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2022年11月12日 (土)

私の本棚 20 季刊「邪馬台国」 第125号 井上悦文「草書体で解く邪馬台国の謎」補充再公開

 私の見立て ★☆☆☆☆ 根拠不明の断言集 拝読辞退     2015/06/10 補充 2022/11/12

◯はじめに
 本稿は、専門的な根拠を踏まえた論説のようであるが、余程論旨に自信があるか、それとも、論旨に不安があるのか、冒頭から、強い物言いが続くこうした断定的な書き出しは、却って不信感を招くと思うが、どうだろうか。
 例えば、書き出し部で「三国志の原本は草書であったことが判明した」と声高に唱えるが、言い切る根拠は何かとみると、楷書写本は大変時間がかかるので、作業性が悪く、写本は全て草書で行われていたに違いないという説である。
 時代を隔てて、遙か彼方の現場を推定する「臆測」であり、何ら物的な証拠が無いのに断言するのは大胆である。

*考察検証
 ここで言う物的な証拠は、例えば、西晋皇帝所蔵の三国志写本の実物であるが、断簡すら残っていないし、下って、北宋までのいずれの時代でも良いが、皇帝所蔵の三国志写本が発見されたとは聞かないから、やはり、物的証拠は存在しないのである。
 それとも、噂に聞く、敦煌文書の呉志写本断簡は草書で写本されているのだろうか。もっとも、そうであったとしても、皇帝蔵書ではないので、状況証拠にしかならないのだが。

*「書の専門家」の暴言
 ここで状況証拠としている写本に使用する書体と作業効率との関係は、自称「書の専門家」の意見であるし、また、多少なりとも、書き真似してみれば納得できるので、不審ながら、一応、ご意見として伺うしかないのだが、その点を根拠に、正史の写本が全て草書で継承されていたというのは、速断に過ぎ同意しがたいものがある。

 因みに、いくら「書の専門家」のご高説とは言え、三国志の解釈に「草書の学習」が必要というのは、不可解である。三国志草書写本は現存しないのである。氏が三国志全巻を古代草書で書き起こして、仮想教材として提供するというのだろうか。それは、簡牘の巻物なのだろうか、紙冊子なのだろうか。

 いや、今回の井上氏の論説でありがたかったのは、秦漢時代にも、日常の書き留めには、手早く書ける草書めいた略字体が採用されていたと言う指摘である。してみると、草書の特性は、文書行政の発達した古代国家である秦時代からの常識であったと思うのである。
 発掘されている木簡類は草書では書かれていないようだが、日常の覚え書き類は草書だった(のだろう)との説には説得力がある。

*真書と草書
 それで思い出したのが、宮城谷昌光氏の著作「三国志外伝」の蔡琰(蔡邕の娘 蔡文姫/昭姫)の章の結末である。時の権力者、つまり、武人であり、教養人、つまり文人でもあった曹操から、蔡文姫が記憶している亡父の蔵書四百余篇を書き出して上程するようにと下問されたのに対して、「真書」で書くか、「草書」で書くか、書体を問いかけているのである。

 手早く草書で書き上げれば随分早く提出できるが、書籍として品格が低くなり、曹操ほど詩作や孫子注釈で高名な大家に失礼と思えるし、といって、厳密に真書で書くと、時間が大層かかる、いわば、二者択一であったのである。

 ここで言う真書は、言うならば、字画を全て書き出す本字であり、草書は、省略の入った略字という位置付けであろう。どちらでも、ご指示のままに書き上げますという趣旨である。

*書体の併存
 さて、古来から真書、草書の両書体が併存していたのであるから、草書が略字体であるために異字混同が(必然的に)出ることは、当時の知識人や行政官吏に知れ渡っていたはずと思うのである。氏自身も述べているように、草書の位置付けは、あくまで草稿、つまり下書き止まりであって、本当に「文書」を書くときは真書で書いたと言うことである。これは、浄書であり、清書でもある。

 ちょっと意味合いは違うかも知れないが、唐時代、公文書では、簡明な漢数字の一,二,三,,,を壱,弐,参,,,と、「大字」で書く規則があったのも、改竄防止、誤読防止の意義があれば、時間を掛けても字画の多い文字を採用していたと言うことである。ということであれば、信書(手紙)の類いは草書としても、公文書を草書で書くことはなかったはずである。
 つまり、正確さ、厳密さが至上課題である公文書類や正史写本には、後世に至っても厳として真書が採用されていたと推定するのである。

正史写本
 特に、正史写本の中でも、皇帝蔵書に当たる最高写本、これを仮に「正本」というならば、「正本」を写本して新たな「正本」を作るとすれば、そのような高度に厳密さを要求される複製写本の際には、写本に於ける速度ではなく、複製の正確さが至上命令である。
 至上命令というのは、これに違反すると、給料を減らされたり、免職になったりする程度の「処罰」にとどまらず、馘首、つまり、打ち首で死刑もあり得ると言うことである。

 それに対して、その際に経済的な要素として懸念される時間や人手は、国庫から十分以上に与えられるわけだから、真書で、しかも、予習復習を含めて、とにかく、時間と人手を惜しまずに、念には念を入れて写本するのは当然の帰結と思われるが、どうだろうか。

抜き書き・走り書き
 ただし、以上は、何よりも厳密さが求められる公文書や正史写本の話であり、一度、そのような厳密さの桎梏から解き放たれたときは、段違いに書きやすく、速度の出る草書写本が採用される可能性が高いと思うのである。特に、正史をもとに編纂された類書の原典とする抜き書き資料は、手っ取り早い草書で書かれていたものと思われる。
 類書編纂は、正確な引用でなく、飲み込みやすく消化した要旨抜粋であるので、誤字もまた発生することが避けられないのである。また、そもそも抜き書きの元となった写本が、正本と同様に真書で書かれていたかどうかも、以下で思案するように、かなりあやしいのである。

 お説に従い、これら草書写本には、異字混同がある種の「必然」となることを考慮すると、ここで延々と主張されている誤字は、こうした草書写本段階で発生し、構成されないままに継承され、最終的に、後代史書や類書に清書された際に、継承(誤伝)されたと見て良いのではないか。この辺り、論理の分水嶺というか、絵に描いたような諸刃の剣である。

 その極端な例として、翰苑写本がある。当該写本は、影印版の収録された解説書が公刊されているから、どのような書体と配置で、どんな文字が書かれているか、誰でも確認可能である。特に同意意見も、反論も出てこないブログ記事で公開された私見ではあるが、見るところは見て書いたものである。
 つまり、翰苑写本は、原本が確認不可能なので、ちゃんとした原本があったと仮定すると、写本というものの原本に忠実、正確な複写ではなく、また、その際に正確さを求めたものでもなく、とにかく、欲しい部分を、追い立てられているように、手早く抜き書き書写されていると見るものである。一番の難点は、素人目にも、校正、校閲によるダメ出しがされていないので、素人目にも明らかな錯誤が露呈していて、文字記録資料として信頼できないのである。
 いわば、書の文化財として尊重すべき「国宝」だが、史料としては、ほとんど信じられない、相当信頼性の低い文献資料と、書道の素人は見ている。

二次写本、末裔写本
 また、皇帝の指示した正史写本は、次なる正本として「厳格」に写本されるにしても、当代の正本から写本された、言わば、子写本(一次写本)から芋づる式に連鎖して写本された孫写本(二次写本)以降の末裔写本は、「厳格」の適用外であり、作業効率が優先され、草書写本となる可能性がどんどん高まるのである。地方豪族の手元に渡る頃には、多くが草書写本になっていたとも推測される。
 以前から指摘しているように、真書写本といえども、誤写の発生を食い止めるには、大変な労力と優れた職人群が必要であり、王侯貴族といえども、そのような厳格、精密な写本は、経済的な事情だけ推定しても、そう簡単にはできなかったと思われるのである。

草稿と確定稿
 また、三国志編纂過程で、陳寿と無名の補佐役が上程草稿を作成したのは草書体と思われるが、皇帝に上申する想定の三国志「確定稿」は、真書で清書していたものと思うのである。
 案ずるに、草稿といえども、文脈から推察できない異民族の固有名詞などは、おそらく、草書のただ中に真書を交えるなど、誤写を防ぐ工夫などをしていたに違いないのである。それが、俗事に屈しない史官というものである。

 井上氏の記述では、陳寿は三国志を完成することができず、草稿を残して没したようにも見えるが、60歳を過ぎた老齢であるから、自身の著作を中途半端な形で後世に遺すことがないよう、真書で書き上げた清書稿を確定稿、完本としていたと考えるのである。
 これは、皇帝から命が下ったときは、速やかに上程できるようにしておくという意味もあるのである。陳寿は、罷免されても、処断されたわけではないので、著作を続けられたと見るものである。陳寿の人柄と職掌を考えると、そう考えるのである。

余談談義
 総じて、井上氏は、業界用語を交えた不思議な言い方を、大変好むようである。
 例えば、冒頭で、何の断りも引用符くくりもなしに、「魏志倭人伝」と書いておきながら、禁じ手の後出しで、だめを入れるのである。
 曰く、『「邪馬台国」の(と言う国)名は、中国(余計である)正史(である三国志の一部である)の「魏志倭人伝」に書かれていると大方が思っている。』 ()内は当方の補充。
 何とも、見苦しい乱文であり、理解に苦しむ点は、凡百の俗説の徒と同様であり、氏の、文筆家としての未熟さを思わせる。
 それにしても、大方」とは何の意味か、よくわからない。多数の他人の「思っている」ことをどうやって調査し、どのようにして計数化して、「声なき声」の世論とも見える「大方」を見出したのだろうか。所詮、氏の見聞というものの、実は、飲み仲間の罵り合いではないだろうか。

 てっきり、季刊「邪馬台国」誌では場違いな、古田武彦説復唱かと思ったが、そうではない。「魏志倭人伝という正史はない」に始まる趣旨不明の提言が続く。どろりと「魏書の東夷伝の倭人の条」と書き写しているが、「魏書」と書かれているのはここだけで、他の箇所では全て、「魏志」である。趣旨不明である。「倭人伝」はなかった論には大方は食傷している。
 最後に、倭人伝と三国志全体の文字数が上げられているが、本稿においてどんな意義があるか、不明である。まことに、不可解である。

*成立の不思議
 以下、三国志の「成立方法」(単語明瞭、意味不明)と言う下りがある。
 「成立」を確定稿のとりまとめ時点と言うのであれば、その時点では、確定稿は、いまだ陳寿の個人的な著作なのだから、いわゆる官製史書である「正史」でないことは自明である。まして、一部厳密な言い方を打ち出す識者によれば、西晋時代に「正史」はなかったから、その後も、正史という言葉が浮上するまで、三国志は「正史」でなかったことになる。

 とかく、そのような「重隅突き」的な散漫な言葉咎めは、「大方」の読者に論旨の迷走を感じさせ、折角の文章が寄せ木細工との感を与え、箸休めの「閑話休題」以外に何の意義があるのかよくわからない。

 おそらく、ご自身の学識の範疇外なので、いずれかの公開文献から無造作に取り込んだのだろうが、身に合わない借り着は、本人の品格を落とすだけである。門外事を、うろ覚えで挟み込んで論説全体の値打ちを下げるのは、井上氏の創始した失敗ではない

写経
 遣唐使や留学僧が持ち帰った仏教経典の写本が草書体とも思えないので、唐時代でも、真書による写本も残存していたように思われる。
 奈良時代に平城京で行われた国家規模の写経事業も、また、本稿で言われる草書写本の例外と思われる。
 因みに「藤三娘」と署名した聖武天皇皇后「光明子」の残した写経は、どう見ても、草書ではない。
 と言っても、草書写経が「絶対になかった」と断言できるほど、多数の原史料を確認していないので、推測である。

◯まとめ
 当記事は、井上氏の軽率な思いつきを、「大地から掘り出した芋」と見ると、それを「泥付きのままで食卓に提供する自然食」と見える。つまり、せめて、泥を落とし、皮を剥いた上で、煮炊きして、調理提供いただきたいと思う。例えば、ウロコを取らず、はらわたも出さないサカナは、そのままでは食べられたものではないのである。自然食材は貴重であるが、だからといって、それが和食の真髄ではない。
 氏が、このように不出来な著作を公開したのは、氏にとって名誉にならないと思う。勿体ないことである。

 これでは、以下、氏の力説する新説が、忽ち、悉く「虚妄」と判断され、「ジャンク」とされるのである。世上、邪馬台国論争は、厖大な「ジャンク」所説群を産んだと「大方」が断じる理由とされるのは、それぞれの冒頭で、説得力のない、疑わしい「新説」をがなり立てるためと思うのである。「ジャンク」を悉く味わった上の評価とは見えない。
 現に、氏の著作を買って読もうという気には、到底なれないので、そのように推定する。

 仮に、氏の新著を贈呈されても、時間の無駄なので「拝読辞退」である。

以上

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