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2022年12月25日 (日)

新・私の本棚 季刊「邪馬台国」第12号 「邪馬台国の里程」 白崎 昭一郎 再掲 5/5

 季刊「邪馬台国」第12号 梓書院 昭和五十七年五月刊(1982年)
私の見立て ★★★★☆ 理知的な解釈で、範とすべきもの 2018/09/18 追記2020/11/18 2022/01/27,11/06,12/25

*戸数概算のカラクリ~余談
 戸数が正確に勘定できるのは、戸籍台帳が整っている場合だけであり、当時の倭の各国に戸籍台帳が整っていたはずはないので、言うならば、帯方郡が、無理矢理全国戸数「七万戸」を押しつけたのに基づき、各国に戸数を割り当てたものでしょう。
 戸籍台帳は、古代国家の必須要件ですが、傘下の各地に、読み書き、計算のできる官人が必要であり、たま、木簡で台帳を編纂するにしろ、筆書きで手早く書き記す技術がなければ、数千といえども、戸籍整備はできないのです。つまり、戸籍を整備するには、多大な下部構造が必要なのです。戸籍は。土地台帳の前提であり、併せて、古代国家の根幹となるのです。

 いや、郡への服属の証しとして、全国戸数を申告する必要があり、不明では済まなかったので「可七萬餘戶」と申告したとも見えるのです。因みに、参考とすべき班固「漢書」西域伝でも、素性の不確かな諸国でも、戸数とともに口数での申告が記録されていて、「全国戸数」が、服属の際の要件であることが確認できます。

 いや、西域はじめ四囲の夷蛮では、服属する際にキッチリした戸数を提出しなかったのは、珍しいのです。(主要国の戸数だけを提出して、全国戸数を提出しなかった例は見当たらないようですが)もちろん、西の大国安息国のように、交流しても服属しない国では、正確な戸数は得られないのです。普通「安息国」とされる「パルティア」は、今日のイランを包含するような巨大な文明国ですから、東方拠点である「安息国」が、「パルティア」国王の許諾を得て、つまり、「外交」の許可を受けて、漢と交流していたのですが、いうまでもなく、地方政権が、勝手に漢に服属することなどあり得ないのです。

 但し、景初遣使の際に帳尻の合う国別戸数明細の提出を迫られた倭人側からすると、狗邪韓国から伊都国に到る「主行程」諸国は、いつ、実情調査されるかわからないので、ある程度見通しの立つ数字しか書けず、最後、遠隔地で調査困難な投馬国で帳尻を合わせたと見えるのです。つまり、「投馬国は五万戸と思います」の意図で「可五萬餘戶」と書いたと思います。

 さすがに、全国戸数七万戸の帳尻合わせで、戸数がわかっているのは、奴国二万戸以外は千戸台では、五万戸をどこかに持って行かざるを得ないのですが、どうも、結構「でかい」らしい投馬国に押っつけるしかなかったのではないかという憶測です。と言って、世間知らずの投馬国が五万戸と申告したのを、課税などの跳ね返りを知っていたはずの伊都国などが止めもせずに郡への報告としたとは思えないのです。

 戸数は、中華文明の制度としては、徴税や徴兵の基礎となる、大変大事な数字ですが、帯方郡としても、倭人の中心地である伊都国から片道二十日かかる遠隔地域からは、徴税も徴兵もできないので、帳尻をここに持ってきても実害はないと倭人側は見たのでしょう。

*戸数曲解の「大戦略」
 「俗説」では、各国戸数を列記した末尾に女王の直轄地の戸数が「可七萬餘戶」と書かれていると解していますが、女王の統制が行き届いている直轄地の戸数が、漠然たる憶測、つまり、戸籍台帳が整備されていないので不明」との説明は、帯方郡から見て無法であり、何としても、明確な戸数を書かせるものではないでしょうか。つまり、監督不行き届きになります。
 また、「俗説」に従うと、服属に際して全国戸数が申告されていなかったことになり、まことに、不都合です。
 「倭人伝」は、そのような女王の無知と帯方郡の監督不行き届きを、皇帝に報告したことの記録でしょうか。皇帝は、書式不備の申告書類を嘉納したのでしょうか。「帝詔」の上機嫌な口調からして、とても、不届きな所論を読まされたようには思えないのです。
 先に挙げた、全国総戸数「可七萬餘戶」とする説明は、頑固な俗説に断固異議を唱えるものです。

 どうも、「俗説」は、七万戸の大規模な古代国家を想定して、「そのような規模の国家は、北九州に想定できないから、畿内に想定するのが合理的である」という高度な論法の根拠としたもののようであり、まるで「曲解」軍団の華麗な大戦略のように見えて、不審感が募ります。

*飛び石数字の手口
 と言うわけで、戸籍台帳未整備で「不確かさ保証付き」の「倭人伝」戸数では、有効数字が一桁取れず、言うならば「飛び石」の有効数字0.5桁の概数が見えるようです。松本清張氏など先賢諸兄姉が慨嘆しているように、倭人伝の数字(里数、戸数)は、一から九まで勢揃いでなく、奇数ばかり目立っていて、二以外の偶数は少ないのです。つまり、一番上の桁が一、二(ないし三)、五、七と跳んでいるのです。

*「数」の概数表現
 極端に不確かな数字の扱いとして、ひょっとすると、二(ないし三)を「数」と書いたかも知れないのです。「一,数、五,(八)」で、八は、いきなり上の十です。例えば、慣用句で、「丈夫」は身長一丈、十尺でなく、実は、八尺余りなのです。古代中国人の数値表記に対する潔癖なまでの「きりの良さ」を察するべきではないでしょうか。
 そうは言うものの、「倭人伝」周辺では、こうした推定を検証しようにも、事例が少ないので、こうした概数の詳細は不明です。

*概数表示の達人と現代の凡人
 このような概数計算は、よほど数字に強い人の偉業と言えます。むしろ、こうした概数計算では、平均的な現代人より、随分「上級」のようです。現代人の凡人は、ほぼ確実に「数字」に弱いのですが、古代人は、陳寿を筆頭に精選された知性の持ち主が、著述に尽力していたので、一対一では勝負にもならないのです。

*概算と精算
 ちなみに、漢書・後漢書では、楽浪(帯方)郡の戸数、口数は、戸籍台帳を元に一戸、一口単位で集計したと見えますが、晋書では、概数となっています(三国志は、「志」を欠くので不明)。楽浪、帯方両郡末期の混乱で、戸籍台帳集計ができなかった様子が窺えます。少なくとも、戸数、口数では、わからない数字を、筆を嘗めて格好だけ装うことはなかったのです。

*人海戦術の全桁計算
 と言う事で、普段は、簡略で即決できる算木計算を行っていても、経理計算を含め、一戸、一銭単位の精密計算が必要なときは、大変な手間を掛ける全桁計算を行ったのです。
 全桁計算は、桁数の数だけ算木を並べるので、少なくとも桁数倍の手間がかかるのであり、また、全桁計算ができる計算技術者は、大変限られているので、全国戸数集計は、それこそ、滅多にできるものではなかったのです。

*零も小数も「なかった」
 念のため付記すると、当時、零の概念自体はなかったのですが、多桁計算で、数字のない桁には「零」ならぬ「空き」記号の算木があったのです。また、小数はないものの、ある程度の分数計算は、約分、通分などの手を掛けて、使いこなしていたのですが、現代の小学生が難なくこなすはずの筆算計算からは遠かったのです。

*「問題」の「誤解」 
 「九章算術」に、問題(例題)-解答-解説の形で説明されています。
 「問題」は、正しく学んできたものに正しく「解答」が出せるものであり、照合するための正答である「解答」が用意されていたのです。

 世上、「問題」と見ると、反射的に、現代語の一部で繁盛している「難点」、「欠点」と解する早合点の方が多いのですが、学術的な論考では、古典的な用語/用法であり、この程度の日本語が正確に理解できないようでは、「倭人伝」の古文中国語を理解できないのはむしろ当然でしょう。

                               完

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