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2023年1月23日 (月)

18. 倭地周旋 読み過ごされた小振りな倭國 改訂 2014-2023

     2014/05/04 改訂 2020/08/23 2021/09/16 2022/09/26 2023/01/23

**大幅改訂の弁**
 当記事は、大幅に改訂されて、結論が大きく転進しているので、できれば、末尾に飛んでいただきたいもので。(恥を忍んで、当初記事を残しているものです)

●原記事遺構
 參問倭地、絕在海中洲㠀之上、或絕或連、周旋可五千餘里。
 以下は、長く温めていた議論ですが、最近、『古田史学論集』 第三集 『倭地及び邪馬壹国の探求-「周旋五千余里」と倭地の領域の検討』で考察されていることを知りました。
 もちろん、以下の考察の運びと大筋は同じなのですが、模倣したものではありません。
 倭國が、ほぼ九州内に絞られることは、倭人伝冒頭で予定されているのですが、ここで、その外形が明らかになります。
 一周五千余里ということは、正方形に当てはめれば一辺千二百五十里となります。倭人傳で一里75㍍と見て取ると90㌔㍍四方程度の範囲となります。形状を明記していないので、矩形や方形ではないようですが、不規則な凹凸のある図形となると、一段と、その内部領域が狭くなるのが、幾何学の教えるところです。(この誤解は、三世紀当時の幾何学概念に関する理解不足によるものでした)
 これは、九州全島を示すものですらなく、九州北部にこの大きさの倭國を構成する諸国があったと言うことを示しています。
 王国の広がりは、三世紀中盤の交通の便に制約され、とても、遠隔の地に及ぶものではないものと考えます。
 このように、誠に狭い範囲に多くの国々がひしめき合っていたからこそ、数年に亘って争い合うことができたのであり、また、戦時以外は、密接な交流があり、風俗や伝承を共有していたであろうことから、市井の一個人(倭人伝には王族の一員と書かれているのです。これは誤読でした)を国王に共立することができたものと思われます。
 魏志倭人傳を漢里制で読むと、周旋五千里は、一辺五百キロのもう一つの中原であり、そこに三十諸国の逐鹿の戦いが展開されているという戦国ロマンが、笵曄を魅了したので、後漢書で「大乱」と粉飾してしまったのでしょう。
以上

追記 拙速の議論 撤回の弁 再訂正 2020/12/18 補充 2021/09/16 2023/01/23
 以上は、浅学非才の憶測てあり、以下の趣旨で改訂した見解を残します。

○「周旋」の面目回復
 「周旋」は、中国古典史書では、閉曲線で領域を括る意味でなく二地点間の直線経路(道のり)を言うものです。
 ただし、「周旋」なる用語の典拠は、中国古典史書といっても、司馬遷「史記」、班固「漢書」でなく、ほぼ同時代の袁宏「後漢紀」で示されているように、後漢末期、魏、西晋の期間に洛陽付近で通用していたと思われる常用表現が出典と見ます。

 狗邪韓国から倭王城までの直線的な行程(狗倭行程)道里が必要であったのに、末羅国以降の道里に、余傍、つまり、行程外の脇道である奴国、不彌国、投馬国が書き足され、行程の本筋が読み取りにくい記事になってしまったため、狗倭行程を周旋五千里と明示したものです。

 また、周旋」は、それぞれの王の居所を順次通過しているため、一部で力説されているような島巡りのようなつじつま合わせは、一切存在しないのです。(陳寿が、国家の歴史を記録する「正史」の一章にそのような姑息な辻褄合わせを書いたとは、到底信じられないのです)

 ここで書かれているのは、魏晋朝が、帯方郡から東夷王城に至る公式行程を正史上に「始めて」定義したものであり、実地の移動距離(道のり)を集計したものではないのです。丁寧に言うと、実地の移動距離は、島嶼間の渡船移動のように、測量しようもないものもあり、また、未開の倭地のように、陸上街道であっても、適格に測量できないものもあったのです。ここで定義するから細かいゴタゴタは出てこないのです。

 かくして、「周旋」に貼り付けられた道化面を剥がして、正しい「面目」が回復できるのです。

*笵曄「後漢書」東夷列伝の怪~余談
 ついでながら、笵曄「後漢書」東夷列伝は、後漢最後の皇帝献帝代に帯方郡が創設/公認されて洛陽からの公式道里が設定されたという記事を持たないので、倭の位置を説明するために、苦肉の策として、既説、既知の楽浪郡の南境から倭までの道里を書いていますが、唐代に笵曄「後漢書」に追加された司馬彪「続漢書」「郡国志」にすら、そのような史実の根拠が無く、「風評」「臆測」とみられても否定しがたいのがわかります。つまり、魏志「倭人伝」が、「倭人」の所在を初めて記録したことが、改めて確証できるのです。

 歴史上、西晋後期の陳寿に対して、笵曄は、西晋/東晋に続く劉宋の士人で、百五十年後の後追いですから、その時点で「後漢書」東夷列伝に、新たに発見された根拠があれば、堂々と明記できたはずですが、西晋代、つまり、陳寿と同世代の司馬彪「続漢書」「郡国志」にない記事は、さすがに参照できなかったので、後漢書「東夷列伝」の面目を保つために、倭人伝を上塗りする、いわば、「方便」とすべき「おとぎ話」を、いわば筆を舐めて貼り付けることしかできなかったのです。
 何しろ、衆知の如く、介在する百五十年の間に、北方異民族の侵攻で、西晋亡国、洛陽壊滅の大変動があったため、笵曄の手元には、それこそ、後漢魏晋代の公文書記録の残骸しか伝わっていなかったので、最早、後漢代原資料に基づく正史編纂は不可能だったので、先行する諸書を拾い集めたのが笵曄「後漢書」ですが、東夷の後漢代「史実」、即ち「公文書記録」は、喪われて伝わっていなかったのです。

*行程諸国歴訪の趣旨
 ここに想定されているのは、狗倭行程は、大河の流れに例えられた「大海」(塩水湖)に浮かぶ「海中山島」(中州/中の島)に存在する各国「国邑」、つまり、隔壁集落を「又」「又」、順訪するのであり、後世諸国のように、広がりを持った領域になっていないものです。

 ちなみに、太古以来、「國」「邑」とは、王と近親が特に隔壁にこもった形態、ないしは、所蔵する耕作地と耕作者まで収容した隔壁、城壁に守られた集落国家が定法ですが、「倭人」は大海海中の山島に住んでいるので、定法に従わず、城壁を構築していないとしているのです。外敵や野獣の侵入を防ぎ、また、河川氾濫時などの浸水を防ぐために必要な防御は、聚落遺跡として出土している「環濠」に限られていたと言うことです。倭地の実情は、ある程度、中原知識人に知られていたのでしょう。

 そのような太古殷代の古典的な「國」と別に、周代の春秋時代以降、かなり広がりを持った邦」(くに)が、時代相応の広域を示すようになったのですが、漢代、創業者高祖劉邦の「邦」の字を憚って「國」と呼ぶことにしたので、魏晋代に到ると「國邑」は、言わば、言葉の「化石」として、史官の語彙にだけ生き残っていたのです。
 つまり、ここでいう「國」は、三世紀に常用された「国」と異なり、字の形が示すように、方形の隔壁に囲まれた集落であり、倭人伝では、それを明示するために「國邑」と二字語にしているのです。

 従って、「倭人」の王城は、広々とした「國」でなく、伊都国の南にある小規模な隔壁国家であり、あるいは、伊都国の隔壁の中に、すっぽり収まった二重国家かもしれないのです。「倭人伝」は、壮麗な「國」を描いていますが、正史に書かれた以上「史実」と見なすべきですが、どうも、「写生」ではないようです。

 このあたりは、「倭人伝」冒頭で断っているように、倭人は、大海に浮かんだ山島に在るという語法を、内陸世界に生まれ育った三世紀中原人の教養で理解できるように、「河水の流れの中州の飛び石のように小島がある」と表現したものと見えます。

 ちなみに、末羅国で三度の渡海は終わり、その先は「陸行」、地続きとされていますが、だからといって、九州島のように広々とした山島を想定していたとは限らないのです。その点は、伊都国の戸数が、道中の諸国同様に千戸台であることでも示されています。(奴国、不弥国、投馬国は、道中ではない余傍の国なので、以上の議論の埒外であり、言うならば、別儀、論外です)

 折角、陳寿が、同時代の教養人の誤解、混同を避ける慎重な書き方、書法を示しているのに、言うならば、無学無教養の蛮夷である現代人の思い込みにとらわれて、いわば、諸人(もろびと)が挙(こぞ)って誤解し、陳寿の本旨を適確に理解している論客が、めったに見当たらないのは、まことに残念です。(「無学無教養の蛮夷」とは、随分「ご挨拶」と思われるかも知れませんが、三世紀当時、「文明人」とは、四書五経を諳んじて、周礼に随い、典拠に基づいて滔々と弁じる「教養」を備え、衣服、面貌、頭髪、いずれも、典式に従うものであり、現代にその要件を完備している方がいらっしゃるとは思えないので、別に「差別表現」ではないのです)

*方里の幻惑~余談
 ちなみに、行程道里の「里」と紛らわしいのが、東夷伝特有の「方里」、例えば、韓地の「方四千里」とする表現ですが、一辺四千里の方形でなく、一里四方の正方形「方里」四千個を縦横に敷き詰めた「面積」表現である可能性が高いのです。(的確な換算かどうか、不確かです)

 ここでいう「面積」は、当てにならない領域面積などではなく、「耕地面積」であり、領地内各地の戸籍、土地台帳に書かれている個別の農地の面積「畝」(ムー)を集計して、一里四方の正方形の個数に換算したものてだ、いわば適格な集計だったのです。
 現代人が、当時存在しなかった現代地図で見る領域面積に対して、せいぜい十㌫程度であって、非常識なほど狭いものですが、三世紀当時の東夷領域で必要なのは、其の国の穀物生産能力であり、従って、戸籍に登録された耕地面積に、限りなく重大な意味があったのです。

 現代人がついつい見てしまう「地図」は、当時全く存在しないので、各国領域の形状は幻覚に過ぎず、大変不確かで測量不能であり、又、実用上、厳密である必要は全く、全くなかったのです。いや、領域面積が何かの間違いで測量できたとしても、高句麗、韓国のように、指定された領域の大半が、山嶺、渓谷、河川などで耕作不能なのは明らかですから、そのような虚構の面積で当該領域の国勢を示すのは無意味なのです。
 この点、中原の黄土平原では、領域の相当部分が農地として開発されているので参考にならず、東夷諸国の国勢を示すには、正味の農地面積を駆使したものと見えます。

 因みに、陳寿「三国志」の魏志東夷伝で、そのようにして「方里」を表記しているのは、往年の公孫氏遼東郡の管轄範囲であり、公孫氏自体は、司馬懿の徹底的な殺戮により公文書を喪っていましたが、いち早く、魏帝の命により、両郡が無血回収され、皇帝直属となったため、公孫氏時代の「方里」の書かれた文書が証明されたものと見えます。
 倭人伝に、「方里」の書かれている対海国、一大国は、海中山島にあって、耕作可能な農地が稀少なのが明らかなので、特に「方里」として耕地面積を明記したのであり、あわせて、公孫氏遼東郡は、「女王以北」と書いた、対海国、一大国、末羅国、伊都国は、「倭人」の要点として、国情を適確に把握していたものと見えます。

 ということで、「方里」は面積系の数値であって、ここで言う「周旋五千里」という道里系の数値とは、別次元の単位なので、「方里」に見て取れる里数は、周旋里とは無関係なのです。
 「周旋五千里」が、何㌔㍍に相当するかという「設問」は、別に論義すべきなので、ここでは触れません。

以上

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