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2022年12月

2022年12月25日 (日)

新・私の本棚 季刊「邪馬台国」第12号 「邪馬台国の里程」 白崎 昭一郎 再掲 1/5

 季刊「邪馬台国」第12号 梓書院 昭和五十七年五月刊(1982年)
私の見立て ★★★★☆ 理知的な解釈で、範とすべきもの 2018/09/18 追記2020/11/18 2022/01/27,11/06,12/25

*不出来な書き出し
 当記事は、本来、堅実な検証を重ねた論考ですが、冒頭の惹き句の部分で、大きく躓いて、まことにもったいないことです。

 『「魏志倭人伝」の里程記事と日程記事は、実距離に比して大きすぎる』という文は、論理的に混乱しています

 文の主語は「記事」ですから、書かれている「記事が大きい」では、ちゃんとした文になっていないのです。「実距離に比して」とおっしゃるのですが、当時、『「倭人伝」「道里行程記事」に書かれた区間道里を権限・技術のあるものが測量し公文書に記帳した』との根拠がなく、従って、「実距離」の根拠史料がないのです。
 西晋の史官陳寿は、個人的な臆測で「道里行程記事」、即ち白崎氏の主張する里程記事と日程記事 を書くことはないので、当時の公文書に書かれているままに「編纂した」のです。白崎氏は、このあたりの原理を見過ごしているように思われます。

 丁寧に言うと、陳寿が手にした公文書が、「実距離」、即ち、当時の測量手段で設定した「道里」でなく、何らかの「公式道里」で書かれたものであったことになります。氏の論理は、なにか錯誤しているようにみえます。まさか、陳寿が、現代見られる地形「地図」を持っていて、参照していたと言う事ではないでしょう。
 このように要約したのが白崎氏ご本人であれば、大いに信用を失墜しますが、続いて「該博な知識」と言うところから、まさかご自身の発言とも思えず、編集担当者の脱線と思えます。このあたり、編集部の職分を越えたと見える書き足しには、抵抗があります。
 いずれにしても、大歌手がいきなり音を外したような不吉な歌い出しです。もったいない話です。

*克服されていない画期的な著作
 それはさておき、同誌の当記事は理数系素養を備えた理知的な文献であり、今日の古代史界にあまり見かけないので四十年遡って論ずるのです。要するに、後進が、当論文を引用克服していないので、「レジェンド」として博物館に収まることができないのです。

*「長大」、「過大」の怪
 本文冒頭では、『実距離に比して長大な里数と過大な日数』と、表現が「是正」されていますが、倭人伝」で「長大」とは、物理的に長い、大きいとの(現代的な)意味でなく、女王の年齢の形容で使われているので、これは、学術的には「不注意」表現です。
 しかも、長大」の解釈は、「老齢」の意味と決め付ける不出来な「俗説」が支配的で、「成人する」という妥当な意味が損なわれていて、引き合いに出すのは、重ねて不用意、不適当です。
 周知の古田武彦氏の論説に加えて、安本美典氏が、「俗説」の是正を図っていますが、数の力で黙殺されているようです。どうも、「畿内」説と俗称されている論閥が、必死で揉み消していると見えます。

 また、勢い込んで「過大」な日数というものの、所要「日数」と「実距離」がどう対比されるのか、不明確で不用意です。先ほど論破したとおりです。

 かくのごとく、論考冒頭の不用意な書き出しは、読者を見くびったものと解されかねず、読者に不適切な先入観を与えかねないのです。くれぐれも、ご自愛頂きたいものです。

*本題 里数論三択
 さて、本論考は、倭人伝「里」は、一里九十㍍程度との認識に立ち、それは、
㈠魏朝当時の全国制度なのか、
㈡帯方郡管内の地方制度なのか、あるいは、
㈢倭人伝記事の里数が一律に定数倍されたのか、
 との三説を課題として、史書を元に論じているものです。
 この論議自体、今日に至るまで多くの論議と考察が重ねられているのは、衆知ですが、重複を避けて、ここでは取り上げず、里数を含む倭人伝の「概数」表記についての卓見を取り上げるものです。

*余里論
 ここで、白崎氏は、当時雑誌連載中の篠原俊次氏の「魏志倭人伝の里程単位」(「計量史研究」1-2, 2-1, 3-1 昭和54ー56年)をふんだんに引用して論考を加えていますが、当方の課題ではないので割愛します。

 以下、倭人伝で多用される概数表現「餘」の「余里論」を考察します。

                               未完

新・私の本棚 季刊「邪馬台国」第12号 「邪馬台国の里程」 白崎 昭一郎 再掲 2/5

 季刊「邪馬台国」第12号 梓書院 昭和五十七年五月刊(1982年)
私の見立て ★★★★☆ 理知的な解釈で、範とすべきもの 2018/09/18 追記2020/11/18 2022/01/27,11/06,12/25

*余里論
 白崎氏は、三国志の「余」用例を総括した結果、「余」は端数切り捨てという見方です。どの程度までを「端数」と見るかについて、中国古典書に明確な根拠が無いと見えて、国内論者の「感想」を引き合いに出しているのは、不適切極まりない、不用意な論法と見えます。
 そこで、「餘」について、「高木彬光氏は、15㌫程度と見たのに対して古田武彦氏は40㌫までとした」と二例の先例を述べたうえで、それらは、史料に根拠を持たない(現代人の憶測)と否定しました。このご意見自体は、誠に妥当な意見ですが、二例を何のために参照したのか、意図不明であり、どこへ話を持っていこうとしているのかすぐには見えてきません。

 白崎氏は、その上で、「余」で切り捨てた端数は、10ー70, 80㌫の範囲の数値であり得ると提唱しましたが、篠原氏は、基本的に、次の数値に繰り上がる直前までの幅に入る概数と捉えたようです。これに対して、白崎氏は、「倭人伝」執筆時には、確たる数値範囲があったはずだとしています。まことに、趣旨のわかりにくい議論なので、もう少しお付き合いするしかないようです。

*新「余里」論
 素人の意見では、以上の議論は、全て、「余」が端数切り捨てとする固定観念(思い込み)が災いして、解決から遠ざかっていると見ます。特に、当時存在しなかった「㌫」を持ち出すのは、時代錯誤です。また、「実数」に加えるとされる80㌫にのぼる「端数」は、無造作に取り込めるものではないと考えます。例えば、目前に、一丈と一丈八尺の見本を並べて、どちらも、一丈だと言われれば、古代人といえども、簡単に納得しないものと見えます。

 当方の意見は、次の通りです。
 倭人伝に多数の「余」が登場しますが、切り上げ表現である「弱」や「垂」(なんなんとする)は見られません。しかし、全数値が、基準値を超えた切り捨て対象の端数を持っていたとするのは、史料数値表現として、極めて不合理です。
 素朴な疑問として、それこそ一里単位で精測されていた里数の表示ならともかく、千里単位で把握されていた里数が、ある「切りのいい里数より多い」と判断することは、ものの理屈として不可能と見えるのです。中央集権国家として確立された秦以後、中国は統一された基準で、公式里数を設定していたのですが、合理的な、つまり、実運用可能な、明快な原則を守っていたのです。
 解決策としては、『「倭人伝」における「余」は中心値であり、後世で言う四捨五入の丸めを行った数値である』との割り切りです。

 これが、魏志全体、呉志、蜀志まで、果ては、中国全史書に敷衍できるかどうかは、当方の埒外であるのでご勘弁いただきたい。

*余里積算の弊害
 後段で、白崎氏は、里数を多桁表示の算用数字として表示した「表」について、「余」にはゼロもマイナスもないと断じ、「余」が積算されて繰り上がり上の桁に影響を及ぼす可能性を指摘しています。「余」が、桁下の端数を切り捨てると決め付ければ、そう判断して不思議はありませんが、それで納得せずに、当時の国家が、そのような不合理な数値管理をしていたはずがないと思い至るべきだと思うのですが、氏は、「騎虎の勢い」で、固執するのです。
 このように、「余」を端数切り捨てと「仮定」して始まった論考ですが、次第に不合理が集積して、無視しがたい状態になっていると見えるのですが、途次で「仮定」の当否を論議することがなかったのは、後世に、悪いお手本を残したものであり、白崎氏ほどの先賢にしては、勿体ないと考えます。

*数字に弱い史官
 氏は、論考の蹉跌に気づいたものの、その原因を、『そのような「不安定」な概数表記をした陳寿』に対して「余り数字に強い人でなかった」と一気に断罪していますが、陳寿は、単独で編纂していたのではないから、編集者集団には数字に強いものも多数いたろうし、当然、数字に関して厳重な検算は怠らなかったと見るべきです。
 また、当時の官人に必須の基礎教養として、読み書きに続いて、「九章算術」のような幾何(数学全般のこと)学習があったことは明らかであり、当時に於いて、白崎氏が直ちに不審がるような愚行はなかったと見るものです。つまり、陳寿は、厳格に資質を審査されて肝心として登用されていたのであり、「余り数字に強い人でなかった」 とは、冤罪と言うべきです。どうしても、史官に責任を押しつけたかったら、一方的な告発、断罪でなく、公正な審判を仰ぐべきです。と言うのも、今し方述べたように、陳寿の知力は、当時の官人登用制度で厳格に審査されているものなので、これを覆すには、相当確たる物証と証言が必要なのです。

 白崎氏ほどの見識の持ち主が、このように古代人に安易に付け回しするのは残念です。つまり、自身不用意に設定した、「余」は切り捨てという(儚い)仮説の再検討に至らなかったのが、いかにも残念です。まずは、当時最高の人材が、渾身の著作で示した見識を、いきなり疑うので無く、『肘掛け椅子に納まった「書斎考古学者」たるご自身』の見識を疑うべきです。
 くだけて言うと、西晋史官で随一の見識を持っていた、つまり、時世界一の陳寿と知恵比べするとは、いい度胸をしていると思うのです。同時代の当事者の見識を、軽々しく見くびるものではないと思うのです。

 まず、先人の筆運びを弾劾する前に、ご自身の解釈が「倭人伝」に適したものではないのではないかとの自問が必要と考える次第です。いえ、そうした風潮は、「倭人伝」論義で余りにありふれているので、白崎氏が、ついつい、安直に同調しているのかも知れませんが、時に、自省してみる必要があるでしょう。

 このような指摘は、言い方を変えると、古田氏が提示した「倭人伝」解釈にあたっては、編者の見識を徹底的に信じることを根幹とする』との提言と同じ事を言っているのであり、古人曰く、「七度探して人を疑え」の趣旨にも通じるものです。

 以上は、白崎氏ほどの先賢にしては、人口に膾炙している安直な主張を進めていることを歎いたものであり、恐らく、それは、古代史学会風土の怠惰、頽廃に染まっている「喪乱」によって生じたものなのでしょうが、古代史学会「風土」には人格も何もないので「喪乱」の風評は伝わらず、後世には氏の著作の無法さだけが残るのです。まことに勿体ないことです。

*余里の行き着く先
 先に述べた事に戻りますが、「余」が全てプラスであると想定するのは、古代史学界に於いて、古代史書の文献解釈の常道となっているとしても、「倭人伝」に適用すれば、二千字の範囲内で、たちどころに不都合を露呈するのだから、陳寿の、つまり、三世紀当時の編纂時点で是正されていたはずであり、言うならば、現地確認を忘れた錯誤と見えます。

                               未完

新・私の本棚 季刊「邪馬台国」第12号 「邪馬台国の里程」 白崎 昭一郎 再掲 3/5

 季刊「邪馬台国」第12号 梓書院 昭和五十七年五月刊(1982年)
私の見立て ★★★★☆ 理知的な解釈で、範とすべきもの 2018/09/18 追記2020/11/18 2022/01/27,11/06,12/25

*余里の使命
 素人考えを率直に言わして頂くと、倭人伝道里の主行程で見られる「余」里は、千里に届かない端数を「丸めた」中心値を示したものであり、プラスもマイナスもあると理解すれば、加算を重ねても端数の累積を免れます。
 また、千里の位の概数で論じる「道里行程」論に於いては、千里に満たない端数里数は、概数加算で無視できるのです。
 ただし、末羅国以降の倭地の近傍の道里は、百里単位で論じられていますが、こうした近傍の百里単位の里程は、従郡至倭万二千里の内訳と別の背景で書き足されたと見るものです。

 くれぐれも、文献解釈では、文脈を冷静に観察しなければなりません、

*新説の無礼ご免
 白崎氏は、世上に溢れる新説の大半が「山積する先賢の論考を無視する新説」であり「無礼」と断じ、およそ新説の提示に載しては、先賢所説を論破、克服した上で行うべきだとしています。
 これは、まことにもっともですが、現実には、「倭人伝」行程道里論に限っても、明確な検証が重ねられているわけではなく、世上見られる論考が、そうした正統的な論議の過程なのか、単なる思い付きなのか、素人目には、確認しがたいのです。つまり、倭人伝」論に於いて、先行論文の指摘と克服は、実行不可能な難業です。

 そのため、ここに白崎氏が述べた所説は、季刊「邪馬台国誌」という学術的な基盤に掲載された論考を批判した上に書かれたものであり、当記事で示した解釈は、力の及ぶ限り原典に密着した文献解釈から得たものですが、先賢諸兄姉は、原典解釈の段階で、根拠の無い「思い込み」に負けて、早々に異なった道を選択していることを指摘しています。

 当方には、遙か別の道を行く論考を、海山隔てて論破するすべがなく、この場で失礼するのです。

*郡志論 方針
 ということで、「倭人伝」道里行程記事の使命は、従来不明の「倭」(倭人)の所在、つまり、国王治の位置を記録し、最寄りの帯方郡を起点とした方位、所要日数、道里、城数、並びに戸数、口数を記した報告書「帯方郡志」の作成であり、「倭」の来歴、国王の実名と出自を述べて正史「志」篇と夷蕃伝としての「倭人伝」の要件を整えたと考えるものです。

・里数
 国王治までの「萬二千餘里」は、景初二年六月の倭使帯方郡参上以前に、郡太守公孫氏から皇帝への報告に、早々と明記されていたものと思われます。この道里が、皇帝の確認を経て、公文書に記載され「史実」となったため、史官たる陳寿は、この「史実」に厳格に拘束されたと見えるのです。

・日数
 海上移動の道里及び半島内部道里の所要日数は、魏の国内基準では明確ではないので、「水行」と「陸行」に大別し、最後に「都水行十日陸行一月」と総括されていて、つまり、「都」(総じて)四十日と見えます。この表記は、余り見かけないでしょうが、「倭人伝」を正直に読み進めると、こうした世界が見えてくるのです。
 ここで、「水行」日数は、海上移動の道里が不確定のため、三度の渡海で十日あれは十分としたものと見えます。渡海というと物々しいのですが、要するに、塩っぱい河川を渡って向こう岸に上がる、渡船行程を三度繰り返したとしているのです。中原街道にも、渡船はあるので、読者は、特に問題視しないのです。

 中国国内では、街道整備が、全国でほぼ完備しているので、「道里」、「道の里数」を言えば、簡単な計算で所要日数が概算できるのですが、街道未整備の上に、一回ごとに一日がかりの長丁場の渡船が三度入っていると、「道里」の意味はあまりないのです。従って、所要日数が肝心、というか、必須なのです。街道整備とは、所定の間隔で宿場があり、行人は、馬車移動であり、宿場では、自身の事は当然として、乗馬の蹄鉄を交換するなり、給水するなり、糧食を与えるなりして、淡々と旅を続けるのです。そのため、行程道里がわかれば所要日数がわかるのです。
 東夷の地には整備された街道がなく、また、牛馬を供用していないので徒歩行が想定され、街道を「行く」のに、どれだけの日数を要するか、道里では計算できないのです。

 郡から何日で倭人の王城に達するかの規定は、皇帝の威令が、最短期間で到達し、応答されることを保証するものであり、曹魏武帝曹操の確立した「国政の基幹」です。因みに、所要日数は、文書送達期限ですが、中国国内では、文書使は騎馬移動ですが、緊急文書については、疾駆移動して、日程を短縮する規定ですが、倭人に於いては徒歩移動であり、緊急文書も、同程度とされているので、文書使は、渡船上で駆け足する必要はないのです。(苦笑)

・城数

 城数は、構成諸国王治三十ヵ所と判断できます。

・戸数/口数

 戸数は、総戸数明記と見ますが、口数は、調べが付かなかったのでしょう。というものの、「戸数」は、現代風に言うと「世帯」を論じるものであり、つまり、「戸籍」の整備が前提であり、また、各戸に所定の耕作地が供されていて、収穫物の一部を税として上納する制度ですから、そのような土地制度が整備されていないと戸数の意義は怪しいのです。つまり、帯方郡は、倭人の社会では口数の意義がないのは承知の上で計上しているのです。

 世上誤解がありますが、「倭人」が魏皇帝に忠誠を誓う以上、傘下諸国の合計戸数が「明解」に示されるべきです。「明解」とは、「倭人伝」を読みながら戸数を書き留めて加算して解答を得るもので無く、「倭人伝」の紙面に明記されているべきだという事です。因みに、「倭人伝」の對海國、一大国、末羅国、伊都国の戸数は千戸台ですから、読者は、対海国に始まる諸国戸数をすべて書き留め、加算しなければならないように見えるのですが、最後に、二万戸、五万戸と桁外れの戸数が提示され、総戸数計算に「千戸台戸数は無意味」と知れるのです。
 その意味でも、読者の怒りを買わないように総戸数「七万戸」は明記しておかねばならないのです。

 このように、重要情報と言っても、それぞれ優先度があり、口数のように、遂に報告できなかったものもあるのです。

 因みに、帯方郡の戸数、口数は、笵曄「後漢書」に書かれていないものの、晋書には報告されていています。
 総じて、正式の戸数、口数 の 集計がされたときは、一戸、一人単位の数字が計上されているのです。「数字に弱い」官人のできることではないのです。

 以上、史料に根拠のない思いつきと批判されないように「倭人伝」の「方針」を論じたものです。

                               未完

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 季刊「邪馬台国」第12号 梓書院 昭和五十七年五月刊(1982年)
私の見立て ★★★★☆ 理知的な解釈で、範とすべきもの 2018/09/18 追記2020/11/18 2022/01/27,11/06,12/25

*多桁計算のとがめ
 白崎氏は、概数の有効数字について明確に理解しているのですが、奥野正男氏(「邪馬台国はここだ」 毎日新聞社 昭和五十六年)の表引用とは言え、里数表に算用数字を多桁表示したのは、ご自身の所説を外れ、まことに不用意です。
 いや、奥野氏の作表に示された考証手法は、倭人伝」道里行程談義でむしろ大勢を占めているので、白崎氏を咎める主旨は、「後世の初心者に間違ったお手本を示した」ことなので、「先覚者に課せられる重荷」と考えて頂きたいだけです。

 つまり、「七千餘里」と、歴史的に正当な表示であれば、一見して千里単位概数と見て取れますが、算用数字の7000里は、一里単位まで実数で、0.1里の桁で丸めたとの印象/誤解を与えます。つまり、当時の「実測値」有効数字が五桁と「誤解」させるのです。しかし、これが実測値としても、七千里に対して一里は0.01㌫程度であり、途方も無いホラ話になります。
 「業界」大勢は、一里単位整数どころか、小数点付きで掲載していて、誤解が山積となっています。
 科学的に正しい書き方では、7×10の3乗(10^3)とするものですが、一般読者には何のことかわからないでしょう。そして、7.0と書かずに7と書いても、普通の読み方では、意義がわからないでしょう。

 従って、歴史的に正しい、唯一正確な漢数字表現を遵守すべきと考える次第です。
 ついでに言うと、古代には、縦書きしかなかったので、算用数字の左から右への横書きは、文書に書けないので、重ね重ね場違いで無様なのです。

*時代相応の算法と記法
 当時常用していたと思われる算木による計算は、道里計算では、千里桁の数字を使うので、全行程は、桁上がりして十二「千里」、郡から末羅まで十「千里」、残り二「千里」と明確です。何しろ、三世紀当時は、算盤や筆算の多桁計算は行われてなかったのです。全桁計算は、厖大な手数がかかるので、経理計算や全国戸数集計のような、国家事業の特に行っただけなのです。

*古田氏の誤謬~いささかの余談
 古田武彦氏は、第一書『「邪馬台国」はなかった」で打ち出した「原則」の一つとして、里数計算に於いて千里単位でなく百里単位の計算を行いつつ、「部分里数の合計が全一万二千里に合う」よう幾つかの工夫を凝らしましたが、「倭人伝」編者が、「倭人伝」冒頭の道里行程記事で、郡から倭に至る公式行程において、その根幹として想定していなかった百里単位の数字を持ち込むのは、「倭人伝」の深意を求めるという本義に反するのです。

 また、古田氏の堅持する、「部分(里数)の合計は全体(里数)に等しくなければならない」とする提言は、確かに、数学的には不変の鉄則ですが、「概数計算では、部分の合計が全体と合わないのが、むしろ普通である」との、これまた不変の原則を外れています。

 つまり、概数の基準が千里単位と百里単位が混在するようでは、むしろ計算式として「不合理」だという事を意味しているのです。そのような「不合理」を避けるためには、「千里単位の概数計算に、桁違いの百里単位の里数は採り入れない」という鉄則が、「自明」の原理として通用していたように見えるのです。

 古田氏の創唱した里程計算には同意できないと明言させていただくものです。

*確定値の概数化~郡狗邪行程官道道里の検証
 白崎氏は、郡から狗邪までの七千里を「推定値」と見ていますが、まことに不用意です。
 楽浪郡時代を含めると、狗邪韓国は、長年に亘り漢・魏朝の支配下にあった事から、両地点間は官道であり測量されていたものと推定できます。しかし、既に、郡から倭まで、「全体として一万二千里」の公式道里が皇帝に承認されていたので、群から狗邪までは、一里四百五十㍍程度という「普通里」に基づく郡内道里でなく、七千里の概算道里を書くしかなかったのです。
 陳寿の言い分として、公式道里は「史実」であって「訂正」できないので、「倭人伝」道里として七千里と明記したものの、郡から狗邪 の郡内道里と対照して、以下述べる道里が、普通里に基づく道里でないことを示唆したことになります。これは、かなり「(あいまいな)数字に強い」人の書き方です。

 因みに、史官は、公式記録が存在すれば、これに拘束されますが、このように史官の意図に従って概数里数を設定したということは、帯方郡内の公式道里は、魏の景初年間に至っても、あるいは、西晋代に到っても、「公式道里」とされていなかったものと判断されます。後代正史である、宋書「州郡志」に、倭に至る道里は記録されていないのです。さらに言うなら、洛陽から帯方郡治に至る道里も、書かれていないのです。
 なぜなら、「倭人伝」の審査に於いて、「公式道里」と齟齬する記事があれば、却下されるからです。陳寿は、中国としての公式史料を参照していたので、そのように不用意/不合理な記事を書くことはなかったのです。

 ここで批判しているのは、三世紀当時、郡から狗邪まで の道里が測定可能であり測定されていた里数を、編者の怠慢で「推定」にとどめたという批判への異論です。よろしく、趣旨をご理解ください。

*有効数字再考
 ここで、白崎氏は、『里数の概数表現として「許里」が倭人伝において使用されていない』と断じています。僅か二千字ほどの範囲のことですから、その指摘自体に間違いはないのですが、やや、早計に過ぎるようです。
 戸数系の数字では、一大国の戸数表示で「有三千許家」とあり、「許」なる概数表現を倭人伝編者は知っていたことを物語っています。
 更に、投馬国戸数に見られるように「可」付きの概数もあります。
 案ずるに、それぞれ、定義に合わない数字、ないしは、一段と漠然とした数字と見るものです。
 つまり、これらの数字は、単なる山勘であると表明したものです。

 倭人伝編者は、同列扱いされがちな概数であっても、ある程度根拠を想定できる数字と丸ごと憶測の数字とは、区別を明記していたのです。現代読者は、編纂者の深意を想到して、しかるべく読み分けるものではないでしょうか。

*桁上がりの扱い
 白崎氏は、倭人伝に書かれた数字の有効数字が、一桁、ないしは、二桁のものと見なしていますが、随分盛大に過大評価しているようです。桁上がりの「万二千里」を除けば、二桁有効数字は見当たらないと見えず、せいぜい、最大一桁と見るものと考えます。

 「桁上がり」とは、区間里数が、七「千」,一「千」,一「千」,一「千」と足していって、総計は、一万二「千」、つまり、十二「千」里となるというものですが、これは、有効数字が増えたものではないと見るものです。
 算木計算でも、上の桁の算木を用意するのではなく、「一」の算木を脇に置いて桁上がりを示したと見ます。あくまで、一桁計算なのです。
 何にしろ、有効数字一桁の数字を足した結果が有効数字二桁というのは、まことに「不合理」ですから、そのように対処したと見るのです。

 以上、特に高度な数学理論でなく、実際に概数と日々直面する工学分野では、基礎教養なのです。

                              未完

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*戸数概算のカラクリ~余談
 戸数が正確に勘定できるのは、戸籍台帳が整っている場合だけであり、当時の倭の各国に戸籍台帳が整っていたはずはないので、言うならば、帯方郡が、無理矢理全国戸数「七万戸」を押しつけたのに基づき、各国に戸数を割り当てたものでしょう。
 戸籍台帳は、古代国家の必須要件ですが、傘下の各地に、読み書き、計算のできる官人が必要であり、たま、木簡で台帳を編纂するにしろ、筆書きで手早く書き記す技術がなければ、数千といえども、戸籍整備はできないのです。つまり、戸籍を整備するには、多大な下部構造が必要なのです。戸籍は。土地台帳の前提であり、併せて、古代国家の根幹となるのです。

 いや、郡への服属の証しとして、全国戸数を申告する必要があり、不明では済まなかったので「可七萬餘戶」と申告したとも見えるのです。因みに、参考とすべき班固「漢書」西域伝でも、素性の不確かな諸国でも、戸数とともに口数での申告が記録されていて、「全国戸数」が、服属の際の要件であることが確認できます。

 いや、西域はじめ四囲の夷蛮では、服属する際にキッチリした戸数を提出しなかったのは、珍しいのです。(主要国の戸数だけを提出して、全国戸数を提出しなかった例は見当たらないようですが)もちろん、西の大国安息国のように、交流しても服属しない国では、正確な戸数は得られないのです。普通「安息国」とされる「パルティア」は、今日のイランを包含するような巨大な文明国ですから、東方拠点である「安息国」が、「パルティア」国王の許諾を得て、つまり、「外交」の許可を受けて、漢と交流していたのですが、いうまでもなく、地方政権が、勝手に漢に服属することなどあり得ないのです。

 但し、景初遣使の際に帳尻の合う国別戸数明細の提出を迫られた倭人側からすると、狗邪韓国から伊都国に到る「主行程」諸国は、いつ、実情調査されるかわからないので、ある程度見通しの立つ数字しか書けず、最後、遠隔地で調査困難な投馬国で帳尻を合わせたと見えるのです。つまり、「投馬国は五万戸と思います」の意図で「可五萬餘戶」と書いたと思います。

 さすがに、全国戸数七万戸の帳尻合わせで、戸数がわかっているのは、奴国二万戸以外は千戸台では、五万戸をどこかに持って行かざるを得ないのですが、どうも、結構「でかい」らしい投馬国に押っつけるしかなかったのではないかという憶測です。と言って、世間知らずの投馬国が五万戸と申告したのを、課税などの跳ね返りを知っていたはずの伊都国などが止めもせずに郡への報告としたとは思えないのです。

 戸数は、中華文明の制度としては、徴税や徴兵の基礎となる、大変大事な数字ですが、帯方郡としても、倭人の中心地である伊都国から片道二十日かかる遠隔地域からは、徴税も徴兵もできないので、帳尻をここに持ってきても実害はないと倭人側は見たのでしょう。

*戸数曲解の「大戦略」
 「俗説」では、各国戸数を列記した末尾に女王の直轄地の戸数が「可七萬餘戶」と書かれていると解していますが、女王の統制が行き届いている直轄地の戸数が、漠然たる憶測、つまり、戸籍台帳が整備されていないので不明」との説明は、帯方郡から見て無法であり、何としても、明確な戸数を書かせるものではないでしょうか。つまり、監督不行き届きになります。
 また、「俗説」に従うと、服属に際して全国戸数が申告されていなかったことになり、まことに、不都合です。
 「倭人伝」は、そのような女王の無知と帯方郡の監督不行き届きを、皇帝に報告したことの記録でしょうか。皇帝は、書式不備の申告書類を嘉納したのでしょうか。「帝詔」の上機嫌な口調からして、とても、不届きな所論を読まされたようには思えないのです。
 先に挙げた、全国総戸数「可七萬餘戶」とする説明は、頑固な俗説に断固異議を唱えるものです。

 どうも、「俗説」は、七万戸の大規模な古代国家を想定して、「そのような規模の国家は、北九州に想定できないから、畿内に想定するのが合理的である」という高度な論法の根拠としたもののようであり、まるで「曲解」軍団の華麗な大戦略のように見えて、不審感が募ります。

*飛び石数字の手口
 と言うわけで、戸籍台帳未整備で「不確かさ保証付き」の「倭人伝」戸数では、有効数字が一桁取れず、言うならば「飛び石」の有効数字0.5桁の概数が見えるようです。松本清張氏など先賢諸兄姉が慨嘆しているように、倭人伝の数字(里数、戸数)は、一から九まで勢揃いでなく、奇数ばかり目立っていて、二以外の偶数は少ないのです。つまり、一番上の桁が一、二(ないし三)、五、七と跳んでいるのです。

*「数」の概数表現
 極端に不確かな数字の扱いとして、ひょっとすると、二(ないし三)を「数」と書いたかも知れないのです。「一,数、五,(八)」で、八は、いきなり上の十です。例えば、慣用句で、「丈夫」は身長一丈、十尺でなく、実は、八尺余りなのです。古代中国人の数値表記に対する潔癖なまでの「きりの良さ」を察するべきではないでしょうか。
 そうは言うものの、「倭人伝」周辺では、こうした推定を検証しようにも、事例が少ないので、こうした概数の詳細は不明です。

*概数表示の達人と現代の凡人
 このような概数計算は、よほど数字に強い人の偉業と言えます。むしろ、こうした概数計算では、平均的な現代人より、随分「上級」のようです。現代人の凡人は、ほぼ確実に「数字」に弱いのですが、古代人は、陳寿を筆頭に精選された知性の持ち主が、著述に尽力していたので、一対一では勝負にもならないのです。

*概算と精算
 ちなみに、漢書・後漢書では、楽浪(帯方)郡の戸数、口数は、戸籍台帳を元に一戸、一口単位で集計したと見えますが、晋書では、概数となっています(三国志は、「志」を欠くので不明)。楽浪、帯方両郡末期の混乱で、戸籍台帳集計ができなかった様子が窺えます。少なくとも、戸数、口数では、わからない数字を、筆を嘗めて格好だけ装うことはなかったのです。

*人海戦術の全桁計算
 と言う事で、普段は、簡略で即決できる算木計算を行っていても、経理計算を含め、一戸、一銭単位の精密計算が必要なときは、大変な手間を掛ける全桁計算を行ったのです。
 全桁計算は、桁数の数だけ算木を並べるので、少なくとも桁数倍の手間がかかるのであり、また、全桁計算ができる計算技術者は、大変限られているので、全国戸数集計は、それこそ、滅多にできるものではなかったのです。

*零も小数も「なかった」
 念のため付記すると、当時、零の概念自体はなかったのですが、多桁計算で、数字のない桁には「零」ならぬ「空き」記号の算木があったのです。また、小数はないものの、ある程度の分数計算は、約分、通分などの手を掛けて、使いこなしていたのですが、現代の小学生が難なくこなすはずの筆算計算からは遠かったのです。

*「問題」の「誤解」 
 「九章算術」に、問題(例題)-解答-解説の形で説明されています。
 「問題」は、正しく学んできたものに正しく「解答」が出せるものであり、照合するための正答である「解答」が用意されていたのです。

 世上、「問題」と見ると、反射的に、現代語の一部で繁盛している「難点」、「欠点」と解する早合点の方が多いのですが、学術的な論考では、古典的な用語/用法であり、この程度の日本語が正確に理解できないようでは、「倭人伝」の古文中国語を理解できないのはむしろ当然でしょう。

                               完

2022年12月23日 (金)

魏志天問 2 大夫 補筆

               初出 2013/12/23 補筆 2022/12/23 2024/08/21

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯再考の弁 2024/08/21
 今般、当初の論議は、大きく空を切っていると思いついたので、書き改めました。但し、折角の労作である原記事も、温存します。
 「倭人」の士人は、「大夫」と自称していたと記録されているが、それは、蛮人の無知を嘲笑しているものではないように思います。
 要するに、周制「大夫」は、大変な貴人であるから、卑しい/慎ましい倭人が「自称」するはずはなく、又、後漢鴻臚のものも、そのような意図はなかったものとみます。要するに、蛮夷の取り次ぎ役である鴻臚は、蕃夷の発言、所信をそのまま取り次ぐのが使命であるから、批判を加えていないものと見えます。

*順当な解釈
 周制は、蕃夷が知りうるものではない。「大夫」が何ものか、知っていたはずがない。
 知っていたら、自分を、そのような高貴な身分に遇するはずがない。
 ということで、「倭人」の行人(使者)が周制の高官を名乗ったとするのは、おそらく誤解である。
 という理路である。

*考察の果て
 なんのことはない。ただ単に、蕃王につかえる官人を「夫」と呼び、「夫」の上位者を「大夫」と称していたもののようである。後世で言えば、「臣」の上位の者を「大臣」というようなもので、むしろ自然と見えるのである。陳寿は、『「倭人」は、礼節を知り、慎ましい』ということなので、蛮夷の身で周制「大夫」を名乗った不遜な蕃夷と記録するはずがないのである。

 曹魏正始以降の交信で、「倭人」高官は、「倭大夫率善中将」の称号を与えられているが、勿論、蛮夷のものが、周制高官となることはないので、誤解されないように、適確な官位を作り出したもののようである。特に、「倭大夫」とすることにより、「大夫」僭称を避けられるのは妙案である。

 当ブログ筆者も、「俗説」に染まって「大夫」を周高官有司の名乗りと見たが、それはご当人の無教養を曝け出したものである。いや、「倭人伝」論では、大変ありふれていて定説化しているようなので、自己診断で該当しても、別に恥でも何でもない。勘違いを反省して是正していただければ何よりである。
 
◯はじめに
 2013/12/23
 以下の記事は、魏志倭人傳に関する素人考えの疑問を並べていくものです。
 天問2は、
  (「大夫」は、周代の高官有司であったものの)漢王朝以降では、「大夫」は、高官でなく庶民ではなかったか、
 と言うものです。
 自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。
 「大夫」 参照資料 wikipedia、西嶋定生『中国古代帝国の形成と構造―二十等爵制の研究』
 他に、官位史料として原典に近いものは、劉貢父「漢官儀」です。
 「自古以來」とあるのは、周王朝時代から漢王朝時代に至る期間と思われますが、記録のない時代はさておき、魏志「倭人伝」では、難升米等が、「大夫」を名乗った(自称した)と明記されています。自称と言うからには、魏から与えられた称号ではないのです。

 大夫は、周王朝時代には、政府高官の称号であったと言われています。
 しかし、周王朝の官位は、秦朝によって破棄され、漢王朝は秦の爵位制度を継承していて、そこでは、最上位の列侯(徹侯)から始まる爵位制度の底辺として十五歳以上男子国民である庶人[自由民庶民]に爵位を与える民爵制度となっていたのです。
 その中で、「大夫」は民爵五番目の第五級に当たり、庶人/庶民の爵位なのです。

 庶民が爵位を得る制度は、秦の時代には、兵として参戦して軍功を上げることであったと、司馬遷「史記」などに記されています。
 概して平和の続いた漢の治世では、軍功による爵位は、ほぼなくなっていたのですが、皇帝即位などの慶事の際に、帝国全土に布告して、大赦と併せて、全男子国民のそれまで爵位のないものは第一級爵位「公士」を、すでに爵位を得ていたものは、一級昇級を与えていたのです。
 従って、五年に一度の昇級としても、庶民は四十歳を過ぎた頃には、皆「大夫」になる理屈ですが、身分制度の厳格な太古/古代に庶人が貴族となることはなく、厳格に阻止されていたのです。一部、秦代に、勇猛な軍人が軍功を重ねて、貴族身分に登ったというような物語が書かれることがあるようですが、それは、幻想に過ぎません。庶人に生まれたものが、貴族になることは、不可能だったのです。

 なお、一律昇級が頻繁であった証拠に、民爵の最上級第八級「公乗」にある庶民が、昇級によって第九級「五大夫」に昇級して貴族身分になることがないよう、「公乗」にある庶民は、当該昇級を近親者で低爵位の男子に譲渡するよう布告しているほどです。軍人でも、第八級が、鉄板の天井だったのです。
 一方、下級爵位は氾濫することになり、四世紀に亘る漢代を通じ、「大夫」は、いたってありふれたものだったことになります。
 そのためか、民爵制度を廃止したと思われる魏朝以降も、単に「大夫」とする貴族官位は、見当たらないのです。

 とすると、東夷といえども、「大夫」は、全権大使が名乗るべき官職ではないように思えますが、故実に精通していたはずの陳壽は、「倭人傳」でそのような指摘を加えていないのです。武帝以来の楽浪郡と後漢代後期に新生の帯方郡及びその管轄下の東夷諸国では、漢から魏晋に到っても、周王朝時代の官職の名残が通用していたと言うことなのでしょうか。
 一方、東夷は、古の遺風を維持するものとみたのが、「倭人傳」の書き方であり、「倭人」では「大夫」が貴人となっていることを、中国側も、そのまま受け入れていたかと思われます。

 世上、『曹魏が「倭国」を「コロニー」化していた』と三世紀に時代錯誤の「コロニー」を持ち込む「荒唐無稽」と言われかねない異説』がありますが、それは、二千年後生で無教養な東夷の迷妄として、「親魏倭王」に魏制への同化、臣属を求めるとしたら、官位制度の是正は、「女王廃位」などと同様に指示して来そうなものですが、どうだったのでしょうか。あるいは、蕃人受入専任である鴻臚掌客が「自稱」の二字に、漢の制度に従っていない東夷の(勝手な)自称であるとの意味を持たせたのでしょうか。
 連想した疑問が湧いてきますが、「天問」からは除外しています。
 参考資料 「漢官儀」, 巻上,中,下 / 劉貢父 [撰] 早稲田大学図書館

 劉貢父「漢官儀」は、後漢朝に於ける官位、儀礼などを述べたものですが、何気なく、以下の爵位が列記されています。
 1 公士  2 上造    3 簪馬衣 (馬衣は一字)4 不更
 5 大夫  6  官大夫  7 公大夫  8 公乗  ここまで庶民
ここから貴族       9 五大夫 10 左庶長           
11 右庶長 12 左更  13 右更 14 中更 15 少上造
16 大上造 17 駟車庶長 18 大庶長   19 關内侯
20 徹侯     (武帝劉徹僻諱により「列侯」に改称)

Ryu_kakangi_shakui
以上
追記: 2022/12/23
 以上の意見は、基本的には変わっていないのですが、少し見方が変わってきました。

 「大夫」制が廃止された秦漢代以降の古典資料で、一般的に、つまり、厳格に書かれていないと見える世間話的記事で、「高官」「有司」を「大夫」と敬称している例を見かけるのです。当世で言う、「稀釈化」、「陳腐化」ということなのでしょうか。無学な凡人には、わかりかねることです。そのように解釈すると、蛮夷の「王」のもとに「大夫」がいるのは、むしろ普通に見えるのです。つまり、倭使である「難升米」と「都市牛利」の「大夫」自称は、明らかに、魏の高官を名乗ったものではないのであり、帯方郡との交流を通じて学びとった中国の制度に倣った無害なものであったと見えます。つまり、倭使の「大夫」は、太古の周制を見習ったものでも無ければ、まして、魏の庶人の爵士など知らなかったものと見えます。逆に、魏の官制頂点に「大夫」が存在していて、倭人が「大夫」 を自称したとすると、大変不遜な行いなので、厳しく譴責されていたと見えます。
 当ブログでは、王莽が、周制を復活して「大夫」を復活したのが、王莽の「倭人」探索活動の影響で、遙か東夷の「倭人」に伝わったのではないかと推定していましたが、少し気負い込んだようです。
 擁するに、秦代以降、大夫は、中国官制に稀釈化されて、特別な意義を失って行ったということです。

 今後は、「大夫」周制論は差し控えることにします。 2024/08/21再確認

以上

2022年12月22日 (木)

私の本棚 8 都出 比呂志 「古代国家はいつ成立したか」 改補 1/5

 岩波新書 2011年8月   2014/05/23 分割再掲 2020/06/17 2022/12/22
 私の見立て★☆☆☆☆ 文献史学部分 氏にとって鬼門か それ以外は好著 ★★★★☆

◯始めに
 天下の岩波新書であり、島根県主催の「古代歴史文化賞大賞」受賞作だけに、高度な著作との触れ込みで、重大な敬意を以て批評します。
 なお、当記事は、倭人伝という文献の解釈に関する異論/批判が主体で、氏の本領と思われる考古学分野で、遺跡、遺物という時代記録のない現物の考古学考察を文献解釈に連動させるよう糊塗していると論じているのみです。
 端的に言うと、本書タイトルは、考古学的論考に対して不適当なのです。

*劈頭脱輪~史料無視の独断
 本書は、大上段に振りかぶっていますが、出だしで大きく脱輪しています。
 魏志「倭人傳」には、「邪馬台国」も「壱岐国」も書かれてないのに、原史料を確認することなく、誤釈の可能性のある読み下し文や孫引き史料に依存して正史記事そのままと誤断し誤伝を広めているのは、学術的では無いと思います。
 本書は、その基盤となる部分の記述が学術書の物ではなく、伝奇小説の語り口と見えるので、以下、作者と呼ぶことにします。

*記事批判
 13ページ 「西日本が邪馬台国に統一された二世紀末」と言い切っていますが、何か根拠はあるのでしょうか。多分に古代ロマンのように思えます。
 16ページ 「都市は、生活の基盤を外部に依存する社会」と規定していますが、と言うことは、「都市」から郊外の「外部」との間の連携として、人の往来と食料搬入を支える「道路」とその上を走る車両や荷役する「駄馬」が「インフラ」(基盤)として必須なのは自明ですが、その点の考察は整っていないようです。もちろん、「都市」には水運も必須です。現実は厳しいのです。
 そうそう、魏志「倭人伝」に登場する「都市」は、倭の大夫「都市牛利」という人名だけであり、現代で言う「都市」は影も形もありません。読者に対して、不親切な言い回しでしょう。

*後世世界観の押しつけ
 現代読者から見ると、「畿内」、「東海」、「関東」の地域名が、遙か後世の命名であり「西日本」も、現代語感で解釈することになり、九州、四国、中国から近畿まで包含した広大な版図と勝手に受け止めて感動します。
 しかし、作者自身、筑紫以外の九州、四国、出雲以外の中国、畿内以外の近畿などについて語っていないので、「西日本」がどの範囲かは不明です。

*フィクション語りの手口
 と言うことは、作者としては、ご自身の主張はともかく、読者の勝手な理解に責任なしと言うのでしょう。これは、フィクション作者の語り口です。
 このような作者所感は、少なくとも、ここまで紹介したような、唯一の文献史料である魏志「倭人傳」の記述とかけ離れたものであり、それ以外のどのような史料で裏付けられたものなのか、怪訝に思うのです。

*浪漫派宣言
 他に、作者は、全体に、古代国家の萌芽形勢、権力闘争の側面を強調し、読み物的な叙述で、先進諸国の視点や後世の時点をずらしてあてはめながら、古代世界に古代ロマン満載の仮説を展開しています。
 このような書き方は、現代の読者には、自身の世界観と近い言葉で書かれているので、古代史絵解きとして滑らかなものがありますが、俗受けを脇に置いて、論理的に評価すると空白だらけ、隙だらけと言わざるを得ません。

 やはり、学説を打ち立てるためには、「ロマン」の自画自賛ではなく、確実な資料に基づく、堅実な論旨展開の道を辿るべきではないでしょうか。

                               未完

私の本棚 8 都出 比呂志 「古代国家はいつ成立したか」 改補 2/5

 岩波新書 2011年8月   2014/05/23 分割再掲 2020/06/17 2022/12/22
 私の見立て★☆☆☆☆ 文献史学部分 氏にとって鬼門か それ以外は好著 ★★★★☆

*記事批判 承前
 42ページ 「卑弥呼が亡くなり葬られた前方後円墳」と突然言い放っていますが、魏志「倭人伝」には、卑弥呼がそのような形式の墳墓に葬られたという記事はないのです。何か根拠はあるのでしょうか。

 前後しますが、
 66ページ 「卑弥呼の墓が前方後円墳になるのは当然の成り行き」と前提なしに無理な仮説が打ち出されている関連記事であり、このようなけったいな、つまり、文献史料に根拠の無い意見を、どんな顔で言うものなのかと、著者のお顔を拝見したくなりますが、もちろん、テレビ電話など頂きたいのではありません。

 62ページ 「大和は三世紀前半から政治の中心であったのは確か」と書かれていますが、このような根拠不明、趣旨不明確な(問題)発言をぽんと投げ出すのは、作者の癖(ダイハード)と見えます。関西の子供風に「どこがどう確かやねん。何もめーへんで」と言うところです。
「政治」は、後世の用語ですから、魏志「倭人伝」にある言葉で、一般読者にも納得できる言葉で語って頂きたいものです。

 案ずるに「大和」は(大和の、あるいは畿内の)政治の中心だった、と言う意味でしょうか。「畿内」の定義を辿ると、政権の中心を取り巻く地域を畿内と呼ぶのであり、「畿内」の定義が堂々巡りしている感があります。ともあれ、「世界」の中心と言っても、狭い「世界」であれば、中心も辺境もないと見えるのです。 好意的に「大和とそれに服従する地方権力の政治の中心」と読み解くとしたら自明の言い分でしかないので、この発言が何を物語っているのか、何を言いたいのか、依然として、皆目わかりません。
 論旨が不明で主張の声音の甲高さが耳に付くのは作者の特徴なのでしょう。

*やまと幻想の由来
 いや、三世紀の「大和」がどの程度の広がりを持ち、どこに存在していたかについて語らないのは、読者が勝手に、現在の地図上に広がる奈良県を想起することを期待しているのでしょうか。
 ちなみに、奈良県は南半分が山地であり、とても、三世紀時点、何かの政治の中心とは言えないのです。 率直なところ、当時の「大和」政権は、実態としては、奈良盆地南端の大和三山付近の交通不便な山間僻地(まほろば)で、山並みに外敵から守られて、ひっそりと隠遁していたように思えるのです。現代で言う「中和」界隈です。
 その姿を「臥竜」と見る人もいるようですが、多分に結果論の産物でしょう。雲を呼んで天に昇るまでは、蛇/朽ち縄の類いに過ぎないのです。目覚めるまでに数世紀にわたる長い「午睡」とも見えます。

 これもまた、現代の世相を、無造作に、誇大に、古代に投影して読者に勝手な心証を形成させる時間錯誤戦略の一例と言えます。

*里程素人への苦言
 以下、冒頭の古代ロマンから、突如、魏志「倭人傳」の里程表記の解釈談義にそれてしまいますが、言いかけた大理論を放棄して、里程を論ずる意義が不明です。まして、「倭人伝」の里程記事解釈は、文献解釈の嵐渦巻く渦中にあって、世上に表明されて居るだけでも、百人百様で、所説混沌の闇鍋状態であり、考古学者の素人思案の介入すべき分野ではないと見ます。

 ともあれ、同時代唯一の文字資料「倭人伝」の順当な解釈によれば、「大和」は出る幕が無いというのが、学問としての大勢なのですが、盆地という外界と隔離された世界で、三世紀前半と明記された時点で、「大和」が世界の中心だったという同時代史料は、本当にあるのでしょうか。
                                未完

私の本棚 8 都出 比呂志 「古代国家はいつ成立したか」 改補 3/5

 岩波新書 2011年8月   2014/05/23 分割再掲 2020/06/17 2022/12/22
 私の見立て★☆☆☆☆ 文献史学部分 氏にとって鬼門か それ以外は好著 ★★★★☆

*記事批判 承前
 それ以外の点として、著者の史料解釈と言うか史眼には疑問を感じます。
 76ページ 魏晋政権移行の読み解きは不可解です。

 司馬懿が敵対勢力を一掃したのは、正始十年(249)であり、倭国景初遣使の十一年後です。
 「倭人伝」を含めた魏志をそのまま読むと、倭国の使者が着いたのは、(明帝)曹叡の景初年間の末年であり、景初三年元日に明帝が崩御した後、継嗣曹芳が、司馬懿と曹爽の補佐下に即位しています。翌年正始元年になる前の一年は、皇帝の居ない景初三年であり、それにしても、司馬懿の簒奪は、随分後、十年後という事になります。
 正始元年時点で、司馬懿は既に老境でしたから、曹爽は、持久戦に持ち込めば、いずれ、司馬懿は老化して、ついには寿命が尽き、後は、卒然と天下が固まると日和見していたのでしょうが、当時最強の策謀家の十年かけても良いという謀略を想定していなかったようです。
 魏志を読む限り、司馬懿が決然と蹶起して敵対勢力を打倒するのは、一旦、政権から身を引いて老耄と見せた擬態の後です。氏は、何か、勘違いをして、このように書いたのでしょうか。受け売りするにしても、相談する相手を間違えたのでしょうか。少なくとも、魏志原文どころか、翻訳文も読んでいなかったのでしょうか。

*時代考証の不具合
 続いて、三国時代の曹魏は、南の呉と東北の公孫氏に挟まれて危機にあった」としていますが、曹魏の現実の脅威は、西方で、曹魏を打倒して漢(後漢)を再興しようと北伐軍をほぼ各年で起こして、関中を侵略した蜀漢であり、これは、妥協を許されない大敵なのです。また、蜀漢と西の涼州勢力は、曹操との敵対を経て、蜀漢と同盟していて、曹魏の勢力は、西域どころか涼州にすら進出できず、後漢代には、遙か西方万二千里の安息、月氏にまで威令を振るった西域都護は撤退し、大軍を派兵して維持していた「西域」は、とうに喪われていたのです。
 次いでは、蜀漢の進撃に乗じて、東方で江北への進出を見せた東呉ですが、別に天下を取る野心はなく、単に、江南での自立を狙っていたのです。つまり、もともと不得意な騎馬軍団での戦いは勝ち目がまるでないので、魏の打倒は目論んでいなかったのです。と言うことで、ついぞ、国力を傾けて長江を渡って、侵略してくる危険は、まるでなかったのです。東呉は、蜀漢との同盟が維持できず、勝手に服従を申し入れるのですが、と言って、人質を入れるわけはなく、他方、曹魏の側から、大軍を長江南岸に送り込んで争う意図もないのです。ここでも、相談する相手を間違えたのでしょうか。

 東北の公孫氏は、これら三国に比べて断乎小者であり、後漢の「郡」であった遼東の小政権に過ぎず、曹魏に追従していたのが、何を間違えたのか、公然と自立したのは、討伐を承ける直前の短期間のことです。公孫氏を曹魏の「宿敵」と呼ぶのは、誇大表現も甚だしいのです。
 公孫氏が、曹魏を打倒して中原を制する野望を持っていて、洛陽の強大さを感じられないで自立したとしたら、それは、妄想としか言いようがないのです。何しろ、公孫氏は、洛陽に人質を取られていて、普通に考えると、反抗できないのです。そして、皇帝に反逆した場合、一族皆殺しは当然であり、公孫氏の場合も、郡関係者が根こそぎ一掃される結末が待っていたのです。楽浪郡と帯方郡が皆殺しにならなかったのは、両郡が、皇帝の密命で、本格開戦に先立って、早々に太守交替して、公孫氏の指揮下を離れて皇帝直属に組織変更になったので、大罪に連座して処刑されるのを免れたのです。(解任された郡太守は、当然厳罰に処されたでしょうが、大勢は、免罪されたと見えます)
 因みに、東呉は、何度か服従しそうな態度でしたが、人質は出していないのです。かたや、公孫氏の人質は、処刑を免れなかったのです。

 曹魏と公孫氏の国力の差を示すように、司馬懿は、蜀漢との闘争が、諸葛亮の死によって退潮したのをよいことに、東呉の北方への進出を恐れることなく、決然と大軍の討伐軍を率いて進撃し、速戦即決、と言っても、一年かかったのですが、それはそれとして、一方的に討ち滅ぼしてしまったのです。

 氏は、中国史に疎かったとして、受け売りするにしても、相談する相手を間違えたのでしょうか。

 自作の展開に都合がいいからと言って、周辺諸国の情勢を手前味噌の解釈で煮染めていくのは、感心しない手法です。信用をなくす原因です。世間には、中国史に詳しい素人もいるのです。

*謎の公孫氏銅鏡
 80ページ 卑弥呼は三世紀初めに公孫氏から画文帯神獣鏡を入手し、近畿周辺首長に配布したとしますが、史料に基づかない空想(古代ロマン)です。そのような記録は一切残っていないのです。
 確実なのは、近畿周辺の首長ないしはリーダーが、何らかの手段で画文帯神獣鏡を入手し、それが、いつしか拡散したと言う点だけであり、そのような入手の時期も原産地も何もわからないし、拡散が一方的な配布なのか、対価を取ったものなのかも、わからないのです。
 世間相場では、凡そ新説の90㌫以上は、ホラ話、勘違い、与太話の類いで、世に言う「ジャンク」であり、どこかゴミ箱に放り込むのが妥当な対応です。都出氏ほどの名声の方が、未検証の風評を蔓延させたのは、氏の晩節を穢す汚点になりかねないもので、ぜひ、ご自愛頂きたいものです。どうしても、道ばたの落とし物にかぶりつきたいなら、せめて、誰か命知らずに毒味させるのが賢明です。

 氏ほどの名声の方が、あえて自説に採り入れるのであれば、推定の根拠、出所と共に、仮説と言うにも値しない推定であることを明記するものでしょう。

*日本最初の王
 82ページ 卑弥呼を「日本最初の王」と呼んでいますが、意味不明です。

 「卑弥呼」の時代「日本」は存在しないので意図的な時間錯誤です。
 魏志「倭人傳」には、卑弥呼以前は男王であったと明記されています。「男王」は「王」ではないのでしょうか。
 そして、それ以前、倭に、王は、一切いなかったのでしょうか。なぜ、そう思うのでしょうか。
 魏志「倭人傳」を見る限り、伊都国には、王位が継承されていたように読めます。

 ここまでに、古代(三世紀のことか)における「日本」が何を指すのか明示されていないので、現代人の感じる「日本」と見ざるを得ないのですが、古代「日本」は、存在しないので、王などいるはずがないのです。
 また、氏が、一度「西日本」と言い、次は、「日本」というのは、世界観が動揺/迷走しています。

 要するに、素人考えで迷走して、読者の信用をなくしているだけです。それとも、史料解釈などを受け売りするにしても、相談する相手を間違えたのでしょうか。
                              未完

私の本棚 8 都出 比呂志 「古代国家はいつ成立したか」 改補 4/5

 岩波新書 2011年8月   2014/05/23 分割再掲 2020/06/17 2022/12/22
 私の見立て★☆☆☆☆ 文献史学部分 氏にとって鬼門か それ以外は好著 ★★★★☆

*記事批判 承前
*「古墳時代」ずり上げの暴挙
 氏は、ここまでに現れたように、自説の展開に好都合なように諸資料を踏みならしているのではないかと不信感が募ります。「学術」を標榜するにしては、誠に、無責任な言い切りと言えます。伝奇小説、フィクションと呼ばざるを得ないのです。
 氏は、「古墳時代」に、「地方権力」の中でも、後世用語で言う「近畿」政権が勢力を増して、支配を広げていったといいますが、氏が盛大に吊り上げた「古墳時代」を真に受けると、「邪馬台国」時代に、すでに古墳形成が活発であったと言うことになります。

 そんなに早く大規模古墳を作り始めたら、各地の造成も刷り上がり、忽ち、時代が錯綜すると思うのですが、お構いなしです。いずれかの時代に、大型墳丘墓の造成が開始したにしろ、それがいつであったかと証する確たる文献がない限り、考古学による年代比定は、常に推測/憶測となるはずです。

 果ては、継体時代に「日本」(?)が朝鮮半島に進出して古墳を形成したことになっています。これもまた、壮大な古代ロマン(妄想)と言わざるを得ません。作者には、心地良い成り行きでしょうが、それは、適確な裏付けがない限り歴史考証でなく、作者の夢想でしかないのです。「浪漫派」宣言なのでしょうか。

*史料誤引用
 84ページ 『宋書「倭国伝」による』として、「」書きで申し立ての趣旨を引用していますが、引用の諸所で、原文史料の簡潔な語句を潤色しているので、誤伝の類いではないかと懸念されます。

 宋書に収録された上表文には、この通りに書かれていないのです。引用手法のルール違反です。コピーペースト手違いでしょうか。

*誤記の踏襲
 ついでながら、ここで出てくる「宋」は、中国南北朝時代の南朝側の宋であり、劉氏が皇帝となったので「劉宋」と呼ばれます。
 南宋と呼ぶのは、後世の趙氏の宋と錯乱していて、明らかな間違いです。
 松本清張氏の「空白の世紀」にも、同一の誤記があるので、どちらかが引き写ししたのか、どこかに、漢字の読みの不自由な親亀がいるのか、興味を引かれます。コピーペーストの手違いでしょうか。

*史料誤解の山積
 以下の諸国形勢の書き方も、不正確な言い回しが多く、作者の(無)理解のほどが懸念されます。
 一例として、高句麗は、「朝鮮半島北端」の国などではなく、おそらく、西暦紀元前二世紀頃に現在の中国東北部に発生した国です。それが、二世紀頃になって、朝鮮半島北部にも勢力を伸ばしてきたものです。
 以上のような「思い違い」や「恣意のこもった言いつくろい」が多数見受けられるので、本書の学術的な著作としての主張に信を置くことができません。

*素人迷走の抑制策
 総合すると、作者は、文献批判の習慣がなく、また、相当中国史に(かなり)弱いようですが、それならそれで、自作を発表する前に、中国古代文献に造詣の深い、信頼できる専門家のチェックを受けるべきではなかったのでしょうか。そうした当然の手順を踏んでいれば、ここで、素人のアラ探しに身をさらすことはなかったのです。大変、勿体ないことです。

 あるいは、出版社編集部の校閲の範囲とも見えます、新書部門は、原稿校正しないのでしょうか。信用をなくすというと聞き心地が良いのですが、既に、新書は、一切編集/校閲しないのでしょうか。

                                未完

私の本棚 8 都出 比呂志 「古代国家はいつ成立したか」 改補 5/5

 岩波新書 2011年8月   2014/05/23 分割再掲 2020/06/17 2022/12/22
 私の見立て★☆☆☆☆ 文献史学部分 氏にとって鬼門か それ以外は好著 ★★★★☆

*考古学所見の前提不備
 誤解されると困るので再説すると、本書の以下の部分で展開されている遺跡・遺物に関する知見は絶大なものがあります。
 しかしながら、たとえ、確かな知見に基づく考察の最終的な結論が正確なものであるとしても、そこに至る論説が不正確なものであり、その過程で、論旨のすり替えを弄したり、立証不十分なものを既定の事実のごとく論じたりしているのでは、学術的に価値の無いものと見ざるをえないのです。
 古代史の「世の中」には、結論さえ良ければ、つまり、「結果」が出さえすれば、発端も途中経過もどうでも良いという風潮が漂っているようですが、都出氏は、学の人と思うので、敢えて苦言する次第です。

 当ブログ筆者の守備範囲はここまでとして、締めくくりにかかります。

◯総評~論証なき世界観の押しつけ
 著者ならぬ作者の提示した資料とそれに基づく学術的な分析を虚心に読み取ると、三世紀には、「地方権力」が分立していて、「西日本」を包括する「古代国家」は形成されていないのであり、「古代国家」は、早くて六世紀、おそらく七世紀後半に成立したと見るのが順当な見方と考えます。

*物には脚がある
 高価貴重な物は、遙か彼方の相手に進物として贈呈されることがあっても、往来に数ヵ月を要する遠隔地は、遠征征服が至難な別天地であり、そうした遠隔地を征服、従属させても、現地地図と戸籍を提出させ、それに基づいて年々公租を取り立て、時に、戸籍を根拠に派兵指示して従わせる「支配」の必須の要件は、文書あってのことであり、それを文字の無い三世紀に実現するのは、更に困難(不可能)と言わざるを得ません。

 広域支配する古代国家が持続可能に成立するかどうか決するのは、その時代相応の社会基盤(インフラストラクチャー 「インフラ」)の整備状況であり、その視点から点検すると、「西日本」を支配する古代国家を三世紀に早々と実現するのは、不可能と見るのが順当な解釈と考えます。

 言い換えれば、インフラが完成するまでは、数世紀にわたり緩やかな交流が続いていたと見るべきでしょう。「物には脚がある」とは、近隣交易の「鎖」が繋がれば、遠隔地まで、いろんな物が自律的に移動するという意味です。

 作者の説く古代国家早期形成説は、遺物、遺跡解釈と遊離し、「邪馬台国」が畿内で西日本を統一支配したとする古代「ロマン」の世界に遊ぶものです。

 因みに、塩野七生氏によれば、「インフラストラクチャー」は、古代ローマ起源の概念なので、三世紀史論で時代錯誤ではないのです。

*火と水の試錬による検証
 そのようなロマンが健全な学説となるには、古代国家の骨格となるインフラの論証が必須でしょう。

 古代「ロマン」あふれる世界観は、第三者の追試によって原データの厳正さとそれに基づく論理の有効性の試錬なくして本物と言えず、それなくして、時代ずり上げ古代史観は成立不可能でしょう。

*「前提の乱調」整備の提案
 この無理な論説を取り除いても、氏の本来の論旨は揺るがないと見るので、ここに思い違いの数々をことさら無遠慮に指摘させていただいているのです。

*編集不備の指摘
 小生のような、一介の素人にぼろぼろと学術的な欠点を指摘されるようでは、本書の校正は手抜かりが多いと慨嘆を禁じ得ず、また、地方自治体が主催した「古代歴史文化賞大賞」の選考過程に疑問が感じられます。

 合わせて、厳正な論文審査がなされていないように危惧します。

 本書を古代浪漫として唱えるのであれば、歴史文化賞の小分類として「フィクション」として評価すべきと思われます。

 最後に念押ししたいのは、以上は、「古代ロマン」や「フィクション」を否定するものではないのです。三世紀、魏志「倭人伝」の世界を、現代人に理解しやすいように物語で綴るのは、また、一つの創造芸術と思うのですが、その際、本書に描かれているような誤解と誇張の映像化は、勘弁して欲しいと思うのです。
 文字で書かれているだけなら、誤解、勘違いもさほど蔓延しないのですが、もっともらしく絵物語にされると、広範囲に蔓延して、駆除しようのない大惨事になるのです。「フィクション」とは、大ぼらや大嘘のことではないのです。

                                以上

2022年12月19日 (月)

今日の躓き石 NHKが泥を塗った「唯一無二」の決意の輝き

                      2022/12/19

  今回の題材は、公共放送NHKの看板番組「NEWS WATCH 9」の途方も無い愚行である。

 サッカーワールドカップで輝かしい成果を得たポイントゲッターのインタビューで、選手が「リベンジ」、つまり、恨みを晴らす血の復讐を宣言しているのを何度も取り上げたのに加えて、キャスターまで汚染蔓延に同調して「リベンジ」と叫んでいたのは、何とも、情けなかった。それにしても、勝って当然、負けたら報復とは、とてつもない誤解を抱えた世界観の腐敗が漂っている気がする。こんな問題発言を報道して、視聴者にどう感じろというのか。困ったものである。

 「リベンジ」は、どうやら、戦前以来の蛮習を引き継いでいる野球界独特の発言だと思っていたが、サッカー界で、しかも、欧州で活躍している一流の選手が、罰当たりな言葉をぶちまけているのは、何とも、情けないことである。サッカー用語の英語は、紳士の國「イングランド」から起こっているから、罰当たりな言葉への非難は厳しいはずである。今後とも、海外で活躍したいのであれば口を慎む事である。

 過去の番組から見て、NHKスポーツ担当記者は、どうしても選手に「リベンジ」と言わせたいのか、画面外で「リベンジ」を言うように誘導しているふしがあるから、今回も、うまく言わせたのかも知れないという疑惑がある。そうでないなら、今回の「放送事故」に近い失態について、懺悔すべきである。

 近来、NHKは、軽薄な若者に媚びて、国民のお手本となる品格を穢しているという批判があるようだが、今回もその流れかと思うのである。今回も、おおいに価値を落としているが、こんな番組作りをしているのなら、受信料はご勘弁頂きたい。お気に入りの若者層からたっぷり儲けて頂きたいのである。

 それにしても、僅かな発言内容で血まみれのテロリスト用語、「リベンジ」連発とは、選手の人格が疑われるのである。闘志を燃やすのは結構だが、敵を罵らなくても、闘志は維持できるはずである。口汚いのは、野球界だけで十分である。

以上

 追記すると、再放送のない「NEWS WATCH 9」でなく、 BSのdチャンネルのニュース報道によっても、堂々と「リベンジ」宣言している。
 ここでの報道は編集できるから、当の選手の恥が広がらないように、保護できたように思うのだが、そうしていないという事から、NHKとしてこの罰当たりな言葉を公認して、普及に努めているとも見える。本当に困ったことである。
 それにしても「エースとリーダー」になるのは、当人が勝手に言うことではなく、実力と人望、つまり、人格も合わせて問われると思うので、ぜひ、考えと言葉をそれにふさわしいように改めて欲しいものである。
 これは、NHK受信料の問題で無く、善良な納税者としての意見であるが、それにしても、次の四年間、全ての大会で対戦する相手を血祭りに上げて、今回の敗戦の悔しさを思い知らせるというのは、NHKとして報道するような意見なのだろうか。

 因みに、別の選手の談話報道には、このとんでもない暴言は出てこないから、サッカー日本代表チームの公式見解では無いかも知れない。言っている内容に変わりはないように思うので、日本代表チームにふさわしい広報担当は居ないのだろうか、誠に不満である。これもまた困ったことである。「リーダー」にふさわしい、自省された「大人」、「紳士」の談話に、大いに感服する。

以上

2022年12月 4日 (日)

新・私の本棚 ブログ記事批判 刮目天一「邪馬台国問題で短里説はこじつけだ」 改改 1/5

    2019/12/06 補充 2021/02/13 2022/01/23 2022/12/04 2024/06/21
私の見立て ★★★☆☆ 奮闘 真摯

〇はじめに
 さて、かねて一言を求められていた刮目天一氏のブログに、当方守備範囲記事が書かれたので、恐る恐る記事批判を試みます。例によって、商用出版物書評でないので、個人の意見に文句を言う目的ではありません。無批判で採用される俗説や勘違いと思われる点を指摘し、口調は固くなるものの、そう書かないと話が捗らない決めつけ調で、別に決め付けてはいません。
 また、ここに公開するのは、一回の苦言で広く影響を与えたいというサボり根性であり、別に、面白がってはいません。全てこれまで通りです。

〇総論
 今回の記事だけかも知れませんが、兄事する氏の掲題記事は、冒頭から沢山の要素が、出自は書かれているものの、趣旨が明解で無いまま積み上げられていて、何が、本旨なのか、その本旨をどのような論拠で積み上げているのか不明確で、読者は困るのです。食わず嫌いを強制されているようです。
 いや、氏の本来の意図は、じんわりとわかるし、言いたいことをしっかり主張しようと思ったら、引き合いに出すべき資料が殺到して、記事が膨れあがるのは、ごもっともですが、氏の意図が、読者を説得しようというものであればこの書き方は、仲間受けしたとしても、「善意の冷やかし客を追い払う厄除け」としか見えず、「随分損してますよ」と言うしかありません。

 と言うものの、氏の本領は、「日本」古代史であり、「倭人伝」論義は、あくまで「余傍」と見えるので、別に角逐することはないと見ているので、少々無遠慮と見えても、ずけずけと物言いしているものです。

 と言うことで、ありふれた言い方で恐縮ですが、ネット、紙上を問わず、提言して頂く際には、言いたいことを箇条書きに書き分けて、それぞれに一回の記事を小分けして宛てるようにした方が、個別の記事の論旨が絞られて、賛成も反対も批判も同調も、大変やりやすいのです。

▢当ブログの芸風~ご参考まで
*記事構成~B5判で計量

 ご参考になるかどうか、当方の記事書きの定則は、近年採用している一太郎に依存して、B5縦書き二段組みの一ページ単位を意識していて計量していますが、縦書きブログ記事は運用困難なので、ブログ自体は横書きとしています。後は、淡々と小見出し付きにしているくらいです。

*史料引用は,文字テキスト主体~画像データは「控え目に」
 史料引用は、必要に応じて適法に、つまり、出所明記の部分引用としていますが、基本的に文字テキストにとどめています。画像データ、特に、図形資料のデータは、採用されている文字資料の文脈に従って読み取らないと、著者の意図に反した理解となる可能性があり、また、もし、二重引用になると、原著者の著作権を侵害するので、一段と差し控える必要があります。
 以上の定則は適法で、無作法を避けていると信じるものです。
 世の中には、公開記事を複製利用禁止とするものもいますが、アクセス制限なしに参照できる資料を引用禁止とするのは知的財産権に関して違法です。
 と言うことで、当記事は、当方の定則で言えば、各引用資料の批評記事を分離して、本体部分の読み取りを明確にすべきです。

〇本旨批判
 邪馬台国問題が収拾つかなくなった最大の理由の一つがこの短里説なのだ(;一_一)
 行末の落書きは、学術的な論議に於いて無法な落書きとして無視(*^ー゚)すると、この本旨は、次のように因数分解できます。

 後知恵で追記すると、現今の若い方には、文末が、「。」「.」などの句点記号で終わっているのを目にすると、「ショック」を受けて、一発拒否する人が少なからずいるということを最近知りました。刮目天氏の記事は、して見ると、広く万人に受け入れられていて、当ブログのように「権力」の脅迫を感じさせる記事は、「嫌いm(_ _)m」なのかなと思う次第です。と言うことで、遅ればせながら、不明をお詫びします。
 下行で、「一般読者」に言及していますが、多分、当方の誤解でしょうから、気になさらないでください。
2024/06/21


 「邪馬台国問題」が「収拾つかなくなった」「最大の理由」の「一つ」が「この短里説なのだ」

 氏が、真剣に自説を主張し、真剣に一般読者を説得したいのであれば、当記事の本旨は、順を追って説きほぐさなければなりません。

                                未完

新・私の本棚 ブログ記事批判 刮目天一「邪馬台国問題で短里説はこじつけだ」 改改 2/5

           2019/12/06 補充 2021/02/13 2022/12/04 2024/06/21
〇分解写真的分析
 指導的助言は、本来嫌われるものであり、特に、細かく区切った分析的な批評は、「面子」を潰されるとして、大変嫌がられるのは承知しているのですが、印象批判や感情論でなく、構文の難点を明らかにしないと批判した意味が無いので、敢えて以下のように「丁寧に」述べているのです。当ブログの書評は、概してこうしたすすめ方であり、「建設的」な「苦言」と考えているものです。

「邪馬台国問題」
 氏の周辺では自明なのでしょうが、一般的な解釈として、「邪馬台国問題」には、二つ、ないしはそれ以上の「問題」、つまり、「検討課題」が含まれています。提起されているのは、「所在地問題」のようですが、何を課題としているか、読者との間に合意がなければ、以下の主張は空転するだけです。
 つまり、氏の周辺で、氏の世界観、歴史観を共有している面々以外には氏の主張は展開できないという「問題」、問題点にぶつかるのです。
 因みに、伝統的な論戦では、「問題」(problem,question)は、研究者に対して与えられた課題であり、正解を得ることにより、一段と進歩するものなのです。

「収拾つかなくなった」
 「収拾がつかない」とは、どのような現象か、一般読者に理解できません。氏の周辺だけで通じる言い回しは、まず、丁寧に説きほぐす必要があります。氏の困惑の内容が理解できないと、解決策も浮かびません。

「最大の理由の一つ」
 氏の理解では、収拾つかないという重大事態の発生した原因は、「最大の理由」と一山いくらでなで切りにしていて、他にも幾つか上がっているようですが、それらはどんなものなのでしょうか。
 この言い方は、英語系の由来のようですが、大抵は、追求を避けるための言い崩しの「逃げ口上」のようです。氏ほどの論客であれば、「理由の中で最大のもの」と正統派の文法に留めるべきでしょう。何しろ、誰も、理由の大きさを見ていないので、「最大」「最大の次点」の見分けは付かないのです。

「この短里説なのだ」
 氏の理解する短里説」が悪者になっていますが、自分で仮想敵を作り上げて攻撃しているのか、何なのか、この部分にも、背景説明が必要です。
 当ブログ筆者の意見では、「倭人伝」道里記事は、書かれている道里が、一里が周代以来不変の「普通里」(450㍍程度)の一/六程度の「短い里」(75㍍程度)と見た方が筋が通るという史料考証から来ているものです。
 1.よほど、個性的な解釈をしない限り、ここまでは「倭人伝」道里記事の解釈としては、筋が通っていると見えるはずです。
   筋が通っているというのは、当時の口うるさい読者が、了解したと言うことです。
   三世紀の政府高官が、揃って「ぼんくら」ばかりで、筋の通らないこじつけを見過ごしたというのも、相当な「こじつけ」です。
   大体、殆ど読者のいない「魏志」の中でも、不人気な「東夷伝」のしっぽの「倭人伝」に、大変な仕掛けをこめても、何の報いも
   無いというものではないでしょうか。
   何しろ、三国志全巻の写本は、大層な手仕事ですから稀覯書本であり、晋朝高官でも、所蔵しているものは希であり、
   まして、内容は、難しい言葉の羅列で読むのが苦痛であるから、感心の持てるのは、ご先祖様の伝くらいであって、
   「司馬仲達伝」があるわけではないので、「広報」「啓発」文書効果など無いのです。
 2.「短里説」は、大抵の場合、当時現地で公的な制度として「短い里」が施行されていたという「作業仮説」です。
   「作業仮説」は、まずは、根拠の無い「思いつき」であり、提唱者は、裏付けを求めて奮闘しなければなりません。
   これまで、膨大な労力が費やされてきた、史料捜索は、無意味で片付けるのでしょうか。(個人的には、同感です)
 3.魏晋朝と時代を限った「短里説」も、根拠の無い「思いつき」ではないかと見る向きが多いのです。
   「里」を大きく変更するのは、経済活動が破壊され帝国が崩壊するので、全く記録に残らないということはあり得ないのです。

 氏が、「短里説」を撲滅しようというのであれば、「この短里説」などと、「一刀両断」の大なたを振るうのでなく、1.2.3.のどの段階を言うのか、それとも、1すら認めない0なのか、まずは、明確にする必要があると言うことです。このように、キッチリ区切って、区切りごとに是非を論じていけば、議論は、本来、次第に収束するはずです。

 以上、しつこいようですが、氏が、本旨に示した見解を世に問うのであれば、不愉快であろうが、面倒であろうが、辛抱して踏まねばならない手順なのです。氏が、敵とひたすら戦うのでなく、広く賛同者を募りたいのなら、と言うことです。

 因みに、当方が、各位の意見を参照するときは、記事本体に至る前に、本旨の展開の際に、論理的な資料考証がされているかどうかを見た上で、記事を眺めるものであり、氏のブログの場合は、以上の短評でおわかりのように、参考にならないとして、質問がなければ回避するものです。当ブログでしばしば顔を出す「門前払い」というものです。

 以上、何かの参考になれば幸いです。

〇記事短評 ジャンク資料の山
*巻頭動画紹介氏の批判対象であり、当方は、当動画の内容について氏を批判していません)
 まず、ずっしり重い動画ですが、検証、批判可能な文字資料として提示されたのではないので、史料批判に値しないジャンクであり、読者迷惑です。論証したいなら、「レジュメ」を公開すべきです。「こじつけ」を押し付けるなら、一段と、文書展開が必要です。
 当方も、影響力の大きいテレビ番組に批判を加えることがありますが、当史料は制作者自身論証努力を放棄しているから、論評すべきではありません。
 以上は、動画作家への批判、非難です。

 文字資料は、分析を加えることによって、正確に内容を把握できますが、画像資料は、制作者の主観で加工され、演出されているので、内容の理論的な把握が不可能です。まして、「イメージ」と称する「イリュージョン」は、もっての外です。各地で講演を重ねて収入を得るのが目的であれば、派手な演出で人気を得るのが良いでしょうが、氏は、学問の道を進んで、広く理解者を広めようととしているはずですから、「悪い子」の真似はしないのが良いのです。

*航路図の道草
 これは、「イリュージョン」の典型です。「倭人伝」は、「千里渡海」と見立てているので、現代地図上に根拠不明の古代航路を引いた、児戯とも見える絵かきは無意味です。論評すべきではありません。

*「海島算経」の道草
 「答と解法」の提示者が「峰丈度」を里で表示していますが、山の高さは、「丈」で表示するものであって、けっして、「道里」の単位である「里」で表示されることはなく、これは、全くの門外漢の素人解釈です。論評すべきではありません。
 里は、まずは、農地などの広さを示す「方里」であり、ついで、拠点間の「道里」出会って、山の高さなどに適用することはないのです。

 いずれにしろ、同資料は、街道道里などを示すためのものでなく、取り扱いやすいように数値を揃えた「問題」に対する幾何学的な解法を示したものであり、国家制度を示したものではありませんから、氏の主張の裏付けとして役に立たず無意味なのです。「取り扱いやすいように数値を揃えた」とは、計算過程で分数や小数ができるだけ出てこないように「下駄」を履かせるものであり、現実の数値とは限らないのです。

 本項資料は、引用図、文章が錯綜としていて、誰が何と言ったのか確認困難です。「三角関数表」など、半世紀以前の遺物表現で、計算尺、関数電卓から、PCと推移して、今や、特別な装備は何も要らないのです。いや、つまらない余談でした。

*道草の回顧
 氏は、このような愚論に真面目に対応したために、肝心の本旨を見にくくしています。ゴミ資料は、ゴミ箱に放り込み、本体部では一切参照しないのが賢明です。読む方にとって新説であり、ずいぶん楽になります。

 と言うことで、続く項目は無視しています

 漢文古典である倭人伝」は、「倭人伝」自体の文脈、陳寿の見識/深意で理解するのが大原則であり外部文献を導入するなら、まずは、正史、ないしは、正史同等の権威ある史料に限定して史料批判し、ゴミは断固受付拒否すべきです。当ブログで大事なのは、「倭人伝」道里記事見極めなので、圏外ゴミで道草するひまはありません。

 くたびれたので、以下の論考は追跡していませんが、どう見ても、筋の通った「新説」を提示しているように見えませんし、そのような展開を予告するタイトルでもないのです。ただ単に、氏の思う妄説を否定する記事とわかれば、こんなに字数は要らないのです。
 ふと周囲を見ても、冷やかし客は姿を消して、閑古鳥が啼いています。いや、閑古鳥は当ブログにも住み着いていて、人ごとではないのですがね。(苦笑 (^_^;))

                                未完

新・私の本棚 ブログ記事批判 刮目天一「邪馬台国問題で短里説はこじつけだ」 改改 3/5

               2019/12/06 補充 2021/02/13 2022/12/04 2024/06/21

〇倭人伝道里解釈論の試み
 さて、以上のように、大前提を見定めた上で、目前の倭人伝道里を語らねばならないと思い、自説をぶっていくので、みなさん御覚悟ください。

*原則と例外
 端的に言うと、秦漢代以来の歴代官制で、行程道里の一里は、今日の四百五十㍍程度の「普通里」であって、尺からの換算、一歩(ぶ)六尺、一里三百歩は、一貫して(実際上)不変という明解な大原則がありながら、倭人伝」道里が「素人目に」不条理に書き残されたかのように見えるということです。しかし、史官が、職責を放棄して、つまり、身命を擲って、公式史書に不条理や無法を書くはずがありません。また、同時代の読者が許容するはずはありません。

 ここで、当方は、倭人伝」は、正統派の史官である陳寿が、魏朝に残されていた倭人に関する基本資料、政府公文書を、どうして、現在ある形で収録したか、陳寿の視点に近づいて、理解しようとしようではないかと言う控え目な主張なのです。

*同時代史料確認
 とは言え、纏向遺跡を中心に世に蔓延している頑固な俗説を洗い流すのは、容易ではありません。学界の権威者長老が、いわば、「無面目派」混沌愛好会に属して、巨大な泥沼の維持に血道を上げているから、心ある論者は、健全な世論を回復すべく、辛抱強く丁寧に努力しています。

 要は、「倭人伝」記事を、原文を離れることなく、理詰めで解釈すると、「畿内説」は、一切成立しないので、倭人伝の理詰めの解釈ができないように「フェイク」情報をばらまいているのではないかと疑っているのです。議論して勝てないときは、泥沼に誘う込んで、ドロレスリングにしろ、と言うのが、「混沌愛好会」の得意技なのです。

 「倭人伝」道里における「こじつけ」』は、前世紀に錚錚たる大家によって創唱されているので、新参の「短里説」が紛れ込むことは、無理なのです。 

 当方の定則は、倭人伝」は「単独の史料として合理的に解釈できる」というものですが、論中に現代産物の「短里説」は存在しないのです。

〇エレガントな解法 無理なく明解な読み解き
 当方の理解では、「倭人伝」は、当時の中原教養人、つまり、洛陽政権の中核である中国文化の知識、教養を修めた皇帝を初めとする高官人士が、それなりの努力を払えば、「問題」無しに読解できるものです。なぜかというと、陳寿が三国志を上申したとき、これら教養人が理解できない書法があれば、ほぼ確実に拒絶されるからです。

 「倭人伝」談義でよく言われるのは、倭人伝」は、古代中国人が、同時代の中国人のために書いた史書である」との断片的な引用ですが、後に続くと思われる「従って、現代日本人が(自然に)解釈すると、(ほぼ自動的に)誤った解釈になる」との重大な警句が欠落しているので、折角の警告が伝わっていないのです。
 但し、このような見方は、別に排他的なものでなく、一つの歴史観ですから、別に慌てて否定しなくても、命に別状はないのです。

 当時の知識、教養は、太古以来、秦漢に至って確立されていて、魏晋朝で俄(にわか)に一部人士が提起した新規な用語、知識は含まれないのです。「正史」の概念が未形成でも、三国志のような公式史書に求められる基準は明確と見るべきです。史書は、記録を集積、編纂する史官として養成され、その資質を確認された史官のみが、公式史書を編纂しうるものであり、「史官」は、単なる官職、官位ではないのです。
 もちろん、周代に始まったと見える史官の「記録」係としての使命は、陳寿の時代の直後、西晋が乱脈治世の結果深刻な内乱に陥り、各勢力が導入した北方異民族の傭兵の反乱によって、国家としての機構が瓦解したときに、大きく損壊されたので、江東に「東遷」した東晋代以降には、かなり形骸化したようですから、西晋までと東晋以降では、史官と史書の評価は異なります。

〇無謀な改竄論  よその人(複数あり)の話、つまり、氏に関わりの無い「余談」です
 ここまでに字数をかけて、史官と史書について説明したのは、世上の議論に、現代的な不規則文書管理をこじつける向きがあるからです。
 例えば、公式史書として帝室書庫所蔵の三国志に対して、外部から改竄の手が加えられたなどと言う暴論がありますが、それは、今日の公文書改竄風潮の悪しき反映であり、ジャンクとして排除されるべきものなのです。念のため言うと、改竄論者は、帝室書庫に侵入して改竄したと言っているのではなく、世上の高級写本を改竄したと行っているに過ぎないと弁明するかも知れませんが、正史は、時に、帝室原本から写本を起こして、世上の「野良」写本の是正を行うものであり、勝手な改竄は、遅かれ早かれ淘汰されるのです。

 そのような粗暴で低俗な論法で良いのなら、古代史資料は全て虚妄、史官は全て嘘つきという主張が成り立つのです。岡田英次氏や渡邉義浩氏のもっともらしい暴論に染まっていなければ良いのですが。

*道草~ジャンク否定の不毛
 三世紀当時の公式史書は、竹簡などの簡牘片を長々と革紐で繋ぎあげた巻物であり、少し下ると、次いで、同様の装幀で、台に巻紙を使用した紙巻物となり、いずれも、大変な労力と技術の産物ですから、偽造、改竄は全巻対象となり論外なのです。後世も後世、北宋期以後の木版巻本になると、一枚物の各ページを袋綴じに糸綴じする形態になるので、頁単位の差替で済むのですが、その際は、印刷の際の木版原版が残っているので、巻本を改竄しても、持続しないのです。どう転んでも、三国志魏志第三十巻巻末の倭人伝の差替による改竄は、実行する術がないのです。
 さらに言うなら、三国志帝室蔵書の入れ替えという大仕事に紛れての差替となりますが、大仕事は、国家事業として、一流の文書学者が多数参加し、一流の写本工が多数参加して全文字写本するのであり、前後数回に亘って文字校正を重ねるので、勝手な差替は、忽ち露見します。

 どんな暴論も、現代の場で言うだけなら「ただ」(フリー)ですが、暴論を言うには、重大な立証責任が伴うのです。既に、改竄論者には、悪徳研究者としての烙印が押されていると見ます。
 今日は、「ジャンク」情報が堂々と世に広く出回る世相ですが、賢明な研究者は、そのような「ジャンク」情報に、目も耳も貸さないのが正しい対応です。
 と言うものの、敵は、すべて承知で「邪道」(斜めに進む道)を振興しているので、説得不可能であり、ここは、一般読者に「正道」(真っ直ぐ進む道)を説いているのです。

〇「倭人伝」道里の解釈
 背景説明を重ねると話は長くなりますが、趣旨は明解です。
 「倭人伝」道里行程記事は、「帯方郡から倭に至る道里」を書き出しています。
 但し、いろいろな事情があって、実際の行程を測量した数値ではないで、丁寧に読み分ける必要があります。
 いきなり、誤解が広まっているのですが、この記事は、魏使の現地調査報告に基づいて書かれた物ではないのです。なぜ、そう判断できるかという話は、後ほどのことにします。

▢第一段階は、帯方郡が定めた官道道里であり、郡から狗邪韓国までの「郡狗区間」を七千里としています。
 自明なので当然書いていませんが、当然、行程は、半島中央部を東南方に走る官道の公式道里であり、官制上「陸行」ないしは「陸道」しか、存在しないのです。帝国官制に従い軍が設けた街道、官道には、宿場と馬小屋を備えた関所があり、駄馬や驢馬が荷を担って通れる、騎馬で疾駆もできる、荷車も通れる、整備された街道だったのです。官道は、帝国の骨格ですから整備されているのが当然なのです。
 にもかかわらず、この区間の道里が、450㍍程度の「普通里」でなく、『75㍍程度の「短い里」で書かれているように読める』のは、何とも不可解です。「倭人伝」読者は、この「問題」への解を求められるのです。

 世上、里数は「誇張」と断定している向きがありますが、結論は、最後に捻り出すものであり、まずは、書かれているとおりに理解すべきです。これも、当たり前の話ですが、里数を六倍や十倍に「誇張」して手柄としても、いずれは、現地の情報が皇帝に露見して、関係者は家族諸共処刑されるので、そんな無謀なことはしていないはずです。武人の軍功は、その時、その場限りの話なので、監査役さえごまかせば、粉飾/誇張が露見しにくいでしょうが、行程道里は変わりようがないので、後日に確認できるのです。そして、郡太守は、本来、皇帝の意志で更迭/馘首されるので、行程道里の粉飾は隠しようがないのです。後世に恥をさらさないように、胡散臭い「誇張説」は、取り下げるものでしょう。

                                未完

新・私の本棚 ブログ記事批判 刮目天一「邪馬台国問題で短里説はこじつけだ」 改改 5/5

                     2019/12/06 補充 2021/02/13 2022/12/04
*「世界に普通」のつづら折れ~余談
 もちろん、刮目天氏の発言ではないのですが、後年の大和河内国境街道竹ノ内峠越えを直線距離と高低差で論じる愚かしい説がありました。
 ここでは、あくまで、余談ですが、近年まで奈良側旧道は、いたってありふれた幾重にも重なるつづら折れで運転手を悩ませ、時に転落車輌が出たのです。
 古代街道は、絶対、急坂を直登などしないのですが、そのような初歩的考慮のできない輩(やから)が、無造作に研究発表するのが目に付くのです。つまり、このような旧道区間を地図上で計測して、道里ならぬ直線距離を読み取っても無意味なのです。
 いや、現在は、一直線に竹ノ内峠を越えていく自動車道が整備されているので、これを道里と見る人が出そうですが、このような道路は、ごく最近まで存在しなかったのです。
 因みに、近来の新聞紙上で、河内側と奈良盆地側との交通、交流を論じる際に、大和川経路を強く支持する研究機関の代表者が、自部門の立場が不利と見て、竹ノ内経路を貴人が乗り物から転落しかねない急坂として弾劾している例が見られましたが、竹ノ内経路は、河内側の傾斜が緩やかな「片峠」であったため、急峻な奈良盆地側には、つづら折れの街道を設け、背負子を背負った人々がゆるゆると登坂して、二上山越えの経路が繁盛していたのであり、そのような史実を知らず、根拠無く弾劾したために信用をなくしている例となっています。ついでながら、担当記者は、実地踏査したものでないので、そのような史実を知らず、提灯担ぎして、恥をさらしています。実地踏査の労を怠けて、全国紙の紙面を汚しては、報道の者として、恥ずかしいのでは無いかと思います。
 いや、これは、氏に無関係な余談でした。

*倭人伝道里の考証~再開
 実道里の確定には、実見を要すると言うべきですが、「倭人伝」に戻ると、この間は、万二千里に及ぶ倭人伝道里では端数に過ぎず、倭人伝に特に必要の無い細目である事から、陳寿もさほど注意を払っていなかった筈です。
 基本的ですが、倭人伝」は倭地に「牛馬なし」と明記していて、「緊急連絡で街道を疾駆することはできない」と、強く示唆していることになります。従って、当区間道里は、郡管内と実質が異なる規格外の「不規則」里数である事が、事実上明記されているのです。
 どの道、倭地の内部の小国の配置や相互間の道里について、陳寿に責任を問うのは無理です。史官の務めとして、「述べて作らず」に、つまり、度を過ごして割愛、改竄せずに、原史料の記事を収録したことに感謝すべきでしょう。

 因みに、「世界に普通」の「世界」は、当時中原人の把握していた「天下」の意味であり、別に、地球儀上の全世界という意味ではないのです。また、「普通」は「世界」に普(あまね)く通じているとの意味であり、現代で言えば、「普遍」に近いのかも知れません、いずれにしろ、同時代用語の再現を試みたものです。

*道里勘定復習
 原点に戻ると、公式史料に必要なのは末羅国から倭への道里です。大局的には、郡倭」万二千里、そのうち「郡狗」七千里、「狗末」三千里であるから、末羅国から王の処まで二千里です。この議論に、短里説は全く必要ないし、先に挙げた理由で、「末倭」二千里は、どんな里であるか、保証できないのです。
 ここで言う末倭二千里の「里」は、表面的には、郡狗区間七千里という既知道里に基づいて、その概ね二/七と見えますが、郡倭万二千里は、出所、基準不明ですから、この二千里も、憶測を重ねた漠たる数字でしかないのです。

 何しろ、未開の地の未開の官道なので、魏朝の国内基準では判断できないのです。言い方を変えると、実際上、何もわからないと言うことです。「倭人伝」に、そのように地域の事情による道里が書かれていても、陳寿には確認のしようがないので、史官の務めとして、そのまま収録したとみるべきです。
 そして、東夷管理に最も必要とされる従郡至倭の所要日数の確約があれば、遠隔の蛮人の地の道里に、特に信は置かなくていいのです。

 そして、いくら後世人が、最先端の機器と最先端の手法を駆使して、最高の努力を重ねても、元史料がデータとして不確実不安定なものである以上、そこから確たる数字が読み取れることはあり得ないのです。つまり、倭人伝」道里をいかに解析しても、皆さんが望むように、女王の都の比定地が確定されることはあり得ないのです。

 この点は、遙か、遙か以前に安本美典氏が指摘している至言ですが、正しく理解されていないようで残念そのものです。

 後ほど、狗邪韓国以降の渡海と陸行の道里が、「周旋五千里」と念入りに示され、「倭人伝」道里は、当時の視点で見て、簡潔だが要を得ていると見るものです。

*道里記事の「淀み」の解決
 ここで、道里記事の淀みの解決について、触れておかねばなりません。
 投馬国へ「水行二十日」は、以上の行程道里の原則に反しているものです。末羅国以降の行程は、王の処まで「陸行」でありもはや「水行」がないとの規定であるように、投馬国は傍路、脇道であり、付け足しです。奴国、不弥国、投馬国の記事には、風俗、地理に関する付記がないのも、これらの国が、行程の通過する主要国でないことを、明確に物語っています。

 倭人伝の現存記事から見て、つまり、陳壽が必要と見た記事から見て、明らかに、伊都国は郡との交通、交信の終点かつ始発点であり、王の処は、其の至近でなければならず、そのような最重要道里が、水行二十日と官道なしの風任せ行程を挟んでいる筈がないのです。

 また、同様の筋道から、続く水行十日陸行三十日(一ヵ月)は、伊都~王の処までの道里行程の筈がないのです。

 なお、この部分を「都水行十日陸行一月」と読解し、従郡至倭の所要日数の総計との解釈が、古田史学の会古賀達也氏によって提起されていて、当ブログ筆者の持論と符合したので、ここで同志宣言しておきます。そのため、当ブログ諸記事から「南至邪馬壹國女王之所都。水行十日陸行一月」との解釈を退場させています。

〇「水行二十日」「水行十日、陸行三十日 」 の仕分け
 近来、「水行二十日」と「水行十日、陸行三十日 」の記事が、倭人伝道里行程記事の理解の「重大、絶大な妨げである」旨の指摘がありますが、以上のように、記事項目を仕分けすると、「従郡至倭」に始まる行程記事は、必要な道里記事だけが残されるので、円滑に理解できるはずです。(思わず、「自然に」と書きかけましたが、個人的な意見は千差万別なので、言葉を変えました。)

*伊都国起点の放射行程論議
~榎一雄師提言の評価
 以上の行程解釈は、榎一雄氏が実質的な創唱者ですが、もちろん、以上の論義のかなりの部分が氏の意見と異なっているのは承知です。

 例えば、榎氏の意見に従うと、伊都国から女王国の行程は「水行十日、陸行一月」であり、つまり、これを伊都国からの所要日数と見ていますが、まずは、国の根幹部の街道道里が不明で、所要日数しか書けなかったという解釈は、国体に似つかわしくないのです。
 また、文書通信も成文法もないので、女王が、伊都国から見て四十日行程の向こうに閑居していては、諸国どころか伊都国すら統御できないのです。とにかく、女王は、對海國、一大国、末羅国、伊都国と続く、頼もしい列強から遠く離れて、どこの誰を頼りにしていたのかと、疑問に駆られるのです。そのような蕃王の姿に、後世東夷のものが納得しても、三世紀読者は決して納得しないでしょう。
 榎氏は、道里記事をそのように解する前提として、「唐六典」の「陸行」一日五十里記事を援用していますが、それでは、郡から狗邪韓国の七千里は、百四十日を要することになります。それは、魏使が大量の下賜物を抱えて道行(みちゆき)できるものではないので「戯画」と見えます。要するに、倭人伝の「里」は、観念的なものに過ぎないので、場違いな情報で検算してはならないのです。

 陳寿は、そのような不適切な読みに陥らないように「倭人伝」独特の道里記事を工夫しているのです。そして、三世紀読者は、陳寿の書法に納得したのです。
 それにしても、氏の提言に関して、世上では、なぜか、理論的な評価がされていないようです。単に、氏の漢文解釈が不適切だという程度です。
 榎氏の発表時、先輩から「伊都国が、当時政治経済の中心だったと言いたいのか」と詰問されたように書いていますが、反論無しに、そのように書き残しているということは、文献に明記されていないので、史学論文に書けなかったものの、氏の論拠がそこにあると示していると見えます。

 このように明解で正当な仮説を否定するのに、未だに「子供じみた感情論や得体の知れない文法談義の屁理屈しかない」ようで、ここも、いたずらに混沌を書き立てている輩(やから)がいることになっています。

*行程道里記事の総決算
 つまり、「倭人伝」の眼目たる所要日数は、ここまで縷々述べてきた「従郡至倭」の総決算と見るものです。倭人は魏朝に服属したから、「従郡至倭」の総日数が不可欠であり、そのように読者に明示しなければならないと見るものです。つまり、洛陽の高貴な「読者」に、あれこれこむつかしい計算をさせるものであってはならないのです。と言うか、俗説にあるような行程解釈では、全所要日数が読み取れない不完全な史書となります。
 逆に、これが全所要日数という自然な結論を採用するなら、伊都国以降の進路がどちらを向いているとか、里数が実測かどうかなど、議論の必要は無いのです。「倭人伝」道里の公的史書における位置付けを思えば、「エレガントな」、つまり、複雑な謎解きと計算の要らない端的な解釈順当と判断できるはずです。

 以上が、当方の解法であり、自分なりに自信を持っていますが、そのように理解したくない、理解できない方が圧倒的に多いでしょうから、総選挙すれば、あくまでも、支持者のない孤説に終わるものでしょう。要は、山火事に柄杓一杯の水をかけているだけなのです。

*混沌の由来
 おそらく、刮目天一氏は、世上氾濫する安直な「短里説」それを取り巻く安直な議論を「混沌」と見たのでしょうが、「混沌」も目鼻をつければ「面目」を得て成仏するのです。一向にそうならないのは、おそらく、混沌泥沼を好む不逞の輩が、無面目の混沌に不法餌付けしているのでしょうが、そのような事態の付けを陳寿に持ち込むべきではないと思います。

*まとめ
 以上、保守守旧派の諸兄にとっては、嫌みたっぷりでしょうが、これが芸風なので、飾りの少ない平文を、冷静に読み通して頂ければ幸いです。
 当初、当地基準で五ページ(ややてんこもり気味)になって反省ですが、まあ、ほぼ全文が新規書き出しであり、勢いに任せた初稿の半分以下に縮めたのでご勘弁頂きたい。

*応答御免
 当記事は、随分コメントを戴いているので、応答をかねた訂正、改善を随時反映していることをご了解戴きたいものです。
 ここで書くのが至当かどうかわかりませんが、洛陽と倭人の交信では、景初遣使直前に、帯方郡から洛陽に、全体道里、全体戸数、などの要件が報告されたと見るべきです。
 つまり、景初年間の司馬氏の楽浪郡攻略の大部隊とは別の部隊が、楽浪、帯方両郡を、無血調略で皇帝直轄としたため、それまで長年阻止されていた倭、韓の報告が一気に開通し、皇帝の手元に、万二千里の遠隔の東夷が存在するという大発見が届いたと見るのです。

*不愉快な結論
 世上、「倭人伝」の道里は、後年、魏使の上申した「出張報告書」から読み取ったと見ている向きが多いようですが、数十人の人夫を要すると見える大量の下賜物と百人規模と見える多数の人員を使節団として派遣する際に、相手の正体や目的地までの所要日数などを一切下調べしないままに送り出すことはあり得ないのです。帯方郡の係員が現地調査して、当初の万二千里の報告と整合する報告を試みたはずです。

 但し、既に皇帝に承認された内容は、皇帝年代記に書き込まれているので、訂正が効かなかったというのに過ぎないと見えます。

 以上の経緯は、あくまで、最善の考察をこらした推定ですが、諸所に、先賢諸兄姉の反感を煽りかねない推定が試みられているので、こっそり書き始めているところなのです。

 頓首頓首。死罪死罪。(「読者」の逆鱗に触れても、いきなり死罪にならないように、平伏しているのです)
                                以上

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