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2022年10月11日 (火)

新・私の本棚 棟上寅七 『槍玉その68「かくも明快な魏志倭人伝」』 補 1/3

木佐敬久 著 冨山房 2016年刊 「新しい歴史教科書(古代史)研究会」
「棟上寅七の古代史本批評 ブログ」2021.5.06からの転載 
 私の見立て ★★★★☆ 必読の名批評    2021/10/29 補充 2022/10/11

*お断り 2024/01/20
 本記事は、棟上/木佐両氏の「倭人伝」道里行程記事の共通の認識に沿って書かざるを得ないのですが、当ブログ筆者は、意見を異にしているので、時に、差し出口を挟むことをお断りしておきます。
 つまり、『「倭人伝」道里行程記事』は、漢/魏代の蛮夷伝の前提として、「倭人」が漢/魏の東夷管理拠点であった楽浪郡に最初に参上した際の公式設定を示したものであり、「従郡至倭』とは、漢/魏の拠点「郡」から「倭人」の国主に対する公式文書使往来の行程道里、つまり、官道を騎馬の文書使が往来するものであり、当然、陸上街道の最善日程を基本としているとの見解です。つまり、帯方郡から発進する文書使は、半島内を官道に従い一路南北方向に移動するものであり、大幅な迂回経路であって、日程が不安定な船舶移動は、はなから論外というものです。
 本記事は、そのような差し出口を控えて書いたため、大変歯切れが悪くなっていますが、二年余り模索した結果、やはり、冒頭でお断りしておくべきだと感じたので、ここに追記しています。

◯ 番外書評の弁
 本記事は、古代史関係書籍の批評を多数公開されている棟上寅七氏の最新書評について所感を述べたものです。題材は、倭人伝の行路に関して木佐敬久氏の『かくも明快な魏志倭人伝』の「古代史本批評」です。
 但し、文中で、生野真好氏の著書に言及しているので込み入っています。

 当記事は、棟上寅七氏の威を借りて、つまり、冒頭の異議は控えて、「倭人伝」冒頭の道里行程記事に関する思索を試みていますが、古来、「騎虎(寅)の勢い」では、寅の背から落ちると、たちまち、虎の餌食になってしまうので、身震いしながら書いたものです。
 と言いつつ、氏の書評をサカナに、私見を述べ立てていますが、氏の名声に便乗して、多少は私見を広めようという趣旨なので、ご容赦頂きたいものです。

*ご託宣
 『私にとっての読後感は「かくも不明快な倭人伝解釈」でした。』とあります。
 主として、倭人伝冒頭の「従郡至倭」行程の道里、特に、半島行程について、木佐氏の船舶移動説を(完全)否定したものです。
 便乗、騎虎発言ですが、ブログ筆者たる小生も同意見です。
 小生であれば「従郡至倭」に続く「循海岸水行」なる語法の「海岸に沿って水行する」への読替えが、正史語法として不法として「一発退場」とするのですが、氏は丁寧に面倒をみています。
 つまり、原文解釈を曲げて「沿岸でなくかなり沖を航海した」ことは、やり過ごしていて、そのように進んで来ておきながら、、狗邪韓国に寄ってから対海国へ行くのに、長い船旅の後、「はじめて海を渡る」という表現はありえないと痛打しています。

 それに、「韓国を歴るに」についての古田師の説明(沖合通過では不歴の非礼となる)を無視している点にも切り込んでいます。

 棟上氏は、近代の大型の客船でもこの半島西岸の多島海で沈没事故を起こすので、当時の海域を夜間停泊せずに無装備で航海する危険性を舶の専門家に聞くべきだとしています。
 かたや、木佐氏は、「当時の帆船を復元して実験航海したい」などと戯言をものしていますが、棟上氏からの痛烈な批判として、単に、無謀な冒険航海の意義を否定するのではなく、信頼できる専門家の意見を聞くべきだとの教育的指導は、さすがの卓見です。
 因みに、三世紀当時、半島南部以南の海域に帆船は存在しなかった、つまり、黄海を経て狗邪韓国まで結ぶ帆船経路は存在しなかったとの定説があり、存在しなかったものの復元は、論外と見えます。

 本記事は、以下、別の話題に逸れますが、単なる余談などではなく、重大な話題なので、お付き合いすることにします。

◯論争の経歴 生野真好氏との論争回顧
 棟上氏は、半島西海岸南下説を唱えた生野真好氏と論争した経験を述べています。二重引用になりますが、行数が十分あるので、曲解はないものと思い、ここに再録します。御両所に無断で恐縮ですが、建設的な批判を心がけているので、ご容赦いただきたいものです。

*生野氏著書引用
 『生野真好氏は次のように書きます。
【当時の魏の海船のことはよくわからないが、呉には600~700人乗りの四帆の大型帆船があったことが、呉の万震撰『南州異物志』にある。また、『三国志』「呉志江表伝」に孫権が「長安」と号した3000人乗りの大船を、とある。ただし、これはすぐに沈没した。
 また、呉の謝宏は、高句麗に使者として派遣されたが、その答礼品として馬数百匹を贈られた。しかし、「船小にして、馬80匹を載せて還る」とある。何艘で行ったかはわからないが、1艘とするなら馬が80頭も乗るのであるから相当大きな船であったことになる。しかもそれすら「小さな船」と言っているのは興味深い。

                                未完

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