05. 名曰瀚海 - 読み過ごされた絶景 補充
2021/09/26 補充 2023/01/28
「又南渡一海千餘里,名曰瀚海,至一大國」
倭人傳の主眼の一つである「従郡至倭」行程、つまり、帯方郡治を出て倭王城に到る主行程には、その中心を占める三回の海越え、渡海が書かれています。陳寿が範を得た漢書西域伝では、陸上行程の連鎖で萬二千里の安息国に至っているのですが、ここに新たに書き上げようとしている「倭人伝」では、前例の無い、渡海の連鎖で、日数、里数を大量に費やしていて、これまた前例の無い「水行」と新たに定義した上で、記事をまとめています。このあたりの事情は、この場所には収まらないので、別記事を延々と書き募っていますから、ご縁があれば、お目にとまることもあるでしょう。
そして、三度の渡海の中央部の記事に、あえて、「瀚海」と書いています。まことに、珍しいのですが、何度も書いているように、この行程は、前例の無いと思われる不思議な書き方になっているので、同時代の教養人といえども、何気なく読み飛ばすことはできなかったのです。つまり、飛ばし読みさせない工夫をしているのですから、現代の「東夷」の知識、教養では、読み解くのがむつかしい(不可能)のも当然です。
慎重な読者は、ここで足を止めて、じっくり調べるものです。と言っても、この仕掛けは、ここが最初でもないし、最後でもないのです。子供が坂道を駆け下りるように、向こう見ずな暴走をしないようにご注意下さい。まして、転んで痛い目に遭ったのを、陳寿の書法のせいにしないでほしいものです。これまで、ほとんど二千年と言っていい、長い、長い期間に、多数の教養人が「従郡至倭」記事を読んで、「陳寿の筆法を誹っている」例は、見かけないのです。
閑話休題
以前から、特別な難所ではないのかと考えていたのですが、今回参照した中島氏の著作では、霍去病の匈奴討伐時の事績を参照して、この海峡を、越すに越されぬ難所として名付けられているとみています。海図や羅針盤の無い(要らない)有視界航行で、一日一渡りするだけと言えども、楽勝ではなかったと言うことです。
まことに妥当な意見と考えます。
こうしてみると、単に、三度海越えを繰り返したのではないのです。
ちなみに、「倭人傳」解釈諸作が、原史料を尊重しているかどうかの試験の一つが、「一大國」がそのまま取り上げられているかどうかです。
いきなり、「壱岐國」と書かれていたら、それだけで落第ものと思うのですがね。まあ、親亀、子亀の俗謡にあるように、子亀は上に載るだけという見方もありますが、堂々と解説書を出版する人が、「子亀」のはずがないでしょう。
以上
*随想 「翰海」と「瀚海」 2021/09/26
「票騎封於狼居胥山,禪姑衍,臨翰海而還」
実は、史記/漢書に共通な用例「翰海」は、さんずいが無いものであり、中々意味深長なものがあります。
漢字用例の集大成とも見える、「康熙字典」編者の見解では、もともと「瀚海」なる成語が知られていたのを、漢書「匈奴伝」などでは、あえて「翰海」と字を変えたと解しているようです。つまり、匈奴伝などでは、匈奴相手に大戦果を上げ、敵地の「漢軍未踏」領域に進軍した霍去病驃騎将軍が、山上から瀚海/翰海を見渡した後、軍を返したことになっています。因みに、ほとんど同記事が、漢書に加えても史記にも引かれていて、この一文が、当時の著述家の鑑になっていたと偲ばれます。
そこで思うのですが、それほど珍重された「翰海」は、通俗字義である「広大」(浩翰/浩瀚)で越せない難所という意味なのか、何か「瀚」海でなく「翰」海で示すべき感慨があったのかということです。一種の「聖地」「絶景」でしょうか。
そして、陳寿が、後に倭人伝をまとめる際に先例を踏まえて「瀚海」としたのは、どのような意味をこめたかということです。思いを巡らすのは、当人の好き好きですが、陳寿の深意を探る試みに終わりはないのです。
そこで、また一つ憶測ですが、「瀚」は、水面にさざ波が広がっている、羽根で掃いて模様を描いたような眺めを形容したもの(ではないか)と見たのです。
このあたり、用字の違いが微妙ですが、霍去病の見た「翰海」が、氵(さんずい)無しと言うことは、これは「砂の海」(流沙)と思えるのです。つまり、茫々たる砂の大河の上に、羽根で掃いたような模様が広々と見えたので、大将軍も戦意をそがれて、引き返したとも見えるのです。
もちろん、これは、よく言われるように、どこかの湖水の水面を見たのかも知れませんが、文字解釈にこだわると「砂の海」に見えるのです。
このあたりの解釈は、洛陽で史官を務めた陳寿の教養になっていて、帯方郡から對海国に着いた使人の感慨で、目前の海面が、羽根で掃いたような模様に満たされていたとの報告を、一言で「瀚海」と氵付きで書き記したようにも思えます。
以上、もちろん「状況証拠」なので、断定的に受け取る必要はありませんが、逆に、状況をじっくり考察に取りいれた盤石の「状況証拠」は、否定しがたい(頑として否定できない)と思うのです。何事も、はなから決め付けずに、よくよく確かめて評価するもの(ではないか)と思うのです。
いや、「状況証拠」は、本来「法学部」の専門用語なので、当記事筆者のような素人が、偉ぶって説くべきものではないでしょうが、世間には、素人考えの勘違いの方が、もっともらしく「はびこっている」可能性があるので、一言警鐘を鳴らしただけです。言いたいのは、一刀両断の結論に飛びつくと、足元が地に着いていなくて、ケガをするかも知れないと言うだけです。
世上、対馬-壱岐間の海峡を、波濤急流と決め込んでいる方があるようですが、対馬海峡は、全体として決して狭隘で無く、むしろ駘蕩と見える上に、中央部には、特に障害はないので、たおやかな流れが想定されるのです。特に、その日の移動を追えて海港に入ったときは、入り江と思われるので、眺めは穏やかであったろうと推定するのです。入港以前の長い漕ぎ継ぎも、さほどの難関ではなかったと見ているのです。
以上
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