02a. 帶方東南大海 - 最初の読み過ごし ちょっと補筆改題 再補筆
初出:2014/11/03 補筆: 2021/11/07 2022/10/17
*02. 倭人在 - 最初の読み過ごし
「倭人傳」の書き出しを虚心に読む限り、「倭人」の所在は明快です。
「倭人在帶方東南」
帯方郡は、朝鮮半島西北部、後の漢城(ソウル)付近、ないしは、その北方に存在したとおもわれるので、その東南と言えば、現在の九州を指しているのは、明解そのものです。(三世紀に至っても、まだ、漢城付近の土地は乾いていなかったので、石造りの城郭に楼観を設け、郡兵を擁した「帯方郡治」はなかったと見受けます。結構、北にあったと見えます)
*「快刀乱麻」の提案
古代史用語で定着している「日本列島」の中心部、現在本州と呼んでいる島は、帯方郡の東南方向から東北方向にかけて、長々と伸びているので「圏外」ですから、学説として「落第」です。三世紀にも、その程度の地理認識はあったでしょう。ここで、九州島以外の広大な地域を「圏外」/「落第」として却下すれば、以後、これらの地域は、倭人伝の道里記事と照合する必要はないので、女王国の比定に伴う諸考証が不要となり、労力の空費、多大な迷惑が避けられます。「快刀乱麻」、アレキサンドロスの「ゴルディアスの結び目」解決に迫る快挙ではないでしょうか。
と言うことで、「魏志」「倭人傳」が、「倭人」の「國」を九州島のあたりと理解して書かれたことは、まことに明解です。(実際、知られていたのは、對海國「山島」、一大國「山島」とその向こうの「山島」までであり、その向こうの土地がどこまで続いているかなどの正確な知識は、伝わっていなかったのです)
*存在しなかった「倭人」地理記事
韓傳: 韓在帶方之南
倭人傳: 倭人在帶方東南
「韓傳」を見ても、冒頭で、帯方郡を基準とした地理関係を明確にしています。「韓」は、帯方郡の近傍なので、行程道里は書くに及ばなかったのでしょうが、その南の「倭人」の行程道里は、なぜ明記されていなかったのか不可解と言えます。
但し、行程道里の起点であるべき帯方郡郡治の位置は不明であり、曹魏雒陽からの「公式道里」は、正史に明記されていないから、色々議論が絶えないのです。(景初初頭に、帯方郡は、遼東郡の支配を離れ、曹魏皇帝の管轄下に入ったので、新参の東夷である「倭人」に到る行程道里は、その際に、皇帝に申告されていなければならないのです。)
因みに、母体であった楽浪郡は、漢武帝代に創設され、その時点の東都洛陽からの「公式道里」が、笵曄「後漢書」の「郡国志」(司馬彪「続漢書」を後世に採り入れたもの)に記録されていますが、漢武帝が創始した楽浪郡が、創設以来、数世紀に亘って、一切、移動しなかったわけは無く、「公式道里」は、「実際の楽浪郡郡治の位置に関わりなくあくまで一定だった」のです。
そのような公式道里を基準とした楽浪郡から帯方郡への道里は、表明しようがなかったものと見えます。少なくとも、西晋史官たる陳寿には、合理的な表記ができなかったと見えます。
これに対して、後漢後期、三世紀初期に既存の楽浪郡帯方縣が昇格した帯方郡郡治の所在、雒陽からの道里が、「正史に明記されていない」のは、むしろ奇怪です。これには、後漢末期、遼東郡太守であった公孫氏が、洛陽の混乱、衰退につけ込んで、自立していた背景があり、新参の東夷、つまり、倭人の存在を隠したものと知られていましたが、後に、魏代に入って討伐されて、公式文書類が破壊されたので、曹魏洛陽の政府記録は、後漢代以来の混乱を訂正できなかったのです。何しろ、公孫氏の報告を、訂正/補充できるのは公孫氏のみであり、それができない以上、倭人伝の魏代記事は、帯方郡などの下部組織に残された地方記録に頼ったものなのです。
と言うことで、倭人伝の道里行程記事は、普通の解釈が困難となっているのです。
「三国志」の上申を受けた晋朝高官は、まず、新参東夷の所在を知りたがるものであり、更に関心があれば、以降を読み進めると言うことから、史官は編纂に当たって、冒頭数文字に地理情報を凝縮したのです。
以上
*補筆 2014/11/2 追記 2022/10/17 2022/11/05
4月2日時点では、以下の議論の歯切れが悪いので、書き落とましたが、半年たって読み返して、やはり書き留めておこうと決めたのです。
倭人在帶方東南大海之中
ここまで一息に読むとして、「帶方東南大海」をまとまったものと見て、これを「帯方東南の大海」と読んでしまうのは、不正確ではないかと思います。
案ずるに、「帯方東南」とは、倭人の所在に対する形容であって、大海に関する形容ではないのです。いくら古代でも、帯方郡の政庁である帯方郡治の官吏も、西晋の史官たる陳壽も、韓半島の周囲が互いに繋がった大海であるという地理知識はあったと思います。
この書き出し部分は、東洋文庫264「東アジア民族史 1 正史東夷伝」の三国志魏書倭人伝の項では、現代語訳として、次のように丁寧に解きほぐされています。
「倭の人々は、帯方[郡]の東南にあたる大海の中の[島々]に住んでいて」
「普通」に読むと、「東南にあたる大海」と「大海」が東南方向に限定されているように読めます。
現代語訳とするときに付け足した部分が、原意から(大きく)脱線しているのではないかと感じるのです。此の際念押しすると、二千年前の中国人が皇帝を中心とした高位高官の教養人のために、誠意を尽くして書きまとめた文章が、易々と現代人、つまり、遙か後世の東夷によって、すらすら理解できるように書き換えられるはずはないのです。
それ以外に、この現代語訳には、古文の正確な解釈を離れた現代風解釈が、多々織り込まれていて、原文の趣旨、編纂者の深意に添ったものかどうか、かなり疑問があります。(違っているよと言う意味です)
現代人にありがちな誤解ですが、「倭人」を「倭の人々」と読み替えているため、「在」を「住んでいて」と読み替えていますが、これは、誤解を招くものと考えます。「倭の人々」 と言うためには、先だって「倭」がどこの何者か公知で無ければならないのですが、 先立つ資料はなく、だからこそ、ここで「倭人伝」を立てて、宣言する必要があったのです。「東夷伝」の諸伝記事は、各国家ないしは地域社会を語っているものであり、「倭人」伝は、「韓」伝と同列の地域概念の紹介と考えます。
「韓伝」では、「韓」は、馬韓、辰韓などのやや下位の地域概念に分割可能なのに対して、倭人伝では、「倭人」と倭、倭種、倭国、女王国などとの上下関連が明確でないので、構成は若干異なると見られますが、少なくとも、「倭人」を「倭の人々」と書き換えることには、大いに疑問があると見るのです。(友人なら、ダメじゃないか、というところです)
また、やや余計なお節介かも知れませんが、[島々]は中国語にも日本語にも縁の薄い複数形であり、これでは、倭人の住む国土が、まるで、フィリピンかインドネシアのような島嶼国家になってしまいます。言葉の時代観のずれでしょうか。 追記:ここだけ透徹した読みをしているのでしょうか。
むしろ、実際は、
山島は一つだけで在り、對海国も一大国も、飛び石状に存在していた大海の中州に過ぎなかったという解釈もありうるのです。この「ずれ」は、深刻な誤解か見知れないのです。(友人なら、ぼけてんのか、というところです) 追記:ここは、当記事筆者の浅慮のようです。反省。
いや、「大海」を現代日本語の感覚で、Ocean(太平洋)と解しているのも、「誤解」の可能性が高いのです。三世紀当時の言葉で、まずは『「大海」は、内陸の塩水湖であって、寛くて大きい「うみ」ではない』のです。
当時、中国世界で一番有名な「大海」は、班固「漢書」「西域伝」、魚豢「魏略」西戎伝に収録された後漢西域史料(「東京西羌伝」)に書かれていた西域の果ての裏海(カスビ海)です。但し、固有名詞は付いていません。(陳寿の時代、笵曄「後漢書」は未刊のため、陳寿が述べている「東京西羌伝」の実態は不明ですが、魚豢「魏略」西戎伝に大要が収容されていると見られます)
現代語訳は、確かに、現代人にとって読みやすく書かれていますが、それは、本来、長年の議論をもってしても、いろいろな意味に読み取れる原文を特定の解釈に固定している「勝手読み」の表れでもあります。むしろ、わかりやすい現代語訳ほど、現代語感/世界観に毒されていて、大脱線の危険が高いと見るべきです。
倭人伝冒頭部分の解釈の課題は、世間で認知されていないらしく、専門誌である季刊「邪馬台国」103号に掲載された論考には、各筆者の筆に従い、以下の3種の解釈が収録されています。
1. 「倭人は帯方郡の東南、大海の中に在り」
2. 「倭人は帯方郡の東南の大海の中に在り」
3. 「倭人は帯方の東南にあたる大海の中に在り」
2、3は、明らかに「東南」が「大海」の形容となっていますが、1は、東南と大海を直接結びつけない読み方です。とは言え、文の解釈を曖昧にしているだけで、文の意味を解明していないので、その分、世間に、大きな迷惑をかけています。 追記:「現代語訳は、原文の過度な読み解きはすべきで無い」という原則に留めるべきでした。反省。
なお、上に例示した現代語訳は、学界の定説を忠実に踏まえているものであり、本論の趣旨が、これらの文を含む論考について、その内容を論(あげつら)うものではないことは、ご了解頂けるものと思います。
結局、「在」と言う動詞を、本来意味の届いていない後方まで引きずって解釈しているために文章の明解さが失われているのであり、「倭人在帶方東南」で区切り、明解にするべきであるというのが、本論筆者の主張です。
それとも、明解に読み下してしまうと、「倭人」が九州島に限定されてしまうので、「畿内説」の絶滅を防ぐために、あえて、曖昧にしているのでしょうか。
因みに、当記事の読みでは、「倭人」は、大海中の山島に「国邑」を成していることになりますが、これは、中原太古の世界像に従わず、『本来隔壁で保護されているべき集落が、山島では海を隔壁とし城壁を設けていない』という宣言です。但し、戸数数万戸の領域国家は、到底、山島に収まらないので、規定を外れるのですが、郡倭行程外の余傍の国と明記されているのに等しいのです。
以上
補注 2022/10/17
*「大海」の正体~一つの明快解釈案
以上の考察は、その時点での最善の考察であり、特に訂正の要は認めませんが、残念ながら、現代東夷の限界で、現代普通の解釈に偏っているので、以下、別解を述べます。一部、他記事と多少重複しますが、話の勢いでそうなったと理解いただきたい。
*天下を巡る「海」
つまり、「大海」は、現代人が当然と見ることのできる「塩水湖」と決め付ける前に、中國古典の「世界観」に思い至る必要があったのです。つまり、「海」は、塩水に満ちたものと限らず、「天下」の四囲にある異界と見えるのです。
四方の「海」のうち、「東海」は、たまたま、大変早い段階で広大な海水世界と知られているため、それが「うみ」であると「誤解」され、自動的に 現代英語で言えば、Sea (英語)ないしは Ocean (米語)と見てしまいますが、本来の古典的「世界観」は、『「天下」の到達可能な範囲には、南も北も、まずは、蕃夷の支配する異界があって、それを「海」の概念で括っていた』ものとも見えるので、直結、短絡的な決めつけは、控えた方が良いようです。
*新書の教え
因みに、渡邉義浩氏は、「魏志倭人伝の謎を解く(中公新書2164)」で、陳寿が、「魏志」東夷伝序文で展開した世界観が、尚書「禹貢」篇に於いて、中国世界を、天子の支配下にある「九州」とその四周にある蛮夷の済む荒地「四海」と捉えた世界観と明記され、「九州」が「万里の世界」と絵解きされていて、先に述べた「海」の解釈は、当ブログ筆者として、これに従おうと努めたものです。
なお、中島信文氏が、複数の近著で開示された「中国」世界観は、広大、精緻で、大いに学ぶべきですが、多岐に亘る論旨は、本稿の中で端的に要約参照することが困難なため、渡邉氏の手短な論義を利用したものです。ご了解頂きたいものです。
*現代「地図」、「世界観」の放棄
この場の結論として、伝統的な中原文明の「世界観」、「地理観」に厳密に基づいて書かれた「魏志」では、「倭人在帶方東南大海之中」の解釈は、一歩下がって慎重に取り組んだ方が良いようです。つまり、魏志東夷伝の一部である「倭人伝」の示す世界像を「普通に」理解する手段として、現存の世界地図は、一旦、放棄すべきだという事です。
*「倭」の正体~一説提起
取り敢えず、ここで言う「大海」は、東方の異界の一部を成すものであり、「倭人」が、帯方郡の東南、大海中に在るというのは、韓伝で予告されているように、『韓の南は、「大海」に接していて、それが、即ち「倭」である』と解すれば、たちまち明快になるのです。
そのように解すれば、ここでは、「倭人」なる「新参の東夷」は、「倭」即ち「大海」の中で、特に、大海中の山島に在ったものをいうのであり、そのように解すれば、幾つかのあいまいとされていた表現が明快になるのです。
例えば、狗邪韓国に関して書かれている『「其の北岸」は、「倭」と称されている「大海」の北岸』であり、まことに明快です。
*帯方郡官人の限界と特性
そのように精妙な定義付けを報じた世界観は、実は、洛陽の読書人に(限り)通用するものであり、辺境にある帯方郡官人の世界観とは「ずれている」のです。陳寿は、「東夷伝」の核心部/要点では、渾身の努力で、洛陽の世界観と帯方の世界観を精妙に整合させていますが、末節部分では、原文である帯方郡公文書を温存し、素人目にも明らかな食い違いを残しているのです。
*早計の「挙げ句」
いや、景初初頭の魏明帝特命による両郡回収以降、帯方郡が洛陽に直接提出した報告は、既に皇帝に上申され、裁可を得て、洛陽公文書になっていたので、これは、金石文に等しく至上のものであり、一介の史官、いや、後代皇帝、高官を含めて、誰であろうと是正する術はなかったのです。又、かくのごとく確固として継承された公文書を正確に後世に伝えるのが、史官が身命をかけた職業倫理でもあったので、筆を加えることは問題外だったのです。
*渡邉流「史官論」への疑問
先に著書を引用させて頂いた渡邉氏は、テレビ番組上での談話とは言え、「史官は、史実を正確に継承する動機付けを有しなかった」という趣旨の断言/妄言を公開していて、さながら、タコ墨の如く、「ご自身の史学者としての厳正さを幻像と言う」ように目くらましして「粗忽な画像」とされたため、大いに不信感を漂わせているのです。
なにしろ、視聴者にとって、「画面に見えるのは、氏の姿」なので、素人は、ついつい、一流史学者の「自嘲的な自画像」と見てしまいがちなのです。
とは言え、先に挙げた尚書「禹貢」篇解釈は、確たる史料の端的な解釈なので、氏の恣意はこめられていないものとして、ここに端的に依拠したものです。
以上
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