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2022年12月23日 (金)

魏志天問 2 大夫 補筆

                           初出 2013/12/23 補筆 2022/12/23

 以下の記事は、魏志倭人傳に関する素人考えの疑問を並べていくものです。
 天問2は、
  (「大夫」は、周代の高官有司であったものの)漢王朝以降では、「大夫」は、高官でなく庶民ではなかったか、
 と言うものです。
 自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。
 「大夫」 参照資料 wikipedia、西嶋定生『中国古代帝国の形成と構造―二十等爵制の研究』
 他に、官位史料として原典に近いものは、劉貢父「漢官儀」です。
 「自古以來」とあるのは、周王朝時代から漢王朝時代に至る期間と思われますが、記録のない時代はさておき、魏志「倭人伝」では、難升米等が、「大夫」を名乗った(自称した)と明記されています。自称と言うからには、魏から与えられた称号ではないのです。

 大夫は、周王朝時代には、政府高官の称号であったと言われています。
 しかし、周王朝の官位は、秦朝によって破棄され、漢王朝は秦の爵位制度を継承していて、そこでは、最上位の列侯(徹侯)から始まる爵位制度の底辺として十五歳以上男子国民である庶人[自由民庶民]に爵位を与える民爵制度となっていたのです。
 その中で、「大夫」は民爵五番目の第五級に当たり、庶人/庶民の爵位なのです。

 庶民が爵位を得る制度は、秦の時代には、兵として参戦して軍功を上げることであったと、司馬遷「史記」などに記されています。
 概して平和の続いた漢の治世では、軍功による爵位は、ほぼなくなっていたのですが、皇帝即位などの慶事の際に、帝国全土に布告して、大赦と併せて、全男子国民のそれまで爵位のないものは第一級爵位「公士」を、すでに爵位を得ていたものは、一級昇級を与えていたのです。
 従って、五年に一度の昇級としても、庶民は四十歳を過ぎた頃には、皆「大夫」になる理屈ですが、身分制度の厳格な太古/古代に庶人が貴族となることはなく、厳格に阻止されていたのです。一部、秦代に、勇猛な軍人が軍功を重ねて、貴族身分に登ったというような物語が書かれることがあるようですが、それは、幻想に過ぎません。庶人に生まれたものが、貴族になることは、不可能だったのです。
 なお、一律昇級が頻繁であった証拠に、民爵の最上級第八級「公乗」にある庶民が、昇級によって第九級「五大夫」に昇級して貴族身分になることがないよう、「公乗」にある庶民は、当該昇級を、近親者で低爵位の男子に譲渡するよう布告しているほどです。軍人でも、第八級が、鉄板の天井だったのです。
 一方、下級爵位は氾濫することになり、四世紀に亘る漢代を通じ、「大夫」は、いたってありふれたものだったことになります。
 そのためか、民爵制度を廃止したと思われる魏朝以降も、単に「大夫」とする貴族官位は、見当たらないのです。

 とすると、東夷といえども、「大夫」は、全権大使が名乗るべき官職ではないように思えますが、故実に精通していたはずの陳壽は、倭人傳でそのような指摘を加えていないのです。武帝以来の楽浪郡と後漢代後期に新生の帯方郡及びその管轄下の東夷諸国では、漢から魏晋に到っても、周王朝時代の官職の名残が通用していたと言うことなのでしょうか。
 一方、東夷は、古の遺風を維持するものとみたのが、倭人傳の書き方であり、倭人で「大夫」が貴人となっていることを、中国側も、そのまま受け入れていたかと思われます。

 世上、『曹魏が「倭国」を「コロニー」化していた』と三世紀に時代錯誤の「コロニー」を持ち込む「荒唐無稽と言われかねない異説」がありますが、それはそれとして、「親魏倭王」に魏制への同化、臣属を求めるとしたら、官位制度の是正は、「女王廃位」などと同様に指示して来そうなものですが、どうだったのでしょうか。あるいは、「自稱」の二字に、漢の制度に従っていない東夷の(勝手な)自称であるとの意味を持たせたのでしょうか。
 連想した疑問が湧いてきますが、「天問」からは除外しています。
 参考資料 「漢官儀」, 巻上,中,下 / 劉貢父 [撰] 早稲田大学図書館

 劉貢父「漢官儀」は、後漢朝に於ける官位、儀礼などを述べたものですが、何気なく、以下の爵位が列記されています。
 1 公士   2 上造     3 簪馬衣 (馬衣は一字)4 不更
 5 大夫   6  官大夫  7 公大夫 8 公乗  ここまで庶民
ここから貴族       9 五大夫  10 左庶長           
11 右庶長 12 左更  13 右更 14 中更 15 少上造
16 大上造 17 駟車庶長 18 大庶長   19 關内侯
20 徹侯     (武帝劉徹僻諱により「列侯」に改称)

Ryu_kakangi_shakui
以上
追記: 2022/12/23
 以上の意見は、基本的には変わっていないのですが、少し見方が変わってきました。

 「大夫」制が廃止された秦漢代以降の古典資料で、一般的に、つまり、厳格に書かれていないと見える世間話的記事で、「高官」「有司」を「大夫」と敬称している例を見かけるのです。
 そのように解釈すると、蛮夷の「王」のもとに「大夫」がいるのは、むしろ普通に見えるのです。つまり、倭使である「難升米」と「都市牛利」の「大夫」自称は、明らかに、魏の高官を名乗ったものではないのであり、帯方郡との交流を通じて学びとった中国の制度に倣った無害なものであったと見えます。つまり、倭使の「大夫」は、太古の周制を見習ったものでも無ければ、まして、魏の庶人の爵士など知らなかったものと見えます。逆に、魏の官制頂点に「大夫」が存在していて、倭人が「大夫」 を自称したとすると、大変不遜な行いなので、厳しく譴責されていたと見えます。
 当ブログでは、王莽が、周制を復活して「大夫」を復活したのが、王莽の「倭人」探索活動の影響で、遙か東夷の「倭人」に伝わったのではないかと推定していましたが、少し気負い込んだようで、今後は、差し控えることにします。

以上

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