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2022年12月25日 (日)

新・私の本棚 季刊「邪馬台国」第12号 「邪馬台国の里程」 白崎 昭一郎 再掲 4/5

 季刊「邪馬台国」第12号 梓書院 昭和五十七年五月刊(1982年)
私の見立て ★★★★☆ 理知的な解釈で、範とすべきもの 2018/09/18 追記2020/11/18 2022/01/27,11/06,12/25

*多桁計算のとがめ
 白崎氏は、概数の有効数字について明確に理解しているのですが、奥野正男氏(「邪馬台国はここだ」 毎日新聞社 昭和五十六年)の表引用とは言え、里数表に算用数字を多桁表示したのは、ご自身の所説を外れ、まことに不用意です。
 いや、奥野氏の作表に示された考証手法は、倭人伝」道里行程談義でむしろ大勢を占めているので、白崎氏を咎める主旨は、「後世の初心者に間違ったお手本を示した」ことなので、「先覚者に課せられる重荷」と考えて頂きたいだけです。

 つまり、「七千餘里」と、歴史的に正当な表示であれば、一見して千里単位概数と見て取れますが、算用数字の7000里は、一里単位まで実数で、0.1里の桁で丸めたとの印象/誤解を与えます。つまり、当時の「実測値」有効数字が五桁と「誤解」させるのです。しかし、これが実測値としても、七千里に対して一里は0.01㌫程度であり、途方も無いホラ話になります。
 「業界」大勢は、一里単位整数どころか、小数点付きで掲載していて、誤解が山積となっています。
 科学的に正しい書き方では、7×10の3乗(10^3)とするものですが、一般読者には何のことかわからないでしょう。そして、7.0と書かずに7と書いても、普通の読み方では、意義がわからないでしょう。

 従って、歴史的に正しい、唯一正確な漢数字表現を遵守すべきと考える次第です。
 ついでに言うと、古代には、縦書きしかなかったので、算用数字の左から右への横書きは、文書に書けないので、重ね重ね場違いで無様なのです。

*時代相応の算法と記法
 当時常用していたと思われる算木による計算は、道里計算では、千里桁の数字を使うので、全行程は、桁上がりして十二「千里」、郡から末羅まで十「千里」、残り二「千里」と明確です。何しろ、三世紀当時は、算盤や筆算の多桁計算は行われてなかったのです。全桁計算は、厖大な手数がかかるので、経理計算や全国戸数集計のような、国家事業の特に行っただけなのです。

*古田氏の誤謬~いささかの余談
 古田武彦氏は、第一書『「邪馬台国」はなかった」で打ち出した「原則」の一つとして、里数計算に於いて千里単位でなく百里単位の計算を行いつつ、「部分里数の合計が全一万二千里に合う」よう幾つかの工夫を凝らしましたが、「倭人伝」編者が、「倭人伝」冒頭の道里行程記事で、郡から倭に至る公式行程において、その根幹として想定していなかった百里単位の数字を持ち込むのは、「倭人伝」の深意を求めるという本義に反するのです。

 また、古田氏の堅持する、「部分(里数)の合計は全体(里数)に等しくなければならない」とする提言は、確かに、数学的には不変の鉄則ですが、「概数計算では、部分の合計が全体と合わないのが、むしろ普通である」との、これまた不変の原則を外れています。

 つまり、概数の基準が千里単位と百里単位が混在するようでは、むしろ計算式として「不合理」だという事を意味しているのです。そのような「不合理」を避けるためには、「千里単位の概数計算に、桁違いの百里単位の里数は採り入れない」という鉄則が、「自明」の原理として通用していたように見えるのです。

 古田氏の創唱した里程計算には同意できないと明言させていただくものです。

*確定値の概数化~郡狗邪行程官道道里の検証
 白崎氏は、郡から狗邪までの七千里を「推定値」と見ていますが、まことに不用意です。
 楽浪郡時代を含めると、狗邪韓国は、長年に亘り漢・魏朝の支配下にあった事から、両地点間は官道であり測量されていたものと推定できます。しかし、既に、郡から倭まで、「全体として一万二千里」の公式道里が皇帝に承認されていたので、群から狗邪までは、一里四百五十㍍程度という「普通里」に基づく郡内道里でなく、七千里の概算道里を書くしかなかったのです。
 陳寿の言い分として、公式道里は「史実」であって「訂正」できないので、「倭人伝」道里として七千里と明記したものの、郡から狗邪 の郡内道里と対照して、以下述べる道里が、普通里に基づく道里でないことを示唆したことになります。これは、かなり「(あいまいな)数字に強い」人の書き方です。

 因みに、史官は、公式記録が存在すれば、これに拘束されますが、このように史官の意図に従って概数里数を設定したということは、帯方郡内の公式道里は、魏の景初年間に至っても、あるいは、西晋代に到っても、「公式道里」とされていなかったものと判断されます。後代正史である、宋書「州郡志」に、倭に至る道里は記録されていないのです。さらに言うなら、洛陽から帯方郡治に至る道里も、書かれていないのです。
 なぜなら、「倭人伝」の審査に於いて、「公式道里」と齟齬する記事があれば、却下されるからです。陳寿は、中国としての公式史料を参照していたので、そのように不用意/不合理な記事を書くことはなかったのです。

 ここで批判しているのは、三世紀当時、郡から狗邪まで の道里が測定可能であり測定されていた里数を、編者の怠慢で「推定」にとどめたという批判への異論です。よろしく、趣旨をご理解ください。

*有効数字再考
 ここで、白崎氏は、『里数の概数表現として「許里」が倭人伝において使用されていない』と断じています。僅か二千字ほどの範囲のことですから、その指摘自体に間違いはないのですが、やや、早計に過ぎるようです。
 戸数系の数字では、一大国の戸数表示で「有三千許家」とあり、「許」なる概数表現を倭人伝編者は知っていたことを物語っています。
 更に、投馬国戸数に見られるように「可」付きの概数もあります。
 案ずるに、それぞれ、定義に合わない数字、ないしは、一段と漠然とした数字と見るものです。
 つまり、これらの数字は、単なる山勘であると表明したものです。

 倭人伝編者は、同列扱いされがちな概数であっても、ある程度根拠を想定できる数字と丸ごと憶測の数字とは、区別を明記していたのです。現代読者は、編纂者の深意を想到して、しかるべく読み分けるものではないでしょうか。

*桁上がりの扱い
 白崎氏は、倭人伝に書かれた数字の有効数字が、一桁、ないしは、二桁のものと見なしていますが、随分盛大に過大評価しているようです。桁上がりの「万二千里」を除けば、二桁有効数字は見当たらないと見えず、せいぜい、最大一桁と見るものと考えます。

 「桁上がり」とは、区間里数が、七「千」,一「千」,一「千」,一「千」と足していって、総計は、一万二「千」、つまり、十二「千」里となるというものですが、これは、有効数字が増えたものではないと見るものです。
 算木計算でも、上の桁の算木を用意するのではなく、「一」の算木を脇に置いて桁上がりを示したと見ます。あくまで、一桁計算なのです。
 何にしろ、有効数字一桁の数字を足した結果が有効数字二桁というのは、まことに「不合理」ですから、そのように対処したと見るのです。

 以上、特に高度な数学理論でなく、実際に概数と日々直面する工学分野では、基礎教養なのです。

                              未完

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