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2022年11月

2022年11月24日 (木)

今日の躓き石 社会人野球復活「エース」の恥さらし~毎日新聞スポーツ面報道の病根か

                          2022/11/24

 今回の題材は、毎日新聞大阪14版スポーツ面の1/2に詰まった本日の「朝刊野球記事」の大半を占める、本来立派な記事である。だから、こんなコメントは付けたくないのだが、ほっておけば、お手本として永久保存されそうなので、釘を刺さざるを得ないのである。

 「骨が折れていても 雪辱か手術か」との見出しであるが、どうも、二年前に、社会人野球界で人も知る剛腕の右腕投手が、練習試合で左足に骨折を生じたということである。よく知らないが、ままあることと見るしかないが、以後の展開が信じがたい。
 素人考えで申し訳ないが、野球選手のこのような骨折は、治療だけで手術もせずに、言わば、ほっておいてくっつくのを待つようなものかと思う。その結果、このケガを抱えて「投手陣の柱」として戦い続けた挙げ句、骨折に靱帯損傷まで重なった患部に、一年たって、ようやく外科手術を行ったというのは驚きである。骨折自体は、カルシウム分が成長して繋がるかも知れないとしても、靱帯は、成り行き任せで、自然に損傷部が繋がるものだろうか。ちゃんとした医師の見解を聞きたいものである。
 それを「自己犠牲」と言いたいらしいが、どんな「神様」に生け贄を献げて何を誓ったのだろうか。
 それにしても、チームの責任者や医師が、なぜ止めなかったか不可解である。

 それはそれとして、辛うじて、見るに見かねたトレーナーが、出場継続は「ダメ」と断言したものの、監督は、本人の判断に任せるとし、結局、不承不承手術に踏み切ったという、素人目には非常識な推移だったと思うが、担当記者は、何も評していない。
 むしろ、当人の「問題発言」をそのまま流して、ことは、当人のわがままによるものとして、当人を世間の晒し者にしている。
 記者は、これを「美談」として報道し、全国の若者が、自分のケガや病気を二の次に、チームに尽くすべきだと教訓を垂れているのだろうか。

 この態度は、全国紙の署名記者として、大変疑問に思える。記者には、報道の者として大事な務めがあるような気がする。

 その勢いが、当人に、これが「リベンジ」だと言わせたことにしている。
 一体、誰を恨んでの復讐談なのか、記事からは一切読み取れない。
 記者は、何を納得したのだろうか。このような血なまぐさい言葉を世間に広める責任は感じていないのだろうか。記者には、報道の者として大事な務めがあるような気がする。
 記者は、どんな辞書を引いたのか、「リベンジ」を「雪辱」と解したようだが、スポーツ選手がケガをしたら、それは、「誰のせいで、誰を恨み、誰に仕返しを企てるのか」全国紙の読者が快く察してくれると思い込んでいるのだろうか。誠に奇特な話である。

 結局、ケガを抱えた自分自身の身体の悲鳴を騙し騙し一年間投げ続けた挙げ句、(恐らく、親身になって気遣ってくれた身辺の人々の説得を受け入れて)手術の恐怖をようやく乗り越えて、苛酷な外科手術を受け、苦しい長期のリハビリを経て、ようやく復活したから、要するに、弱気に負けてチームに迷惑をかけたのである。記者の書きぶりでは、選手は、周囲に見放されて、誰も、当人の心得違いを癒やすことができなかったような書きぶりであるが、毎日新聞報道を真に受けるとすると、世も末である。

 そして、選手は、公の場で罰当たりな「リベンジ」を口にしてまで、外科手術を先延ばしにし、遂に、大変な苦痛を受け入れた対価は得られたのだろうか。「リベンジ」は、血しぶきを上げて達成されたのだろうか。記者は、何も語っていないのである。

*別人糾弾
 概して言うと、野球界は、高校野球からNPBまで、テロリスト紛いの「リベンジ」の血なまぐさい魔力を借りないと、困難に立ち向かえない風潮があるようだ。
 毎日新聞でも、野球担当からフットボール担当に転入した記者が、早速口癖の「リベンジ」を吐き出して、世間に恥をさらしていたのは、ごく最近のことである。野球界は、野蛮な新大陸文化の世界であるから、不信心な暴言が出回っているとしても、イングランドには、高貴な倫理が生きているように思うのである。まして、大陸諸国は、英語圏ではないから「リベンジ」など、無意味である。いや、これは、別人に対する苦言であった。何かの折に、「忠告的指導」をしてあげて欲しいものである。

*まとめ
 国紙の署名記者は、平成の怪物がまき散らし、令和の野球界にはびこる罰当たりな「遺産」発言、「ダイスケリベンジ」が、これ以上広がらないように、未来を担う若者達に「負の遺産」を残さないように、真っ当な報道に挑むべきでは無いかと思われる。

 事実の報道は、ゴミためやドブに落ちている「事実」を、そのまま読者の食卓に投げ出すものではない
と思うのである。

 そう、当記事が不適切なのは、担当記者の怠慢から来ているのである。一読者として、大変不満なのである。

以上

2022年11月21日 (月)

新・私の本棚 番外 サイト記事批判 「弥生ミュージアム」倭人伝 再掲 1/6

弥生ミュージアム 倭人伝  2019/11/15
私の見立て ★★★☆☆ 大変有力 但し、「凡ミス」多発     追記 2022/11/21

*前置き/おことわり
 ここに紹介し、批判しているのは、掲題サイトの一般向け解説記事ですが、当ブログ筆者は、課題となっている疑問点に対して、一方的な解釈が、十分な説明無しに採用されているので、あえて僭越を顧みず、異論を唱え、広く、諸賢の批判を仰ぐものです。

□はじめに
 近来、当ブログ筆者は、諸方に展開される倭人伝解釈の初歩的な間違いに嘆きを深め、ために泥沼状態が解消の方向に向かわないのにたまりかね、せめて、柄杓一杯の清水で、其の一角の汚れを洗おうとしているものです。

 以下に述べる指摘は、その汚れと見たものであり、ご不快ではありましょうが、もう一度見直していただきたいものです。
 それにしても、こうした一流公式サイトの一級記事に、明らかな誤字があるのは感心しません。公開以前の校正は当然として、公開以後、誰も探検していないのは、組織全体の信用をなくす物で、ここに苦言を呈します。誤解されると困るのですが、ここに批判したのは、サイト運営の皆様が理性的な見方ができると考えたものであり、そのために労を厭わなかったのです。

 今回は、「倭人伝」解釈論議ですが、本体部分に平野邦雄氏の現代語訳を起用しているとは言え、当記事の最終責任は、氏の訳文を記事として掲載した当サイトにあると思うので、ここでは、サイト記事批判としています。

                              

倭人は、帯方郡(*1)の東南の大海の中にあり、山や島によって国や村をなしている。もと百余国に分かれていて、漢の時代に朝見してくるものがあり(*2)、現在では、魏またはその出先の帯方郡と外交や通行をしているのは三十国である(*3)。(中略)
(*3)この一〇〇余国ののちに、三〇国が、魏と外交関係をもつとのべたもので、前段の狗邪韓国と、対馬国から邪馬台国までを加えると九国、それに後段の斯馬国から奴国までの二一国で、あわせて三〇国となる。(中略)
 「魏と外交関係をもつ」とは、時代錯誤の用語です。東夷の「国」は、魏から対等の国家、「敵国」として認められたものではないので、単に通交と言うべきです。魏の本国と接触できたのは、ごく一部の文字交信のできる「国」が、諸小国の代表と認められ、洛陽まで移動することが許されたのです。あるいは、「外国」は、すべて「蛮夷」と解釈するのかも知れませんが、現代読者には、そうとは解釈できないので、時代錯誤というのです。

 それにしても、本文と表記が不統一で感心しません。百余国、三十国と正しい書式、時代相応に書くべきです。 三世紀当時どころか、遙か後世まで「ゼロ」は無かったのです。三世紀当時無かった概念は、丁寧に、つまり「徹底的に、全面的に」排除すべきではないでしょうか。
 因みに、景初献使の直前まで、帯方郡は、長年遼東公孫氏の管理下にあったので、その間倭人の洛陽行きはなかったのです。

帯方郡より倭に行くには、朝鮮半島の西海岸に沿って水行(*4)し、韓の国々(*5)を経て、あるいは南へ、あるいは東へと進み、倭の北岸にある狗邪韓国(*6)に到着する。これまでが七千余里である。
(*4)「水行」は陸岸に沿って、海や川を航行すること。「渡海」と区別される。
 原文には、「朝鮮半島の西海岸に沿って水行」とは書かれていません。陳寿は、「海岸に循いて行くことを水行という」と水行の意味を定義した後、特に説明無く「韓国を歴る」と書いているので、これは、全体として東南の方向に内陸の官道を行くというのが、書かれている字をそのまま普通に解釈するものではないですか。
 地図を参照するまでもなく、半島の西海岸に沿って航行しても狗邪韓国には到達できません。つまり、後に登場する、渡海」と明記されている水行とは異なり、沿岸水行は書かれていないということではないですか。
 因みに、このような際、沿岸航行を形容するには、史官は、海岸を撓めると表記するものです。また、方向転換する際は、その地点を明記し、進路変換を「転」じてと書くものです。そうしないと、いつ方向転換するのかわからないのです。ご不審の方は、お好みの時代錯誤の精密な地図を見て、とても海岸線に沿って進むことなど、到底、金輪際できないとわかっていただけるでしょう。
 訳者は、そうした事情を、十分ご承知の上で著書に掲載したこととは思いますが、このように、抜粋して引用されると、氏の「誠意」は、伝わらないので、事情に通じていない読者のためにちゃんと説明すべきではないでしょうか。(「誠意」の中には、時代用語の解釈、注釈という重大な事項が含まれています)
                                未完

新・私の本棚 番外 サイト記事批判 「弥生ミュージアム」倭人伝 再掲 2/6

弥生ミュージアム 倭人伝  2019/11/15
私の見立て ★★★☆☆ 大変有力 但し、「凡ミス」多発     追記 2022/11/21

*承前
(中略)(*5)三韓(馬韓、辰韓、弁韓)の中の諸国をいうが、ここではコースからみて、馬韓の国々をさしている。
 「コース」とは程度の低い時代錯誤です。半島西海岸に沿って進めたとして、西海岸が終わったらどうするのか。東方への転換が書かれてない限り「コース」は南海に進むだけです。「まずは南に後に東に」と意訳するのですか。
 因みに、馬韓は、中心部が、漢江河口部のあたりであり、南部がどこまで届いていたのか不明です。

そこから、はじめて一海を渡ること千余里で、対馬国(*7)に到着する。(中略)千余戸があり、良田はなく、住民は海産物を食べて自活し、船にのり南や北と交易して暮らしている。(中略)
 提示の紹凞本「倭人伝」は「對海国」と書いていて、「対馬国」は誤訳となります。
 因みに、掲載写真には「宮内庁書陵部©」と著作権宣言されていますが、政府機関である宮内庁が所蔵、つまり、公有の古代資料の写真に著作権を主張するなど論外です。良く良く確認の上、©を外すべきです。

(中略)それからまた南に一海を渡ること千余里で一支国(*9)に到着する。この海は瀚海と名づけられる。(中略)三千ばかりの家がある。ここはやや田地があるが、水田を耕しても食料には足らず、やはり南や北と交易して暮らしている。(中略)
 提示の紹凞本「倭人伝」 には 「一大国」と書いています。ここも、誤訳となります。
 また、「水田」とは書いていないので、またもや軽率な誤訳です。ともあれ、戸数相当の田地があったので、主食は得られていたと見るべきであり、おかずに海産物をタント採っていたのを見て、海の豊かさを知らない中原人が哀れんでいた可能性が濃厚です。

また一海を渡ること千余里で、末盧国(*10)に到着する。四千余戸があり、山裾や海浜にそうて住んでいる。(中略)人々は魚や鰒を捕まえるのが得意で、海中に深浅となり潜り、これらを取って業としている。(中略)
 「山裾や海浜にそうて住んで」いるのでは、全世帯が浜住まいで、漁に専念していたことになり、四千余戸は、国から扶持された良田を耕作しなかったのでしょうか。扶持か私田かは別として耕作地は、収穫の貢納を厳命されていたはずです。一家揃って海辺に住んでは農耕できません。
 「業としている」とは、普通は、交易に供して対価を得て生業を立てているという意味ですが、どうなっているのでしょうか。国としてでしょうか。

そこから東南に陸行すること五百里で、伊都国(*11)に到着する。(中略)千余戸(*14)がある。代々王がいたが(*15)、かれらは皆、女王国に服属しており、帯方郡からの使者が倭と往来するとき、つねに駐るところである。(中略)
(*14)『魏略』では「戸万余」とあり、千は万の誤りか。
 無造作に『魏略』と書くのではなく、「『翰苑』の断簡写本に見られる『魏略』断片(佚文)に従うとすれば」と丁寧に書くべきではないですか。いずれにしろ、字数の限られている記事に、ことさら書く価値は無いでしょう。
 郡使は、倭に到着したとき、伊都国に「常に駐した」、つまり、ここで、馬を下りて、足をとどめたように見えます。つまり、「倭」の王之治所は、伊都国の管内にあったとも見えます。

(*15)『後漢書』では三〇国のすべてについて「国皆王を称し、世々統を伝う」とし、これに対し「大倭王は邪馬台国に居る」としている。
 これは、「倭人伝」の記事と異なるものである、とでも書き足すべきです。そうしなければ、圏外を語る笵曄「後漢書」を起用する意義がありません。また、なぜ、時期外れの後漢書を尊重するのか、意図不明です。
 ここでは、後漢代の大倭王なる君主が、当時「邪馬臺国」と称していた「国」を居所としていたと言うことでしかありません。范曄は、後漢代のことしか書いていないのですから、文帝曹丕、明帝曹叡の二代のことは、一切書いていないのです。
 これに対して、倭人伝」は、母体である「魏志」が三国鼎立期の魏朝の記事であり、遡って魏武曹操の時代のことも含めていますが、陳寿は、范曄が唱えた「大倭王」、「邪馬臺国」の記事を書いていないのです。つまり、これらは、陳寿の排除した伝聞に類するものと見るのが普通でしょう、と意見されたことはありませんか。
 また、魏志に丁寧に補注した裴松之も、この点に関して陳寿の割愛を回復してはいないのです。范曄が、「倭」記事の根拠とした後漢代の「倭」史料は、范曄と裴松之が活動した南朝劉宋期に存在しなかったのではないでしょうか。つまり、ことは、范曄の創作記事のように思えるのですが、反証はあるでしょうか。
 つまり、陳寿の残した記事を覆すに足るだけの、後漢書に対する史料批判は、十分にされたのでしょうか。

これから先は、東南、奴国(*16)にいたるのに百里。(中略)、二万余戸がある。(中略)
 「これから先は」とあるが、なにが「これ」なのか、文としてどう続くのか趣旨不明です。

おなじく東、不弥国(*18)に至るのに百里。(中略)
 「おなじく」と無造作に、原文にない書き足しですが、何がどう同じなのかわかりません。

                                未完

新・私の本棚 番外 サイト記事批判 「弥生ミュージアム」倭人伝 再掲 3/6

弥生ミュージアム 倭人伝  2019/11/15
私の見立て ★★★☆☆ 大変有力 但し、「凡ミス」多発     追記 2022/11/21

*承前
また南、投馬国(*20)に至るのに水行二十日。(中略)。五万余戸ばかりがある。
また南、邪馬台国(*23)に至るのに水行十日・陸行一月。ここが女王の都するところ(中略)七万余戸ばかりがある(*26)。
(*23)現在にのこる版本でもっとも古い南宋の紹興年間(一一三一~六二)の「紹興本」、紹煕本年間{一一九〇~九四}の「紹煕本」には、邪馬臺国ではなく、邪馬壹国となっているから、ヤマタイでなく、ヤマイであるとの説もあるが、そうとは断定できない。(中略)邪馬台国問題は、このようなアプローチからでは決まらない。(中略)
 どちらに分があるかは、この部分の書きぶりで自明なので、別に「そうとは断定」しなくても良いのです。つまり、普通に考えれば、現存史料「倭人伝」の記事を排除して「台国」と断定する理由は全く見られないということが言いたいのでしょうが、明解に書けないのでしょうか。どうも、後の冗談も含めて、敗戦宣言しているように感じます。
 ついでながら、古代氏論考で、「アプローチ」は、何とも不適切です。ゴルフ用語なら「ショット」と明記しないと意味が通じません。それとも、異性を口説くのですか。大事な記事を書き飛ばしたわけではないはずですから、不用意ですね。と言うような、益体もない冗談を言わさないでほしいものです。カタカナ語撲滅です。

 ついでながら、「問題」が「決まらない」と言うのは、独特の言い回しで、勿体ない失態です。「問題」が、教科書の課題であれば、「解けない」のであり、「問題」が、難点、欠点であれば、「解消しない」とか「解決しない」とか言うもので、読者は、そうした文脈で、無造作に書かれた「問題」の意味を解釈しているのです。著者各位は、自分の語彙で滔々と書き立てるのではなくて、読者に誤解の無い言い回しを工夫すべきでしょう。特に「問題」は、数種取り混ぜて乱用されているように見受けるので、わざわざここに書くのです。

 もう一つついでながら、それぞれ「また」で開始していますが、原文に「又」はありません。少し遡ると、「又南渡一海」、「又渡一海」と書かれていて、陳寿が、「また」の書き方を知らなかったとは思えないのです。書いた方の脳内で、原文は、好ましい形に変容したのでしょうか。ともあれ、来館者に、「ことわりなし」に原文と異なるものを提供していて、信用を無くしています。

(*26)これまでの狗邪韓国~伊都国と奴国~邪馬台国の二つのグループでは、方位と里程(日程)の書き方が違う。前者は何国からどの方位で何里行けば何国に到着すると実際の旅程に従った累積的な書き方をしている。後者は何国から何国にいたるにはどの方位で何里としていて、これは伊都国を中心に放射線状に読み取ったものである。つまり、魏使は原則として伊都国より先は行かなかったし、投馬国より邪馬台国の方が北に位置することになり、九州圏内にあるとする、榎一雄氏の説がある。
 「後者は」は、「魏使は原則として伊都国より先は行かなかった」までを言うつもりでしょうが、そこまで一つながりで断定する根拠は無いと見えます。
 また、「原則として」と言いっぱなしで原則と例外が示されていません。ここまでの議論で「投馬国より邪馬台国の方が北に位置する」ことは示されていません。榎氏の説を誤解しているのでは無いでしょうか。もっとも、どこからどこまでが榎氏の所説の引用なのか判読できないのでは、議論が成立しません。誠に、不始末、不都合な書き方です。

このように、女王国より北の諸国は、その戸数と道里をほぼ記載することができるが、その他の周辺の国は、遠くへだたり、詳しく知りえない。(中略)奴国で、ここまでで女王国の境界はつきる(*27)。
帯方国より女王国までを総計とすると一万二千余里となる。
倭では、男子は成人も子供もみな顔や体に入墨をしている。昔から倭の使が中国に来るとき、みな大夫(*30)と称する。(中略)今、倭の水人は海中に潜って魚や蛤を捕え、体に入墨して大魚や水鳥から身を守ってきたが、後にはやや飾りとなった。倭の諸国の体の入墨は、国々によって左右や大小などにちがいがあり、身分の尊卑によっても異なる。
 
 南方の景色と見える「文身」を顔と身体の入墨と決めつけますが、そうとは限らないでしょう。北九州が、韓国より温暖と言っても、温暖期以外に「海中に潜って」魚や蛤を捕えるのは、無理があるように見えます。又、肌寒い時期に風の通る衣類で、さらには肌脱ぎで、文身を披瀝していたとも見えないのです。かなり南方の温暖な地域の景色のように見えます。いずれにしろ、記事の筆者が、全土に足を伸ばしたとも見えないので、「倭の諸国」と書かれているのは、南方の訪問先に限られているはずです。
 文身は、遺物として残らないので、いずれの時代、地域で流行したか不明ですが、後世、影を潜めたところを見ると、南方の風習にとどまっていたとも見えます。

(*30)中国では一般に卿・大夫・士の順に記し、国内の諸王・諸侯の大臣の身分。ただ漢でいえば、二〇等爵のうち、第五級の「大夫」から、第九級の「五大夫」までがこれにあたり、幅がある。(中略)
 これは、秦代以来の階級制度であり、下から唱えるから、第五級の「大夫」は庶民階級です。当然、魏でも同様です。貴人などではありません。漢代以降、魏晋あたりまでの公式史書で、「昔」とは、「周」のことではありませんか。守成の大夫を名乗り続けているのも、その主旨でしょう。つまり、普通に考えると、太古、周朝に貢献して、「大夫」の高官に叙されたとみるべきでしょう。

 少々繰り返しになりますが、卿・大夫・士」は、周制であり、大夫は王に連なる高官であったし、指南によって解体された身分制度が、王莽の「新」が、復活した時を除けば、同様でした。場当たりのつぎはぎ解釈は、感心しません。

                                未完

新・私の本棚 番外 サイト記事批判「弥生ミュージアム」倭人伝 再掲 4/6

弥生ミュージアム 倭人伝  2019/11/15
私の見立て ★★★☆☆ 大変有力 但し、「凡ミス」多発     追記 2022/11/21

*承前
帯方郡からの道里を計算すると、倭は会稽郡や東冶縣(*33)の東にあることになろう。 (中略)
(*33) 現在の福建省福州の近くの県名。
 南宋刊行の「倭人伝」には「会稽東治」と書かれていて、郡、県と書いていないので、この議論は確定しません。
 いずれにしろ、広大かつ高名な会稽郡と同郡の僻南であって、知る人も希な、到達困難地域である「県」を、陳寿ほどの史官が「や」で同列に置くはずは無いのです。こじつけではないでしょうか。
 因みに、「東冶」は、三国時代の一時期の県名であり、現存しているわけではありません。抜粋引用のもたらす錯誤です。「現在の」は、「福州」の形容に過ぎません。

死ぬと棺に納めるが、槨(*35)は作らず、土を盛り上げて冢をつくる。(中略)
倭人が海を渡って中国に来るには、つねに一人は頭をくしけずらず、しらみも取らせず、衣服は汚れたままとし、肉を食べず、婦人を近づけず、あたかも喪に服している人のようにさせて、これを持衰(*36)と名づける。もし、航海が無事にゆければ、かれに生口・財物を与え、もし船内に病人が出たり、暴風雨に会ったりすれば、これを殺そうとする。つまり持衰が禁忌を怠ったからだというのである。(中略)
(*38)倭人中の大人。この部分を「便ち大倭のこれを監するに、女王国より以北に一大率を置き・・」と続けて読み、大倭を邪馬台国の上位にある大和朝廷であり、一大率も朝廷がおいたとする説があるが、これは無理。(中略)『後漢書』では「大倭王は邪馬台国に居る」と記している。(中略)
 暴論としてやり玉に挙がったとは言え、三世紀の中国史書に、遙か後世の「大和朝廷」の前身を見るのは、白日夢にしても無残です。こじつけのためには、改竄、誤釈言いたい放題というのは、「倭人伝」解釈という学問的な分野に、家庭ゴミを投棄する類いであり、毎度目にするたびに気が重く、いっそ、国内史料立ち入り禁止としたくなるほどです。
 如何に「無理な」暴論相手でも、『後漢書』に依拠して「倭人伝」を否定して良いものでしょうか。「倭人伝」には、何も書いていないということですか。
 ともあれ、裏方に回った平野氏共々、誠にご苦労なことと推察します。

その国は、もとは男子を主としたが、七~八十年ほど前、倭国が乱れ、何年もお互いに攻め合ったので(*41)、諸国は共に一女子を立てて王とした。これを卑弥呼(*42)という。彼女は神がかりとなり、おそるべき霊力を現した。すでに年をとってからも、夫をもたず、弟がいて、政治を補佐した。王となってから、彼女を見たものは少なく(中略)
 「...ので」と続けても、何も論理の繋がっていないのが難儀ですが、「諸国」が共立したという記事は、「倭人伝」になく、単なる臆測、希望的観測でしょう。
 それにしても、ただの人が「神がかりとなり、おそるべき霊力を現した」とは書いていません。無理そのもののこじつけに思えます。「霊力」は、誰も見たことがないので、不可解です。また、曹魏の創業者曹操は、迷信を忌み嫌っていたと知られています。もちろん、「倭人伝」は、魏晋代の史官である陳寿が、身命を賭して、つまり、心から納得して書いたものですから、「怪力乱神」を書くはずがないのです。
 「すでに年をとってからも」の「すでに」が趣旨不明です。「すでに年長けたが」位が妥当では無いですか。又、末尾の「も」も、余計です。単に、「ついに配偶者を持たなかった」位が穏当では無いですか。
 常識」的に考えて、「一流の家に生まれ、生まれながら神に仕えて独身を守った」と見るべきではないでしょうか。そのような「聖人」だから、私心のない人として信頼されたのではないでしょうか。普通に考えると、そのように見えます。
 「見たもの」と言うのは、「見」の趣旨を失していて、国王に「接見したもの」とする方が良いのでは無いですか。何か、支離滅裂に見えます。
 あることないことというのはありまずが、訳文と称して、原史料に無いことの連発は、古代史学の取るべきみちではないでしょう。

これらを含めて倭地の様子を尋ねると、海中の島々の上にはなればなれに住んでおり、あるいは離れ、あるいは連なりながら、それらを経めぐれば、五千余里にもなるだろう。
 この部分は、既説の狗邪韓国以来の「倭地を巡訪する道里」を、切り口を変えて言っただけです。字句をそのまま読めば、狗邪から海中の二島を渡海(計三千里)で歴て陸地に達し、以下陸地を倭都まで通算五千里」と単純明解ですが、勿体ぶった訳文が、かえって意味不明にしています。陳寿は、皇帝始め、読者として想定した読書人が、多少の勉強で読解できるように、明解に書いたはずでしょう。

                                未完

新・私の本棚 番外 サイト記事批判 「弥生ミュージアム」倭人伝 再掲 5/6

弥生ミュージアム 倭人伝  2019/11/15
私の見立て ★★★☆☆ 大変有力 但し、「凡ミス」多発     追記 2022/11/21

*承前
景初二年六月(*43)、倭の女王は大夫難升米を帯方郡に遣わし、魏の天子に遣わし、魏の天子(使)に朝献したいと請求した。帯方太守(*44)劉夏は、役人を遣わし(中略)洛陽に至らしめた。その年の十二月、魏の明帝は詔して、倭の女王に次のように述べた。「親魏倭王卑弥呼に命令を下す。帯方郡大守劉夏が使を遣わし、汝の大夫難升米と次使都市牛利を送り、汝(中略)今、汝を親魏倭王(*46)に任じ、金印・紫綬(*47)を与えることにし、それを包装して帯方太守に託して、汝に授けることとした。(中略)」と。
(*43)魏の明帝の年号。景初三年(二三九)の誤り。『日本書紀』神功三九条にひく『三国志』や、『梁書』倭国伝には、景初三年のこととしている。魏は、景初二年(二三八)、兵を送り、遼東太守公孫渕をほろぼし、楽浪・帯方を接収した。その翌年(二〇九)
(二三九)、直ち卑弥呼は魏の帯方郡に使者を送ったとみねばならない。

 現存史料の記事より、誤伝、誤写の可能性の圧倒的に高い国内史料の、形式を失した佚文を論拠に採用するのは一種の錯誤です。ちゃんとした古代史学者は、ちゃんと史料批判をしてから、ちゃんと史料の信頼性を論じてください。
 又、遙か後世で、誤伝、誤写の可能性の格段に高い「梁書」を、信頼性の高い魏志倭人伝に対する異論の論拠史料に採用するのも、同様の錯誤です。違いますか。

 三国志では、『楽浪・帯方の「接収」(太守更迭)が遼東攻略に先んじた』と解すべき記事があり、その記事を収録する三国志記事を、現代日本人の見識で否定することは、不合理と見るのが順当ではないですか。

 いずれにしろ、景初遣使当時、当時の帯方郡は山東半島経由で交信、交通したので、遼東戦乱は、倭使の帯方郡を経た洛陽往還に全く無関係です。
 要するに、不確かな憶測で、景初三年の誤りと強弁するのは、不合理の極みです。

 因みに、景初三年元旦に皇帝が逝去したので、「景初三年」は、明帝の年号ではなく皇帝のない年号です。つまり、論拠としている国内史料にある「明帝景初三年」は、「魏志」に存在しないので、引用記事ではなく利用した佚文の誤記に惑わされたか、そうでなければ、引用詐称、ないしは捏造です。

 ついでながら、単に景初三年なら、皇帝は新帝曹芳です。とは言え、在位中、少帝と呼ばれなかったのは明らかです。

(*48)(*49)倭の使者に与えられたこの爵号はともに比二〇〇〇石、官秩は郡守に比せられる高い地位である。(中略)魏がはじめて外臣の倭と韓の首長を中郎将に任じた。ことに倭に対しては、大夫難升米のほか、大夫掖邪狗ら八人にも、おなじ称号を与えたのは、大夫という比較的低い地位の使者に、高い爵号をあたえ、倭を重んじたとする説もある。(中略)
 先に述べたように、「大夫」は周制の高官を自称したものであり、決して秦漢制の庶民を名乗ったのではありません。庶民は国王代理となれず、魏朝に侮られ、あるいは、接見拒否されます。大夫も、見くびられたものですね。
 ここは、倭大夫は帯方太守と略同格という趣旨でしょうが、当然、魏の高官である郡太守と外臣に過ぎない蕃王の陪臣が同格の筈がないのです。中国文化に浴していない蛮王が、郡太守と同格、さらには、上位となることもあり得ません。考え違いしていないでしょうか。
 一般読者に予備知識が無いと想定される「比二千石(せき)」には、丁寧な解説が必要です。普通、江戸時代の禄高二千石(ごく)、つまり、一万石に及ばないので城主大名になれない小身の軽い存在と解するはずです。

(中略)
(*56)この銅鏡はセットとして、倭女王に贈られたもので、魏晋鏡といわれている三角縁神獣鏡であり、(中略)、大和説に属する。(中略)
 「セット」は時代錯誤で単数複数不明、意味不明です。こなれていないカタカナ語で、ため口を叩くのはやめましょう。
「魏晋鏡といわれている三角縁神獣鏡」は意味不明です。このような根拠の無い定説は、ぼちぼち「ゲームセット」にしたいものです。


 景初年間の魏は、遼東への大軍派兵とともに、東呉、蜀漢と対峙の戦時体制下であり、そのような非常時に、皇帝の勅命とは言え、非常識極まりない宮殿大規模造成中であり、宮殿装飾品で銅材が逼迫しているなか、それに加えて魏鏡百枚新作は途方もないのです。明帝は何を根拠にそのような無謀な製作を、人材、資材払底の尚方工房に課したのでしょうか。
 普通は、洛陽の帝室倉庫を総浚えしたと見るものではないでしょうか。「魏晋鏡といわれている」と新作説を言い立てているのは無謀です。

                                未完

新・私の本棚 番外 サイト記事批判 「弥生ミュージアム」倭人伝 再掲 6/6

弥生ミュージアム 倭人伝  2019/11/15
私の見立て ★★★☆☆ 大変有力 但し、「凡ミス」多発     追記 2022/11/21

*台所事情談義
 「三角縁神獣鏡」は、在来品の1.5倍の外形であり、新作したとすると、まずは、三倍近い銅材料を必要とし、又、制作するに当たって、それまでに貯えた型や型紙が使用できないのです。
 先立つ、後漢末期の献帝即位の時、時の支配者であった董卓による長安遷都の暴挙とそれに続く長安での国政混乱から、後漢皇帝の指示で尚方が皇帝御用達の装飾品を謹製する事は絶えていて、お抱え職人は浮浪者と化していたものと推定されます。
 ともあれ、曹操が自陣営に皇帝を採り入れて、ついには、洛陽に魏朝を創設したのですが、その際、「禅譲」のならいとして、諸官、処理を悉く引き継いだものでしょうが、何しろ、一度、董卓の暴政で壊滅した洛陽の諸機関は、どこまで復元していたか不明というところです。
 いや、魏志は、後漢末期の無法な時代を回復した、曹魏を肯定するために編纂されたので、文帝曹丕、明帝曹叡時代の雒陽の惨状をありのままに書き残してはいないのですが、想定するのは、さほど至難ではないのです。

 かくして、未知の形状、意匠の大型銅鏡をあらたに設計し大量製作するには、試行錯誤の期間を含めて、数年で足りないほどの多大な準備期間と熟練工の献身を要し、更に「量産」が順調でも、仮に一日一枚採れたとして百枚制作に百日を要するという多大な製作期間を足すと、とても、一,二年で完了するとは思えないのです。夢物語でしょう。又、非常時の窮乏財政で、そのような大量の銅素材を、敵国「東呉」から如何にして購入したのかも不審です。
 無理の上に無理の上塗りです。
 因みに、世にある「不可能ではない」とする議論は、まことに不合理です。空前の難業をこなして、一介の東夷の機嫌を取るためだけに大量の銅鏡を新作し、あろうことか無償供与し、多額の国費を費やして、現地まで届けることなど、全くあり得ない、と言うのが最大の否定論です。
 いや、天子の恩恵ですから、自前でやってこいとか、自力で持って帰れなど言うことはないのですが。

正始元年(*58)、帯方太守弓遵は、建中校尉梯儁らをつかわし、この詔書と印綬をもって倭国に行かせた。使者は、魏の(小)帝の使者という立場で、倭王に謁し、詔書をもたらし、賜物としての金帛・錦 ・刀・鏡・采物を贈った。倭王はこれに対し、使者に託して魏の皇帝に上表文をおくり、魏帝の詔と賜物に答礼の謝辞をのべた。
(*58)魏の(小)帝の年号(二四〇)。
 「正始」は、景初三年元旦に逝去した先代明帝の後継皇帝曹芳の年号です。ひょっとして、先帝の謬りを正す新代の始まりという趣旨でしょうか。
 明帝存命なら、この年は景初四年ですが、既に一年前から景初に四年はないと公布されていました。

同四年
(中略)掖邪狗らは、率善中郎将の印綬を授けられた。同六年、少帝は詔して、倭の使者の難升米に、黄色の軍旗をあたえることにし、帯方郡に託して、これを授けさせた(*61)。 (中略)
同八年(中略)太守は塞曹掾史張政(*63)をつかわし(中略)た。その後、卑弥呼が死んだ。大いに(多いに冢を作りその径は百余歩(*64)、(中略)卑弥呼の宗女である年十三の壹与(*65)を立てて王とし、国中がようやく治まった。(中略)
(*64)卑弥呼のとき、すでに古墳時代に入っていたかどうかが大問題。(中略)一〇〇余歩とあるから一五〇メートル前後の封土をもっていたことになる。ただし最近では、古墳の成立を三世紀半ばまで遡らせる学説がある。
 他ならぬ「倭人伝」によれば、「冢」は「封土」、つまり単なる盛り土である。既定敷地、つまり、先祖以来の墓地での没後造成であり、さまざまな要因から未曾有の規模になることはあり得ないのです。
 後世の墳丘墓は、まず間違いなく、長期間の計画的造成(用地選定、構造設計、担当部門の設定、費用、人員動員の振り分けなどに始まる、巨大な事業となる)の可能な「寿陵」です。
 当然、未検証学説は、世に山成す「学説」にまた一つ加わった「単なる作業仮説」(ゴミ)に過ぎないので、「大問題」などと、ことさらに誹謗してまで取り上げるのは、学問の世界として不適切です。現に、山ほどある他の作業仮説は、悉く無視しているではないですか。不公平です。
 因みに、当時の人々は、「古墳時代」など知らず、もちろん、「古墳」など知らなかったのですから、空論です。
 「径百余歩」が、どんな形容であったのか、時代考証が欠けていますが、遺跡考古学者は、中国古代文書の知識が無く、古代文書に精通した史学者は、遺跡、遺物の見識に欠けているので、「冢」に関して考察するには、相互研鑽が不可欠のように見えます。

(*65)『北史』には「正始中(二四〇~四八)卑弥呼死す」とある。『梁書』『北史』『翰苑』などでは、壹与ではなく臺与とあって、イヨでなくトヨだとも考えられる。これは邪馬壹国と邪馬臺国の問題とも共通する。
 『現存史料』と『不確かな佚文に依存し編纂経緯も不安定と定評のある「北史」』などの後世史書とを同列に対比するのは不合理である点で、見事に「共通」です。不確かな情報を積んでも、単に、「ジャンク」、「フェイク」の山では、提示した方の見識を疑われるだけです。
 古代史学が「学問」として認められたければ、決定的な判断ができないときは、現存史料を維持する態度を守るべきではないでしょうか。

現代語訳 平野邦雄

*まとめ
 ご覧のように、本文と注釈の双方に注文を付けているのですが、どこまでが平野氏の訳文か不明です。従って、氏の訳文と見られる中の誤字などは、誰のせいなのかわからない物です。資料写真は、誰の著作物、責任か不明ですから、宮内庁蔵書影印の著作権表記の錯誤は、誰の責任か不明です。

*品質保証のお勧め

 因みに、以上の解説文は、近来放棄されているはずの「仮説」を踏まえて書かれているように見えるので、内容を更新するか、あるいは、
「現代語訳」は、****年時点の平野邦雄氏の見解であり、現時点でその正確さを保証するものではありません。
 と解説すべきと思われます。

 当たり前のことを言うのは僭越ですが、サイト記事の著作権等を主張するのであれば、第三者著作の範囲と権利者を明確にすべきと思います。第三者著作物や公的著作物に著作権を主張するのは、犯罪です。
                                以上

2022年11月19日 (土)

サイト記事 「魏志改竄説」批判 1/3 再掲

                          2018/05/29 2018/11/25 2022/11/19補筆
邪馬台国と日本書紀の界隈
『三国志』「魏志倭人伝」後世改ざん説の可能性を考える〈1〉

*コメント
 通常、商用出版物でないサイト記事批判は、よほどでない限り公開しないのですが、今回も例外としました。

 サイト記事のトップで、「邪馬台国熊本説」の中核をなすのが、「魏志倭人伝」後世改ざん説と明言されていて商用出版物に次ぐ位置付けとします。
 「邪馬台国熊本説」自体は、史料である「倭人伝」の一解釈ですから、それ自体は、個人の思いつきであって、他人がとやかく言えるものではないのですが、その中核として採用している正史改竄、差し替え論については、途方もなく大きな誤解を持ち出しているので強く批判せざるを得ないのです。

*批判の主旨
 タイトルを「可能性を考える」としていますが、ここに主張されているのは、ご自身の主張を裏付ける「特定の記事改竄」が行われたが、原資料を含めてその証拠は消されているとの決めつけであり、その「特定の記事改竄」が、「邪馬台国熊本説」を成り立たせるのに欠けている「証拠」の重責を背負っているのだから、大変な暴論なのです。

 氏が高々と掲げている「邪馬台国熊本説」が、山成す所説の群れから抜きんでて、世上の考慮に値するとしたら、そのような強引なこじつけは要らないはずです。所在地のこじつけは、世上溢れている「誤記」「誤写」「曲筆」論を起用すれば、世間並に支持されて良いはずです。

 ということで、ここで取り上げる「魏志改竄説」(改竄は、後世でないとできないのです)とは、聞くからに暴論で、国志権威とされる古代史家の「古代史家全員嘘つき」説に匹敵する暴論と聞こえて辟易しそうです。

 どんな史料も、歴史上、絶対内容が変化していないという絶対的な保証はないから全体が信用できないと言われると、信用できる史料は一つもないとなります。
 本件における学問的態度は、確証がない限り正史史料は、適確に管理、継承されているとする前提で議論を進めるものです。「推定有効」、つまり、決定的に無効とされない限り有効と見るものです。無効を主張する者は、確固たる証拠を提示しなければなりません。立証義務というものです。
 どんな史料も、「改竄の可能性を絶対的に否定できない」という主義の確固たる証拠を提示するのは、不可能でしょう。まず、自身の手元証拠が、改竄されてないという証拠を確立しなければならないのですから、自己攻撃が不可欠の前提になっています。

 また、自己の主張を保って、既存の主張を理解していないままに全て排斥する「排他的」な論証は、全論客を敵に回す攻撃であり、余程の覚悟が必要であり、視点の定まらない安易な類推は控えたいものです。

*論考の確認
 同サイトの論法は、次のようなものと思われます。

    1. 敦煌残簡は、呉国志「特定部」の写本である。
    2. 残簡特定部は、特定部と行文が一部異なる。
    3. 残簡特定部は、写本時の国志写本を正確に写し取っている。
    4. 現存刊本は、敦煌残簡以降に改竄されたものである。

 しかし、この段階的論証は、以下順次述べるように確実なものとは言えません。むしろ、可能性薄弱、と言うか、「皆無」と思われますから、諸説を覆すことのできるものではないと思われます。

*個別確認1
 1.は、基本的な論証が欠けています。
 著者は、残簡特定部が、「呉国志」(韋昭「呉書」との混同を避ける)の特定部と同様記事であったことから、敦煌残簡は、呉国志の写本と速断していますが、これは有力な推定であっても断定できないのです。残簡には、「呉国志」の一部であることを示す編集事項が書かれていないと考えます。基本的な論証が欠けているというのは、論拠とならないという事です。論拠「不正」です。
 そのような「不正」論拠に基づいて提示される論義は、はなから無効であり、以下の論義は不要とも言えます。


                                      未完

サイト記事 「魏志改竄説」批判 2/3 再掲

                          2018/05/29 補充 2022/11/19
*個別確認1 まとめ
 残簡記事が、誰も知らない、誰も知り得ない「史実」を正確に記録しているかどうかは、本論に無関係であり、倭人伝が問い掛けている「問題」でもありません。論点がそっぽを向いています。

 また、敦煌残簡が、呉国志以外の史料、例えば、韋昭編纂の呉書稿、あるいは、私的史稿を写した可能性は、否定も肯定もできないものです。裴注が見当たらないのも、その傍証です。
 正体不明、由来不明の史稿残簡が、呉国志と異なる構文としても、何かを証明するものではないのです。

*個別確認2
 2.の論証は、物証の示すとおりです。だからといって、何かを証明するものではありません。

*個別確認3

 3.「残簡は、その時点の国志写本を正確に写し取っている」とは、時点の国志写本が確認できない以上、検証不能です。
 つまり3の論証は、論者の私的な推定に過ぎません。
 残簡作成者が、参照写本の正確な書写を指示されていたかどうかも不明です。孫氏政権の功臣事歴を、個人的な目的で綴り上げたかもわかりません要は何もわからないのです。

*巻紙談義~余談
 残簡は、明らかに巻紙に書き込まれたものであり、行当たりの字数が一定していません字数を揃えるのは、正確な写本の基礎であり、それが守られていないということは、厳格な写本がされていないことを物語っています。
 それにしても、国志写本が、当初、巻紙だったのか、冊子だったのかは断言できません。

 後漢朝末期の混乱期間に洛陽周辺の紙業も大いに混乱したと思われ、国志編纂時に定寸単葉紙が大量に調達できたかどうか不明です。慣用表現とは言え、国志が巻表示なのも、重視すべきでしょう。つまり、当時、帝室書庫に厳重保管されていた国志写本は門外不出とは言え、巻物形式であった可能性が高いと思われ、敦煌残簡が巻物形式であること自体は、不審の原因とはならないようです。
 国志各巻は、長巻物と予想され、残簡上に写本上必要と思われる目印が見られないのは、若干、否定的な要素です。
 なお、写本、刊本が、袋綴じの単葉紙になったのは、遅くみると、北宋咸平年間の木版刊本時と思われます。巻紙は印刷できないためです。

*改竄重罪
 当代最高写本工まで巻き込む「正史改竄」は、以後の写本に引き継がれても、世にある写本は書き替えられないので、いずれ露見します。「正史改竄」は皇帝に対する大逆罪であり、最高の重罪で、関係者一同とともにその一族の連座処刑もあり得るので、同志を得られず、実現不能と思量します。
 それにしても、それほど大がかりな改竄を、あえて、どこの誰が、企画し命がけで 実施したのでしょうか。露見すれば、共犯者も同罪であり、事情を知らない協力者も、又、同罪です。連座を免れるには、「密告」しかないので、到底秘密を守れないのです。

 くり返しになりますが、そのようにしてまで、「倭人伝」記事を改竄するのは、なぜなのでしょうか。

                       未完

サイト記事 「魏志改竄説」批判 3/3 再掲

                          2018/05/29 補充
*個別確認4
 4の主張は、3.までの推定が根拠を確立できていないため、根拠のない暴論となっています。
 丁寧に言うと、かりに、推定されている事態か起こって、敦煌残簡以後に(呉国志)特定部の改竄があったと証明する証拠が得られたしても、それは、国志の別の部分に改竄が行われたという確たる根拠にはならないのです。当然自明のことなので、大抵は書き立てませんが、読者が鈍感かも知れないので、念入りに書きます。
 この部分の結論として、国志に「改竄」が行われたという確実な証拠は、全く存在しないと断定されます。

*誤解列記
 写本、刊本時の皇帝僻諱を改竄の事例としていますが、改竄の定義をご存じないようです。僻諱は、特定文字の置き換えなどで皇帝実名などを避けるものであり、改竄して文意を変える意図でなく、刊本ならぬ私的写本で僻諱が適用されたかどうかも、全巻確認しない限り不明です。

 また、裴注を改竄の事例としていますが、これも、改竄の定義を外れた暴言です。紹興本、紹凞本などの刊本現存品を見ても、裴注は原文と区別され、原文を書き替えることはありません。
 世上、裴注が、正史「三国志」の一部であると誤解した不出来な論義があるので、無批判に追従したモカもませんが、追従するのは、先行者の審査を経た上で、「奈落落ち」の道連れを避けるものです。

*用語混乱
 「改竄」、「善意」、「悪意」などの法律用語を、日常感覚で書き連ねるのは、まことに不用意であると考えます。

*類推の主張
 視点を反転して、国志に一切改竄が無かったと断定する絶対的な証拠は無いから改竄の可能性を認めるべきだと力説されているようですが、それは、とてつもない考え違いです。
 漠然たる一般論であれば、根拠不確かな推定を押し出さなくても、単なる思いつきの主張として、存在を赦されるものです。

 ところが主張されているのは、特定の部分で特定の内容の改竄があるとの具体的主張であり、それは、確証を持って正しく主張しなければ、単なる暴言だということです。

 1-4のような不確かな/棄却されるべき推定の積み重ねを確証とみているということは、学術的な論証に対する判断能力が欠けているということであり、著者に対する評価が低下するものです。

*助言
 と言うことで、このように無法な論法は、大変損ですよ、と忠告するものです。

 所説を主張したいのであれば、正攻法で論証すべきです。世に、曲芸的と揶揄される主張はごまんとありますが、論理の曲芸は、褒め言葉ではなくて、欺瞞の類いとして、排斥されているのです。

 おそらく、著者は、嫌われても良いからと苦言を呈してくれる友人をもっていないと思うので、ここに、とびきりの苦言を書き記したのです。

                        完

                        

2022年11月13日 (日)

新・私の本棚 「魏略西戎伝」条支大秦の新解釈 壱 導入篇  1/4

221114romaparthia   
                             2019/10/27 2019/11/08画像更新 2022/11/14

■おことわり
 ここに掲示したのは、当記事全体の考察を、そこそこに反映した「概念図」です。
 ことさら言うまでないと思いますが、ここに掲げたのは、魏略西戎伝(以下、西戎伝)に書かれた道里をまとめた「構想概念図」(Picture)であり、方位も縮尺も大体で、あえて「地図」にしていないのです。
 それなりに論理的に書いた労作なので、どうか「イメージ」などと軽蔑しないでいただきたいものです。作図に制約のあるマイクロソフトエクセルで書いたものです。
 
*古代人の認識 Retrospective Microcosmos
 衛星写真もグーグルマップなどの情報サービスもなく、地図もコンパスもない時代、頼りは、人々の見識であり、それは、各人の行動範囲に限定された確かな土地勘と行動範囲外の伝聞なので、甘英が知恵を絞っても、せいぜいこの程度の認識しか得られなかったと思うのです。と言うことで、当時の現地での認識で書かれた西戎伝の元データは、どの程度現地事情を反映していたか、当て推量にせざるを得ないと考えた次第です。
 特に重要なのは、甘英が取材した「安息」は、ここに書いたように安息創業の地である当地域を所領としていて、東北部の交易と防衛を担っていた「小安息」の視点で描いた世界像であり、大帝国の「グローバルな」目で描いたものではないのです。

 この二重構造は、甘英以後、後漢史官にも、魚豢にも理解されず、後漢書を編纂した范曄に至っては、不確かな情報であり書くに堪えないと棄てられ、そのような不確かな情報をもたらした諸悪の根源として、甘英は臆病な卑怯者扱いされたのです。

 当記事は、そうした冤罪を、魏略西戎伝の適切な解釈で払拭するものです。

 と言うものの、要点では、前世、つまり、史記、漢書以来の先行資料も参考にして重要地点の比定に勉めたのが、計三篇に上る考察です。
 ここでは、端的に、当方、つまり、当ブログ記事筆者の当面の結論、と言うか到達点を書き残すものです。読者に読んでいただけるか、肯定していただけるか、各読者の考え次第です。

■概要
 本稿では、西戎伝の解釈に対して従来当然とされていた句点解釈に異を唱え、条支、大秦国の所在地の再確認を願うものです。定説で決まりなどと言わずに、一度見直していただければ幸いです。
 端的に言うと、史書の条支国は、当時地域大国であるアルメニア王国です。条支が接する大海はカスピ海であり、海西、海北、海東は、カスピ海周辺、しかも南部にとどまり、甘英の探査はせいぜい条支であり、地中海岸に一切近づいてないので、海を怖れたとは、後世課せられた濡れ衣、つまり冤罪です。甘英は、一世の英傑西域都護班超の副官であり、皇帝、都護から命を帯びていて、使命を放棄して帰任したとは、信じられないのです。

 「西戎伝」を読む限り、大秦は「安息に在り」とだけあって遂に位置不詳であり、諸記事の「莉軒」から、大安息内、それも、小安息付近と見られるのです。当方なりの憶測は、図の通りであり、説明は後のお楽しみです。

                                未完

新・私の本棚 「魏略西戎伝」条支大秦の新解釈 壱 導入篇  2/4

                             2019/10/27 2022/11/12
□魚豢編纂「魏略西戎伝」(西戎伝)とは
 魚豢「魏略」は、陳寿「三国志」とほぼ同時代に編纂された史書であり、三国をほぼ並記した「三国志」と異なり、魏朝一代史であり、四百年にわたる漢を継いだ正統政権であるとして、呉、蜀を、反逆者としています。
 「魏略」は、暫時帝室書庫の所蔵書籍として厳格な写本継承が行われましたが、魏朝の正統性への評価が低下するにつれ、書庫外に押しやられ次第に散逸したようです。
 因みに、「西戎伝」とあえて銘打ったのは、班固「漢書」西域伝で、漢との交流、西域都護への帰属が表明されている西域諸国の「伝」に対して、それより西、漢の威光の及んでいない「西戎」の国情を初めて奏上するとの意であり、新来諸国が、漢を継承した曹魏の威光に服すれば、西域は西方に延びるという主旨と思われます。

*西戎伝の信頼性
 一般論として、魏略は大半が佚文であるため、信を置けないとの定評ですが、こと、「西戎伝」の評価は大変高いのです。魏志に補追された「西戎伝」は、劉宋史官裵松之が、当時帝室蔵書として管理されていた「魏略」善本を底本とてし、裵松之が責任を持った引用であり、「三国志」本文に遜色のない高い信頼性の評価をあるのです。もちろん、数カ所の明白な誤記と後年加筆らしい数行の不審記事はあるものの、全体として、大変正確な史料と見られるのです。

 因みに、二十世紀初頭にかけて中央アジア広域を探検したスウェン・ヘディン(スウェーデン)は、西戎伝を信頼すべき座右の書としたそうです。

*後漢書の虚報

 范曄「後漢書」西域伝は、「西戎伝」、ないしは、その原史料に基づく紀伝ですが、原史料の正確な要約でなく笵曄の常識と論理に基づく再構成が行われていて、特に、「大秦」関係記事は、明らかに誤伝となっています。特に、西域都護班超の副官にして安息訪問大使の甘英の大秦渡航断念事情は、根本的に虚偽記事であり、まことに不出来です。范曄と比較できる同時代史書として、袁宏「後漢紀」と魚豢「魏略」西戎伝が、今日まで継承されていなければ、笵曄の曲筆の是正ができなかったと思えば、正史といえども厳重な史料批判が必要という基本的な訓戒がわかるのです。
 いや、笵曄「後漢書」の紀伝部分は、先行諸家後漢書を参照していて、信頼できるのですが、西域伝は、他史料に基づく校訂が見えず、心許ないのであり、東夷伝は、他家後漢書に欠けている独自記事なので、不安です。

*大局的使命
 西域都護の副官甘英が、都護班超から承けた大局的な使命は、司馬遷「史記」大宛伝、班固「漢書」西域伝以来の西域探査であり、漢代は、安息、条支が西の極限ですから、それより西の世界は、未知の領域であり問題外だったのです。

 あくまで仮定の話ですが、甘英が、使命の安息、条支に至って、さらに西方の土地を耳にしたとしても、それは使命外ですから、仮に使命の延長線上の、いわば、拡張使命になり得ると考えても、その情報の信憑性を確認した上で、以後の対応については西域都護の指示を仰ぐ必要があったのです。

 班超が、仮にそのような上申を受けたとしても、甘英が更なる遠隔地に赴けば帰任が大幅に遅れ、使命報告が大幅に遅れることを大いに危惧したはずです。班超の使命は、西域の安寧確保ですから、成すべき事はその使命の成果を持ち帰り、本来の西域都護の任に就くことなのです。

*漢朝偉業の継承
 そもそも、班超が甘英に与えた使命は、西域にひろがる匈奴を駆逐する戦いを西方から支援する同盟者の発見と盟約の確立にあったのです。

 それは、かつて武帝が張騫に与えた使命でもあり、匈奴と角逐している当時と西域状勢は何ら変わっていないのです。当初、西域の覇権は、漢か匈奴かでしたが、後漢中期、かって張騫が交通を築いた大月氏後続である貴霜国が、西域都護に対し反抗を続けていて、洛陽の支援が乏しくなって西域都護が衰弱すれば、後漢の支配が崩壊する状態だったのです。班超は勇猛果敢で、諸国を睥睨していたが、引退の時が近づいていたので、低迷の相手を得て、後年の安定を期したかったのです。。

 従って、甘英は、中央アジア暑熱地帯を抜け、司馬遷「史記」大宛伝で初めて紹介された文明大国「安息」を訪ね、武帝時代以後途絶えていた交流を再構築し、低迷を提案したはずです。 それが、甘英の西域探査の端緒なのです。

                                未完

新・私の本棚 「魏略西戎伝」条支大秦の新解釈 壱 導入篇  3/4

                             2019/10/27
*小安息国と安息帝国
 大宛伝に従い接触したのは、この地の守りを任されていた小安息国ですが、しばしば、イラン高原全体を支配する安息帝国と混同されたのです。
 混同と言っても、地方国と全帝国の勘違いは、それほど深刻なものではありません。小安息国は、帝国の東の守りを一任されていて、それは、東方との貿易の収益管理も含まれていたのです。商業立国の安息帝国では、国の大黒柱として強力な権限を委ねられていたのです。それは、小安息国が安息帝国創業の地として特権を有していたとも言えるのです。

*臣従あるいは同盟
 と言うことで、甘英は、小安息国の玄関に長期にわたって滞在し、締盟を図りましたが、当然、安息国は後漢への臣従は謝絶し、中央アジアの交易路に対する北方匈奴の侵略を後漢朝西域都護が阻止していることに対して感謝を示した程度に終わったようです。
 甘英が求めたのは、二萬人が常駐する安息国東方守護の軍事力の提供であり、それは謝絶されたのです。安息帝国は、小安息に東境防備のための大軍を常駐させていましたが、自ら中央アジアオアシス諸国を攻撃することはなかったのです。金の卵を生み続ける鶏は殺すなということです。


*安息査察
 次に、甘英は安息国内の査察を望んだはずですが、客人扱いとは言え、他国の軍人に国内通行を許すことはありません。従って、安息国内の取材はできなかったのです。勿論、高度に機密性のある内部情報である戸数、工数などは得られず、又、服属の際には提示される地図も得られなかったのです。服属国でない大国から取材できる情報は限られているのは常識ですから、この事態は不首尾などでは無かったのです。
 安息国は、貿易立国、商業立国ですから、使節厚遇の一環として一大見本市を催したのですが、甘英は軍人なので一覧表を取り次いだだけでした。
 その中では、安息国の近隣と思われる大秦国の物産が多彩ですが、既に、武帝時代に安息国の第一回遣使で特産物を紹介されていた莉軒の別名ということだけ意識に止めたのです。

*条支内偵
 さて、次に望んだと思われるのは、西の条支との接触ですが、安息国は、遠路であるから条支代表者を呼びつけることも、安全を保証できない条支国への行程を紹介することも控えたようです。
 とは言え、甘英の報告には、「海西」の国情が詳しく書かれていて不思議です。安息国が近隣国の国情を紹介するにしては詳しいし、安息国に不利なことも書かれていますから、これは、密かに条支に取材したと思われるのです。概念図には、甘英が、帰途、条支に向かったと見て、条支往還経路を推定してあります。憶測ですが、さほどの道草にはならないのです。
 但し、友好関係を築こうとしている相手に隠密の内偵を悟られてはならないので、婉曲な紹介記事になったと見るのです。


*大秦造影の怪
 その結果、後世史家は西戎伝各国記事の進行を見損なっているのです。
 そして、甘英が大して気にとめなかった大秦が、後世史家の創作により、まぼろしの西方大国として注目され、ついには、パルティアの大敵と見なす暴論まで台頭したのです。その端緒が、西戎伝に魚豢が注釈した数行ですが、「イリュージョン」に最も貢献したのは、范曄です。
 つまり、笵曄「後漢書」は、司馬遷「史記」、班固「漢書」と並ぶ、「三史」なる正史の最高峰となったので、影響力は絶大で、「三国志」は、言わば脇士となったので、その責任は重いのです。

                              未完

新・私の本棚 「魏略西戎伝」条支大秦の新解釈 壱 導入篇  4/4

                             2019/10/27 2022/11/13
□誤釈の起源 Origin of Speculation
 魚豢は、漢書「西域伝」安息伝の「二枚舌」を解釈できず、安息国が、数千里にわたる超大国と「誤解」したため、安息国西界、つまり、西の果ての向こうにある条支国は、メソポタミアに王都が存在する安息の西方と誤解したようです。「大秦は、既知の莉軒であって大安息内部、小安息近傍」との端的な行文を誤解釈し、余計な何ヵ月という海上所要日数を書き足したのです。
 そのため、条支、安息並記と読んで「大海」地中海の西の「海西」と見て文を閉じ、直後に開始の海西記事が大秦記事と誤解され、さらに沢山の誤解を誘発したのです。何のことはない、条支は、大海、実はカスピ海のすぐ向こう岸であり、条支の向こうは(直に見えない)黒海だったのです。

*本当の条支探査
 本来の条支行きは、当然、カスピ海の船での移動でしょう。いくら軍人でも、虎や獅子は避け、難なく便船で渡海したはずです。因みに、条支は海西にあって、大海カスピ越しに手に入れた小安息国物資を、大海「アゾフ海」、「黒海」経由で、船荷として地中海に流し、あるいは、陸路流通して、巨利を得ていたようです。黒海南岸には、かつて、ギリシャと競合したトロイアが栄えていたので、黒海経由の東西貿易は、シルクロードなどとしゃれた呼び方が生じる前から、大いに繁栄していたのです。

*使命の達成報告 Mission Complete
 それはさておき、条支国の国情を見定め、今後の交情を約したことにより、甘英は、所記の使命を達成し班超西域都護に向かって東に帰ったのです。
 当然、甘英は、堂々たる文書をもって班超に復命し、班超は、それを嘉納すると共に、洛陽の皇帝に報告文書を届けたので、文書は皇帝のもとに届いたのです。不首尾の報告まであれば、班超は譴責を承けたでしょうが、そのような記録は残っていないのです。いや、記録はなくても、班超は顕彰され西域都護の任にとどまったから、甘英の使命達成は確実なのです。

□総括
 甘英の帰任後、老いた班超は、多年の西域の激務から退任して後漢の西域経営は活力を失い、皇帝の代替わりもあって急速に退潮し、西域は匈奴の意のままになったのです。但し、匈奴は、長年の漢との衝突の多大な被害により単于独裁が崩れ、西域諸国への圧政は一時緩和されたようです。
 と言うことで、甘英は、断じて使命放棄などしていないのです。
 冤罪を報じた報いとして、范曄は史家としての不名誉を承けるべきです。
 ここは、導入篇、序論ですから、要点だけにとどまるのです。

□西戎伝道里記事の語法について
 随分手間取りましたが、魚豢が認めた用字は、概ね以下のようです。同時代の同趣旨記事ですから、特段の重みのある用例です。
 「従」は、書かれている地点から「直行」という意味です。
 「循」は、海岸線と直交する方向を言います。
 「去」は、続く地点から逆戻りすることを言います。(方角が逆転します)
 「復」は、道里の直前起点に戻ることを言います。
 「真」は、特に厳密な四分方位を言います。
 「転」は、概して直角に進路を変えることを言います。
 「歴」は、当該国の王治に公式に立ち寄ることを言います。
 「撓」は、地形に従い円弧状の経路を行くことを言います。
 「陸道」「陸行」は、人畜を労して、陸上を行くことを言います。「陸」は、平地を意味し、宿駅のある街道が整備され、騎馬移動や車輌搬送ができるのです。
 「水道」「水行」は、人畜を労せずして、河水面を行くことを言います。
 「浮」は、本来、小舟や筏で水面を移動することを言います。
 「乗船」は、便船に乗ることを言います。
 「大海」は、外洋でなく、塩水を湛えた閉水面を言います。                          
                             導入篇 完

2022年11月12日 (土)

私の本棚 20 季刊「邪馬台国」 第125号 井上悦文「草書体で解く邪馬台国の謎」補充再公開

 私の見立て ★☆☆☆☆ 根拠不明の断言集 拝読辞退     2015/06/10 補充 2022/11/12

◯はじめに
 本稿は、専門的な根拠を踏まえた論説のようであるが、余程論旨に自信があるか、それとも、論旨に不安があるのか、冒頭から、強い物言いが続くこうした断定的な書き出しは、却って不信感を招くと思うが、どうだろうか。
 例えば、書き出し部で「三国志の原本は草書であったことが判明した」と声高に唱えるが、言い切る根拠は何かとみると、楷書写本は大変時間がかかるので、作業性が悪く、写本は全て草書で行われていたに違いないという説である。
 時代を隔てて、遙か彼方の現場を推定する「臆測」であり、何ら物的な証拠が無いのに断言するのは大胆である。

*考察検証
 ここで言う物的な証拠は、例えば、西晋皇帝所蔵の三国志写本の実物であるが、断簡すら残っていないし、下って、北宋までのいずれの時代でも良いが、皇帝所蔵の三国志写本が発見されたとは聞かないから、やはり、物的証拠は存在しないのである。
 それとも、噂に聞く、敦煌文書の呉志写本断簡は草書で写本されているのだろうか。もっとも、そうであったとしても、皇帝蔵書ではないので、状況証拠にしかならないのだが。

*「書の専門家」の暴言
 ここで状況証拠としている写本に使用する書体と作業効率との関係は、自称「書の専門家」の意見であるし、また、多少なりとも、書き真似してみれば納得できるので、不審ながら、一応、ご意見として伺うしかないのだが、その点を根拠に、正史の写本が全て草書で継承されていたというのは、速断に過ぎ同意しがたいものがある。

 因みに、いくら「書の専門家」のご高説とは言え、三国志の解釈に「草書の学習」が必要というのは、不可解である。三国志草書写本は現存しないのである。氏が三国志全巻を古代草書で書き起こして、仮想教材として提供するというのだろうか。それは、簡牘の巻物なのだろうか、紙冊子なのだろうか。

 いや、今回の井上氏の論説でありがたかったのは、秦漢時代にも、日常の書き留めには、手早く書ける草書めいた略字体が採用されていたと言う指摘である。してみると、草書の特性は、文書行政の発達した古代国家である秦時代からの常識であったと思うのである。
 発掘されている木簡類は草書では書かれていないようだが、日常の覚え書き類は草書だった(のだろう)との説には説得力がある。

*真書と草書
 それで思い出したのが、宮城谷昌光氏の著作「三国志外伝」の蔡琰(蔡邕の娘 蔡文姫/昭姫)の章の結末である。時の権力者、つまり、武人であり、教養人、つまり文人でもあった曹操から、蔡文姫が記憶している亡父の蔵書四百余篇を書き出して上程するようにと下問されたのに対して、「真書」で書くか、「草書」で書くか、書体を問いかけているのである。

 手早く草書で書き上げれば随分早く提出できるが、書籍として品格が低くなり、曹操ほど詩作や孫子注釈で高名な大家に失礼と思えるし、といって、厳密に真書で書くと、時間が大層かかる、いわば、二者択一であったのである。

 ここで言う真書は、言うならば、字画を全て書き出す本字であり、草書は、省略の入った略字という位置付けであろう。どちらでも、ご指示のままに書き上げますという趣旨である。

*書体の併存
 さて、古来から真書、草書の両書体が併存していたのであるから、草書が略字体であるために異字混同が(必然的に)出ることは、当時の知識人や行政官吏に知れ渡っていたはずと思うのである。氏自身も述べているように、草書の位置付けは、あくまで草稿、つまり下書き止まりであって、本当に「文書」を書くときは真書で書いたと言うことである。これは、浄書であり、清書でもある。

 ちょっと意味合いは違うかも知れないが、唐時代、公文書では、簡明な漢数字の一,二,三,,,を壱,弐,参,,,と、「大字」で書く規則があったのも、改竄防止、誤読防止の意義があれば、時間を掛けても字画の多い文字を採用していたと言うことである。ということであれば、信書(手紙)の類いは草書としても、公文書を草書で書くことはなかったはずである。
 つまり、正確さ、厳密さが至上課題である公文書類や正史写本には、後世に至っても厳として真書が採用されていたと推定するのである。

正史写本
 特に、正史写本の中でも、皇帝蔵書に当たる最高写本、これを仮に「正本」というならば、「正本」を写本して新たな「正本」を作るとすれば、そのような高度に厳密さを要求される複製写本の際には、写本に於ける速度ではなく、複製の正確さが至上命令である。
 至上命令というのは、これに違反すると、給料を減らされたり、免職になったりする程度の「処罰」にとどまらず、馘首、つまり、打ち首で死刑もあり得ると言うことである。

 それに対して、その際に経済的な要素として懸念される時間や人手は、国庫から十分以上に与えられるわけだから、真書で、しかも、予習復習を含めて、とにかく、時間と人手を惜しまずに、念には念を入れて写本するのは当然の帰結と思われるが、どうだろうか。

抜き書き・走り書き
 ただし、以上は、何よりも厳密さが求められる公文書や正史写本の話であり、一度、そのような厳密さの桎梏から解き放たれたときは、段違いに書きやすく、速度の出る草書写本が採用される可能性が高いと思うのである。特に、正史をもとに編纂された類書の原典とする抜き書き資料は、手っ取り早い草書で書かれていたものと思われる。
 類書編纂は、正確な引用でなく、飲み込みやすく消化した要旨抜粋であるので、誤字もまた発生することが避けられないのである。また、そもそも抜き書きの元となった写本が、正本と同様に真書で書かれていたかどうかも、以下で思案するように、かなりあやしいのである。

 お説に従い、これら草書写本には、異字混同がある種の「必然」となることを考慮すると、ここで延々と主張されている誤字は、こうした草書写本段階で発生し、構成されないままに継承され、最終的に、後代史書や類書に清書された際に、継承(誤伝)されたと見て良いのではないか。この辺り、論理の分水嶺というか、絵に描いたような諸刃の剣である。

 その極端な例として、翰苑写本がある。当該写本は、影印版の収録された解説書が公刊されているから、どのような書体と配置で、どんな文字が書かれているか、誰でも確認可能である。特に同意意見も、反論も出てこないブログ記事で公開された私見ではあるが、見るところは見て書いたものである。
 つまり、翰苑写本は、原本が確認不可能なので、ちゃんとした原本があったと仮定すると、写本というものの原本に忠実、正確な複写ではなく、また、その際に正確さを求めたものでもなく、とにかく、欲しい部分を、追い立てられているように、手早く抜き書き書写されていると見るものである。一番の難点は、素人目にも、校正、校閲によるダメ出しがされていないので、素人目にも明らかな錯誤が露呈していて、文字記録資料として信頼できないのである。
 いわば、書の文化財として尊重すべき「国宝」だが、史料としては、ほとんど信じられない、相当信頼性の低い文献資料と、書道の素人は見ている。

二次写本、末裔写本
 また、皇帝の指示した正史写本は、次なる正本として「厳格」に写本されるにしても、当代の正本から写本された、言わば、子写本(一次写本)から芋づる式に連鎖して写本された孫写本(二次写本)以降の末裔写本は、「厳格」の適用外であり、作業効率が優先され、草書写本となる可能性がどんどん高まるのである。地方豪族の手元に渡る頃には、多くが草書写本になっていたとも推測される。
 以前から指摘しているように、真書写本といえども、誤写の発生を食い止めるには、大変な労力と優れた職人群が必要であり、王侯貴族といえども、そのような厳格、精密な写本は、経済的な事情だけ推定しても、そう簡単にはできなかったと思われるのである。

草稿と確定稿
 また、三国志編纂過程で、陳寿と無名の補佐役が上程草稿を作成したのは草書体と思われるが、皇帝に上申する想定の三国志「確定稿」は、真書で清書していたものと思うのである。
 案ずるに、草稿といえども、文脈から推察できない異民族の固有名詞などは、おそらく、草書のただ中に真書を交えるなど、誤写を防ぐ工夫などをしていたに違いないのである。それが、俗事に屈しない史官というものである。

 井上氏の記述では、陳寿は三国志を完成することができず、草稿を残して没したようにも見えるが、60歳を過ぎた老齢であるから、自身の著作を中途半端な形で後世に遺すことがないよう、真書で書き上げた清書稿を確定稿、完本としていたと考えるのである。
 これは、皇帝から命が下ったときは、速やかに上程できるようにしておくという意味もあるのである。陳寿は、罷免されても、処断されたわけではないので、著作を続けられたと見るものである。陳寿の人柄と職掌を考えると、そう考えるのである。

余談談義
 総じて、井上氏は、業界用語を交えた不思議な言い方を、大変好むようである。
 例えば、冒頭で、何の断りも引用符くくりもなしに、「魏志倭人伝」と書いておきながら、禁じ手の後出しで、だめを入れるのである。
 曰く、『「邪馬台国」の(と言う国)名は、中国(余計である)正史(である三国志の一部である)の「魏志倭人伝」に書かれていると大方が思っている。』 ()内は当方の補充。
 何とも、見苦しい乱文であり、理解に苦しむ点は、凡百の俗説の徒と同様であり、氏の、文筆家としての未熟さを思わせる。
 それにしても、大方」とは何の意味か、よくわからない。多数の他人の「思っている」ことをどうやって調査し、どのようにして計数化して、「声なき声」の世論とも見える「大方」を見出したのだろうか。所詮、氏の見聞というものの、実は、飲み仲間の罵り合いではないだろうか。

 てっきり、季刊「邪馬台国」誌では場違いな、古田武彦説復唱かと思ったが、そうではない。「魏志倭人伝という正史はない」に始まる趣旨不明の提言が続く。どろりと「魏書の東夷伝の倭人の条」と書き写しているが、「魏書」と書かれているのはここだけで、他の箇所では全て、「魏志」である。趣旨不明である。「倭人伝」はなかった論には大方は食傷している。
 最後に、倭人伝と三国志全体の文字数が上げられているが、本稿においてどんな意義があるか、不明である。まことに、不可解である。

*成立の不思議
 以下、三国志の「成立方法」(単語明瞭、意味不明)と言う下りがある。
 「成立」を確定稿のとりまとめ時点と言うのであれば、その時点では、確定稿は、いまだ陳寿の個人的な著作なのだから、いわゆる官製史書である「正史」でないことは自明である。まして、一部厳密な言い方を打ち出す識者によれば、西晋時代に「正史」はなかったから、その後も、正史という言葉が浮上するまで、三国志は「正史」でなかったことになる。

 とかく、そのような「重隅突き」的な散漫な言葉咎めは、「大方」の読者に論旨の迷走を感じさせ、折角の文章が寄せ木細工との感を与え、箸休めの「閑話休題」以外に何の意義があるのかよくわからない。

 おそらく、ご自身の学識の範疇外なので、いずれかの公開文献から無造作に取り込んだのだろうが、身に合わない借り着は、本人の品格を落とすだけである。門外事を、うろ覚えで挟み込んで論説全体の値打ちを下げるのは、井上氏の創始した失敗ではない

写経
 遣唐使や留学僧が持ち帰った仏教経典の写本が草書体とも思えないので、唐時代でも、真書による写本も残存していたように思われる。
 奈良時代に平城京で行われた国家規模の写経事業も、また、本稿で言われる草書写本の例外と思われる。
 因みに「藤三娘」と署名した聖武天皇皇后「光明子」の残した写経は、どう見ても、草書ではない。
 と言っても、草書写経が「絶対になかった」と断言できるほど、多数の原史料を確認していないので、推測である。

◯まとめ
 当記事は、井上氏の軽率な思いつきを、「大地から掘り出した芋」と見ると、それを「泥付きのままで食卓に提供する自然食」と見える。つまり、せめて、泥を落とし、皮を剥いた上で、煮炊きして、調理提供いただきたいと思う。例えば、ウロコを取らず、はらわたも出さないサカナは、そのままでは食べられたものではないのである。自然食材は貴重であるが、だからといって、それが和食の真髄ではない。
 氏が、このように不出来な著作を公開したのは、氏にとって名誉にならないと思う。勿体ないことである。

 これでは、以下、氏の力説する新説が、忽ち、悉く「虚妄」と判断され、「ジャンク」とされるのである。世上、邪馬台国論争は、厖大な「ジャンク」所説群を産んだと「大方」が断じる理由とされるのは、それぞれの冒頭で、説得力のない、疑わしい「新説」をがなり立てるためと思うのである。「ジャンク」を悉く味わった上の評価とは見えない。
 現に、氏の著作を買って読もうという気には、到底なれないので、そのように推定する。

 仮に、氏の新著を贈呈されても、時間の無駄なので「拝読辞退」である。

以上

2022年11月11日 (金)

新・私の本棚 番外 邪馬台国の会 第404回講演 「3.邪馬台国の存在を大和地方に...」

 3.邪馬台国の存在を大和地方に認めることは出来ない         2022/11/11
私の見立て ★★★★☆ 最重要

◯はじめに
 「邪馬台国の会」創設の「安本美典賞」の第一回受賞者関川尚功氏(先生)の贈呈式記念特別講演の細瑾であるが、重大なので敢えて公開する。

*議事次第  2022/10/16 開催
 1.第一回受賞者の関川尚功氏によせて
 2.関川尚功氏の業績[関川氏の年代論が正しい]
 3.邪馬台国の存在を大和地方に認めることは出来ない(関川尚功先生)
 以下、敬称は「氏」に留めたが、中国語で「先生」は軽い男性敬称であり、「氏」によって応分の敬意を評していることを申し添える。
 関川氏の特別講演、つまり、受賞著書の部分紹介で、遺物/遺跡に関する考古学考証は、氏の長年に亘る着実な学問研究「学究」の成果であり、全体として、纏向を含む奈良盆地中部、「中和」本拠として広範に行われてきた先賢諸兄姉の諸論考に基づいた確実な論考であり、多数の学究の叡知を結集し検証された成果であり、大いに尊重されるべきものであることに異議は無いと思うが、以下の「倭人伝」考証は、いずれの論考に基づいているのか、根拠薄弱で不適格である。
 安本美典氏は、立場上、関川氏の卓見を無遠慮に批判する「鋭利な名剣」は振るうことができないと見えるので、一介の素人が、僭越にも私見を述べる次第である。
 率直/正直な批判は、最上の賛辞と信じ、短評を試みる。

・『魏志倭人伝』は邪馬台国について、「その道里を計るに、まさに会稽(かいけい)、東冶(とうや)の東に在る」と書いてある。また、卑弥呼がなぜ親魏倭王となったのかといえば、三国時代の呉の孫権が、魏と仲の悪い高句麗や公孫氏に手を出して、東シナ海を伝わって対抗しようした。そこで魏は邪馬台国と結んで、公孫氏と呉の間に楔を打とうとした。下の地図を見れば、会稽、東冶の東は九州がせいぜいであり、公孫氏とのつながりを押さえるには北九州となり、畿内までには至らない。


*コメント
 冒頭は、「倭人伝」の改竄で、誠に不適切である。続く時代考証は、出所、論拠不明で、安易な受け売りは、氏にしては軽率の極みである。
 考証は「倭人伝」に根拠が無いので、手前味噌の「陰謀」史観創作と見え、「東治」改竄を含めた後世東夷への追従は、氏にしては誠に不用意である。
 「魏と仲の悪い高句麗」は杜撰である。公孫氏の反逆に高句麗が追従と見るのは誤解である。高句麗は公孫氏に援軍を送らず、司馬氏と結託している。また、魏が「公孫氏包囲狙い」で「未開の蛮夷である倭」と「同盟」とは論外の極みである。中原天子が、新来で、無文、つまり、古典書の文字を一切解しない蛮夷の蕃王と「盟約」など、到底、到底あり得ない。
 魏使が倭王に「親魏倭王」印綬仮授の時、公孫氏は、とうに土に埋もれていた。氏の専門外とは言え、著書として公刊している以上、これは、重大な確認不足と思われる。

 「会稽東治の東」(原文)は大局的構想であり、当時、緻密な現代地図は存在しなかったから、陳寿は漠然と「東」としたに過ぎない。また「東」の有効射程は、時代錯誤を越え奇怪である。「倭人伝」は東方に漠たる認識しか示していないから、その意味でも、かかる地図を古代史論に起用するのは、まことに罪作り、言わば「架空地図」である。
 先例では、武帝以来の漢使が、万里の彼方の西域の果ての「安息国」を大海「カスピ海」の東岸に「極めて」取材して、大海海西、さらには、さらに西の風聞を書き留めたが、皇帝に風聞、臆測、捏造を報告した「西域伝」記事は、史官にあるまじき粗略な所業として、後漢書を編纂した笵曄に罵倒されている。但し、陳寿は、正統派の史官であるから、臆測としてすら認められない事象は報告していない。

 氏は、考古学で「文字資料」の紀年と遺物、遺跡の時代比定は(現代視点で)連結してはならない』とする鉄則に反していると見える。まして、正史列伝に書かれていない背景事情、さらには、明記されていない関係者の思惑まで勝手に掘り起こして、所説の根拠として言い立てるのは、当然、史学の考察として無法である。案ずるに、「三国志」考証と言いながら、実は、「三国志演義」の創作事項に悪乗りしているのでは無いかと、真摯に懸念される。

 これら、氏に似合わぬ「倭人伝」誤解は、時代錯誤の地理観と相俟って、臆測と改竄依存の重畳と見え、氏の論考への信頼が、これに連座して崩壊しないかと懸念され、誠に、勿体ない。

◯まとめ
 かくのごとく、率直に苦言し、氏の寛恕を望んでいる。頓首。

                                以上

2022年11月10日 (木)

新・私の本棚 長野 正孝 【古代史の謎は「海路」/「鉄」で解ける】総括

 二書通観~乱文乱論の饗宴     2022/06/25 2022/11/10 2023/11/21

◯はじめに~最初の躓き石
 長野氏の労作には、俗説に右顧左眄しない卓見も、希に見られれるが、尊大断言しても「数打ちゃ当たる」では、信用は戻らない。要は、氏の史料考察は、地べたで史料を嘗めているものには、遙か上空の「飛行機雲」である。

 私見では、二千年前の文書を読解できないのは、対象と言葉が通じず、そのため、世界像が霞んでいるからである。数百㍍先の現場の光景を肉眼で眺めて知ろうとするのと同様、推理小説分野の極限とされる「安楽椅子」探偵気取りで、「居ながらにして想像する」のでなく、現物、現場に肉薄して、健全な理性で理解するしかない。それが、Historical Scienceの宿命であると信ずる。
 但し、身を以て、太古の現場に直行することはできないから、目撃者の記録を吟味して賞味するしかないのであるが、それでも、介在する報告者の視界を正す努力を重ねるのである。
 氏は、それが、文献考察の路を辿るしかないということを悟っていないようである。と言っても、本稿を読んでいただいて、回心されることはないだろうが、言うべきことを言うだけなのである。
 最近、氏の著作の信奉者の著作に出会って、言い足りないことがないように、あえて書き足したものである。

*幻の学芸員発言~氷山の一角、躓けない躓き石
 「鉄」132ページの五.六の論理は、氏自身の調査でなく、『別人が三丸「学芸員」から得た伝聞で証拠にも何にもならない』。「学芸員」ご当人には迷惑だろうが、氏が論拠としたのでやり玉に上げた。ご不満は長野氏にお願いしたい。(「三丸」(さんまる)は、高名な特別史跡「三内丸山 遺跡」の愛称であるが、ここでは常設展示を備えた「縄文時遊館」の説明員の意味と解する)

 長野氏の浅薄な古代史知識で古代文書の真意が理解できないのは、何とも致し方ないが、専門家たるべき「学芸員」の考え違いは、何とも「もったいない」と言わざるを得ない。

 一方、氏は「学芸員」の発言を「誰か」(人名は書かれているが)人づてに聞いて、つまり、伝聞・風聞の二重錯誤で納得しているのだが、要するに、伝えた「誰か」の意見に安直に基づいて判断しているのであり、史学の原則に外れた邪道と言わざるを得ない。いわば、遙か上空から見おろして、低空の報告者の意見を、途中の中継者の意見として聞いているのだが、それぞれ空中を気ままに浮遊しているだけで、肝心の地上の実相は、まるで伝わっていないのである。
 これは、個別の意見がどうこう言う問題ではない。史実認識の問題でも無い。氏は「空論」を弄んでいるだけなのに、もっともらしく学問めかして売り出して、読者の資金を貪っているのである。

 話を元に戻すと、「学芸員」は、当該遺跡に関して、当然、世界最高の学識を有するが、古文書に関しては門外漢、素人である。当該遺跡に存在しない古文書に関して「わからない」と言わずに錯誤を語るのは誤解拡大である。匿名だし、何しろ、あやふやな伝聞なので、ご当人に告発の手が及ぶことはないだろうが、何とか、再発防止して欲しいものである。

 正論に戻ると、古代中国で「生口」は「奴婢」と異なった環境・事物に使用され、どちらかというと、特殊な用語なので、一定の意味で使用されていない可能性が高い。一方、「奴隷」は、ありふれた、日常的な事柄であり、これらの異なった概念を同列に扱うのは、無学・無謀である。
 言葉が違うのは意味が違うからで、断じて同義語ではない。このあたり、人前で得々と喋る役所(やくどころ)の方にしては、随分不勉強そのものである。

*誤謬の発生~「奴隷」史観の病根
 長野氏の誤謬は、古代史書の用語である「生口」、「奴婢」なる「古代語」を、現代語めいた「奴隷」と同義と断言していることで、これまた、商用出版物を世人に売りつけている、言わば稼業としている方にしては、これまた、随分というか一段と不勉強というしかない。

 当方は素人で一般論しか申し上げられないが、ここで言う「奴隷」は、恐らく、文明開化以後に、本来、中東以西の世界の社会制度で馴染まれていた到来「外来語」が、古代中国の「奴隷」を上塗りしたと見え、これでは、到底、三世紀「倭人伝」の社会制度に適用できないと見る。良く言う、「時代錯誤」である。
 三世紀以前から中国に奴隷制度は普通であった事が、正史にも書かれているが、「倭人伝」では、「生口」と「奴婢」が書き分けられて、「奴隷」と同義語扱いはされていない。長野氏は、用語審議を固く忌避しているようだが、古代史解釈で不可欠な正史解釈には、精緻な論理が求められる。

 そもそも、「倭人伝」に書かれた「奴婢」は、比較的身分の低い雑用係であって「奴隷」ではないのが常識と思われる。何しろ、一千人の奴婢が「奴隷」では、国の成り行きが何一つ成り立たないのが「常識」である。「倭人伝」が説明しないのは、当時の通り相場だったからに違いない。
 氏が一顧だにしない、同時代、前代の史書によれば、「奴」「婢」は、それぞれ、男女使用人と見えるが、ここでは、それ以上追求しない。
 ここで是正しなければならないのは、氏の思考を曇らせている不適切な「奴隷」観であるが、その根底は、史実追求の際に、二千年以前の史実に直裁に迫るのでなく、遥か後世から「高みの見物」、「飛行機雲」の時代錯誤を決め込んだことにある。
 それは、ケガや病気などではないから、つけるクスリがないのである。
 要するに、ご当人が気づいて、ご自分でご自分を「是正」するしかないのである。

*最終判断~治癒されない誤謬
 長野氏の誤解の起源は、歴史科学の原則を無視し、滔々と我流を進むことにある。
 但し、「学芸員」事件でわかるように、その誤解は、多くの論者、諸兄姉に共有され、それぞれ確信して論じているから、素人の差し出口で動じまい。とは思うが、最善を尽くすものとして、素人の苦言を述べるのである。

*率直な結論
 長野氏が、かくのごとく不適正な世界観、歴史観を抱いていることは、当ブログで少なからぬ紙数を費やした著作批判で明らかと思うが、氏自身は、その史観を正当と見て、現代的な架空史観をゆるゆると貫くので、氏の著作は、それと知らずに、「首尾一貫」して誤謬の森を進み、所論は根拠を持てず、必然的に信用できないことになる。これが最終判断である。

 もちろん、各読者諸兄姉が、氏の著書を全て確認した上で、氏の所論を全面的に支持するとしても、それは本論と別の話である。

                                                      以上

新・私の本棚 古田史学論集 24 正木裕 改めて確認された「博多湾岸邪馬壹国」 補充 1/3

 古代に真実を求めて 俾弥呼と邪馬壹国 明石書店                       2021/03/30 
私の見立て ★★★☆☆ 堅実な論議が学界ぐるみの時代錯誤の側杖(そばづえ)を食っている。 2022/05/16 2022/11/10
 
◯はじめに~問題提起のきっかけ
 当記事は、古代史学界の時代錯誤の改善を提言しているのである。要するに、「シンポジウム」に集結されている学界諸兄姉の「用語」誤謬を指摘しているものである。これに対して、正木氏の記事は、言わば、引用による事実報告であるから、正木氏には、その用語に責任は無い。
 記事の主旨を読み分けて、以下の指摘の重さを感じ取って頂ければ、幸いである。

*引用と批判~「都市」の三世紀闖入と蔓延
 二〇一八年十二月に大阪歴史博物館で開催された「古墳時代における都市化の実証的比較研究」総括シンポジウムにおいて、福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄氏らにより、弥生時代終末期から古墳時代初頭の三世紀にかけて、全国でもっとも都市化が進んだ地域は、JR博多駅南の那珂川と御笠川に挟まれた台地上に広がる比恵・那珂遺跡地域であり、「最盛期には百ヘクタール前後以上(*比恵遺跡は六十五ヘクタール、那珂遺跡は八十三ヘクタールとされ、合計は吉野ケ里遺跡の四倍にあたる)の集落範囲があり、遺跡密度も高い、他の地域を圧倒する巨大集落」(久住)だったとされている。

*コメント
 以下は、当ブログ筆者たる素人の所感で行き届かない点もあるはずだが、それはさておき、まずは素人の見識に基づく疑念を表明する。

*用語の時代錯誤
 古代史論では、当時存在しなかった用語、概念を「安易に」導入すべきでない、と見ると現代的な「都市」は、古代史に於いて、まことに場違いである。つまり、ご主張の理解は、大変困難である。(不可能という趣旨である)
 現代「都市」は、高層ビル、道路、電車、水道、電信、電話を具備した大きな「まち」であり「弥生時代終末期から古墳時代初頭の三世紀にかけて」どころか江戸時代にも存在しなかった、時代錯誤の白日夢としか見えない。
 古代史で、「都市」は、「倭人伝」の都市大夫牛利に示される「市」(いち)を総(都)べる有司・高官と解される。あるいは、要地に常設された「市」(いち)の主催者かも知れない。現代語の「都市」とは、全く無関係と見える。
 「都市化」と言うと当世流行りの「すらすら」解釈に呑まれて時代錯誤となる。因みに、「倭人伝」を基盤とすると「都市化」は倭大夫に化することである。何やら、薄ら寒くなる混乱である。

*是正の勧め~未来への遺産
 この用語輻輳の解消策として、一捻りして「都會化」と古代に常用されなかった単語を、この場に転用すれば、忌まわしい錯誤感が緩和される。今からでも遅くない、学会ぐるみの「時代錯誤」を解消して、俗耳に訴える小気味よい「美辞麗句」を遠ざけることである。

*古代史に対する「都市」の侵入
 明治以降、地域を越えてギリシャ「都市国家」なる外来語が導入され、先哲は、強い抵抗を感じつつ後生の猛威に負けたようである。つまり、中国古代の聚落国家を理解するために対比する概念として、あくまで方便として認められたのである。ただし、認められたのは、ギリシャ風の「都市国家」であって「都市」を認めたものではない。そして、本題で取り上げている現代語「都市」が、どうして古代史用語となったのか、初学の素人は知らない。

*当ページのまとめ
 本項は、考察の手掛かりとした正木氏の論考に異を唱えるものではない。また、担当部門から示された「御国自慢価値観」について批判しているものではない。単に、「都市化」なる造語の不具合を批判するのにとどまっているので、よろしくご理解いただきたい。

                           続く

新・私の本棚 古田史学論集24 正木裕 改めて確認された「博多湾岸邪馬壹国」補充 2/3

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*関連資料評
Ⅰ.古代の宮都 (奈良県立橿原考古学研究所)
「飛鳥の宮」 宮都とは、もともと「宮室、都城」を略した言葉です。宮室は天皇の住まいを意味し、都城はそれを中心とした一定の空間のひろがりを示しています。古代の宮都は、政権の所在地であるとともに、支配力の絶対性を象徴する存在でもありました。飛鳥時代になると、わが国は中国から新しい制度を取り入れ、「律令国家」とよばれる新しい国づくりをめざします。そのため、古代の宮都の変遷には、当時の支配者の意図が如実に反映されることとなり、古代国家の形成過程が具体的にあきらかとなります。

*コメント
 「宮都」は橿考研造語ではないが、中国古典書に出典が見当たらず、「宮室」「都城」の解釈に「和臭」が漂って「定義」が不明瞭である。

 「宮室、都城」と言うが、それぞれの単語の意義が吟味されていない。「宮室」は「宮」の一室でしかない一方、「都城」は隔壁集落の一形態であり特段の機能を示していない。つまり、当該政権支配者の居処とは見て取れない。「都城」の「都」に、天子の権威を見たくても、中国古代史で普遍的に支配的な解釈とは見えない。

 要するに、折角の絵解きであるが、大小長短に差異のある二概念を一括りにして何かを示すのは、学術用語として大変不可解である。

 案ずるに、諸兄姉は、「京都」なる中国語成句が、国内史では平安京に固く連結しているので、同義と見た「宮都」に回避したのだろうが、検討不足と見える。

 要するに、素人目には、「宮都」は、(中国)古典書に確たる用例の無い、国内史学会自家製「新語」、手間味噌造語と感じたが、素人ならぬ中国史学界の権威から、別途異議が提示されているので、続いて紹介する。

 なお、この「新語」は、三世紀に対して不整合であるが、この点は別義とする。

*「物々しい造語」の空転
 それにしても、「支配力の絶対性を象徴する」とは、物々しく、意味不明な概念であり、なぜ普通の言葉で言えないのか不審である。何か、業界の申し合わせでもあるのだろうか。
 「宮都」を根拠として「政権」が確立して、「支配範囲」に対抗者がなければ、自然に「絶対性」が見えるが、所詮、「支配範囲」の外は保証の限りでない「井蛙」の世界観である。但し、善悪の評価は別義とする。

 端的に言うと、藤原京、平城京、長岡京時代に続いて千年を閲した平安京時代のどのような状態を指して、「宮都」というのか、少なくとも、素人には大変不明瞭である。まして、
 論じる時代の「世界観」の等身大、同時代の理解がないと、いかなる比喩も空を切る。それには、不当な造語を、何としても避けるべきである。
 当記事筆者の勝手な「意見」を、諸兄姉に返させていただく。

                                未完

新・私の本棚 古田史学論集24 正木裕 改めて確認された「博多湾岸邪馬壹国」補充 3/3

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*関連資料評
Ⅱ 唐長安城および洛陽城と東アジアの都城 王仲殊 中国社会科学院考古研究所
 掲載誌 東アジアの都市形態と文明史 巻21 ページ411-420   2004-01-30
 中国古代の長安や洛陽などの都は「都城」と称されるが、1960-70年代に日本の研究者は改めて「宮都」という用語を作り出し、これを以て日本の藤原京・平城京・長岡京・平安京を呼ぶ。80年代以降、一部の研究者は、日本の都が一貫して羅城をめぐらせないので、「都城」という用語をそれらに使えないと主張し、専ら「宮都」の用語で藤原京・平城京・長岡京・平安京を呼ばなければならないと強調している。

 ところが、『日本書紀』の記載によれば、天武天皇十二年(683年)十一月に「凡そ都城・宮室は一処に非らず、必ず両参を造らむ」という詔がある。又『続日本紀』桓武天皇延暦三年(784年)六月の条に「都城を経始し、宮殿を営作せしむ」という記事もある。つまり当時の日本の朝廷の規定により、藤原京・平城京・長岡京・平安京などの都がすべて「都城」と呼ばれるのは疑いもない事実である。それゆえ、「宮都」という新しい用語に慣れない私はやはり、中国の長安・洛陽などの都城と同様に、日本の藤源京・平城京・長岡京・平安京をそのまま「都城」と呼ぶことにする。

*コメント
 時制が不確かであるが、要は、王仲珠氏見解は、国内史家の言う「宮都」は古代史用語として「不適切」ということである。言い回しは柔らかであるが、其の実は、決然たる否定と見える。
 因みに、「羅城」を巡らしていなければ「都城」と言えないというのは、恐らく、「国内」基準であり、素人目には、根拠不明の強弁と見える。中国基準では、「國邑」は、城壁で囲まれていなければならない、つまり、そうでなければ、侵入者を排除できないので、生存できないというのが当然であるが、「倭人伝」は、倭人の國邑は、必ずしも城壁で囲まれていないと認めているから、上記は必須ではないのは明らかである。

 その点を、王仲珠氏は、国内史料を参照しつつ指摘しているのだが、国内史学界は、頑冥で耳を貸さないようである。

◯本件総評
 正木氏が、本稿で提示された「卑弥呼の宮都」は、率直に言って、国内史学界に巻き込まれて迷走しているようである。
 まず、本件は三世紀記事で在るから、時代相応に、つまり、中国史学用語で解釈すべきである。
 世上、「倭人伝」で、「女王之所都」は「女王の都とする所」と解されているが、正史「倭人伝」で東夷蕃王「都」は場違いであり、「女王之所」が妥当である。「宮都」自体、二十世紀に発明された、六世紀対象の造語で在るから、当然、三世紀に波及できない。また、卑弥呼居処は、「都城」であったと証されていない。

 種々考察したが、卑弥呼「宮都」は、二重の錯誤である。と言うことで、正木氏が採用した「卑弥呼の宮都」と言う言葉は、重ね重ね不合理であり、総じて撤回された方が良いと思うものである。理由は、以上で説明を尽くしたものと思う。

*用例批判
 参考までに、「中国哲学書電子化計劃」検索で、「宮都」らしき用例は、二例である。
 用例が「あるではなないか」と声がありそうだが、古典書以来僅か二例で、しかも、正史でなく権威の乏しい文献であるから、三世紀時点には、典拠として起用されていなかった証左である。

 一例目は、とかく疎漏の目立つ「御覧」所引であり、出典正史には見当たらない。出典があれば用例となるから、出典不明なのは「御覧」でしばしば見られる空引用の証左である。
《太平御覽》 《咎徵部三》 《風》
《陳書》曰:陳文帝天嘉三年…[改行]又曰:天嘉六年…[改行]又曰:后主至德年…明年,陳亡[改行]又曰:隋文帝開皇中,宮都大風,發屋拔木
 「御覧」所収「陳書」に、後世の隋文帝記事があるのは、ここでは批判しない。隋文帝都城大興城(長安)全体で、建屋が飛んだとか、木が根こそぎとか、大災害で、「文帝獨孤皇后干預政事,后宮多有濫死,又楊素邪佞」と不穏な政情を招いただろう。いずれにしろ、これら記事が陳書のどこにあるのか、見つからなかった。
 いずれにしろ、「御覧」は、全体として分量、紙数を積み重ねることを至上命令としていたと見え、取材で得られた史料を嚴に批判して「ジャンク」や「フェイクニュース」を峻別するのを怠っているから、正史などの精選史料と同列に論ずるのは、大変な間違いなのである。

 二例目は、下記を「三十六宮都是春」と解すのは不適当で、「三十六宮、都(すべて)是春」が妥当である。
 《朱子語類》 [金] 1270年 《程子之書一》 『天根月窟閑來往,三十六宮都是春』
 先の「女王之所都水行...」を、「女王之所」、「都(すべて)水行...」と解すのと同様の文型と見える。

 当史料も、権威を備えているかどうか、慎重な検証が必要であるが、文意を解する限り、天の「三十六宮」』は、天が順次運行して健(すこ)やかに春を迎える(天行健なり)の趣旨と見える。つまり、ここに述べた解釈で意を尽くしていると見える。

 して見ると、「宮都」なる漢語は存在しないから、第一例も、「宮すべて」の意味で書かれているのかも知れない。
 要するに、「宮都」は幻影である。

 用語検索は、的が外れて転んでも、ただでは起きないのである。
                               以上

2022年11月 8日 (火)

私の意見 「卑弥呼王墓」に「径」を問う 1/2 補追

  字書参照、用例検索  2021/08/19 補記 2022/11/08

〇倭人伝の道草~石橋を叩いて渡る
 まず、倭人伝の「卑彌呼以死,大作冢,徑百餘步」の「徑」は「径」と、「步」は「歩」と同じ文字です。
 世上、ここで、『「冢」は円墓、「径百余歩」の「径」は、直径、差し渡し』との解釈が「当然」となっているようですが、(中国)古典書の解釈では、日本人の「当然」は、陳寿の「当然」とはしばしば異なるので、兎角「思い込み」に繋がりやすく、もっとも危険です。以下、概数表記は略します。
 当方は、東夷の素人であると自覚しているので、自身の先入観に裏付けを求めたのが、以下の「道草」のきっかけです。

〇用例検索の細径(ほそみち)
*漢字字書の意見
 まずは、権威のある漢字辞典で確認すると、「径」は、専ら「みち」、但し、「道」、「路」に示される街道や大通りでなく「こみち」です。時に、わざわざ「小径」と書きますが、「径」は、元から、寸足らず不定形の細道です。

 ここで語義探索を終われば、「径百余歩」は、「冢」の「こみち」の行程が百歩となります。つまり、女王の円墳への参道が、百歩(百五十㍍)となります。榊原英夫氏の著書「邪馬台国への径」の「径」は、氏の深意かと想ったものです。
 それは、早計でした。漢字字書には限界があって、時に(大きく)取りこぼすのです。

*古典書総検索
 と言うことで、念入りに「中国哲学書電子化計劃」の古典書籍検索で、以下の用例観を感じ取りました。単漢字検索で、多数の「ヒット」がありますが、それぞれ、段落全体が表示されるので、文脈、前後関係から意味を読み取れば、勘違い、早とちりは発生しにくいのです。

*「径」の二義
 総括すると、径(徑)には、大別して二つの意味が見られます。
 一に、「径」、つまり、半人前の小道です。間道、抜け道の意です。
 二に、幾何学的な「径」(けい)です。
  壱:身辺小物は、度量衡「尺度」「寸」で原則実測します。
  弐:極端な大物は、日、月ですが、当然、概念であって実測ではありません。
 流し見する限りでは、円「径」を「歩」で書いた例は見られません。愚考するに、歩(ぶ)で測量するような野外の大物は、「円」に見立てないもののようにも思えます。
 つまり、「歩」は、土地制度「検地」の単位であって、「二」の壱、弐に非該当です。史官陳寿は、原則として先例無き用語は排します。従って、「径百余歩」の語義を確定できません。

*専門用語は専門書に訊く~九章算術
 以上の考察で、「九章算術」なる算術教科書は、用例検索から漏れたようです。「専門用語は、まずは専門辞書に訊く」鉄則が、古代文献でも通用するようです。
 手早く言うと、耕作地の測量から面積を計算する「圓田」例題では、径、差し渡しから面積を計算します。当時、「円周率」は三です。農地測量で面積から課税穀物量を計算する際、円周率は三で十分とされたのです。何しろ、全国全農作地で実施することから、そこそこの精度で、迅速に測量、記帳することが必要であり、全て概数計算するので、有効数字は、一桁足らずがむしろ好都合であり、「円周率」は、三で十分だったのです。言うまでもないのですが、耕作地は、ほぼ全て「方田」であり、例外的な「圓田」は、重要ではないのです。また、円形の耕作地は、牛の引く牛犂で隈なく耕作することは不可能であり、従って、円形の面積そのまま全部耕作することは不可能でしたから、その見地からも、「円周率」は、三で十分だったのです。
 当時は、算木操作で処理できない掛け算や割り算、分数計算は、高等算術であり、実務上、不可能に近い大仕事です。

 それはさておき、古典書の用例で、「径」「歩」用例が見えないのは、「歩」で表す戸別農地面積は、古典書で議論されないと言うだけです。
 個別耕作地は、田地造成の際の周辺事情、特に、影やら窪地の取り合わせで円形になっていることもありますが、行政区画には、円形は一切ないのです。
 このあたりに、用例の偏りの由来が感じ取れます。
 上級(土木)で墳丘の底部、頂部径で盛土量計算の例題が示されています。

 以上で、「冢径百余歩」は、円形の冢の径を示したものと見て良いようです。

                                未完

私の意見 「卑弥呼王墓」に「径」を問う 2/2 補追

 幾何学的考証、「方円論」         2021/08/19 補追 2022/11/08

〇幾何学的考証
 以下、「冢径百余歩」が幾何学的「径」と仮定して、考証を進めます。

*径は円形限定
 「径」は、幾何学的に円形限定です。学術用語定義ですから、曖昧さも曲筆もありません。
 幾何学図形の形状再現は、普通は困難ですが、円形は、小学生にも可能な明解さです。五十歩長の縄一条と棒二本で、ほぼ完璧な「径百歩」円を描き、周上に杭打ち縄張りして正確な円形が実現できます。
 対して、俗説の「前方後円」複合形状は、「径」で再現可能という必須要件に欠け、明らかに「円」でないのです。
 たしか、「方円」は、囲碁で方形の盤に丸石を打つのを言うと記憶しています。

*「前方後円」談義~余談
 俗説が引き出している「前方後円」は、倭人伝どころか、中国古典書にない近代造語のようなので、本件考察には、全く無用と感じられます。
 古典書用例から推定すると、「前方後円」は、かまぼこの底面を手前にして立てたような形状と見え、位牌などで、前方、つまり手前は、方形の碑面で、後円、つまり奧は、円柱形で位牌を安定させる構造とも見えます。この場合、前方部は、参拝者の目に触れるので、高貴、高価な材料として、銘文を刻むとしても、後円部は、人目に触れにくいので、それほど高貴でないものにすることができます。
 と言うことで、目下審議中の墳丘墓の形状とは無関係なので、場違いであり、用例とならないのです。

 復習すると、「前方後円」なる熟語は、同時代には存在せず、恐らく、近現代造語であり、いかにも非幾何学用語であり、学術的に不適切なので、いずれ、廃語に処すのが至当と考えます。少なくとも、中国古代史書論義には、無用のものです。
 丁寧に言うと、「前方」部は、方形でなく台形で、通称として俗に過ぎます。

 いずれにしろ、「前方後円」形状に「径」を見る、後代東夷の解釈は不当であり、これを三国志解釈に持ち込むのは、場違いで、不当です。

*矩形用地の表現方法
 かかる墳丘墓の規模を、実務的に形容するには、まずは、用地の縦横を明示する必要があります。そうすれば、用地の占める「面積」が具体化し、造成時には、土木工事に通暁した実務担当者により、用地相応の作図がされ、古典的手法で、円部の盛り土形状と方部の形状が算定でき、これによって盛り土の所要量が算定でき、最終的に、全体の工事規模、所要労力・期間が算定できる、まことに有意義な形容です。
 「九章算術」は、矩形地の例題では、幅が「廣」、奥行きが「従」で、面積は「廣」掛ける「従」なる計算公式を残しています。
 「径百歩」では、用地の面積が不明です。「廣」を円径とした盛り土量は計算・推定できますが、「従」から「廣」を引く拡張部が形状不明では、何もわからず、結論として、「冢徑百餘步」は、ものの役に立ちません。
 結論として、円形土地を径で表すのが、定例・定式であり、これに対して、台形土地を足した土地は、径で表せないので定式を外れた無法な記述と断じられます。

*「冢」~埋葬、封土の伝統
 「倭人伝」記事から察するに、卑弥呼の冢は、封土、土饅頭なので、当然、円形であり、通説に見える「方形」部分は「虚構」、「蛇足」と見ざるを得ません。丁寧に言うと、「蛇に足を書き足すと、蛇ではなくなる」という「寓話」です。
 史料記事に無い「実際」を読むのは、不法な史料無視であり、かかる思いつき、憶測依存は、端から論考の要件に欠け、早々に却下されるべきです。箸墓墳丘墓が卑弥呼王墓との通説には、早々の退席をお勧めします。

*是正無き錯誤の疑い
 以上の素人考えの議論は、特に、超絶技巧を要しない考察なので、既に、纏向関係者には衆知と推察しますが、箸墓卑弥呼王墓説が、高々と掲げられているために、公開を憚っているものと推察します。

*名誉ある転進の勧め
 聞くところでは、同陣営は、内々に「箸墓」卑弥呼王墓比定を断念し、後継壹與王墓比定に転進しているようです。壹與葬礼は記録がなく安全です。

                                以上

2022年11月 3日 (木)

今日の躓き石 プロ野球日本一の「野牛 勇者」の「メジャー失格/人間失格」宣言

                     2022/11/03

 今回の題材は、プロ野球NPBの日本一チーム「野牛 勇者」の殊勲選手のつまらない失言不用意なNHK報道である。

 多分誰も教えてくれなかったのだろうが、「リベンジ」、「revenge」は、日本以外では、大変罰当たりな言葉で、米国メディアのインタビューで口走ると、大変な顰蹙を買うのである。何しろ、「血なまぐさい復讐」、「天誅」を言い立てる罰当たりな言葉であり、キリスト教をはじめ、中東起源の世界宗教では、私的な復讐は、絶対神によって、厳重に禁止されているから、自動的に罰当たりなのである。人前で自慢げに言い放って良い言葉ではない。
 何しろ、世界で横行している「テロリスト」は、罰当たりな不信心者などではなく、絶対神に代わって制裁している正当な「信者」である。

 このあたり、そのような教えを耳にしていない大半の日本人は、言わば無縁の衆生なのだが、この世界で生きていく以上は、知らないでは済まない、無視してはならない重大な「契約」事項である。

 まして、今回のシリーズ制覇は、別に「だまし討ちされた仕返し」でも、「当然勝つと思っていたのに脚をすくわれて恥をかかされた報復」でもなく、要は、力が及ばずに負けたが、今年は、幸運にも力を出し切って勝ったのであって、互いに正正堂々の勝負だから、負けた方も、一切、恨みなど残してはならないのである。せいぜい、「リターン(マッチ)」とでも、しゃれて見せるしかないのである。

 と言うことで、野牛軍団の優秀選手はMLB志望のようであるから、移籍先で、考え違いのつまらない暴言で顰蹙を買わないように厳重に注意することである。日本選手が不法に復讐を仕掛けたら、それこそ、「人間失格」宣言であるから、天に代わって仕置きしても許されるということになりかねない。

 このあたり、どうも、女子野球チームとの交流試合で猛打賞を得た「怪物」が言い出した(ダイスケ)「リベンジ」の変異体のようだが、学生野球の指導者が、悪乗りしてご丁寧に教え込んでいるようだから、NPBでは、人生経験豊富で知恵の深い監督、指導者が、最優先事項として、こんこんと教育指導すべきである。もちろん、球団の広報担当は、こうした「禁句」を知り尽くしているのだろうが、今回のように当人が無造作に放言しては、何とも止めようがないのである。もったいない話である。

 それにしても、いくら談話の引用とは言え、公共放送NHKが、このような問題発言を、堂々と定時ニュース枠で報道するとは、どういうことなのだろうか。一度電波に乗って広がった言葉は、はっきり否定しない限り、長く人の心に汚れたシミを残すのである。是非とも、このような罰当たりな言葉の普及に手を貸さないようにお願いしたいものである。

*余談 嘆かわしいNHKの汚染体質
 つまらない余談かも知れないが、NHKには「リベンジ」愛好家がいるようで、郷ひろみドラマの番組宣伝で、「リベンジマッチ」なるドギタナイ惹き句が、公共放送の画面に踊っているのは、何とも、残念である。これでは、まるで、名画に泥団子をぶつけているようで、みっともない。出演者当人に責任は無いので、大変気の毒だが、NHKのご乱行で、全国に汚名を被るのは当人である。

以上

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