新・私の本棚 サイト記事批判 探訪する古代史~『魏志倭人伝』を探訪する(2)1/2
VERY BOOKS 探訪する古代史 「よっしー」 2022/06/29 2022/09/28
『魏志倭人伝』を探訪する(2)
◯はじめに
当サイトは、「よっしー」氏による倭人伝論の開闢で、「俗説」の欠陥を指摘させていただくことにする。要するに、氏が論拠とした「俗説」が、蔓延しているので是正を図ったもので、個人的批判ではない。
*「第一人者」偶像批判
『三国志』研究の第一人者の渡邉義浩氏は、…『魏志倭人伝』は倭国について理念的にしかも好意的に描かれていると述べている。
「第一人者」とは、渡邉氏所属団体のチャンピオンであって、統一戦は聞かない。「三國志」は、中国史史料であり、研究は、本国にとどまらず、欧米に広がっている。夜郎自大。安易な提灯持ちは大概にした方がいい。
*薄葬論是正
例えば、『論語』の一文に…「その墓には)棺はあるが槨(かく)はない」とあるように当時の中国では薄葬が尊重されている。…倭人の条では「その遺体には棺はあるが槨はなく、盛り土をして塚をつくる」と薄葬である…
この部分は雑駁で、「第一人者」の見解ではないと思う。(以下同様)
「論語」の「当時」は、春秋時代であって地方ごとに異なった文化が生きていたのであり、「文化」が「中国」全体で統一されたわけではない。「厚葬」、「薄葬」は、太古以来、王朝によって変遷が激しいと見るべきである。後漢末に権力を握った魏武曹操が、「厚葬」を虚礼として廃した「薄葬」令を発していて、三国の中でも、魏には生きていたが、呉、蜀がどうであったか、「魏志」には書かれていない。
*曹操薄葬令
因みに、曹操が「厚葬」を排除したのは、後漢霊帝没後の全国動乱時、暴漢董卓の長安遷都によって廃都となった洛陽近辺の後漢皇帝陵を自身が発掘して、埋蔵財宝を収集したことから来ている。天下の秘宝を、陵墓に死蔵することを非難したのである。
また、皇帝埋葬時に財宝を埋めても、後世「必ず」暴かれるから、盗掘を遠ざけるよう「薄葬」を公布し陵墓を隠したが、曹操墓盗掘の悪党は、獲物がない腹立ちから、曹操の遺骨をたたき壊したと見える。
正確と見える論議でも、論拠を広く求めると、あやふやなホラになり論議への信頼が失われる。核心の事実確認に、もっと努力を払うべきである。
氏の説く時代背景は、同様に曖昧で混沌としているので、助けにならない。
*曖昧さを離れて
このような時代背景から『魏志倭人伝』を読むと、これまで曖昧と思われたいくつかの記述が納得のいくものとなる。
「これまで曖昧と思われたいくつかの記述」と大風呂敷であるが、提示されているのは、一点にすぎない。
*蔓延する大月氏誤認
『魏志倭人伝』は帯方郡から女王国までの距離を1万2千余里としている理由を、渡邉義浩氏は「朝貢する夷狄が遠方であればあるほど、それを招いた執政者の徳は高い。邪馬台国を招いた執政者の徳を大月氏国のそれと同等以上にするためには、邪馬台国は洛陽から1万7千里の彼方にある必要がある。」という。洛陽から大月氏国までが1万6千3百70里であるからでる(ママ)。また、洛陽から帯方郡までが5千里なので、帯方郡から邪馬台国までは1万2千余里となるわけである。
「大月氏国のそれ(徳か)と同等以上」は、「第一人者」の錯乱か、引用者の錯乱か、ともあれ、錯乱文である。
ことは、万里、万二千里の刻みであるから、蛇足論の百里桁と万七千里は、無意味である。因みに、なぜか、ここは、漢数字に近い合理的な表記である。
と言うものの、ここは、大ぼらの吹きどころと見たか、主語不明であるが、洛陽から「邪馬台国」までの道里が、神がかりで万七千里と規定され、洛陽から帯方郡まで、引用者の神がかりで「五千里」と決め込んで、従って、帯方郡から「邪馬台国」まで、「万二千里」としたという曲芸が語られているが、神がかりでは論義できない。洛陽から帯方郡までの道里は、出所不明である。
笵曄「後漢書」に収録された司馬彪「続漢書」「郡国志」、以下、後漢書「郡国志」には、「樂浪郡 雒陽東北五千里」と書かれているだけで、帯方郡自身は登場せず、前身の帯方縣しか書かれていないから、結局、洛陽から帯方郡までの道里は不明と言うべきである。(公孫氏は、楽浪郡の南方に帯方郡を新設したが、洛陽に何も報告していないのである)
因みに、世評の高い笵曄「後漢書」西域伝によると、「大月氏国」は、「去洛陽萬六千三百七十里」であるから、この点だけは、ご教授の通りであるが、そこには、当然、帯方郡も「倭人」もない。不可解である。
「後漢書」「郡国志」によると、楽浪郡「雒陽東北三千二百六十里」となっている。また、後漢書「東夷伝」によれば、「其大倭王居邪馬臺國。樂浪郡徼,去其國萬二千里」とある。
ここで、「其國」が、其の大倭王、つまり、「倭の大倭王の居処」と言う理解が正しいとして、「素直に」足し算すれば、洛陽から其の国までの道里は、「萬九千里」程度となるが、ちゃんと、数字の意義を確認すると、「洛陽~楽浪」が、街道道里であるのに対して、「去其國萬二千里」は、根拠不明の見立てに過ぎず、足し算すれば答えが出るというのは、余りに脳天気である。
また、後漢書「東夷伝」の記事は、文脈から後漢桓帝/霊帝期のものと見えるので、魏代の大月氏/貴霜国来貢とは、時代が相違する。これを、ただ、東西の極端として天秤に乗せて比較するのも、随分脳天気である。「第一人者」は、笵曄「後漢書」の権威/第一人者でもあるので、このあたりの時代/地域錯誤は、十分ご承知の上での戯れ言かと見える。脳天気と評した由縁である。
ついでながら、皇帝曹叡(明帝)を「執政者」、天子の使い走りとは「時代錯誤」である。史実は、司馬懿は、大将軍といえども、皇帝の走狗、猟犬であり、任務としていた蜀漢が無力化した上に、景初の遼東征伐が終われば、最早猟場はないから、大将軍は無用であり、無用になれば煮られる定めである。この部分は、勿体ぶっているが、後世東夷の蛮人は、同時代の背景を知らずに、結果論ばかりであるから、諸事、根拠不明であり、「第一人者」の錯乱か、引用者の錯乱か、ともあれ、また一つの錯乱文である。
未完
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