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2022年12月13日 (火)

私の本棚 大庭 脩 「親魏倭王」増補  1/12

 学生社 2001年9月 増訂初版 (初版 1971年)  2018/05/26 補充再公開 2020/06/24 増補 2022/12/13
 私の見立て ★★★★☆ 豊かな見識を湛えた好著

 最初に見立てを入れるのは、以下を非難と取られたら困るからである。
◯始めに
 従来の記事では、初版年を見落とし/書き落としていたので補充する。
 氏は、倭人伝に関する論争が、さほど盛り上がっていなかった1971年に刊行し、そのために、以降の議論の紹介に欠けるのが、不満であったが、今回、執筆時点の最善の理解と見て容認していくことにした。但し、氏が、増訂時、更新していない点が多々あるのは、感心しない。

◯序章~暗夜の灯火
 本書の視点は、中国史料に基づく「倭人伝」考察であり、今日に至るも、当論争の公正な展開に欠けていると思われるのでここに顕彰するものである。
*暗愚な考古学者の文献曲読
 著者が本書を書くに到った動機は、ある古代史シンポジウムで、考古学関係者が「魏帝の詔に書かれている鏡百枚は多すぎる」と軽薄に論じたのに対して、「史書として書かれている倭人伝の皇帝の詔すら、自説の邪魔になるなら書き替えて読むという安直な暴論に対して、異を唱えねばならない」というもの(義憤というべきか)であったそうである。

*法制史の物差し
 著者は、中国法制史、つまり、各王朝の法律とそれに従って運用された政府機構のあり方を研究するのであり、本書は、そうした専門家の目で、魏志倭人伝を読み解き、我々素人にも理解しやすい書物としたものである。

*不揃いな錯覚
 冒頭、「卑弥呼と諸葛孔明」と題して、卑弥呼の時代が、蜀漢宰相諸葛孔明の時代に重なると説いている。国内古代史と中国史の関係が容易に浮かんでこないことを歎いている。おっしゃるとおりと思う。ただし、特に直接、間接の関係がないのだから、一般人の意識に上らないのは、むしろ当然である。
 ところが、直ちに『同じような錯覚が「魏志倭人伝」にもある』と書き出されたのは感心しない。今書いた認識に照らして乱暴な飛躍としかとれない。

*「魏志倭人伝」はなかったか
 続いて、中国には「魏志倭人伝」という書物はない、と書かれているが、これが「錯覚」だと解すると、著者が自己否定していることになるので、おそらく、おっしゃりたいのは『「魏志倭人伝」は国内の感覚であって、中国古代史と関係が成り立っていないから、それは錯覚である』と言うことだと思うが、「錯覚」を断じる論理が、混線して錯綜している上に不正確である。
 著者ほどの識見の持ち主にして、不用意な行文であり、また、不用意な断言である。どんな読者を想定しているのか、一瞬、見て取れなくなる。

*「倭人伝」知らずの「倭人伝」批判か
 大庭氏は、三国志現存史料のうちで、南宋時代の「紹興本」と呼ばれる版を利用しているようだが、もう一つの有力な版「紹凞本」は、「倭人伝」と小見出しを置いて区分を示し、続いて、新たな部分として「倭人伝」記事を書いているので、魏書第三十巻の巻末にあって、事実上、「倭人伝」なる「書物」として取り扱われていると見えるのである。因みに、ここでもう一つというのは、多数あるうちの一つという意味ではない。天下に、これら二本しかないのである。一読者として大いに不満である。

                               未完

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