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2022年11月21日 (月)

新・私の本棚 番外 サイト記事批判 「弥生ミュージアム」倭人伝 再掲 6/6

弥生ミュージアム 倭人伝  2019/11/15
私の見立て ★★★☆☆ 大変有力 但し、「凡ミス」多発     追記 2022/11/21

*台所事情談義
 「三角縁神獣鏡」は、在来品の1.5倍の外形であり、新作したとすると、まずは、三倍近い銅材料を必要とし、又、制作するに当たって、それまでに貯えた型や型紙が使用できないのです。
 先立つ、後漢末期の献帝即位の時、時の支配者であった董卓による長安遷都の暴挙とそれに続く長安での国政混乱から、後漢皇帝の指示で尚方が皇帝御用達の装飾品を謹製する事は絶えていて、お抱え職人は浮浪者と化していたものと推定されます。
 ともあれ、曹操が自陣営に皇帝を採り入れて、ついには、洛陽に魏朝を創設したのですが、その際、「禅譲」のならいとして、諸官、処理を悉く引き継いだものでしょうが、何しろ、一度、董卓の暴政で壊滅した洛陽の諸機関は、どこまで復元していたか不明というところです。
 いや、魏志は、後漢末期の無法な時代を回復した、曹魏を肯定するために編纂されたので、文帝曹丕、明帝曹叡時代の雒陽の惨状をありのままに書き残してはいないのですが、想定するのは、さほど至難ではないのです。

 かくして、未知の形状、意匠の大型銅鏡をあらたに設計し大量製作するには、試行錯誤の期間を含めて、数年で足りないほどの多大な準備期間と熟練工の献身を要し、更に「量産」が順調でも、仮に一日一枚採れたとして百枚制作に百日を要するという多大な製作期間を足すと、とても、一,二年で完了するとは思えないのです。夢物語でしょう。又、非常時の窮乏財政で、そのような大量の銅素材を、敵国「東呉」から如何にして購入したのかも不審です。
 無理の上に無理の上塗りです。
 因みに、世にある「不可能ではない」とする議論は、まことに不合理です。空前の難業をこなして、一介の東夷の機嫌を取るためだけに大量の銅鏡を新作し、あろうことか無償供与し、多額の国費を費やして、現地まで届けることなど、全くあり得ない、と言うのが最大の否定論です。
 いや、天子の恩恵ですから、自前でやってこいとか、自力で持って帰れなど言うことはないのですが。

正始元年(*58)、帯方太守弓遵は、建中校尉梯儁らをつかわし、この詔書と印綬をもって倭国に行かせた。使者は、魏の(小)帝の使者という立場で、倭王に謁し、詔書をもたらし、賜物としての金帛・錦 ・刀・鏡・采物を贈った。倭王はこれに対し、使者に託して魏の皇帝に上表文をおくり、魏帝の詔と賜物に答礼の謝辞をのべた。
(*58)魏の(小)帝の年号(二四〇)。
 「正始」は、景初三年元旦に逝去した先代明帝の後継皇帝曹芳の年号です。ひょっとして、先帝の謬りを正す新代の始まりという趣旨でしょうか。
 明帝存命なら、この年は景初四年ですが、既に一年前から景初に四年はないと公布されていました。

同四年
(中略)掖邪狗らは、率善中郎将の印綬を授けられた。同六年、少帝は詔して、倭の使者の難升米に、黄色の軍旗をあたえることにし、帯方郡に託して、これを授けさせた(*61)。 (中略)
同八年(中略)太守は塞曹掾史張政(*63)をつかわし(中略)た。その後、卑弥呼が死んだ。大いに(多いに冢を作りその径は百余歩(*64)、(中略)卑弥呼の宗女である年十三の壹与(*65)を立てて王とし、国中がようやく治まった。(中略)
(*64)卑弥呼のとき、すでに古墳時代に入っていたかどうかが大問題。(中略)一〇〇余歩とあるから一五〇メートル前後の封土をもっていたことになる。ただし最近では、古墳の成立を三世紀半ばまで遡らせる学説がある。
 他ならぬ「倭人伝」によれば、「冢」は「封土」、つまり単なる盛り土である。既定敷地、つまり、先祖以来の墓地での没後造成であり、さまざまな要因から未曾有の規模になることはあり得ないのです。
 後世の墳丘墓は、まず間違いなく、長期間の計画的造成(用地選定、構造設計、担当部門の設定、費用、人員動員の振り分けなどに始まる、巨大な事業となる)の可能な「寿陵」です。
 当然、未検証学説は、世に山成す「学説」にまた一つ加わった「単なる作業仮説」(ゴミ)に過ぎないので、「大問題」などと、ことさらに誹謗してまで取り上げるのは、学問の世界として不適切です。現に、山ほどある他の作業仮説は、悉く無視しているではないですか。不公平です。
 因みに、当時の人々は、「古墳時代」など知らず、もちろん、「古墳」など知らなかったのですから、空論です。
 「径百余歩」が、どんな形容であったのか、時代考証が欠けていますが、遺跡考古学者は、中国古代文書の知識が無く、古代文書に精通した史学者は、遺跡、遺物の見識に欠けているので、「冢」に関して考察するには、相互研鑽が不可欠のように見えます。

(*65)『北史』には「正始中(二四〇~四八)卑弥呼死す」とある。『梁書』『北史』『翰苑』などでは、壹与ではなく臺与とあって、イヨでなくトヨだとも考えられる。これは邪馬壹国と邪馬臺国の問題とも共通する。
 『現存史料』と『不確かな佚文に依存し編纂経緯も不安定と定評のある「北史」』などの後世史書とを同列に対比するのは不合理である点で、見事に「共通」です。不確かな情報を積んでも、単に、「ジャンク」、「フェイク」の山では、提示した方の見識を疑われるだけです。
 古代史学が「学問」として認められたければ、決定的な判断ができないときは、現存史料を維持する態度を守るべきではないでしょうか。

現代語訳 平野邦雄

*まとめ
 ご覧のように、本文と注釈の双方に注文を付けているのですが、どこまでが平野氏の訳文か不明です。従って、氏の訳文と見られる中の誤字などは、誰のせいなのかわからない物です。資料写真は、誰の著作物、責任か不明ですから、宮内庁蔵書影印の著作権表記の錯誤は、誰の責任か不明です。

*品質保証のお勧め

 因みに、以上の解説文は、近来放棄されているはずの「仮説」を踏まえて書かれているように見えるので、内容を更新するか、あるいは、
「現代語訳」は、****年時点の平野邦雄氏の見解であり、現時点でその正確さを保証するものではありません。
 と解説すべきと思われます。

 当たり前のことを言うのは僭越ですが、サイト記事の著作権等を主張するのであれば、第三者著作の範囲と権利者を明確にすべきと思います。第三者著作物や公的著作物に著作権を主張するのは、犯罪です。
                                以上

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