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2022年9月 5日 (月)

新・私の本棚 笛木 亮三 「卑弥呼の遣使は景初二年か三年か」(1)補追版

 「その研究史と考察」 季刊 邪馬台国142号 投稿原稿 令和四年八月一日
 私の見立て ★★★★☆ 丁寧な労作     2022/08/21 補追 2022/09/05~06

◯『⑴「魏志倭人伝」の記述』~単独批判の弁
 氏が総括された「研究史」の難点が、劈頭に露呈している。「主張の根拠」を丁寧、正確に明示するのは、氏の美点であり、「主張の根拠」として採用された世上の諸説に、何かと行き届いていない点が見てとれるが、それは、氏が依拠した「倭人伝観」が、大きく傾いた「通説」の視点/視線の齎したものであり、これは、第三者でないと、率直に、つまり、不躾に指摘できないものと思うので、以下、僭越を承知で苦言を呈したものである。決して、個人的な批判ではないので、ご了解いただきたい。

 「卑弥呼の遣使」は、一級史料たる倭人伝に記録されているから、とうの昔から、景初二年」と確定している。それが、出発点である。
 景初三年「説」は、信頼性で劣る雑史料「ジャンク」を根拠としているようであるが、それら雑史料の史料批判/資格審査を残さず歴た上で、ようやく「説」として評価するに足るかどうかを審議できる。事前の審査で好評を得て、審議に対して発言する資格を得ても、「倭人伝」を覆すには、さらに幾山河越えねばならないが、それは、提言者の務めである。

 「研究史」は、笛木氏が創唱、主導したのでなく、これまでの成り行きに氏に責めは帰せられないが、氏が、ほぼ無批判で、「研究史」を総括しようとされたのは勿体ない。

 要するに、「景初三年」説は、言わば土中の萌芽に過ぎず、未熟で、形を成さない異論の双葉になろうか、というものでしかないから、二者択一は、不当である。

 つまり、冒頭の「⑴「魏志倭人伝」の記述」は、論義の方向を誤っている。氏は、論拠として有力と見た史料を列挙されたが、前提が克服されていない。

 いや、そもそも、列挙資料の一端として、考証の原点となるべき「倭人伝」に、原本未確認との根拠なき予断を貼り付けていて、写本の際の誤写発生の多寡についての考証不足とともに、氏にとって重大な学恩のあると推定される、いずれかの諸兄姉に由来する深刻な「偏見」、「曲筆」、「妄説」に追従していると見えて、誠に勿体ない。当ブログ筆者は、素人、それも、完全自由な立場なので、言いたいことを言っているが、社会人が、不自由であることは承知している。

 古来信頼されてきた誠実な著作物である「倭人伝」が「罪人」扱いで、不揃いな証人/容疑者と並べて、お白州/被告席に座らされてはたまらないのである。天下の正義は、どこにあるのか。正義の女神は、目隠しされているのだろうか。

*資格審査/証人審査
 まずは、論拠とするに足る史料は、同時代、中国で史書として記事検証を歴たと思われる「史書」に限定すべきではないだろうか。後記したように、「史記」以来の断代史を総合して、「通史」を編纂するという偉業を成し遂げた「通志」が参照されないのは、不思議である。
 以下、最低限の「判断と根拠」を明示しているが、当ブログ筆者は、別に何の報酬を承けてもいない、言わば、暇人のボランティアであるが、当然、なんでも勉強させて頂くわけではない。今回は、密かに私淑して来た笛木氏の労作であるから、あえて、口を挟んだのである。

 総括すると、「魏志」の原記事を推定するための証拠資料として、全て不適格と判断される。下世話な言い方で言うと、「顔を洗って、出直しなさい」ということである。

⑴「日本書紀」は、中国史書でないので、正史同等の信頼性を有さず、不適格である。
 当該部分は、所定の校正を経た「書紀」本文でなく追補と見える。「書紀」原本で確認しない限り、「書紀」と同様の権威すら認めることができない。但し、「書紀」原本は、現存せず、「書紀」原本を読了した人物は、生存していない。(苦笑)

 氏は示していないが、「書紀」「引用」は、史書で不法な「明帝景初三年」なる字句を放置していて、引用元が、「適切な魏志写本でない」と判断される重大な錯誤のある引用資料の他の部分が正確との主張は、無効である。「不法」と言うのは、叱責どころでない、大罪であるからである。

⑵「翰苑」は、史書でないので、正史同等の信頼性を有さず、不適格である。
 そもそも、提示されているのは、出所不明の断簡、つまり、断片、佚文であり、重ねて不適格である。
 同断間の該当部分は、広範な史料から雑多な引用を連ねた記事であり、僅かな区間に「重大な誤字」が二点確認されている以上、当写本は、適切な校正を怠った「ジャンク」と断定できる。(残る部分の惨憺たる状況は、ここでは論じない)(苦笑)

 通常の史料批判では、別系統写本と比較校勘するものだが、本史料は「版本」が、一切存在せず、「紹介部分以外にも大量に存在する重大な誤写が、残らず温存された原因は不詳」であるが、史料としての評価は明確である。(諸兄姉は、そのような「ジャンク」から、発見を重ねているようであるが、とんでもない迷走てある)(国宝と認められた美術品としての文化財価値は、ここでは論じない)

⑶「太平御覧」は、史書でないので、正史同等の信頼性を有さず、不適格である。
 本質的に、厳密な校正が施された「史書」でなく、緩やかな写本を繰り返した「類書」である。氏も、現行刊本の関係記事の「景初」年に両様があると認めていらっしゃるから、考証の根拠とできないのは自明と思われる。(証明不要)

 素人目にも、「史書」資料として信頼できるのは、南宋初期、紹興年間の編纂と見える鄭樵「通志」と思われる。「景初」記事は、魏志の引用として書いてはいないので、「魏志」の原記事を推定するための証拠資料として、どのように評価するか腹をくくって頂く必要があるが、このような明白な資料候補を無視されるのは、不都合極まりないのではないかと思われる。氏の面目に関わると憶測されるので、ご一考頂きたいものである。

⑷「梁書」は、成立過程に重大な疑問が呈され、札付きの不良「正史」である。不適格である。
 南朝「梁」は、安定した治世の末期に大規模な内乱で、反乱軍に建康を長期包囲され、帝国が崩壊したから、公文書の正確な継承を信頼することができない。南朝は、「北狄」の末裔である隋に滅ぼされ、南朝文書類は撲滅されたと見えるから、公文書の正確な継承を信頼することができない。そもそも、西晋崩壊時、漢魏晋代公文書の多くは散佚したと見え、重ね重ね、梁書「東夷」記事は、信用ならない。

 「梁書」は、天下を統一したと称する唐によって、積極的に南朝の非正統性を証する「正史」として編纂されたものであり、信頼することのできない内容であることは、衆知である。
 ただし、このような「正史」は、堂々たる「フィクション」であり、一部不見識な野次馬が言うような「ウソ」ではない。(野次馬が言う「ウソ」の意味は、理解しがたいので、憶測で反駁する)

⑸「北史」は、粗忽に総括された史書であり、記事の正確さを問うべきではない。不適格である。
 対象とされる北朝諸国は、三国との交渉はあったようであるが、北部の高句麗を除けば、影響力は限定されていて、東南部、嶺東の新羅との交渉は限定され、まして、渡海の果ての「倭」とは、接触がなかったはずである。つまり、「北史」は、信頼できる「倭」伝を持っていないと見るべきである。
 従って、紹介記事は、「魏志」の適確な引用でなく、北史編纂者の作文と推定するしかない。要するに、「魏志」の原記事を推定するための証拠資料として、不適格である。

⑹「通典」⑺「玉海」が紹介されるが、史書でなく不適格である。

*告発不成立
 「倭人伝」の誤謬を告発する証左となるはずの証人/資料は、全員不適格で、排除され、審理は、不成立である。これは、本件に関する最終的な裁断であり、此の際、「無罪」と判定された以上、二度と告発されることはないのが鉄則である。

*史学の常道を怠る「通説」の決め込み~余談
 通説は、基本である史料考証を怠り、憶測によって「倭人伝」を非としたようだが、笛木氏であれば、本稿で論理的裁断を示していただけるものと期待したのであるが、実らなかったようである。

 常識として、正史に異を唱えるには、匹敵する有力史料が不可欠である。司法手続きで言うと、審理の基本は、「推定無罪」であり、この原則を覆すに足ると証される客観的な証拠を示さないと、審理は棄却されるのである。

*「減縮」~取り敢えずの提言~余談
 不確かな「ジャンク」史料は、論義から排除、減縮すべきである。「ジャンク」は、何件積み上げようと「ジャンク」であり、数は力とばかり、素人並の料簡違いで、「ジャンク」をずらずらと提示するが、却って論者の不見識が露呈している。

 以下、「誤記はいつ生じたか」と「ジャンク」を唱え、引き続き、延々と、「ジャンク」に基づく憶測が延々と述べられるが、非科学的な推移である。出発点の選定に謬りがあり、初期進路選択に誤りがあれば、いかに、適確な考証を進めても、進路の成否を問えるものではない。

 端的に言って、記事の「二」が「三」の謬り(ではないか)との「ジャンク」論に、研究者諸兄姉の多大な労力が浪費されたと見えるるのは、勿体ないのである。

*大脱線~余談の余談
 今回のように、「研究史」として抜粋列記されると、強弁するために強調を重ねたこじつけと誤解が表面化するのである。それぞれ、生煮えの一説を、闇鍋に付け足したのに過ぎないのに、決定的、排他的な断言となっているのが、後世から見ると、むしろ、子供染みて見えるのである。いや、素人の「野次馬」発言をお詫びするが、この混沌は、古人の言う「烏鷺の争い」と見え、誰が、「漁父の利」を得ているのか、思い巡らすのである。

 各公的機関の研究者」が、公務の一貫として、そのような「攪乱工作」、「焦土作戦」、「清野の上策」に取り組んでいるとしたら、それは、大変困ったことである。

 いや、またまた脱線して、笛木氏に関係ない方向に踏み込んでしまった。陳謝陳謝。

                               本項完

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