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2022年10月

2022年10月21日 (金)

16. 年已長大 - 読み過ごされた生涯 補追

                       2014/05/06 追記 2020/05/17 2022/10/20
「年已長大。無夫婿」
 ここまでに記した小論を復唱すると、卑彌呼は、(数えで)十五、六歳で即位し、魏使来訪の時は、最近十八歳を過ぎた(年已長大:すでに成人となった)と云うことになります。後の「壹与」は、十三歳の「宗女」と言うことは、巫女であっても、まだ、世人の尊敬を勝ちとるに到っていなかったかも知れませんが、間近に先例があったので、うまく行くに違いないと思わせたのでしょう。その先のことは、何も文書記録がないので、何もわからないのです。

*謎のご託宣
 下記論説によれば、中国史学界では、「倭人傳」から「わずか十五、六歳の少女卑弥呼を王として」と読み取っていると思われますが、これは、中文としての文意が明解だからだと思われます。

 「倭國と東アジア」 沈 仁安 六興出版 1990年2月発行
 ただし、124ページの以下の記事には驚きました。
 『しかし、長い間、中日両国の史学界では、次のような見方が行われている。即ち、わずか十五、六歳の少女卑弥呼を王として「共立」したのは、「古代の母権社会における女人政治の典型」あるいは「原始的民主制」であり、卑弥呼はシャーマンと開明の「二つの顔」を持つ原始的巫女王であったと思われている。これは、必ずしも倭人伝の原意を正確に理解しているとは言えないであろう。

 急遽、引用文献として挙げられている石母田正氏の「日本の古代国家」(岩波書店 日本歴史叢書 1971年刊)を購入し、内容を見ましたが、「わずか十五、六歳の少女卑弥呼を王として」と書かれている箇所は、ついに発見できませんでした。
 また、見聞の及ぶ限り、日本の史学界で長年行われている見方とは言えないようです。

 むしろ、日本国内の史学界では、卑彌呼は、「壮年で倭國王に即位し、国難の際には自ら戦陣に立つ、強いリーダーシップを持っていた」ものと見ているように思いますが、これは、文献史料に基づく妥当な推定とは思えないのです。
 諸賢には、講談や浪曲にもなりそうな「英雄譚」が、幼児期や少年期の原体験として刷り込まれているような気がします。

 その一つは、萩民謡「男なら」に歌われた「神功皇后さんの雄々しい姿が鑑」となった卑彌呼像ではないかと思われます。あるいは、女として母として、徳川政権に果敢に挑んだ「淀殿」(茶)の姿でしょうか。世間受けすることから、若々しい「卑弥呼」が躍動する物語が少なくないようですが、「倭人伝」にも後漢書「東夷伝」にも、そのような講談ネタは、一切書かれていないのです。

*取り敢えずの解釈
 そうした「通説」を脇に置き、原文から解釈を進め、以上の読み解きに従って現代語風に書き連ねると、以下のようになります。

 (この年頭で)已に成人(「数え」で十八歳)となった(という)。配偶者はいない
 因みに、当時の支配者氏族は、婚姻関係による結びつきを重視したと思われるので、成人となるまで未婚であることは、ないように見えます。但し、当ブログ筆者は、「季女不婚」、つまり、姉妹の中の選ばれた一人は、家付き娘として、嫁入りも婿取りもせず、生涯、氏族の長たる「家」の祭祀を守る「巫女」(ふじょ)を務めたという見方をしているので、むしろ、配偶者がいないのは、当然とみていますが、史官は、中原では、そのような「文化」は、喪われていると見てとって念押ししたと見えます。

 追記 2020/05/17
 丁寧に説明すると、後代資料である范曄「後漢書」が、「遅くとも霊帝代に、倭で大乱が起こり、それを収拾するために、当時成人であった卑弥呼を共立したと想定し、卑弥呼の女王時代は後漢代であった」と語っていて、後漢書「東夷列伝」で「倭」条を構成しているため、共立は、遙か以前の後漢霊帝代あたりになって、曹魏景初年代には、相当の年齢(老齢)となっていて、この「創作」が曹魏代に先立つため、本来先行して書かれていて、笵曄「後漢書」に優先すべき「倭人伝」の解釈が、大きく撓んで、ここに書いたような「若年即位」の解釈は、はなから棄てられています。因みに、後漢霊帝代から献帝に至る時代は、後漢自体が不安定な時代であり、また、韓国も、動乱の時代であった上に、「東域都督」と言うべき遼東公孫氏が自立して、洛陽に東夷、特に、韓、倭について、一切報告をしなくなっていたので、なぜ、笵曄がそのような時代の東夷事情を知ったのか不思議です。後漢献帝期に創設された帯方郡を知らないままに、「倭」の「大乱」や女王共立を知り得たのかという謎です。

 慎重に考えれば、笵曄「後漢書」東夷列伝倭条に対して無批判に追従するのは、曹魏公式記録をもとに同時代史書として書かれた倭人伝」の確固たる記事の解釈を、百五十年後の後代資料「後漢書」のあやふやな記事によって、安易に改竄する「邪道」(時代表現では、「真っ直ぐ」を言う「従」でなく、斜めを向いているという事です)であり、再考の必要がある(棄てなさいと言うこと )ように感じます。

 また、卑弥呼の壮年即位、時代を越えた老境に到る君臨は、「倭人伝」に書かれている人物像ではなく、国内史料などから編み出された古代国家君主像に由来していて、これまた、慎重に考えれば、倭人伝」の解釈を、数世紀後の別系統の国内伝承史料の解釈の「思い込み」に沿って糊塗するものであり、根拠の無い風説の類いなので、とことん再考の必要があるように感じます。

 どちらの場合も、「倭人伝」の記事を離れた「空想」業であり、当然、深意を読み過ごしているものと思われるのです。

 当記事だけでは、「長大論」を言い尽くせないので、一連の「関連記事」詳しく述べていますが、当ブログで、このように、わざわざ「定説」に異議を言い立てるのは、それなりに根拠があってのことと理解いただきたいのです。
以上

 2015年5月16日 補訂

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2022年10月17日 (月)

14a. 共立一女子 - 読み過ごされた女王の出自 増補 再掲

                       2015/05/16  2022/10/17
 「乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼」

 魏志倭人傳で、卑弥呼を後継した壹与は、卑彌呼の宗女、すなわち、親族として紹介されていますが、卑彌呼自身にはそのような係累の記事はなく、単に「一女子」と紹介されているように見えます。
 卑彌呼は、普通に考えるように、「一女子」であり、出自不明の一女性だったのでしょうか

*「女子」の由来
 後漢魏晋時代の「女子」の語義を知るすべとして、南朝劉宋代にまとめられた逸話集「世說新語」に載せられている後漢末の蔡邕に関する「黄絹幼婦外孫虀臼」の逸話があります。
 後漢代の蔡邕が石碑に彫り残した謎かけを、一世代後の曹操が「絶妙好辭」と案じるという設定です。

 この謎は、お題の八文字「黄絹幼婦外孫虀臼」が、それぞれ二文字ごとに一文字の漢字を導くというものです。
 本稿で関係するのは、七、八文字目なので、それ以外の絵解きは割愛しますが、ネット検索すれば、容易に全体を読むことができます。

 さて、ここで「外孫」と唱えていますが、これは、「女子」、つまり、「女」(むすめ)が嫁いでできた子(そとまご)のことです。
 謎解きでは、「女子」を横につなげて「好」の字となると言うことです。
 この故事は、当時の教養ある人には、「女子」に「外孫」の語義ありとの了解が成り立っていたことをしめすもののようです。

 陳壽の書いた記事を、このような語義に従って読むと、卑彌呼は、男王の外孫であり、また、「女子」と言う形容により、せいぜい17,8歳の少女であったとの読みができます。

 男王の孫であり、かつ、嫁ぎ先の有力者の娘であるということは、広く女王として尊重されるにふさわしい根拠であり、又、兄弟姉妹のある中で、あえて、俗縁を離れて鬼神に事えることになっていたように思えるのです。
 このように、「女子」の一語で、卑弥呼の年齢と係累を書き残したのは、陳壽の渾身の寸鉄表現と考えることもできます。

 ちなみに、先ほど無造作に使った「少女」と言う形容は、蔡邕に従うと「幼婦」、つまり高い身分の幼女であり、蔡邕に従って読み訓(よみとき)すると、少女ですが、文字を前後入れ替えて、女少となり、すなわち「妙」(当時の語義では「優れている」という意味です。決して、女が少ないという意味などではありません。念のため)です。
 従って、蔡邕を典拠とすると、「少女」という形容は、15歳以上と思われる「女子」に対して使うには、不適切だとなりますが、ここでは、現代用語として使用するものです。
 こうした言葉の使い分けは、当時の人々には自明だったのでしょうが、遙か後世、かつ、異国、東夷のわれわれの目から見ると、判じがたいものがあるのです。

*「卑弥呼」のこと (廃線)
 さて、ここで、女王の「名」とされている「卑彌呼」を見直してみます。
 憶測の部類ですが、この名前は、倭國の言葉遣いでは「ひめこ」(媛子)と読むのではないかと思われます。倭國の言葉の意味は、「娘の子」であり、(王の)娘が嫁ぎ先で産んだ子供という意味と見ます。先ほど述べた、女子、すなわち外孫の中国的な読み訓と見事に符合しています。また一つの寸鉄表現です。
 おそらく、陳壽が、原資料に書かれていたであろう卑彌呼の出自を僅かな字数にはめ込んだものであり、史官として、見事な仕事ぶりと感嘆するのです。
 才人、文章家の評価が高い笵曄と比較して、陳壽は凡庸と見られているように思われますが、この一件が、以上の故事を踏まえて構成されているとすれば、陳壽の機知は、燦然たるものがあるようです。

 以上の読み解きに従って、現代語で書き連ねると、以下のようになります。

 そこで、男王の外孫である少女(15歳程度の未成年の女子)(男王家と嫁ぎ先の両家の)共同で立てて王とした。王の名は、卑彌呼(媛子 ひめこ)とした。

追記:取り下げのこと
 以上の筋書きは、現在の意見では、否定的な方向に大きく傾いています。
 つまり、「倭人伝」は、三世紀に中国人が書いた報告書を、程なく正史に収録したものであり、従って、「倭人伝」の考察に於いて、後世日本史料は、まずは、排除すべきだという意見に傾いているのです。ほぼ、撤回の弁ですが、あえて、削除していません。

*「卑字」の誹りの誤謬
 当時、倭人に漢字の知識が不足していたので、「卑弥呼」なる漢字(卑字)を押しつけられたと思い勝ちですが、支配層は、必要もあって、中国語を学んでいたものと思われるので、十分な教養のもとに、これらの文字を選んだ可能性も無視できないように思えます。どのみち、蛮夷の「王」は、本来の「王」では無く、蛮夷を懐柔するための「虚飾」ですから、何も、頭から、被害者意識に囚われる必要は無いのです。
 
 後年ですが、蕃夷を「蛮夷」などと呼ぶと、後日、漢語を解するようになった夷人から、差別表現だと責められることになったため、鴻臚寺は、接待部門鴻臚寺「掌客」のように、夷人を「客」と呼ぶようにしたのです。と言って、別に蛮夷を尊重したわけでは無く、単なる、外交儀礼だったのですが、それによって、無用の摩擦は避けたものなのでしょう。

*「臺」蔑称説の台頭
 因みに、著名な古典である「春秋左氏伝」によると、「臺」は、凡そ「人」として最下級の格付けだそうですが、「定説」では、この極めつけの悪字が、倭人の女王の居処名に使用されているとの説が根強いのです。陳寿は、当然、左氏伝を、史書編纂の典拠として熟知していて、少なくとも座右の書としていたはずですから、まさか、自身でそのような蔑称を採用するはずが無いと思われます。いや、陳寿当人に言いつけたら、「邪馬臺国」など書いていないと憤慨されるでしょうが。

 いや、「倭人伝」に同時代用語として「臺」は採用されているので、蕃夷の国名の命名は、また別儀としても、蔑称、尊称混在を否定するに足る論拠と思えないし、陳寿が命名した国名というわけでもないのですが、「邪馬臺国」説に対して、提示されたことの見えない、かなり否定的な余談でした。
 もっとも、この「臺」の由来は、「台」には全く関係無いのですが、「臺」と「壹」の混同は、字の「見かけ」に依存しているので、たまには、字の「意味」を論じたいと思っただけです。

*「卑」という「貴字」
 現に、漢字学の権威である白川勝師の字書によれば、「卑」の文字は、「天の恵み」、端的に言うと「雨水」を受けて人々に施す「柄杓」の「象形」から発した文字であり、「上方から降り注ぐ恵みを、身を低くして受ける」ことから、天の「卑」(しもべ)として仕える意味が生じたように見えます。
 そのように調べると、「弥」「呼」の二文字にも、少なくとも、特に貶(おとし) める意味は課せられていないように見えます。

*「誹(そし)り屋」稼業横行
 古代史分野では、「倭」のように光輝ある由来の文字でも、何とかケチを付けて貶(おとし)める習慣が流行っていて、初学者は、そのような「刈り込み」で、古代史に関する史眼を形成して、言うなら、目に「ウロコ」をはめられて、冷静な考証が困難となっているようですが、当ブログ筆者は、流行に動じないし、先師に阿(おもね)る必要も無いので、率直に、気づいたことを述べているのです。

*名乗りの話
 それにしても、自分で書いておきながら、無名のものが、共立の際に「卑弥呼」と名付けられたとの思いつきは、軽率な誤解であったと痛感しています。(言うまでもありませんが、「無名」とは、語るに足る「名」がないという事であり、漱石の吾輩のように「親から名が付けられていない」と言う意味ではありません)
 古代に於いても、実名は実父にしか命名できない、言うならば神聖極まりないものであり、その子は、その実名で祖先の霊と結ばれているので、改名などできないと言う、重大な取り決めを忘れていたもので、失言です。

*「実名」の話
 因みに、古代に於いて、実名を世間に曝すことを避けるために、字(あざな)などの「通称」を常用することは、むしろありふれていましたし、字すら避けて、官位、職務などで呼ぶことも、又ありふれていましたが、国書に記すのは、あくまで実名であり、天子だけは、臣下を実名で呼び捨てることができたのです。
 して見ると、親魏倭王たる卑弥呼は、国書の署名に於いて、魏皇帝に対して実名を名乗ったのであり、通称や職名などもっての外だったとみるべきです。

*当て外れの名付け
 それにしても、「卑弥呼」の名を、当時影も形もなかったと見える、恐らく没交渉の、あるいは、世紀の時を隔てた別の「国家」の言葉、習慣に沿って解釈し直すというのは、途方も無い見当違いとなる可能性を滔々と秘めていますが、世上、そうした見当違い、筋違いの当て込みが、圧倒的に数多く徘徊しているように見えるのです。当ブログの「倭人伝」論義で、後世国内史量を避けるのは、本来の論義の妨げになるからです。他意はありません。

以上

02a. 帶方東南大海 - 最初の読み過ごし ちょっと補筆改題 再補筆

                      初出:2014/11/03  補筆: 2021/11/07 2022/10/17

*02.  倭人在 -  最初の読み過ごし
 「倭人傳」の書き出しを虚心に読む限り、「倭人」の所在は明快です。

「倭人在帶方東南」
 帯方郡は、朝鮮半島中央部西北部、後の漢城(ソウル)付近、ないしは、その北方に存在したとおもわれるので、その東南と言えば、現在の九州を指しているのは、明解そのものです。(三世紀に至っても、まだ、漢城付近の土地は乾いていなかったので、石造りの城郭に楼観を設け、郡兵を擁した「帯方郡治」はなかったと見受けます。結構、北にあったと見えます)
 陳寿「三国志」「魏志」に示された古代の世界観で言うと、南部の「韓」と総称される地域が、黄海対岸の戦国齊の領域、特に、山東半島東莱から見て、海中に山島が浮かんでいるように見えたので、齊、そして、齊を滅ぼした秦始皇帝から見ると、ここが「東夷」と見えていた可能性があります。
 その地域は、後に、後漢末献帝の時代には、遼東郡公孫氏の支配下に置かれましたが、あくまで、「韓」であって、漢武帝が滅ぼした「朝鮮」の領域とは見なされていないので、武帝が置いた四郡の一部が、この領域に置かれたという可能性は稀少です。元に、公孫氏は、武帝が置いた楽浪郡を支配下に置いた際、それまで、荒地として放置されていた南東部を特に「帯方郡」として間接的に支配することにしたのです。
 もし、武帝が、漢制の郡を置いたのであれば、郡太守の居城である郡治に、所定の郡兵を置き、かつ、支配下の領域には、戸籍、地籍を確立し、かつ、郡内に街道を設けたわけですから、逝去を経たとは言え「荒地」とは言えないものです。
 さて、ここで問題になるのが、半島南東部「嶺東」と呼ばれる地域の扱いですが、ここは、帯方郡との間に小白山地が東西に走っていて、合って、交通が不便であり、この小白山地は、西部では、南北に位置して、黄海沿岸部との交通が不便なので、合わせて、「嶺東」の発展を妨げていたのです。
 先立つ「韓伝」で、韓は東西を「海(うみ)」に限られていることは明記しましたが、陳寿は、その南は「倭」と接すると、未解決のままにしています。と言うことで、読者が期待する中、「倭人伝」冒頭の「倭人在帯方東南」との一言で、倭人の所在を「韓」のさらに南方、山島の継続として描いたのです。ただし、地続きという解釈は、否定されています。

*「快刀乱麻」の提案
 古代史用語で定着している「日本列島」の中心部、現在本州と呼んでいる島は、帯方郡の東南方向から東北方向にかけて、長々と伸びているので「圏外」ですから、学説として「落第」です。三世紀にも、その程度の地理認識はあったでしょう。
 ここで、九州島以外の広大な地域を「圏外」/「落第」として却下すれば、以後、これらの地域は、倭人伝の道里記事と照合する必要はないので、女王国の比定に伴う諸考証が不要となり、労力の空費、多大な迷惑が避けられます。「快刀乱麻」、アレキサンドロスの「ゴルディアスの結び目」解決に迫る快挙ではないでしょうか。

 と言うことで、「魏志」「倭人傳」が、「倭人」の「國邑」を、現代感覚で言う「九州島」のあたりと理解して書かれたことは、まことに明解です。ただし、知られていたのは、大海中の中之島(州島)の島伝いの行程/渡海であり、對海國、一大國の向こうの「州島」がどこまで続いているかなどの正確な知識は、伝わっていなかったので、後代の感覚で「九州島」を思い描くのは。誤解の始まりと見えます。

*存在しなかった「倭人」地理記事
  韓傳: 韓在帶方之南
 倭人傳: 倭人在帶方東南

 「韓傳」を見ても、冒頭で、帯方郡を基準とした地理関係を明確にしています。「韓」は、帯方郡の近傍なので、行程道里は書くに及ばなかったのでしょうが、その南の「倭人」の行程道里は、なぜ明記されていなかったのか不可解と言えます。
 但し、行程道里の起点であるべき帯方郡郡治の位置は不明であり、曹魏雒陽からの「公式道里」は、正史に明記されていないから、色々議論が絶えないのです。(景初初頭に、帯方郡は、遼東郡の支配を離れ、曹魏皇帝の管轄下に入ったので、新参の東夷である「倭人」に到る行程道里は、その際に、皇帝に申告されていなければならないのです。)

 因みに、母体であった楽浪郡は、漢武帝代に創設され、その時点の東都洛陽からの「公式道里」が、笵曄「後漢書」の「郡国志」(司馬彪「続漢書」を後世に採り入れたもの)に記録されていますが、漢武帝が創始した楽浪郡が、創設以来、数世紀に亘って、一切、移動しなかったわけは無く、「公式道里」は、「実際の楽浪郡郡治の位置に関わりなくあくまで一定だった」のです。
 そのような公式道里を基準とした楽浪郡から帯方郡への道里は、表明しようがなかったものと見えます。少なくとも、西晋史官たる陳寿には、合理的な表記ができなかったと見えます。

 これに対して、後漢後期、三世紀初期に既存の楽浪郡帯方縣が昇格した帯方郡郡治の所在、雒陽からの道里が、「正史に明記されていない」のは、むしろ奇怪です。これには、後漢末期、遼東郡太守であった公孫氏が、洛陽の混乱、衰退につけ込んで、自立していた背景があり、新参の東夷、つまり、倭人の存在を隠したものと知られていましたが、後に、魏代に入って討伐されて、公式文書類が破壊されたので、曹魏洛陽の政府記録は、後漢代以来の混乱を訂正できなかったのです。何しろ、公孫氏の報告を、訂正/補充できるのは公孫氏のみであり、それができない以上、倭人伝の魏代記事は、帯方郡などの下部組織に残された地方記録に頼ったものなのです。
 と言うことで、倭人伝の道里行程記事は、普通の解釈が困難となっているのです。

 「三国志」の上申を受けた晋朝高官は、まず、新参東夷の所在を知りたがるものであり、更に関心があれば、以降を読み進めると言うことから、史官は編纂に当たって、冒頭数文字に地理情報を凝縮したのです。

以上

*補筆                  2014/11/2  追記 2022/10/17 2022/11/05
 4月2日時点では、以下の議論の歯切れが悪いので、書き落とましたが、半年たって読み返して、やはり書き留めておこうと決めたのです。
 倭人在帶方東南大海之中
 ここまで一息に読むとして、「帶方東南大海」をまとまったものと見て、これを「帯方東南の大海」と読んでしまうのは、不正確ではないかと思います。
 案ずるに、「帯方東南」とは、倭人の所在に対する形容であって、大海に関する形容ではないのです。いくら古代でも、帯方郡の政庁である帯方郡治の官吏も、西晋の史官たる陳壽も、韓半島の周囲が互いに繋がった大海であるという地理知識はあったと思います。

 この書き出し部分は、東洋文庫264「東アジア民族史 1 正史東夷伝」の三国志魏書倭人伝の項では、現代語訳として、次のように丁寧に解きほぐされています。
 「倭の人々は、帯方[郡]の東南にあたる大海の中の[島々]に住んでいて」
 「普通」に読むと、「東南にあたる大海」と「大海」が東南方向に限定されているように読めます。

 現代語訳とするときに付け足した部分が、原意から(大きく)脱線しているのではないかと感じるのです。此の際念押しすると、二千年前の中国人が皇帝を中心とした高位高官の教養人のために、誠意を尽くして書きまとめた文章が、易々と現代人、つまり、遙か後世の東夷によって、すらすら理解できるように書き換えられるはずはないのです。

 それ以外に、この現代語訳には、古文の正確な解釈を離れた現代風解釈が、多々織り込まれていて、原文の趣旨、編纂者の深意に添ったものかどうか、かなり疑問があります。(違っているよと言う意味です)
 現代人にありがちな誤解ですが、「倭人」を「倭の人々」と読み替えているため、「在」を「住んでいて」と読み替えていますが、これは、誤解を招くものと考えます。「倭の人々」 と言うためには、先だって「倭」がどこの何者か公知で無ければならないのですが、 先立つ資料はなく、だからこそ、ここで「倭人伝」を立てて、宣言する必要があったのです。「東夷伝」の諸伝記事は、各国家ないしは地域社会を語っているものであり、「倭人」伝は、「韓」伝と同列の地域概念の紹介と考えます。

 「韓伝」では、「韓」は、馬韓、辰韓などのやや下位の地域概念に分割可能なのに対して、倭人伝では、「倭人」と倭、倭種、倭国、女王国などとの上下関連が明確でないので、構成は若干異なると見られますが、少なくとも、「倭人」を「倭の人々」と書き換えることには、大いに疑問があると見るのです。(友人なら、ダメじゃないか、というところです)

 また、やや余計なお節介かも知れませんが、[島々]は中国語にも日本語にも縁の薄い複数形であり、これでは、倭人の住む国土が、まるで、フィリピンかインドネシアのような島嶼国家になってしまいます。言葉の時代観のずれでしょうか。 追記:ここだけ透徹した読みをしているのでしょうか。
 むしろ、実際は、
山島は一つだけで在り、對海国も一大国も、飛び石状に存在していた大海の中州に過ぎなかったという解釈もありうるのです。この「ずれ」は、深刻な誤解か見知れないのです。(友人なら、ぼけてんのか、というところです) 追記:ここは、当記事筆者の浅慮のようです。反省。

 いや、「大海」を現代日本語の感覚で、Ocean(太平洋)と解しているのも、「誤解」の可能性が高いのです。三世紀当時の言葉で、まずは『「大海」は、内陸の塩水湖であって、寛くて大きい「うみ」ではない』のです。
 当時、中国世界で一番有名な「大海」は、班固「漢書」「西域伝」、魚豢「魏略」西戎伝に収録された後漢西域史料(「東京西羌伝」)に書かれていた西域の果ての裏海(カスビ海)です。但し、固有名詞は付いていません。(陳寿の時代、笵曄「後漢書」は未刊のため、陳寿が述べている「東京西羌伝」の実態は不明ですが、魚豢「魏略」西戎伝に大要が収容されていると見られます)

 現代語訳は、確かに、現代人にとって読みやすく書かれていますが、それは、本来、長年の議論をもってしても、いろいろな意味に読み取れる原文を特定の解釈に固定している「勝手読み」の表れでもあります。むしろ、わかりやすい現代語訳ほど、現代語感/世界観に毒されていて、大脱線の危険が高いと見るべきです。

 倭人伝冒頭部分の解釈の課題は、世間で認知されていないらしく、専門誌である季刊「邪馬台国」103号に掲載された論考には、各筆者の筆に従い、以下の3種の解釈が収録されています。
 1. 「倭人は帯方郡の東南、大海の中に在り」
 2. 「倭人は帯方郡の東南の大海の中に在り」
 3. 「倭人は帯方の東南にあたる大海の中に在り」
 2、3は、明らかに「東南」が「大海」の形容となっていますが、1は、東南と大海を直接結びつけない読み方です。とは言え、文の解釈を曖昧にしているだけで、文の意味を解明していないので、その分、世間に、大きな迷惑をかけています。 追記:「現代語訳は、原文の過度な読み解きはすべきで無い」という原則に留めるべきでした。反省。
 なお、上に例示した現代語訳は、学界の定説を忠実に踏まえているものであり、本論の趣旨が、これらの文を含む論考について、その内容を論(あげつら)うものではないことは、ご了解頂けるものと思います。

 結局、「在」と言う動詞を、本来意味の届いていない後方まで引きずって解釈しているために文章の明解さが失われているのであり、「倭人在帶方東南」で区切り、明解にするべきであるというのが、本論筆者の主張です。

 それとも、明解に読み下してしまうと、「倭人」が九州島に限定されてしまうので、「畿内説」の絶滅を防ぐために、あえて、曖昧にしているのでしょうか。

 因みに、当記事の読みでは、「倭人」は、大海中の山島に「国邑」を成していることになりますが、これは、中原太古の世界像に従わず本来隔壁で保護されているべき集落が、山島では海を隔壁とし城壁を設けていない』という宣言です。但し、戸数数万戸の領域国家は、到底、山島に収まらないので、規定を外れるのですが、郡倭行程外の余傍の国と明記されているのに等しいのです。

以上

補注 2022/10/17
*「大海」の正体~一つの明快解釈案
 以上の考察は、その時点での最善の考察であり、特に訂正の要は認めませんが、残念ながら、現代東夷の限界で、現代普通の解釈に偏っているので、以下、別解を述べます。一部、他記事と多少重複しますが、話の勢いでそうなったと理解いただきたい。

*天下を巡る「海」
 つまり、「大海」は、現代人が当然と見ることのできる「塩水湖」と決め付ける前に、中國古典の「世界観」に思い至る必要があったのです。つまり、「海」は、塩水に満ちたものと限らず、「天下」の四囲にある異界と見えるのです。

 四方の「海」のうち、東海」は、たまたま、大変早い段階で広大な海水世界と知られているため、それが「うみ」であると「誤解」され自動的に 現代英語で言えば、Sea (英語)ないしは Ocean (米語)と見てしまいますが、本来の古典的「世界観」は、『天下」の到達可能な範囲には、南も北も、まずは、蕃夷の支配する異界があって、それを「海」の概念で括っていた』ものとも見えるので、直結、短絡的な決めつけは、控えた方が良いようです。

*新書の教え
 因みに、渡邉義浩氏は、「魏志倭人伝の謎を解く(中公新書2164)」で、陳寿が、「魏志」東夷伝序文で展開した世界観が、尚書「禹貢」篇に於いて、中国世界を、天子の支配下にある「九州」とその四周にある蛮夷の済む荒地「四海」と捉えた世界観と明記され、「九州」が「万里の世界」と絵解きされていて、先に述べた「海」の解釈は、当ブログ筆者として、これに従おうと努めたものです。
 なお、中島信文氏が、複数の近著で開示された「中国」世界観は、広大、精緻で、大いに学ぶべきですが、多岐に亘る論旨は、本稿の中で端的に要約参照することが困難なため、渡邉氏の手短な論義を利用したものです。ご了解頂きたいものです。

*現代「地図」、「世界観」の放棄
 この場の結論として、伝統的な中原文明の「世界観」、「地理観」に厳密に基づいて書かれた「魏志」では、「倭人在帶方東南大海之中」の解釈は、一歩下がって慎重に取り組んだ方が良いようです。つまり、魏志東夷伝の一部である「倭人伝」の示す世界像を「普通に」理解する手段として、現存の世界地図は、一旦、放棄すべきだという事です。

*「倭」の正体~一説提起
 取り敢えず、ここで言う「大海」は、東方の異界の一部を成すものであり、「倭人」が、帯方郡の東南、大海中に在るというのは、韓伝で予告されているように、韓の南は、「大海」に接していて、それが、即ち「倭」である』と解すれば、たちまち明快になるのです。
 そのように解すれば、ここでは、「倭人」なる「新参の東夷」は、「倭」即ち「大海」の中で、特に、大海中の山島に在ったものをいうのであり、そのように解すれば、幾つかのあいまいとされていた表現が明快になるのです。

 例えば、狗邪韓国に関して書かれている「其の北岸」は、「倭」と称されている「大海」の北岸』であり、まことに明快です。

*帯方郡官人の限界と特性
 そのように精妙な定義付けを報じた世界観は、実は、洛陽の読書人に(限り)通用するものであり、辺境にある帯方郡官人の世界観とは「ずれている」のです。陳寿は、「東夷伝」の核心部/要点では、渾身の努力で、洛陽の世界観と帯方の世界観を精妙に整合させていますが、末節部分では、原文である帯方郡公文書を温存し、素人目にも明らかな食い違いを残しているのです。

*早計の「挙げ句」
 いや、景初初頭の魏明帝特命による両郡回収以降、帯方郡が洛陽に直接提出した報告は、既に皇帝に上申され、裁可を得て、洛陽公文書になっていたので、これは、金石文に等しく至上のものであり、一介の史官、いや、後代皇帝、高官を含めて、誰であろうと是正する術はなかったのです。又、かくのごとく確固として継承された公文書を正確に後世に伝えるのが、史官が身命をかけた職業倫理でもあったので、筆を加えることは問題外だったのです。

*渡邉流「史官論」への疑問
 先に著書を引用させて頂いた渡邉氏は、テレビ番組上での談話とは言え、「史官は、史実を正確に継承する動機付けを有しなかった」という趣旨の断言/妄言を公開していて、さながら、タコ墨の如く、「ご自身の史学者としての厳正さを幻像と言う」ように目くらましして「粗忽な画像」とされたため大いに不信感を漂わせているのです。
 なにしろ、視聴者にとって、「画面に見えるのは、氏の姿」なので、素人は、ついつい、一流史学者の「自嘲的な自画像」と見てしまいがちなのです。

 とは言え、先に挙げた尚書「禹貢」篇解釈は、確たる史料の端的な解釈なので、氏の恣意はこめられていないものとして、ここに端的に依拠したものです。

以上

2022年10月12日 (水)

新・私の本棚 平本 嚴 「邪馬台国はどこにあったのか」再掲 1/2

~倭王卑弥呼の朝貢から読み解く 22世紀アート  アマゾンKINDLE電子ブック 2019年8月刊
私の見立て ★★★★★ 好著必読  2020/05/12 補充 2022/10/12

〇始めに
 見事なのは、「はじめに」として、本著の基本理念が適確に表明されていることです。これは、「商品」として不可欠ですが、近年古代史で目立つジャンク本では、一流出版社の単行本でも欠落していることがあり、むしろ貴重な特質です。

 本書は、「景初二年の朝貢から見た邪馬台国の所在地論」です。 研究に関し重要なポイントを「発想」という視点で述べます。

 当ブログで機会ある毎に説いていた準備、そして実行という着実な考察が書かれていて、心強いものでした。また、極力、倭人伝記事の妥当な解釈による考察であり、それ自体大変説得力のあるものでした。

 それにしても、22世紀アート社は、編集部に優れた人材を擁しているようで、これなら、書店店頭で立ち読みできないご時世でも、安心して大枚を投じられるかと思うものです。掃き溜めに鶴と言いたいところです。

*丁寧な準備
 前例のない大事業に乗り出すには、内外情勢確認、実施手順策定、そして、実施に際して、綿密な工程管理、進度管理が必要です.参上する相手との綿密な交信も必須です。そういった段取り事情を丁寧に説き起こす「倭人伝」考は、ここ以外では見かけることがありません。世に、ジャンクフードの画餅が氾濫していて、このように、歯ごたえのある正餐に出会うと感嘆するのです。
 後ほど、無作法な批判をしますが、随分前から、言葉遣いの節度をなくしているので、お許しいただきたいのです。

*両論併記の取り組み
 本書で感心するのは、畿内説と筑紫説の両論を併記して、それぞれに於いて、適切な考察を試みていることです。
 「当分野」は、まずどちらの説で書かれているかで、書棚行きの積ん読かゴミ箱投棄かが決まり、所在地比定の論考でも、恣意だとか、偏向だとか、感情論で切り分けられ、投げ出されていしまうため、折角の著者の考察が、読者の眼に届かない様子を見ると、ここは大人の行き方と見ます。何しろ、諸説の上っ面をつまみ読みして、理解できないままに、「全部間違いに決まっている」と絶叫する論者が目立つのです。
 ここでは、畿内王都と仮定して、半島事態を知るのに要する時間、畿内での準備期間、半島までの行程日数を合わせ考えると、景初二年六月には帯方郡に着かないと見え、三年誤記説に逃げず、どう解決するのか興味のあるところです。
 当方の考えでは、王の意志決定に従い、派遣使節人員の大半と荷物、そして、乗船は、筑紫拠点に手配を指示し、畿内からは、大夫一人、ほとんど手ぶらで出たと見ます。大夫が乗馬できれば移動時間は大幅に短縮できます。
 私見では、急遽派遣という状勢であるから、人員も荷物も、随分小振りで書面指示したはずですが、氏の意見は別で、王都に集中しているようです。
 郡に申告しておけば、御用達で、街道関所は、過所(通行証)いらず、関税免除、宿は官費です。数十人の大使節団はそう行かないでしょうが、「倭人伝」の貧相な使節なら、むしろ、同情されてもてなしを受けられたでしょう。

*若干の異議
 そのように思うのは、以下書くように、氏が想定した使節団が場違いにでかいからです。氏がそのように感じたのは、野性号案件が、漕ぎ手固定の手漕ぎ船で、積み荷の多寡、漕ぎ手の消耗はともかく、遮二無二、一貫航行できる、為せば成ると証明されたように報告を言い繕ったからでしょう。スポンサー、支援者の手前、「失敗した」とは、絶対に言えなかったためでしょう。
 当ブログでは、長距離の漕ぎ船移動は、維持不能な公用交通手段とみていて、意見が分かれます。
 御手並拝見という所です。

                                未完

新・私の本棚 平本 嚴 「邪馬台国はどこにあったのか」再掲 2/2

~倭王卑弥呼の朝貢から読み解く 22世紀アート  アマゾンKINDLE電子ブック 2019年8月刊
私の見立て ★★★★★ 好著必読  2020/05/12 補充 2022/10/12

〇既成概念の残光
 書評の務めですから、瑕瑾をつまみ上げて指摘することになります。
 案ずるに、意識してか無意識にか、さまざまな既成概念に影響されて「倭人伝」考察に取り組んでいて、着実な考察が妨げられているのが惜しまれます。
 その一つは、「邪馬台国」が、豊かな国力を持っていた古代国家であるという前提であり、そこから、六艘に及ぶ朝貢船団を連ねた延々たる行程となり、それ故、何としても、船団で乗り続けたとの視点に囚われているのが、もったいないところです。
 この前提を取り下げると、本書のかなりの部分が空転するのですが、この前提を書き替えてしまうと、本書は別のものになってしまうのです。つまり、後段の批判は、無理な注文と承知の上です。よろしくお含み置きください。
 但し、氏は、海路遣使の幻想に耽るのではなく、地に足の付いた考察を進めていますから、世にはびこるジャンク本/書籍/新書と一線を画している点が、ここで賞賛されているのです。

*帯方郡の不思議
 折角、景初元年八月に、帯方郡が魏の支配下に復帰したとしながら、使節は、その事態急転に気づかず自律的に遣使を決意し、二年の早い時期に郡に到着したのに戦雲巻き起こる遼東に赴いたのは、ちょっと/全く、説明のつかない事態です。
 ついでながら、「倭人」が遼東郡に隷属したと想定していますが、それなら、魏の攻撃に備えて韓濊倭に動員がかかったはずです。思うに、遠隔蛮夷の隷属は面倒なだけで、単なる服属と貢納でよしとされ、戦力視はされてなかったでしょう。
 勿論、氏の既成観念を指摘しただけで、当否を言うものではありません。

*後漢書崇拝の咎
 無造作に范曄「後漢書」倭伝を利用していることも不都合です。
 「倭奴国」貢献は後漢書本紀であり、光武帝は印綬を下賜しただけで、金印下賜とは書いていないのです。また、考安帝本紀は、貢献を示すだけで、生口は倭伝独特記事、つまり、范曄得意の根拠のない文飾と見えます。
 「倭人伝」には、情報源の詮索や、誤記、曲筆の疑惑が、山ほど浴びせられていますが、笵曄「後漢書」倭伝は、一転して無批判な引用が目に付きます。これは、正当ではありません。いや、これは、俗説の安易さを歎いたものであり、氏への批判ではありません。

*洛陽への遠い道
 氏の考察のかなりの部分が、狗邪韓国経由帯方郡の海上経路に費やされ、さらに郡から遼東にいたり、そこから、洛陽に転ずる街道の想定で、相当の労力を費やしたと思いますが、労苦に賛辞を呈するものの、疑問があります。
 黄河河口付近は、巨大な暗黒地帯であったとの指摘は、軽率な論者に対し貴重な問題提起ですが、使節は、遼東に寄らなければ、この迂回は不要だったと歎かなかったのでしょうか。

*嫌われた順路
 そのような経路を敢えて進んだ前提として、郡から山東半島への経路が難所とされていますが、どう見ても、ほんの一またぎの水たまり越えの散歩道で、激流の荒海でないと思うのですが、難所の根拠はあるのでしょうか。
 漢書には、武帝の朝鮮派兵で利用した経路とされています。
 帯方郡から見ると、山東半島から洛陽に至る青州路は、つい先年まで、公孫氏の支配下にあり、土地勘のある郡官吏もいたでしょう。帯方郡収監の際に渡来した兵士も少なくなかったものと見ます。随分近道ですからね。
 狗邪~郡街道史料が見当たらないとありますが、弁辰産鉄の運搬は、郡命により、日程厳守できる官道経由のはずで、それに備えて宿駅整備がされていたはずです。街道が当然だから、特に書かなかったと見ます。何しろ、韓地行程は、韓伝の領分なので、倭人伝には書かなかったと見るものでしょう。

 氏は、半島南部沿岸に、寄港地が整備されていたと見ますが、帯方郡としては、陸上街道整備だけで目的を達成できるのであり、特に必要のない遠隔僻地にそのような整備を行う動機が見えません。郡は、専政領主ではなかったのです。もちろん、自然発生で、漁港なり、隣接港への航行の船着き場があったことでしょうし、港伝いで、遠方からの売り物が届いたでしょうが、それは、ここで言う「寄港地」には当たらないのです。
 いや、小船であれば、砂浜に引き揚げるだけで、船着き場の用を足せるのです。

〇最後に
 いや、氏の辿った地道な論考は、業界では異端の道であって、先賢の助言は得られなかったのでしょうが、氏ほどの慎重さで考察を固めながら、これほど見過ごしが残っているのは不思議です。月並みで恐縮ですが、弘法も筆の誤り、という事でしょうか。

                                以上

2022年10月 9日 (日)

私の本棚 33 笛木 亮三 「卑彌呼は殺されたか!」季刊「邪馬台国」125号 1/2 再掲

~卑弥呼以死考~ 2015年4月 梓書院
 私の見立て★★★★★ 力作にして必読 2016/03/06 分割再掲 2020/06/18 補筆 2022/10/09

◯総評
 当記事は、魏志倭人傳に於ける「卑彌呼以死」の解釈に関する論考です。
 先行する諸論考を「軒並み」採り上げて論評している本体議論に関する意見は置くとして、笛木氏が諸説について考察を加えた後、ぽろりと感慨を漏らされている点に大いに不満を感じるのです。

*世間知らずの了見違い
 第8章岡本説の検証と私見 115ページ上段です。
 『今、「三国志」にある「以死」のすべてが簡単にパソコンで検索できるらしいのです』とよそごとのように述べていますが、ちょっと意外でした。この場で論説を発表するほどの識者が、ご自身で用例検索していないし、しようともしなかったと見えるからです。続いて、「コンピューターは大したものです」と感心しますが大きな了見違いです。

*「えらい」のは誰か
 コンピューター(PC)が「えらい」のではなく、PCなどの「端末」を介して、ネットから世界中のどこかに貯蔵されているデータを確認できるのが「えらい」のです。更に言うなら、そういう仕掛けを作った人、従来秘蔵されていたデータを世界のどこかに貯蔵した人が「えらい」のです。いや、関西弁で言う「えらい」は、仕事が多いという意味ですから、二重に皮肉です。

 平たくいうと、氏が称揚されているのは、「ネット」、そして、その向こうにいる大勢の「えらい」人たちであって、PCが「えらい」のではないのです。大型コンピューターの所蔵データを端末機から閲覧した時代は去り、自宅のPCで、三国志を全文検索して、用例を全文検索できるのです。

*PCすら不要の世界
 これには、特に有償販売されているアプリケーションを購入する必要はなく、自宅のPCに導入されているWindowsに作り付けのインターネットエクスプローラーとその後継者や無償で利用できるFirefox, Google Chromeなどの「ブラウザー」を使用して、そうしたデータの貯蔵されているサイトにアクセスし、サイト作り付けの仕掛けを利用して検索を依頼するだけで、検索例を全部列挙させられる時代になりました。
 ご自宅のPCは、別にえらくないのです。使用する「機械」がMacであっても、Androidスマホであっても、大差ないのです。

*頼れる友人が肝心
 大事なのは、PCを買ってくるのではなく、だれか初心者に対して丁寧に教えてくれる人を持つことです。「困ったときに手を貸してくれる友人が本当の友人である」(A friend in need is a friend indeed)と言うことではないでしょうか。こうしてテキスト全文検索が広く普及したのは、「三国志」で言えば、刊本を自由に利用できるテキストデータとして公開している団体、ないしは、個人がいるからです。
 「三国志」を出版している出版社は、当然、使用した全テキストデータを保有していますが、かなりの人・物・金を投じて構築したデータベースで、出版社の知的財産(著作物)であり、簡単に無償公開はしてもらえないものです。

*公開データの効用
 と言うことで、WikiSourceや「中国哲学書電子化計劃」などの公開データですが、すべてボランティアが入力したものであり、時として誤読はありますが、膨大なデータ量を思えば仕方ないところです。

*見知らぬ友人
 面識も交信もなくてもこうした努力を積み重ねた人たちは、本当の友人です。

                                未完

私の本棚 33 笛木 亮三 「卑彌呼は殺されたか!」季刊「邪馬台国」125号 2/2 再掲

~卑弥呼以死考~ 2015年4月 梓書院
 私の見立て★★★★★ 力作にして必読 2016/03/06 分割再掲 2020/06/18 補筆 2022/10/09

*ユニコードの功績
 合わせて言うと、Microsoft社の英断(当初、各国文化の個性を破壊すると非難されたが)で、全世界の文字データが、共通のユニコード体系で参照できることになり、楽々中国文献の検索ができるので、Microsoft社の功績は絶大です。ここに謝辞を表しておきます。
 公開データを全文検索して用例列挙するのは、素人も追試でき、フェアです。

*先人功績の称揚
 「邪馬臺国」「邪馬壹国」論争時に、三國志全文を手作業検索した話が、匿名の風評譚となっていて怪訝に感じるのです。手作業検索を評価するなら実名顕彰すべきです。と言う事で、曲がりくねった言い回しは残念です。
 また、とうの昔に博物館入りしたはずの「レジェンド」記事が多く、笛木氏の責任ではないのですが、延々と引用紹介と解読を強いられる「論争」のあり方が、折角の労作に苦言を呈する原因となっていて、もったいない限りです。

◯書評本論~私見御免
 素人考えながら、「悉皆」と表現される広範な用例検索の必要性は理解しますが、文献解釈の手順として「悉皆」は、本末転倒と思います。中国といえども、個々の文字、言葉の意味は、地域差もあり、時代差もあり、文献史料ごとに変動しているのであり、特に、古典典礼を踏まえない、日常用語の分野では、用例の適否判定が不可欠と見るものです。

 陳寿が採用した記事の筆者は、「以死」と書くとき、汗牛充棟の古典用例でなく、普通の教養で書いたはずです。当該文書の文脈から解釈することが、大変困難となったとき、初めて、書庫の扉を開き、台車で古典を引き出して身辺に置き、ひたすら参照すればよい、と言うか、そのような手順を常道とすべきなのです。これは、ほぼ笛木氏の趣旨でもありますが、敢えて書き立てます。

 倭人伝の書かれた真意を察するに、卑弥呼は、不徳の君主でなく敗将でもなく、天寿を全うした」と見るのです。没後に大いに冢(封土)を造営したころからも、そう感じるのです。

□補足 (2020/06/18)
 初回掲示の際、氏の提示された参照史料を書き漏らした不行き届きを、ここに是正します。
⑴阿倍秀雄「卑弥呼と倭王」(1971講談社) 
⑵生田滋 「東南アジア史的日本古代史」(1975大和書房) 
⑶松本清張「清張通史 1 邪馬台国」(1976講談社) 
⑷樋口清之「女王卑弥呼99の謎」(1977産報ジャーナル・新書) 
⑸栗原朋信「魏志倭人伝にみえる邪馬台国をめぐる国際間の一面」(1964史学会) 
⑹上田正昭「倭国の世界」(1976講談社現代新書) 
⑦大林太良「邪馬台国」(1977中公新書) 
⑧三木太郎「魏志倭人伝の世界」(1979吉川弘文館) 
⑨福本正夫「巫女王・卑弥呼をめぐる諸問題」(1981大和書房) 
⑽奥野正男「「告諭」・「以死」・「百余歩」」(1981梓書院) 
⑾白崎昭一郎「卑弥呼は殺されたか」(1981梓書院) 
⑿三木太郎「倭人伝の用語の研究」(1984多賀出版) 
⒀張明澄 「一中国人の見た邪馬台国論争」(1983梓書院) 
⒁謝銘仁 「邪馬台国 中国人はこう読む」(1981立風書房) 
⒂徐堯輝 「女王卑彌呼と躬臣の人びと」(1987そしえて) 
⒃沈仁安 「倭国と東アジア」(1990六興出版) 
⒄水野祐 「評釈 魏志倭人伝」(1987雄山閣出版) 
⒅岡本健一「発掘の迷路を行く 下」(1991毎日新聞社) 
⒆井沢元彦「逆説の日本史 古代黎明編」(1993小学館) 
⒇生野真好「「倭人伝」を読む」(1999海鳥社) 
㉑藤田友治「三角縁神獣鏡」(1999ミネルヴァ書房) 
㉒佐伯有清「魏志倭人伝を読む (下)」(2000吉川弘文館) 
㉓井上筑前「邪馬台国大研究」 (2000梓書院) 
㉔武光誠 「真説 日本古代史」(2013PHP研究所)
㉕岡本健一「蓬莱山と扶桑樹」 (2008思文閣出版)
                             以上

2022年10月 6日 (木)

今日の躓き石 毎日新聞記者の曇った「記者の目」 祝福の場に汚辱の「リベンジ」

                             2022/10/06
 30周年迎えたOMF 小澤征爾さんの情熱、つなぐ

 今回は、一日遅れで「昨日の躓き石」になった点をお詫びする。題材は、10月5日付毎日新聞大阪朝刊14版「オピニオン」面の「記者の目」コラムである。

 問題なのは、当記事で、中見出し付きの強調で、シャルル・デュトワ氏が「リベンジに燃えている」と暴言を放っている』と報道されていることである。その果てに、マエストロが「サプライズで登場した」 と書いていることである。
 全国紙の報道であるから、厳正に飜訳チェックがされ、ご当人の真意も確認したことと思うが、この発言は、記事全体とそぐわないのである。取り敢えず、シャルル殿は、血迷ったのかと思うしかないのである。
 それとも、現場の通訳担当か「記者」殿の勘違いかとも見える。と言うのも、この扱いでは、マエストロは、バケツの氷水を指揮者に浴びせるようなsurpriseを犯したことになるので、どうも、記者殿が、当世のカタカナ言葉を、まるでわかっていないのではないかと見えるのである。

 続く記事を見る限り、真摯な来場者は三年振りの開催を心待ちにしていたのであり、血なまぐさい「リベンジ」など思ってもいないはずである。もっとも、復讐の刃を振り上げても、振り下ろすべき邪悪な敵(人間ども)はいないのである。少なくとも、世界に広がる病原体に天誅を加えることなど、人の手の及ぶところではない。

 そもそも、当記事は、「30周年迎えたOMF」なる祝福記事の筈であり、この場で、「リベンジ」などと冷水を浴びせるサプライズは、ありえない。いや、いくら「オピニオン」面であっても、読者の多様極まりない個人的な意見を紹介する記事ではないから、購読者としては、ここには、全国紙たる毎日新聞の良心が現れている期待するのである。それとも、担当記者は、シャルル氏やマエストロに、私怨を抱えているのだろうか。不審である。
 全国紙記者たるものは、自分が書き付ける言葉が、どのように読者に理解されるか覚悟した上で書いているものと見ているのである。
 たとえば、「鳥肌」と何気なく書いて、多数の読者が、これを心地良い感動とみるとしても、多数の読者は、背筋の凍るような不快感を身を以て連想するから、良心的な記者の心情として、一部の読者であろうと大変な不快感を与えると確実に予想される「鳥肌」の場違いな採用を、何としても避けるものと理解しているのである。

 まして、正体不明の「リベンジ」を、失敗後の「リターン」と同意義と見るのんきな若者が多くても、広い世間には、テロの連鎖を連想させる、血なまぐさい悪習とみる読者もいるのであるし、英語に直訳されれば、大抵の英語圏読者は、「キリスト教を信じない日本人の蕃習」と悪く取るのである。
 天下一の全国紙の署名コラムを任される記者が、こんな風に素人に意見されるようでは、専門家にして勉強不足と見えるのである。

 近頃はびこり始めている「サプライズ」も、宣戦布告無しの不意打ちで、休養している真珠湾軍港を、「サプライズ攻撃」した帝国陸海軍の猛攻を想起させる」ことは、ロシアの不法な不意打ち攻撃を受けたウクライナ大統領が、これは、「真珠湾攻撃同様のサプライズアタック」と口を極めて非難し、後に、真珠湾の部分を撤回したことからも、世界的に、つまり、快挙、痛快と言いかねない日本人以外の全世界にとっては、忌まわしい余韻を引いているである。もちろん、当のアメリカ人の憤激は、同時代の人々の胸に焼き付いているのである。

 そうした危険極まりないなカタカナ言葉を、何気なく書いて済ましていては、「記者の目」は、節穴に見える。学芸部員だろうが、スポーツ面担当であろうと、是非とも、ご自愛頂きたいものである。

以上

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