛木氏のご理解を願うしかないのである。

◯苦言
 氏が、十分な確認無しに、一サイト主の意見に飛びついたのは、各史料との苦闘に「鞠躬尽瘁」されたためと思える。
 不浄の可能性がある「ジャンク」史料を俎上に載せず、「清浄かつ精選」史料の核心に集中されることをお勧めする。

                              以上

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