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2022年10月15日 (土)

新・私の本棚 番外 諸説あり! 「女王・卑弥呼の正体」 4/4 余談

 BS-TBS ▽邪馬台国2時間スペシャル!  2017/06/10 2017/12/30
 私の見立て★☆☆☆☆☆ 参考のみ                  2017/12/25 2019/04/21 2022/10/15

 これは、番組批評で無く、あくまで余談です。
*三国史記の読み方
 十二世紀半ば、統一王朝高麗時代の三国史記編纂者は、二世紀後半の何らかの史料が、千年の波乱の歴史を経て伝えられたものを見て、そこに書かれた「倭人」なる言葉、漢字熟語を読み取ったのですが、その史料の記録者が言葉に託した意味を読み取ることはできなかったようです。
 いや、原史料が、難民の正体を正しく書いていたかどうかはわからず、また、原史料が千年の間正確に書写されたかどうかわからないのです。「魏志」ほど、厳格に写本継承されていても、誤字が目立つなどと言いがかりを付ける野次馬が絶えないのですから、是非、「史料批判」を重ねた上で、発言してほしいものです。

*新羅興亡
 最初に半島統一を成し遂げた新羅ですが、魏志韓伝に記載された三世紀、韓の一国、辰韓を構成する十二カ国の一国の時代は、未開で、当然、文書記録は、皆無というか不完全でした。辰韓を統一し、さらに、三国鼎立時代の相克を経て百済、高句麗の二国を滅ぼして半島統一した統一新羅時代、中国文明に深く接して史書整備を試みたはずですが、その成果は十世紀の三国分立戦乱を経て、北方の新興高麗に滅ぼされた時、亡国の史料は毀損され、残存した史料も、維持管理は疎かで、適確に継承されなかったようです。

*倭女王卑彌乎遣使
 新羅本紀には、「(173) 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」)」なる記事が見られるとのことです。(訳文はWikipedia)

*史料批判
 これでは、「倭人伝」に基づいたつもりで、「卑弥呼が248年頃死亡した」とする解釈と結びつけたとき、女王は、少なくとも七十五年にわたる在位となり、仮に二十代で共立されたとしても、百才の老王となってしまいます。定説のように、いい年(三十代、あるいは四十代)で共立されたとすると、百二十歳にも成ろうということになります。因みに、この年齢計算は、中国の暦法に従う加齢なので、せいぜい、数えと満との違いしか勘定できないのです。
 要するに、古史料の孤立した記事を本紀編纂に参入する際、「三国志」記事と照合しなかったため、干支紀年解釈を誤って六十年遡らせてしまったようです。
 二世紀の文字なき未開時代に元号はなく、某王の何年という記録もなかったようで、干支が一巡する六十年分ずれたと見られます。斯羅国の小国時代は、要するに未開社会で、王制が続いていたかどうか不明であり、国家としての文字記録が残されていたとも思えないのです。
 六十年のずれを補正すると「233年、倭の女王卑弥呼が遣わした使者が訪れた」となり、この方が、ずいぶん筋が通っているのではないでしょうか。
 ただし、倭人伝には、その二十年後の倭国飢饉は記録されていないから、飢饉記事は六十年移動しないようです。
 倭人伝は、当時唯一文字記録を整備していた中国文明の歴史遺産であり、数世紀、いや、千年の後に、後世人がでっち上げた歴史文学とは、同列に論じられないのです。
                       完

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