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2022年12月13日 (火)

私の本棚 大庭 脩 「親魏倭王」 増補 11/12

 学生社 2001年9月 増訂初版 (初版 1971年)  2018/05/26 補充再公開 2020/06/24 増補 2022/12/13
 私の見立て ★★★★☆ 豊かな見識を湛えた好著

*束の間の黄金時代
 大庭氏が描き出した地域事情で、東晋から劉宋に至る一時期、小国分立であった北方が北魏の隆盛で統一勢力になる以前、渤海、黄海の「地中海」が核となって百済、新羅、高句麗と江南の間に陸海連絡がなり立っていたため、南方の建康勢力が、洛陽以北にまで、威容を誇ったのである。ある意味、それは、三国の一角として繁栄していた東呉の野望を実現し、陸封された中原政権の知り得ない事情だったと思うのである。
 太古の戦国時代、山東半島に存在した齊は、西の秦、南の楚、北の趙と匹敵し、むしろ、一段と繁栄していたのは、南北に延びた海上輸送と西に延びた陸上輸送、それには、河水輸送も含むのだが、とにかく、「都て一に會す」(一都會)の意義だったのである。
 地域に即した小世界像”Microcosmos”に、賛辞を呈したいのである。
 但し、北魏が強力な北朝国家を形成すると、小世界は霧散したのである。

*大庭氏の克明な考証
 大庭氏は、本書全体に於いて、既成の先入観で決め込む武断でなく、一件ごとに考証する姿勢で、古田氏に対峙するが、当然、一致しないことが多い。
 但し、蒼然たる「壹臺」論でも、いずれが合理的かと決め付けることはなく、それぞれの長短を示し、俗耳に媚びている「臺」派が、どんぶり勘定頼りで、分が悪いように見えるが、これは当方の私見である。
 と言うことで、最後に、陳寿が倭人伝道里行程論に示した地理観の評価であるが、大庭氏は里制や方位論に深入りせず、全体的な距離感を表している。
 つまり、陳寿は、女王国が、「会稽郡東冶県」という、既知の具体的地点と括り付けている以上、それに相応する地点を想到していたと考えている。加えるに、女王国は、海南島界隈に類する南方と解していたと見ている。

*異議貢献
 以上、一理ある意見であるが、既に述べたように、史料に基づく合理的な判断という見地から、論義済みの点も含め、手早く異議を唱える。
 1.「会稽東冶」は、史料誤認である。三国志曹魏の関知しない東呉辺境であり、道里不明であるから、「倭人伝」に不都合である。
 2.「会稽東治」は、会稽山の位置を示す漠然たる概念に過ぎない。
 3.「会稽東治」「東方」は、漠然としていて、「倭人伝」当事者に倭地地理が不明であった以上、女王国位置を決定する役に立たない。
 後世東夷人は、地図に惑わされるが、三世紀人は文字で論じる。
 4.「其南有狗奴國」から「儋耳朱崖」の諸条は、南方の異端児狗奴国の詳解と解する方が自然との指摘がある。(水野 祐「評釈 魏志倭人伝」)
  「自郡至女王國萬二千餘里」は衍入である。
  「倭地溫暖」(暑熱でない)以降では、倭国風土などが語られる。
  「会稽東治」も「儋耳朱崖」も、狗奴国記事であるから、陳寿の女王国道里地理観と、別儀である。

 して見ると、この部分は、報告者が異なると見える。正始魏使以後、張政が、女王国と狗奴国を調停した際の取材と見える。
 と言うことで異議提出である。水野氏の卓見は、芳醇な大著に埋もれたか、あまり取り上げられないので、この機会に提起した。

                                未完

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