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2022年9月26日 (月)

新・私の本棚 古田 武彦 九州王朝の歴史学~「国都方数千里」談義 再訂 2/2

 第四章 新唐書日本伝の史料批判  ミネルヴァ書房 2013年3月刊
私の見立て ★★★☆☆ 当記事範囲 功罪相半ばの卓見 2020/11/09
 改定2021/01/11 再訂 2021/01/12、01/31、 2021/07/22、2022/09/26

*短里制実施例と解釈
 古田氏は、『「方数千里」は、「日本」の領域(面積)を示す幾何学的な矩形、ないしは正方形の表現であり、現在知れている日本列島の地形から判断して、一里四百五十㍍の「普通里」、つまり、古来通用している「里」でなく、魏晋代に通用していた(と提起している)「普通里」の六分の一の「短里」七十五㍍が整合する』と説きました。
 魏晋朝限りだったはずの「短里」が、遙か後世の新唐書に援用されたとの主旨ですが、以下の通り、論拠が整っていないものと見えます。

 なぜ、「倭」継承を嫌った「日本」が、中国魏晋代独特の古制と見なされている「短里」を持ちだしたか、まことに不可解です。漠然とした国界だけで国の形が不確かなのに、「方数千里」を「数千里四方」と解するのも不可解ですが、これを、単に「誇大」と見たのは古典知識に欠けた鴻廬寺掌客の浅慮、短慮と思うのですが、史官は、史実の記録として、公文書記録の通りに書いたのでしょう。
 何しろ、当時、どこにも、現代知られているような地形、道里の見て取れる「地図」は存在しないので、「国界」、つまり、国の形と広がりは、知りようがなかったのです。

 因みに、魏志「烏丸東夷伝」の数カ国記事の「方里」は、いずれも、中原の土地制度の通用しない、また、地形不明な辺境国の国力を表示したものであり、いずれにしろ、それぞれの「国」の正確な領域、形と広がりは
は知られていなかった
のです。
 かといって、領域の知られていそうな比較的近隣の諸国に「方里」を適用した記事は無いので、「方里」の検証は、不可能なのです。
 と言うことで、不可能な検証の論議は無駄なので、「理解不能」を暫定的結論として先に進みます。

 因みに、魏志「東夷伝」の関係記事は、後漢末期から魏明帝景初年間まで、遼東太守として、「小天子」の威光を展開していた公孫氏の「郡志」記事の反映と見えるので、同時代他地域に同様の事例を見出すのは、困難(不可能)なはずです。景初年間、司馬氏の討伐で遼東郡文書は全滅したのですが、いち早く、皇帝命で楽浪、帯方両郡が、平和裏に接収されたので、公孫氏時代、両郡に控えとして収蔵されていた郡公文書が、魏帝のもとに回収できたものと見えます。

*「倭」に対する誤解払拭~余談
 少し離れますが、正史記事とは言え、「倭」が悪い文字と解するのは、東夷蛮人の誤解、と言うか、勝手なこじつけであり、今さら、古代人を教え諭す術はないのですが、それにしても、現代論者各兄姉の通説、風説追従の様(さま)は、安直に過ぎると考えます。

 もともと、無教養な「倭の言い立て」を記録したのでしょうが、後に正史記事を書くに際して、史官は、鴻廬寺掌客の受け答えが不合理、不正確と見えても、訂正はできず、そのまま正史記事にしたと見えます。
 東夷の後裔の素人でも、中国語の古典書では、倭は、めでたい文字と解されていたと知っているので、ここでも、「上覧を経た公式記録文書は(明らかに誤伝でも)訂正できない」という、厳格な正史編纂方針が窺えるのです。むしろ、古典書以来の定則に反する、「反則」となる蕃人の意見を、「蛮人の不見識を示すために」ことさら記したものと見えます。世上好まれている「春秋の筆法」とまで言うものではないでしょうが。
 このように、正史に書かれているからと言って、史官が「正しい」と確認した内容でないことは、あり得るのです。ちゃんと、文脈、前後関係から、真意を読み取るべきです。一度、考えてみていただきたいのです。 

*「方里」解釈への異議
 「方*里」を、「正方形一辺*里」の幾何学図形とする解釈例がありますが、そのような面積数値の使われた由来、根拠が不明です。面積は、辺の自乗で増減して(読者の理解を超え)収拾が付かなくなるのです。その仮説に従うと「方四千里」は、「方四百里」の両辺を十倍していることになるので、面積は一千倍になるのです。
 私見では、「方里」は、国内戸籍/土地台帳情報に基づく「農地面積総計」であり、また、「数千里」は、少なくとも、東夷伝の概数語法の定則から「二、三千里」と見ています。

 基本的に、「五千里」は、一万里に到る千里代の十進範囲を四分割する程度の概数で「五千里」程度と思います。つまり、(「零」)、「二,三千」、「五千」、「七,八千」、「一万」という感じです。現代では見かけない大雑把な概数観ですが、それが時代相応とする合理的な意見に対して、現代人の「素直」な感情的な解釈を適用していては、時代人の真意を知ることはできないでしょう。
 こうした概数表示の初歩的な常識からして、数千里は 二,三千里の意です。その倍に当たる五千里程度を、無造作に数千里とするのは、余りに大まかすぎます。五千里に近ければ、常識的には「五千余里」と書くものでしょう。
 恣意で概数表記解釈を撓めるのは、古代史学界の因習の一つに見えます。

 つまり、各地方の検地担当者が、一戸ずつの農地面積を「頃、畝」で書き留めたものを集計して得た「頃、畝」を、四百五十㍍程度と見られる「普通里」に即して、一里四方の面積である「方里」に換算した統計数字と見えます。

*追記:2022/09/26
 最新の見解として、魏志「東夷伝」の「方里」は、当時の遼東郡太守公孫氏が、後漢、魏の統制が及ばないのを良いことに自立していた時代に、勝手に各国列伝を編纂したものと思われる「独自制度」であり、そのため、中原諸国、諸郡制度と異なる東夷諸国の国力指標として運用していたものであり、帯方郡にその写しが残されていたものが、早期に魏帝の命で帯方郡が接収された際に、新任太守から魏帝に提出されたと見えます。行程御覧を得れば、公文書に綴じ込まれて、以後、訂正できないのです。
 それ故、陳寿が、高句麗、韓、対海、一大の列伝に於いて、魏帝の公文書を参照したものと思われるのです。

 例題は、国(農地)としては、魏志東夷伝の韓国(方四千里)より狭く/弱小であり、高句麗(方二千里)より少々広く/富裕であることになります。もっとも、以上の解釈は「倭人伝」基準ですから、魏晋南朝の文法(書法のこと)を継承したかどうか不確かな唐代文書が、これを正しく継承したかどうか、それが、「新唐書」に正しく継承されたかどうか、やや不安が残ります。

*試算の試み
 領域農地を「方二千五百里」(二千五百平方里)と見れば、一辺五十里、二十五㌔㍍程度の範囲であり、その程度の戸籍整備範囲と見えます。
 「方二千五百里」は、常用単位で百万畝程度であり、一戸あたり五十畝と見ると(憶測です)、二万戸に相当しますが、どの程度の領域がわからないので、それが多いとも少ないとも言えないのです。
 はっきりしているのは、戸数や方里と収穫量や動員可能兵力は、堅固な相関関係があるということだけです。一方、未開地、荒れ地の面積など、何の意味もないのです。

〇倭人伝道里記事への波及
 本記事は、近来、古賀達也氏が提起した『「南至邪馬壹國女王之所 都水行十日陸行一月」を「女王之所都」と解するのは誤解であり、「都云々」は、(「都合云々」、)つまり「すべて水行十日陸行一月」の意と解すべきである』との倭人伝解釈を支持する一件と思われます。なお「都合云々」 は、当ブログの追記。

 倭人伝道里行程論、里程論の長年の論議に於いて、大変意義深い、画期的な提言と思うのですが、余り、反響がないのが残念です。目立たない提言ですが、実は、この提言を認めると行程記事の目的地が、九州島内から出られなくなるのであり、いわば、畿内説に引導を渡す議論なので、黙殺されるのでしょうか。

 因みに、古代史の泰斗、上田正昭師は(今般の「都」の新解釈は抜きで)総日数表示という解釈に対して、「史学に於いて、自身の論議を進めるのに都合がよいと言うだけで肯定的に評価するのは、正しい態度ではない。用例、前例の確保が不可欠である」と苦言を呈されていたように思います。当解釈を加味して、それでも、証拠不十分と仰るかどうか、上田師のご意見をお伺いしたかったところです。

 因みに、このような定則の提言に対して、散発の例外用例を指摘して異議とする向きがありますが、特に、人文科学、歴史学の分野では、いかなる定則にも例外は存在する(例外があるのが、定則の正しい根拠である)というのが古来の常識であり、また、用例解釈は、厳密に考証してから取り上げるべきだということも、手抜きしてはならないと考えるものです。
 むしろ、唐代の常識が、遙かに歴史を遡上する魏晋代に、既に常識であったかどうかの「時代考証」が先行すべきでしょう。

 倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(1)
                                以上

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