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2022年10月

2022年10月21日 (金)

16. 年已長大 - 読み過ごされた生涯 補追

                       2014/05/06 追記 2020/05/17 2022/10/20
「年已長大。無夫婿」
 ここまでに記した小論を復唱すると、卑彌呼は、(数えで)十五、六歳で即位し、魏使来訪の時は、最近十八歳を過ぎた(年已長大:すでに成人となった)と云うことになります。後の「壹与」は、十三歳の「宗女」と言うことは、巫女であっても、まだ、世人の尊敬を勝ちとるに到っていなかったかも知れませんが、間近に先例があったので、うまく行くに違いないと思わせたのでしょう。その先のことは、何も文書記録がないので、何もわからないのです。

*謎のご託宣
 下記論説によれば、中国史学界では、「倭人傳」から「わずか十五、六歳の少女卑弥呼を王として」と読み取っていると思われますが、これは、中文としての文意が明解だからだと思われます。

 「倭國と東アジア」 沈 仁安 六興出版 1990年2月発行
 ただし、124ページの以下の記事には驚きました。
 『しかし、長い間、中日両国の史学界では、次のような見方が行われている。即ち、わずか十五、六歳の少女卑弥呼を王として「共立」したのは、「古代の母権社会における女人政治の典型」あるいは「原始的民主制」であり、卑弥呼はシャーマンと開明の「二つの顔」を持つ原始的巫女王であったと思われている。これは、必ずしも倭人伝の原意を正確に理解しているとは言えないであろう。

 急遽、引用文献として挙げられている石母田正氏の「日本の古代国家」(岩波書店 日本歴史叢書 1971年刊)を購入し、内容を見ましたが、「わずか十五、六歳の少女卑弥呼を王として」と書かれている箇所は、ついに発見できませんでした。
 また、見聞の及ぶ限り、日本の史学界で長年行われている見方とは言えないようです。

 むしろ、日本国内の史学界では、卑彌呼は、「壮年で倭國王に即位し、国難の際には自ら戦陣に立つ、強いリーダーシップを持っていた」ものと見ているように思いますが、これは、文献史料に基づく妥当な推定とは思えないのです。
 諸賢には、講談や浪曲にもなりそうな「英雄譚」が、幼児期や少年期の原体験として刷り込まれているような気がします。

 その一つは、萩民謡「男なら」に歌われた「神功皇后さんの雄々しい姿が鑑」となった卑彌呼像ではないかと思われます。あるいは、女として母として、徳川政権に果敢に挑んだ「淀殿」(茶)の姿でしょうか。世間受けすることから、若々しい「卑弥呼」が躍動する物語が少なくないようですが、「倭人伝」にも後漢書「東夷伝」にも、そのような講談ネタは、一切書かれていないのです。

*取り敢えずの解釈
 そうした「通説」を脇に置き、原文から解釈を進め、以上の読み解きに従って現代語風に書き連ねると、以下のようになります。

 (この年頭で)已に成人(「数え」で十八歳)となった(という)。配偶者はいない
 因みに、当時の支配者氏族は、婚姻関係による結びつきを重視したと思われるので、成人となるまで未婚であることは、ないように見えます。但し、当ブログ筆者は、「季女不婚」、つまり、姉妹の中の選ばれた一人は、家付き娘として、嫁入りも婿取りもせず、生涯、氏族の長たる「家」の祭祀を守る「巫女」(ふじょ)を務めたという見方をしているので、むしろ、配偶者がいないのは、当然とみていますが、史官は、中原では、そのような「文化」は、喪われていると見てとって念押ししたと見えます。

 追記 2020/05/17
 丁寧に説明すると、後代資料である范曄「後漢書」が、「遅くとも霊帝代に、倭で大乱が起こり、それを収拾するために、当時成人であった卑弥呼を共立したと想定し、卑弥呼の女王時代は後漢代であった」と語っていて、後漢書「東夷列伝」で「倭」条を構成しているため、共立は、遙か以前の後漢霊帝代あたりになって、曹魏景初年代には、相当の年齢(老齢)となっていて、この「創作」が曹魏代に先立つため、本来先行して書かれていて、笵曄「後漢書」に優先すべき「倭人伝」の解釈が、大きく撓んで、ここに書いたような「若年即位」の解釈は、はなから棄てられています。因みに、後漢霊帝代から献帝に至る時代は、後漢自体が不安定な時代であり、また、韓国も、動乱の時代であった上に、「東域都督」と言うべき遼東公孫氏が自立して、洛陽に東夷、特に、韓、倭について、一切報告をしなくなっていたので、なぜ、笵曄がそのような時代の東夷事情を知ったのか不思議です。後漢献帝期に創設された帯方郡を知らないままに、「倭」の「大乱」や女王共立を知り得たのかという謎です。

 慎重に考えれば、笵曄「後漢書」東夷列伝倭条に対して無批判に追従するのは、曹魏公式記録をもとに同時代史書として書かれた倭人伝」の確固たる記事の解釈を、百五十年後の後代資料「後漢書」のあやふやな記事によって、安易に改竄する「邪道」(時代表現では、「真っ直ぐ」を言う「従」でなく、斜めを向いているという事です)であり、再考の必要がある(棄てなさいと言うこと )ように感じます。

 また、卑弥呼の壮年即位、時代を越えた老境に到る君臨は、「倭人伝」に書かれている人物像ではなく、国内史料などから編み出された古代国家君主像に由来していて、これまた、慎重に考えれば、倭人伝」の解釈を、数世紀後の別系統の国内伝承史料の解釈の「思い込み」に沿って糊塗するものであり、根拠の無い風説の類いなので、とことん再考の必要があるように感じます。

 どちらの場合も、「倭人伝」の記事を離れた「空想」業であり、当然、深意を読み過ごしているものと思われるのです。

 当記事だけでは、「長大論」を言い尽くせないので、一連の「関連記事」詳しく述べていますが、当ブログで、このように、わざわざ「定説」に異議を言い立てるのは、それなりに根拠があってのことと理解いただきたいのです。
以上

 2015年5月16日 補訂

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2022年10月17日 (月)

14a. 共立一女子 - 読み過ごされた女王の出自 増補 再掲

                       2015/05/16  2022/10/17
 「乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼」

 魏志倭人傳で、卑弥呼を後継した壹与は、卑彌呼の宗女、すなわち、親族として紹介されていますが、卑彌呼自身にはそのような係累の記事はなく、単に「一女子」と紹介されているように見えます。
 卑彌呼は、普通に考えるように、「一女子」であり、出自不明の一女性だったのでしょうか

*「女子」の由来
 後漢魏晋時代の「女子」の語義を知るすべとして、南朝劉宋代にまとめられた逸話集「世說新語」に載せられている後漢末の蔡邕に関する「黄絹幼婦外孫虀臼」の逸話があります。
 後漢代の蔡邕が石碑に彫り残した謎かけを、一世代後の曹操が「絶妙好辭」と案じるという設定です。

 この謎は、お題の八文字「黄絹幼婦外孫虀臼」が、それぞれ二文字ごとに一文字の漢字を導くというものです。
 本稿で関係するのは、七、八文字目なので、それ以外の絵解きは割愛しますが、ネット検索すれば、容易に全体を読むことができます。

 さて、ここで「外孫」と唱えていますが、これは、「女子」、つまり、「女」(むすめ)が嫁いでできた子(そとまご)のことです。
 謎解きでは、「女子」を横につなげて「好」の字となると言うことです。
 この故事は、当時の教養ある人には、「女子」に「外孫」の語義ありとの了解が成り立っていたことをしめすもののようです。

 陳壽の書いた記事を、このような語義に従って読むと、卑彌呼は、男王の外孫であり、また、「女子」と言う形容により、せいぜい17,8歳の少女であったとの読みができます。

 男王の孫であり、かつ、嫁ぎ先の有力者の娘であるということは、広く女王として尊重されるにふさわしい根拠であり、又、兄弟姉妹のある中で、あえて、俗縁を離れて鬼神に事えることになっていたように思えるのです。
 このように、「女子」の一語で、卑弥呼の年齢と係累を書き残したのは、陳壽の渾身の寸鉄表現と考えることもできます。

 ちなみに、先ほど無造作に使った「少女」と言う形容は、蔡邕に従うと「幼婦」、つまり高い身分の幼女であり、蔡邕に従って読み訓(よみとき)すると、少女ですが、文字を前後入れ替えて、女少となり、すなわち「妙」(当時の語義では「優れている」という意味です。決して、女が少ないという意味などではありません。念のため)です。
 従って、蔡邕を典拠とすると、「少女」という形容は、15歳以上と思われる「女子」に対して使うには、不適切だとなりますが、ここでは、現代用語として使用するものです。
 こうした言葉の使い分けは、当時の人々には自明だったのでしょうが、遙か後世、かつ、異国、東夷のわれわれの目から見ると、判じがたいものがあるのです。

*「卑弥呼」のこと (廃線)
 さて、ここで、女王の「名」とされている「卑彌呼」を見直してみます。
 憶測の部類ですが、この名前は、倭國の言葉遣いでは「ひめこ」(媛子)と読むのではないかと思われます。倭國の言葉の意味は、「娘の子」であり、(王の)娘が嫁ぎ先で産んだ子供という意味と見ます。先ほど述べた、女子、すなわち外孫の中国的な読み訓と見事に符合しています。また一つの寸鉄表現です。
 おそらく、陳壽が、原資料に書かれていたであろう卑彌呼の出自を僅かな字数にはめ込んだものであり、史官として、見事な仕事ぶりと感嘆するのです。
 才人、文章家の評価が高い笵曄と比較して、陳壽は凡庸と見られているように思われますが、この一件が、以上の故事を踏まえて構成されているとすれば、陳壽の機知は、燦然たるものがあるようです。

 以上の読み解きに従って、現代語で書き連ねると、以下のようになります。

 そこで、男王の外孫である少女(15歳程度の未成年の女子)(男王家と嫁ぎ先の両家の)共同で立てて王とした。王の名は、卑彌呼(媛子 ひめこ)とした。

追記:取り下げのこと
 以上の筋書きは、現在の意見では、否定的な方向に大きく傾いています。
 つまり、「倭人伝」は、三世紀に中国人が書いた報告書を、程なく正史に収録したものであり、従って、「倭人伝」の考察に於いて、後世日本史料は、まずは、排除すべきだという意見に傾いているのです。ほぼ、撤回の弁ですが、あえて、削除していません。

*「卑字」の誹りの誤謬
 当時、倭人に漢字の知識が不足していたので、「卑弥呼」なる漢字(卑字)を押しつけられたと思い勝ちですが、支配層は、必要もあって、中国語を学んでいたものと思われるので、十分な教養のもとに、これらの文字を選んだ可能性も無視できないように思えます。どのみち、蛮夷の「王」は、本来の「王」では無く、蛮夷を懐柔するための「虚飾」ですから、何も、頭から、被害者意識に囚われる必要は無いのです。
 
 後年ですが、蕃夷を「蛮夷」などと呼ぶと、後日、漢語を解するようになった夷人から、差別表現だと責められることになったため、鴻臚寺は、接待部門鴻臚寺「掌客」のように、夷人を「客」と呼ぶようにしたのです。と言って、別に蛮夷を尊重したわけでは無く、単なる、外交儀礼だったのですが、それによって、無用の摩擦は避けたものなのでしょう。

*「臺」蔑称説の台頭
 因みに、著名な古典である「春秋左氏伝」によると、「臺」は、凡そ「人」として最下級の格付けだそうですが、「定説」では、この極めつけの悪字が、倭人の女王の居処名に使用されているとの説が根強いのです。陳寿は、当然、左氏伝を、史書編纂の典拠として熟知していて、少なくとも座右の書としていたはずですから、まさか、自身でそのような蔑称を採用するはずが無いと思われます。いや、陳寿当人に言いつけたら、「邪馬臺国」など書いていないと憤慨されるでしょうが。

 いや、「倭人伝」に同時代用語として「臺」は採用されているので、蕃夷の国名の命名は、また別儀としても、蔑称、尊称混在を否定するに足る論拠と思えないし、陳寿が命名した国名というわけでもないのですが、「邪馬臺国」説に対して、提示されたことの見えない、かなり否定的な余談でした。
 もっとも、この「臺」の由来は、「台」には全く関係無いのですが、「臺」と「壹」の混同は、字の「見かけ」に依存しているので、たまには、字の「意味」を論じたいと思っただけです。

*「卑」という「貴字」
 現に、漢字学の権威である白川勝師の字書によれば、「卑」の文字は、「天の恵み」、端的に言うと「雨水」を受けて人々に施す「柄杓」の「象形」から発した文字であり、「上方から降り注ぐ恵みを、身を低くして受ける」ことから、天の「卑」(しもべ)として仕える意味が生じたように見えます。
 そのように調べると、「弥」「呼」の二文字にも、少なくとも、特に貶(おとし) める意味は課せられていないように見えます。

*「誹(そし)り屋」稼業横行
 古代史分野では、「倭」のように光輝ある由来の文字でも、何とかケチを付けて貶(おとし)める習慣が流行っていて、初学者は、そのような「刈り込み」で、古代史に関する史眼を形成して、言うなら、目に「ウロコ」をはめられて、冷静な考証が困難となっているようですが、当ブログ筆者は、流行に動じないし、先師に阿(おもね)る必要も無いので、率直に、気づいたことを述べているのです。

*名乗りの話
 それにしても、自分で書いておきながら、無名のものが、共立の際に「卑弥呼」と名付けられたとの思いつきは、軽率な誤解であったと痛感しています。(言うまでもありませんが、「無名」とは、語るに足る「名」がないという事であり、漱石の吾輩のように「親から名が付けられていない」と言う意味ではありません)
 古代に於いても、実名は実父にしか命名できない、言うならば神聖極まりないものであり、その子は、その実名で祖先の霊と結ばれているので、改名などできないと言う、重大な取り決めを忘れていたもので、失言です。

*「実名」の話
 因みに、古代に於いて、実名を世間に曝すことを避けるために、字(あざな)などの「通称」を常用することは、むしろありふれていましたし、字すら避けて、官位、職務などで呼ぶことも、又ありふれていましたが、国書に記すのは、あくまで実名であり、天子だけは、臣下を実名で呼び捨てることができたのです。
 して見ると、親魏倭王たる卑弥呼は、国書の署名に於いて、魏皇帝に対して実名を名乗ったのであり、通称や職名などもっての外だったとみるべきです。

*当て外れの名付け
 それにしても、「卑弥呼」の名を、当時影も形もなかったと見える、恐らく没交渉の、あるいは、世紀の時を隔てた別の「国家」の言葉、習慣に沿って解釈し直すというのは、途方も無い見当違いとなる可能性を滔々と秘めていますが、世上、そうした見当違い、筋違いの当て込みが、圧倒的に数多く徘徊しているように見えるのです。当ブログの「倭人伝」論義で、後世国内史量を避けるのは、本来の論義の妨げになるからです。他意はありません。

以上

02a. 帶方東南大海 - 最初の読み過ごし ちょっと補筆改題 再補筆

                      初出:2014/11/03  補筆: 2021/11/07 2022/10/17

*02.  倭人在 -  最初の読み過ごし
 「倭人傳」の書き出しを虚心に読む限り、「倭人」の所在は明快です。

「倭人在帶方東南」
 帯方郡は、朝鮮半島中央部西北部、後の漢城(ソウル)付近、ないしは、その北方に存在したとおもわれるので、その東南と言えば、現在の九州を指しているのは、明解そのものです。(三世紀に至っても、まだ、漢城付近の土地は乾いていなかったので、石造りの城郭に楼観を設け、郡兵を擁した「帯方郡治」はなかったと見受けます。結構、北にあったと見えます)
 陳寿「三国志」「魏志」に示された古代の世界観で言うと、南部の「韓」と総称される地域が、黄海対岸の戦国齊の領域、特に、山東半島東莱から見て、海中に山島が浮かんでいるように見えたので、齊、そして、齊を滅ぼした秦始皇帝から見ると、ここが「東夷」と見えていた可能性があります。
 その地域は、後に、後漢末献帝の時代には、遼東郡公孫氏の支配下に置かれましたが、あくまで、「韓」であって、漢武帝が滅ぼした「朝鮮」の領域とは見なされていないので、武帝が置いた四郡の一部が、この領域に置かれたという可能性は稀少です。元に、公孫氏は、武帝が置いた楽浪郡を支配下に置いた際、それまで、荒地として放置されていた南東部を特に「帯方郡」として間接的に支配することにしたのです。
 もし、武帝が、漢制の郡を置いたのであれば、郡太守の居城である郡治に、所定の郡兵を置き、かつ、支配下の領域には、戸籍、地籍を確立し、かつ、郡内に街道を設けたわけですから、逝去を経たとは言え「荒地」とは言えないものです。
 さて、ここで問題になるのが、半島南東部「嶺東」と呼ばれる地域の扱いですが、ここは、帯方郡との間に小白山地が東西に走っていて、合って、交通が不便であり、この小白山地は、西部では、南北に位置して、黄海沿岸部との交通が不便なので、合わせて、「嶺東」の発展を妨げていたのです。
 先立つ「韓伝」で、韓は東西を「海(うみ)」に限られていることは明記しましたが、陳寿は、その南は「倭」と接すると、未解決のままにしています。と言うことで、読者が期待する中、「倭人伝」冒頭の「倭人在帯方東南」との一言で、倭人の所在を「韓」のさらに南方、山島の継続として描いたのです。ただし、地続きという解釈は、否定されています。

*「快刀乱麻」の提案
 古代史用語で定着している「日本列島」の中心部、現在本州と呼んでいる島は、帯方郡の東南方向から東北方向にかけて、長々と伸びているので「圏外」ですから、学説として「落第」です。三世紀にも、その程度の地理認識はあったでしょう。
 ここで、九州島以外の広大な地域を「圏外」/「落第」として却下すれば、以後、これらの地域は、倭人伝の道里記事と照合する必要はないので、女王国の比定に伴う諸考証が不要となり、労力の空費、多大な迷惑が避けられます。「快刀乱麻」、アレキサンドロスの「ゴルディアスの結び目」解決に迫る快挙ではないでしょうか。

 と言うことで、「魏志」「倭人傳」が、「倭人」の「國邑」を、現代感覚で言う「九州島」のあたりと理解して書かれたことは、まことに明解です。ただし、知られていたのは、大海中の中之島(州島)の島伝いの行程/渡海であり、對海國、一大國の向こうの「州島」がどこまで続いているかなどの正確な知識は、伝わっていなかったので、後代の感覚で「九州島」を思い描くのは。誤解の始まりと見えます。

*存在しなかった「倭人」地理記事
  韓傳: 韓在帶方之南
 倭人傳: 倭人在帶方東南

 「韓傳」を見ても、冒頭で、帯方郡を基準とした地理関係を明確にしています。「韓」は、帯方郡の近傍なので、行程道里は書くに及ばなかったのでしょうが、その南の「倭人」の行程道里は、なぜ明記されていなかったのか不可解と言えます。
 但し、行程道里の起点であるべき帯方郡郡治の位置は不明であり、曹魏雒陽からの「公式道里」は、正史に明記されていないから、色々議論が絶えないのです。(景初初頭に、帯方郡は、遼東郡の支配を離れ、曹魏皇帝の管轄下に入ったので、新参の東夷である「倭人」に到る行程道里は、その際に、皇帝に申告されていなければならないのです。)

 因みに、母体であった楽浪郡は、漢武帝代に創設され、その時点の東都洛陽からの「公式道里」が、笵曄「後漢書」の「郡国志」(司馬彪「続漢書」を後世に採り入れたもの)に記録されていますが、漢武帝が創始した楽浪郡が、創設以来、数世紀に亘って、一切、移動しなかったわけは無く、「公式道里」は、「実際の楽浪郡郡治の位置に関わりなくあくまで一定だった」のです。
 そのような公式道里を基準とした楽浪郡から帯方郡への道里は、表明しようがなかったものと見えます。少なくとも、西晋史官たる陳寿には、合理的な表記ができなかったと見えます。

 これに対して、後漢後期、三世紀初期に既存の楽浪郡帯方縣が昇格した帯方郡郡治の所在、雒陽からの道里が、「正史に明記されていない」のは、むしろ奇怪です。これには、後漢末期、遼東郡太守であった公孫氏が、洛陽の混乱、衰退につけ込んで、自立していた背景があり、新参の東夷、つまり、倭人の存在を隠したものと知られていましたが、後に、魏代に入って討伐されて、公式文書類が破壊されたので、曹魏洛陽の政府記録は、後漢代以来の混乱を訂正できなかったのです。何しろ、公孫氏の報告を、訂正/補充できるのは公孫氏のみであり、それができない以上、倭人伝の魏代記事は、帯方郡などの下部組織に残された地方記録に頼ったものなのです。
 と言うことで、倭人伝の道里行程記事は、普通の解釈が困難となっているのです。

 「三国志」の上申を受けた晋朝高官は、まず、新参東夷の所在を知りたがるものであり、更に関心があれば、以降を読み進めると言うことから、史官は編纂に当たって、冒頭数文字に地理情報を凝縮したのです。

以上

*補筆                  2014/11/2  追記 2022/10/17 2022/11/05
 4月2日時点では、以下の議論の歯切れが悪いので、書き落とましたが、半年たって読み返して、やはり書き留めておこうと決めたのです。
 倭人在帶方東南大海之中
 ここまで一息に読むとして、「帶方東南大海」をまとまったものと見て、これを「帯方東南の大海」と読んでしまうのは、不正確ではないかと思います。
 案ずるに、「帯方東南」とは、倭人の所在に対する形容であって、大海に関する形容ではないのです。いくら古代でも、帯方郡の政庁である帯方郡治の官吏も、西晋の史官たる陳壽も、韓半島の周囲が互いに繋がった大海であるという地理知識はあったと思います。

 この書き出し部分は、東洋文庫264「東アジア民族史 1 正史東夷伝」の三国志魏書倭人伝の項では、現代語訳として、次のように丁寧に解きほぐされています。
 「倭の人々は、帯方[郡]の東南にあたる大海の中の[島々]に住んでいて」
 「普通」に読むと、「東南にあたる大海」と「大海」が東南方向に限定されているように読めます。

 現代語訳とするときに付け足した部分が、原意から(大きく)脱線しているのではないかと感じるのです。此の際念押しすると、二千年前の中国人が皇帝を中心とした高位高官の教養人のために、誠意を尽くして書きまとめた文章が、易々と現代人、つまり、遙か後世の東夷によって、すらすら理解できるように書き換えられるはずはないのです。

 それ以外に、この現代語訳には、古文の正確な解釈を離れた現代風解釈が、多々織り込まれていて、原文の趣旨、編纂者の深意に添ったものかどうか、かなり疑問があります。(違っているよと言う意味です)
 現代人にありがちな誤解ですが、「倭人」を「倭の人々」と読み替えているため、「在」を「住んでいて」と読み替えていますが、これは、誤解を招くものと考えます。「倭の人々」 と言うためには、先だって「倭」がどこの何者か公知で無ければならないのですが、 先立つ資料はなく、だからこそ、ここで「倭人伝」を立てて、宣言する必要があったのです。「東夷伝」の諸伝記事は、各国家ないしは地域社会を語っているものであり、「倭人」伝は、「韓」伝と同列の地域概念の紹介と考えます。

 「韓伝」では、「韓」は、馬韓、辰韓などのやや下位の地域概念に分割可能なのに対して、倭人伝では、「倭人」と倭、倭種、倭国、女王国などとの上下関連が明確でないので、構成は若干異なると見られますが、少なくとも、「倭人」を「倭の人々」と書き換えることには、大いに疑問があると見るのです。(友人なら、ダメじゃないか、というところです)

 また、やや余計なお節介かも知れませんが、[島々]は中国語にも日本語にも縁の薄い複数形であり、これでは、倭人の住む国土が、まるで、フィリピンかインドネシアのような島嶼国家になってしまいます。言葉の時代観のずれでしょうか。 追記:ここだけ透徹した読みをしているのでしょうか。
 むしろ、実際は、
山島は一つだけで在り、對海国も一大国も、飛び石状に存在していた大海の中州に過ぎなかったという解釈もありうるのです。この「ずれ」は、深刻な誤解か見知れないのです。(友人なら、ぼけてんのか、というところです) 追記:ここは、当記事筆者の浅慮のようです。反省。

 いや、「大海」を現代日本語の感覚で、Ocean(太平洋)と解しているのも、「誤解」の可能性が高いのです。三世紀当時の言葉で、まずは『「大海」は、内陸の塩水湖であって、寛くて大きい「うみ」ではない』のです。
 当時、中国世界で一番有名な「大海」は、班固「漢書」「西域伝」、魚豢「魏略」西戎伝に収録された後漢西域史料(「東京西羌伝」)に書かれていた西域の果ての裏海(カスビ海)です。但し、固有名詞は付いていません。(陳寿の時代、笵曄「後漢書」は未刊のため、陳寿が述べている「東京西羌伝」の実態は不明ですが、魚豢「魏略」西戎伝に大要が収容されていると見られます)

 現代語訳は、確かに、現代人にとって読みやすく書かれていますが、それは、本来、長年の議論をもってしても、いろいろな意味に読み取れる原文を特定の解釈に固定している「勝手読み」の表れでもあります。むしろ、わかりやすい現代語訳ほど、現代語感/世界観に毒されていて、大脱線の危険が高いと見るべきです。

 倭人伝冒頭部分の解釈の課題は、世間で認知されていないらしく、専門誌である季刊「邪馬台国」103号に掲載された論考には、各筆者の筆に従い、以下の3種の解釈が収録されています。
 1. 「倭人は帯方郡の東南、大海の中に在り」
 2. 「倭人は帯方郡の東南の大海の中に在り」
 3. 「倭人は帯方の東南にあたる大海の中に在り」
 2、3は、明らかに「東南」が「大海」の形容となっていますが、1は、東南と大海を直接結びつけない読み方です。とは言え、文の解釈を曖昧にしているだけで、文の意味を解明していないので、その分、世間に、大きな迷惑をかけています。 追記:「現代語訳は、原文の過度な読み解きはすべきで無い」という原則に留めるべきでした。反省。
 なお、上に例示した現代語訳は、学界の定説を忠実に踏まえているものであり、本論の趣旨が、これらの文を含む論考について、その内容を論(あげつら)うものではないことは、ご了解頂けるものと思います。

 結局、「在」と言う動詞を、本来意味の届いていない後方まで引きずって解釈しているために文章の明解さが失われているのであり、「倭人在帶方東南」で区切り、明解にするべきであるというのが、本論筆者の主張です。

 それとも、明解に読み下してしまうと、「倭人」が九州島に限定されてしまうので、「畿内説」の絶滅を防ぐために、あえて、曖昧にしているのでしょうか。

 因みに、当記事の読みでは、「倭人」は、大海中の山島に「国邑」を成していることになりますが、これは、中原太古の世界像に従わず本来隔壁で保護されているべき集落が、山島では海を隔壁とし城壁を設けていない』という宣言です。但し、戸数数万戸の領域国家は、到底、山島に収まらないので、規定を外れるのですが、郡倭行程外の余傍の国と明記されているのに等しいのです。

以上

補注 2022/10/17
*「大海」の正体~一つの明快解釈案
 以上の考察は、その時点での最善の考察であり、特に訂正の要は認めませんが、残念ながら、現代東夷の限界で、現代普通の解釈に偏っているので、以下、別解を述べます。一部、他記事と多少重複しますが、話の勢いでそうなったと理解いただきたい。

*天下を巡る「海」
 つまり、「大海」は、現代人が当然と見ることのできる「塩水湖」と決め付ける前に、中國古典の「世界観」に思い至る必要があったのです。つまり、「海」は、塩水に満ちたものと限らず、「天下」の四囲にある異界と見えるのです。

 四方の「海」のうち、東海」は、たまたま、大変早い段階で広大な海水世界と知られているため、それが「うみ」であると「誤解」され自動的に 現代英語で言えば、Sea (英語)ないしは Ocean (米語)と見てしまいますが、本来の古典的「世界観」は、『天下」の到達可能な範囲には、南も北も、まずは、蕃夷の支配する異界があって、それを「海」の概念で括っていた』ものとも見えるので、直結、短絡的な決めつけは、控えた方が良いようです。

*新書の教え
 因みに、渡邉義浩氏は、「魏志倭人伝の謎を解く(中公新書2164)」で、陳寿が、「魏志」東夷伝序文で展開した世界観が、尚書「禹貢」篇に於いて、中国世界を、天子の支配下にある「九州」とその四周にある蛮夷の済む荒地「四海」と捉えた世界観と明記され、「九州」が「万里の世界」と絵解きされていて、先に述べた「海」の解釈は、当ブログ筆者として、これに従おうと努めたものです。
 なお、中島信文氏が、複数の近著で開示された「中国」世界観は、広大、精緻で、大いに学ぶべきですが、多岐に亘る論旨は、本稿の中で端的に要約参照することが困難なため、渡邉氏の手短な論義を利用したものです。ご了解頂きたいものです。

*現代「地図」、「世界観」の放棄
 この場の結論として、伝統的な中原文明の「世界観」、「地理観」に厳密に基づいて書かれた「魏志」では、「倭人在帶方東南大海之中」の解釈は、一歩下がって慎重に取り組んだ方が良いようです。つまり、魏志東夷伝の一部である「倭人伝」の示す世界像を「普通に」理解する手段として、現存の世界地図は、一旦、放棄すべきだという事です。

*「倭」の正体~一説提起
 取り敢えず、ここで言う「大海」は、東方の異界の一部を成すものであり、「倭人」が、帯方郡の東南、大海中に在るというのは、韓伝で予告されているように、韓の南は、「大海」に接していて、それが、即ち「倭」である』と解すれば、たちまち明快になるのです。
 そのように解すれば、ここでは、「倭人」なる「新参の東夷」は、「倭」即ち「大海」の中で、特に、大海中の山島に在ったものをいうのであり、そのように解すれば、幾つかのあいまいとされていた表現が明快になるのです。

 例えば、狗邪韓国に関して書かれている「其の北岸」は、「倭」と称されている「大海」の北岸』であり、まことに明快です。

*帯方郡官人の限界と特性
 そのように精妙な定義付けを報じた世界観は、実は、洛陽の読書人に(限り)通用するものであり、辺境にある帯方郡官人の世界観とは「ずれている」のです。陳寿は、「東夷伝」の核心部/要点では、渾身の努力で、洛陽の世界観と帯方の世界観を精妙に整合させていますが、末節部分では、原文である帯方郡公文書を温存し、素人目にも明らかな食い違いを残しているのです。

*早計の「挙げ句」
 いや、景初初頭の魏明帝特命による両郡回収以降、帯方郡が洛陽に直接提出した報告は、既に皇帝に上申され、裁可を得て、洛陽公文書になっていたので、これは、金石文に等しく至上のものであり、一介の史官、いや、後代皇帝、高官を含めて、誰であろうと是正する術はなかったのです。又、かくのごとく確固として継承された公文書を正確に後世に伝えるのが、史官が身命をかけた職業倫理でもあったので、筆を加えることは問題外だったのです。

*渡邉流「史官論」への疑問
 先に著書を引用させて頂いた渡邉氏は、テレビ番組上での談話とは言え、「史官は、史実を正確に継承する動機付けを有しなかった」という趣旨の断言/妄言を公開していて、さながら、タコ墨の如く、「ご自身の史学者としての厳正さを幻像と言う」ように目くらましして「粗忽な画像」とされたため大いに不信感を漂わせているのです。
 なにしろ、視聴者にとって、「画面に見えるのは、氏の姿」なので、素人は、ついつい、一流史学者の「自嘲的な自画像」と見てしまいがちなのです。

 とは言え、先に挙げた尚書「禹貢」篇解釈は、確たる史料の端的な解釈なので、氏の恣意はこめられていないものとして、ここに端的に依拠したものです。

以上

2022年10月15日 (土)

新・私の本棚 番外 諸説あり! 「女王・卑弥呼の正体」 1/4 再掲

 BS-TBS ▽邪馬台国2時間スペシャル!  2017/06/10 2017/12/30
 私の見立て★☆☆☆☆☆ 参考のみ                  2017/12/25 2019/04/21 2022/10/15

 今回、BS-TBSの卑弥呼番組(6/10放送分)を再見して、話の筋が躓き続きで足腰がガタガタです。諸説とはトンデモ提言のことなのでしょうか。古代史分野では、定説すらしばしば脱輪して暴走しているのに、そこから、更に踏み外した異常な説を物々しく提案されても、ついていけないのです。
 批評だけ出回るのは感心しないので、意見発表を自粛していましたが、当番組は、17年末に再放送予定なので、確認いただけば良いと思います。

*放送予定 BS-TBS 2017年12月30日よる10:00~
 諸説あり!▽邪馬台国2時間スペシャル!後半「女王・卑弥呼の正体」

*怪説連発―立証説明無し
 以下の所説は、あやふやな根拠が示されるだけで、全て提唱者の言いっぱなしです。つまり、丁寧に論証・説明されていません。
 例えば、卑弥呼が魏志倭人伝にしか登場しないとは、完全に誤解であり、時代順で言うと、まず、後漢書に書かれて、一見初出と見られるのです。
 卑弥呼の字が、中国側の聞き取りというのも、浅慮の誤解、と言うか、決めつけすぎです。なぜ、自称したと解釈できないのか、理解に苦しみます。せめて、現地事情に詳しい帯方郡と相談したと見るのが、筋の通った見方と思います。

 無神経に「定説」と称していますが、卑弥呼が、呪術を駆使したとか、六十年在位したとか、老齢であったというのも一個の異説に過ぎず、浅慮の誤解かと思われます。文献にないことを現代の作り話で埋めたと思われます。

*導入部 束の間の快適さ
 当番組の堅実さは、冒頭の平原遺跡紹介に現れていますが、呪力云々と口にしたために、以下、番組の花道を、平原墳墓に関係のない三角縁神獣鏡魔鏡説に盗まれていて、まことに気の毒です。

⑴ 魔鏡の怪
 本番組の「愚説」の極めつきの一つが「魔鏡」です。(下には下があるか)
 愛知県犬山市の東之宮古墳の遺物である古鏡のレプリカを作って実演していますが、先ずは、同類の古鏡の数百枚あるとされるものの一枚に過ぎないのではないでしょうか。古代の鋳造技術で、意図通りのものが大量に作れたとは、到底思えないのです。
 たまたま、やり玉に挙がった一個が、仕上がりの加減で、そのように見えただけであり、そのような意図で製作されて、その通りにできあがったたかどうかは、不明としか言いようがないのです。

                              未完

新・私の本棚 番外 諸説あり! 「女王・卑弥呼の正体」 2/4 再掲

 BS-TBS ▽邪馬台国2時間スペシャル!  2017/06/10 2017/12/30
 私の見立て★☆☆☆☆☆ 参考のみ                  2017/12/25 2019/04/21 2022/10/15

*魔鏡大安売り
 同じ鋳型で、同じ作り方をすれば、魔鏡は、再現すると称していますが、それなら、当該古鏡が大量に配布されたらしい現在の「近畿地方」、ないしその東方では、大勢が持っていたことになり、大安売りとなって、値打ちが無かったかと愚考します。

*三角縁神獣鏡の怪
 番組では、手軽に華々しく実験して見せましたが、見当違いの遺物を実験材料としているのは、何とも恥曝しです。誰か教えてあげろよと思います。
 肝心なのは「三角縁神獣鏡」は、卑弥呼のものでないという論証堅固な「定説」です。もちろん導入部に利用された平原遺跡の出土物ではないのです。
 つまり、この「定説」は、世間に溢れている、良くある「学派伝承」で無く、誠実な考古学で確証された「学説」ですから、この異説は、時代錯誤の見当違いの主張なのです。
 実験を見、「三角縁神獣鏡」の時代比定を聞いた素人さんは、「九州で発掘されず、大陸でも半島でも発掘されていない」というある意味絶望的な報告を受けても、これは「ライセンス」生産だ、などと意味不明の時代錯誤極まりない意見を吐いて、ついには、「いずれ各地で発掘されるというような」つけるクスリの無い神がかった意見まで持ち出します。「フェイクニュース」を信じ込んでは、「フェイクニュース」を蔓延させるのに手を貸すだけです。お気の毒な恥さらしが、永久保存されたのです。
 どこかで何かが発掘されても、これまでに確認された考古学的判断である「時代違い」は動かないのです。無意味に実証するのは、学問の道ではありません。

⑵ 倭国飢饉説の怪
 続いて、三国史記新羅本紀(西暦193年?)を根拠にした「倭国飢饉」説ですが一応、「統一新羅すら滅び去って久しい一千年後に、新羅建国以前の断片史料をかき集めて、形式を整えた造作史料」の記事を、一応真に受けるとしても、読めば読むほど筋の通らない、信を置けない記事と見ますから、とてつもない愚説と見られます。しかも、過去雨ざらしになった廃版仮説ですから、よくも平然と持ち出せたものです。
 折角だから、一応考証しま。仮に、北部九州から倭国の難民が、大挙渡海して、当時一小国に過ぎなかった斯盧国まで食糧を求めたとすると、まずは、道中食糧はどうしたのかという事になります。飢餓の巷の筑紫の倭人は、食糧補給なし、つまり、メシ抜き、宿泊なしで、海峡越えに最低でも三日を要する長距離の激流を漕ぎ抜けたのでしょうか。
 
さらに、海峡を越えたらそこが斯盧国というわけでなく、狗邪韓国に始まり、諸国を越えて、斯盧国、後の新羅首都慶州(キョンジュ)まで、何を食べて<足を伸ばしたか不可解です。
 それ以前に、九州北部が飢餓地獄なら、食糧自給できない壱岐、対馬は全滅の筈です。どうにも、筋の通らない話です。
 それはそれとして、何を対価として持ち込んだかは言わないことにしても、慶州で望む食糧を得られたとして、帰りの道中は飢餓地獄です。また、数万の民に与える食料は、小ぶりの手漕ぎ船で、海峡を越えて運べるものではないのです。
 よくも、そんな無茶な話を言い立てるるものです。

                          未完

新・私の本棚 番外 諸説あり! 「女王・卑弥呼の正体」 3/4 再掲

 BS-TBS ▽邪馬台国2時間スペシャル!  2017/06/10 2017/12/30
 私の見立て★☆☆☆☆☆ 参考のみ                  2017/12/25 2019/04/21 2022/10/15

*斯盧国(後の新羅国)
 無理な話をこね上げなくても、斯盧国に倭人難民が来たとしたら陸続きの半島西南部の倭人でしょう。それなら、随分筋の通る話です。
 先賢も、同様に「半島倭人であろう」と推定しています。学問の話で、下記四半世紀前の先行論を確認しないで、前人未到の新発見と手柄顔をするのは、恥さらしです。

史話 日本の古代 二 「謎に包まれた邪馬台国」 直木孝次郎編
『気候変動からみた「邪馬臺国」』 山本武夫 初出「史話 日本の歴史 第二巻 謎の女王卑弥呼」 作品社 1991.4
一九三年の条には、「倭人大飢来求食千余人」とある。この倭人は、おそらく朝鮮半島にコロニーをつくって在住していた倭種の人々を言うのであろう。倭国から飢餓の人々が千人程度も対馬海峡を渡って、確実な援助の当てもない隣国を訪ねるということは到底考えられないことだからである。
 ちなみに、氏の素人考えの発言とはいえ、古代史論に「コロニー」は時代錯誤、かつ、観点倒錯であり、当方の責任範囲なら、「コロニーをつくって 」の削除は必須です。専門分野外の発言は、よくよく確かめて公言すべきでしょう。千人が海を渡ったとは、誰も主張していないので、つつかないことにします。
 無理ついでですが、筑紫倭国全部が飢饉では、互いに争う「乱」などできないのです。妄想を逞しくして隣人同士を闘わせる悪趣味の根源がわからないのです。

⑶ 霊力説の怪
 最後に、素人さんは、卑弥呼が「霊力」を示したなどとおっしゃるが、んな「力」は、もともと実在しないから、示せるはずがないのです。
 これを受けてか、学会の権威者なるご老体から、もっともらしい、老女王は「呪力」を失ったなどと見てきたような「ほら話」が出てきますが、元々この世に無い幻想力ですから、力が弱ったり失われたりすることはないのです。
 ほら話の土台は「年長大」なる言葉が老齢の意と決めつけるものですが、これは、無教養な門外漢が、中国史書の解釈に無思慮に踏み込んだために浮上した根拠薄弱な一説であり、確たるものではない、どちらかと言えば、浅慮の誤解です。独善派が、見てきたようなほら話に都合が良いので、与太話の結構に取り入れているだけです
 不確かな土台の上に、高々と豪壮な楼閣を築くのは、学術上の論議はあり得ない「砂上の楼閣」です。

⑷ 日食騒動の怪
 日食説で奇怪なのは、当日、晴天でみな戸外で空を眺めていたと決め込んでいることです。
 曇天なら、日食でなくても日差しはないのです。
 晴天日食として、鳥が騒ごうが冷風が吹こうが、別に暗黒になるわけではないので、しばらくして明るくなるのです。素人さんの卓見の通りです。中国では、遙か以前から日食予知ができていて、支配者層は、程なく闇は消えると知っていたはずです。
 そのあと、司会者から、女性蔑視、老人蔑視の発言乱発ですが、大変な時代錯誤です。まあ、民放は、この程度が相場なのでしょうか。

*まとめ
 以上の通り、「諸説」というものの、あやふやな思いつきで連発される妄想に呆れるのです。
 念のためいうと、倭人伝に「倭国大乱」はないし、卑弥呼共立は時期不明。もちろん、飢饉との因果関係は一切不明です。(史料にない以上、関係ないと断定したいぐらいです)
 
なにしろ、諸国総会での女王総選挙などあるはずがないのです。(不可能である)
 資料不足をよいことに、各自が、証拠も何もなしに勝手に推測を巡らして吠えるのは、学問と思えないのです。いや、民放テレビ番組に、学問は関係ないのでしょうが、遂に、考慮に値する「諸説」は聞けなかったのです。

                          この項完

新・私の本棚 番外 諸説あり! 「女王・卑弥呼の正体」 4/4 余談

 BS-TBS ▽邪馬台国2時間スペシャル!  2017/06/10 2017/12/30
 私の見立て★☆☆☆☆☆ 参考のみ                  2017/12/25 2019/04/21 2022/10/15

 これは、番組批評で無く、あくまで余談です。
*三国史記の読み方
 十二世紀半ば、統一王朝高麗時代の三国史記編纂者は、二世紀後半の何らかの史料が、千年の波乱の歴史を経て伝えられたものを見て、そこに書かれた「倭人」なる言葉、漢字熟語を読み取ったのですが、その史料の記録者が言葉に託した意味を読み取ることはできなかったようです。
 いや、原史料が、難民の正体を正しく書いていたかどうかはわからず、また、原史料が千年の間正確に書写されたかどうかわからないのです。「魏志」ほど、厳格に写本継承されていても、誤字が目立つなどと言いがかりを付ける野次馬が絶えないのですから、是非、「史料批判」を重ねた上で、発言してほしいものです。

*新羅興亡
 最初に半島統一を成し遂げた新羅ですが、魏志韓伝に記載された三世紀、韓の一国、辰韓を構成する十二カ国の一国の時代は、未開で、当然、文書記録は、皆無というか不完全でした。辰韓を統一し、さらに、三国鼎立時代の相克を経て百済、高句麗の二国を滅ぼして半島統一した統一新羅時代、中国文明に深く接して史書整備を試みたはずですが、その成果は十世紀の三国分立戦乱を経て、北方の新興高麗に滅ぼされた時、亡国の史料は毀損され、残存した史料も、維持管理は疎かで、適確に継承されなかったようです。

*倭女王卑彌乎遣使
 新羅本紀には、「(173) 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」)」なる記事が見られるとのことです。(訳文はWikipedia)

*史料批判
 これでは、「倭人伝」に基づいたつもりで、「卑弥呼が248年頃死亡した」とする解釈と結びつけたとき、女王は、少なくとも七十五年にわたる在位となり、仮に二十代で共立されたとしても、百才の老王となってしまいます。定説のように、いい年(三十代、あるいは四十代)で共立されたとすると、百二十歳にも成ろうということになります。因みに、この年齢計算は、中国の暦法に従う加齢なので、せいぜい、数えと満との違いしか勘定できないのです。
 要するに、古史料の孤立した記事を本紀編纂に参入する際、「三国志」記事と照合しなかったため、干支紀年解釈を誤って六十年遡らせてしまったようです。
 二世紀の文字なき未開時代に元号はなく、某王の何年という記録もなかったようで、干支が一巡する六十年分ずれたと見られます。斯羅国の小国時代は、要するに未開社会で、王制が続いていたかどうか不明であり、国家としての文字記録が残されていたとも思えないのです。
 六十年のずれを補正すると「233年、倭の女王卑弥呼が遣わした使者が訪れた」となり、この方が、ずいぶん筋が通っているのではないでしょうか。
 ただし、倭人伝には、その二十年後の倭国飢饉は記録されていないから、飢饉記事は六十年移動しないようです。
 倭人伝は、当時唯一文字記録を整備していた中国文明の歴史遺産であり、数世紀、いや、千年の後に、後世人がでっち上げた歴史文学とは、同列に論じられないのです。
                       完

2022年10月12日 (水)

新・私の本棚 平本 嚴 「邪馬台国はどこにあったのか」再掲 1/2

~倭王卑弥呼の朝貢から読み解く 22世紀アート  アマゾンKINDLE電子ブック 2019年8月刊
私の見立て ★★★★★ 好著必読  2020/05/12 補充 2022/10/12

〇始めに
 見事なのは、「はじめに」として、本著の基本理念が適確に表明されていることです。これは、「商品」として不可欠ですが、近年古代史で目立つジャンク本では、一流出版社の単行本でも欠落していることがあり、むしろ貴重な特質です。

 本書は、「景初二年の朝貢から見た邪馬台国の所在地論」です。 研究に関し重要なポイントを「発想」という視点で述べます。

 当ブログで機会ある毎に説いていた準備、そして実行という着実な考察が書かれていて、心強いものでした。また、極力、倭人伝記事の妥当な解釈による考察であり、それ自体大変説得力のあるものでした。

 それにしても、22世紀アート社は、編集部に優れた人材を擁しているようで、これなら、書店店頭で立ち読みできないご時世でも、安心して大枚を投じられるかと思うものです。掃き溜めに鶴と言いたいところです。

*丁寧な準備
 前例のない大事業に乗り出すには、内外情勢確認、実施手順策定、そして、実施に際して、綿密な工程管理、進度管理が必要です.参上する相手との綿密な交信も必須です。そういった段取り事情を丁寧に説き起こす「倭人伝」考は、ここ以外では見かけることがありません。世に、ジャンクフードの画餅が氾濫していて、このように、歯ごたえのある正餐に出会うと感嘆するのです。
 後ほど、無作法な批判をしますが、随分前から、言葉遣いの節度をなくしているので、お許しいただきたいのです。

*両論併記の取り組み
 本書で感心するのは、畿内説と筑紫説の両論を併記して、それぞれに於いて、適切な考察を試みていることです。
 「当分野」は、まずどちらの説で書かれているかで、書棚行きの積ん読かゴミ箱投棄かが決まり、所在地比定の論考でも、恣意だとか、偏向だとか、感情論で切り分けられ、投げ出されていしまうため、折角の著者の考察が、読者の眼に届かない様子を見ると、ここは大人の行き方と見ます。何しろ、諸説の上っ面をつまみ読みして、理解できないままに、「全部間違いに決まっている」と絶叫する論者が目立つのです。
 ここでは、畿内王都と仮定して、半島事態を知るのに要する時間、畿内での準備期間、半島までの行程日数を合わせ考えると、景初二年六月には帯方郡に着かないと見え、三年誤記説に逃げず、どう解決するのか興味のあるところです。
 当方の考えでは、王の意志決定に従い、派遣使節人員の大半と荷物、そして、乗船は、筑紫拠点に手配を指示し、畿内からは、大夫一人、ほとんど手ぶらで出たと見ます。大夫が乗馬できれば移動時間は大幅に短縮できます。
 私見では、急遽派遣という状勢であるから、人員も荷物も、随分小振りで書面指示したはずですが、氏の意見は別で、王都に集中しているようです。
 郡に申告しておけば、御用達で、街道関所は、過所(通行証)いらず、関税免除、宿は官費です。数十人の大使節団はそう行かないでしょうが、「倭人伝」の貧相な使節なら、むしろ、同情されてもてなしを受けられたでしょう。

*若干の異議
 そのように思うのは、以下書くように、氏が想定した使節団が場違いにでかいからです。氏がそのように感じたのは、野性号案件が、漕ぎ手固定の手漕ぎ船で、積み荷の多寡、漕ぎ手の消耗はともかく、遮二無二、一貫航行できる、為せば成ると証明されたように報告を言い繕ったからでしょう。スポンサー、支援者の手前、「失敗した」とは、絶対に言えなかったためでしょう。
 当ブログでは、長距離の漕ぎ船移動は、維持不能な公用交通手段とみていて、意見が分かれます。
 御手並拝見という所です。

                                未完

新・私の本棚 平本 嚴 「邪馬台国はどこにあったのか」再掲 2/2

~倭王卑弥呼の朝貢から読み解く 22世紀アート  アマゾンKINDLE電子ブック 2019年8月刊
私の見立て ★★★★★ 好著必読  2020/05/12 補充 2022/10/12

〇既成概念の残光
 書評の務めですから、瑕瑾をつまみ上げて指摘することになります。
 案ずるに、意識してか無意識にか、さまざまな既成概念に影響されて「倭人伝」考察に取り組んでいて、着実な考察が妨げられているのが惜しまれます。
 その一つは、「邪馬台国」が、豊かな国力を持っていた古代国家であるという前提であり、そこから、六艘に及ぶ朝貢船団を連ねた延々たる行程となり、それ故、何としても、船団で乗り続けたとの視点に囚われているのが、もったいないところです。
 この前提を取り下げると、本書のかなりの部分が空転するのですが、この前提を書き替えてしまうと、本書は別のものになってしまうのです。つまり、後段の批判は、無理な注文と承知の上です。よろしくお含み置きください。
 但し、氏は、海路遣使の幻想に耽るのではなく、地に足の付いた考察を進めていますから、世にはびこるジャンク本/書籍/新書と一線を画している点が、ここで賞賛されているのです。

*帯方郡の不思議
 折角、景初元年八月に、帯方郡が魏の支配下に復帰したとしながら、使節は、その事態急転に気づかず自律的に遣使を決意し、二年の早い時期に郡に到着したのに戦雲巻き起こる遼東に赴いたのは、ちょっと/全く、説明のつかない事態です。
 ついでながら、「倭人」が遼東郡に隷属したと想定していますが、それなら、魏の攻撃に備えて韓濊倭に動員がかかったはずです。思うに、遠隔蛮夷の隷属は面倒なだけで、単なる服属と貢納でよしとされ、戦力視はされてなかったでしょう。
 勿論、氏の既成観念を指摘しただけで、当否を言うものではありません。

*後漢書崇拝の咎
 無造作に范曄「後漢書」倭伝を利用していることも不都合です。
 「倭奴国」貢献は後漢書本紀であり、光武帝は印綬を下賜しただけで、金印下賜とは書いていないのです。また、考安帝本紀は、貢献を示すだけで、生口は倭伝独特記事、つまり、范曄得意の根拠のない文飾と見えます。
 「倭人伝」には、情報源の詮索や、誤記、曲筆の疑惑が、山ほど浴びせられていますが、笵曄「後漢書」倭伝は、一転して無批判な引用が目に付きます。これは、正当ではありません。いや、これは、俗説の安易さを歎いたものであり、氏への批判ではありません。

*洛陽への遠い道
 氏の考察のかなりの部分が、狗邪韓国経由帯方郡の海上経路に費やされ、さらに郡から遼東にいたり、そこから、洛陽に転ずる街道の想定で、相当の労力を費やしたと思いますが、労苦に賛辞を呈するものの、疑問があります。
 黄河河口付近は、巨大な暗黒地帯であったとの指摘は、軽率な論者に対し貴重な問題提起ですが、使節は、遼東に寄らなければ、この迂回は不要だったと歎かなかったのでしょうか。

*嫌われた順路
 そのような経路を敢えて進んだ前提として、郡から山東半島への経路が難所とされていますが、どう見ても、ほんの一またぎの水たまり越えの散歩道で、激流の荒海でないと思うのですが、難所の根拠はあるのでしょうか。
 漢書には、武帝の朝鮮派兵で利用した経路とされています。
 帯方郡から見ると、山東半島から洛陽に至る青州路は、つい先年まで、公孫氏の支配下にあり、土地勘のある郡官吏もいたでしょう。帯方郡収監の際に渡来した兵士も少なくなかったものと見ます。随分近道ですからね。
 狗邪~郡街道史料が見当たらないとありますが、弁辰産鉄の運搬は、郡命により、日程厳守できる官道経由のはずで、それに備えて宿駅整備がされていたはずです。街道が当然だから、特に書かなかったと見ます。何しろ、韓地行程は、韓伝の領分なので、倭人伝には書かなかったと見るものでしょう。

 氏は、半島南部沿岸に、寄港地が整備されていたと見ますが、帯方郡としては、陸上街道整備だけで目的を達成できるのであり、特に必要のない遠隔僻地にそのような整備を行う動機が見えません。郡は、専政領主ではなかったのです。もちろん、自然発生で、漁港なり、隣接港への航行の船着き場があったことでしょうし、港伝いで、遠方からの売り物が届いたでしょうが、それは、ここで言う「寄港地」には当たらないのです。
 いや、小船であれば、砂浜に引き揚げるだけで、船着き場の用を足せるのです。

〇最後に
 いや、氏の辿った地道な論考は、業界では異端の道であって、先賢の助言は得られなかったのでしょうが、氏ほどの慎重さで考察を固めながら、これほど見過ごしが残っているのは不思議です。月並みで恐縮ですが、弘法も筆の誤り、という事でしょうか。

                                以上

新・私の本棚 番外 英雄たちの選択 ニッポン 古代人のこころと文明に迫る 再論2019 1/7 改

私の見立て ★☆☆☆☆ 壮大な空転 2017~2019/01/03  記 2019/01/13 追記 2021/01/03 2022/10/12

*NHK番組案内を引用
【司会】磯田道史,渡邊佐和子,【出演】里中満智子,中野信子,松木武彦,
辰巳和弘,石野博信,倉本一宏【語り】松重豊
  ニッポンのはじまりスペシャル企画!最新事情を踏まえ古代人のこころと文明の成り立ちに迫ります。弥生人=稲作民という常識を覆す先進集落の実像とは?弥生人が銅鐸に求めた神秘のパワーとは?邪馬台国の女王・卑弥呼の出身地はどこ?司会の磯田道史が大興奮の古墳とは?さらに、悪役のイメージが強い蘇我氏が、この国に与えた影響も探ります。弥生から飛鳥までを一挙に駆け抜けてみると、ニッポンのどんな原型が見えるでしょうか

*総評~新旧併存のお断り
 当方の知る限り、当番組は、昨2017年1月3日に放送され、2018, 2019年は、再放送です。
 初見の際は、一般向け番組で示された個人的意見を批判する気になれず、表面的な批評となりましたが、良く見ると、お出ましになっているのは、それなりの権威者揃いでもあり、「まんま」再放送という事は、ちゃんと批判されていないようなので、一視聴者として苦情を申し立てることにします。
 なお、当記事は、先行する17回連載の批判を煮詰めたものですが、割愛した部分にも、色々意見がこめられているので、両案併存としました。何しろ、ブログ記事は、別に読者の財布を傷めるものではないので、当面、そのまんまとしています。

※番組方針逸脱
 当番組は、本来、歴史上の分岐点で、「英雄たち」が直面した選択を明らかにして、視聴者にそれぞれの選択肢を吟味させるものであったはずです。ところが、当特番は、「謎」の特異な解明(異説)を羅列するだけで、事態の原型は示されず、権威を求められている番組として、無責任であると見えます。

※日本なき「ニッポン」文明
 この番組は、カタカナの「ニッポン」を連呼しますが、それは、八世紀初頭に始めて採用された「日本」の国号を、数世紀遡る古代史に使用する「時代錯誤」の押しつけを避けたつもりかも知れません。しかし、所詮、一般人は、文字より音声で識別するので、カタカナも漢字も同じ実態と受け止め、「ニッポン」と言っても、時代錯誤から逃げられないと愚考します。

 古代史分野では、「日本」国号にまつわる紛糾を避けるために「日本列島」と言い慣わしているので、NHKも、番組冒頭で趣旨を説明した上で、これに従う方が良いのでは無いのでしょうか。当時なかった概念を断り無く濫用するのは、視聴者に謝った理解を押しつけるので、断じて使用すべきではないと愚考します。

*はじめに
 当番組全体は、二時間にわたって「最前線」を紹介し、古代から飛鳥時代まで数回に分けて、時代相を論じていますが、総じて、誰かが「史学」とは無縁の先入観を持ち込んで「台本」をでっち上げ、さらに演出過剰で意図不明、散漫な造作に終始した番組になっています。

 古代史を、「中央」(意味不明)の支配者がひねり出した「シンボル」(意味不明)が、亡霊の如く全国に拡散する図式(ポンチ絵)の茶番劇にしてしまったのです。ポンチ絵も、茶番劇も、それぞれの役所(やくどころ)では、りっぱな芸術表現なのですが、当番組に持ち込まれては、勿体ない才能と資金/資材の浪費に過ぎません。一視聴者としては、このような馬鹿騒ぎに、自分の払った受信料が吸い込まれているのかと思うと、索漠たる思いになるのです。
 歴史の流れを、額に汗して「駆け抜け」るのには足場、足回りが気になりますが、今回は、図式化された歴史の上空を涼やかに「飛び抜け」ていて、躓き石どころか、落とし穴も断層も関係なしです。つまり、一部学派の「提灯持ち」に堕しているように見えます。
 公共放送で、これほど、論証に欠ける、無責任な番組制作は困るのです。いや、知らないうちに、世の中はそんな風潮になっているのかも知れないのです。後生畏るべし。

 こうした泣き言を後半に回すと、とても読んでもらえないかもわからないので、まずは、大きな苦言をここに呈します。

 未完

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私の見立て ★☆☆☆☆ 壮大な空転 2017~2019/01/03  記 2019/01/13 追記 2021/01/03 2022/10/12

*「磯田史観」概観
 近年NHK歴史番組に登場する「歴史学者」磯田道史氏の古代史に関するコメントは、当番組に限っても、時代錯誤で軽薄です。
 思うに、氏が本当に通じている時代は、近代、それも、江戸時代中期以降の豊富な古文書史料に基づく、大変限られた範囲であり、古代史に関しては素人、つまり、自任しているように子供時代以来の古墳ファン、マニアでしかないように思えます。

 氏は、古代史番組を仕切るだけの学識も器量を持ち合わせていないらしく、無理な時代錯誤の歴史観、それも、現代でも、一部の閉鎖的なコミュニティでしか通用しない概念を、前触れなし、出席者の意見と合わないのをぶちまけていて、いわば、不規則発言に励んでいるのですが、何が伝わると期待しているのでしょうか。
 同情するならば、氏は、そのような乱暴な、現代人の(一部、古代史愛好家の)俗耳に訴えるらしい言い回しを売り物にしているのでしょうが、NHKの特番は、低コストでそれなりの部数売り上げが見込める安物新書ではないので、つまらない猿芝居は、もったいない話です。

*場違いの記

 再放送の間に、磯田氏の著作二作が、映画化されたのを楽しく見せて頂くました。江戸時代で古文書資料が豊富に残っているのでしょうが、大がかりで、しかも、現実味、説得力のあるドラマが構成されているのは素晴らしいのですが、それは、あくまで、時代背景や人情が現代に通じるものであり、観客も読者も、登場人物の情感を察することができたからです。
 三世紀や四世紀の古代は、そうした「察する」ことのできない世界なのに、しきりに、現代語やカタカナ語で古代を塗りつぶす司会者の「芸風」は、場違いです。当番組の「イリュージョン」志向は、場違い概念の塗り込めになっています。

 それとも、氏の脳内の古代「世界観」は、映画化された仙台藩の一宿場や加賀藩勘定方の縮小版で満ち満ちているのでしょうか。

          未完                           

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私の見立て ★☆☆☆☆ 壮大な空転 2017~2019/01/03  記 2019/01/13 追記 2021/01/03 2022/10/12

*非現実的な妄想
 なお、氏の不規則発言で提言される「耕作努力を放棄して、他地域を襲撃し収穫を持ち帰る任務を帯びた掠奪部隊」は、いわば「常備軍」であり、盗賊集団にとって、平時は無駄飯ぐらいの重荷であり、また、集団権力者にとって、武器であると同時に自身の地位を脅かすのです。とても、長期に亘って維持できるとは思えません。

 磯田氏ほどの見識の持ち主なら、とうにご存じでしょうが、日本列島の古代に於いて、そのような盗賊集団は、一時的に、どこかに存在したとしても、存在を維持できなかったし、全国制覇できなかったのです。

 それとも、磯田氏は、纏向に興隆した集団は盗賊集団の末裔と主張しているのでしょうか。あるいは、今日の日本人の心の底流には、そのような集団の泥棒意識が流れていると主張するのでしょうか。不審です。

*番組テーマとの関連
 「古代人のこころ」を探るという番組テーマを考えると、番組全体の流れの中でのこの発言は、そのような断罪を示唆しているようにも見えます。
 当方は、そのような「幻想の古代」は、例え磯田氏の内面に猛然と繁殖していても、実際の古代世界には痕跡も残っていないと思うのです。

*「物盗り」でなく「国盗り」
 もっと効率の高い盗り方は、被害集団を服従させ、収穫の一部を毎年献上させることです。服従を維持するためには、武力の優位が必要でしょうが、平時は、言うならば鴨がネギを背負ってやってくるので、受け取る方は鍋を煮立てて待てば良いのです。しかも、金の卵ではないが歳々年々届くのです。このような「盗賊」は「涸れない泉」のようなものです。
 
 別策は、被害集団を追い出して、自集団の耕作地にするもので、耕作地が拡大して収穫増で繁栄間違いなし、かつ、持続可能な盗り方です。これは、国内例は少ないものの、「グローバル」では良く見られるところです。
 
 当方は、経済学にも社会学にも通じてないので、きれいに形容することはできませんが、普遍的な物の道理として以上のように見るのです。つまり、誰かの理論を受け売りするのでなく、歴史を通読してそう見るのです。

*画餅の愚
 番組冒頭に還って、当番組の概念図塗りたくり手法は、愚劣です。
 中でも、稲作の普及の見せ方が、理屈に背いていて愚劣です。
 
列島概念図の上に、一気に、一面に、稲作の絵柄を塗りたくっていますが、北進速度はおおぼらとしても、後世に至るも、山岳地帯や東北部の寒冷地帯の稲作は、随分進まなかったので、これは大嘘です。
 
 せいぜい、子供だましのものです。子供だましには子供だましの効用がありますが、これでは、チャンネルを間違えているように見えます。
                               未完

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私の見立て ★☆☆☆☆ 壮大な空転 2017~2019/01/03  記 2019/01/13 追記 2021/01/03 2022/10/12

*児戯、画餅
 同様に、列島各地に、同形状、同系列の墳丘墓がずらりと揃っていくわけがないのです。考古学者は、個別の墳丘墓の時代比定については、個性的な見解を述べていますが、このような児戯は支持していないはずです。

 現代は、絵解きの時代ですが、天下の公共放送が、ここまで安直な絵解きに溺れるとは、受信料の無駄使いです。演出と言うよりウソの練り重ねです。

 それは、例えば、桜前線の伝搬のようです。その場合、全国にソメイヨシノの植樹と養生が連なっているから、まるで、誰かが開化せよとの指令を発したのが、南から北へ伝わっているように見えるのですが、番組の茶番は、安直な幻像に過ぎません。子供に塗り絵をさせているようなものです。

*番組の蛮行
 そのような演出の背景は、放送局も新聞社も通信社もない時代に、列島全部に隈無く、すらすらと文化が拡散するという幻想ですが、「文化」が、文字を前提としている以上、文字のない時代にそのような文化拡散はありえないのです。そして、何より、三世紀、四世紀に、広域政権はないので、拡散の発信源も伝達手段もないのです。出かけて布教するしかないのです。

*地方国家幻想
 九州北部の政権は早期に実在したとして、「吉備」「大和」に同様の政権が存在したという同時代記録はないのです。
 仮に記録されたとしても、地方間の連絡は、使者が伝言するしかないのに、片道一ヵ月はかかろうかという遠隔地同士で対話は成立せず意思伝達は無理です。そもそも、そのような遠隔地から、収穫を取り立て/取り寄せるのは無理だし、相手の挙動に文句があるからと言って遠征軍を送って征伐するのも無理です。

 国家の構築に不可欠な要素がないから、広域国家はなかったのです。
 
*「倭人伝」の諸国像
 「倭人伝」談義では、多数の小国が共存し「女王を総会で擁立した」共立図が描かれているようですが、交通不便で、文字通信も無いとなると、ほんの山向こう、川向こうでも、別所帯であり、喧嘩も食べ物の融通も、ろくにできないのです。話し言葉が異なるとなると、時候の挨拶も、男女交際も不可能となります。諸国統一どころか、隣村さえ支配できないのです。

 唯一進展があるとしたら、川に橋が架かり、山越えの道が通じるときで、せめて日帰りで往来できたら、朝、荷を背負って隣村に出かけて産物を仕入れ、夕方に帰還することができるのです。日帰り交流が広がれば、両集団の交流が深まり、合流しようかという事になるのです。

 いや、大抵、隣村は分家であり、言葉も風俗も通じ、往来便利なら親戚づきあいできるので、分家や親戚を、掠奪や武力征服などしないでしょう。磯田氏は、よそ者は「人」でない(から殺してもいい)と強弁しますが根拠不明です。

                               未完

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*無視横行
 それにしても、番組の流れで、時に、ガイド役の説明者に、当然とも思える素朴な疑問が呈されますが、屡々無視されるのはどうでしょうか。
 回答に窮して、次に進めているのでしょうか。別にガイド役を困らせようというつっこみでもないのですが、想定外、台本外の質問は無視する習性の人なのでしょうか。芸人として、度外れに抜けているように見えます。

 例えば、纏向の大型建物柱穴が先立つ丸穴が角穴になったと説明していますが、何があってそう変わった(と決め込んだ)のかとの質問に返事がないのです。また、建物の時代比定が、大幅に旧くなった件も、返答がないのです。トップ指示でそう言わされていて、箝口令でも敷かれているのでしょうか。
 それより、磯田氏が、どさくさ紛れに纏向遺跡を二世紀としているのも、司会者に禁物の素人判断であり、視聴者は、マニアが浅知恵を競うのを見たくて、NHKの特番を見ているのではないと思うのです。

*東西基線の意義
 いや、素人考えという点では、纏向論などに見られる古代史論も、ある意味、素人考えを脱していないのは困ったものです。
 例えば、纏向建物は東西基線の配置ですが、太陽の運行に世界観を託したものです。「会稽東治の東」などという表現は、天下を二分したものであり、南北は度外視されているものです。単に、何らかの直線上に縄張りされたというものではないのです。
 これに対して、「君子南面」などの中国思想は、南北基線であり、歴代王都で、東西基線を敷いた例は、まず見られないはずです。
 つまり、基本思想が、根本的に違う
のです。

 また、所詮当時の人が引いた縄張りは、結構うねっていて「完璧な東西直線」の筈はないのです。基線は、理念なのです。

□暴走と混乱
 いずれにしろ、全国視聴者に代わって質問しているのに無視/黙殺とは、無礼にもほどがあるのではないでしょうか。芸能バラエティーばりに、アドリブは禁止なのでしょうか。それなら、NGで撮り直すべきです。
 司会者ご両人が、先に書いたような私見を言いっぱなしで、相手に無視されても何も言わないのも、おかしな話です。視聴者に伝えるというプロの根性はないのでしょうか。
 それ以外でも、古代史マニアや新説愛好者の言いっぱなしの「私見」が飛び散らかされていて、「史学」の裏付けのないままです。
 それをもてはやすように、だれかが操作すれば、でかい表示がバチバチ切り替わって、全土一律に追従するという幻想を与えているのが、今回の番組のだまし絵です。
                          未完

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*金属音妄想
 銅鐸に関して、「それまで、誰も聞いたたことのない金属音と放言していますが、銅鐸のような独特の形状の金属物の打音の音色はともかく、金属音というなら、鉦や銅鼓のような打楽器は、殷周代の太古来、むしろありふれていて「金属音」は、全く斬新でなかったと思います、いや、元々、「誰も耳にしたことがない」などと、古代の出来事を断言できるはずはないのです。

 当時を生きていたような、見てきたような話し方ですが、もっともらしいどころか、筋の通らない放言で、素人に頷かせるものではないのです。単に発言者が「物知らず」という事に過ぎないのです。「初耳に驚く」のは素朴で結構ですが、実物は二千年前から存在しているのです。顔を洗って、出直してほしいものです。そして、儀式の度に奏されるから、耳に馴染むというか、「耳にタコ」になるような気がします。

 それにしても、「金属音を聞くと思考が停止」するというのも、無謀な発言です。思考の動きは誰にも見えないので、停止しようがしまいが、それは、別に見届けようのない、どちらかと言えば、好き勝手に言い立てているだけの勝手な妄想譚です。

 いずれも、文献もない太古の話ですから、言いたい放題なのでしょうが、んな勝手な個人的な感想は、公共放送で喋りたくるのでなく、個人的な世界に止めてほしいものです。このような発言は、今回限りにしてほしいものです。そうでなくても、毎年、このような迷言の再放送を見なければならないというのは、困ったものです。

*強奪無謀
 ここで、磯田氏が突然乱入して、古代に収穫物を掠奪する山賊集団が横行したというのは、暴言の極みです。
 この時代、奪うに値する財物は、ほぼ「米俵」であり、他国を侵略して死傷者を出した上で、帰り道、米俵を担いで、道なき道を野越え山越えするのでは、余りに労多くして報われぬ悪行/愚行です。
 まして、初回の不意打ちの侵略はともかく、それ以降は、待ち受けされて、撃退される可能性が高いのです。農耕を放棄して、侵略に血道を上げていては、掠奪成果なくして生計が立たず10年を経ずして国が滅びるでしょう。現に、史上、そのような山賊集団が持続した記録はないのは、磯田氏がよくご存じの筈です。このような煽動発言は、磯田氏の「学者」としての見識を大いに疑わせるものです。
 そんな血なまぐさいことをしなくても、諸国盟主となって他国を服従させれば、毎年、野越え山越え米俵を担いで貢納してくるのであり、多数の掠奪用兵士を養う必要もありません。
 素人に言われるまでもなく、それが、「倭」から「日本」に継承された、それが全てではないとしても、太古以来の政治風土と思うのです。

 誰がこうした不規則発言を書き立てる台本を書いたのでしょうか。NHKの関係者の精神構造を疑わせます。これでは、健全な論争が成り立ちません。NHKは、司会者の入れ替えを進めた方が良いでしょう。

*卑弥呼無残
 諸説ある中で、当番組の卑弥呼観は呪い師であり、「呪術」の力で政権を把握し、年老いて「呪術」が衰えて、退位、死亡した』という大仰な「創作史観」が横溢していて、世上流布されている、卑弥呼を「神功皇后」や「天照大神」に見立てた諸説は、一顧だにされないのです。
 いや、いずれにしろ、「呪い師」説も、「神功皇后」、「天照大神」への見立ても、「魏志倭人伝」には、明記も示唆もされていない、論者の創作なのです。
 つまり、論者の創作世界の論理であり、古代史の見立てとして、一考に値するという程度にとどまっているはずです。そのようなご都合主義の解釈が古代史分野に横行しているのは、倭人伝の文献解釈が学問でなく、論者の想像/創造した「神がかり」としか思えません。
 何とも、不毛な論争に疲れ果てた諸兄の精神の荒廃を感じさせられる今日この頃です。

 近年の番組で見ると、一個人の提唱がNHKの思考を停止させているように見えます。

未完

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私の見立て ★☆☆☆☆ 壮大な空転 2017~2019/01/03  記 2019/01/13 追記 2021/01/03 2022/10/12 2023/11/23

*NHKの低俗化を憂う 
 今回、NHKの近年の古代史番組制作姿勢について手厳しく批判しているのは、以上のような愚行が、近年NHKの方針として進められている(と思える)からです。また、愚行の背景に窺えるNHKの古代史解釈に大変不満だからです。

*NHKの偉業紹介
 現時点(2022年)、NHKの公開アーカイブで、次の番組を見ることができます。制作時点の最新成果と考古学者の知見が提示され、無理な理屈づけとは無縁なので、安心して見ることができます。
 NHKオンデマンドサービス(有料)で随時視聴可能です。
Ⅰ NHKスペシャル よみがえる邪馬台国 全三回 1989年
 *吉野ヶ里遺跡が中心
Ⅱ NHKスペシャル “邪馬台国”を掘る     2011年
 *纏向大型建物が中心

 それぞれ、当時のNHKの総力を上げた、最善の労作と見え、取材動画に、それぞれ斯界の権威の見解を求めて、公共放送の面目躍如の手堅い番組で、これからも、かくあっていただきたいものです。
 いや、古代史学者の森浩一氏は、Ⅱの番組すら、拙劣と酷評しています。恐らく、纏向関係の報道が、特定の学派の提灯持ちに堕している」のを歎いたものでしょう。いや、森氏は、「貴重な国費が、根拠の不確かな考古学活動に、堂々と費やされている」ことを歎いていたと見えます。国費の出所は、善良な市民/庶民の納税したものに違いないのです。関係者は、自身の真の顧客(庶民納税者)を欺いて、終生、天に恥じないのでしょうか。

追記:「驚き桃の木」 2023/11/23
 今日見返して分かるのは、当時、纏向遺跡の桃種発掘の様子が紹介されていることです。いや、遺跡発掘で、貴重な発掘成果が、適切な扱いを受けずに等閑(なおざり)にされているのが、報道されているのです。
 三千個に上るという遺物は、もともと廃棄物として投棄されていたのか、大事な役目を果たした「厄落とし」として埋設されていたのか、素人には知る由もありませんが、少なくとも、深い坑に順次持ち込まれているので、考古学の遺物調査の常道として、遺物の層を、例えば、20㌢㍍ごとに順次取り出して、少なくとも、階層/位置を明記して資料保管されるべきであり、遺物とその周囲の泥を、全数が無理としても各層九ヵ所でも、明記して保管すべきであったと思われるのです。もちろん、現代のことですから、都度、「記念撮影」するものと思うのですが、どうでしょうか。

 そのように堅実な遺物管理がされなかった(らしい)というのは、当時の発掘当事者が、ここを単なる「ゴミため」としか見ていなかったと思われます。報道カメラの前で、水道水で洗ったと見える桃の種をぞろりとシートの上に並べているのが見えたからです。

 要するに、当時の発掘は、山師紛いの一発打開願望で「親魏倭王」の金印探しに熱中していて、誠実な考古学遺跡の発掘になっていなかったということでしょう。風聞ですが、望む成果が出るまで地域を発掘し尽くす」という壮大な抱負が纏向の総帥から示されていたようです。
 自費ならぬ公費の継続的な投入というのは、何とも壮烈ですが、納税者の立場では、国費の継続投入を正当化できるものではないと見えます。もう半歩進めると、所望の成果が出てしまうと、大規模な発掘事業は打ち止め/終焉となるので、事業を持続するためには、「余り早く見つけるなよ」という示唆とも見えます。

 衆知の如く、後年、これら桃の種が年代鑑定試験に曝されましたが、個々の遺物標本の埋蔵深さが分からないから、その標本が最下層にあったとも、表層付近で後年追加されたとも、わからないのです。また、個々の遺物の周辺の泥を残していれば、泥に含まれる有機物の鑑定で、埋蔵された年代が特定できたのですが、桃種自体を計測せざるを得なかったため、埋設された年代を特定できていないという弱みも呈しています。

 おかげで、年代鑑定が所望の結果を示すように、測定方法と測定結果の考証に多大な労苦を要しながら、遂に、確定的な結果を示すことができず、国際的な測定基準の信頼性にまで言及したようです。恐らく、依頼者の所望の結論が出なければ、以後、研究を委託しない、費用を支払わない」とでも指針が示されたのでしょうか。誠に、土壇場の悪足掻きとしか見えないのです。
 NHKの客観報道は、当然、そのような情景の描写を含んではいませんが、十分に明瞭に示唆しているように見えるのです。

 追記終わり

 それはそれとして、素人目にも、NHKは、相談する相手を間違えているのではないかと懸念されます。国民の支払う受信料は、特定の学派の保身に費やすのでなく、意義ある番組制作に投入する方が良いのでは無いでしょうか。それとも、多額の国費が費やされている事業を提灯持ちするのが、公共放送の任務とみているのでしょうか。

*NHK古代史番組低俗化の由来か
 今回の番組は、散発的な発掘成果から生じた「一説」を、論証も何もないままに、そして、てんでバラバラに、機械的、かつ強引に全国に塗りつけて、確たる定説と見せかける暴挙であり、各地で真摯な発掘活動を続けている関係者まで巻き込み、大変迷惑なものです。日本列島の考古学分野では、長年、着実に、古代史像を築き上げたものであり、そのような伝統的な考古学を「なし崩し」にしている動向は納得できないのです。

 NHKは、当番組制作に大変な経費を投入した手前でしょうが、臆面も無く、つまり、無反省で、連年年始に再放送していますが、NHKの変節が古代史界に悪影響を振りまいているのでなければ幸いです。それとも、ここで素人が批判しているような意見は、どこからも寄せられなかったのでしょうか。

 このような粉飾で、各省庁から毎年確実に関係予算を得ているとしたら、所管官庁も予算査定部門も、悉く「子供扱い」されているのであり、一納税者としては嘆かわしいものと考えます。

                                以上

私の意見 英雄たちの選択 ニッポン 古代人のこころと文明に迫る 再掲 1/17

ザ・プレミアム 英雄たちの選択新春SP▽ニッポン 古代人のこころと文明に迫る [BSプレミアム]
私の見立て★★☆☆☆  2018/1/3   2018/02/03記 復元再掲 2021/07/19 補充 2022/10/11

*NHK番組案内:チャンネル [BSプレミアム]
2018年1月3日(水) 午後1:00~午後3:00 (120分)
【司会】磯田道史,渡邊佐和子,【出演】里中満智子,中野信子,松木武彦,辰巳和弘,石野博信,倉本一宏
【語り】松重豊

ニッポンのはじまりスペシャル企画!最新事情を踏まえ古代人のこころと文明の成り立ちに迫ります。弥生人=稲作民という常識を覆す先進集落の実像とは?弥生人が銅鐸に求めた神秘のパワーとは?邪馬台国の女王・卑弥呼の出身地はどこ?司会の磯田道史が大興奮の古墳とは?さらに、悪役のイメージが強い蘇我氏が、この国に与えた影響も探ります。弥生から飛鳥までを一挙に駆け抜けてみると、ニッポンのどんな原型が見えるでしょうか

*再掲の弁 2022/10/11
 過去ログ点検の一環として、補充再掲したものであるが、本旨は維持されている。

*総評

 当方の知る限り、当番組は、昨年2017年にも放送されていて再放送である。昨年初見の際は、一般向け番組であり、個人的意見を批判する気になれなかったが、出演者は、権威者揃いでもっともらしい設(しつら)えであり、いっぽう、あり、「まんま再放送」という事は、ちゃんと諸兄姉から批判されていないようなので、一視聴者として苦情を申し立てることにする。

※番組方針逸脱
 当番組は、本来、歴史上の分岐点で、「英雄たち」が直面した選択を明らかにして、視聴者にそれぞれの選択肢を吟味させるものであったはずである。ところが、当特番は、「謎」の特異な解明を、てんでに言い立てて、言わば、羅列するだけで、そのような分岐点/選択肢は示されず、まことに無責任である。

※日本なき「にっぼん」文明
 この番組は、カタカナの「ニッポン」を連発するが、それは、八世紀初頭に始めて採用された「日本」の国号を古代史に使用する時代錯誤を避けたつもりかも知れない。しかし、所詮、一般人は、音声で識別するので、カタカナも漢字も同じ実態と受け止め、「ニッポン」と言っても、時代錯誤から逃げられないのである。「頭隠して」である。

 古代史の議論に、広域政権が広範囲を支配していたと錯覚させる「日本」、「ニッポン」は、「絶対禁句」である。り、まして、「日本列島」は大禁句である。当時、北海道どころか、津軽海峡も知られていなかったはずである。当時なかった概念は、視聴者に謝った理解を押しつけるので、断じて使用すべきではない。(古代史分野で、漠然とした地理概念として「日本列島」を使用し、「日本」、「ニッポン」 の乱用を避ける提言があったことを発見したので、意見の一部を撤回する

                     未完

私の意見 英雄たちの選択 ニッポン 古代人のこころと文明に迫る 再掲 2/17

ザ・プレミアム 英雄たちの選択新春SP▽ニッポン 古代人のこころと文明に迫る [BSプレミアム]
私の見立て★★☆☆☆  2018/1/3   2018/02/03記 復元再掲 2021/07/19 補充 2022/10/11

※嘘の皮
 当然、画面に日本地図を表示した上に何かの記号を無造作にずらずら表示して、視聴者に制作者の独善を押しつけ、誤解を期待するのも禁じ手であろう。安直であり「ウソ」(Fake)である。
 その意味では、本特番は、ほぼ一貫して時代錯誤の大安売りで公共放送の成すべきことではないと思う。
 「日本国号」を宣言した広域政権が成立した701年を画期的な「日本元年」として、それ以前は、一切「ニッポン」、「日本」を禁句とするのが、時代錯誤の戒めになるのではないか。

*記録なき偉業の謎

 さて、今回の特番では、倭人伝を除けば同時代記録がなく、遺跡や遺物などの考古学成果にのみ基づく思索を巡らしているが、公式記録が、官製史書日本書紀(書紀)に記述されてないことをどう考えるのだろうか。つまり、歴史の流れが記録伝承されていないという事は、これらの偉業は、現代に継承されていないと言うことになるのではないか。

※記録なき偉業 銅鐸文明

 「書紀」に銅鐸に関する「記事」がないのは周知である。
 「銅鐸文明」論は、一応、首尾が整っているように見えたが、結果だけ見ると、後世の記録に触れられることもなく、当然、倭人伝にも登場しないのである。もし、「書紀」が過去の世代の歴史を書いているのであれば、銅鐸の由来、効用、発展を記した後、何かの転機で廃棄されたと書くはずである。そして、銅鐸に代わって採用された「何か」について語るはずである。滅ぼされた先行文明は、紛々たる悪名を遺すが。銅鐸文明は悪名すら遺さなかった。「文明」などと栄冠を得たものが、かくも簡単に消え去るべきだろうか。
 つまり、銅鐸祭祀は、「書紀」を編纂した政権のものではなかったのではないかと思われる。

※記録なき偉業 大規模墳丘墓
 「前方後円墳」と呼んでいる墳丘墓についても同様である。
 「書紀」に、このような墳丘墓は、いつから葬礼に採用されたか記録されていないし、この型式を何と呼ぶか書かれていないようである。また、誰がどの墳丘墓に埋葬されたか適確に書いていないし、墓碑も残されていないと思う。
 当時、各墳丘墓には、所定の墓守を置き、四季礼拝や遺族の参拝を規定したはずである。盗掘、破壊の防止にも墓守は必要である。しかし、そのような記事は残っていない。墓制の大幅な変更は、天下の一大事であるから、布令があったはずだが、公式記録は残っていないようである。
 つまり、大規模墳丘墓は、「書紀」を編纂した政権のものではなかったのではないかと憶測するのである。あくまで、私見である。

                     未完

私の意見 英雄たちの選択 ニッポン 古代人のこころと文明に迫る 再掲 3/17

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私の見立て★★☆☆☆  2018/1/3   2018/02/03記 復元再掲 2021/07/19 補充 2022/10/11

※記録なき偉業 女子王卑弥呼
 よく知られているように、中国の魏王朝に使節を送り、倭王として認定された女王卑弥呼も、君主としての公式記録は「書紀」に書き残されていないと見る。
 「書紀」には、別の人物、即ち天皇の未亡人であり、かつ、後継天皇の母であった神功皇后の伝に、不正確な示唆が書き加えられているようにも見えるが、これは公式記録と言えるものではない。

※記録なき偉業 蘇我氏の新政

 蘇我氏は、財務経理の能力を有し、文書記録の能力があったから、広域国家の基礎となる文書行政の仕組みを持っていたと思われるが、伏兵に打倒され、その偉業は失われた。当然、君主として公式記録にとどめられていないが、仏教布教によって文明開化の礎を築いたことも記録されていない。

※司会者に「神がかり」逃避癖
 番組の進行で不可解なのは、司会者が、突然、神がかりして、個人的な感想を吐露することである。番組の定例で言うと、「選択」すべき課題解決策の考察材料を全部提示した上で、選択肢を明示し、参加者の意見を求めるはずなのだが、そうした手順もなく、神がかりで幕を引いて、次に進めるのである。
 番組に期待されるのは、遙か古代について思索を巡らすのに邪魔な現代人の先入観を捨てて、謙虚に古代人の視点に近づく理路を示して欲しいのだが、司会者は、古文書の残されていない古代を見通す目を持たず、行き詰まると、早口で呪文を唱えて片付け、誰も異を唱えないのである。
 現代人の勝手な呪文が通じるのは、現代から遡って、せいぜい江戸時代中期ぐらいまでであろう。それ以前の人々の思いは、根源から異なるから、現代人の呪文は全く通じないのである。
 いや、当番組は、本来、古人の感興を、個人の言葉で理解しも現代人に伝えるものではなかったかと思う。
 咥えて、司会が投げ出す神がかりの呪文の中には、番組の本旨に反する粗暴で不適切極まりないものもある。こうした暴言をたしなめる人も無く、暴言は暴言のままで終わっている。NHKも堕落したものである。

闇鍋事例
 当番組で、視聴者は、各部の当事者の断片的な主張の羅列を聞くだけで番組の最後に辿り着き、困惑の中に放りだされるのである。
 以下、当ブログは、当人もいやになるほど、懇切丁寧に問題点を指摘していくことにする。
 各研究者は、個人的な感想を述べる自由はあるが、必要な反証、反論から逃げて、不確かな私見を断定的に視聴者に押しつけるのはご勘弁頂きたい。
                     未完

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*「新たな弥生人像」
 先ずは、鳥取県青(あお)谷(や)上(かみ)寺(じ)地(ち)遺跡の紹介である。日本海沿岸に形成された沿海交易の多年に亘る繁栄の形跡が発掘されていることが示されている。丸木舟や釣り針などの漁具から、海産物を産出したと窺える。さらには、高度な技術を駆使した木製品のように、今日にも引き継がれている民芸品が認められている。
 当遺跡は、粘土中に気密状態で残されていた遺物が豊富であり、有力産地であったことを窺わせる。さらに、工芸品の工作に不可欠な鉄器が多用されていたと見えるのは、後代において順当なところである。
 古代にあっても、ものは、豊富に産するところから、豊富に要するところに自ずから流れていくものであり、年月を経て、流通したものだろう。

※専門家の錯誤

 専門家は、「輸出」とか「海外交易」とか「付加価値」とか、現代用語を無造作に当てはめるが時代錯誤であろう。当時なかった言葉や概念は控えるべきである。ものごとには、全て萌芽の時代があり、成長期がある。いきなり、成人に達するのではない。
 しっかり、おつむのねじを締め直して欲しいのである。

※ついでに神がかり

 そこで神がかりを呼び出した司会者は、小声の早口で「意味が集団で共有されているのは哲学・宗教に近づいた段階」と言うのだが、現代語としても意味不明で、二重の意味で場違いな時代錯誤で番組を混乱させた。追い打ちで、「シンボル社会」などと意味不明な言葉を言うが重ねて場違いである。古代を全く理解してないのであろう。
 それにしても、文書無き世界で、どんな言葉で抽象的な教義を異郷に伝道したか。まことに不思議である。

※広域政権の幻
 古代史学「定説」派は、さしたる根拠のない信念に基づく確信を形成していて、それは、奈良盆地中部、中和の政権が、周辺限定の地域政権でなく、西は九州北部から東は関東まで、東西を支配した広域政権との「定説」である。この番組で説かれているのは、政権中心を遠く離れた一隅で、それこそ、東西はるかな範囲に鉄器を供給していたとの作業仮説であり、両者は整合しない。
 それほど大規模な工房が鉄器の対価として入手した財貨は、どこに埋蔵されているのかということもある。

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※鍛冶工房幻想
 唐突に滋賀県稲部遺跡の鍛冶工房の話になる。断りなしに二ヵ月前と言うが、同遺跡の発掘報道は、2016年10月であるから、今回放送から一年二ヵ月前である。NHK番組の再放送時の態度として、大変不用意である。
 新聞発表時に丁寧に批判したので、ここでは極力手短に止めるが、要は、自身の所説に合うように、遺跡、遺物の考古学的考察を創作するのは、「発掘に投じられた公費を私物化する」不穏な態度と思うのである。

 他の遺跡と同様、稲部遺跡は、現にそこにあるのであり、発掘された遺物も、間違いなくそこにあるのだが、年代比定や他遺跡との関連は、現代人の思惑が強く作用するので、不確かと見ざるを得ない。

 建物の規模から見て、当時近畿地区屈指の大勢力と言うが、「当時」がいつかという大きな課題を抱えた発言である。もちろん、当時「近畿」などと言う概念は無いから、無意味な発言とも言える。
 これに対して、当番組で、現地責任者が、大風呂敷を広げず、広域供給の可能性に止めたのは賢明である。自己中心の大風呂敷で転けている学識者は、枚挙のいとまがない。怒鳴りまくらなくても、「可能性」は、否定しがたいのであるが、確実と断定するに近い排他的な物言いは、当然、多くの非難を浴びる。

※死の商人
 出土した鉄鏃を武器に限っているが、当然、狩猟の具でもある。当時の住民は、年中戦争していたと見ているのだろうか。因みに、鉄鏃ならぬ石鏃は、今でも、生駒山系の田地から出土するらしい。山上と麓で、やり合っていたらしい。
 「大乱」説を絵解きすると、数十人同士で一時間も矢戦すれば、何百本と矢が飛び交う。当然、双方とも矢避けするだろうから、当たるのは一部で、大半は外れである。もっとも、威力の無い矢であれば、当たっても、大抵は、浅手の傷である。
 と言うことで、軽い手合わせ、弓矢合わせでも、何十年と続ければ、そこら中鏃だらけではないか。乱世万歳。古代の死の商人は、繁盛したことであろう。
 鉄鏃は、工房の限定生産であるから、数に限りがあるが、石鏃や骨鏃なら、各家庭の内職で、山ほど造ることができる。どちらが、小競り合いに有効かは、言うまでもないだろう。

※鍛冶工房願望
 丁寧に言うと、関係者の強い願望にも拘わらず、この番組に示された鍛冶工房観は、不確かである。工房の存在は明らかだが、この規模の工房を運用した経済活動は、いつのものか、どの程度の期間続いたのか、誠に不確かということである。
 それにしても、当鍛冶工房は考古学体系にはめ込まれていないので、勝手に時代設定や社会背景をあてるのは禁じ手である。
 因みに、「鍛冶」と言う言葉がこちらで生み出されたように、鍛冶技術は、中国由来と言い切れないのである。

 ともあれ、再現された規模の「工業団地」に必要な鉱物と燃料の供給は広範囲であったろうし、多くの専門技術者が従事し、技術者食料など生活維持は、大規模であったろうし、大量の産物の供給先も広範囲と思われる。その程度の画餅であれば、文句も付けにくいのである。

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※更なる「神がかり」
 そこから司会は、時折示す神がかりを、またもや駆使して、ブツブツ呪文の後、「シンボル社会」など意味不明の発言であるが、このたびも意味不明の塊である。古代にそんな概念はなかったから、無意味な自己満足ではないか。
 続いて喚いているが、甲骨の亀裂から啓示を読み取る儀礼は、簡単に体系化できるものではない。殷墟の甲骨遺物は、無数の文字を読み取ったと示していて、決して、安直な「神がかり」ではない。一種理詰めなのである。実見したらいかがかと思う。
 鉄素材を輸入したと言うが、どうやって、輸入代金を支払ったかの示唆も無い。奪い取ったというのだろうか。

※戦争の創造
 続いて、鳥取で出土した殺傷人骨が語られているが、同時代遺物との確認はされていないのではないか。いずれにしろ、当時、百人や一千人ではなかったはずの地域人口の、ごく数例に過ぎない。特に意義を見る必要はないのではないか。また、武器は鉄に限らない。銅鏃も出土していたという、程度の認識である。
 水利争いなど周辺集落と起こしがちな諍いを仲裁するために、各地に氏神があった。地区ごとの力関係を確かめるために、祭りで力比べしたはずである。
 古代における「戦争」が語られるが、「戦争」は国家間の紛糾を解決する正当な手段であり、国家がなければ、それは私闘、あるいは、野盗の不法な襲撃であって、「戦争」と正当化することは許されない。「連合」が成立していれば、「連合構成員」間の紛争は、「戦争」でなく、私闘に過ぎない。せいぜい、内戦(Civil War)である。呆けたことを言わず、おつむのねじを締め直して欲しいものである。

※幻の略奪者
 ということで、大量殺傷は、遠距離から侵入した外来者の仕業と見るとして、稲作振興で富・財産がたっぷり貯蔵されると言っても、互いに犠牲の出る「掠奪」で勝ったとして、一年分の米俵を地の果てまで担いで帰るのは戯画ではないか。掠奪行の間、兵士達は精一杯食べるのである。戦果で報いる必要もある。丸儲けとは、ほど遠いのである。むしろ、歩留まりは悪いのである。

 そんな掠奪行は、毎回成功するわけはないし、それでなくても、必ず、互いに死傷する。奪われた側は長年にわたって、収穫不足に苦しみ再掠奪できない。総じて言うと、東夷における掠奪行は持続できない愚行である。そうそう、掠奪行は、牛馬の無い徒歩行であることも、忘れてはならない。さきほど、「担いで帰る」と言ったのは、その意味である。
 服属させて、徴税することにすれば、米俵は、向こうから勝手にやって来て、誰も死傷しないのである。これは、歴史の示すとおり、末永く持続するのである。まことに、賢明である。

※困ったときの「神がかり」
 またもや、司会者は、環濠集落が、「内外隔絶」をもたらし、外のものが内のものを情け容赦なく殺戮したと「神がかり」する。
 どんな根拠で、そのような無頼の論理を練り上げたのか、むしろ、個人的な妄想ではないのかと言いたくなる。環濠集落と言っても、敵襲は、ちょっとした工夫で乗り越えてくるので、「内外隔絶」などできたものではないし、仮に、石や土の壁、城郭を巡らしても、厳重に隔離すれば万事自給自足となり、封鎖されれば早晩自滅と見える。
 何しろ、耕地は、環濠外に求めないと、聚落は自壊するのである。まして、「都市化」などと「神がかり」すれば、集落内の耕地は住居化せざるを得ないのである。
 総じて、司会者は、何かの妄想に駆られて、思考が混乱しているようである。一般向けの古代史番組には、健全な思考力が望まれるのである。人選を考え直した方が良いのではないか。

 また、そうした異様な「文化」、殺戮掠奪思考の「ココロ」が、どこからやって来て、どのように引き継がれたか語っていない。少なくとも、江戸時代以降、そのような掠奪専業者は出ていない。番組の本旨にどう関係するのか。それとも、司会者は、盗みや殺戮が、古代以来受け継いできた、われわれ固有の「文化」というのだろうか。

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※環濠内外
 言うまでもないが、環濠集落でも、耕作地の大半は環濠外である。隔壁ならぬ環濠は、本来、内外の隔離手段でなく、生活用水路や運搬手段ではないかと思える。また、熊やイノシシなどの野獣の侵入を防ぐ目的も含めて、平時の役目があったはずである。

※時代錯誤、用語錯乱

 それにしても、歴博の方の口ぶりは、時代錯誤連発で、一般人には、理解困難である。一般人に理解困難な言葉を粗製濫造して何が伝わるのだろうか。
 サービス業的な経済観念が芽生えていたとおっしゃるが、当時カタカナ語は一切なかったし、現代語としても「サービス業的な」「経済観念」なる現代風の専門語、一般人が判じかねる呪文めいた用語は、世間に通用していない。当時の社会が見えたとしても、そのような時代錯誤の呪文で何を言いたいのかわからない。そして、そのような呪文は、言いっぱなしで何も補足がない。視聴者がわかろうがわかるまいが関心ない感じである。
 それにしても、当時占い暦があったとはユニークな発想である。だれが暦を伝えどのように広報したのだろうか。時は、鉦や太鼓で伝えられるが月日はどうしたのか。

※付加価値の時代錯誤
 歴博の方は、ここで「付加価値」なる迷言を吐くが、「付加価値」とは、例えば、剣に、束や鞘を付加するように、剣は剣のままで、つまり、産品自体はそのままで、装飾や付属物を付け加えることで、産品全体の市場価値を高めるものである。だから、価値の増えた部分のことを「付加価値」として訴えるのである。金属素材を鋳造なり鍛冶加工して、産品を作るのは、素材から産物に、ものの性質が全く変化するので、価値も一変するのであり、「付加価値」などとは無縁である。これは、現代でも同じである。

※価値の基準なき世界
 また、当時は、広い世界で普遍的な通貨がないから、市場価値なる、価値判断は、当事者によって異なる。
 さらにいうと、素材を買ったときに売り手が評価した価値と産品を売るときに買い手が評価する価値は、比較対照しようがないから、価値の増減は評価しようがない。その意味でも、「付加価値」なる現代用語は、適用しようがない。時代錯誤、用語錯乱の悪例である。

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*謎の青銅器銅鐸
 淡路島の銅鐸発掘の成果を見て、新たな角度から銅鐸に考察が加えられている。
 因みに、今回の発掘で出色なのは、舌の実物が出土したということである。鐸が、内部に吊した舌によって発音するのは古くから定説となっていて、中でも、内部に木製の舌を吊す鐸は、木鐸として知られていた。
 「銅鐸文明」は、銅鐸を核心とした一つの風俗、宗教体系であるから、核心が滅んで文明全体が滅んだのであり、つまり、文明の担い手が滅んだということである。

※「文明」の大安売り

 特番では、東夷の古代史に「文明」を、捨て値で大安売りしているが、少なくとも、本来の中国語の「文明」は、文字使用と文字記録が必須ではなかったか。いくら芸術的な完成度が高くても、文字なき「文明」は不合理である。以下、仕方なく「文明」と言うが、同意していないことは明記しておく。
 言ってもしょうがないのだが、安直な受け狙いの言葉の安売りは、直ぐ「大安売りの捨て値」が普通の値頃感になって、無感動になってしまう。最悪の販促策である。
 別の場所、別の論者によると、いまや、甕棺埋葬のような、葬礼形態まで、文化、文明視されるご時世である。

 さて、それはさておき、ここで提唱されているのは、銅鐸時代は、日本海から畿内に齎された技術と鉱物で、独自の高みに達したというものである。根本的な不審は、かくのごとく銅鐸を最高の崇拝対象としていたものが、ある日、その崇拝物を残らず埋めてしまう精神構造は想像できないということである。
 一時、鐸を至高と称揚していた支配層が全滅して、銅鐸文化・文明は、断絶したのではないか。その証拠に、今日、木鐸を粛々と鳴らしても、一般人は特段感動しない。

※銅鐸音の衝撃
~また一つの妄想
 民博の方は、『銅鐸音は、初耳に衝撃を与える』と言うが、しょっちゅう鳴らしたら初耳もないものだと思う。そこに、別の専門家による「神がかり」で、「音は思考を停止させる」と言うが、意味不明、理解困難な呪文である。人の思考が停止するのは、死ぬときである。
 それまでも、銅鼓などの金属音は、折に触れ聞けたはずである。いや、思考が停止するような相手がだれか知らないから、断言はできない。

※「神がかり」、また一つ~終わりなき妄想
 司会は、またもやの「神がかり」で、「銅鐸の音が稲の成長を促す」と言う。音の肥料とは物騒である。古代人は、稲の生長に日照と灌漑水が必須であることは知っていたし、収穫期に襲来する雀が、稲穂を食い散らすのは知っていたろうが、金属音を鳴らし続けないと、穫り入れが伸びないとは思っていなかったと推定している。と愚考する。誰も、司会者の「神がかり」を止めないのが不可解である。

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*驚きの大型建物群
 纏向建物群の時代比定は、時代に似合わぬ工法を想定していて、玄人筋の疑惑を招いているようである。 
 素人なりに考えると、後世、仏寺建築に半島から技術者を招請したときには、すでに鋼の大工道具が到来していて、製材工や大工を養成できていただろうから、大規模建築に必要な長寸の角柱が製材できたように思う。
 この点の見極めは、纏向建物群の時代考証に不可欠だが、説明者は、この点を言いたくないようである。

※柱穴と柱
 素人考えで恐縮だが、纏向建物群が三世紀前半のものだというのなら、当時建造可能な丸柱で、屋根の低いものであったろうと感じる。
 纏向建物群で、角柱穴が出現したことから、たちまち画期的な角柱が採用されたと提唱されているが、丸柱に角柱穴を掘ったのではないかとの批判に応えていないようである。
 つまり、敷地縄張り時に、各柱穴の位置を決定するが、その際、想定位置に角穴を掘ったのではないか。それだけである。
 建築の際の各部の組合で、位置調整が予想されるから、大きめに掘った可能性がある。それまでは、個別の建物の縄張りの際に、柱穴位置に柱材を据えて、現物合わせで丸柱穴を掘ったのではないかと思うのである。
 建物の高さは、柱穴から推定した柱寸法による柱強度に従い計算するのだろうが、柱が柱穴より細ければ、推定高さは低くなるものと思う。雨の多い日本では、中国式の構造に比べて、屋根の傾斜を大きくして、雨水の排出を促進するのだが、これは、屋根が高くなることになり、瓦葺きにしろ、萱葺きにしろ、屋根屋泣かせと思うのである。
 是非、当時の工事手順を考慮の上、妥当な配慮をいただきたいものである。

※画餅技術の発展
 表示されたような概念図を描き上げるのは、CG技術者には児戯の類いであろうが、少なくとも要所に角柱が揃わなければ、このような大規模建物は、実現困難な「画餅」と思われる。何より肝心な、材料力学的な構造計算はどうなっているのだろうか。
 当時の遺物に描き残された建物外観も、現実の記録なのか、関係者の願望なのか不確かではないか。

※屋根屋の嘆き
 さっさと描き進んだ萱葺きらしき屋根は、どんな足場と道具でこの高さと傾斜としたのか。すでに、練達のとび職や屋根屋がいたのだろうか。また、高温多湿の夏、急速に進展する雑草繁茂や鳥や虫の害をどんな手段で防いだのか、興味津々である。
 あるいは、隣接する建物からの飛び火は、どう考えていたのだろうか。

 後年、葺替に要する人員の動員と萱材調達が困難で、20年程度で廃棄したのではないか。材木を、わら縄で結わえたとすると、その辺りが限界とも思えるのである。ある意味、建て替えで、工事関係者を維持していれば、民家の大型建物がない時代、技術を維持できたのではないか。

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※直列配置という「選択」

 因みに、建物群を一直線上に揃えるのは、総設計者が、方針を立てて指示するだけで、何ら超絶技術を要しない。建物群を乱雑にせず整然とする選択肢は、当然と思われる。
 さらにいうならば、洛陽城等の大規模都城は、直線配置にしなければ構成できず、権威などと言ってられないのである。
 これほどの建築物を構想、作図、施工監督できるほどの人材であれば、手元にいろいろ前例を書き留めていたろうから、別に驚くことはなかったと思うのである。
 いずれにしろ、一旦建物の建築が始まれば、縄張りできないので、整然と配置できないことは、自然の理である。全て、段取りの問題であり、経験豊かな総監督と手際のよい大工頭が揃って始めてできることである。

※突然の角材建築

 要は、鋸(のこぎり)も鉋(かんな)もない時代、柱材にする木材を山から切り出して角材に製材するとき、定寸に仕上げるのが大変困難(実際上不可能)であったと愚考する。伐採地近くでの製材段階から入念に指導しなければ、必要な木材の必要な寸法の角柱は手に入らない。
 鋼製大工道具が大量にあれば、時間をかけて仕上げることはできるが、三世紀前半、そうした大工道具を駆使する大工を揃えられなかったはずである。手近な盆地周辺で柱材を伐採したとしても、所要の角柱を揃える困難さは絶大ではないか。

 ついでながら、後世の寺社建築のように、角柱をほぞ組みして組み上げるには、当時の在来技術から見ると、超絶的とも言える設計技術と加工技術が必要であり、しかも、設計図面のような実制作の裏付けのない、単なる構想(コンセプト)では、俗に言う画餅であり、とても実現できなかったと思われる。

 繰り返すが、ここで想定している纏向建物群は、とても、三世紀の技術ではできなかったものであろう。できていれば、当然、直ちに君主の居所など実用に供されていたはずである。

※応用展開
 それにしても、木造建築の技術と経験は、墳丘墓の採石、土木工事は、専門外であり、ほとんど生きなかったと思う。おそらく、現場監督は、総入れ替えになったと思われる。用材の伐採、製材に始まる建物群の大規模技術は、建物にしか活かされないのである。
 地の墳丘墓造成には、新たに訓練した職人が多数派遣されたはずであり、それぞれ、文書化した指南書を持参したはずである。かなりの人数が、読み書き算術に習熟していたはずである。各地で、次々に新規増成ができたのは、組織的な運用が成されたからだと思われる。

 巨大な墳丘墓の造成は、大仕掛けであり、文書連絡と記録無くして達成できないからである。と愚考する。

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※纏向遺跡の出現 未踏の大事業
 続いて、纏向の権威者は、「箸墓古墳」が最初の巨大古墳と言い放つが、異論は多数あるであろう。なぜか、百メートル台は「巨大古墳」でなく、二百メートル台になったのが、画期的という意味が不明である。と愚考する。

 民博の方は、纏向が巨大墳墓の最初と決めつけていて、その勢いで、ここから巨大墳墓造成の指示を出したために、結果として絶大な権力が形成されたように言う。
 しかし、これほどの巨大な造成が破綻せずに実行できたのは、読み書き算術に熟達したものが、文書で計画管理し、古代国家の要件を備えていたからだと思う。権力という力尽くでなく、「知」の集結であろう。
 どの墳丘墓が最初であれ、地域初の前例なき巨大墳墓は、前例なき広範囲から、前例なき大量、長期動員することが必要であり、そのような前例なき指示を出し、どれだけ年月を要して、どれだけ苛烈に強制したかは別として、最終的に完工できるまで、地域全体を管理、服従させたということは、それ自体、文書行政に基づく、前例なき強固な機構が確立していた証拠ではないか。
 「読み書き算術」を供えた、有能な官員が多数教育、育成されていなければ成り立たない話しである。
 そのような偉大な「国家」機構が、順当に後継されず消えたのは不思議であるが、それは、当方の知ったことではない。

※中和への物流の担い手
 「もの」は、自分で移動する足はないが、近隣交易の連鎖によって、バケツリレーのように集落間を移動して、終着地に到着するのである。と愚考する。
 行商人が担いで回ることもできる。鉄斧、石材や米俵は無理だが、釣針、縫針の小物を背負子一杯担いで行けば、どこに行っても、寝泊まりできるし、食うに困らない。

※隘路談義

 当シリーズの別の回で、平城京の物資隘路に業を煮やした聖武天皇が、なら山越の恭仁京や竹ノ内越えの難波京への遷都を行ったとしている。
 平城京南方の纏向は、三―四世紀は、人口集中が進んでいないから、物資輸送の隘路はまだ深刻でないにしても、河川交通に恵まれていないという本質は同じである。
 さしあたっては、背負子担ぎとすると、峨々たる竹ノ内峠も、東側の急斜面「片峠」といえども、つづら折れの道をゆるゆる上れば、大抵の人の力で越せるのである。現に、近年まで、旧道は「つづら折れ 」の好例だったのである。なお、この経路を「片峠」というのは、河内側が、随分緩やかな下りで、難所でも何でもなかった/ないからである。

 一方、淀川水系の終着地木津から緩やかな「ならやま」越えなら、竹ノ内越えよりずいぶん楽なのである。
 当時の社会は、地域政権の所帯が、大量の食糧搬入なしに生存できる程度で、人口安定していたはずである。

 まほろばは、稔り豊かな桃源郷ではないと思う。

                     未完

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※纏向のまほろば
 隘路談義のついでに、纏向運河について雑感を述べると、運河遺跡の語るものは、常時そのような水運があったという事ではないであろう。纏向付近は、東方の山地から流れ下る河川の渇水と氾濫に苦しんでいたはずであり、運河は用水路、排水路となっていたと推定する。
 そのような、言うならば複合扇状地状態であったため、南北交通は、ながく、山腹を蛇行する「山辺の道」に頼ったのである。ために、狭隘で駄馬の陸運は運用できず、人力の背負子運びと思われる。

※幻の大和川水運

 同様に、盆地西方から河内平野の経路は、主に、竹ノ内峠越えのつづら折れの山道であったと思われる。
 大和川は、そもそも急流であり、時として暴れる川であるから、遡行の水運は成立しがたい(実際上、運用不能)と思われる。遡行を維持するには、人力または馬力曳き船が必須であるが、大和川の川岸にそれらしき曳き路が通じていた形跡は見つかっていないと思う。
 考古学者によると、海船が大和川を南下遡上して、柏原辺りの船だまりで荷下ろししていた形跡があると言う。ここまでは、正確な推定だろうと思う。そこから、一回り小振りの川船で大和川を遡行して山越えしたと推定しているが、先に述べたように、それはできない相談であり、実際は、陸送に切り替えたのではないかと思われる。

※喪われた大和川水運
 「元々遡上できなかった大和川が、纏向造成時代に開鑿されて、建築資材などの重荷を搭載した川船を曳いて遡上した」としても、平城京時代は、劃然と途絶したかと思う。
 遡上運行が続いていれば、語り継がれているだろうから、そう思うのである。後年設営された平城京は、盆地北部の「なら山」のすぐ南であり、大和川水運から、大変大きく遠ざかっている。纏向ですら、大和川水運の対極なのだから、その北方となると、何かの理由で忌避したのかということである。

 因みに、当番組では、古墳造営故事のどさくさ紛れに、大和川を遡行して石材を大量運搬したとか、九州方面から瀬戸内海を歴て貢ぎ物を献じたとか法外な空想まで持ち込んでいる。河川を遡行する水運の難点は、河勢に逆らって船体全体を引き揚げる大変な労力にある。まして、大和川の急流を奈良盆地にまで引き揚げるなど、とんでもないことである。そう思わないのなら、冒険航海を試みて頂きたいものである。

 纏向領域で、九州を含む各地産物が発掘されたのは事実だろうが、三世紀当時は、それほどの広域を実際に支配した政権が存在しないから、政権が指示して、はるばるここまで貢納させたわけではないのである。
 大層なことを言わなくても、地域間交易の鎖が繋がっていれば、誰かがわざわざ持参しなくても、月日は要するが、大抵のものは自力で到来するのである。「纏向」説は、当時限りの「共同幻想」と思えるのである。

 ついでながら、当特番では、大規模墳丘墓を、ほぼ纏向地域に限っているが、吉備や河内、さらには、南山城の墳丘墓については、ほとんど語らないのである。これも、不思議である。

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*「邪馬台国」論
 ここまでの議論は、遺跡・遺物に基づく文献のない考古学的な議論なのだが、ここだけは、同時代文献が残っていて、その解釈に議論が集中するはずなのである。つまり、遺物考古学は、確たる文献の前では、一歩下がるものなのだが、当番組は、考古学的憶測のべた塗りである。
 ここに「邪馬台国」が来るのは、纏向墳丘墓が、卑弥呼遣使を時代的に遡るという一説に基づいているようである。しかし、「魏志倭人伝」では、中国側の窓口として倭を含む東夷との交流を管理した帯方郡は、纏向政権との交流を記録していないと見る。この難点は、重大である。
 帯方郡が消滅した後は、中国側に詳しい記録がないから、好きなように言えるのである。

※迷走・誤読の海
 「邪馬台国」論は、いきなり、「倭人伝」の誤読に始まる。と言うか、勝手に「後漢書」など後世編纂史書を取り込んだ、と言って失礼なら、自己流の創作を持ち込んでいる。過去一世紀に余る集団創作活動の成果であるから、多種多様な手口で、高く、低く、深く、浅く、掘り下げている。其の壮大な偉業には、理屈抜きで感銘を受けるとともに、それ故、絶対不屈、断じて不退転の意気を見てしまうのである。しかし、学術的な論義は、行きがかりや力業で決まるものではない。
 「倭人伝」に基づく議論というならば、三十国乱立も、七、八十年の「倭国大乱」も、各国総意の女王擁立も、全てが文献に根拠を持たない創作である。そうした大げさな表現の出所は、笵曄「後漢書」倭伝であるが、表向き、陳寿「魏志」「倭人伝」だけが史料と言うことで、その点に触れていない。言い古された事項だが、「邪馬臺国」も「後漢書」にあって、「倭人伝」にはない。つまり、これも「創作」である。もちろん、「創作」は「ウソ」などではない。
 このように、出発点で大量の「創作」を持ち込むのは、「倭人伝」にない広域政権を土台にして、各説を展開したいという下心の表れなのだろうが、ちょっと行き過ぎている。と愚考する。

※卑弥呼の出自
 不毛な所在論を飛ばして、「卑弥呼の出自」を論じようというのだが、問題点がなおざりにされて各論言いっぱなしである。と愚考する。当番組は、ここまで、しきりに纏向政権を拡大投影しているが、当該政権の実力として、瀬戸内、中国路を通じた九州支配も当然としているようである。ことは、信念の問題で無く、学術的な論証を要するのであるが、裏付けが無くて、提示できないという事なのだろうか。
 司会は、三世紀冒頭の世相のように言い立てるが、その時点で、北九州の伊都国と中和の纏向政権が一体化して、連合国家を形成していたというのは、更に一段と裏付けの無い話であり、到底、立証が無理な話と思う。
 そもそも、「倭人伝」を読む限り、この時代、倭の諸国は、主要国を除けば、王統の確立していない、不確かな寄り合いであり、とても「国家」などと呼べるものではなかったはずである。大半が国家になっていない集落が、多年に亘って互いに争い覇権を求めるというのは、単なる幻想である。と愚考する。
 そもそも、倭の国々が、全て王制を確立、継承していたというのは「後漢書」の「創作」である。司会は、無造作に諸国王と言うが、勉強不足の誤解発言である。と愚考する。

 「倭人伝」を虚心に読めば、「男王」に諸国不満となったとき、「男王」の親族で終生独身の巫女として勉めていた「一女子」を、主力数国が、挙って支持したと見て取れる。いや、「男王」すら、自身の孫の世代に譲ることで、得心したと見える。
 冷静に見ればわかると思うのだが、鬼神、つまり、諸氏族共通の祖霊に仕えることは、王族子女でなければ許されないのである。つまり、「一女子」の身元は、この上もなく確かだったのである。
 このあたりは、到って視線な推定と思うのだが、当番組を含めて、ほとんど聞くことがない。 

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※広域連合の虚妄

 「交通手段が未開通で、しかも、文書通信の存在しない、できない時代、九州北部の筑紫と中和(中部大和)の纏向を結びつけた広域連合が成立していた」というほら話に従うと、事ごとに不審感がやってくる。
 例えば、伊都での一人の人物、一女子(卑弥呼)の擁立について、中和(大和中部)の地方政権であり、倭人伝に名の出ていない纏向政権がどうやって知り得たのだろうか。
 一ヵ月どころではない行程を駆けつけた伝令による召集を受けて、一か月どころではない行程を歴て、遠隔地の連合総会に出席するのだろうか。とても、国の体制を維持できないと思う。

※音信不通
 広域連合だと、立候補者に賛成するには、その場で投票するしか手段がないし、連合総会の決議に不満を抱いて脱退しても武力制裁のしようがない。諸国一体化どころか、けんかもできない遠隔交際である、と愚考する。世上の各兄姉は、当時、中和纏向から九州北部に届く広域政権が成立していて、一貫交通ができていたと、はなから決めてかかっていて、論点は、広域政権所在地だけのようになっている。しかし、三世紀前半、東西の果ての相互間の連係に関して、何らかの物資の流通があったということを示すとされる貴重な出土遺物以外に、何を巨大政権説の根拠にしているのだろうか。

*近隣交易の連なり
 それにしても、多少の産品であれば、交易の鎖を辿って、数百㌖を、数か月、数年を経て移動できるが、一気に持参などできないのである。嵩張って、重みのある壊れ物の土鍋については、ますます、鍋釜担いで参上とは行かなかったと思うのである。まして、遠隔地にも、鍋釜はあるから、担いで行く理由がないのである。

 近隣取引であれば、買い手の求めに応じて提供するだろうし、都度、取引の一環として交換を重ねていけば、誰も急かさないので、始発点から終点まで、数年かかっても問題なく届こうというものである。太古以来、ものが「豊かなところ」とものが「乏しいところ」を仲立ちするのが、近隣交易の走りだったのである。近隣交易であれば、掠奪も詐取も、ほとんど心配なかったのであるし、途上で、遭難、徒死することも、ほとんどなかったので、大した利益がなくても、言うならば、近現代に到るまで、細く長く続いたのである。

※狹域連合の勧め
 結局、三世紀の社会に見合うものは、広域ならぬ狹域連合でしかない。と愚考する。新王擁立の諸国総会は、諸国が出席に数日を要する範囲に限れば、なんとか想定できるのである。もちろん、それはそれとしても、通常の手順としては、月に一度、国王臨席の朝会に参集できるかどうかである。
 文書通信のない時代、報告、連絡、指示、通達は、面談するか、伝令の伝言しかないのである。相互に、報告、連絡、指示、通達がなければ、統治-被統治の関係が維持できないのである。つまり、「列島制覇」などと言わずに、ほぼ筑紫内の狹域連合であれば、各国から盟主に税務、労役、軍務の義務が果たせるのである。

*名のみの連盟
 連合の中核を成す、言わば正会員の列国、例えば、対海、一大、末羅、伊都の「倭人伝」道里記事上の四大国は、密接に連携していたとしても、残る名のみの諸国は、別に、連合の運営に参画しなくても良いから、正会員でなくて良いのである。北九州一円、と言っても、実は、「筑紫」界隈であれば、遠隔地と言っても知れているのである。(目立つ例外の「奴」、「不彌」、「投馬」の除外は、話せば長くなるので、ここでは脇に置く)
 まして、一部の論者がこだわるように三世紀に中和政権による広域支配を想定したとき、筑紫から中和まで大量の食糧貢納は不可能であるし、人員の労役、軍務派遣も同様に不可能である。何をもって支配というのか疑問が絶えない。あり得ないという方が、随分簡単で、明快である。

*なかった諸国盟約
 諸国盟約の証しとして、人質でも取ったのだろうか。中国古代の周王は、封建の際に、盟約の証しとして金石文を刻んで渡したとされているが、三世紀当時の東夷では、文字を読めない国主が大半であったろうし、どのみち、王位とともに盟約が継承される国王ではないので、代替わりすれば作り直しであり、とても、やっていられなかったはずである。近所づきあいの取り決めであれば、別に、金石文で誓約する必要はないのである。
 色々、時代、地域相応に世界像を考え直していただいた方が良いようである。
 そうそう、これは、遠隔諸国まで総出で総選挙して、女王を共立したという年代物の戯画は、ヒビの入った骨董品の博物館遺物(レジェンド)にして、退席いただいた方が良いとする俗説批判でもある。

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*新たな時代の改革者 蘇我氏遺訓
※見当違いの比喩
 当特番は、蘇我氏については、大分適確と思われる評価を伝えていた。感動的とさえ言える。
 それにしても、権威者が、文書行政という古代国家の骨格を、「インターネット」に例えたのは、大すべり、大外れである。「インターネット」は、情報収集の場であって、無理して例えるなら、道路網のようなものである。「インターネット」自体は、何もしてくれないし、有用な作業ツールでもない。次に出て来る「グーグル」は、NHKの番組であるから、おそらく、特定企業や商品を宣伝するものではなく、検索中心の「機能」を目指すのだろうが、大事なのは「フェイク」と真実を見分けて、有効な新知識を自分の思考の糧とすることであって、検索手段などではない事は言うまでもない。
 凡そ、専門家に求められるのは、専門分野における深い学識であり、自分で良く理解できていない生かじりの比喩を持ち出すのは、専門外分野について混乱した脳内を露呈している。
 自分の持ち分の中で語るべきである。と言うものの、勘違いの比喩が堂々と主張されるのは、古代史分野で日常的な現象であるから、氏が、特に失態を示したというわけでは無い。

※先駆者の偉業 「普通」の意義
 思うに、蘇我氏が導入した文書行政は、文字コードのUniCodeになぞらえるべきものだろう。土地ごとの言葉の違い、あるいは、身分や職能ごとの言葉の違いを融合できる共通基盤を提示したものと思う。話し言葉は分かれていても、書き言葉、そして、計数管理を、普通(広く通ずる)、つまり、普遍的にしたと思うのである。
 素人考えだが、文書記録に残っていなくても、そのような堅固な基礎が普通のものになってあって、始めて、八世紀型の統一政権が成立したと思うのである。
 集団内に読み書き算術者が多数いて、経理部門や戸籍簿作成、管理の書類作成部門があり、各工作部門の資材管理、納期管理部門があり、と、後世の産業的な組織が成立していたものであろう。事態を越えているといわれそうだが、古代メソポタミアの古代国家バビロニアなどでは、粘土板上に楔形文字を書き込む記録方式とは言え、既に、経理技術者の養成学校が成立していたのである。これこそ、「文明」と呼ぶに値する偉業である。

 蘇我氏が駆使していたのは、「スキル」、つまり、個人の技能の結集であり、それこそ、五年、十年の周到な訓練を経て始めて継承できるのである。読み書き算術の教育訓練のために、私学、私塾を運用していたのであろう。もちろん、全て、勝手な推測である。

※文書国家の創世
 文書行政は紙行政であるから、組織内には、自製化した事務用紙が大量に出回っていて、遠隔地の出先が一片の紙で指示されて動作する先進性を有していたと思う。そのため、遠隔地と私的な(つまり、当時の中和政権の物ではない)文書便を運用していたと思う。そのような運用に必要な通貨も、何らかの方針で運用していたものと勝手に思うのである。

 組織の中核には、日々の活動を記録し、定期的に業務報告を奏上していた史官がいたと勝手に思う。「書紀」に上げられている史書の主要部は、蘇我氏の史官記録であったと勝手に思う。

 終始、勝手な言い方で言うと、蘇我氏は、れっきとした「古代国家」であり、実質的に八世紀型の広域政権だったのである。中和勢力は、蘇我氏と並び立っていたにしろ、国家の要件を他者に委ねている未熟な政権であり、時に提起されるような成熟した中央政権ではなかったようである。いや、素人の私見である。

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※古代文明の興亡
 確認すると、蘇我氏は、河内平野中南部に本拠を持つ氏族集団、言うならば、南河内勢力であり、誰かの臣下ではなかったようである。
 有力豪族の中で新来であったために、広く張り巡らされていた同族連携の「氏神」の網が持てなかったということであろう。その不足を乗り越えるために、先ずは、各地に広く親族を配置している物部氏を排除し、次に、仏教信仰を利用して、氏神を覆い隠す「氏寺」の網を張ろうとしていたものと思う。
 蘇我氏は、すでに、確固たる政権として、創世神話を編纂する機会まで得ていたから、あえて、既存政権を打倒する必要はなかったはずである。と言うか、自身が「政権」であったように窺えるのである。

 蘇我氏政権は、そのように、効率の優れた専制「国家」であったため、却って、英邁な元首の死によって、あっけなく瓦解したのであろう。各地に親族を住まわせていた物部氏が、宗家が討伐されたために、一気に瓦解したのに通じる「もろさ」である。

※大和国台頭
 言うまでもないが、後年の仏教国家は、諸国に国分寺を設けて、その土地のものを氏寺に帰属させ、国分寺を媒体として、戸籍などの文書管理を普及させ、中央の指示文書で地方が服従する首尾一貫した体制であり、蘇我氏の敷いた手本の上に、平城京を中心とした「日本」が形成されたものと思われる。多分、この辺りの推測は、定説に近くなっていると思うが、差し障りがあって明言できないと愚考する。
 ということで、普段は、国内史料批判は控えているが、今回は、話の運びの加減で、避けられなかった。

※喪われた蘇我文明
 司会の見識として賛嘆に値するのは、蘇我氏が文書管理したことを「蘇我文明」と呼んでいることである。ただし、この「文明」の文書記録が残されていないので、後世の「文明」は、「蘇我文明」の後継とは言えないのである。
 そして、蘇我氏の風雅や情感は、書き残されていないから、現代人は、「蘇我文明」のこころに学べないのである。

 残された記録は暗殺者のものでしかない。暗殺者は、権力の中枢に座ったが、それ以後、従来希であった親族内の争いを巻き起こし、途上では、古代史最大の内戦を招き、それにより、多くの犠牲者を出してまで、権勢の保持を図ったと見える。と愚考する。
 現代人はそのような文明を受け継いだのだろうか。

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*締めくくり
※「モニュメントチェンジ」の錯乱怪

 司会は、またもや「神がかり」して「モニュメントチェンジ」などと言うが、なぜ普通の人にわかる言い方で言わないのか。なぜ、普通の古代史用語で喋れないのか。なぜ、このような不届きな発言が見過ごされて、NHK番組が放送されたのか。素人には、想像もつかない。

※おとぼけ結語
 別の司会が、「本特番の内容が、一貫して今日の文化の前提」と締めたが、大いに疑問である。これでは、二人して司会した意味がない。各項は、史書に記録されてない
から、遺跡・遺物から勝手に推定したものであり、あくまで、番組制作者の勝手な意見である。
 例えば、司会の度々の神がかり、暴言も、当然として取り込んでいるが、殺戮正当化の部分にも同感しているのだろうか。疑問山積である。

※賢明な締めくくり
 最後に、主賓の役どころで、『支配者が作り出した「権威の見せ方」、つまり「演出力」が示されていた』と、一般人にわかる言葉で番組を締めたのは、大変有り難かった。

※蛇足の神がかり
 司会の蛇足で、「日本文明」と時代錯誤の言葉を蒸し返し、えんえんと、「時代の共同の幻想のシンボルやモニュメントが生まれる」とか『 中央で作られたものが「ぶわっと」周辺に伝わる』とか、仲間受けしているのかも知れないが、一般視聴者には、意味の通らない、つまり、意味不明な言葉を連ねていて、後味が悪かった。
 思うに、このシリーズは、司会の「歴史学者」が、はしゃいだり、ドスを利かしたり、俗な手口で番組を仕切るのだが、その際に、当人の脳内奥のプライベート世界の「ことば」で呪文を唱えるから、普通の人間には何のことか理解できない。あるいは、当人もまるで理解できていないのか。報道機関としての、あるいは、公共放送としてのNHKの乱脈ぶりが露呈しているように見える。

※心を開いて
 司会が本特番で乱発した「神がかり」は、ご当人のインビジブルなる世界の風景なのだろうが、人の脳内概念は、どう転んでもインビジブルであるから、せめて、「私的な閉塞したプライベート界の手前味噌発酵言葉」でなく、「外界と交流するパブリック界の平明言葉で語って欲しい」のである。脳内と外界の言葉が結びつけば、下手な呪文でごまかす必要はないのである。
 いや、ローマ人の住居風のプライベート界/パブリック界の概念は視聴者になじんでいないから、古めかしい言葉で言うと、閉じたまぶたと心を開いて、「主観」世界で構築した理論を「客観」世界にもたらして欲しいのである。

※聞き役愚問の勧め
 こうした際は、聞き役が、初歩的な質問を挟んで、専門家がそれに応えることで視聴者のわかる日常に近い言葉に立ち戻るが、当特番では、そうした配慮がなく、二時間にわたり、二人組の司会の独断言葉とその場の面々のグズグズの業界言葉が中空を飛び交うのである。おかげで、当記事は、まるでアラ探しになるが、別に探してはいないのである。「身に振る火の粉」は、キッチリ払いのけるしかないのであった。

 歴史と伝統のあるNHKともあろうものが、教養番組作り初心者レベルの手口もこなせず、出演者と視聴者のつながりが断たれたままの下手な番組作りを続けたのが嘆かわしいと愚考する。

                       完

2022年10月10日 (月)

私の意見 呉志呉主伝「海行」用例考 再訂 1/5

 2018/09/19 2019/11/22 補充 改訂・改頁 2022/01/22 再訂・補充 2022/02/19、2022/10/10

〇コメントに公開回答
 以下は、【私の本棚 34 中島信文 『露見せり「邪馬台国」』】なる書評めいた記事に対して尾関かおる氏から投稿頂いたコメントで、『「海行」が呉志に用例がある』との指摘に対する回答です。(2019/11/22現在公開保留中)

*用例の意義と限界
 「用例」は、原テキストの全文検索で容易に発見できますが、あくまで、そういう「文字列」が使われていたように見えると言う事であり、意義のある「用例」かどうか、言うならば、自前で史料批判した上で言及すべきであり、そのまま「用例」として受け止めると深刻な誤解に陥るのは、当方も、しばしば経験しているところなので、ご指摘に対する反論として、以下の通り、氏に代わって「用例批判」いたします。

 なお、当「用例」については、当然、先賢諸兄姉が、承知の上で却下しているものと思われますが、却下の先例のご指摘がないので、二番煎じを承知で以下説明を加えます。また、当ブログに於いて、同趣旨の記事が既出の可能性もありますが、それを見ろというのは、読者に不便を掛けるので重複ご容赦とします。
                           –記–

 「海行」は、東呉孫権政権に置いて、官道行程の常用用語とされていたのであれば、海上交易の盛んであった東呉孫権政権の史官が責任編纂した国史である「呉書」に、ほぼ忠実に依拠した陳寿「三国志」「呉志」で多用されているはずですが、実際は極めて「希」で、ほぼ唯一の用例について以下確認します。

▢吳主傳:  中国哲学書電子化計劃
 二年春正月魏作合肥新城詔立都講祭酒以教學諸子
 遣將軍衞溫諸葛直將甲士萬人浮海求夷洲及亶洲
 亶洲在海中長老傳言秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海求蓬萊神山及仙藥止此洲不還
 世相承有數萬家其上人民時有至會稽貨布
 會稽東縣人海行亦有遭風流移至亶洲者
 所在絕遠卒不可得至但得夷洲數千人還

*私見宣言
 以下、論旨を明確にするため断定調であっても、所詮は私見であって排他的ではなく、深意は推定ですから、異論があれば頂きたい。

 呉主伝上記記事に書かれている内容は、曹魏が、江水北岸合肥に「新城」を建設して、江南の東呉に対して武威を誇ったのに対抗するため、東呉が、徴兵船を夷州、澶州へ「浮海」、つまり、漠然と目指したときに根拠とした「情報」(風評)たる徐福「入海」の史記記事(正史記事の引用であるから、「風評」とは言えないのですが)に続いて、会稽海岸附近住民の「噂話」(風聞)を伝えたものであり、「会稽の東縣(海岸部諸縣。のちの臨海郡)に、海を行って(海に出て)強風に流されて澶州に行き着いた者があったという」とのことです。つまり、既知の目的地「澶州に向かって、官道として確立された行程として海を行った」のではないと見ます。
 もちろん、「海中」は、海水に沈んでいるという意味でなく、現代的に言うと「海上」の意味でした。また、「入海」は、海に入ると言っても、「入水」、つまり、身投げのことではありません。海上を船で行くという事です。

 ちなみに、曹魏の前線基地である合肥は、長江下流域で曹魏と東呉の競り合った紛争地であり、比較的、長江北岸に近かったこともあって、東呉の攻勢の的となり、西方で、蜀漢の攻勢を受けていた曹魏として、防衛の負担を軽減するために、若干後退した地点に「新城」を構えたと言うことです。そのため、東呉軍に、渡河して陣形を整える余裕を与えますが、堅守して増援を待つ姿勢を示して、不退転の意志を広く示したものです。つまり、東呉に求められていたのは、新城を攻めるための多数の歩兵であり、数さえあれば良しという思想だったように見えます。

*浮海と海行
 東呉として澶州への往復航路を確立していれば、海上道里や所要日数が知られていて、衛温、諸葛直の両将は、「浮海」などでなく「海行」したはずですが、実際は、果てしない海をあてなく漂って、行けども行けども目的地に着かず苦闘したことが窺えます。
 当時、磁石による羅針盤があったとの記録はないので、日中航行しかできなかったと見えます。と言うことは、澶州は、せいぜい数日の行程だったと見えます。
 何しろ、数千の人員で遠征して数千人を連れ帰るには、それ相当の水や食料の搭載が必要だし、途上の補給地も書かれていないので、現地調達も期待していなかったという事です。何れかの異郷が間近だったという事かも知れません。何しろ、ちゃんとした記録が残っていないので、よくわからないのです。

 「呉書」呉主伝は、言うならば東呉の正史であり、東呉の史官が、東呉の公文書をもとに書いたものであり、降伏の際に晋皇帝に献上されたと言いますが、関係公文書は、その際に処分してしまったのかも知れませんが、本紀、列伝部分に改変の手は及んでいないと見えます。

*「親呉倭王」はなかった
 顕著な点として、目的地との交信が無かった点が挙げられます。「交信」とは、天子に服従を誓った蕃夷が、天子に対して身上を申告し、その内容が、鴻臚の公文書として収蔵された上で、相互に、指示、報告の公式文書が往来することを言います。当然、そうした公文書は、天子のもとに収蔵され、史官が、国志を編纂する際に引用されるのです。
 当たり前のことを書き足したのは、一部、俗説にあるように、「東呉」と「倭地で女王に服さないもの」が、君臣の関係にあったという「親呉倭王」臆測が、陳寿「三国志」呉志呉主伝に於いて、明確に否定されているという論証です。

〇「三国志」の文献批判
 念押しすると、「呉書」の収納は、陳寿の「魏志」編纂に先立っていて、むしろ、「三国志」「呉志」に、ほぼ全面的に採用されているので、当然、陳寿は、全文を読んでいたのですが、「魏志」「倭人伝」に、「海行」なる「新語」を採り入れることはなかったのです。魏志」は、あくまで、「史記」、「漢書」の用語を典拠に、曹魏公文書を元に編纂したのであり、叛徒である東呉の野史、つまり、非公認史書の用語は論外だったのです。
 三国志の文書史料解釈において、「呉志」、「蜀志」は、独立した「国志」と見るべきであり、陳寿が責任編集した「魏志」本文ではないので、峻別して取り扱うべきだということになります。

                                未完

私の意見 呉志呉主伝「海行」用例考 再訂 2/5

 2018/09/19 2019/11/22 補充 改訂・改頁 2022/01/22 再訂・補充 2022/02/19、2022/10/10

*無謀な兵船浮海
 曹魏の支配領域の沿岸を越えて遼東に大軍の兵船を派遣した実績を持つ東呉が、精鋭満載の兵船を、海を越えて遙か彼方、「海中」の夷州、澶州に派遣し徴兵する能力があった事は、呉志記事で確認できますが、それすら「海行」と言わなかった事は、当時の「航海」の限界を示すものと思います。
 もちろん、「海路」などと言う後代概念は三世紀当時には一切登場しません。諸兄姉は、時代錯誤の誹りを浴びないように、慎重に口を慎むべきです。

*愚行の教訓
 余談ですが、東呉は、(長江では)水軍戦力であり、曹魏が、一時荊州水軍を配下とした時点でも、これに優越していて、不足しているのは、中原の平原に展開して闘う陸軍(歩兵、騎兵)ですから、言葉の通じない海人を大量に徴兵しても歩兵戦の役に立たないのです。
 徴兵船構想は、重大な錯誤としか言いようがありません。よほど人手不足だったのでしょう。
 そもそも、現地に関する風評を根拠に「萬人」を乗せた徴兵船を送るというのは、無謀の極みであり、兵事に慎重を旨とする呉主孫権の取る態度とは見えないのですが、何か、確たる根拠があってのことだったのでしょうか。普通の孫権兵法では、まずは偵察船を派遣して、現地情勢を探索/確認するものですが、呉志には、唐突な大船派遣が書かれているだけです。そもそも、愚行としか言いようのない大作戦です。
 「呉国志」のもととなった「呉書」を編纂した東呉の史官は、このような愚行が再発しないように慎重に言葉を選んで執筆したと思います。

*用例総評/結論
 従って、本「用例」は、「海行」なる言葉が、東呉に於いて、「倭人伝」の用語の背景となっているとされている「水行」、「陸行」の制度に対峙される制度として確立されていたと証する用例ではないと考えます。「海行」、つまり、公式行程と言うには、少なくとも、行程の行き先に、東呉の官吏を置いて、来訪者の帰途の食料と水を供給する体制が不可欠であり、また、定期的に、呉主に状況報告を送りつけ、指示を受けるる必要があるのです。当然、文書交換の際には、所要日数に基づく期限設定があり、斯くして、公式行程と認知されるのです。
 つまり、文書行政が成立していなくては、「海行」なる公式行程は成立しないのです。そして、そのような公式記録が、一切ないということは、東呉に於いても、「海行」なる公式行程は存在しなかったという事です。

 また、陳寿が、魏志「倭人伝」を編纂する際に、呉書」の孤立した、要件不備な用例を、公式史書である魏志に断り無く導入して、晋朝官人に承認されると判断したとは思えないのです。当記事は、あくまで、呉志」が東呉の語彙で書かれていることが、黙認されていたことを示しているのに過ぎないのです。

*「会稽東縣」審議~余談
 ついでながら、ここに書かれている「会稽東縣人」を、「会稽東冶縣人」の誤記と解する例も見られますが、上記したように、「会稽東縣」とは、会稽海岸部を占める東部諸縣の通称であり、のちに分郡して「臨海郡」とされた地域と読み取るのが、順当な解釈です。

 会稽郡南部の東冶県は、会稽郡治から険阻な山間路を一ヵ月どころでない長期を費やして移動する遠隔地であり、そのような遠隔地の不確かな風聞を、東呉の国威を示す目的で書かれ自国史として権威を持っていた「呉書」に書くことは、ありえないものと見られます。「三国志」と一括して読まれても、「呉志」は、本来、「魏志」と異なる大義名分で書かれていることを認識して理解すべきです。
 つまり、会稽郡のお膝元で、直に取材可能な東縣の「伝聞」なのです。

▢改訂した結論 2022/01/22
 以上、丁寧に面倒を見たので、揚げ足取りの手がかりを与えるようであり、以下、改訂した「一刀両断の回答」を示します。
 要するに、目下の課題は、魏志「倭人伝」の道里行程記事に対する呉志「呉主伝」記事の「海行」なる二文字の影響ですが、これは、端から論外です。門前払いでお帰り戴けば、色々調べる必要は無いのです。

 以下は、あくまで、当ブログ筆者の心覚えであって、公開すると、更なる揚げ足取りを呼ぶので、内部資料として留め置くのです。(そのつもりでした)

                                未完

私の意見 呉志呉主伝「海行」用例考 再訂 3/5

 2018/09/19 2019/11/22 補充 改訂・改頁 2022/01/22 再訂・補充 2022/02/19、2022/10/10

*内輪の説明書 (部外秘)
 「魏志」は、陳寿が、「史記」、「漢書」に通じる語法で書いています。早い話が、倭人伝の道里行程は、本来、秦、漢、魏の官制に従い、陸上街道に限定されています。もっとも、倭人伝の道里行程は、独自の限定された書法、語法となっていますが、倭人伝が、独自の書法、語法を採用するという事は、道里行程記事の冒頭で予告/明示されています。

*後漢公式行程
 後漢書「郡国志」(司馬彪編 范曄「後漢書」に併録)には、洛陽から遼東郡を歴て楽浪郡までの道里五千里が記録されていますが、当然、終始一貫街道を行くので、帯方郡から先も、当然、一路東南方向に街道を行くのです。(「遼東郡を歴た道里」とする推定は、根拠が乏しいので削除します)

 言うまでもありませんが、洛陽は河水の南、支流洛水沿いですから、遼東までに、少なくとも一度は、街道の津(船着き場)での渡船がありますが、それは、当然街道の一部であり、部分的にも「水行」などとは言わないのです。
 よって、呉志の発明した「海行」どころか、倭人伝で初出の「水行」も、本来、対象外の「無法」(違法)な用語です。倭人伝が、無法な用語で書かれていては、軽くて、却下、悪くすると、罷免、免官、馘首です。

*水行、陸行
 但し、倭人伝では、「従郡至倭」の行程が、狗邪韓国で「大海の北岸」に達して、以下、「渡し舟」とは言え、渡海の行程は、大海海中を一日がかりなので、所要日数が発生します。そのため、余儀なく、妥当な方策がないので、特に用語定義して対処したのです。
 ここで陳寿が書いた「従郡至倭」行程では、『狗邪韓国の海岸(大海の北岸)から循して沖に出て、三度の渡船で対岸の末羅国の海岸に渡るのを「水行」と言う』と、臨時に地域限定(local)で「循海岸水行」と宣言したものです。
 つまり、公式道里に「水行」はないというのが、当然、自明の前提なのです。いや、行程が地上街道に限定されていれば、本来「陸行」も存在しませんが、東夷、西域など、街道整備が整っていない未開の世界では、必ずしも、原則だけ通用するとは限らないのです。

 因みに、行程は、末羅国で上陸し、以下「陸行」と明記して「水行」は解除されています。(公式行程の脇道である「投馬国」への水行は、別儀ですから、ここでは論じません)
 当ブログは、「従郡至倭」行程は、伊都国で完結し、女王の治所、王城までは、行程と言うほどの移動のない至近の地だったと、簡潔に見ています。「従郡至倭」行程の道里は、 千里単位ですから、本来、百里単位の端(はした)は、書くに及ばないのです。
 現に、倭人伝道里は、末羅伊都間で百里単位の端(はした)を残したため、計算が合わないと揚げ足を取られていますが、千里単位の概数計算では、一里単位まで「キッチリ」合うとは限らないのが常識です。

*大海、瀚海
 中原知識人の世界観」では、「海」は、塩水の満ちた「うみ」(英語でsea,米語でocean)ではなく、中原世界の四囲にある異界であり、船で渡ることなどあり得ないのです。

 一方、魏志「倭人伝」に書かれているのは「大海」ないしは「瀚海」であり、それぞれ、漢書「西域伝」に描かれた広大な塩水湖「カスピ海」が「大海」の実例であり、や砂紋の描かれた流沙(砂漠)は、水ならぬ砂の海の「瀚海」の実例なのです。
 中原人にとって既知の世界観を利用していて、陳寿が書き出しているのは、現実に追従した具体的な地理概念なのです。

*「倭人伝」宣言
 「倭人伝」は、公式史書「魏志」の一部なので、それまで、中原知識人の確認した語彙、世界観以外は、無断では使えないのです。くれぐれも、中原人の限定された世界観を遵守することです。所詮、中原人も、また一種の井蛙なのです。

                                未完

私の意見 呉志呉主伝「海行」用例考 再訂 4/5

 2018/09/19 2019/11/22 補充 改訂・改頁 2022/01/22 再訂・補充 2022/02/19、2022/10/10

*「蜀志」の開闢~余談
 陳寿が、三国志編纂を志した時点では、「蜀国志」稿が用意されていなかったのです。恐らく、蜀漢は、国家として最低限の官僚しか備えていなかったので、皇帝付きの記録係、書記官、史官は、揃っていなくて、晋で言えば、「起居注」として日々書きためられている記録が整っていなくて、また、各部門が公文書を残す制度も整っていなくて、編纂には、蜀漢遺臣の各方面の多大な協力が必要だったのですが、陳寿の志を知れば、協力は容易に得られたものと思われます。
 陳寿は、蜀漢に事えていたので、そのような不備を承知の上であり、広く蜀漢時代の公文書を収集、補充して「蜀国志」稿を整えるという活動を指揮し、最終的には、陳寿が「蜀書」の体裁を整えたとするのが有力な見方です。(陳寿が、自身で細部まで編纂したという主旨ではありません)
 蜀漢創業者にして、先主と呼ばれている劉備は、後漢献帝のもとから荊州を歴て成都に亡命して以来、一貫して、漢の再興を志向していたのですが、蜀志の後漢代記事は、先主周辺の記事に限定されていたものと見えます、ともあれ、「蜀国志」は、中原洛陽の「東京」語法で書かれたものと思われますが、不勉強で確認できていないので、ご容赦いただきたいのです。

〇范曄「後漢書」の世界観
 因みに、「三国志」と言いつつ、呉志」は、東呉史官(周昭,韋曜、薛瑩、華覈)が、言わば、不遜にも東呉偽帝の事績を編纂した史書「呉書」が、東呉の降伏の際に、降伏の証しに「国宝」として晋帝に献上されたのを、陳寿が最低限の調整で呉国志として取り上げたのです。その内容に、魏志としては不適切なものが多々あるのは、皇帝以下の諸賢に承知されていましたから、呉志に書かれているから、魏志に書かれているのと同然という事はできないのです。
 要するに、三国志は、一律の統一された方針で隅々まで編纂された史書ではなく、三「国志」(魏国志、呉国志、蜀国志)なのです。

 衆知の如く、東呉は、東シナ海沿岸を自在に南北に往来していましたが、そうした業績が、中国の天子に認知されたのは、西晋が崩壊して、東晋が、長江下流の建康、つまり、東呉の旧都に亡命、東遷してからです。つまり、陳寿が「魏志」編纂の際に、「呉志」の用語を所引することはできなかったのです。

*笵曄の「海」~余談
 劉宋時代に(最後の)「後漢書」を編纂した笵曄は、建康政権たる劉宋に奉職していたから、先に書いた、太古以来の伝統的世界観は、持っていなかったと見えます。
 つまり、范曄にとって、「海」は、目前の「うみ」だった可能性が高いのです。范曄が、伝統的な史官として訓練を受けていたら、「海」は、魏志同様に、古典書に言う「海」と認識できたでしょうが、史官賭して訓練を受けたものではない「素人文筆家」が、古典と同時代で、それぞれの語彙、世界観を書き分けていたかどうか、遥か後世人としては不明と言わざるを得ません。

*笵曄の創作~余談
 ついでながら、范曄「後漢書」東夷列伝倭伝の情報源は、不可解です。
 先に述べたように、范曄「後漢書」といいながら、「郡国志」は、司馬彪「續漢書」の賜物であり、同書は、西晋代にまだ健在だった洛陽文書館の「大鴻臚」公文書から大量の資料を所引したものであって、洛陽(雒陽)から遼東郡を歴て楽浪郡への道里が記録されています。しかし、帯方郡への道里は記録されていません。それどころか、帯方郡自体、郡として記録されていません。つまり、遼東公孫氏は、献帝が曹丕に禅譲するまでの期間に、帯方郡分郡を報告したとしても、戸数、口数、道里は報告していないことになります。
 魏の文帝、明帝期は、公孫氏の自立時代ですから、魏の大鴻臚にも、帯方郡関係の報告は一切なかったのです。「魏志」に郡国志も地理志も無いので、物証はありませんが、強固で反論不可能な状況証拠として、雒陽に帯方郡関係の報告は一切届いていなかったのです。それが、「魏志」に書かれている、「公孫氏が東夷を遮っていた」という記事を裏付ける物です。

 「魏略」及び「魏志」の東夷記事「東夷伝」は、景初初頭に帯方郡が楽浪郡と共に魏明帝の傘下に回収された際に、帯方郡から得られた郡文書に基づくものであり、特に、魚豢「魏略」は、魏が後漢から政権を正当に受け継いだという立場に立っていたので、魏略「東夷伝」は、当然のごとく後漢代から説き起こしていたと見えるのです。これは、裴注として補追された魏略「西戎伝」が、大量の後漢史料に僅かな論評を加えた体裁であることからも見て取れます。これも、否定困難な状況証拠による推定です。

 と言うことで、范曄が、後漢書「東夷列伝」を書く際に、献帝期以降の記事を書くのに利用できたのは、魏略「東夷伝」相当記事だけだったということになります。何しろ、先行諸家後漢書には、その期間の東夷記事が存在しないのです。
 但し、笵曄は、後漢書「東夷伝」を編纂する際に、魏代記事をあからさまに流用できなかったので、魏志「倭人伝」相当記事を、後漢代の記事となるように、時代をずらしたものと見えます。つまり、「倭国乱」を大きくずり上げ、卑弥呼の共立/即位も同様にずり上げ、陳寿の「倭人伝」記事の改竄を図ったものと見えるのです。
 その苦しい手口が、その国が「帯方郡の檄を去る」との記法に表れています。何しろ、笵曄は、楽浪郡治から、帯方郡治までの道里を知らなかったので、帯方郡までの道里が書けなかったのです。別の言い方をすると、笵曄は、帯方郡が後漢公文書に存在しないことを知っていたので、ここに書けなかったのです。それなら、なぜ、後漢公文書にない倭国記事が書けたのかということになりますが、不可解というしかないのです。
 其大倭王居邪馬臺國。樂浪郡徼,去其國萬二千里,去其西北界拘邪韓國七千餘里。

*笵曄の言い分~余談
 その当時、倭の主監は楽浪郡であり、「大倭王」の居処は、陳寿の云う「邪馬壹国」と似ているが、字の違う「邪馬臺国」であり、行程の中継点も、大倭国の西北界である「拘邪韓國」だった、陳寿の「狗邪韓国」と違うだろうと言っているように見えるのです。二千年を隔てた後世の東夷にしてみると、姑息な言い逃れにも見えるのです。
 もちろん、これは、范曄「後漢書」が、誤写や改竄無しに、「奇跡的」に後世に継承されたと仮定しているに過ぎないとも言えますが、現存史料を起点に考察するという方針は、既に定めているので、それは言わないことにします。ひたすら、山成す史料の片隅のすき間に、手際よく倭国物語を填め込んだ笵曄の見事な創作を賞賛するしかないのです。

 何しろ、該当時代の史料は他に存在しないので、いくら孤証でも、誰も責められないのです。西晋代における司馬彪「續漢書」 編纂の 後、後漢由来の京師雒陽は、匈奴を中心とする異民族軍の攻撃で落城し、皇帝は拉致され洛陽城は大掠奪を受けたので、厖大な公文書を退避させるどころではなく、秦代以来西晋に至る歴代の公文書は、ほぼ全滅したものと見えます。
 各後漢書は、司馬彪「續漢書」と、各地に残された地方志や公文書の写本類を頼るものになったのです。特に言うと、各地方志の中で、東夷伝のより所となるべき遼東郡の公文書は、後年、司馬氏の征討を受けて全滅しているので、後漢代の文書資料として利用できなかったのです。
 と言うことで、范曄「後漢書」倭伝に対する異議は提示されず、陳寿の記事は、笵曄の記事の下手な焼き直しの後出しに見えたのです。

 総括すると、范曄「後漢書」が、司馬遷「史記」、班固「漢書」に続いて、「三史」の掉尾を飾る栄光の地位を得てから、古代氏の議論は、史記に続く両漢書(漢書と後漢書を合体させた、巨大な正史)で幕となり、三国志と晋書は、雑史の扱いになったように見えるのです。
 いや、もちろん、「三国志」は、正史として大いに尊重されたのですが、燦然たる「三史」に比べると、一段控え目にならざるを得なかったようです。

 未完

私の意見 呉志呉主伝「海行」用例考 再訂 5/5

 2018/09/19 2019/11/22 補充 改訂・改頁 2022/01/22 再訂・補充 2022/02/19-20、2022/10/10

*まとめに向かって
 当記事は、余談が転々として、脱線に近いものになってきましたが、ここらで本線に戻してみます。
 つまり、倭人伝道里行程記事は、どのような方針で書かれたかという、言わば、陳寿の真意の見極めとなります。 

倭人伝「道里記事」の見極め
 と言うことで、当記事では、「水行」の由来を見極めたことになります。由来を見極めた背景として、「呉志」の記事が「倭人伝」「道里記事」に無関係だと、言わば圏外宣言したことになります。
 その余波で、「道里記事」が、古典書、史書にない独特の地理条件を、手短に説明するために、地域限定の概念を宣言して、ここだけの用語と論理を提言しています。そのような前例は見当たりませんが、それだからこそ、殊更、限定的に定義しているものです。

 「倭人伝」読者は、本来、自身の持ち合わせた「教養」をもとに解釈するものですが、「教養」に新たな定義を付け加えて解釈することも、あわせて求められているものと考えます。そうでなければ、新たな文書を読んでも、新たな知識を受け入れることができないからです。

 世上、「正史」は、先例、つまり、古典典拠(のみ)をもとに書くものであるとの決めつけが見られますが、文書解釈の根本は、文書は、目前の文書そのもので解釈すべきだとの大前提があり、陳寿が、「倭人伝」「道里記事」という前例のない地理記事で採用した宣言文は、決して、不合理な物ではないのです。

*目前の記事の意義
 因みに、「目前の文書」に集中するのは、巻物形式の文書で特に重要で、例えば、魏書第三十巻の講読を進めて、韓伝を終えて倭人伝に至ったとき、先行する第三十巻の大半は、直前の韓伝を掉尾として、右手の巻物に巻き込まれていて、読者の視界から消えているし、そのように、倭人伝の冒頭を目前に参照しているとき、二千文字の倭人伝後半千文字は、まだ、左手の巻物に隠れていて見えないはずなのです。
 当時の読者が目にしているのは、後世の冊子で言えば、見開き相当程度の範囲ですが、冊子のように、簡単に頁送りして前段、後段を確認できないのです。もちろん、高貴な読者は、自身の手で巻物を操作することはありませんが、それでも、所望の範囲を見るために巻物を操作するのは、それこそ、一人、二人ではできない大仕事であり、しかも、目下の参照部分は、その際に巻物にしまい込まれるので、互いに比較参照するのは、大変むつかしいのです。もちろん、手元の簡牘に書き写すことになるのですが、正史同様に劃然と正確に書き写されたという保証はありません。
 まして、「史記」、「漢書」などの先行史書の参照となると、大量の簡牘巻物が必要になるので、五人、十人の輸送部隊と荷車が必要なので、不用意に起用できないのです。恐らく、要所の参照先は、簡牘に写し取って用意していたものと見えます。
 読者が、皇帝なみの高貴な方の講読の場では、手短に紹介しなければ、魏志講読はその時点で幕となり、下手をすると、呉志、蜀志も、道連れとなることになりかねません。

 と言うことで、倭人伝の書法が、目前の文書記事自体による解釈を重視するのも、蒸し返しに近い再確認があるのも、もっともな理由があってのことなのです。

 「倭人伝」にある「水行」は、本来、「倭人伝」限りの用語であって、「従郡至倭」行程の三度の渡海に限定して採用されたものであり、それ以後の公文書でどのような意味で使われたかは、陳寿には無関係です。いや、「倭人伝」の主題を外れた余傍の国である投馬国への「水行」が、いかなる行程なのか、三国志の編纂者たる陳寿の知ったことではなかったのです。

*根幹と余傍
 陳寿は、「従郡至倭」行程を倭人伝の根幹の一つとして随分念入りに説いていて、後段では、用語表現を変えて、「參問倭地、絕在海中洲㠀之上、或絕或連、周旋可五千餘里」、つまり、郡から倭を訪問する行程途次を説いていて、「従郡至倭」行程の三度の渡海は、 大海を大河と見立てた中州の島、洲島を渡り継ぐのであって、通常「海中」と言うような韓半島のような半島ではなく、概して絶島として独立していて、時に連なっているというものであり、この場の結論として、狗邪韓国から末羅国までは、片道五千里の行路(周旋)と珍しく念押ししていますが、こと行程外諸国に関しては、「余傍」と宣言していて冷淡です。
 これら「余傍」諸国に関する「水行」を交えた行程は、遠絕、不可得詳、つまり、女王の元に公式回答がないので、万事不確実と「明記」しています。国情紹介で、二萬、七萬という絶大な戸数を申告している巨大な国の身上調査を怠るなど、もっての外なのですが、陳寿は、道里行程が第一にしてほぼ唯一の主眼であったので、蕃夷の「国」の地政学的な内部事情要素は、意に介していなかったのです。

〇結語
 以上のように割り切れば、「倭人伝」道里行程記事の「水行」「陸行」考証に、「魏志」以外の史書用例を審議する必要は無くなるのです。

 最後に復習すると、魏志は、三世紀の晋帝などの中原読書人のために、三世紀の西晋史官陳寿が編纂したものであり、そのように理解しないと誤解を生じるのです。
 ここでは、現代人に、そのような「常識」が行き届いていないことを想定して、ことさら丁寧に説き聞かせています。全て承知の諸兄姉には、ご不快かも知れませんが、当方には、読者の知識を知るすべはないので、あれこれ饒舌に説いているのです。

 当ブログ読者には、「ミミタコ」の方もあって、さぞかしご不快でしょうが、よろしくご賢察の上、ご容赦ください。誰でも、いくら博識のかたでも、「知らないことは知らないところ」から、知ろうとして勉強し始めるのです。

結語として、陳寿の結語を拝借します。

死罪死罪。頓首頓首。
                  完

2022年10月 9日 (日)

私の本棚 33 笛木 亮三 「卑彌呼は殺されたか!」季刊「邪馬台国」125号 1/2 再掲

~卑弥呼以死考~ 2015年4月 梓書院
 私の見立て★★★★★ 力作にして必読 2016/03/06 分割再掲 2020/06/18 補筆 2022/10/09

◯総評
 当記事は、魏志倭人傳に於ける「卑彌呼以死」の解釈に関する論考です。
 先行する諸論考を「軒並み」採り上げて論評している本体議論に関する意見は置くとして、笛木氏が諸説について考察を加えた後、ぽろりと感慨を漏らされている点に大いに不満を感じるのです。

*世間知らずの了見違い
 第8章岡本説の検証と私見 115ページ上段です。
 『今、「三国志」にある「以死」のすべてが簡単にパソコンで検索できるらしいのです』とよそごとのように述べていますが、ちょっと意外でした。この場で論説を発表するほどの識者が、ご自身で用例検索していないし、しようともしなかったと見えるからです。続いて、「コンピューターは大したものです」と感心しますが大きな了見違いです。

*「えらい」のは誰か
 コンピューター(PC)が「えらい」のではなく、PCなどの「端末」を介して、ネットから世界中のどこかに貯蔵されているデータを確認できるのが「えらい」のです。更に言うなら、そういう仕掛けを作った人、従来秘蔵されていたデータを世界のどこかに貯蔵した人が「えらい」のです。いや、関西弁で言う「えらい」は、仕事が多いという意味ですから、二重に皮肉です。

 平たくいうと、氏が称揚されているのは、「ネット」、そして、その向こうにいる大勢の「えらい」人たちであって、PCが「えらい」のではないのです。大型コンピューターの所蔵データを端末機から閲覧した時代は去り、自宅のPCで、三国志を全文検索して、用例を全文検索できるのです。

*PCすら不要の世界
 これには、特に有償販売されているアプリケーションを購入する必要はなく、自宅のPCに導入されているWindowsに作り付けのインターネットエクスプローラーとその後継者や無償で利用できるFirefox, Google Chromeなどの「ブラウザー」を使用して、そうしたデータの貯蔵されているサイトにアクセスし、サイト作り付けの仕掛けを利用して検索を依頼するだけで、検索例を全部列挙させられる時代になりました。
 ご自宅のPCは、別にえらくないのです。使用する「機械」がMacであっても、Androidスマホであっても、大差ないのです。

*頼れる友人が肝心
 大事なのは、PCを買ってくるのではなく、だれか初心者に対して丁寧に教えてくれる人を持つことです。「困ったときに手を貸してくれる友人が本当の友人である」(A friend in need is a friend indeed)と言うことではないでしょうか。こうしてテキスト全文検索が広く普及したのは、「三国志」で言えば、刊本を自由に利用できるテキストデータとして公開している団体、ないしは、個人がいるからです。
 「三国志」を出版している出版社は、当然、使用した全テキストデータを保有していますが、かなりの人・物・金を投じて構築したデータベースで、出版社の知的財産(著作物)であり、簡単に無償公開はしてもらえないものです。

*公開データの効用
 と言うことで、WikiSourceや「中国哲学書電子化計劃」などの公開データですが、すべてボランティアが入力したものであり、時として誤読はありますが、膨大なデータ量を思えば仕方ないところです。

*見知らぬ友人
 面識も交信もなくてもこうした努力を積み重ねた人たちは、本当の友人です。

                                未完

私の本棚 33 笛木 亮三 「卑彌呼は殺されたか!」季刊「邪馬台国」125号 2/2 再掲

~卑弥呼以死考~ 2015年4月 梓書院
 私の見立て★★★★★ 力作にして必読 2016/03/06 分割再掲 2020/06/18 補筆 2022/10/09

*ユニコードの功績
 合わせて言うと、Microsoft社の英断(当初、各国文化の個性を破壊すると非難されたが)で、全世界の文字データが、共通のユニコード体系で参照できることになり、楽々中国文献の検索ができるので、Microsoft社の功績は絶大です。ここに謝辞を表しておきます。
 公開データを全文検索して用例列挙するのは、素人も追試でき、フェアです。

*先人功績の称揚
 「邪馬臺国」「邪馬壹国」論争時に、三國志全文を手作業検索した話が、匿名の風評譚となっていて怪訝に感じるのです。手作業検索を評価するなら実名顕彰すべきです。と言う事で、曲がりくねった言い回しは残念です。
 また、とうの昔に博物館入りしたはずの「レジェンド」記事が多く、笛木氏の責任ではないのですが、延々と引用紹介と解読を強いられる「論争」のあり方が、折角の労作に苦言を呈する原因となっていて、もったいない限りです。

◯書評本論~私見御免
 素人考えながら、「悉皆」と表現される広範な用例検索の必要性は理解しますが、文献解釈の手順として「悉皆」は、本末転倒と思います。中国といえども、個々の文字、言葉の意味は、地域差もあり、時代差もあり、文献史料ごとに変動しているのであり、特に、古典典礼を踏まえない、日常用語の分野では、用例の適否判定が不可欠と見るものです。

 陳寿が採用した記事の筆者は、「以死」と書くとき、汗牛充棟の古典用例でなく、普通の教養で書いたはずです。当該文書の文脈から解釈することが、大変困難となったとき、初めて、書庫の扉を開き、台車で古典を引き出して身辺に置き、ひたすら参照すればよい、と言うか、そのような手順を常道とすべきなのです。これは、ほぼ笛木氏の趣旨でもありますが、敢えて書き立てます。

 倭人伝の書かれた真意を察するに、卑弥呼は、不徳の君主でなく敗将でもなく、天寿を全うした」と見るのです。没後に大いに冢(封土)を造営したころからも、そう感じるのです。

□補足 (2020/06/18)
 初回掲示の際、氏の提示された参照史料を書き漏らした不行き届きを、ここに是正します。
⑴阿倍秀雄「卑弥呼と倭王」(1971講談社) 
⑵生田滋 「東南アジア史的日本古代史」(1975大和書房) 
⑶松本清張「清張通史 1 邪馬台国」(1976講談社) 
⑷樋口清之「女王卑弥呼99の謎」(1977産報ジャーナル・新書) 
⑸栗原朋信「魏志倭人伝にみえる邪馬台国をめぐる国際間の一面」(1964史学会) 
⑹上田正昭「倭国の世界」(1976講談社現代新書) 
⑦大林太良「邪馬台国」(1977中公新書) 
⑧三木太郎「魏志倭人伝の世界」(1979吉川弘文館) 
⑨福本正夫「巫女王・卑弥呼をめぐる諸問題」(1981大和書房) 
⑽奥野正男「「告諭」・「以死」・「百余歩」」(1981梓書院) 
⑾白崎昭一郎「卑弥呼は殺されたか」(1981梓書院) 
⑿三木太郎「倭人伝の用語の研究」(1984多賀出版) 
⒀張明澄 「一中国人の見た邪馬台国論争」(1983梓書院) 
⒁謝銘仁 「邪馬台国 中国人はこう読む」(1981立風書房) 
⒂徐堯輝 「女王卑彌呼と躬臣の人びと」(1987そしえて) 
⒃沈仁安 「倭国と東アジア」(1990六興出版) 
⒄水野祐 「評釈 魏志倭人伝」(1987雄山閣出版) 
⒅岡本健一「発掘の迷路を行く 下」(1991毎日新聞社) 
⒆井沢元彦「逆説の日本史 古代黎明編」(1993小学館) 
⒇生野真好「「倭人伝」を読む」(1999海鳥社) 
㉑藤田友治「三角縁神獣鏡」(1999ミネルヴァ書房) 
㉒佐伯有清「魏志倭人伝を読む (下)」(2000吉川弘文館) 
㉓井上筑前「邪馬台国大研究」 (2000梓書院) 
㉔武光誠 「真説 日本古代史」(2013PHP研究所)
㉕岡本健一「蓬莱山と扶桑樹」 (2008思文閣出版)
                             以上

2022年10月 6日 (木)

今日の躓き石 毎日新聞記者の曇った「記者の目」 祝福の場に汚辱の「リベンジ」

                             2022/10/06
 30周年迎えたOMF 小澤征爾さんの情熱、つなぐ

 今回は、一日遅れで「昨日の躓き石」になった点をお詫びする。題材は、10月5日付毎日新聞大阪朝刊14版「オピニオン」面の「記者の目」コラムである。

 問題なのは、当記事で、中見出し付きの強調で、シャルル・デュトワ氏が「リベンジに燃えている」と暴言を放っている』と報道されていることである。その果てに、マエストロが「サプライズで登場した」 と書いていることである。
 全国紙の報道であるから、厳正に飜訳チェックがされ、ご当人の真意も確認したことと思うが、この発言は、記事全体とそぐわないのである。取り敢えず、シャルル殿は、血迷ったのかと思うしかないのである。
 それとも、現場の通訳担当か「記者」殿の勘違いかとも見える。と言うのも、この扱いでは、マエストロは、バケツの氷水を指揮者に浴びせるようなsurpriseを犯したことになるので、どうも、記者殿が、当世のカタカナ言葉を、まるでわかっていないのではないかと見えるのである。

 続く記事を見る限り、真摯な来場者は三年振りの開催を心待ちにしていたのであり、血なまぐさい「リベンジ」など思ってもいないはずである。もっとも、復讐の刃を振り上げても、振り下ろすべき邪悪な敵(人間ども)はいないのである。少なくとも、世界に広がる病原体に天誅を加えることなど、人の手の及ぶところではない。

 そもそも、当記事は、「30周年迎えたOMF」なる祝福記事の筈であり、この場で、「リベンジ」などと冷水を浴びせるサプライズは、ありえない。いや、いくら「オピニオン」面であっても、読者の多様極まりない個人的な意見を紹介する記事ではないから、購読者としては、ここには、全国紙たる毎日新聞の良心が現れている期待するのである。それとも、担当記者は、シャルル氏やマエストロに、私怨を抱えているのだろうか。不審である。
 全国紙記者たるものは、自分が書き付ける言葉が、どのように読者に理解されるか覚悟した上で書いているものと見ているのである。
 たとえば、「鳥肌」と何気なく書いて、多数の読者が、これを心地良い感動とみるとしても、多数の読者は、背筋の凍るような不快感を身を以て連想するから、良心的な記者の心情として、一部の読者であろうと大変な不快感を与えると確実に予想される「鳥肌」の場違いな採用を、何としても避けるものと理解しているのである。

 まして、正体不明の「リベンジ」を、失敗後の「リターン」と同意義と見るのんきな若者が多くても、広い世間には、テロの連鎖を連想させる、血なまぐさい悪習とみる読者もいるのであるし、英語に直訳されれば、大抵の英語圏読者は、「キリスト教を信じない日本人の蕃習」と悪く取るのである。
 天下一の全国紙の署名コラムを任される記者が、こんな風に素人に意見されるようでは、専門家にして勉強不足と見えるのである。

 近頃はびこり始めている「サプライズ」も、宣戦布告無しの不意打ちで、休養している真珠湾軍港を、「サプライズ攻撃」した帝国陸海軍の猛攻を想起させる」ことは、ロシアの不法な不意打ち攻撃を受けたウクライナ大統領が、これは、「真珠湾攻撃同様のサプライズアタック」と口を極めて非難し、後に、真珠湾の部分を撤回したことからも、世界的に、つまり、快挙、痛快と言いかねない日本人以外の全世界にとっては、忌まわしい余韻を引いているである。もちろん、当のアメリカ人の憤激は、同時代の人々の胸に焼き付いているのである。

 そうした危険極まりないなカタカナ言葉を、何気なく書いて済ましていては、「記者の目」は、節穴に見える。学芸部員だろうが、スポーツ面担当であろうと、是非とも、ご自愛頂きたいものである。

以上

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