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2022年12月 4日 (日)

新・私の本棚 ブログ記事批判 刮目天一「邪馬台国問題で短里説はこじつけだ」 改改 4/5

                    2019/12/06 補充 2021/02/13 2022/12/04
*「倭人伝」道里の提示
 ここには、「倭人伝」の道里基準が明記されているのです。この部分は、地方機関の上申した史料に基づく記事ですから、「現実」の道のりとの対比は、史官には不明でも根拠があるはずであり、史官の本分に従い、原史料をそのまま採用しのです。帯方郡で官道道里がそのように規定されていたというしかありません。(撤回)

 あるいは、官道の道里とは別に、倭人伝だけに通用する道里「倭人伝里」を記入したのかもわかりません。
 帯方郡が、「普通里」と異なる里制を敷いていたという記録はありませんから、「倭人伝里」を適用していた可能性もあります。倭人伝道里が、どのような里で書かれているかは、郡から狗邪韓国までの街道が七千里であるという定義の仕方から容易に計算できるので、この可能性の方がなり立ちやすいと見えます。
 但し、学説として主張するには、検証された公文書記事の裏付けが必要であり、いくら広範囲で多数の支持資料らしきものが見えても、客観的に検証された確固たる裏付けのない主張は、「思いつき」に過ぎません。
 このあたり、断固たる反対論が予想されますが、ここまででおわかりのように、絶対的な否定論ではないので、しばらくご辛抱頂きたい。

*倭人伝道里の由来 2022/01/23
 当ブログ筆者たる当方の最新の意見では、この区間の「里」は、官制に従った道里を元に換算などしたものではなく、恐らく遼東郡の太守公孫氏が、「倭人」との交信の開始の際に、「従郡至倭」、つまり、「郡から倭の王治までの総道里を万二千里」と「東夷台帳」に記載したものと見えます。
 この内容が、何れかの時点で、洛陽に報告され、これが、当時の皇帝の御覧を得て、管轄の鴻臚の公文書、例えば「賓客台帳」に登録されたために、以後、修正が効かなくなったものと見えます。但し、同時代の記録と見られる後漢書「郡国志」は、帯方郡でなく、楽浪郡帯方縣を記載しているので、以後、魏明帝の景初代まで、一切、東夷に関する報告を含め、帯方郡に関する報告は、洛陽に届いていなかったと見えます。
 なお、洛陽から楽浪郡に至る公式道里は、漢武帝時代に設定されて以来、郡治の移動に拘わらず一定であり、帯方郡治の位置を知るために利用できないのです。

 つまり、早ければ、明帝の特命による景初初頭の両郡回収、新任太守派遣の時点で、万二千里彼方の東夷「倭人」の存在が明帝の知るところとなり、遅くとも、正始魏使の帰国で「従郡至倭」のあらましが確定したのを反映して、各区間の里数を按分したという「推定」に至ったのです。

 その際、全行程万二千里というのは、言うまでもなく、大変大まかな、一千里単位の概数であることから、途中の三回の渡海は、それぞれ一律に一千里と見立てて、三千里を割り当て、残る九千里の内、七千里を半島内陸上行程に割り当てたと見えるのです。特に、万二千里という大変、大変大まかな里数を按分するについて、(二千)三千,五千,七千(八千),一万,万二千の刻みにしたため、韓国区間は七千里と決着したものと見えるのです。

 念のため言うと、そのような粗い刻みは、陳寿が勝手にでっち上げたものではなく、太古以来、大まかな数字を取り扱うときの基準として行われていたものと見えるのです。このあたりは、現代では、小学校で採り入れられている「概数」の考え方に沿った、大変合理的なものなので、安直な非難は、取り敢えず控えてほしいものです。古来、倭人伝の数字は、大まか「すぎる」、奇数が大半だと毀誉褒貶がありますが、それは、未開地で得られる大まかな数字を、大まかに採り入れるために採用された技法に基づいているのです。古代人は、数字に大変強かったのです。

 つまり、「倭人伝」道里の区間別里数の設定は、総里数「万二千里」が先に決まっていた上に、中間部に、一千里の渡海を、「渡海」、「又」、「又」と三回明記したので、計三千里、末羅国を経て伊都国に「到」との動かしがたい里数が先に決ったため、今「倭人伝」で確認できる形で決着したものと見えます。念押しすると、これらの里数は、公式道里と言うものの、実測に基づかない概念的な「設定」であり、「倭人伝」道里行程記事から、実測里数を推定するのは徒労に終わるしかないのです。

*古田史学への異論 2022/01/23
 古田武彦氏は、第一書『「邪馬台国」はなかった』に於いて、この区間の道里は、「部分道里の合計が全体道里に等しい」との提言を打ち立てて、氏の所説の堅固な土台と見ていましたが、全体道里が先行して、それを各区間に割り当てたという異説を耳にされていたら、どう感じたろうかと思う次第です。
 氏は、記事に無い細部の道里を創出して、「部分道里の合計が全体道里に等しい」 とするように苦吟されましたが、 苦吟の果てに明察した」との感動がなければ、氏の推進力は生まれていなかったので、古田氏の論考の長い道のりの「通過点」として、つまり、一つの歴史的な事実として受け入れるしかないのでしょう。

 因みに、当ブログでしばしば指摘しているように、万二千里を、一千里ないしはそれより目の粗い刻みの里数の合計とした場合、百里代の里数は、「はした」として無視してよいのです。概数計算の等号は、=でなく≒なのです。概数計算では、計算が合わないのはざらにあることであり、「倭人伝」道里記事では、計算できないように、最終行程里数を割愛していると見えるのです。

 この意見も、古田氏の道里説に対して、重大な異論となるので、合わせて、古田史学の方々には、受け入れがたいのではないかと、苦慮していますが、別に、古田氏の史学の根源に関わるものではないので、何れかの時点で、加筆された方が良いように感じます。

 以上の二点は、全体の論議に調和しないことがあるかも知れませんが、敢えて、追加記入しています。

▢第二段階は、敢えて呼ぶなら「狗末」区間です
 まず、倭人伝冒頭のまだ読者の集中力が続いている段階で、「倭人在…海中山島」と、目的地に至るには、海を渡る行程を要する」と強く示唆しています。(中国)史書に異例の長距離「渡海」宣言です。
 中原の道里で、官道が渡河、渡し舟を含む事は当然でしたが、行程のごく一部で、宿場から宿場までの一日の行程の中で済むので、道里や所要日数などには計上せず、「はした」として無視するものです。倭人伝で、「渡海」と言って「渡水」と言わないのも、意味深長です。

 ところが、「倭人伝」行程では、一日がかりの渡海が三度必要であり、道里基準として「陸行」とできないから、例外用法として、『倭人伝では海を渡る行程を「水行」と呼ぶ』と予告した上で「水行」としたのです。歴史的に、「海」は、「うみ」とは別のものなので、「海行」とは呼べず、陳寿は、既存の「水行」を臨時に別の意味に転用したと見えるのです。

 史書の用語は、極めて保守的であり、まして、官制として考慮されていない長距離の渡海行程を創造することは、史官の任に外れるので、陳寿は、格別の苦心を注いだものと見えるのです。

*「従郡至倭」の意義
 そして、道里記事の書き出しは、「自郡」でなく「従郡」としたことに、特別の意義が窺えます。
 古代以来の必須教養科目である算数教科書「九章算術」では、農地測量の際、目前の土地の幅を「廣」といい、奥行きを「従」ということが書かれています。
 「従郡至倭」とは、帯方郡から見て、東南方の倭人の処に至るには、「縦」方向にまっしぐらに進む』と宣言されているのであり、西に逸れて海辺に出て、半島の西岸、東岸を延延と迂回することは、はなから方向違いであり、そのような迂遠な行程は、明記も示唆もされていないのです。

 続いて、「循海岸水行」と書いて、『以下の道里記事では、特に、海岸を盾にして、つまり、海岸線に直角に海を進むことを「水行」と呼ぶ』明記したのです。続けて読むと、海岸に沿う」のではなく、『海岸を盾(循)にして(東南方に)「水行」する』と予告しているのです。
 要は、「地域水行」宣言であり、内陸にある帯方郡から、いきなり海に出る』ようなことは書かれていないのです。

 世上、「循」は「従」と同義と速断している向きが大半ですが、用字が異なれば意味が異なると見るべきです。史官たる陳寿が、史書の道里記事に用いたのですから、いきなり一般的な辞書を参照していては解釈を誤るのです。厳しく言うと、現代日本人、つまり、三世紀中原人なる中国人から見て無教養、無知な夷人は、ほぼ自動的に誤解するのです。腹が立ったら、洗面所に立って、冷水で顔を洗い、清水を呑んで、座り直すことです。

 そもそも、「海岸」とは、陸上の足場に立っているものなので、海岸に沿って進むとは、陸上の移動なのです。海に出るには、「循」として、沖合に出る必要があるのです。なお、「海岸」で海に浮かんでも、そのまま陸地に沿って進むと、間違いなく、浅瀬や砂州に乗り上げて難破するので、どんな船でも「津」(船着き場)を出たら、まっしぐらに沖合に出るのです。

 陳寿は、内陸世界の住人で海辺の船での移動に詳しくなかったから、詳しいものの意見を聞いて、誤解のない言葉遣いを採用したと見るのです。現代日本人は、海に親しんで育っているので、以上に述べたような常識が身についているから、「海岸に沿って」と「普通に」読み替えてしまうもののようです。

 以上のような解読は、中国古典書、特に「史記」、「漢書」などの史書から自然に導かれるものですが、従来の「倭人伝」解釈は、ほぼ揃って国内史料、現代人解釈に偏っていたので、提起されることが(ほぼ)無かったものであり、その意味で言うと、全員(ほぼ)一律、誤解していたと言える根拠となるものです。
 因みに、これらは、本来中国の史学者から提言されるべき意義なのですが、中国では、日本古代史に関わることは好まれず、「倭人伝」について精査されていなかったと思われるのです。「倭人伝」は、中国史書の一部ですが、日本列島古代史の重要な史料として、中国側で真剣に取り組むのは、古来どころか近来も希の中の希なのです。

 以上、余り見かけない議論なので、長々と述べました。

*「渡海千里」の意義
 この区間の各渡海千里を、実道里の反映と見るのは空論で、無意味です。肝心なのは暗黙の一日渡海です。
 その「一日」が、三時間であろうと六時間であろうと、丸一日が費やされるので、道里行程記事の日数表示には関係無いのです。世上、渡海一千里とは、測量した道里の意味でなく、一日分の行程だと明記したものだと解する意見がありますが、同時代の理解としては、そちらの方が近いのかも知れません。
 後ほど出て来るように、この行程は、中原で、河水(黄河)をわたるとき、洲島、つまり、中州で船をとどめるようなものだと言っているようです。古代では、「海中の島」と言うとき、海中に突き出した半島を言うので、洲島というのは、誤解を避けているもののようです。

▢第三段階は、呼ぶなら「末倭」区間です。
 当然陸上経路ですが、念のため「陸行」と付記しています。読者は、末羅国が中州の島でないと知らないので、地域水行解除宣言が必要です。

 この区間は、総じて未開地で、道里も百里単位であり、千里単位の倭人伝道里の大勢に響かない端数なのです。史官としては無関心です。

 と言うものの、末羅から伊都までは、狗邪までの交流、交易に常用されているから、倭地なりに、荷物輸送に支障が無い程度に道路整備されていた筈です。(宿駅、替え馬などのことも含むのである)
 当然、荷道は、重荷を担って通行可能なつづら折れであり、あるいは、荷駄馬がすれ違う道でした。(諸処に、道を広げて、すれ違い場所が設けてあった可能性はあります)("two horses abreast"「馬が行き交うことのできる径」でも言うのでしょうか)ひょっとすると、駄馬が間に合わずに、痩せ馬(人夫の隠語)を動員したかもわかりませんが、農民の小遣い稼ぎになっていたでしょうから、決して、苦役ではなかったはずです。そもそも、税の一要素で、労役が課せられていたから、荷運びは、ただ働きというわけではなかったのです。

 一方、急ぎの者につづら折れは迂遠であり、敢えて、直登に近いけものみち風の近道「禽鹿径」を採ったようです。
 といっても、魏使の記録係が徒歩で近道したとしても、正使副使の高官が同じ道を通ったとも思えません。士人は、額に汗して徒歩行せず、まして、荷を負うはずがないのです。太古の禹后本紀で、「陸行は車に乗る」と明記されているように、身分のある中国人は、徒歩行しなかったのです。

 なお、「禽鹿径」の「径」は、人馬が公式に往来する整備された「道」、「路」でなく、「抜け道」という趣旨で選ばれているので意味深長です。郡から狗邪韓国までの整備された官道にはほど遠い整備状況だったとしても、日頃、市糴(交易)に常用している官道であるからには、諸所に宿場があり、関所があったはずですから「径」ではなかったのです。「禽鹿径」を「けものみち」と自然に翻訳して、何となく理解できたようで、大抵は誤解に終わっているのは、残念なことです。

 道里には、当然、つづら折れの荷道道里が書かれるべきですが、それでは、随分里長が伸びるので、短縮して報告したかも知れません。ここは急ぐ旅でもないので、後で再論します。

                                未完

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