私の本棚 大庭 脩 「親魏倭王」 増補 5/12
学生社 2001年9月 増訂初版 (初版 1971年) 2018/05/26 補充再公開 2020/06/24 増補 2022/12/13
私の見立て ★★★★☆ 豊かな見識を湛えた好著
*蛮王の栄光
さて、⒋で、著者は、『景初三年六月記事から「倭人伝」の調子が変わった』と感じるとおっしゃる。お説の通りのようである。
そこまでは、客観的な記録文書であるが、この後の部分は、魏朝皇帝の制詔を骨格とした史実に即した記事であるとしている。
*蕃王の正当な評価
氏は、魏志の記事を吟味して、卑弥呼は、蛮王として国内の王より一段も数段も低い格落ちとされていて、これがわざわざ「帯」に大書、特筆されているが、氏は、これは不当でなく、むしろ、秦漢魏三代の官制に即して順当と見ている。私見では、弱小遠隔、極東故に、不相応な厚遇を受けたと見る。
時代で変動する「漢蕃」関係で、服従で参上する蕃王を厚遇し、麗名を与えたのは反感を避ける策であり、時に、蛮夷を「賓客」扱いしたが、本気で厚遇したのではなく「外交儀礼」である。漢代、鴻臚が下っ端にまで印綬をばらまいて非難されたが、それが、究極の倹約策だったのである。
*「王」の隔絶した権威
漢制では、王は皇帝一族に限定された。建国当初任じられた異姓の王は、長沙王なる例外を除き全て誅殺された。その後も、漢制の王は、皇帝の縁戚だけが任じられる極めて高貴な身分であった。
建安年間の末期、漢朝の威光を天下に回復した曹操が、無比の大功により「魏王」に任じられたのは、その光明の頂点、死の直前であった。「王」とは、そのように、臣下を超絶した、天子に通じる境地である。漢代、臣下の頂点は、列侯(漢初は徹侯)と称されたが、王は、明らかに上位に位置する。
*蛮夷考
蛮夷は、「文化」を身につけていないから、そもそも、中国の一員になれない。つまり、中国の文字を知らず、中国の言葉を知らず、よって、先哲の書を知らず、中国の暦に従わず、中国の衣服を身につけず、まして、女性を王とするのは、中国でなく蛮夷である。つまり、本来一段格下であり、それで何が不都合なのか理解に苦しむという観点である。
この辺り、著者の面目躍如であり、諸王朝法制史料を広範に照会して、説得力に富む。当方の口を挟むものではないので批判しない。
付け足すとすれば、唐代、新羅は女王廃位を厳命された史実である。
*倭人伝本文批判
以下、倭人伝記事について、普通、あてにならないとされる書記記事まで援用して議論を進められるが、『郡太守が皇帝に「使」を送るのはもってのほかで、「吏」を送ったと解すべきである』と具体的な校正を行っている。つまり、史料を精密に考証すると「魏の士人の誤記でなければ、誤伝であろう」と思われる誤記があるという事である。至言と言うべきである。
*丁寧な古田説批判
さて、そこで、倭人伝に一度登場する「邪馬壹国」が「邪馬臺国」の誤写であるとする俗説に断固反対する古田武彦氏の論考に対して、丁寧に考察を加えて私見を示されているのは、貴重である。
但し、初版で古田氏から根拠が提示されていないとした異議が、三十年後の新版の際に適切に更新されていないのは、残念である。
未完
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