私の本棚 大庭 脩 「親魏倭王」 増補 4/12
学生社 2001年9月 増訂初版 (初版 1971年) 2018/05/26 補充再公開 2020/06/24 増補 2022/12/13
私の見立て ★★★★☆ 豊かな見識を湛えた好著
*遼東天子~便乗
大帝国が衰亡、崩壊したから、当然、蛮夷管理も崩壊するのである。ただし、東夷の目から見ると、大帝国も遼東郡太守公孫氏の影法師であり実質はないに等しかったのである。むしろ、洛陽の天子でなく、遼東に天子が居たことになるのである。天子には、書記官がいて天子の制詔を発し、史官がいて、天子の行状を記録していたと見えるのである。
*失われた公孫氏史料
公孫氏は、最後、後漢を継いだ曹魏によって、天子に対する大逆の徒として討滅され、天子紛いの治世の記録は、全て破壊されてしまったから、以上は、後世東夷の臆測に過ぎないのだが、公孫氏滅亡後に残った楽浪/帯方両郡の行動を見ると、公孫氏の東夷管理の形が偲ばれるのである。と言うことで、一読者の感慨を締めくくることにする。
*後漢「最後の皇帝」~未曾有の「禅譲」
十年近い混乱を経て、後漢最後の復興期となる。少帝であった献帝が、僅かな側近と共に、悪党どもが徘徊し荒廃した西都長安から脱出し、東都洛陽に逃げ延びたものの支持者はなく、孤立、逼塞していた窮状であったものを、好機と捉えた英傑曹操が自陣営に迎え帝威で乱世統一を図ったのである。
後漢の最後の光芒、建安年間があったが、中原世界天下統一の完成と共に、後漢皇帝(献帝)は、その役を終え魏に政権を譲ったのである。古典的な形容としては、天命が劉氏を去り、曹氏に移ったのであり、献帝劉協は、曹氏の恩人にして賓客として生き延びたのである。
魏に政権を譲った際、光武帝が継承、再興した漢の政権機構はそっくり移管され、漢高祖以来の厖大な公文書も引き継がれたのである。
ここに「未曽有」と書いたのは、「殷周革命」に見られるように、それぞれの新興帝国は、先行政権を武力で打倒して取って代わったのであり、「禅譲」に近いのは、王莽の簒奪があっただけである。王莽は、いわば三日天下で継承されなかったから、なかったことにしているのである。
*長広舌
この部分で語られる議題はそれだけではないが、根拠史料満載だし、素人に見解を押しつけるものではないので、大変参考になる。
*古代史泰斗の所感
大庭氏のやや自由な引用で、内藤湖南氏が、「支那史学」誌に書かれた言葉として「三国志には、陳寿が参照した原資料が、削除加筆されずに原型のまま残されている箇所が多い」との趣旨で評されているとのことである。
*不明瞭な言葉の戒め
因みに、論説の道具である「多い」と言う言葉は、五を言うのか百万を言うのか読者に判断を強要する。加えて、人それぞれの感覚も作用し、不明瞭と見える。いや、これは内藤湖南氏の用語で大庭氏の感覚とも違うと思う。
結局、ここで湖南氏の言う「多い」が、どの程度のことを言うのかは「不明瞭」であるが、おそらく大半の意ではなく、散見される程度と解釈しても、目に付きやすいとの意味であると思われる。
著者は、皇帝が下した制詔の引用が「制詔」と書き出しているのは、一例としている。つまり、制詔全体が、ほぼ原史料の引用だと見ているのである。
未完
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