新・私の本棚 季刊「邪馬台国」第12号 「邪馬台国の里程」 白崎 昭一郎 再掲 3/5
季刊「邪馬台国」第12号 梓書院 昭和五十七年五月刊(1982年)
私の見立て ★★★★☆ 理知的な解釈で、範とすべきもの 2018/09/18 追記2020/11/18 2022/01/27,11/06,12/25
*余里の使命
素人考えを率直に言わして頂くと、倭人伝道里の主行程で見られる千「余」里は、千里に届かない端数を「丸めた」中心値を示したものであり、プラスもマイナスもあると理解すれば、加算を重ねても端数の累積を免れます。
また、千里の位の概数で論じる「道里行程」論に於いては、千里に満たない端数里数は、概数加算で無視できるのです。
ただし、末羅国以降の倭地の近傍の道里は、百里単位で論じられていますが、こうした近傍の百里単位の里程は、従郡至倭万二千里の内訳と別の背景で書き足されたと見るものです。
くれぐれも、文献解釈では、文脈を冷静に観察しなければなりません、
*新説の無礼ご免
白崎氏は、世上に溢れる新説の大半が「山積する先賢の論考を無視する新説」であり「無礼」と断じ、およそ新説の提示に載しては、先賢所説を論破、克服した上で行うべきだとしています。
これは、まことにもっともですが、現実には、「倭人伝」行程道里論に限っても、明確な検証が重ねられているわけではなく、世上見られる論考が、そうした正統的な論議の過程なのか、単なる思い付きなのか、素人目には、確認しがたいのです。つまり、「倭人伝」論に於いて、先行論文の指摘と克服は、実行不可能な難業です。
そのため、ここに白崎氏が述べた所説は、季刊「邪馬台国誌」という学術的な基盤に掲載された論考を批判した上に書かれたものであり、当記事で示した解釈は、力の及ぶ限り原典に密着した文献解釈から得たものですが、先賢諸兄姉は、原典解釈の段階で、根拠の無い「思い込み」に負けて、早々に異なった道を選択していることを指摘しています。
当方には、遙か別の道を行く論考を、海山隔てて論破するすべがなく、この場で失礼するのです。
*郡志論 方針
ということで、「倭人伝」道里行程記事の使命は、従来不明の「倭」(倭人)の所在、つまり、国王治の位置を記録し、最寄りの帯方郡を起点とした方位、所要日数、道里、城数、並びに戸数、口数を記した報告書「帯方郡志」の作成であり、「倭」の来歴、国王の実名と出自を述べて正史「志」篇と夷蕃伝としての「倭人伝」の要件を整えたと考えるものです。
・里数
国王治までの「萬二千餘里」は、景初二年六月の倭使帯方郡参上以前に、郡太守公孫氏から皇帝への報告に、早々と明記されていたものと思われます。この道里が、皇帝の確認を経て、公文書に記載され「史実」となったため、史官たる陳寿は、この「史実」に厳格に拘束されたと見えるのです。
・日数
海上移動の道里及び半島内部道里の所要日数は、魏の国内基準では明確ではないので、「水行」と「陸行」に大別し、最後に「都水行十日陸行一月」と総括されていて、つまり、「都」(総じて)四十日と見えます。この表記は、余り見かけないでしょうが、「倭人伝」を正直に読み進めると、こうした世界が見えてくるのです。
ここで、「水行」日数は、海上移動の道里が不確定のため、三度の渡海で十日あれは十分としたものと見えます。渡海というと物々しいのですが、要するに、塩っぱい河川を渡って向こう岸に上がる、渡船行程を三度繰り返したとしているのです。中原街道にも、渡船はあるので、読者は、特に問題視しないのです。
中国国内では、街道整備が、全国でほぼ完備しているので、「道里」、「道の里数」を言えば、簡単な計算で所要日数が概算できるのですが、街道未整備の上に、一回ごとに一日がかりの長丁場の渡船が三度入っていると、「道里」の意味はあまりないのです。従って、所要日数が肝心、というか、必須なのです。街道整備とは、所定の間隔で宿場があり、行人は、馬車移動であり、宿場では、自身の事は当然として、乗馬の蹄鉄を交換するなり、給水するなり、糧食を与えるなりして、淡々と旅を続けるのです。そのため、行程道里がわかれば所要日数がわかるのです。
東夷の地には整備された街道がなく、また、牛馬を供用していないので徒歩行が想定され、街道を「行く」のに、どれだけの日数を要するか、道里では計算できないのです。
郡から何日で倭人の王城に達するかの規定は、皇帝の威令が、最短期間で到達し、応答されることを保証するものであり、曹魏武帝曹操の確立した「国政の基幹」です。因みに、所要日数は、文書送達期限ですが、中国国内では、文書使は騎馬移動ですが、緊急文書については、疾駆移動して、日程を短縮する規定ですが、倭人に於いては徒歩移動であり、緊急文書も、同程度とされているので、文書使は、渡船上で駆け足する必要はないのです。(苦笑)
・城数
城数は、構成諸国王治三十ヵ所と判断できます。
・戸数/口数
戸数は、総戸数明記と見ますが、口数は、調べが付かなかったのでしょう。というものの、「戸数」は、現代風に言うと「世帯」を論じるものであり、つまり、「戸籍」の整備が前提であり、また、各戸に所定の耕作地が供されていて、収穫物の一部を税として上納する制度ですから、そのような土地制度が整備されていないと戸数の意義は怪しいのです。つまり、帯方郡は、倭人の社会では口数の意義がないのは承知の上で計上しているのです。
世上誤解がありますが、「倭人」が魏皇帝に忠誠を誓う以上、傘下諸国の合計戸数が「明解」に示されるべきです。「明解」とは、「倭人伝」を読みながら戸数を書き留めて加算して解答を得るもので無く、「倭人伝」の紙面に明記されているべきだという事です。因みに、「倭人伝」の對海國、一大国、末羅国、伊都国の戸数は千戸台ですから、読者は、対海国に始まる諸国戸数をすべて書き留め、加算しなければならないように見えるのですが、最後に、二万戸、五万戸と桁外れの戸数が提示され、総戸数計算に「千戸台戸数は無意味」と知れるのです。
その意味でも、読者の怒りを買わないように総戸数「七万戸」は明記しておかねばならないのです。
このように、重要情報と言っても、それぞれ優先度があり、口数のように、遂に報告できなかったものもあるのです。
因みに、帯方郡の戸数、口数は、笵曄「後漢書」に書かれていないものの、晋書には報告されていています。
総じて、正式の戸数、口数 の 集計がされたときは、一戸、一人単位の数字が計上されているのです。「数字に弱い」官人のできることではないのです。
以上、史料に根拠のない思いつきと批判されないように「倭人伝」の「方針」を論じたものです。
未完
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