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2022年11月21日 (月)

新・私の本棚 番外 サイト記事批判「弥生ミュージアム」倭人伝 再掲 4/6

弥生ミュージアム 倭人伝  2019/11/15
私の見立て ★★★☆☆ 大変有力 但し、「凡ミス」多発     追記 2022/11/21

*承前
帯方郡からの道里を計算すると、倭は会稽郡や東冶縣(*33)の東にあることになろう。 (中略)
(*33) 現在の福建省福州の近くの県名。
 南宋刊行の「倭人伝」には「会稽東治」と書かれていて、郡、県と書いていないので、この議論は確定しません。
 いずれにしろ、広大かつ高名な会稽郡と同郡の僻南であって、知る人も希な、到達困難地域である「県」を、陳寿ほどの史官が「や」で同列に置くはずは無いのです。こじつけではないでしょうか。
 因みに、「東冶」は、三国時代の一時期の県名であり、現存しているわけではありません。抜粋引用のもたらす錯誤です。「現在の」は、「福州」の形容に過ぎません。

死ぬと棺に納めるが、槨(*35)は作らず、土を盛り上げて冢をつくる。(中略)
倭人が海を渡って中国に来るには、つねに一人は頭をくしけずらず、しらみも取らせず、衣服は汚れたままとし、肉を食べず、婦人を近づけず、あたかも喪に服している人のようにさせて、これを持衰(*36)と名づける。もし、航海が無事にゆければ、かれに生口・財物を与え、もし船内に病人が出たり、暴風雨に会ったりすれば、これを殺そうとする。つまり持衰が禁忌を怠ったからだというのである。(中略)
(*38)倭人中の大人。この部分を「便ち大倭のこれを監するに、女王国より以北に一大率を置き・・」と続けて読み、大倭を邪馬台国の上位にある大和朝廷であり、一大率も朝廷がおいたとする説があるが、これは無理。(中略)『後漢書』では「大倭王は邪馬台国に居る」と記している。(中略)
 暴論としてやり玉に挙がったとは言え、三世紀の中国史書に、遙か後世の「大和朝廷」の前身を見るのは、白日夢にしても無残です。こじつけのためには、改竄、誤釈言いたい放題というのは、「倭人伝」解釈という学問的な分野に、家庭ゴミを投棄する類いであり、毎度目にするたびに気が重く、いっそ、国内史料立ち入り禁止としたくなるほどです。
 如何に「無理な」暴論相手でも、『後漢書』に依拠して「倭人伝」を否定して良いものでしょうか。「倭人伝」には、何も書いていないということですか。
 ともあれ、裏方に回った平野氏共々、誠にご苦労なことと推察します。

その国は、もとは男子を主としたが、七~八十年ほど前、倭国が乱れ、何年もお互いに攻め合ったので(*41)、諸国は共に一女子を立てて王とした。これを卑弥呼(*42)という。彼女は神がかりとなり、おそるべき霊力を現した。すでに年をとってからも、夫をもたず、弟がいて、政治を補佐した。王となってから、彼女を見たものは少なく(中略)
 「...ので」と続けても、何も論理の繋がっていないのが難儀ですが、「諸国」が共立したという記事は、「倭人伝」になく、単なる臆測、希望的観測でしょう。
 それにしても、ただの人が「神がかりとなり、おそるべき霊力を現した」とは書いていません。無理そのもののこじつけに思えます。「霊力」は、誰も見たことがないので、不可解です。また、曹魏の創業者曹操は、迷信を忌み嫌っていたと知られています。もちろん、「倭人伝」は、魏晋代の史官である陳寿が、身命を賭して、つまり、心から納得して書いたものですから、「怪力乱神」を書くはずがないのです。
 「すでに年をとってからも」の「すでに」が趣旨不明です。「すでに年長けたが」位が妥当では無いですか。又、末尾の「も」も、余計です。単に、「ついに配偶者を持たなかった」位が穏当では無いですか。
 常識」的に考えて、「一流の家に生まれ、生まれながら神に仕えて独身を守った」と見るべきではないでしょうか。そのような「聖人」だから、私心のない人として信頼されたのではないでしょうか。普通に考えると、そのように見えます。
 「見たもの」と言うのは、「見」の趣旨を失していて、国王に「接見したもの」とする方が良いのでは無いですか。何か、支離滅裂に見えます。
 あることないことというのはありまずが、訳文と称して、原史料に無いことの連発は、古代史学の取るべきみちではないでしょう。

これらを含めて倭地の様子を尋ねると、海中の島々の上にはなればなれに住んでおり、あるいは離れ、あるいは連なりながら、それらを経めぐれば、五千余里にもなるだろう。
 この部分は、既説の狗邪韓国以来の「倭地を巡訪する道里」を、切り口を変えて言っただけです。字句をそのまま読めば、狗邪から海中の二島を渡海(計三千里)で歴て陸地に達し、以下陸地を倭都まで通算五千里」と単純明解ですが、勿体ぶった訳文が、かえって意味不明にしています。陳寿は、皇帝始め、読者として想定した読書人が、多少の勉強で読解できるように、明解に書いたはずでしょう。

                                未完

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