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2022年12月13日 (火)

私の本棚 大庭 脩 「親魏倭王」 増補  7/12

 学生社 2001年9月 増訂初版 (初版 1971年)  2018/05/26 補充再公開 2020/06/24 増補 2022/12/13
 私の見立て ★★★★☆ 豊かな見識を湛えた好著 

*改暦談義~余談
 続いて、景初三年元日の明帝崩御に始まる正始移行について解説頂いているが、論理が乱れている。正始改元は、改暦を伴い、三年正月を二年「後十二月」に改め命日を正月から十二月に移動させたため、二年が一ヵ月増えたのであり、大庭氏が推定するように、三年が一ヵ月増えたのではないと思う。
 いや、既に景初三年暦が施行され<年中の改暦改元では、誤解が出回っても不思議はない。記録に旧暦新暦が混在し難航したと思う。ただし、曹魏は、文書行政の確立した「法と秩序」の世界であり、混乱は沈静化したと見える。

*改暦余波
 魏暦を引き写して元号は自立したと思われる東呉は、魏暦追随に、大変苦労したと思う。魏明帝は、就職早々に改暦して混乱を招いたが、皇帝の「気まぐれ」が、後世人に理解困難(実質的に不可能)なのは言うまでもない。
 この時期の呉書紀年に前後の食い違いがあっても無理からぬところである。
 なお、蜀漢は、後漢暦を継承していたから、既に、魏暦とのズレが生じていたものと思われるが、このあたり、素人の手に余るので、深入りしない。

*原則に背く不法文書
 書記神功紀の引用した「明帝景初三年」は、正史記事にあり得ない無法方であり、史料改竄している。引用に際して、原史料を改竄しないのが、史官の大原則であり、原則を守っていない史料は、信用できない。

*なかった/あった?「景初三年」
 皇帝没後の期間は、皇帝諡号を冠としない無冠の期間である。景初三年の場合、二年末に先帝が崩御しているから、本来、元日で改元し「景初三年は、存在しない」はずであったが、実際は、既に景初三年が進行していたから、遡って、元旦改元はできなかったはずである。
 つまり、景初三年は消滅しなかったが、一年を通じ無冠である。春秋の筆法もなにも、イロハのイで周知の原則で、知らない奴は、もぐりなのである。

*会稽東治論
 この時点で、大庭氏は、古田氏の論拠を見ていないと明言しているから、氏の推定私見だが、以下論じられている「会稽郡東冶県」論は、氏の認識不足に思う。(これは、1970年当時古田氏の論考が未刊であったと言うだけであった。後日登場しているが、補正されていないのは、残念である)
 中国古典概念の「会稽」は、会稽山附近の狭い地域を指すものである。

*「東治之山」
 因みに、「水経注」などの郡名由来記事によれば、会稽郡は、禹の会稽の地であり、会稽山が「東治之山」と呼ばれていたのに因んで、秦始皇帝の宰相李斯によって命名されたと言う事である。秦漢代から魏、東晋までは、周知だった事情である。倭人伝の会稽東治論は、それで決着するもので、以下の考証は、余計なお節介である。

*宋書概観
 劉宋「宋書」は、後継した南齊/梁の史官沈約の撰であり、公文書など最善史料を得たと思われる。南齊以降の正史は唐代編纂であり、隋の南朝撲滅によって公文書庫が破壊され、公式史料は散佚していたと思われる。
 また、唐代の正史編纂は、皇帝主導のもと、多数の担当者の分業によるものと見られ、班固、陳寿、笵曄、沈約の特任編纂に比して質の面で劣る。

                                未完

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