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2022年12月22日 (木)

私の本棚 8 都出 比呂志 「古代国家はいつ成立したか」 改補 3/5

 岩波新書 2011年8月   2014/05/23 分割再掲 2020/06/17 2022/12/22
 私の見立て★☆☆☆☆ 文献史学部分 氏にとって鬼門か それ以外は好著 ★★★★☆

*記事批判 承前
 それ以外の点として、著者の史料解釈と言うか史眼には疑問を感じます。
 76ページ 魏晋政権移行の読み解きは不可解です。

 司馬懿が敵対勢力を一掃したのは、正始十年(249)であり、倭国景初遣使の十一年後です。
 「倭人伝」を含めた魏志をそのまま読むと、倭国の使者が着いたのは、(明帝)曹叡の景初年間の末年であり、景初三年元日に明帝が崩御した後、継嗣曹芳が、司馬懿と曹爽の補佐下に即位しています。翌年正始元年になる前の一年は、皇帝の居ない景初三年であり、それにしても、司馬懿の簒奪は、随分後、十年後という事になります。
 正始元年時点で、司馬懿は既に老境でしたから、曹爽は、持久戦に持ち込めば、いずれ、司馬懿は老化して、ついには寿命が尽き、後は、卒然と天下が固まると日和見していたのでしょうが、当時最強の策謀家の十年かけても良いという謀略を想定していなかったようです。
 魏志を読む限り、司馬懿が決然と蹶起して敵対勢力を打倒するのは、一旦、政権から身を引いて老耄と見せた擬態の後です。氏は、何か、勘違いをして、このように書いたのでしょうか。受け売りするにしても、相談する相手を間違えたのでしょうか。少なくとも、魏志原文どころか、翻訳文も読んでいなかったのでしょうか。

*時代考証の不具合
 続いて、三国時代の曹魏は、南の呉と東北の公孫氏に挟まれて危機にあった」としていますが、曹魏の現実の脅威は、西方で、曹魏を打倒して漢(後漢)を再興しようと北伐軍をほぼ各年で起こして、関中を侵略した蜀漢であり、これは、妥協を許されない大敵なのです。また、蜀漢と西の涼州勢力は、曹操との敵対を経て、蜀漢と同盟していて、曹魏の勢力は、西域どころか涼州にすら進出できず、後漢代には、遙か西方万二千里の安息、月氏にまで威令を振るった西域都護は撤退し、大軍を派兵して維持していた「西域」は、とうに喪われていたのです。
 次いでは、蜀漢の進撃に乗じて、東方で江北への進出を見せた東呉ですが、別に天下を取る野心はなく、単に、江南での自立を狙っていたのです。つまり、もともと不得意な騎馬軍団での戦いは勝ち目がまるでないので、魏の打倒は目論んでいなかったのです。と言うことで、ついぞ、国力を傾けて長江を渡って、侵略してくる危険は、まるでなかったのです。東呉は、蜀漢との同盟が維持できず、勝手に服従を申し入れるのですが、と言って、人質を入れるわけはなく、他方、曹魏の側から、大軍を長江南岸に送り込んで争う意図もないのです。ここでも、相談する相手を間違えたのでしょうか。

 東北の公孫氏は、これら三国に比べて断乎小者であり、後漢の「郡」であった遼東の小政権に過ぎず、曹魏に追従していたのが、何を間違えたのか、公然と自立したのは、討伐を承ける直前の短期間のことです。公孫氏を曹魏の「宿敵」と呼ぶのは、誇大表現も甚だしいのです。
 公孫氏が、曹魏を打倒して中原を制する野望を持っていて、洛陽の強大さを感じられないで自立したとしたら、それは、妄想としか言いようがないのです。何しろ、公孫氏は、洛陽に人質を取られていて、普通に考えると、反抗できないのです。そして、皇帝に反逆した場合、一族皆殺しは当然であり、公孫氏の場合も、郡関係者が根こそぎ一掃される結末が待っていたのです。楽浪郡と帯方郡が皆殺しにならなかったのは、両郡が、皇帝の密命で、本格開戦に先立って、早々に太守交替して、公孫氏の指揮下を離れて皇帝直属に組織変更になったので、大罪に連座して処刑されるのを免れたのです。(解任された郡太守は、当然厳罰に処されたでしょうが、大勢は、免罪されたと見えます)
 因みに、東呉は、何度か服従しそうな態度でしたが、人質は出していないのです。かたや、公孫氏の人質は、処刑を免れなかったのです。

 曹魏と公孫氏の国力の差を示すように、司馬懿は、蜀漢との闘争が、諸葛亮の死によって退潮したのをよいことに、東呉の北方への進出を恐れることなく、決然と大軍の討伐軍を率いて進撃し、速戦即決、と言っても、一年かかったのですが、それはそれとして、一方的に討ち滅ぼしてしまったのです。

 氏は、中国史に疎かったとして、受け売りするにしても、相談する相手を間違えたのでしょうか。

 自作の展開に都合がいいからと言って、周辺諸国の情勢を手前味噌の解釈で煮染めていくのは、感心しない手法です。信用をなくす原因です。世間には、中国史に詳しい素人もいるのです。

*謎の公孫氏銅鏡
 80ページ 卑弥呼は三世紀初めに公孫氏から画文帯神獣鏡を入手し、近畿周辺首長に配布したとしますが、史料に基づかない空想(古代ロマン)です。そのような記録は一切残っていないのです。
 確実なのは、近畿周辺の首長ないしはリーダーが、何らかの手段で画文帯神獣鏡を入手し、それが、いつしか拡散したと言う点だけであり、そのような入手の時期も原産地も何もわからないし、拡散が一方的な配布なのか、対価を取ったものなのかも、わからないのです。
 世間相場では、凡そ新説の90㌫以上は、ホラ話、勘違い、与太話の類いで、世に言う「ジャンク」であり、どこかゴミ箱に放り込むのが妥当な対応です。都出氏ほどの名声の方が、未検証の風評を蔓延させたのは、氏の晩節を穢す汚点になりかねないもので、ぜひ、ご自愛頂きたいものです。どうしても、道ばたの落とし物にかぶりつきたいなら、せめて、誰か命知らずに毒味させるのが賢明です。

 氏ほどの名声の方が、あえて自説に採り入れるのであれば、推定の根拠、出所と共に、仮説と言うにも値しない推定であることを明記するものでしょう。

*日本最初の王
 82ページ 卑弥呼を「日本最初の王」と呼んでいますが、意味不明です。

 「卑弥呼」の時代「日本」は存在しないので意図的な時間錯誤です。
 魏志「倭人傳」には、卑弥呼以前は男王であったと明記されています。「男王」は「王」ではないのでしょうか。
 そして、それ以前、倭に、王は、一切いなかったのでしょうか。なぜ、そう思うのでしょうか。
 魏志「倭人傳」を見る限り、伊都国には、王位が継承されていたように読めます。

 ここまでに、古代(三世紀のことか)における「日本」が何を指すのか明示されていないので、現代人の感じる「日本」と見ざるを得ないのですが、古代「日本」は、存在しないので、王などいるはずがないのです。
 また、氏が、一度「西日本」と言い、次は、「日本」というのは、世界観が動揺/迷走しています。

 要するに、素人考えで迷走して、読者の信用をなくしているだけです。それとも、史料解釈などを受け売りするにしても、相談する相手を間違えたのでしょうか。
                              未完

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