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2022年12月20日 (火)

新・私の本棚 番外 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」 補 4/5

 「倭人伝をざっくり読んでもやっぱり邪馬台国は熊本!?」 2021/06/25
私の見立て ★☆☆☆☆ 論旨瞑々、覚醒期待  初回2021/07/15 2022/12/20

*「畿内説」と言う名の巨大な俗説の泥沼戦術
 つまり、氏は、『「倭人伝」方位が間違いと主張「しなければならない」』と、崇高な使命感の命じるままに論議しているのであり、氏の理解は本末転倒で、他にも、誤記、誤解の類いが山積し、順当な史料解釈が成立しない泥沼の惨状です。
 太古以来、中国文明が至上の課題として守ってきた、歴史記録の厳正さを、真っ向から踏みにじりますが、倭人伝と「俗説」の比較なのでしょうか。
 古来、「自大」観と言われる「思い込み」が、徘徊しているのです。亡霊でなく、「生き霊」なる「妖怪」に、氏も取り憑かれているのでしょうか。

*俗説支援の徒労
 しかし、これもありえない話だと思います。
 梯儁たちは[中略]、邪馬台国まで足を運んだのは明らかです。[中略]梯儁たちが本当に東へ向かって水行陸行したのであれば、報告書に「東」と書くはずです。[中略]九州北岸から南へ水行陸行したのだと思います。

 この思い付きは、史料解釈を離れた思い込みと決め込みの連鎖で、なにも論証できていないのです。

*戸数の幻影
〈前提2〉虚偽の戸数は記さない
 魏志倭人伝は、行程記事とともに経由国の戸数を記しています。対馬国から邪馬台国まで、合計で15万余戸となっています。

1.氏の道里行程記事の解釈には、思い込みから来る誤解が散在、いや山積しています。
 對海~倭の諸国で、奴国、不弥国、投馬国を経由国と決め込み、それ故それら戸数が記録されているとするのは、改竄前「記事」が迷走しているのでしょうか。それなら、奴国、不弥国、投馬国の国情が書かれているはずだし、里数も必要ですから、必要/必須な記事が脱落しているのは、主行路の経由国でなく、ついでに書いた傍路ということです。
 普通に読むと、そのように明解なのですが、なぜ。無理矢理、投馬国経由と言い立てるのでしょうか。俗説「畿内説」は、投馬国経由としないと、議論から排除されるので、石に齧り付いてでも、そのように強弁するのですが、そのような「余傍」無視の投馬国経由論は、「熊本」説には、邪魔でしかないように見えるのです。よくよく考え直した方が良いように見えます。

2.最終目的地である女王居所、居城の戸数が八万戸と書かれているというのは、「倭人伝」の本旨に沿わない思い付きに過ぎないのです。
 要するに、倭人伝に必須である倭の全戸数は「十五万戸とは書いていない」のです。それとも、皇帝は、足し算計算を迫られたのでしょうか。書いていないことを論義するのは、空論の端緒としても、お粗末です。
 そもそも、倭人伝冒頭で、「倭人」は、太古の「國邑」であり、せいぜい数千戸台の隔壁集落であると、総括して見通しを付けているのに、女王の居処が、伊都国を遙かに超えた巨大な集落国家としているとしたら、それは、冒頭の総括を裏切るものであり、読者を騙したことになるのです。魏志を投げ返されずに、皇帝が嘉納したからには、そのような「だまし討ち」はなかったと言う事です。
 もちろん、ここで決定づけているのは、道里行程記事の結句までのことであり、倭国の風土、民俗、王の居処概説などの部分まで、ひっくるめて言うものではありません。
 いずれにしろ、氏の論義は、「北九州に、十五万戸の国家は存在し得ない」との「畿内説」論者の強引な提言に無批判に追従しているように見えます。普通の解釈は、そのような読替えを否定するもののように思うのです。
 そこまで言わなくても、全戸数の過半数を占める巨大な投馬国の所在が不明、戸数も、あやふやというのは、筋が通らないのですが、余傍遠隔の蕃夷で調べが行き届いていないとひっそりと説明されていて、いわば、風評が報告されてしまって、訂正の効かない「屑情報」と示唆しているわけですから、全行程一万二千里の「屑情報」とともに、正史の陰に静かに成仏させるべきなのです。

*無意味な外部資料導入~俗説派の悪足掻きに追随
[中略]弥生時代の日本[ママ]の人口[ママ]についてはまだ流動的[ママ]なようですが、歴史人口学[ママ]の鬼頭宏氏の研究では59万人という数字[ママ]が示されています。その半数が30国の連合体である女王国[ママ]にいて、さらにその半数が対馬国から邪馬台国までの9か国にいた[ママ]としても、約15万人[ママ]にしかなりません。しかし、一方で倭人伝の原史料が梯儁らの報告書だとすると、彼らが虚偽の報告をしたとは考えられないのです。

 勝手に、氏の内面世界の表明ですが、時代、地域の隔たった別世界の言葉と概念が、三世紀史料の解析にドンと投入されて、眩暈しそうです。その果てに、「流動的」「人口」なる異世界の概念を読者押しつけて、さらに、誰も見たことのない魏使の「報告」を想定し、その果てに、魏使が、戸数を捏造したとか云々するのは、「捏造」を越えて「冤罪」としか言いようがありません。
 丁寧に説明すると、三世紀当時の「日本」は、どこがどうなっていたのか不明ですから、考察しようがないのです。又、人口というのが、どんな対象を言うのか不明ですから、論じようがないのです。
 現代であれば、出世届で新生児の戸籍が「必ず」作成されるので、緻密に数えようがあるのですが、当時にそのような戸籍制度はないので、数えようがありません。子供の時代に死んでしまうことが多いので、新生児の平均余命として平均寿命を推定するのも、不可能であり、無意味です。意味があるとしたら、耕作に動員できる成人男子の人数であり、それは、軍務に動員可能な人数として計算できるので、意義が認められるのですが、いずれにしろ、ここで論義しているのは、捉えようのない現代風の「人口」でなく、古代の統治に不可欠な「戸数」なので、議論の風向きを変える必要があります。

 「戸」は、地域支配者が、各戸に耕作地を割り当て、耕作と収穫物納税の義務を与える制度に組み込んだというものであり、具体的には、「戸籍」と土地台帳によって、精度の高い管理を行ったものです。つまり、戸籍台帳、土地台帳は、帳簿であって、当時/当地域としては、高度な制度なので、蛮夷の世界では、整っていない方が普通だったのです。韓国諸国は、古来、中国式の管理制度が整備されていた先進地域なので、戸籍台帳が完備していて、戸数集計だけでなく、口数、つまり、成人男性の人数を、一の位まで計算することが可能であったので、提出される概数は、実数を丸めたものと理解できるのです。
 これに対して、戸籍の整備されていない蛮夷では、大抵、実数が不明なので、首長が自主的に申告したものです。つまり、「戸数」は、主要国を除き、実数をもとにしていないので、誠にいい加減なのです。まして、加算計算すらまともにできなかった世界ですから、万戸の数字は、全く、当てにならないのです。冷静に見ればわかるように、ある程度根拠があると見られる主要国の千戸単位の戸数と、根拠不明の万戸単位の大きな国の戸数を、同列に扱うのは、無謀と言うべきであって、「流動的」などと自嘲して済むものではないのです。要するに、わからないことはわからないと言うべきです。
 氏の推定は、後世、恐らく律令時代に、管内全国で、戸籍を作成し維持していた時代の情報をもとにしているのであり、三世紀の戸数の推定に参照するのは、無謀の極みというものです。
 因みに、「考えられない」のは、氏が、三世紀人でなく魏使でもないことを考えれば、理屈になりません。また、報告を「虚偽」と言うのは、正確な戸数統計が存在したとの仮定に基づいているので、これも思い付きに過ぎません。現代的な概念を無造作に二千年の過去に投影するのは、無謀です。

 なぜ、このように書いたか、もう少し、三世紀人の視点に歩み寄って、倭人伝の真意を詮索すべきでしょう。いや、「日本」古代国家観に芯まで染まった俗説派の方は、聞く耳を持たないでしょうが。
 氏の責任では無いとは言え、何も論証できない、思い付きの羅列は、無批判に追随していく氏の非論理性を示すに過ぎません。

 と言って、次のような独創的な「国見」談義は、根拠の無い、場違いな時代錯誤の空想に過ぎません。「戸数」論議の出だしを誤ったツケが、とんでもない辻褄合わせに繋がっているのは、残念です

[中略]おそらく調査隊は山上の見晴らし台のようなところから目視で戸数を調べたと思います。そして、彼らが虚偽の報告をするとは考えられません。正しい数字を報告するのが彼らの使命だからです。[中略]

 因みに、正しい「戸数」は、民家の数を数えて済むものではなく、地域首長が作成した戸籍/土地台帳の集計で得るしかないのですが、それにしても、それは、首長が、服従の証しとして申告/誓約するものであり、それが「公式戸数」であって、虚偽も何もなく、逆に「正しい数字」は、存在しないのです。氏は、何か、途方も無い幻想にひたっているようですが、所詮、時代錯誤の妄想に類するものです。
 真面目な話、三世紀の東夷の世界で、地域を見渡す「山上の見晴らし台」など、あるはずがないのです。目視で戸数を調べる技法は、どこにも書かれていません。まさしく、見てきたような、なんとやらです。生玉子は、飛んでこないのでしょうか。

*講釈師ばりの名調子
 引用漏れになった「攻撃」云々は「古田武彦調」ですが、帯方郡が、服属した倭に対して郡に出兵を命じても、まずは、狗邪韓国までが十日かかりそうな三度の乗り換え渡海であり、十六人程度の手漕ぎ船で載せることができるのは、精々一船数名程度(荷物持参)であり、大軍派兵は、無理で、ほぼ問題外です。

 なにしろ、当ブログの解釈に従っても、郡の出兵命令が倭に着くのに水陸行で四十日、郡に回答が着くのは折り返し四十日ですから、それだけで八十日かかり、渡船の容量を超えた大軍の「水行」は、海峡渡海の順番待ちの厖大な日数を要するのに加えて、そもそも、倭が派兵に要する軍兵呼集、全軍整列、装備糧食支給を考えると、全軍が、帯方郡太守に伺候するのに半年かかっても無理はありません。何しろ、倭に、即応可能な常備軍があったとの記事はないのです。

 まして、郡が韓国の叛乱平定に、倭人の援兵を求めるとしても、途上が反乱諸国では、援兵の出しようがありません。古田氏が時に陥る的外れな提言ですが、別に、氏の提言の根幹を成しているものではないので、笑って見過ごすべきものです。「よい子は、真似しないように」ご注意頂きたいものです。
 自由な発想はそれ自体結構ですが、裏付けの取れない発想は、タダの夢物語に過ぎないのです。

 要するに、倭人各国の戸数申告は、郡の威光を示す名目に過ぎないと思われます。

                                未完


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