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2023年1月

2023年1月31日 (火)

新・私の本棚 外野 ウィキ 「古代史の散歩道」 seit2023 1/6

ウィキ 「古代史の散歩道」2023/01/28 当記事 2023/01/31

◯始めに
 本件は、ブログ記事でもなく、衆知Wiki体裁であるが、一律seit2023署名であり論者として公開したものとして批判させていただくことにした。
 因みに、本件は、誠に人を食ったブログタイトルであり、古手のブログ主は不満であるが、それはこの際言わないことにする。

*批判と反論
 以下は、掲載記事の引用に当方の批判コメント追加であり、古典的喧嘩論法は極力受け流したが、反発は理解いただけるものと思う。
 因みに、氏は、細かく引用先を明示して公開されているが、特に意義がないと思われるので、批評の目的で引用した。

「鳥越 憲三郎」批判について
『「三国志」観~いびつな裁断』(参考文献2)と題して、「前提不明の断定で、用語不明瞭で学術書として大変不適当」(参考文献2)と書いているが、前提不明の断定とする根拠は示されていない。「(裴松之は)目方や山勘で補注行数を決めたのでは」ないというが、鳥越氏は「目方や山勘で補注行数を決めた」とはどこにも書いていない。書いてもいないことによって批判することは当を得ておらず、批判の根拠にはならない。「裴松之が数倍の分量にして補注」(鳥越(2020)、p.74)したというのは、間違っているわけではない。裴松之の注によって、『三国志』は名著になったとする評価もあるくらいである。学術的批判であるなら、どの書の何ページに書かれているなど、最低限の書き方が必要であるが、それも欠けている

 論者は代理人として趣旨理解の教養有無が不明なので以下、順に説明する。
 「題して」と言われるが、小見出しか。タイトルではない。「前提不明の断定で、用語不明瞭で学術書として大変不適当」との引用で、本書に「前提」論拠が読み取れなければ意味不明は明らかである。無理難題は、ご勘弁いただきたい。
鳥越氏は「目方や山勘で補注行数を決めた」とはどこにも書いていない。は「揶揄」であるから原文にないが、「裴松之が数倍の分量にして補注」(鳥越(2020)、p.74)したと明確に示唆しているように、鳥越氏は、史書の価値は「分量」と相関関係があると示唆しているから、映画のトラさんにしゃれめかして「つらい」と揶揄したのである。当然、「学術的」批判ではない。
 これでは、無根拠の誹謗、中傷と解されるからご注意いただくよう批判しているだけである。

「裴松之が数倍の分量にして補注」(鳥越(2020)、p.74)したというのは、間違っているわけではない。
 当方は、「裴松之補注が本文に数倍」の言い分が間違いと言うのでなく質的な点の指摘だけである。字数を数えず内容で勝負しろといっているのである。

『三国志』は名著になったとする評価もある
とは、何とも困った風評頼りで、拙論批判の根拠とならない。主観的な批評の一例では困る。百人に聞けば、何人か同意してくれる人がいるだろう。

学術的批判であるなら、どの書の何ページに書かれているなど、最低限の書き方が必要であるが、
 文の趣旨の斟酌は、文脈の理解が前提であるから、部分引用は、誤解の元である。特に、文意の読みがもつれるときは、本項の工夫が必要である。そうした配慮が理解できないなら、そうですかというしかない。

                               未完

新・私の本棚 外野 ウィキ 「古代史の散歩道」 seit2023 2/6

ウィキ 「古代史の散歩道」2023/01/28 当記事 2023/01/31

承前
(引用)『南朝劉宋時代に裴松之が補注し「三国志」が成立した」との不可解な論断に続き、「今はそれも散佚した」という趣旨が、余りに唐突で、混乱しています。写本継承の過程で異同が生じたとしても、史書「三国志」は、「散佚」せず健全に継承されたとするのが妥当な見方』(引用ここまで)(参考文献3)と万年好奇心少年は批判する。ところが原文は「宋の429年に成った『三国志』であるが、今はそれも散逸した」(鳥越(2020),p.74)である。原文通りの引用をせずに書き換えて批判するのはルールに反する。裴松之が429年(元嘉6年)に執筆し、皇帝に提出した『裴松之補注版三国志』は残されていないので、散逸したと言って間違いではない。現存する最古の『三国志』(裴松之補注版)底本は 紹興年間(1131年-1162年)の刻本であって、429年の手書き原本ではない。万年好奇心少年のいう「余りに唐突で、混乱」はまったく事実に反する。万年好奇心少年の書きぶりは、世の中を惑わす批判であり、有害無益なブログといえる。
「世の中を惑わす」とは倭人伝では、一女子卑弥呼が人心掌握したと賛辞と見え、お褒めにあずかったと感謝する。「批判」は、誹謗、弾劾で無い「批判」との指摘に異議は無い。「有害無益」は、論者の趣味嗜好であるから一身にとどめずお返しする。事実が分からず、全く事実に反するのは不可能である。
 因みに、論者から絶大な賛辞を頂くのは光栄である。以下同文である。

「史官裴松之の注釈が「大量」追加された時点で、はじめて「三国志」となったという解釈は、大変な見当違いです。」(参考文献3)と万年好奇心少年は書くが、鳥越氏はそのようなことは書いていないので、捏造した引用である。鳥越氏は解説の冒頭で「『三国志』は陳寿が・・・合計65巻として完成させたものである」(参考文献7,p.76)と書いているので、裴松之の注釈が書かれる前に『三国志』が成立していることは、説明している。その後半に「裴松之が数倍の分量にして補注し、それが宋の429年に成った『三国志』である」と、『原本三国志』と『裴松之補注版三国志』とは区別して書いているのである。つまり補注により『三国志』が初めて作られたわけではない。さらに『原本三国志』はそもそも残されていないので、裴松之が補注を入れる前の状態は誰も確認できないのである。

 まず、「同時代に「魏志」を読んだ人間がいる」のは自明で確認を要しない。「誰も確認できない」も非学術的で同意しがたい。現代人が、二千年近い過去を見聞できないのも自明で、当世風自虐趣味かと危ぶむものである。
 裴松之は、当時最善とされた三国志原本に「大量の」注記を行ったのであり、当然、補注前の状態は承知していた。それが、科学的な議論と思う。別に同意されなくても結構で、せめて同時代人の意図を読み取って頂きたい。

 因みに、先だって、「『三国志』は名著になったとする評価もある」とあるのは、明らかに、「裴注版」に関する風評であるが、趣旨不明である。
万年好奇心少年は「現存最古の「三国志」の最有力な巻本は、宮内庁書陵部が管理している南宋刊本ですが、第一巻から第三巻が逸失しているものの、それ以外の全巻は、健全に継承されているので、とても、散佚とは言えない」(参考文献3)と書くが、宮内庁書陵部にあるのは、「晋 陳寿、宋 裴松之註」の百衲本(紹興年間(1131年-1162年))であるから、陳寿の原本は失われている。

                                未完

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ウィキ 「古代史の散歩道」2023/01/28 当記事 2023/01/31

 当方が「南宋刊本」としか書かなかったのは論点に関係無いからである。「晋 陳寿、宋 裴松之註」の百衲本(紹興年間(1131年-1162年))と論者が持ち出しているが、要らぬ紛争は、避けたかったのである。

 本論では、宮内庁書陵部が継承管理しているのは、普通「紹熙本」と呼ばれているが、「南宋刊本」で十分であり、また、これは「百衲本」でないとの定評がある。「紹興年間(1131年-1162年)」は、何の意味が不明で、論者の意識混乱と見える。要するに、聞く相手を間違えたようである。因みに、ここは、現在最有力な刊本と確認するだけでなく、二千字ほどの「倭人伝」原本を確定しないと議論が進まないので、公開史料を提示したのである。つまらぬ言いがかりには、関わり合わないのが最善であるが、つい一言してしまった。慚愧である。

原本にどのように書かれているかを知る方法はないという意味で、「散佚」と言って差し支えない。
 論者は、独特の「字書」をお持ちのようで、「散佚」と称して、三国志全体が「散った」「失われた」と言いふらすのは、大いに「差し支え」がある。何にしろ、正確に知らないことを間違ったままで高言するのは、罪作りである。

 わざわざ指摘したのは、論者の仲間から、意図不明の誤伝が出回るからである。中国史書の資料評価であるから、個人創作の字書は控えて、漢字字書を参照して「散佚」を解するものと思われる。何しろ、「三国志散佚」論は、途轍もない言いがかりと見える。

 史書「散佚」の好例として、関連資料で言うと、魚豢「魏略」は、善本が全く残存していないもので、史書や類書への断片的引用「佚文」が残存しているだけである。これに対比して、健全に継承されている正史が「散佚」したとは、読者に混乱を呼ぶのでは無いか。とくに、魏略佚文の倭人伝相当部分は、不正確な引用に「定評」のある「翰苑」所収であって、誠に断片的である。倭人伝も、ゴミの山なのだろうか。
 鳥越氏は、魏略佚文の史料批判無しに、陳寿「魏志」倭人伝は、魚豢「魏略」を写したものと称しているが、そのような不合理まで指摘すると厖大になるので、武士の情けで、割愛したのである。所詮、本項は、ブログなる身辺雑記の書評稿公開であり、これを「学術的」論考並に審査されても、困惑するだけである。まして、審査するのが、不出来な者ではどうしようもない。
 因みに、ここでは、「倭人伝」原本に書かれていた大半は健全に継承されていると見るのが、科学的な態度ではないかと言いたかったのである。魏志の冒頭3巻欠落もあが、ことは、魏志第30巻のことであり、論者が同意されないなら、そう言っていただければ良いのである。べつにか完璧というものではない。
 世上噂されている諸兄姉の判断の根拠は風の如く不明であるから、当方の意見を述べただけだけである。別に排他的に論じているわけでは無い。

万年好奇心少年の主張は単なる言いがかりである。
 「単なる」「言いがかり」とおっしゃる意味が分からないが、拙論は、「孤」つまり「隣」の無い一論であるから、「単なる」かも知れないし、事の取っつきを求めた「口切り」であるから「言いがかり」かも知れないが、それでどうしたというのか、一向に通じない。

 大事なのは、鳥越氏の唱えたと見える史料観が一方的であり、反論が必要だという意見であるから、内容についてご意見を頂きたいのである。

「鳥越氏は解説の冒頭で「『三国志』は陳寿が・・・合計65巻として完成させたものである」(参考文献7,p.76)と書いているので、裴松之の注釈が書かれる前に『三国志』が成立していることは、説明している。その後半に「裴松之が数倍の分量にして補注し、それが宋の429年に成った『三国志』である」と、『原本三国志』と『裴松之補注版三国志』とは区別して書いているのである。」
 僅かな間に、『三国志』の定義が転々としていて、前後で意味が変わっているのである。

                                未完

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ウィキ 「古代史の散歩道」2023/01/28 当記事 2023/01/31

*解釈変調
 ここで、鳥越氏の解説を修飾しているが、原文を普通に、そのまま解釈すると、最終的に、裴松之が補注して成った「三国志」と断定しているのであり、氏が「三国志」と解しているのは、裴注の付されたもので有ることは明解ではないか。このあたり、鳥越氏の文意が読み取れないのであれば、もう少し謙虚に論じるものと思う。

 論者が『』で規定したという事は、学術的に『原本三国志』と『裴松之補注版三国志』が区別されるとの主張のようであるが、ここは、鳥越氏の著書の考察であるから、本書から用例を提示頂きたいものである。

「どのような「新しい」陳寿が知らなかった史料が発見されたのか根拠不明です。むしろ、陳寿がそれらの史料を審議した上で、採用せず割愛、ゴミ箱入りにしたと見えます。実地に判断すべきなのです。」(参考文献4)と万年好奇心少年は書く。その陳寿の知らない史料とは、たとえば王粲他編『漢末英雄記』、習鑿歯著『漢晋春秋』」、『魏武故事』、虞溥著『江表伝』などが挙げられよう。「陳寿がそれらの史料を審議した上で、採用せず割愛、ゴミ箱入りにした」(参考文献4)と万年好奇心少年が書くのは根拠がない断定である。

 当方は、鳥越氏が主張される「「新しい」陳寿が知らなかった史料が発見された」成る断定に疑義を投げかけただけであり、分量として原典に数倍すると明言していることから、文字数評価は不合理と指摘しているだけである。

 ちなみに、裴注の中でも、魏志第30巻の末尾に追加されている魏略「西戎伝」は、相当する魏志「西域伝」が存在しないから、0字に対して4000字余りが付注されていて、分量比は計算不能である。

 陳寿の一世紀半後進である裴松之が参照した資料の中に、陳寿が知らなかった「新しい」史料は当然あるだろうが、全体として、陳寿が、熟読吟味の上、不要と考えて「没」にした史料が少なからずあるという主張自体は、十分に合理的と考える。陳寿が棄却したと見ても独断ではないだろう。

*中国史官たる陳寿の使命感
 そもそも、基本に立ち返ると、陳寿は、帝国内の文書担当の手で、書き上げられ、承認を得て奏上され、然る可く皇帝の承認を得た「公文書」こそが「史実」で、これを正確に後世に残すのが使命と考えていた「史官」である。
 魏志で、東夷伝、特に「倭人伝」に関して、「史実」に不備がない限り、当時、洛陽に継承されていた「公文書」を引用したと見るべきである。これは、基本の基本であるので、異論があれば、根拠を提示頂きたいものである。

 「翰苑」残簡の倭伝部の魚豢「魏略」所引は、それは、偶々、(正確と検証されていない)引用文が編者の手元にあったと考えられる。「翰苑」編纂者は、「史実」の正確な継承を任務としなかったので、正確性の程は疑問である。その証拠に、「翰苑」は粗雑、つまり、低級な誤記、誤写が濃厚に散乱し、「それが較正/訂正されていない」事が、「翰苑」残簡史料批判のほぼ全てである。「翰苑」所収「魏略」佚文は、一切「信じてはいけない」と言うべきである。

 因みに、一部にある「魏略」私撰論は、とんだ言いがかりである。当時、部外者が公文書庫に立ち入って史料を渉猟するのは死罪であったから、魏略編纂は、史官たる魚豢に許容されていたと見るべきである。
 ここで、自明事項を端的に言うと、何事も例外はあり、例外があることが強固な論証であるという意見もあることを指摘しておく。

                                未完

新・私の本棚 外野 ウィキ 「古代史の散歩道」 seit2023 5/6

ウィキ 「古代史の散歩道」2023/01/28 当記事 2023/01/31

*延喜式談義
「道里記事の「水行」、「陸行」の日数、月数を、「延喜式」の旅費規定に示された旅程日数から考察して、九州北部から大和に至る道里として、おおむね妥当としています。論証不備は、素人目にも明らかで、子供じみた書き飛ばしです。」(参考文献6)と万年好奇心少年は書く。鳥越氏は説明に「延喜式」を使っているが、古代の移動のための日数の推定に「延喜式」を使うことは許されると考える(参考文献7,p.93,105)。当時は歩くか、海路を取るしか手段のない時代であるから、交通手段を定めれば、要する移動日数に大きな違いはないと考えることは可能であろう。鳥越氏は「延喜式」は論証のために出したのではなく、疑問点を解釈するために、提示しているのである。万年好奇心少年はそれを曲解して批判している。

 論者は、声高々と指導されるが、当方は素人の「一少年」なので、許すとか言えるわけがない。合理的でない、根拠にならないと言うだけである。論者は、鳥越氏共々、軽々に「当時」を論じ「歩くか、海路を取るしか手段」と、移動手段を説くが、三世紀交通手段と延喜式の依拠する「交通手段」には相当な違いがある。
 論者は「大きな違いはない」と「考えることは可能」と逃げるが、公的「交通手段」は存在しなかったと「考えるのが可能」より合理的と思われるから、まずは、「存在した」ことを証するのに続いて、日数道里を、具体的に証した上で、そのような仮定を適用するべきかと思われる。早い話が、歩いて長距離を移動して目的地に生きてたどり着けるのは、途中に食料と水を提供し、寝床を提供する「宿駅」が、設置されているからである。つまり、食料と水が用意されている必要がある。十世紀には、街道があって旅人が往来していたろうが、七百年前の三世紀に、そのような制度があったかどうかである。恐らく、倭人伝で行程が書かれている諸国は、道里が短く数日程度であったろうから、宿舎は置けたろうが、纏向まで、宿舎で埋め尽くすことはできなかったと見える。そうで無いなら、何年頃に、宿舎が整ったと書かれているべきである。

 別に、当方は、許すだのどうの処断する立場にない。ただ、そのような大雑把な論義は、不適当/不合理でないかと述べているだけである。「学術的」に適法か不法かと詰問しているのではない。うまくできるかどうかと言うことだけである。

 いや、当方は、「倭人伝」道里行程主幹部は九州島内の前提であり、徒歩でも往来できたろうというのである。渡し舟も在ったのである。だから、倭人伝に道里行程の記事が続いているのである。難儀な強弁は必要ないので、無理なことは無理なこと。例えば、六世紀あたりまで、不通だったということから、別にどうでも良いが誠意を持って批判したのである。
 とにかく、論者は、三世紀交通手段を、まずは立証する義務があると自覚頂きたいのである。ホラ話を大声で怒鳴られても、同意はしないのである。因みに、隣近所の村と往き来して、物の売り買いをしていたのまでなかったというのではない。日帰り程度であれば、大層な宿場は要らないのである。
 そう、延喜式に、当然のこととして規定が載せられたのは、各地に街道と宿場ができたからである。数百年をかけてのことである。

*延喜式の超時代効力談義
 論者の論法は、諸処に疑問が生じる、本件で、鳥越氏は97ページで、
「三国志」に見る水行・陸行の記事は、役所の公的な旅費規程に基づくものであったとわかる。と、途方も無い断言を行っている。当方は、学術的な部分引用は、鳥越氏の本意に反すると思い、武士の情けで明言しなかった。

 丁寧に言うと、上記引用を文字通り普通に解すると、鳥越氏は、三世紀の編纂者が、遙か後世の日本の「延喜式」の「役所」旅費規程に依拠して「三国志」原本を較正したと主張していることになる。誤解の余地はない。
 因みに、「延喜式」は、古代国家制度「律令」の細則として、十世紀に策定、公布され、Wikipediaによれば、「『延喜式』原本は現存せず、室町・戦国期の古写本もほとんど散逸した。」とあり、国家要件時代は兎も角、武家政権時代に正しく書写継承されたと見えず、三世紀に伝来した証拠も無い。

*不明瞭表現の指摘
 当方は、そのような手ひどい非難を浴びせる趣旨ではなく、全体的な読書感想として、氏が「倭人伝」の道里行程記事は、旅費規程に依拠解釈すべきだと主張されたのに対した批判である。引用が不正確としても、鳥越氏の唱えている「倭人伝」考察の要点に疑問があると言っている。なにしろ、「多い」「大きい」「重い」の表現を極力避けたのである。当方の趣旨を理解頂ければ良いので、別にご意見を変えて欲しいというものでも無い。
 当方の内心を「曲解」と断定されている点だが、どうして、論者は、当方の内心を読み取れるのだろうか。因みに、「曲解」は、本来「知的な曲芸解釈」の妙技である。拍手。

                                未完

新・私の本棚 外野 ウィキ 「古代史の散歩道」 seit2023 6/6

ウィキ 「古代史の散歩道」2023/01/28 当記事 2023/01/31

*内乱考 (**改行追加)
 鳥越氏の記述にもいくつか問題点がある。
 (1)鳥越氏は三角縁神獣鏡が出土するのは、4世紀以降と書くが(参考文献7,p.133)、実際は愛知県犬山市東之宮古墳出土の三角縁三神二獣鏡(京都国立博物館蔵)は3世紀である(参考文献8)。また造営時期は3世紀後半頃と推定されている前期前方後円墳の黒塚古墳からは33面の三角縁神獣鏡が出土し(参考文献9)、これらは成分分析により中国鏡と推定されている(参考文献10)。したがって三角縁神獣鏡を否定するのは事実誤認である。
 (2)卑弥呼の時点では「当時はまだ古墳時代に入ってないから(墓は)方形周溝墓であったとみてよい」(参考文献3,p.138)と鳥越氏は書くが、西暦250年前後に箸墓古墳は築造されている。これはほぼ証明されている。したがって、卑弥呼の墓は前方後円墳ではないという断定はできない。
 『卑弥呼の墓を「前方後円墳」と勝手に決めつける一部の意見』と万年好奇心少年は書く(参考文献7)が、これも正確ではない。

*とんだ内輪もめ
 ここで、論者は突如、当方の鳥越氏論調批判を離れて、二件に渡って不思議な「私見」を掲げ氏を批判する。当方は、高名な鳥越氏の著書批判が目的で、無名論者の私見批判の動機はないが身に振る火の粉と理解いただきたい。

*国内考古学談義の乱入
 当方は、「倭人伝」論義専攻で、「倭人伝」の卑弥呼冢論は、『世上出回っている「前方後円墳」比定は、「倭人伝」の文献解釈上不可能である』との主張であるが、論者は、箸墓に誘導しようと参考文献連発である。要するに、当プログの見解は「倭人伝」列国は九州島内としているので、卑彌呼冢が、纏向付近と言う議論は、端から無関係であり、何を言われても圏外である。無縁の衆生である。(中国製銅鏡論は見当違いで論外だが、武士の情けで不問)
 よそごとながら、論者は、頑強な卑弥呼冢前方後円墳論者のようであるが、我田引水の論証が絶無である点を、自覚/理解いただきたいものである。何しろ、論者は、史書としての「倭人伝」を理解できていないのである。

*余談~神頼み
 素人目には、連年の強弁の積み重ねで公費による発掘/科学鑑定が進んだが、「倭人伝」の解明が未達成で、積年の泥沼は、地に足のついていない架空論義である。
 それとも、全域発掘を辞さない、卑弥呼金印探しで、全て京大文学部以来連論と続く遺跡考古学の力で、文献解釈の泥沼を突き抜けて、一発で解決すると神頼みしているのだろうか。

 所属する陣営がそれぞれあれば、それぞれ意見が食い違うのは、仕方ないが、万事の基礎部分で無理をしているのは、素人には、痛々しいのである。ほっとけば良いのに、余計なことを言うのは、当事者の転帰に期待している。

*私見の奔流
 端的に言うと、「西暦250年前後に箸墓古墳は築造されている。これはほぼ証明されている。」とは、一部論者の極めつきの「私見」であって、「証明」にほど遠い状態と見受ける。そのような「私見」によって、当方の合理的な意見を否定するのは、独りよがりと言わざるを得ない。私見者が、何人いても私見に過ぎない。いくら頑固でも、である。
 以下略する。

 引用出典 seit2023 古代史の散歩道

                               以上

2023年1月29日 (日)

今日の躓き石 NHK E 低次元の「リベンジ」感染公開

                      2023/01/29

 本日の題材は、NHK Eの将棋番組であるが、事件が起きたのは、メインの第72回NHK杯将棋トーナメントでなく、前座の「将棋フォーカス」であった。個人攻撃では無いので、各人の名を伏せるが、おじさん棋士が目下棋界の頂点にある竜王に挑むのを前にした「登山行」の追っかけ取材で、何も知らない主人公が「リベンジ」と叫んだのを、担当記者が「ダブルテイク」のぼけを披露して、言い直させて、キャプションを大写しにしていたのには、呆れたのである。
 別に、ご当人は、それが放送事故に近い暴言だと知らないのだが、それを、公共放送の担当者が、でかでかと言い立てたのは、なんとも情けないし、MC気取りの二人が、それを何も窘めずに通し、結局、受信料のかかっている公共放送に、人前で言ってはならない暴言を垂れ流したのは、何とも、情けないものだった。これで視聴者が真似すれば、折角、大勢の良識ある報道人が葬ろうとしている「リベンジ」が、堂々と世間に出回るのである。百回抑止しても、一回のさばらせれば、帳消し以上なのである。

 当たり前のことだが、主人公は、別に、竜王に対して、全国視聴者に曝したい恨みが有るわけで無く、まして、前回恥をかかされたという記憶も無いのである。血なまぐさい天誅もないし、ぶちのめして憂さ晴らしする気も無い、はずである。主人公が、鬱屈した意気地無い気概を間違った形で吐き出したかも知れないが、その無様と言われかねない放言を、全国視聴者に知らせるべきだと「恥さらし」に報道したのだとしたら、制作意図が陰険である。

 主人公は、難関に挑む「チャレンジャー」のつもりなのか、それとも「ゴレンジャー」のつもりなのか、どうせいい加減なカタカナ言葉だからとばかり、「リベンジ」を叫んだのだろうが、公共放送の取材陣は、ちゃんと、罰当たりな言葉遣いをたしなめて、問題発言を闇に葬るべきだったのである。そうしていたら、世の闇に蔓延る暴言屋が、一人更生してテロリスト支援から離脱し、世の中が、其の分明るくなるのである。NHKは、暴言の宣伝、伝道屋でなく、言葉の護り人であって欲しいものである。

 と言うことで、今回の事件は、NHKの番組(の一部)が、無審査に近い野放し状態であることを暴露したのである。困ったものである。再発防止として、当番組関係者の指導を願いたい。受信料を値下げして、番組内容をそれに見合った低次元の物にするのは、最善の策とは思えないのである。

以上

2023年1月28日 (土)

06. 濵山海居 - 読み過ごされた良港と豊穣の海 再掲載

                         2014/04/26  2022/11/14 2023/01/28
 「末盧國,有四千餘戶,濵山海居,草木茂盛」

*末羅国談義

 末盧國は、山が海に迫っているため、田地、つまり、水田と限らないにしろ、農地が制約されたとしても、航海に通じた少数精鋭の国だったのでしょう。
 戸数四千戸は、國邑、つまり、隔壁集落で、千戸台となっている前後の諸国に数倍するのですが、それが、単一國邑なのか、千戸台の國邑が数カ所存在したのか、不明です。四千戸の大国の住民が、海岸近くに住んでいたのか、内陸に住居を構えた住民の大半が浜小屋住まいだったりすると、適切な課税が困難と見えますが、詳しいことは分かりません。

 また、言うまでも無く、倭は、年間通じて降雨に恵まれていたので、水田米作が維持でき、もう一つの辺境である西域の流沙、つまり、砂漠とは大違いです。更に言うと、乾燥地帯の黄土平原である中原とも寒冷の韓国とも、大きく異なるので、街道を塞ぎそうな樹木の姿が、感銘を持って特記されたようです。
 後ほど、気候の話題が出てきますが、北方の韓国のように寒冷でなく、温暖であるものの、南方の狗奴国で引き合いに出された海南島のように瘴癘ではないのです。
 要するに、玄界灘は漁獲に恵まれた豊穣の海であり、長く、沿岸諸国の国力を支えたでしょう。
 末羅国は、倭國覇者ではないにしても、国土は狭くとも、戸数は少なくとも、地域「大国」だったはずです。

 さて、以下の道里記録の評価で余り触れられていないように思うのですが、これら道里の出典は、魏使(帯方郡使)の測量した数値であるということです。 旧説を撤回 2022/11/14

*魏使の陣容
 魏使は、正使、副使程度しか知られていないものと思いますが、少なくとも、魏朝を代表して派遣され、外交以外に、軍事的な目的も担っていた以上、以下に述べる程度の構成は整っていたはずです。たとえば、副使は、正使に不測の事態が生じたときの代行者でもあり、時には分遣隊として滞在地を離れて、出動したことでしょう。

 人員は、大半が帯方郡からの派遣でしょうが、基本的に魏朝の配下とみるものです。
 正使 副使 通事 書記 記者 保安 財物 食料 救護 荷役
 ここで上げた書記は、公文書を取り扱う高官ですが、記者は、実務担当者であり、日々の任務の記録以外に、移動中の歩測測量を記録していたはずです。

 時に話題に上る「歩測」は、訓練を受けていれば、日々の移動方向と移動距離を結構高い精度で測量できたものと想像されます。全道里と所要日数の積算は、この記者の残した測量結果無くしては不可能だったはずです。 

*主要四行程~周旋五千里
 道里行程記事に書かれた狗邪韓国から倭王の王治に至る「主要行程」は、倭国内で、主要行程の道里が残されているのは、対海国~一大国~末羅国~伊都国の四行程に過ぎないし、ほぼ、南下の一路ですから、略図に書くまでもなかったようで、道里として主要四行程は「周旋五千里」、つまり直線行程を確認したものの、あくまで、全行程万二千里を按分したに過ぎず、実際の道里は正史に残されていないのです。
 史官にとっては、文章だけが「業」であり、「絵」や「図」は職人の手すさびですから、正史に居場所がなく、あったとしても捨て去られたのでしょう。どうしても、絵を残したかったら、「自画自賛」として「賛」なる詞文を付さなければならなかったのです。どの道、「東夷圖」を書いたとしても、各国間の道里が書き残せるだけであり、正史に綴じ込まれるわけでは無いので、立ち所に散佚したでしょう。

 歩測測量などの探偵技術は、外交軍事使節が未踏地に派遣される時の重要任務であり、それこそ、首をかけて達成したものと想像しますが、あくまで、後日、魏使の帰任後のことであり、以後の往来でどの程度活かされたかは不明です。とにかく、郡から倭まで万二千里の道里は、とうに、帝国公文書に刻み込まれていて、皇帝自身にも訂正のすべがなく、つまり、直接反映されていないのは明白です。もちろん、臣下が改竄するなど、実行不可能です。

*追記 2022/11/14
 よく考えてみると、誰が考えても、海上行程は測量できないし、末羅国から伊都国の行程は、市糴、つまり、交易の経路だったので、所要日数と里数は、早い段階で、帯方郡に報告されていたでしょうから、景初の遣使ー正始初頭の魏使来訪の時期、改めて魏使が歩測する必要はなかったようです。
 書き漏らしていましたが、末羅国の海港は、伊都国にしてみると、北の貿易港であり諸国物資の集積港であり、一大国などに向かう海船の母港でもあったという事です。つまり、当時、絶妙な位置にあって、海港として繁栄していたことでしょう。つまり、世上異説となっている「魏使が偶々寄港したためにここに書かれた」というという「思い込み」、「思いつき」は、論外の落第点で、真っ当な解釈として成り立たないようです。

 当然のことですが、世上、大抵無視されているので、当たり前のことを確認しておきますが、「倭人伝」の道里行程記事は、正始魏使の出発時点には、確定していて、皇帝の承認を得ていたのです。途轍もなく高価で貴重な大量の荷物を送り出すのに、道中が、どんな道筋でどれだけ日数がかかるか分から無くては、出るに出られないし、道中の宿泊地も含め、現地側から引き受けの保証が無ければ、魏使は、出発できなかったのです。

以上

05. 名曰瀚海 - 読み過ごされた絶景 補充

                        2021/09/26 補充 2023/01/28     

 又南渡一海千餘里,名曰瀚海,至一大國

 倭人傳の主眼の一つである「従郡至倭」行程、つまり、帯方郡治を出て倭王城に到る主行程には、その中心を占める三回の海越え、渡海が書かれています。陳寿が範を得た漢書西域伝では、陸上行程の連鎖で萬二千里の安息国に至っているのですが、ここに新たに書き上げようとしている「倭人伝」では、前例の無い、渡海の連鎖で、日数、里数を大量に費やしていて、これまた前例の無い「水行」と新たに定義した上で、記事をまとめています。このあたりの事情は、この場所には収まらないので、別記事を延々と書き募っていますから、ご縁があれば、お目にとまることもあるでしょう。

 そして、三度の渡海の中央部の記事に、あえて、「瀚海」と書いています。まことに、珍しいのですが、何度も書いているように、この行程は、前例の無いと思われる不思議な書き方になっているので、同時代の教養人といえども、何気なく読み飛ばすことはできなかったのです。つまり、飛ばし読みさせない工夫をしているのですから、現代の「東夷」の知識、教養では、読み解くのがむつかしい(不可能)のも当然です。

 慎重な読者は、ここで足を止めて、じっくり調べるものです。と言っても、この仕掛けは、ここが最初でもないし、最後でもないのです。子供が坂道を駆け下りるように、向こう見ずな暴走をしないようにご注意下さい。まして、転んで痛い目に遭ったのを、陳寿の書法のせいにしないでほしいものです。これまで、ほとんど二千年と言っていい、長い、長い期間に、多数の教養人が「従郡至倭」記事を読んで、「陳寿の筆法を誹っている」例は、見かけないのです。

 閑話休題
 以前から、特別な難所ではないのかと考えていたのですが、今回参照した中島氏の著作では、霍去病の匈奴討伐時の事績を参照して、この海峡を、越すに越されぬ難所として名付けられているとみています。海図や羅針盤の無い(要らない)有視界航行で、一日一渡りするだけと言えども、楽勝ではなかったと言うことです。
 まことに妥当な意見と考えます。

 こうしてみると、単に、三度海越えを繰り返したのではないのです。

 ちなみに、「倭人傳」解釈諸作が、原史料を尊重しているかどうかの試験の一つが、「一大國」がそのまま取り上げられているかどうかです。
 いきなり、「壱岐國」と書かれていたら、それだけで落第ものと思うのですがね。まあ、親亀、子亀の俗謡にあるように、子亀は上に載るだけという見方もありますが、堂々と解説書を出版する人が、「子亀」のはずがないでしょう。

以上

*随想 「翰海」と「瀚海」 2021/09/26
「票騎封於狼居胥山,禪姑衍,臨翰海而還」

 実は、史記/漢書に共通な用例「翰海」は、さんずいが無いものであり、中々意味深長なものがあります。

 漢字用例の集大成とも見える、「康熙字典」編者の見解では、もともと「瀚海」なる成語が知られていたのを、漢書「匈奴伝」などでは、あえて「翰海」と字を変えたと解しているようです。つまり、匈奴伝などでは、匈奴相手に大戦果を上げ、敵地の「漢軍未踏」領域に進軍した霍去病驃騎将軍が、山上から瀚海/翰海を見渡した後、軍を返したことになっています。因みに、ほとんど同記事が、漢書に加えても史記にも引かれていて、この一文が、当時の著述家の鑑になっていたと偲ばれます。

 そこで思うのですが、それほど珍重された「翰海」は、通俗字義である「広大」(浩翰/浩瀚)で越せない難所という意味なのか、何か「瀚」海でなく「翰」海で示すべき感慨があったのかということです。一種の「聖地」「絶景」でしょうか。

 そして、陳寿が、後に倭人伝をまとめる際に先例を踏まえて「瀚海」としたのは、どのような意味をこめたかということです。思いを巡らすのは、当人の好き好きですが、陳寿の深意を探る試みに終わりはないのです。 

 そこで、また一つ憶測ですが、「瀚」は、水面にさざ波が広がっている、羽根で掃いて模様を描いたような眺めを形容したもの(ではないか)と見たのです。

 このあたり、用字の違いが微妙ですが、霍去病の見た「翰海」が、氵(さんずい)無しと言うことは、これは「砂の海」(流沙)と思えるのです。つまり、茫々たる砂の大河の上に、羽根で掃いたような模様が広々と見えたので、大将軍も戦意をそがれて、引き返したとも見えるのです。
 もちろん、これは、よく言われるように、どこかの湖水の水面を見たのかも知れませんが、文字解釈にこだわると「砂の海」に見えるのです。

 このあたりの解釈は、洛陽で史官を務めた陳寿の教養になっていて、帯方郡から對海国に着いた使人の感慨で、目前の海面が、羽根で掃いたような模様に満たされていたとの報告を、一言で「瀚海」と氵付きで書き記したようにも思えます。

 以上、もちろん「状況証拠」なので、断定的に受け取る必要はありませんが、逆に、状況をじっくり考察に取りいれた盤石の「状況証拠」は、否定しがたい(頑として否定できない)と思うのです。何事も、はなから決め付けずに、よくよく確かめて評価するもの(ではないか)と思うのです。

 いや、「状況証拠」は、本来「法学部」の専門用語なので、当記事筆者のような素人が、偉ぶって説くべきものではないでしょうが、世間には、素人考えの勘違いの方が、もっともらしく「はびこっている」可能性があるので、一言警鐘を鳴らしただけです。言いたいのは、一刀両断の結論に飛びつくと、足元が地に着いていなくて、ケガをするかも知れないと言うだけです。

 世上、対馬-壱岐間の海峡を、波濤急流と決め込んでいる方があるようですが、対馬海峡は、全体として決して狭隘で無く、むしろ駘蕩と見える上に、中央部には、特に障害はないので、たおやかな流れが想定されるのです。特に、その日の移動を追えて海港に入ったときは、入り江と思われるので、眺めは穏やかであったろうと推定するのです。入港以前の長い漕ぎ継ぎも、さほどの難関ではなかったと見ているのです。

以上

04. 始度一海 - 読み過ごされた初めての海越え 追記補追 1/5

倭人伝再訪 4 2014-04-24  追記:2020/03/25 2022/10/17 2023/01/28
*お断り 追記の詰め込みで大変長くなったので、ページ分けしました。

「始度一海、千餘里至對海國」

*始めての渡海
 「受け売り」となりますが、『中国古典書では、「水行」が河川航行に限定される』との説の続きとして、「始度一海」についても、中島氏の論に従い、ここは、始めて(始度)の渡(度)海であるとの意味と読めます。
 ここに来て、倭人伝冒頭の「沿海岸水行」が、実行程で無く、『以下、倭人伝に限り、「水行」と言う新語を、海を渡る意味で使います』と言う宣言/定義付けだった事がわかるのです。
 ただし、三世紀当時、目前の「倭人伝」巻本の少し前の字句は、巻物を転がし戻して確認できるので、「読者」は、「倭人伝」道里行程記事の冒頭部分を見返した上で、そういう意味だったのかと「合点」できたことでしょう。

*對海國「市糴」考
 これまで、對海國が「不足する食糧を交易(市糴)で補う」との記事に対して、交易で何が代償なのか、書かれていないと不満を呈していましたが、どうも、この下りは、魏使に見落としがあったようです。交易自体は、「南」の一大國と「北」の狗邪韓國との間で、つまり「南北」に常時「船舶」が往来していたので、地産を託して利益を得て、対価として穀物を得て、辛うじて生存していたように見られがちですが、それは、途方もなく浅い考えです。

*自縛発言の怪~それとも「自爆」
 なにしろ、世上、「對海國は、不足する食糧を補うために人身売買に励んでいた」と、古代史学者の名の下に公開の場で途方も無い誣告に走る「暴漢」がいて、唖然とするのです。そりゃ、国民をどんどん人身売買で減らしていけば、急速に食糧必要量は減るでしょうが、いずれ、近い将来、国土は全て耕作者の居ない「無人の境地になれば食糧不足は解消する」ものの、それは、解決策では無いのです。まるで、子供の思いつきです。
 「古代史学会」が、学会として機能しているのであれば、そのような暴言を放置していることの是正が期待されるのですが、訂正、謝罪の記事は見かけませんから、自浄機能のない機能不全の存在になっているのです。何しろ、未検証の思いつきを、当の現地でぶち上げるのは、万死に値する暴挙です。

*對海国条の深意
 たしかに、「倭人伝」は、そのような印象/イメージを与えるように工夫されているので、普通に読んで、そのように納得してしまうのは、初学者には無理ないことですが、本来の「倭人伝」読者は、古典書に精通していて、言わば、読書の道で百戦錬磨の強者がいて、簡単に騙されないのです。単に、騙された振りをしていただけと思います。

*「南北市糴」の実相
 「南北」に往き来している「船舶」は、普通に考えれば、当然、山林に富む土地柄で地元である對海國が造船し、渡船として仕立てたものであり、併せて、造成した港に「市」を設けていて、南と北から来た船荷の取引で、相当の収益を上げていたはずです。そうで無ければ、往き来する他国の「船舶」から結構な港の利用料を得ていたはずです。

                                未完

04. 始度一海 - 読み過ごされた初めての海越え 追記補追 2/5

倭人伝再訪 4 2014-04-24  追記:2020/03/25 2022/10/17 2023/01/28

*「大航海」大幻想
 そのような前提抜きで、「後世の無教養な東夷」が、「素人考えで夢想」してしまうと、對海國人が、伊都国以遠まで南下するとか、狗邪韓国を越えて北上するとか、途方もない遠出の妄想が広がる方もいるし、果ては、半島沿岸を経めぐって山東半島まで赴いたとか、黄海を北上して渤海湾海岸に乗りつけたとか、ホラ話が止めどない方もいます。誰も三世紀当時の現場にいなかったので反論しないとは言え、言いたい放題は見苦しいのです。
 まずは、對海國の乏しい地産を運ぶとして必要な食料は、どこから得られたかと心配しないのでしょうか。

 いや、途方もないホラ話として、未だ存在しない「天津」まで乗り入れる妄想まで登場しているから、まだ、ましというものなのでしょうか。ちなみに、「天津」は、遙か後代元朝天子の住まう大都へ繋がる海港として創設されたものであり、三世紀当時、天子は洛陽に住まっていたので、「天津」は虚名の極みなのです。ものを知らない人は、何を言っても言い捨て/言い放題で、お気楽でいいなと思うのです。
 話を戻すと、時代/地域のあり方を冷静に再現し、近隣仲介交易の妙味を感じ取らないと、適確な解は得られないのです。そして、對海國が、飢餓で滅びるところか、南北の近隣と交易して、後世人の想像を絶した「潤沢な利益」を得ていたと見ないと、話の切りがつかないのです。對海國の北の取引先は、韓国の世界であり、異国との国境取引は、利幅が格段に大きいのです。何しろ、唯一の交易経路なので、値付けが通りやすいのです。

*「倭人伝」の要旨~再確認
 「倭人伝」の要旨は、韓国の領域を出た後、海上の州島を飛び石のように伝って、倭の本地に到るという未曾有の渡海行程の運びであり、現に存在するということを示している訳なのです。「倭人伝」は、中国人が、中国人のために書いた夷蕃伝なので、程良い難題になっている必要があるのであり、「對海伝」を目指しているのではないのです。

*「富国」の最善策
 さて、話を、對海國の考証に戻すと、港の利用料として誠に有意義なのは、穀物の持ち込みです。
 何しろ、対海国に立ち寄って水分食糧の補給ができる前提で、通常の渡船は、身軽にしていたわけですから、對海國の海港に備蓄が無いと、折角の交易が頓挫してしまうのです。つまり、普段、空荷の渡船に「食糧」を積んで対海国に納入していたとみるのが、賢明な「読み」でしょう。それが、筋の通った「大人」の読み方と思います。「倭人伝」の元史料は、書こうとすれば書けたでしょうが、「倭人伝」の分を過ぎているので、割愛したと見るのです。

*時代相応の独占的特権
 当然の考証として、三世紀当時の漕ぎ船では、對海国での漕ぎ手の休養や食料、水の補充を飛ばして、直接往き来することは不可能であり、代替策が無い以上、寄港地としての価値は、大変、大変高かったとみられます。食糧不足は、帯方郡に対して、納税しないことの口実であったと見えます。
 何しろ、對海國と狗邪韓國の間の直線距離は短いので、戸数相当の「税」を納めよと言われないようにに手を打っていたのです。もちろん、そのような自明事項の説明は、「倭人伝」の分を過ぎているので割愛したのです。

                                未完

04. 始度一海 - 読み過ごされた初めての海越え 追記補追 3/5

倭人伝再訪 4 2014-04-24  追記:2020/03/25 2022/10/17 2023/01/28

*對海國の恵み
 自明事項ついでに続けると、「人は食べなければ生存できない」ので、穀類不足は、海や山の幸で補い、さらには、特産物で補い、代わりに穀類を手に入れて飢餓を免れたのが、南北交易の実態であったと思われます。
 對海國が、長く健全に維持されたと言うことから、大半は、對海國の市で、あるいは、海港で、着々と行われたはずです。別に、船に乗って出かけなくても客はやってくるのです。
 本当に、飢餓状態なら、島民は、半島か一大國に逃げ出すはずですが、そのようなことの明記も示唆もない以上、島内で必要な食料は得られていたのでしょう。
 余談ですが、地産特産として有力な海産物の干物づくりには、一旦茹でてから天日干しする必要がありますが、その燃料は、最寄りの山林から得ていたのでしょうし、必要な食塩も、海水から採れたはずです。ただし、対馬で貝塚が出土したかどうか定かではないので干物交易は、仮説に過ぎないのですが。

*道里/方位談義
 ちなみに、さすがの魏使も、海上航路を精度高く測量することはできないし、また、航海の距離を報告しても、道里としての実際的な意味が乏しいので、方向と距離は、大雑把なものにとどまっているのです。目前の海島に到る渡船には、方位の精密さは不要なのです。

*時代相応の「国境」談義
 更に言うと、とかく誤

解されている「国境」は、ちゃんと時代感覚を補正しないと、検討ちがいのものになります。倭人伝では、對海國は「国」であり、「對海国の国境」は、北は、狗邪韓国の港の對海國「商館」、南は、一大国の港の對海國「商館」となります。また、「倭人」の北の国境は、狗邪韓国の港の對海國「商館」、この場合は「倭館」となります。
 これは、経済的な視点、つまり、貿易の実務からくるものであり、そのようにしないと、倭の所有する貨物を、韓に引き渡すまでの所有権が保護できないので、言わば、「治外法権」としただけであり、仮に、区域内に武力を保持したとしても、別に、倭が狗邪韓國全体を領有していたというものではありません。
 何しろ、交易相手は「お客様」であり、そのまた向こうの「お客様」とうまく商売しているから、多大な利益が得られるのであり、言わば、「金の卵を産むニワトリ」ですから、決して、「お客様」を侵略して、奪い取るものではないのです。あるいは、蜂蜜を求めて、ミツバチの巣を壊して根こそぎするのと同じで、そのあとは、枯渇なのです。

追記:2020/03/25
 現時点で、訂正を要するというほどではないのですが、思いが至らなかった点を補充します。
 まず、「一海」を渡るとしていて、以下でも、「また」と言う言い方をしていますが、これは、山国蜀の出身である史官陳寿が、帯方郡から報告された行程を、海を知らない中原、洛陽の読者に理解しやすいように、半島南岸の狗邪韓国から対馬への移動を、中原にもある大河の渡河、渡し舟になぞらえたもののように見えます。いや、史官として、原史料に手を加えることは厳に戒めていたものの、補足無しで誤解される部分に、加筆したと見えます。

                                未

04. 始度一海 - 読み過ごされた初めての海越え 追記補追 4/5

倭人伝再訪 4 2014-04-24  追記:2020/03/25 2022/10/17 2023/01/28

*大海談義ふたたび
 中原人にとって、辺境の「大海」は、西域の蒲昌海(ロプノール)や更に西の裏海(カスピ海)のような「塩水湖」なので、中原や江水沿岸にある「湖沼」混同されないように、言い方を選んでいるのです。
 また、今日の言い方で綴ると、「対馬海峡」は、東シナ海と日本海の間の「海峡」、つまり、山中の峡谷のような急流となりますが、当時、東シナ海も日本海も認識されていなかったので、「海峡」との認識は通用していなくて、単に、一つの「大海」を、土地の渡し舟で越えるとしているのです。

*「海」という名の「四囲辺境」の「壁」
 別の言い方をすると、古典書で、「海」は、中国世界の四方の辺境に存在する「壁」であり、本来、塩水の水たまりという意味では無かったのです。そのため、西域で「塩水湖」に遭遇したとき、それを「大海」と命名したものであり、四海の内、具体的に直面する東の「海」についても、漠然と、塩水のかたまりとしての意識しか無かったのです。
 その結果、帯方郡の東南方にある蛮夷の国は、東夷を具現化した「大海」と認識され、次に、「大海中山島」、つまり、「大海」中に「國邑」があるとみたようです。あくまで、『「大海」が「倭」との「地理観」』が長く蔓延って、「倭人伝」は、普通にすらすら読むことが困難なのです。
 何しろ、陳寿の手元には、さまざまな時代の「世界観」で書かれた公文書史料が参列していて、史官は、史料を是正すること無く編纂を進めるので、遙か後世の夷人は、謙虚、かつ丁寧に読み解く必要があるのです。

*「瀚海」談義
 予告すると、次の湖水は、特に「翰海」との名があるとされていて、「又」別の渡し舟で越えるとしているのです。そして、次は、無名の「一海」なる塩湖となっていて、「又」別の渡し舟で越えるとしているのです。
 「瀚海」は、広々とした流路の中央部であり、むしろ「ゆったりと流れる大河」の風情であり、古田氏の戯れ言の如く「荒浪で壱岐島を削る」ものではなかったのです。むしろ、絹の敷物のように、細かいさざ波を湛えている比類の無い眺めだったために、「瀚海」と命名されたように見受けます。これは、滅多に無い孤説ですので、聞き流していただいて結構です。

*「一海」を渡る「渡し舟」
 「渡し舟」は、中原人世界観では、身軽な小舟であって、決まった「津」と「津」を往き来して、公道(highway)である街道を繋ぐ、補助的な輸送手段です。中原の街道制度で、渡船は道里や日数に含まないのです。
 「倭人伝」の「渡し舟」は、流れの速い海を一日がかりの長丁場で乗り切るので、「倭人伝」は「渡海」とし「水行」として道里や日数に含んでいます。

*「倭人伝」用語の実相
 陳寿は、それまでの「慣用的な用語、概念を踏まえて、辺境の行程を説いている」のですから、後世の読者は、「現代人の持つ豊富な知識と普通の素直な理解」を脇に置いて、歴史的な、つまり、当時の中国、中原に於ける歴史的/慣用的な用語、概念によって理解することが求められているのです。
 「倭人伝」は、三つの塩水湖「一海」を、それぞれの渡し舟で渡るのです。行程全体の中で、難所に違いないのですが、普段から渡し舟が往き来しているとして、史記始皇帝説話などで見られる物々しい印象を避けたと見えます。

                                未完

04. 始度一海 - 読み過ごされた初めての海越え 追記補追 5/5

倭人伝再訪 4 2014-04-24  追記:2020/03/25 2022/10/17 2023/01/28

*島巡りの幻想払拭
 と言うことで、この間を、魏使の仕立てた御用船が、島巡りして継漕して末羅国まで渡るという、古田武彦氏を継承する物々しい想定は、陳寿が丁寧に噛み砕いた原記事の、時代相応の順当な解釈を外れていると見るものです。

 凡そ、専用の頑強船体で屈強漕ぎ手が難所を漕ぎ渡った後、専用船を「便船」として連漕するのは、不合理です。「便船」なら普通の漕ぎ手に交代すべきで、屈強漕ぎ手は休養し、頑強船体は折り返し行程に備えたでしょう。

 古代と言えども、合理的な操船手順のはずです。でなければ「渡船」事業は、業として成立せず速やかに破綻するのです。

*辻褄合わせのいらない概算道里
 そもそも、公式道里は、郡治から國邑までの「道のり」であり、對海国に至る道里には、途中の細かい出入りの端数は全て含まれています。そもそも、都合万二千里の総道里であり、全てせいぜい千里単位の概数計算ですから、「島廻遊」の端数里数は、はなから読み込み済みなのです。

 古田氏は、概算の概念を失念され、一里単位と見える「精密」な道里の数合わせに囚われ、端数積み上げで帳尻合わせする挙に陥ったと見えます。
 概数計算の概念では、千里単位の一桁漢数字(但し桁上がりあり)で勘定が合うことが求められ、桁違いの端数は勘定に関係ないのです。
 世上、倭人伝道里を算用数字で書く悪習が出回っていますが、そのような時代錯誤の無意味な数字を目にしたために、千里代も百里代も同格との錯覚が蔓延していたら残念です。「倭人伝」道里記事は、漢数字による概算計算の世界で、倭地内の道里以外は千里単位です。

*異次元の「方里」
 散見される「方三百里」、「方四百里」なる「方里」表現は、行程「道里」でなく面積表示と見え、ここに展開した道里と、全く、無関係、異次元です。(「異次元」は、当世、馬鹿馬鹿しい意味で転用/誤用されていますが、本項は、数学的なものであり、道里は一次元、方里は二次元で、大小比較も加減算もできないと示しているだけです。)

*脱「短里論」の契機
 当ブログでは、三世紀当時、時代独特の「里制」は、一切存在しなかったと断定しています。「倭人伝」に限定して「狗邪韓国まで七千里」と定義した「里」は、遡った高句麗伝や韓伝には適用されず、「方里」記事の「里」は、普遍の普通里、ほぼ四百五十㍍となります。ご確認頂きたいものです。
 この点は、世上「定説」めいて、誤解に基づく議論が当然のようですが、誤解に立脚した議論は、いかに支持されても誤解にほかならないのです。言い古された言葉ですが、学術的な論義は、声が大きいのが「正義」ではないし、まして、拍手の数が多ければ「正解」でもないのです。

*「倭人伝要件」の確認
 総括すると、正史蛮夷伝「倭人伝」の要件は、蛮夷管理拠点である郡から新参蛮夷倭王居処に至る主要行程の公式道里と所要日数を確定することです。
 遠隔の倭地内の地理情報や主要行程外の余傍の行程は、本来、不要なのです。当時の史官、さらに、政府要人は、悉く、基礎数学を修めていて「数字」に強く、概算計算の概念を適確に理解し誤解はしなかったものと解されます。
 「倭人伝」が裁可されたのは、自明概念を適切に述べたためと思われます。

*「早合点」の一つ
 「島巡り」なる早合点は、氏の提言の契機として著名ですが、氏の合理的論考を揺るがして提言全体を危うくし、誠に残念です。

                               以上

2023年1月27日 (金)

新・私の本棚 笛木 亮三 「卑弥呼の遣使は景初二年か三年か」新版 1/3 補追

 「その研究史と考察」 季刊 邪馬台国142号 投稿原稿 令和四年八月一日
 私の見立て ★★★★☆ 丁寧な労作 ★☆☆☆☆ ただしゴミ資料追従の失策 2023/01/26 2023/08/30

*⑴「魏志倭人伝」の記述
 当記事に対する批判は、大小取り混ぜ、多数の指摘が絞り込めなかった。
 再挑戦である。何より、これまで、誰も、笛木氏にダメ出ししていないと見えるので、此の際、嫌われ役を買って出たのである。氏には、当然先輩同輩後輩の諸兄姉に義理もあってゆるく書いたと見え、半ば諦めつつ「教育的指導」に時間と労力を費やした。

*⑶ 景初三年説の「定説」化
 率直なところ、この項は、既に俗耳を染めているものであり、氏が、ただただ再録するのは、字数の無駄である。「定説」の公示場所の参照で十分である。小林秀雄氏著作の引用も、むしろ、先哲の限界/誤謬を公示していて、早い話が、本筋の議論に関係なくて無意味である。

*⑷「定説」への異議
 要は、古代史学界において、「定説」は史実誤認の山積である。
 国内史学では、半島の北の遼東郡と半島中部の帯方郡の地理が理解できていない上に、帯方郡から洛陽に至る」実務経路が、渡船で山東半島に渡って、以下、街道を行く点が全く念頭に無い。
 遼東郡太守公孫氏が健在な時期は、漢武帝以来の楽浪郡も、逐一遼東郡に報告する二級郡であったから、倭に至る道里は、公式も実務も遼東郡を経由していたが、景初中に、魏皇帝特命部隊が、帯方郡を洛陽直轄にしてからは、遼東郡は実務に関係無くなっていたのである。もちろん、公式道里は、一度登録された限り、不朽のもので有るから、魏志「倭人伝」は公式道里の行程を明示しているが、それは、実務と合致していないのである。それにしても、帯方郡にしたら、戦闘は地平の彼方である。むしろ、魏明帝は、楽浪/帯方両郡を、公孫氏の配下から「回収」して、自身の画期的治世の嚆矢とする「倭人」制覇構想の基点としたかったように見える。

 と言うことで、「定説」の根拠は、とうに消滅していたのである。
 この点は、随分以前から、例えば、岡田英弘氏の指摘にあるが「定説」信奉者の耳には、何か詰まっているようである。

 正史史料は「景初二年」であるから、これを誤謬と否定するには正史に匹敵する確たる資料が必要である。遙か後世の無教養の東夷が、遼東形勢を何一つ知らないままにくだくだ評して、誤謬と言うのは、無謀、無法である。

*⑸ 二年説への反論
 大庭、白崎両氏の異論を引用するが、素人目には、筋の通らない/論理の見えない難癖と見える。
 両氏にしたら、不本意な「被引用」になるのではないかと見られる。

*⑹ 先行史書について
 氏は、「先行史書」と誤解必至の呼び方であるが、要は「後代史書」であり、正史と同等の信を置くことができない。つまり無効な意見なのである。ここで難があるのは、氏の素人臭い写本観である。何しろ、天下の「正史」陳寿「三国志」を、「原本は、存在しない」とか「誰も原本を見たことがない」とか、粗暴で稚拙な断定で誹謗する人たちの口ぶりと似ているように見えるのである。暴言は、世間の信用を無くすだけである。

 国内史書の写本は、専ら、寺社関係者の孤高/個人的なの努力/労苦による継承と見られて、現存写本間の異同が目に付いているのだが、先進地である中国では、そのような不定形の写本継承はあり得ない。勝手な改訂、改変も無いし、小賢しい改善も、粗忽の取りこぼしも(滅多に)ない。
端的に言うと、信頼性が格段に違うのである。そうした評価は、史料批判の核心/大前提と思うのだが、中国史料の最高峰である「三国志」と同列に論じられるのは、何とも、無法のもののように見える。

 正史写本は、各時代の国宝継承の「時代原本」から一流学者が文書校訂を行った写本原本から一流写本工が、新たな「善本」(レプリカ)を起こし、前後、一流編集者が責任校正を行うから、誤写の可能性は、絶無に近い。こと、三国志「魏志」に限定すれば明快であり、北宋代、木版印刷の際には、高度なテキストが維持/復元されたと見える。後世東夷の蛮夷には、そのような国家事業について想像も付かないらしく、とんでもない風評が飛び交うのである。よい子は、与太話を、やみくもに信じてはいけない。

*辺境「野良」写本考
 辺境写本の誤字指摘だが、洛陽原本からどんな写本を経たか不明である。書庫を出た瞬間から写本は低俗化し持参版の正確さは期されていない、無校正写本なので誤字が雪だるまになる。その写本の最下流で、誤字の多い「野良」写本が出回っても、遡って「帝室善本に影響を及ぼすことはない」。

 また、宋代木版印刷といっても、比較的技術の進んだ南宋刊本ですら、百部程度の僅少部数と思われ、各地有力者/愛書家は、手の届く刊本から起こした高精度の写本を誇示したのであり、刊本が蔵書家に流通するのは、後年、例えば、明代以降である。

 氏が以上の説明を理解できないようなら、斯界の最高峰である尾崎康氏に確認したら良いだろう。聞く相手を間違えると、誤読のDNAを注入されてしまう。「三国志」は、歴代正史の中で、格段に、異様なほどに史料の異同が「少ない」のである。

                               未完

新・私の本棚 笛木 亮三 「卑弥呼の遣使は景初二年か三年か」新版 2/3 補追

 「その研究史と考察」 季刊 邪馬台国142号 投稿原稿 令和四年八月一日
私の見立て ★★★★☆ 丁寧な労作 ★☆☆☆☆ ただしゴミ資料追従の失策 2023/01/26 2023/08/30

*⑺ 二郡平定について~余談付き
 ここで、氏は、各論者の情勢批評を長長と連ねた後、突如として、筑摩本の東夷伝翻訳文に帰り、『公孫氏を誅殺すると「さらに」ひそかに兵を船で運んで』の「さらに」を「そのあとに」と決め込むが、翻訳文の「曲解」である
 権威のある日本語辞書を参照して頂ければ、「さらに」には、「そのあとに」の意味と「それと別に」の二つの意味があると書かれているはずである。
 原文の「又」が、両様の意味を持っているから、筑摩本の翻訳者は、両様に解することができるように、大いに努力したものと見えるが、いかんせん、無学、無教養の読者が、辞書を引かずに、先入観の思い込みで、小賢しく解釈を限定するとは見なかったようで勿体ないことである。
 要するに、当記事における「又」の真意は、文脈によって解するべきであり、真摯な研究者は、安直な「思い込み」を排するべきなのである。

 いや、これは氏の責任ではないが、現代東夷の語彙で古代中国史書を「普通に」解釈する際の陥穽の一つであり、多くの論者は、陥穽/泥沼にどっぷり浸かっていても気づかないのである。善良な読者には、避けがたい陥穽であり、笛木氏のように実直な論者は、世上に蔓延している誤謬を拡散しないように多大な労力を強いられるのである。もったいないことである。

*⑻ 景初中は何年
 率直なところ、氏は、本筋に関係ないところで時間を費やしているが、それを善良な読者に押しつけないで欲しいのである。魏明帝景初」は二年年末で終わり、景初三年は皇帝の冠のない一年であるから、深入りしてもしょうがない陳寿が「景初中」としているのは、それで十分だからである。「魏志」は、本職の史官である、陳寿が責任を持って、全力を投じて編纂したから、後世の無教養な東夷は、つまらないヤジを入れないことである。

*⑼ 遼東征伐(年表)
 正直言って、このように空白の多い年表は、読む気になれない。

*⑽ 遼東征伐の陽動作戦と隠密作戦
 随分長々しいが、意義がよくわからない。言うべきことは既に述べた。

*⑾ 公孫氏の死は何月か
 正直、これだけ分量を費やす意義が理解できないから、口を挟まない。

*⑿ 景初三年?の呉による遼東進出
 本項では、無理な議論が続いている。呉は、魏の暦を参考にしたのだが、明帝没後の変則運用をどこまで、理解して追従したか不明である。そもそも、東呉が、どこまで、魏明帝の景初暦の追従したかについても、疑問を禁じ得ない。氏は、若干混乱しているようだが、無理のないところである。他の論者も、解釈が泳いでいて、泳いだ解釋を振り回すから、困ったものなのである。
 私見では、景初三年、公孫氏の滅亡後、呉船が到来して、漁村の男女を拐帯したと見える。それとも、魏は、女性を兵としていたのだろうか。
 
*⒀ 帯方太守の更迭
 本項も、本稿における意義がよくわからないから、口を挟まない。
 末尾で、「過分な待遇」と勝手に評しているが、未曽有の大帝たらんとした明帝が、蛮族の跳梁で逼塞した西域でなく、新境地、遠隔萬里の東夷「倭人」の到来を盛大に祝ったとしても何も不思議はない。後世の無教養な東夷が、天子の所業を軽々に揶揄すべきではない。

*「過分」の迷妄
 「過分」と書くのは、評者の品性が皇帝に比べて卑しいからである。(念のため言うと、天子に比べて品性を言うのは、要するに絶賛なのである)
 氏は、三世紀当時の魏朝皇帝の価値観を軽蔑しているようだが、それは、公孫氏の遼東郡に於ける東夷管理体制を、後先構わずぶっ潰した「司馬懿の感性」に通じる/同様に「粗野な」ものであり、明帝没後、少帝曹芳が同様な野心を持っていたとは、到底思えない。(司馬懿に比して粗野とは、絶賛である)現に、魏晋朝の遼東政策は早々に破綻して、公孫氏の軛を脱して台頭した東アジア最古参、「古狸」高句麗に乗っ取られるのである。

 ということで、氏の論理は、現代の高みの見物から筋が通っても、明帝没後参上では、まるで平仄が合わないのである

                                未完

新・私の本棚 笛木 亮三 「卑弥呼の遣使は景初二年か三年か」新版 3/3

 「その研究史と考察」 季刊 邪馬台国142号 投稿原稿 令和四年八月一日
私の見立て ★★★★☆ 丁寧な労作 ★☆☆☆☆ ただしゴミ資料追従の失策 2023/01/26 2023/08/30

*⒁ 遼東征伐(年表)
 ご苦労さまですが、年表記事羅列に格別の新事実は見えないようである。

*⒂ 景初二年か、三年か 結論
 氏は、盛大に「迷い箸」して、読者を引きずり回した挙げ句、後世史書を採り入れる問題事項にのめり込んでいる。
 所詮、魏志が言う「又」、日本語で言う「さらに」の解釈が、後世になって、一方に偏ったものであり、後世東夷の無教養で軽薄な論者が悪乗りしていても、やはり、本件は、正史「魏志」に戻って、時代相当の教養でもって丁寧に解釈すべきと提言するものである。
 氏の丁寧な論考に苦言を呈するのは、氏の歴史観/世界観が、俗説のアカにまみれているように見えるからである。

 何しろ、氏が最後に頼りにした論者は、自認しているように、漢文が読めず、漢字辞書を引けず、だけでなく、日本語辞典も引けない、日本語が理解できないのだから、記事の文意を解する際に頼りにするのが間違いなのである。史料批判は、紙の上の文字を論(あげつら)うものではないのである。

 また、基本の基本を蒸し返すのは、恐縮であるが、「倭人伝」解釈で、後世史料は、評価するだけ時間の無駄だから、すかさず却下すべきである。

*送達日程の確認
 正始魏使のお土産発送が遅くなったことを手がかりにしているが、これほど、異例に盛大な品物が、女王の手元まで問題なく届くということは、なぜ確認できたと思うのだろうか、不思議である。送付行程に沿って、大勢の人員と大量の荷物の送達を予告して、それぞれの現地から、対応可能との保証を得てから発送したはずであり、そのような確認を得るまでに一年かかっても不思議はないのである。

 いや、仮に、品物が倉庫に揃っていたとしても、長距離に亘って持ち運びできるように、全数の荷造りが必要である。荷造りして初めて、どれだけの荷物かわかり、何人で運ぶべきかわかるのである。お茶のペットボトルでも、ばら積みだと始末が悪く、段ボール箱に整然と入っているから、トラックの荷台に段積みして運べるのである。
 今回は、途中潮風の吹く渡し舟に乗るから、貴重な宝物に飛沫もかかるだろうし、倭地の未整備の街道の急な坂道でも、手分けして人手だけで運べる工夫をしたはずである。陸上輸送なら、人海戦術が有効であるから、心配は少ないはずである。

 渡船は、当然便数/艘数が多いし、短い区間を担当する漕ぎ手は、日々交代すれば大して無理にならないから、素人の心配するほど難業ではなかったのかも知れないが、そんなことは、洛陽のお役人に、分かるはずが無いのである。

*⒃ 参考文献一覧
 率直な意見は、既に述べた。本件に関して決定的な議論に絞るべきであり、これら雑多な文献を「全部」読まないと意見が出せないというのは、困ったものである。古来、参考文献一覧は論者の責任逃れになっているのである。

*史官の使命の再再確認
 言い漏らしたかも知れないので念押しすると、本職の史官が正史を編纂するということは、帝国公文書に書かれた「史実」を正確に、つまり、忠実に語り継ぐのであり、それは、後世の正史編纂、類書編纂とは、本質的に異なるのである。
 氏は、先導者の不分明な意見を丸呑みして、史官が史料を丸写しすると卑しんでいるようであるが、とんだ東夷の勘違いである。精選吟味して、正史を構築する際に、原史料に無法に手を入れないのが、史官が殉じる職業倫理なのである。

                                以上

2023年1月25日 (水)

新・私の本棚 遠山 美都男「古代中国の女性観から読み解く」卑弥呼 再掲 1/2

古代中国の女性観から読み解く~個人名ではなかった「卑弥呼」が女王とされた理由  歴史読本 2014年7月号
私の見立て ☆☆☆☆☆ 零点 よいこは真似しないように 2020/10/04 2023/01/25

〇はじめに
 当記事は、途方もない誤読/誤解/妄想の集積ですが、その原因は、「古代中国の女性観」と言いつつ、国内史料熱愛から生じた怨念めいたものを語っていて、単に、国名や所在地比定の論議では片付かない大問題を示しています。

 以下、失礼を承知の上で、氏の誤読の解剖を図っています。率直に、子供に言い聞かせるように指摘しないと何も伝わらないだろうという事で、誠意をこめて説き聞かせているので、野次馬の介入は御免被るのです。

〇逐行批判
 卑弥呼とは『魏志』倭人伝という外国史料にしかあらわれない存在である。したがって、その実像の解明には『魏志』倭人伝に対する徹底的な史料批判がもとめられる。[中略]追認することが許されない[中略]

コメント:
 正史笵曄「後漢書」を知らないで、堂々と論じるのは、鉄面皮です。誰も止める人がいないのは、つけるクスリがないからなのでしょう
か。ついでながら、『魏志』倭人伝などという史料は、存在しません。史学者の常識です。
 正史を「外国(野蛮人)史料」とは、信じがたい視点錯誤です。正史は、中国視点の中国史家が、中国語で書いたから、文明圏外の無教養の蛮人「外国人」が批判できるものではありません。
 ご存じない「後漢書」談義は、言っても無駄なので扨置き、同時代唯一の史料を何を根拠にして、「史料批判」するのか、鉄面皮、不可解です。「実像」論だが視力検査はしたのでしょうか。それとも、肉眼で見えないから、何か秘薬でも使って幻像を見るのでしょうか。カウンセリングを受けた方が、良いのでは無いでしょうか。せめて、誰かに論文審査して貰った方が良いのでは無いでしょうか。
 「倭人伝」は二千字で、すぐに徹底するでしょう。それにしても、中原史官は無学な夷蛮の「追認」は要しませんから、これは、身の程知らずの無謀な傲慢です。
 と言う事で、読解力のない半人前以下の野蛮人が何を言うかという誹りを免れません。氏は、経書を中国語で朗唱できるのでしょうか。

 [中略]卑弥呼が倭国の女王であったという[中略]事柄に関しても、[中略]徹底した検討の俎上にのせないわけにはいかないのです。

コメント:氏の倭人伝解釈は傲慢で早合点の誤釈に満ち、とても俎上に載りません。必要な基礎知識、学識がない、落第生が、何をしようというのでしょうか。とんだ恥さらしです。

卑弥呼は個人名ではない
 [中略]つぎの有名な一節がある。「其の国、本亦男子を以て王と為す。[中略]倭国乱れて、[中略]。乃ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰ふ。鬼道に事へ、能く衆を惑はす。[中略]男弟有りて国を佐け治む。」

コメント:「いわゆる卑弥呼」と称する「いわゆる遠山美都男」なるド素人が何を言うかです。「有名」な一節も、「魏志倭人伝」でなく、東夷が説いている現地語訳に過ぎません。正史原点が理解できないものが、何を言うかという事です。せいぜい、手前味噌の勝手解釈に過ぎません。「有名」の意味がわかっていないという事でしょうか。「悪名」より「無名」が勝るのではないでしょうか。

 [中略]倭国大乱とよばれる内乱を鎮めるために、[中略]擁立された[中略]しかし、文脈に即して解するならば、[中略]即位にともなって新たに卑弥呼という名が[中略]あたえられた役割に関わる呼称であった[中略]
コメント:倭人伝に無い「倭国大乱」風聞が意図不明です。思い付きは勝手ですが、原文読解できない限り「文脈」は、意義のない手前味噌でしょう。
 「俎上」、「徹底的な史料批判」ともっともらしいのですが、巷の素人論者、野次馬同様、自己流解釈で史料を読み替えます。世には倭人伝改竄差替説もあります。氏の見識が非科学的な思い付きなら表明すべきです。因みに、当記事筆者は、「薄氷」を踏み渡る度胸はありません。
 「卑弥呼」と天子に名乗った以上、それは、実名なのです。「新たに」名付けるというのは、途方も無い妄想です。人は、その親によって命名された実名で生き続けるのです。それとも、氏の名前は、自己命名なのでしょうか。
 素人が何を言うかという事です。

 このように卑弥呼が彼女のみに占有されるという意味でのたんなる個人名ではなかったことは、卑弥呼の語義からも推定されるところである。

コメント:「卑弥呼」は商標ではないから、占有/専有とは面妖です。君主の実名が、「たんなる個人名」とは、ものを知らないのにも程があります。「卑弥呼の語義」論は別として、氏に、古代中国語を説く学識/資格があるのでしょうか。信じがたいのです。素人が何を言うかという事です。
                                未完

新・私の本棚 遠山 美都男「古代中国の女性観から読み解く」卑弥呼 再掲 2/2

古代中国の女性観から読み解く~個人名ではなかった「卑弥呼」が女王とされた理由  歴史読本 2014年7月号
私の見立て ☆☆☆☆☆ 零点 よいこは真似しないように 2020/10/04 2023/01/25

卑弥呼は個人名ではない 承前
 卑弥呼は「ひみこ」、あるいは「ひめこ」「ひめみこ」の音を写した[中略]

コメント:出所不明、根拠不明の「ひみこ」談義の言葉遊びは、一種感染症のようで要治療です。ひょっとして、これが「卑弥呼」の語義論と言うつもりなのでしょうか。『三世紀倭人伝の「倭の」ことばと後世八世紀の「大和」言葉の関連を示す資料はない』と古代言語の権威が、揃って明言しています。素人が何を言うかという事です。

 卑弥呼は「鬼道」[中略]に長じていた[中略]倭国大乱を鎮めるために「鬼道」に長じた女子[中略]に卑弥呼という名があたえられた[中略]

コメント:中略部分の「霊能力」は意味不明で、倭人伝に無い「妄想」と思われます。何か、漫画か古代史ファンタジーでも読んでしまったのでしょうか。
 倭人伝に一切書かれていない「倭国大乱」を卑弥呼が鎮めるとは、これも、出典不明で癒やしがたい妄想です。
 このように、卑弥呼命名談は妄想羅列で、史料批判のけじめは見えません。自身を史料批判すべきでしょう。素人が何を言うかという事です。

卑弥呼になった二人の女性
 [中略]卑弥呼とは[中略]地位・身分の呼称と考えるべきである。

コメント:思い付きは思い付きとして聞き置きます。「卑弥呼の実名が知らされていない」とは、氏の妄想に過ぎません。中華天子に実名を名乗らないことはあり得ません。素人が何を言うかという事です。

 [中略]結局、卑弥呼に就任した[中略]彼女らはいわゆる倭国王の地位にあったといえるのであろうか。[中略]中国史料による限り、この前後、二世紀から三世紀前半にかけては一貫して男王が擁立されたと伝えられており、なぜここで二代だけ女王があらわれるのかは不審[中略]

コメント:氏は、突然正気に返ったのか、中国史料と言うが、史料名を明らかにしません。男王の国も、正体不明です。不審と言わざるを得ません。根拠不明の妄想連発で逐行批判に疲れたので、以下、概略にとどめます。
 中国史料は、西暦年代を知らないので、「二世紀から三世紀前半」の150年間のことと言われても、何のことかわからないのです。せいぜい、男王の一代前も男王であったのだろうなと言う程度です。また、晋と音信不通になってからのことは、倭人伝に書かれてはいないので、何を言っても、勝手な思い込みに過ぎないのです。どうも、氏は、「卑弥呼」は、倭女王が襲名する職名と見たようですが、そのような異様なことは示唆すらされていません。勝手な素人の思いつきに過ぎないのです。

 卑弥呼とはこのように男王による権力の継承を祭儀によってサポートした女性の地位を示す[中略]

コメント:時代錯誤で意味不明の「サポート」で読者は混乱します。「倭人伝」は男弟が女王を佐したと書いていますが、氏が説いている倒立実像なみの「女王が男王を佐す」とは理解困難です。

 以上、『魏志』倭人伝に対する史料批判をより徹底化するならば、[中略]卑弥呼機関説も十分成り立つものと確信している。

コメント:「より徹底化する」とは何語でしょうか。善良な読者が、ちゃんと理解できる、ちゃんとした「日本語」で、ちゃんとした文章で述べて欲しいものです。氏が何を言っても、一切反問できない、氏のお弟子さんに話しているのではないのです。
 「説」と言うには、論理的な根拠を、先行論文や原史料の忠実な、正しい意味での史料批判を経て、展開しなければならないのは学問の常識と思います。思い付きに合うように史料解釈を撓めるのは、史料批判ではないと信じるのでここに明記します。

〇まとめ
 以上、氏は、長年醸しだした世界観をもとに滔々と談じていますが、原史料を遠く離れた「他愛もない幻想」(氏の用語)を露呈していると見えます。藪医者は、まず、自分を見立てて、癒やすべきであり、これでは、誰も、氏に相談を持ちかけないと思いたいところです。
 言いたい放題で過ごしてきた「レジェンド」は、晩節を汚さないように、早々に後進に道を譲るべきでしょう。

 当記事掲載誌は、学術論文誌ではなく、古代史初心者も包含した古代史ファン向けムックと思われますが、古代史ファンは子供だましのホラ話で十分、と見くびられたことになります。けしからん話だと思うのです。とは言え、執筆をオファーしたからには、訂正指示の朱筆を入れたり、没にしたりはできないので、寄稿依頼した時点で勝負がついているようです。

                                以上

新・私の本棚 番外 サイト記事批判 塚田 敬章「古代史レポート」~史料としての「日本書紀」

 古代史レポート 翰苑の解読と分析     塚田敬章
私の見立て ★★★★☆ 必読  2016/04/01 調整/補充 2019/01/09 04/28 06/25 2023/01/25

*追記補充の弁 2019/06/25
 最近、当記事の閲覧件数が増えているので、丁寧に読んでもらえることを期待して、末尾に本音を追加した。面倒を厭わずに最後まで見る人なら、簡単に誤解しないと思うからである。

*失礼のお断り
 当ブログは、基本的に商業出版物ないしはそれに相当するサイト記事が対象
であり、個人の運営するサイトの記事は、収入源とされていない以上、書評に属するサイト記事批判は控えたいところであるが、今回も、ちょっと勇み足をさせていただきたい。

 また、記事タイトルは以上のものであるが、以下の論議は「翰苑」とは無関係である。当ブログ筆者の「翰苑」論考は、他の記事を見ていただきたい。

*合理的な論考
 さて、当該サイトの運営者である 塚田敬章氏は、具体的な物証に基づく、合理的な、つまり、過去の行きがかりや尊大な感情論でなく、物の道理に基づく思考を信条としている論客と感じ入った。おそらく、理工系の学問を修め、理工系の職務で実務経験を積まれた方と思う。誤解であれば、早合点をご容赦いただきたい。

 塚田氏の展開する魏志「倭人伝」に関する(難癖とも思える世上の批判に関する)議論の大筋は、当ブログ筆者と相通じる論理によって、相通じる意見を示されているものと思う。拍手喝采である。

 当ブログ読者諸賢は、未読であれば、是非とも、ご一読いただいて、当方の意見が妥当なものかどうか確認いただきたい。何しろ、当ブログのひっそりした風情に比べて、名声を馳せている先輩サイトなのである。

 ただし、当然ながら、塚田氏の意見全部に賛成しているわけではない。以下のご意見に関しては、率直な批判をご容赦いただきたい。
 魏志「倭人伝」に絞り込んでいる当方の守備範囲外とも思われる点で、いくつか、全く筋の通らない「定説」を採用・信奉しているのは、まことに勿体ないことであり、ここでは、賛否を保留したい。

*異議提示
 まずは、中国南朝に遣使した「讃」などの諸王を「書紀」に記載されている天皇に比定している点である。中国の南北朝時代の敗亡した南朝とは言え、秦漢代以来連綿とした「史官」の伝統に基づく「正史」の明確な記事は、歴史考証の基準であり、多分に後世の創造物である「書紀」を正すために利用するものである。
 神功皇后の事跡について、「書紀」の「神功紀」を史料として採用している点は、史料考証して、どうなのか、当ブログの圏外なので、定かではない。

*史料尊重
 氏の立場が、日本「書紀」を信頼すべきと言うものであれば、「書紀」の記事そのものを文字通りに解釈する立場から出発し、その立場にとことん「固執」するべきと思うのである。

*無関係宣言
 ご存じの通り、推古天皇は、「大唐」に使節を派遣し、その結果、「唐の客」裴世清が来訪したという記事が残されている。そこには、「今回が初遣使であり、これまで、辺境に蟄居していて、中国に天子がいることを知らなかった」ことが、堂々と述べられている。
 つまり、国家元首として、「(後)漢、魏、晋との交流も、南朝(偽)諸国との交流も、全て、自分たちのやったことではない、無関係だ」と明言しているのである。 
 つまり、最近の事歴である「倭の五王」の南朝への遣使は、自分たちの大和政権には関係無いと明言しているのである。 
 これが「書紀」の編纂方針である以上、そのように受け止めるべきではないだろうか。

 それを無視して、
歴史解釈に「唯一頼るべき史料」を、「断片的な中国側史料記事」に合うように切り刻んでは、ずらしたり傾けたりして貼り合わせるような謎解きごっこは、「書紀」を尊重する立場には合わないと思うのである。

 いや、あくまで、個人的な意見でしかないのは、ご了解いただきたい。

*武勲の伝承
 また、神功皇后の朝鮮半島での事歴については、真に受ければめざましい事跡であるが、半島側史書には、そのような制覇をされたとは書かれていないのではないだろうか。(国内史料に不案内なための勘違いであれば、申し訳ないのですが)
 「その点だけ日本書紀を史料として信ずる」というのであれば、当方としては、賛成できないとだけ申し上げるものである。

 もちろん、当方が「賛成できない」とか「感心しない」とここで言うのは、関連国内史料がほとんど読めていない個人の勝手な意見であるから、お耳触りであったら、聞き流していただきたいものである。

再追記:先入観・予断の戒め
 塚田氏は、故古田武彦氏の名高い著書を、うろ覚えで「邪馬台国はなかった」と誤解、誤引用して、「魏志に邪馬台国はなくても後漢書にある」のだがら、題名から既に間違っていると速断しているが、古田氏の著書は、正確には『「邪馬台国」はなかった』である。

 聞くところでは、出版社は、いつの時代もセンセーショナルなタイトルを好むものであり、「邪馬台国はなかった」なる明解なタイトルを押し立ててきたが、古田氏は、それでは「後漢書」を無視し不正確なタイトルとなることから、引用符を急遽追加した経緯があったようである。

 とかく、「独善」とか、「自己陶酔的」とか、「杜撰」とか、至高の形容詞を言い立てられている古田氏であるが、ここでは、言っていいことといけないことは弁えていて、何とも地味で堅実な、魏志に邪馬台国はなかった、と限定したタイトル付けである。
 もっとも、口頭では同じ発音なので、伝聞情報は同じになるとも言える。

 ぜひ「食わず嫌い」を抑えて、虚心に同書を読んでいただきたいものである。科学的な批判は、そこから始まるものだと思うのである。

以上

再追記:もったいない話 2019/06/25 2023/01/25
 以下は、大変面倒な話なので、読んで理解いただければ、まことに幸いと思うだけです。
文献解釈の第一歩ということ
 塚田氏の書かれた記事は、広く諸文献の引用を利用して、まことに、信頼できるように思えますが、実際は、諸所で、以下のような誤解丸出しの文が飛び出すのは、もったいないと思うものです。

 神功皇后は魏志倭人伝中の卑弥呼を思わせる女傑でした。にわかに夫を失い、子を孕むという大変な状況の中で、神託を受け、国の舵をとり、そして、成功したのです。

 しかし、すぐわかるように、これは「倭人伝」を離れた、誤解そのものです。
 卑弥呼は、生涯独身で、夫につかえたことなどないのです。だから、夫の遺子もいません。
 卑弥呼は、鬼神に事えたものの、政治にほとんど口を出さず、まして、他国を侵略するいくさを率いたことなどなかったのです。
 神功皇后は、後世まで、亡夫の以外を乗り越え、遺児の出産を、神がかりで数ヵ月に亘って差し止めて、「雄々しい姿」で国軍を率いて、半島東南部を掃討した「女傑」と尊崇された、顕著な存在なのです。
 大事なのは、そのあと、外征部隊を率いて本国に帰還し、留主部隊が奉じた偽りの天皇を討伐して、遺児に至高の皇位を与えたのです。
 これほど、決定的に、つまり、議論の余地なく明確に異なっている両人物のどこが似ているのか、なぜ神功皇后が、卑弥呼を「思わせる」のか、理解に苦しみます。
 まして、「書紀」の強引なこじつけにも拘わらず、実時代には、相当の隔たりがありそうです。「倭人伝」で描かれているのは、三世紀前半、と言うより、三世紀紀央ですが、「書紀」の年代は、大変不確かですが、それでも、「倭人伝」の時代から、随分後世なのは、察することができます。

*「神功紀」時代考証の試み
 さらに言うなら、それぞれの史料の背景と思われる時代相は、大きく異なります
 「倭人伝」に書かれているのは、北九州に存在する小振りの小国家群で、他地域のことは、ほとんど/実質的に書かれていないのですが、「書紀」は東方に存在する強力な国家の西方遠征軍の指揮官と配偶者を集中的に描いていて、東方には国家経営を托された留守部隊が示唆/想定されています。そのような時代の間には、数世紀に上る発展の歴史が想定されます。

 それぞれの半島形勢を想定すると、三世紀当時、「強力な軍兵を持ち諸国に指示を下していた」帯方郡に服属していた嶺東地域で、「書紀」に書かれたように、広範な軍事活動を展開するのは、帯方郡に対する重大な反逆であり、「親魏倭王」として魏に続き晋に服属した女王には、とてもあり得ない反逆です。時代としてあり得るのは、後世、馬韓を統一した百済の攻撃を受けて、晋代に入って急速に洛陽の支援を喪って退潮した帯方郡が、遂に消滅した後の時代の様相ですが、もちろん、随分後世のことです。
 そのような時代であれば、嶺東の辰韓が、興隆した新羅によって統一されていたので、ことは、「倭」と「新羅」の角逐となりますが、それに先立つ三世紀時点、新羅は辰韓斯羅国であって「倭」と対等ではなかったのです。当初、『新羅は随分弱小だったので海南の大国「倭」に追従した』と見ても、別に失礼には当たらないでしょう。
 と言うことで、神功紀記事を額面通りに受け取って、魏志と連動させるのは、深刻な時代錯誤と言うべきですが、このような錯乱の事態は、「書紀」編者が想定していたわけではなく、完稿後の「神功紀」に「倭人伝」記事をねじ込んだために生じた齟齬であり、現在「書紀」に見える混乱は、「書紀」編者の知るところでは無かったものと見えます。
 世上、魏志引用と見える追記記事は、「書紀」本来の記事と見られているようですが、それは、「書紀」編者が、一旦完成した神功紀に場当たりの軽率な改訂を加えたと弾劾していることになります。
 「書紀」は、完成披露の記事以降、日本の国史の表面からから姿を隠しているようであり、随分後世、今日まで伝承されている写本が世に知られるまで、密かに、私的に写本継承されていたと見えるので、何れかの時点で追記が施され、別の何れかの時点で本文に取り込まれたとも見えますが、何しろ、私的な写本継承の実態は、一切表明されて居ない、つまり、世人に知られていないので、全て臆測なのですが、当初から本文に収容されていて、忠実に継承されたというのも、別の臆測に過ぎないので、何方もどっちで、随分、議論の余地があります。
 いや、以上は、当ブログの圏外への口出しですが、ご容赦頂きたいものです。
 ただし、そのような考証は、「通説」めいたものですから、多少の誤解が含まれていても、氏の責任ではなく、当記事は、氏への批判ではないのです。

 それはさておき、一般論として、対象文章の文字を一つ一つ追いかけて、それだけで、文意を理解することが、文献史学の基本中の基本であり、この件のように、特に暗号化されているわけでもないのに、「書紀」及び「倭人伝」の文意を読み損なっているのは、何とも、もったいないことです。

*雑音情報による汚染
 このように、不確実な文献史料を、考証不十分なまま議論に取り込もうとすると、その文献史料のおかしたと見える「誤解」に取り込む時の「誤解」が重なり、引用する都度、本来の史料解釈に誤った要素を取り込むことになります。
 つまり、文献解釈は、外部の要素を取り込むことを最小限にとどめるのが最善なのです。

 そのような堅実な解釈を終えたところで、一度、文献解釈が定まったら、そこで「倭人伝」を確定し、他の資料の文献解釈に映るものでしょう。この行き方は、世間の誤解を誘うものですが、一度に複雑なことを「まぜこぜ」にして進めるのが間違いのもとなのです。
 いや、正しく言うと、どこで何が起こって、誤解が発生したのか、その原因を突き止め、排除するのは「困難」、つまり「大変難しい」のです。(わかりやすく言い直すと、人間業では「不可能」(virtually impossible)なのです)

 古来、古代文献に限らず、文書に含まれている情報は、大量の「雑音」に埋もれているのであり、慎重な上にも慎重な文献検討が必要なのです。そのためには、どこの誰が、いつ、どこで、何を見て、どこまで検討したのかわからない、どこまでが情報で、どこが雑音かわからない不確かな外部文書を持ち込むのは、少なくとも、時期尚早なのです。古代史分野、特に、倭人伝の文献検討では、この第一歩がなおざりになっているので、あえて、子供に言うような当たり前の理屈を言い立てているのです。

*「水行」談義~慧眼と惑動
 塚田氏は、道里行程記事の郡を出たところの僅かな冒頭「水行」(と見える)記事で、『魏志全体はどうであれ、「倭人伝」では「水行」は海の移動』と読み取る慧眼を示していて、続いて、狗邪韓国からの移動を「始めて海を渡る」と、これも、希な慧眼を示しているのです。

 一方、何に惑わされてか、たちまち視点を一転して原文を離れて、冒頭「水行」が、「引き続いて半島西岸の沖合遥かを南下する」現実離れした「歴韓国」と決め付けていて、ご明察とかけた声を取り消すような勿体ない「思い込み」です。これは、言わば、自傷行為であり、まことに、誠に勿体ない齟齬です。

*玉石混淆
 と言うことで、塚田氏の書かれた文章は、玉石混淆、但し、素人目には、石粒だらけなのが、もったいないのです。
 素人目で、「石粒」にダイヤモンド原石が混じっているのを見落としているかもわかりませんが、先にも書いたように、一度に多くのことに取り組まないのが、誤解を避ける最善の政策なのです。
 (「玉石混淆」は、もともとは、宝石、貴石に「玉」なる至宝が混じっている豪勢な事態の表現かも知れませんが、定説では、「玉」が、大量の石ころに混じっているという解釈なので、それに従います。)

*再総評
 当方としては、全体評価を落とすわけに行かないので、表現を和らげたから、読んでも、意図がわからないと不評なのでしょうが、安直に白黒付けられないのが「実戦」なのです。

この項完

2023年1月23日 (月)

新・私の本棚 西村 敏昭 季刊「邪馬台国」第141号「私の邪馬台国論」再掲2

 梓書院 2021年12月刊       2022/01/04 追記 2022/11/20 2023/01/23
 私の見立て ★★☆☆☆ 不用意な先行論依存、不確かな算術

〇はじめに
 当「随想」コーナーは、広く読者の意見発表の場と想定されていると思うので、多少とも丁寧に批判させていただくことにしました。
 つまり、「随想」としての展開が論理的でないとか、引用している意見の出典が書かれていないとか、言わないわけには行かないので、書き連ねましたが、本来、論文審査は、編集部の職責/重責と思います。安本美典氏は、季刊「邪馬台国」誌の編集長に就任された際は、論文査読するとの趣旨を述べられていて、時に「コメント」として、講評されていたのですが、何せ四十年以上の大昔ですから、目下は、無審査なのでしょうか。

▢「邪馬壹国」のこと
 季刊「邪馬台国」誌では、当然『「邪馬壹国」は誤字である』ことに触れるべきでしょう。無視するのは無礼です。 
 大きな難点は、「邪馬タイ国」と発音するという合理的な根拠の無い「思い込み」であり、この場では、思い込み」でなく「堅固な証拠」が必要です。半世紀に亘る論争に、今さら一石を投じるのは、投げやりにはできないのです。パクリと言わないにしても、安易な便乗は、つつしむものではないでしょうか。
 そうで無ければ、世にはびこる「つけるクスリのない病(やまい)」と混同されて、気の毒です。

 因みに、氏は、説明の言葉に窮して「今日のEU」を引き合いにしていますが、氏の卓見に、読者の大勢はついていけないものと愚考します。(別に、読者総選挙して確認頂かなくても結構です)
 素人目にも、2023年2月1日現在、イングランド中心の「BRITAIN」離脱(Brexit)は実行済みとは言え、実務対応は懸案山積であり、連合王国(United Kingdom)としては、北アイルランドの取り扱いが不明とか、EU諸国としても、移民受入の各国負担など、重大懸案山積ですから、とても、「今日のEU」などと平然と一口で語れるものではなく、氏が、どのような情報をもとにどのような思索を巡らしたか、読者が察することは、到底不可能ですから、三世紀の古代事情の連想先としては、まことに不似合いでしょう。
 「よくわからないもの」を、別の「よくわからないもの」に例えても、何も見えてきません。もっと、「レジェンド」化して、とうに博物館入りした相手を連想させてほしいものです。

*飛ばし読みする段落
 以下、「邪馬壹国」の「国の形」について臆測、推定し、議論していますが、倭人伝」に書かれた邪馬壹国の時代考証は、まずは「倭人伝」(だけ)によって行うべきです。史料批判が不完全と見える雑史料を、出典と過去の議論を明記しないで取り込んでは、泥沼のごった煮全てが氏の意見と見なされます。「盗作疑惑」です。

▢里程論~「水行」疑惑
 いよいよ、当ブログの守備範囲の議論ですが、氏の解釈には、同意しがたい難点があって、批判に耐えないものになっています。

*前提確認の追記 2023/01/23
 ここで、追記するのですが、そもそも、氏の提言の前提には、当ブログが力説している『「倭人伝」の道里行程記事は、帯方郡から倭への文書通信の行程道里/日数を規定するもの』という丁寧な視点の評価がないように見えるのです。つまり、「必達日程」と言われても、何のことやらという心境と思います。説明不足をお詫びします。
 手短に言うと、正史読解の初級/初心事項として、『蛮夷伝の初回記事では、冒頭で、当該蛮夷への公式行程/道里を規定するのが、必須、「イロハのイ」』という鉄則です。

*前稿再録
 氏の解釈では、『帯方郡を出てから末羅国まで、一貫して「水行」』ですが、里程の最後で全区間を総括した「都(すべて)水行十日、陸行三十日(一月)」から、この「水行」区間を十日行程と見るのは、どうにも計算の合わないも、途方もない「無残な勘違い」です。
 氏の想定する当時の交通手段で「水行」区間を十日で移動するのは、(絶対)不可能の極みです。今日なら、半島縦断高速道路、ないしは、鉄道中央線と韓日/日韓フェリーで届くかも知れませんが、あったかどうかすら不明の「水行」を未曾有の帝国制度として規定するのは無謀です。

 何しろ、必達日程に延着すれば、関係者の首があぶないので、余裕を見なければならないのですから、各地に海の「駅」を設けて官人を常駐させるとともに、並行して陸上に交通路を確保しなければなりません。いや、海岸沿い陸路があれば、まず間違いなく、帯方郡の文書使は、騎馬で、安全、安心で、迅速、確実な「官道」を走るでしょう。
 先賢諸兄姉の論義で、海岸沿い陸路を想定した例は見かけませんが、好んで、選択肢を刈り込んだ強引な立論を慣わしとしているのです。

 前例のない「水行」を制定/運用するに、壮大な制度設計が必要ですが、氏は、文献証拠なり、遺跡考証なり、学問的な裏付けを得ているのでしょうか。裏付けのない「随想」は、単なる夢想に過ぎません。場違いでしょう。

▢合わない計算
 狗邪韓国から末羅国まで、三度の渡海は、それぞれ一日がかりなのは明らかなので、休養日無しで三日、連日連漕しないとすれば、多分六日、ないしは、十日を想定するはずです。
 誤解を好む人が多いので念押しすると、当時、一日の行程は、夜明けに出発して、午後早々に着く設定なのです。各地の宿駅は、当然、隔壁に囲まれていて、厳重に門衛があり、日が沈めば、厳重に閉門、閉扉するのです。 門外野営など、無謀であり、特に、冬場は、凍死必死です。十分に余裕を見て、宿場に入るのです。渡海の場合は、さらに顕著で、便船に乗らなければ、対岸に渡れないのです。そして、早々についたとしても、次の渡海を急いでも、そのような便船がないのが不通ですから、渡海が、半日かからないとしても、それで一日なのです。

 計算上、日数はほとんど残っていませんが、そもそも半島西岸~南岸を600㌔㍍から800㌔㍍進むと思われる『氏が想定している遠大極まる「水行」』行程は、七日どころか、二十日かかっても不思議はない超絶難業です。潮待ち、風待ち、漕ぎ手交代待ちで、乗り心地どころか、船酔いで死にそう、いや、難破すれば確実にお陀仏、不安/不安定な船便で長途運ぶと、所要日数も危険も青天井です。
 諸兄姉は、そう思わないのでしょうか。聞くのは、陸上街道は、盗賊がでるとか言うおおとぎ話であり、なぜ、船が安全、安楽で良いのかという議論は聞きません。
 隣近所まで、ほんの小船で往来することは、大抵の場合、無事で生還できたとしても、数百㌖を一貫して官道として運用するのはあり得ないのです。
 一方、「幻の海岸沿い陸路」ならぬ半島中央の縦貫官道を採用して、ほぼ確実な日程に沿って移動し、最後に、ほんの向こう岸まで三度渡海するのであれば、全体としてほぼ確実な日程が想定できるのです。えらい大違いです。

 この程度の理屈は、小学生でも納得して、暗算で確認できるので、なぜ、ここに、無謀な臆測が載っているのか不審です。

▢古田流数合わせの盗用
 氏は、万二千里という全行程を、『三世紀当時存在しなかった多桁算用数字」で12,000里と五桁里数に勝手に読み替えて、全桁「数合わせ」しますが、そのために、対海国、一大国を正方形と見立てて半周航行する古田説(の誤謬)を、丸ごと(自身の新発想として)剽窃しています。
 安本美典氏の牙城として、絶大な権威ある「邪馬台国」誌が、このような論文偽装を支持するのは、杜撰な論文審査だと歎くものです。

〇まとめ
 後出しの「必達日程』論は言わなくても、凡そ、『帯方郡が、貴重な荷物と人員の長行程移送に、不確実で危険な移動方法を採用することは、あり得ない』という議論は、絶対的に通用するものと思います。
 まして、正始の魏使下向の場合、結構大量の荷物と大勢の人員を運ぶので、辺境で出来合の小船の船旅とは行かないのです。とにかく、いかに鄙(ひな)にしては繁盛していても、隣村へ野菜や魚貝類を売りに行くのと同じには行かないのです。人手も船も、全く、全く足りないので、現代世界観の塗りつけは、論外です。
 狗邪韓国近辺の鉄山で産出した「鉄」は、陸上街道で帯方郡まで直送されていたのですから、そのように、郡の基幹事業として常用している運送手段を利用しないのは、考えられないのです。と言うことで、本稿の結論は、維持されます。
 氏が、自力で推敲する力が無いなら、誰か物知りに読んで貰うべきです。 「訊くは一時の恥……」です。
 
 それにしても、高名であろうとなかろうと、誰かの意見を無批判で呑み込むのは危険そのものです。聞きかじりの毒饅頭を頬張らず、ちゃんと、毒味/味見してから食いつくべきです。
 以上、氏の意図は、丁寧かつ率直な批判を受けることだと思うので、このような記事になりました。頓首

                                以上

私の意見 毎日新聞 「今どきの歴史」 最後の脱輪~叶わない神頼みか

                                                   2018/06/18 2023/01/23

 毎日新聞夕刊月一連載記事の2018年6月分は「纒向遺跡(奈良県桜井市)のモモの種 真の年代はどこに?」と題して、時代鑑定を論じた後、次の結末でこの問いに答えられず脱輪して溝に落ちた感じである。

 「IntCalも数年に一度変わり、実年代も変わる」と坂本さんが言うように、C14年代測定はさらなる精度向上の余地がある点で「発展途上の技術」(箱崎さん)という認識が測定する自然科学側にはある。使う考古学の側もその視点が必要だろう。その上で、進化版JCalにより今回の実年代が検証される日を待ちたい。

 ブログ注:坂本さんと箱崎さんは、坂本稔・歴博教授と箱崎真隆・歴博特任助教(共に文化財科学)である。「歴博」は、国立歴史民俗博物館の略称として、当記事で説明済みである。

 心配なのは、IntCalも数年に一度「変わり」、(それに応じて?)「実年代」も「変わる」なる途方も無い放言/暴言である。素人は、科学的知見は不変であって欲しいと願うのだが、この業界、言うならば、『纏向遺跡の年代比定を、倭人伝記事に見合うようにずり上げるという崇高な使命を持った「纏向考古学」』では、頻繁、かつ、気まぐれに「変わる」らしい。なら、先ずは2018年版と時点を明記すべきだろう。

 ここで、「実年代」が変わるという途轍もない理不尽な言い方だが、素人は、「実年代」を実際の年代と解するから、変わるのは不穏とみる。このあたり、言葉が通じない。それは、「精度」と無関係な酔人の戯言と聞き間違えられそうである

 先般記事で、名古屋大中村俊夫名誉教授も「実年代」と称していて、纏向考古学」では「実年代」は推定年代らしい。まあ、不朽・不変の歴史に「今どきの歴史」があるというのであれば、「今どきの実年代」は「刻々」変わるのかも知れない。
 何の事はない。学問の世界にあって、昔ながらの手前味噌である。言うなら、「望むご託宣が得られるまで、おみくじを引き続ける」という不屈の意思の表明なのだろうか。

  更に不穏なのは、目下信奉されているJcalが、「進化版」に置き換えられ打ち棄てられるとの「勝手な」推定である。科学用語で、進化とは旧世代が淘汰され、新世代が生き残る不連続な過程であるから、そのように受け取るしかない。現在の技術の進歩・発展は、早晩遺棄されるものであり、期待できないのだろうか。諸行無常という事なのだろうか。

 と言うことは、箱崎さんは、現在の技術は、多額の費用と多大な労力を費やしていながら、未完成で幼稚であり、早晩駆逐されると予言されているのだろうか。「発展途上」とは、そういう意味である。一個人の意見としても、そこに毎日新聞の権威が託されているのか。

 と言うことで、今後、「纏向考古学」は、「使う」立場で、望む実年代が得られる新技術を開発するのに専心されるようである。それにしても、多額の公費を費消しているのに、失敗は想定内であり、解釈論で曖昧化することで凌いで、「もともと信頼できない在来技術だ」とうそぶくのは、職業倫理の持ち合わせはないのだろうか。

 更に言うなら、何年か先に新基準が公開され、新「実年代」が公開されても、数年すれば、またぞろ「今どき」の「実年代」が登場するのであれば、「最新技術による科学的な測定」を駆使した「実年代」論議は徒労ではないか。

 私見であるが、いかなる現代技術を駆使しても、考古学の考察する遺物の年代判定は、常に、ある程度の不確かさを含む推定であり、不確かさは、時代を遡るにつれ、急速に拡大すると見なければない。

 記者は、今回発表の西暦135~230年あるいは同100~250年ごろという、不確かさを包含した「実年代」に、どのような意義を見ているのだろうか、今回の「実年代」は、『「纏向考古学会」の望む成果ではない、間違った推定だ』と断罪されているのではないか。

 当該事業には、会計監査はないのだろうか。ほかに、もっと有意義な使途はないのだろうか。一介の少額納税者としては、分相応の不満を鳴らしたいのである。

◯一応の結論
 「今どきの考古学」は、時の彼方の史実を語るHistorical scienceの避けえない不確かさに慣れるべきであって、無理矢理、自分の望む歴史ロマンに沿った「実年代」を押しつけるべきではない。それは、おお法螺である。
 それとも、「纏向考古学」は、考古学ではない、科学ではないというのだろうか。

 関係諸兄姉は、ご自分達の俸給が、上司や役員のポケットから出ているのでなく、一般国民の納めた貴重な税金から出ていることに、年に一度は思いをいたすべきだろう。
                                        以上

18. 倭地周旋 読み過ごされた小振りな倭國 改訂 2014-2023

     2014/05/04 改訂 2020/08/23 2021/09/16 2022/09/26 2023/01/23

**大幅改訂の弁**
 当記事は、大幅に改訂されて、結論が大きく転進しているので、できれば、末尾に飛んでいただきたいもので。(恥を忍んで、当初記事を残しているものです)

●原記事遺構
 參問倭地、絕在海中洲㠀之上、或絕或連、周旋可五千餘里。
 以下は、長く温めていた議論ですが、最近、『古田史学論集』 第三集 『倭地及び邪馬壹国の探求-「周旋五千余里」と倭地の領域の検討』で考察されていることを知りました。
 もちろん、以下の考察の運びと大筋は同じなのですが、模倣したものではありません。
 倭國が、ほぼ九州内に絞られることは、倭人伝冒頭で予定されているのですが、ここで、その外形が明らかになります。
 一周五千余里ということは、正方形に当てはめれば一辺千二百五十里となります。倭人傳で一里75㍍と見て取ると90㌔㍍四方程度の範囲となります。形状を明記していないので、矩形や方形ではないようですが、不規則な凹凸のある図形となると、一段と、その内部領域が狭くなるのが、幾何学の教えるところです。(この誤解は、三世紀当時の幾何学概念に関する理解不足によるものでした)
 これは、九州全島を示すものですらなく、九州北部にこの大きさの倭國を構成する諸国があったと言うことを示しています。
 王国の広がりは、三世紀中盤の交通の便に制約され、とても、遠隔の地に及ぶものではないものと考えます。
 このように、誠に狭い範囲に多くの国々がひしめき合っていたからこそ、数年に亘って争い合うことができたのであり、また、戦時以外は、密接な交流があり、風俗や伝承を共有していたであろうことから、市井の一個人(倭人伝には王族の一員と書かれているのです。これは誤読でした)を国王に共立することができたものと思われます。
 魏志倭人傳を漢里制で読むと、周旋五千里は、一辺五百キロのもう一つの中原であり、そこに三十諸国の逐鹿の戦いが展開されているという戦国ロマンが、笵曄を魅了したので、後漢書で「大乱」と粉飾してしまったのでしょう。
以上

追記 拙速の議論 撤回の弁 再訂正 2020/12/18 補充 2021/09/16 2023/01/23
 以上は、浅学非才の憶測てあり、以下の趣旨で改訂した見解を残します。

○「周旋」の面目回復
 「周旋」は、中国古典史書では、閉曲線で領域を括る意味でなく二地点間の直線経路(道のり)を言うものです。
 ただし、「周旋」なる用語の典拠は、中国古典史書といっても、司馬遷「史記」、班固「漢書」でなく、ほぼ同時代の袁宏「後漢紀」で示されているように、後漢末期、魏、西晋の期間に洛陽付近で通用していたと思われる常用表現が出典と見ます。

 狗邪韓国から倭王城までの直線的な行程(狗倭行程)道里が必要であったのに、末羅国以降の道里に、余傍、つまり、行程外の脇道である奴国、不彌国、投馬国が書き足され、行程の本筋が読み取りにくい記事になってしまったため、狗倭行程を周旋五千里と明示したものです。

 また、周旋」は、それぞれの王の居所を順次通過しているため、一部で力説されているような島巡りのようなつじつま合わせは、一切存在しないのです。(陳寿が、国家の歴史を記録する「正史」の一章にそのような姑息な辻褄合わせを書いたとは、到底信じられないのです)

 ここで書かれているのは、魏晋朝が、帯方郡から東夷王城に至る公式行程を正史上に「始めて」定義したものであり、実地の移動距離(道のり)を集計したものではないのです。丁寧に言うと、実地の移動距離は、島嶼間の渡船移動のように、測量しようもないものもあり、また、未開の倭地のように、陸上街道であっても、適格に測量できないものもあったのです。ここで定義するから細かいゴタゴタは出てこないのです。

 かくして、「周旋」に貼り付けられた道化面を剥がして、正しい「面目」が回復できるのです。

*笵曄「後漢書」東夷列伝の怪~余談
 ついでながら、笵曄「後漢書」東夷列伝は、後漢最後の皇帝献帝代に帯方郡が創設/公認されて洛陽からの公式道里が設定されたという記事を持たないので、倭の位置を説明するために、苦肉の策として、既説、既知の楽浪郡の南境から倭までの道里を書いていますが、唐代に笵曄「後漢書」に追加された司馬彪「続漢書」「郡国志」にすら、そのような史実の根拠が無く、「風評」「臆測」とみられても否定しがたいのがわかります。つまり、魏志「倭人伝」が、「倭人」の所在を初めて記録したことが、改めて確証できるのです。

 歴史上、西晋後期の陳寿に対して、笵曄は、西晋/東晋に続く劉宋の士人で、百五十年後の後追いですから、その時点で「後漢書」東夷列伝に、新たに発見された根拠があれば、堂々と明記できたはずですが、西晋代、つまり、陳寿と同世代の司馬彪「続漢書」「郡国志」にない記事は、さすがに参照できなかったので、後漢書「東夷列伝」の面目を保つために、倭人伝を上塗りする、いわば、「方便」とすべき「おとぎ話」を、いわば筆を舐めて貼り付けることしかできなかったのです。
 何しろ、衆知の如く、介在する百五十年の間に、北方異民族の侵攻で、西晋亡国、洛陽壊滅の大変動があったため、笵曄の手元には、それこそ、後漢魏晋代の公文書記録の残骸しか伝わっていなかったので、最早、後漢代原資料に基づく正史編纂は不可能だったので、先行する諸書を拾い集めたのが笵曄「後漢書」ですが、東夷の後漢代「史実」、即ち「公文書記録」は、喪われて伝わっていなかったのです。

*行程諸国歴訪の趣旨
 ここに想定されているのは、狗倭行程は、大河の流れに例えられた「大海」(塩水湖)に浮かぶ「海中山島」(中州/中の島)に存在する各国「国邑」、つまり、隔壁集落を「又」「又」、順訪するのであり、後世諸国のように、広がりを持った領域になっていないものです。

 ちなみに、太古以来、「國」「邑」とは、王と近親が特に隔壁にこもった形態、ないしは、所蔵する耕作地と耕作者まで収容した隔壁、城壁に守られた集落国家が定法ですが、「倭人」は大海海中の山島に住んでいるので、定法に従わず、城壁を構築していないとしているのです。外敵や野獣の侵入を防ぎ、また、河川氾濫時などの浸水を防ぐために必要な防御は、聚落遺跡として出土している「環濠」に限られていたと言うことです。倭地の実情は、ある程度、中原知識人に知られていたのでしょう。

 そのような太古殷代の古典的な「國」と別に、周代の春秋時代以降、かなり広がりを持った邦」(くに)が、時代相応の広域を示すようになったのですが、漢代、創業者高祖劉邦の「邦」の字を憚って「國」と呼ぶことにしたので、魏晋代に到ると「國邑」は、言わば、言葉の「化石」として、史官の語彙にだけ生き残っていたのです。
 つまり、ここでいう「國」は、三世紀に常用された「国」と異なり、字の形が示すように、方形の隔壁に囲まれた集落であり、倭人伝では、それを明示するために「國邑」と二字語にしているのです。

 従って、「倭人」の王城は、広々とした「國」でなく、伊都国の南にある小規模な隔壁国家であり、あるいは、伊都国の隔壁の中に、すっぽり収まった二重国家かもしれないのです。「倭人伝」は、壮麗な「國」を描いていますが、正史に書かれた以上「史実」と見なすべきですが、どうも、「写生」ではないようです。

 このあたりは、「倭人伝」冒頭で断っているように、倭人は、大海に浮かんだ山島に在るという語法を、内陸世界に生まれ育った三世紀中原人の教養で理解できるように、「河水の流れの中州の飛び石のように小島がある」と表現したものと見えます。

 ちなみに、末羅国で三度の渡海は終わり、その先は「陸行」、地続きとされていますが、だからといって、九州島のように広々とした山島を想定していたとは限らないのです。その点は、伊都国の戸数が、道中の諸国同様に千戸台であることでも示されています。(奴国、不弥国、投馬国は、道中ではない余傍の国なので、以上の議論の埒外であり、言うならば、別儀、論外です)

 折角、陳寿が、同時代の教養人の誤解、混同を避ける慎重な書き方、書法を示しているのに、言うならば、無学無教養の蛮夷である現代人の思い込みにとらわれて、いわば、諸人(もろびと)が挙(こぞ)って誤解し、陳寿の本旨を適確に理解している論客が、めったに見当たらないのは、まことに残念です。(「無学無教養の蛮夷」とは、随分「ご挨拶」と思われるかも知れませんが、三世紀当時、「文明人」とは、四書五経を諳んじて、周礼に随い、典拠に基づいて滔々と弁じる「教養」を備え、衣服、面貌、頭髪、いずれも、典式に従うものであり、現代にその要件を完備している方がいらっしゃるとは思えないので、別に「差別表現」ではないのです)

*方里の幻惑~余談
 ちなみに、行程道里の「里」と紛らわしいのが、東夷伝特有の「方里」、例えば、韓地の「方四千里」とする表現ですが、一辺四千里の方形でなく、一里四方の正方形「方里」四千個を縦横に敷き詰めた「面積」表現である可能性が高いのです。(的確な換算かどうか、不確かです)

 ここでいう「面積」は、当てにならない領域面積などではなく、「耕地面積」であり、領地内各地の戸籍、土地台帳に書かれている個別の農地の面積「畝」(ムー)を集計して、一里四方の正方形の個数に換算したものてだ、いわば適格な集計だったのです。
 現代人が、当時存在しなかった現代地図で見る領域面積に対して、せいぜい十㌫程度であって、非常識なほど狭いものですが、三世紀当時の東夷領域で必要なのは、其の国の穀物生産能力であり、従って、戸籍に登録された耕地面積に、限りなく重大な意味があったのです。

 現代人がついつい見てしまう「地図」は、当時全く存在しないので、各国領域の形状は幻覚に過ぎず、大変不確かで測量不能であり、又、実用上、厳密である必要は全く、全くなかったのです。いや、領域面積が何かの間違いで測量できたとしても、高句麗、韓国のように、指定された領域の大半が、山嶺、渓谷、河川などで耕作不能なのは明らかですから、そのような虚構の面積で当該領域の国勢を示すのは無意味なのです。
 この点、中原の黄土平原では、領域の相当部分が農地として開発されているので参考にならず、東夷諸国の国勢を示すには、正味の農地面積を駆使したものと見えます。

 因みに、陳寿「三国志」の魏志東夷伝で、そのようにして「方里」を表記しているのは、往年の公孫氏遼東郡の管轄範囲であり、公孫氏自体は、司馬懿の徹底的な殺戮により公文書を喪っていましたが、いち早く、魏帝の命により、両郡が無血回収され、皇帝直属となったため、公孫氏時代の「方里」の書かれた文書が証明されたものと見えます。
 倭人伝に、「方里」の書かれている対海国、一大国は、海中山島にあって、耕作可能な農地が稀少なのが明らかなので、特に「方里」として耕地面積を明記したのであり、あわせて、公孫氏遼東郡は、「女王以北」と書いた、対海国、一大国、末羅国、伊都国は、「倭人」の要点として、国情を適確に把握していたものと見えます。

 ということで、「方里」は面積系の数値であって、ここで言う「周旋五千里」という道里系の数値とは、別次元の単位なので、「方里」に見て取れる里数は、周旋里とは無関係なのです。
 「周旋五千里」が、何㌔㍍に相当するかという「設問」は、別に論義すべきなので、ここでは触れません。

以上

2023年1月22日 (日)

倭人伝随想 倭人伝道里課題へのエレガントな解答の試み 再訂 1/4

     2019/06/23 加筆2019/06/26 2020/05/06, 2020/10/12 2023/01/22

◯今回の結論
 「倭人伝」里数問題(道里課題、設問)は、ほんの少し知恵を絞って、ほんの少し工夫して、丁寧に考察すれば、ほとんど「倭人伝」の記事だけで、「無理少なく、より簡単明快に」、つまり、力業や曲芸でなく、エレガントに解けるのです。何しろ、出題者たる陳寿が、全ての手がかりを提供しているからです。後は、読者の常識次第で、解ける「問題」です。

 いや、これが誤解/誤答とは、誰にも断定できないはずです。

◯倭人伝道里論の再点検 概念図 2020/10/12 復元 2023/01/22
  2  
     
 世に「倭人伝」の議論、特に、「倭人伝」の主題である「倭人」の所在が読み取れないから、史伝として不備とする議論が多いのです。時には、「倭人伝」を、教科書の「問題」なみに、必要以上に苛酷な、賢い読みを要求する「課題」と捉えて、頑として正解の出せない不備な「問題」としている例もあります。

*落第生の咆吼とのろまな彷徨
 世の中には、「倭人伝」道里に関して「これまで発表の千件の解答を確認したが、全部間違っていた」などと、並の人間が何十年かけてもできないことを「やった」と、高々と咆吼している人を、何人か見かけます。
 
◯井の中の蛙志向の言い訳
 当方は物知らずの凡老人で、膨大な諸説を残さず吟味できないと自覚しているので、倭人伝自体を読み解くのに、自分にもできて、素人目にはわかりやすい手順を求めて彷徨しつつ、何とか倭人伝道里記事を読み解こうとしただけです。

 二千字の倭人伝の、そのまた一部という、随分限定された「問題」ですが、ここまでの乏しい経験でも、倭人伝だけでも検討範囲を広げると、さらに大量の資料、意見を読んで、あれこれ考え合わせる必要があるので、とても、検討範囲を広げられないのです。
 更に、これまで敬遠していた後世の国内史料に手を付けると、史料批判だけで厖大な時間がかかるとわかっているので、頑として遠慮しているのです。

*解けない問題への解答
 普通、生徒が試験問題を解けないのは学力不足が原因ですが、「倭人伝」(魏志紹凞本などで「倭人伝」と小見出しの部分)課題は、いきなり問題「不備」とされています。倭人伝の「不備」を是正する義侠心の方までいます。

*史料尊重の視点
 冷静に考えれば、「倭人伝」は、三国志主部、魏志の一部であり、編纂者たる史官陳寿の著作物であり、後世の素人が気軽に書き替えられないのです。まして、知識、見識で大いに劣るとみられる「現代人」、つまり、三世紀視点で言うと、「無教養な東夷の蛮人」が、「現代語」に書き替えたと称する「戯作」を原史料と取り違えて論ずるのは「論外」です。

 「倭人伝」は、晋代の陳寿が、晋朝高官に向けて、東夷新来の「倭人」の素性、所在、道里を初回報告として漢文で書いたものです。「倭人伝」に関し、陳寿の漢魏晋に至る歴史見識と文才、中でも参照資料の広範さ、豊富さは、古今通じ「世界一」です。超人でも神がかりでもない、偉才を見くびってはなりません。

                               未完

倭人伝随想 倭人伝里程課題へのエレガントな解答の試み 再訂 2/4

     2019/06/23 加筆2019/06/26 2020/05/06, 2020/10/12 2023/01/22

◯序章  「倭人伝」里程記事の前触れ
 結構根強く出回っている誤解ですが、なぜか、倭人伝の道里行程記事の「從郡至倭循海岸水行」と書かれた「前触れ」で、まだ、帯方郡を出ていないのに、いきなり西に曲がって海岸に出て、何の予告もないのに、南に「水行」すると解した諸兄姉が多いのです。この八文字は、以下の行程の中に、前代未聞の「水行」行程があって、その際は、海岸の岸部から渡し舟で向こう岸に渡ると予告しているのであって、まだ、出発していないのです。その証拠に、所要期間も、並行する街道の道里も、立ち寄る宿場も書いていないのです。
 念押ししますが、行程は、帯方郡から街道を南下するのに決まっていて、だから、わざわざ「陸」、平地を行くと説明しないのです。

第一歩 「倭人伝」里程記事の取っつきと結尾
 いよいよ、行程は、郡を出て、整備された官道を進め、韓伝に書かれた諸国を歴訪しつつ、時に東を、時に南を向いて、全体として、東南方向に予告した「海岸」に到着するのです。郡から半島南端の狗邪韓国海岸までの略称「郡狗」区間です。区間は、七千里と明記されています。
 この海岸は、「倭人」に属する大海の海岸ですから、既に韓国を離れているのです。言うならば、「大海」の北岸で、狗邪韓国は、「倭」と接しているのです。
 因みに、行程道里記事は、まず、狗邪韓国に「到る」と通常の陸上行程の終わりを明記していて、そこから、予告の「水行」ですが、さりげなく「始度一海」、「又南渡一海」、「又渡一海」と書いて、「水行」と物々しくても、「死にそうな」長旅でなく、渡船の三度のくり返しで「怖くない」となだめているのです。
 かくして、三度の渡海で末羅の岸に着いた時、郡から都合「万里」になることまでは、ほぼ異論が無いようです。そうでしょう?

 もう、行程は「水行」しないのですが、念押しで「陸行」と書いています。以上の行程の仕分けが誤解無く読み取れるようにしているのです。
 末羅国から伊都国に「到る」としているので、伊都国が格別の地位を得ていたことは明確です。この点、後ほど解明します。

 郡から倭の「郡倭」全体は万二千里ですから、末羅国から倭は、計算上二千里と見えます。また、「郡狗」七千里ですから、計算上「倭」は末羅国から「郡狗」三分の一のあたりと見えます。

 後ほど再確認するとして、ここでの議論は、万事概数でかなり幅があるものの「倭人」はそれを外れた「圏外」にはいないと明快です。以上、藤井滋氏が「『魏志』倭人伝の科学」(『東アジアの古代文化』1983年春号)で、四十年近い、とうの昔に提示しています。
 安本美典氏が、藤井氏の意見を氏の主張の論拠としていますが、世間一般は、一向に耳を貸さないのです。
 因みに、安本氏は、藤井氏の「倭人伝里」観に同意していますが、古田師が終生こだわった「魏晋朝短里説」の理性的な否定者です。

*明快な結論と混ぜっ返し~倭在帯方東南の否定
 このように、倭人伝を適切に解すると、倭に至る行程が九州北部を出ないことは、遙か以前から知られていたのです。
 この明快な読みは、例えば、明治期の白鳥庫吉師も認めていたようですが、そう認めて、倭人が、帯方東南の九州北部に決まって倭人がヤマトに行けない「倭人伝」里程説は、「纏向」説から見て、無礼で不愉快であり、金輪際、正確と認められないわけです。
 以下、壮烈な混ぜっ返しが続いて、灰神楽になり、視界混沌と見えるのですが、沈着に心の目で眺めると、状況は何も変わっていないのです。

*名刀が鞘に収まらない話
 と言う事で、冷静に、最後の「末倭」間を精査するのですが、世上好まれる直線的な解釈では、末羅―伊都―不彌―投馬―倭の間で、滑り出し三区間は予想通り、五百里、百里、百里の計七百里であり、残るは千三百里と予測されます。
 残りは、不彌から投馬まで水行二十日に次に見える「水行十日陸行一月」の四十日を投馬から倭までの行程とみて、足して六十日と見る解釈が好まれていて、結尾の帳尻のはずがどえらい遠隔区間となります。
 この解釈は、「放射説」に対する最強混ぜっ返しとされますが、一見して度外れです。全体の「郡倭」万二千里から「郡狗」七千里と「狗末」の渡海三千里を抜いた「末倭」二千里に六十日行程を含めるのは、度外れた不正解です。
 このあたりで、善良な読者は、直線的な解釈のはずが、乱脈に巻き込まれているのに気づくのですが、そこから脱出しようと素人考えで、悪足掻きしているのが、世上の混乱した邪馬台国比定論「沼」なのです。

 按ずるに、良く言われる「自然で単純な」読み方は、読者に混乱を与えて、行程を纏向まで引き延ばす方策ですが、どう「倭人伝」を読み替えた処で、丁寧にもつれを解けば、倭人を「纏向」に求める説は根拠を失っています。いい加減に降参すべきです。

 と言って、問題の書き方がどうこう言うのはまだ早いのです。

◯概数基本のおさらい~誤解解消
 この機会に概数記法を復習すると、倭人伝に頻出の「余」は、端数切り捨てでなく端数を丸めたのです。軒並み「余」が付くのはそういう意味です。五百里に「余」がないのは、きっちりという意味ではなく、ほぼ軒並み千里単位の里程なので、五「百里」の桁は端数で、大勢に全く関係無いと見たのです。本稿では、繁雑を避けて、「餘」を省略していますが、諸兄姉が端数切り捨てと誤解しないための方策でもあります。

 仮に、陳寿が概数に強くなかったとしても、関係者は中国文明の威力で数字関係を知悉しているから、数字を誤記連発する愚は犯さないはずです。

◯第二歩 水行陸行のおさらい~誤解解消
 なお、最終記事の都合水行十日、陸行三十日(都水行十日、陸行一月)を、水行なら十日、陸行なら一月と解釈するのは、「倭人伝」の里程記事として意味が無いので却下です。これもまた、善良な諸兄姉に混乱を催す攪乱工作でしょう。
 正史「倭人伝」に求められているのは、公文書が洛陽から倭に至る所要日数です。騎馬の文書使が官道を疾駆する前提なので、官道の整備されていない行程の里数を知っても、意味はないのです。
 倭人伝」は、世上蔓延っているような魏使旅行見聞記ではないのです。

                               未完

倭人伝随想 倭人伝里程課題へのエレガントな解答の試み 再訂 3/4

     2019/06/23 加筆2019/06/26 2020/05/06, 2020/10/12 2023/01/22

*高度な解釈を求めて
 読者は、現代日本人の勉強不足の単純素朴な読みが却下された時、これら記事は、どのように読み解くべきか、一段と高度な判断を求められるのです。そう思いませんか?

*投馬国談義~ほんの餘傍、余談
 手始めに、水行二十日の投馬国は行程外の余傍と見ます。投馬国は戸数五万戸の有力国で、王制伝統でなくても、官を受け入れた国書筆頭付近の列国のため、里数不詳、戸数未確認の不備無体のまま国名を書いたのでしょう。「倭人伝」で、奴国、不弥国共々、余傍とされている三国の一つです。
 と言うことで、法外の水行二十日などの混乱は言い立てません。「倭人伝」が創唱した公式行程道里の「水行」は、半日仕事の渡船稼業であり、二十日に及ぶ渡船は法外です。また、一度「水行」というと、どこかで「陸行」に戻す必要があるのですが、投馬国以降は「水行」のままという不合理になっています。とは言え、行かない行程がどうなっていても、陳寿の知ったことではないので、放置されたものと見えます。

*扇の要
 かくして、俗に「放射説」と呼ばれている高度な解釈が登場します。当方は、伊都を「扇の要(かなめ)」と呼ぶのが相応しいと思うのです。

*伊都国の重み
 つまり、「倭人伝」を読む限り、伊都は、郡倭の交通、交信の「要」であり、全ての旅客、文書は、一旦ここで受理され審査されると明記されているので、郡、つまりは、魏朝は、この「要」までの道里を知った上で文書送信すれば、倭人に知らせたと同然との見方が示されているのです。つまり、行程道里は、伊都で終着なのです。
 倭人伝を復習すると、郡からの公文書は、伊都国で受領されていて、郡の文書使は、伊都国から発信される倭の公文書を受け取って、帰還するものと見えます。また、郡からの使者は、伊都国で、公館に宿泊すると明確に示唆されていて、要するに、郡の行人は、公用を伊都国で済ませるのです
 道里行程記事で、伊都国から女王居処までの行程は、南と書かれているだけで、道里も所要日数も書かれていない最大の理由は、行程が伊都国で完結していて、女王居処は行程道里に入っていないからです。

 伊都国が重要なので、伊都国の「追分」、「町辻」(辻は漢字にない国字)に、各国公道の分岐点「要」があって、そこには、道標が置かれていたはずです。

*地域拠点の意義
 「放射説」は学術的表現ですが、この事情は別に異常でなく、西域でも、中原~西域都督からの旅客文書は、地域拠点に集じて各目的地に散じたはずです。伊都を、少なくとも地域拠点、集散地と見れば、物の道理は自明です。
 榎一雄氏は、文法解析から伊都国放射説を創唱し、火あぶりとアラ探しの雨を浴びる試錬でしたが、当方は、非学術的な社会科解釈から、異例でも合理的と思います。

*倭人伝自体による読解の勧め
 倭人の国情は、「倭人伝」記事から読み取れるので、徒に、歴史、風俗、用語の異なる中国本土史書三国志に、あまり頼らない方が良いのです。
 過去の諸兄姉(中国人も含む)が時に率直に認めるように、「倭人伝」は、用語/語彙、語法が独特であり、解釈に注意を要するのです。

                               未完

倭人伝随想 倭人伝里程課題へのエレガントな解答の試み 再訂 4/4

     2019/06/23 加筆2019/06/26 2020/05/06, 2020/10/12 2023/01/22

*陳寿の史書編纂思想
 陳寿ほどの史官が、時に不備と見える「異常」な書法の「倭人伝」を、整理せずに後世に残したのは、公文書に残された「史実」を継承すると意「史官」の務めに忠実であったのは当然して、「倭人伝
に」帝国編纂史書として意義を認めたからだと思います。

 三国志呉(国)志(呉書)は、東呉史官が、国史を書き残す気概で呉の語法で書き残した史書であり、東呉の滅亡時、晋皇帝に、国宝として献上されたものです。三国志呉志には、時にと言うか、しばしば、曹魏に対して不敬に亘る東呉独自記録が、ほぼ温存されています。

 一方、二千字と言えども、「倭人伝」は、帯方郡の書記官が、中華文明の一端に触れたばかりの東夷「倭人」の記録を書き残した文書原文が生きています。「倭人伝」に見えるそのような編纂姿勢から、陳寿の志を味わいたいものです。

◯倭にいたる道~万二千里の由来
 煎じ詰めると、郡から伊都国の「郡倭」道里は、万里と五百里で、万二千里と計算が合わないように見えます。
 ここで、各里数の由来を推察すると、総里数万二千里は、倭人が公孫氏時代の遼東郡に参上した時点、つまり、実際の道里がまるでわかっていなかった時点で、中国文明の果てを越えた辺境として、公孫氏が万二千里の「栄冠」を与えたものであり、そのため、公孫氏が滅亡した後、残された倭人記録に残された万二千里の「倭人伝」道里と言う、公孫氏遺産は、宙に浮いていたのです。

*道里計算の真理
 陳寿は、倭人を迎え入れた曹魏明帝の名誉を守るために、辻褄合わせしたものと見えます。
 随って、「倭人伝」に書かれた郡から倭への郡倭道里は、「実測」に基づく概数でなく、それぞれ、切りの良い演出概数です。
 何しろ、全体道里は、先賢指摘の「最果ての万二千里」(本来帝都起点)と決まっていて、決まり事への辻褄合わせから倭地里程を演出したので、実際の道里と関連付けるのは、無理というものです。

 特に、「倭人伝」道里は、七千里,千里,千里,千里ときめの粗い概数であり、むしろ、大まかさを自認していたのです。
 と言うことで、末羅国で倭地に入った後の道里は、伊都国まで五百里と言うだけで、数字合わせはできないのです。現代数学でも、概数の等号は、ちゃんと用意されていて、郡倭道里≅万二千餘里も正しければ、
 七千(餘里)+千(餘里)+千(餘里)+千(餘里)(+五百(里))≅ 万二千(餘里
も正しいのです。なにしろ、千、三千、五千、七千と言う、目の粗い概数なので、帳尻は合わないのです。

 陳寿にわからないことは、現代凡人にはますますわからないのです。

水行陸行の道理
 行程中の「水行」渡海里数は、誰が考えても、適確に実測しようがないので、所要日数基準であり、「水行」三千里を十日とし、一日三百里の概算で、必要な所要日数が、「水行十日」と明確になるので、それで良しとしています。
 因みに、「陸行」も九千里三十日なので、「陸行一月」とこちらも一日三百里に揃うのです。その意味では、帳尻は合っているのです。
 もっとも、「倭人伝」里が、現代単位で何㍍との議論は、以上の展開でおわかりのように、証拠不十分で当記事の論述に不要なので、言及を避けました。
 当世風だと、PC画面上で、対象の道のりを取り出して、㌢㍍。㍉㍍単位で書き出して、精密さを競うのでしょうが、不確かなデータに精密な計算を適用して桁数を増やして、議論に試用するのは、とてつもなく、大きな間違いです。困ったことです。

*概数の厄介さ
 以上で示したように、一部論者、先賢の決め込みに拘わらず、概数計算は「帳尻」が合わないのが通例で、大抵は、実務担当者がギリギリの辻褄合わせに苦労するのです。ご不審であれば、小学算数の「概数」など勉強し直して、AIならぬ「天然インテリジェンス」(NI)を、歴史対応に再調整いただきたいものです。

*奇数の奇跡
 「倭人伝」の数字は、考古学の泰斗も認めるように、随分大まかで、頭の一桁だけで、その一桁も、松本清張氏は、一、三、五、七の奇数が多いと歎いています。ただし、このような先見の卓見に、後続が見当たらないのです。

過去記事改訂のお知らせ~「都」に(総じて)と(みやこ)の別義あり
 「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」の「都」を「総じて」と読む「古賀達也の洛中洛外日記」(第2150話 2020/05/11~)提言を支持した改訂です。近来、当ブログでは、「都水行十日陸行一月」を「都合、水行十日陸行一月」と読み下しています。

 漢書以来の夷蕃記事は、一切、蛮夷「王之所」を「都」(みやこ)と書かないものの国名「伊都」は、高句麗「丸都」同様の許容でしょうか。いや、「丸都」城は、魏の遠征軍に破壊されているので、城名が不敬で攻撃されれたのかも知れません。

 因みに、古賀氏は、学術的な見地から、長年、当作業仮説を慎重かつ丁寧に検証している途上のようですが、当部分は、文章家陳寿の緻密、寸鉄を示すものと見て、勝手に端的に検証を図ったものです。「都」の両義、別義は衆知で有力な仮説であり、端的な否定は困難でしょう。

 唯一例外は西域西界の安息国(パルティア)です。漢書では、武帝使節初回訪問時、同国の当方国境の防備を一任されていた「小」安息の「長老」、恐らく、現地国王は、兵二万を常駐した東端防塞で、百人の精鋭を従えたと思われる気鋭の漢使と会見し、対匈奴戦派兵を求められても、東方の騎馬勢力に対して専守防衛の国是を説き、漢使は、東西数千里の「大」安息を、皮革に横書する「文化」を有し、金銀硬貨制度と宿駅完備の全土官道網を具備する中国対等の品格を有する国家と認識したので、名は体をあらわか「安息」と命名し、また、遥か西方、未見の帝都を「王都」と書いています。漢使は、全国王都から急使の大安息国王の国書を見て、当の「安息国大王」と会見しないまま、友好国としての国交を結んでいます。

 魏使が、女王に会見しなかったとすると、この漢書記事に前例を見ていたのかも知れません。いや、当方は、女王は、伊都国のご近所との説なので、女王が会見を回避したとすると、物理的な(フィジカル)問題ではなく心理的な(メンタル)問題のようですが、魏使は、寧遠のために事を荒立てず、会見に関する記事は何も書かれていないので、全ては不明です。

 陳寿は、倭人を大海沿い小安息/條支の東夷版鏡像と見立てたのでしょうか。

 それはさておき、「倭人伝」に於いて、「女王之所」は、あくまで居処に過ぎず、洛陽城に匹敵する王城を見るのは、倭人伝の修飾に迷わされた幻想に過ぎません。
                                完

おまけ
*宴の終わり

 本来単純明快な議論が、曲折を繰り返して,堂々巡りになっているのは、実は、論争が論争でなく、持論の押しつけ合戦,力比べ、肺活量比べに終始しているからです。全国各地に「邪馬台国」候補地が散在しているのは、畿内派が、勝てないとわかっている史料論の明快で不可避な結論を拒否して、カタツムリの殻にこもり、結果として月日、経費、労力を消費してきたからです。

*ブラック新説の時代
 最近の新手は、倭人伝は、元々、某地点を明示していたが、帝室書庫内に厳重保管されていた同時代随一の時代原本に、記事改竄と原本差し替えが行われて、今日の解読不可能な記事となったという提言です。

 史料としての「倭人伝」の尊重か蔑視か理解困難ですが、目新しくて、明快な新説として俗耳に訴えるのかも知れません。
 当方は、密かに「ブラック新説」と区分して、できるだけ、深く関わり合いにならないようにしているのです。あいにく、俗耳は持ち合わせていないので、デタラメな新説に耳を貸さないのです。要は、俗説としてはびこっている誤字、誤写論と同じで、手前味噌の「誤解」を押しつけているだけなのです。

*概念図の確認
 と言うことで、冒頭の概念図を描いたのです。随分大まかで、言葉足らずですが、古代人は、こうした手短な範囲の素描で筋の通った絵解きができる「問題」を書いたのです。もちろん、墨黒一色の線画で、もっと大まか、単純だったでしょうが、見方は同じです。

 実際に、戦塵の舞い踊る遼東巡り経路や黄土の泥流が溢れる河水(黄河)河口に近い渤海湾の奥まで漕ぎ寄せる経路で洛陽に行くとすれば、実感として、遠近法を効かした図で見える数十倍の難路の遠路だったでしょう。もちろん、難波して海のモズク、ならぬもくずになったとしても、悲報が故郷に伝わることもないのです。
 しかし、帯方郡高官に伴われた倭の大夫たちは、遼東の激しい戦から遠くはなれ、渡船のように揺れたり響(どよ)めいたりしない平和で確固とした大地の街道を進み、毎晩、無料で、整った寝床と整った食事の宿を泊まり継ぐ公用旅であり、多数ある関所も公用であるから、治安に関わる尋問も、おびただしい徴税もなく通過し、無事洛陽往還を達成できたのでしょう。それが、官道の旅というものです。

 並行して文書使が往復しているので、行程で何かあれば、宿駅から伝書便を出して、洛陽の鴻廬と帯方郡治に報告するのです。あるいは、周辺の宿駅から、救援の手が届くとも言えます。官制で維持されている陸道官道の強みです。

                                 おまけ完

2023年1月21日 (土)

新・私の本棚 番外 白石 太一郎 「考古学からみた邪馬台国と狗奴国」 再掲 1/1

  吉野ヶ里歴史公園 特別企画展記念フォーラム「よみがえる邪馬台国『狗奴国の謎』」講演記録 2012年10月13日
*私の見立て ★★★★☆ 重大な資料                   2019/11/01 補充 2023/01/21

□総評
 ここに批判するのは、白石太一郎氏(大阪府立近つ飛鳥博物館館長[2004~2018]2019年当時名誉館長)の席上講演の冒頭ですが、現代「考古学者」が、文献史学に対して抱いている先入観と、考古学「研究成果」がどのような背景から生み出されているかを物語るとして、引用しています。

 素人目には、単なる我田引水です。『氏が古墳研究成果を粉飾/化粧して、三世紀に「近畿の大和を中心に西は北部九州に及ぶ広域の政治連合」を創造した』ことは、古代史学に対して絶大な脅威です。
 その結果、「邪馬台国」「畿内説」は「研究成果」に迎合し、これを妨げないように、文献史学の(様々の)問題が巻き起こされ、今も、妖怪の如く古代史界を徘徊しているのは、なんとも痛々しいのです。

 是非、偉大な業績に相応しく、考古学の本分に目覚めて、晩節を正していただきたいものです。

*講演引用と批判
 『魏志』倭人伝にみられる邪馬台国や狗奴国をめぐるさまざまな問題は、基本的には文献史学上の問題である。ただ『魏志』倭人伝の記載には大きな限界があり、邪馬台国の所在地問題一つを取り上げても、長年の多くの研究者の努力にもかかわらず解決に至っていないことはよく知られる通りである。

 専門外の文献史学に対するご指摘は、氏の内面の暗黒を物語っています。
 「邪馬台国の所在地問題」は、素人目にも、史学上、唯一最大の「課題」ですが、素人目にも、考古学の暴威によって、倭人伝の文献解釈が大きく撓められて、文献史学による合理的で単純明快な「問題」解明が妨げられ、世人の疑惑を招いているかと見えます。ひょっとして、氏に煽動/鼓舞された戦闘的/政治的「考古学」が、抗するすべを持たない「文献史学」を、どうにも克服できない窮地に追い込んだことに、お気づきではないのでしょうか。

 一方最近では考古学、特に古墳の研究が著しく進み、定型化した大型前方後円墳の出現年代が3世紀中葉に遡ると考えられるようになった。その結果、3世紀中葉頃には近畿の大和を中心に西は北部九州に及ぶ広域の政治連合が形成されていることは疑い難くなってきた。

 実に壮大で、湯気を上げているように見える「画餅」ですが、按ずるに、専門外の文献史学に対するご指摘の様相は、現代の文献史学界が、各人の言いたい放題になっているように見えているだけであり、二千年近い過去の書「倭人伝」に現代人を惑わす「限界」などないのです。このように泥沼化したのは、氏の指揮棒に踊らされている「研究者」の責任です。後世、何と評され、どんな「悪名」を供されるのか、怖くないのでしょうか。

 困難は努力によって乗り越えるもので、力まかせに無根拠の幻想を捏ね上げ、思い込みを正当化するべきではないのです。時節柄、節にご自愛下さい。

 したがって今日では、こうした考古学的な状況証拠の積み重ねから、邪馬台国の所在地は近畿の大和にほかならないと考える研究者が多くなってきている。

 学術的な議論の動向は信奉者頭数で決めるのではなく、物証なき憶測に重みはないのです。お手盛り発言に疑いを抱かない「研究者」は死んだも同然です。「研究者」は、白石御大の声の届く、見通し範囲、ご自身の弟子でしょうか。「犬が西向きゃ」で、まことに素人くさい我田引水です。

 御大がご自身の存在価値/経済効果を実証したいのなら、お手盛りや挙手でなく、「解散総選挙」の無記名投票の実数を報告すべきです。
 投票に訴えても、パワーハラスメント、党議拘束懸念が濃厚で重みに欠け、匿名回答が必要です。でなければ、学問上の意見と思えません。

 ここではそうした最近の考古学的な研究の成果にもとづき、邪馬台国と狗奴国の問題を考えてみることにしよう。

 そのような手前勝手などんぶり勘定を、「研究の成果」と呼ぶようでは、白石氏の唱える「考古学」は、まことにうさん臭いのです。
 自信の無い見解を、殊更強弁するのは、内面の混乱を露呈して、自滅行為です。

                                以上

2023年1月16日 (月)

新・私の本棚 番外 NHK BSP「邪馬台国サミット2021」新総集・再 1/3

[BSプレミアム]2021年1月1日 午後7:00, 【再放送】 5月30日 午後0:00,12月27日 午前9:14
 私の見立て ★★★☆☆ 諸行無常~百年河清を待つ      2021/05/24 補充 2021/12/27 2023/01/16

*NHK番組紹介引用 2021/12/27現在
番組内容 日本史最大の謎のひとつ邪馬台国。どこにあったのか?卑弥呼とは何者か?第一線で活躍する研究者が一堂に会し、最新の証拠や資料をもとに自説をぶつけ合う歴史激論バトル。
出演者ほか 【司会】爆笑問題,【解説】本郷和人,【出演】石野博信,上野祥史,片岡宏二,倉本一宏,佐古和枝,高島忠平,寺沢薫,福永伸哉,柳田康雄,渡邉義浩
「NHKオンデマンドで配信中」

*追記:
 当番組は、2021年12月27日に再放送されたので、再確認の上で、「異論」編を補充とし、「新総集」として公開しました。

*はじめに~重複御免
 NHKの古代史(三世紀)番組の前作は、司会者が揃って素人風で、加えて素人論者の乱暴なコメント連発で幻滅したのです。その後、民間放送の番組が、広く取材した司会者のコメントに感心したものです。一方、NHKの当番組は、年々歳々の使い回しでげんなりしていましたが、このたび、ようやく新作にお目にかかりました。

 今回の番組も、毎度ながら、背景に倭人伝刊本を見せつつ「邪馬壹国」、「壹与」を「邪馬台国」、「台与」と、ほぼ無断で決め付ける陳腐な手口に幻滅します。また、魏使来訪が海上大迂回で、時代考証は大丈夫かと思うのです。
 基礎固めが、毎度疎かで、出だしから脚もと乱雑では、前途多難です。

 番組は、こうした不吉な序奏から意外に冷静な論議となり順当な展開でした。前作は、纏向広報担当風で、当ブログの批判がきつくなっていたのです。と言いつつ、以下書き連ねていったところが、別稿の速報記事とかなり重複してしまったのは、反省していますが、今となっては、改善しようがないので記事重複は、ご勘弁ください。

*総評
 纏向論への異論の大方は、誇大で独善的な纏向論がそう言わせるのです。
 論者の意見が順次提示されましたが、九州説は、ゆったり無理なく紹介されていて、堅実な考察と思わせ、ことさら批判するに及ばないと思ったのです。
 これに対して、纏向論者は、前作を越えた強引な論法で、そんなに無理するなよと言う感じでした。

 論者の提言に噛みついて、(私見に過ぎない)「卑弥呼」、「箸墓」、「台与」の年代比定は既に確立されているとの高言(虚言)は、むしろ滑稽でした。そもそも、「卑弥呼」はともかくとして、「箸墓」は「倭人伝」に於いて、何ら特定されていない「亡霊」であり、「台与」は、「邪馬臺国」にこじつけて、勝手に改竄した人名でしかありません。纏向説論者は、そのように、手前勝手に書き換えた「倭人伝」を奉じているから、そう言い切れるのでしょうが、それは、史学の道を外れています。

 それにしても、纏向論が学術的に確立/尊敬されていたら、この場で今さら高言する必要はないのです。議論で声を荒げるのは、大抵『窮鼠猫を噛む』局面なので、あからさまに自滅しているのです。

 考古学の財産は、遺物、遺跡の考証に基づく堅実な考察であり、遺跡、遺物に文字記録を伴わないから、時代比定は、大変不確実であり、不用意に文書資料を取り込むと学術考証に歪みが生じるというのが、先賢の戒めと思うのですが、ここは、「自説絶対で、外野の干渉は許さない」という体では、論争にならず、子供の口喧嘩のようなバトルです。何しろ、同時代唯一の文書記録「倭人伝」を、纏向説に合うように、自在に書き換えているのですから、天下無敵の革新で強弁できると過信しているのでしょう。

 素人目には、「我田引水」の「倭人伝」解釈に引き摺られて考古学の考察を撓めている感じが拭えません。『纏向風「倭人伝」』は、かつては、古代史学界の先哲の築いた基礎に選りすぐりの英傑が築き上げた楼閣だったのですが、今や、転進を許されない不退転/頑迷な道標と化しているようです。

*高価なイリュージョン展開
 今回、NHKご自慢の子供だましの「ビジュアル」は控え目で、填め込まれた纏向遺跡の「再現」動画を見ましたが、伝統的画餅「イリュージョン」(詐話)蒸し返しと見えます。自説の図式を押し通すに急で、背景考証なしに眩術を駆使するのに、健全な納税者/視聴者としては賛成できないのです。そんな費用があったら、高給取りの関係者に引退いただいて、其の分、地道な時代考証に努めてほしいものです。

*運河曳き船の戯画
 例えば、堂々たる運河で両岸から荷船を曳く図は、実質のない画餅です。海岸からここまでの長い道中、船体もろとも、大量の船荷をどうやって運び上げたのか、どのように船荷を捌いたのか、帰り船には何を積んだのか、実質を語る丁寧な考察の裏付けが無ければ、結局、児戯、画餅です。多額の国費を費やして、虚構を捏造して、誰に何を訴えないのでしょうか。大して国家財政に貢献できていない少額納税者ですが、この有り様を見ると、勿体ない出費と歎くのです。

 丁寧に言うと、河内湾岸から纏向まで、描かれたような荷船を乗り入れる術は、一切なかったと思われます。特に、大和川の蛇行した急流を、どんな手立てで漕ぎ上がったのか、実質のある動画で拝見したいものです。河内湾岸に、どこから、どんな手段で、大量の船荷が届いたのかも不審です。当時、瀬戸内海航路は、至る所難所だらけで、大型の帆船で往来するなど到底できなかったと見るものです。

 最後に、どうにも説明のつかない難点で止めを刺すと、奈良盆地内の傾斜地に堂々たる「運河」を引いて、降水量の乏しい地で、荷船をたたえるだけの水流を確保しつつ、特に何のしかけもなく川船が上下するのも、極めて高度な土木技術の産物と見えるのですが、何も表現されていなくて、これらの詰めがされていないままに、ポンチ「絵」を公開するのは、見当違いの技術投資でしょう。
 念のため言うと、「運河」は、高低差のない地点を、僅かな傾斜を維持した水路で結ぶものであり、高低差のある地点間を結ぶものではないのです。また、灌漑用水路とするなら、分水の仕掛けが必要ですが、それは、運河用水の保水目的に反するのです。そんな、高度の水路設計、施工が、どうして、奈良盆地に一時的に実現したのか、不可解です。

 運河自体、別に、実験航海しなくても、無理とわかる不可能使命なので、誰も止めなかったのが不思議です。

*「都会」幻想
 言い方を少し変えると、文書行政が確立され、街道網が構築された、七,八世紀の「古代国家」ならともかく、三世紀当時、市糴、交易で物資を移動していたとすると、どんな仕掛けで海港から山中まで運ばせたのでしょうか。
 古代とは言え、「経済的」に、物流、交通の要(かなめ)で無ければ、国の市は繁栄しないのです。
 中国でも、繁栄した市(都会)は、河川、海岸沿いか、陸上交通の要路か、さらには、両者の得失を兼ね備えた土地です。
 漢書で言う「一都会」は、一つに「都」(すべて)「会」するとの趣旨ですが、山間の壺中天であった纏向は、交通の要路ではないので、「一都会 」として栄えたと聞いたことはありません。

 大量の物資が集散したのなら、大量の遺物が残っているはずであり、そもそも、そのような運河まで敷いた「一都會」を棄てて、船便の成立していない飛鳥や平城宮に、王の居所が移動するはずがないのです。
 

                                未完

新・私の本棚 番外 NHK BSP「邪馬台国サミット2021」新総集・再 2/3

[BSプレミアム]2021年1月1日 午後7:00, 【再放送】 5月30日 午後0:00,12月27日 午前9:14
 私の見立て ★★★☆☆ 諸行無常~百年河清を待つ     2021/05/24 補充 2021/12/27 2023/01/16

*「自虐論」始末記
 ここで言う自虐」論は、纏向論者が、纏向絶倫と認めない九州論者に浴びせた罵倒、自爆です。というものの、勝てない論争で不敗の戦略として通用している挑発して相手の感情を刺激し、泥仕合の罵り合いに持ち込む子供の口喧嘩戦法」に、大人は乗らないのです。
 「自爆」は、論議に窮した焦りを暴露するのです。箴言をもじると「暴言は無能な論者の最後の隠れ家」。自滅の手前と言えます。
 視聴者が、このような乱暴な決めつけに賛成すると見くびっているのでしょうか。

*文学表現の曲解
 続いて提出された、乱暴でくたびれた俗説「白髪三千里」は、無風流な浅知恵です。

 李白は、漢詩三千年の史上最高の詩人であり、気宇壮大な比喩は、現実を大きく離れ感動を誘うのです。白髪三丈などと、陳腐な戯言と次元が違うのです。それとも、評者は、李白の上を行く芸術家でしょうか。奇特です。
 普通、そのような芸術性を「誇張」と感じるのは、「感性の貧困」です。李白と現代の俗物の背比べなど、見たくもありません。

 いや、どんな俗物でも、この表現は明らかに詩的比喩であり史学的発言でない」位は。それなりに理解できるはずです。とことん場違いでしょう。古代史学の先賢が、中国文化蔑視のために、無理矢理理屈を捻り出した言い出したことで、いくら師匠直伝の伝家の宝刀でも、無批判に追従しない方が良いでしょう。先賢の恥を蒸し返すのは、恥の上塗りで引き倒しているのであり、勿体ないと見えます。

*軍人功名談の愚例
 「戦果十倍誇張」は史書表現ですが、史書では、論外の愚行としてあげられていて、参考にも何にもなりません。これは、皇帝の警鐘であって、「軍人の手柄話では騙されないぞ」と釘を刺しているのです。

 軍功はクビの数ですから、十倍誇張で十倍の褒賞が帰ってきますが、新来蛮夷に関して、道里、戸数を誇張して、何の報いがあるのでしょうか。直にばれるウソなど、悪くすると、虚言の廉で(本当に)「首が飛ぶ」のです。軍人は、多くの試練を経て将たる地位を得るから安直な誇張はしないのです。まして、魏使は戦果を求められていないから、この手の誇張はあり得ないのです。

 特に、曹丕、曹叡は、曹操の布いた厳格な軍規を継いでいて、なまくらな皇帝ではありませんから、薄汚い功名稼ぎのおおぼらは通用しないのです。あるいは、論者は、遼東公孫氏を郡高官もろとも殺戮した司馬懿に筆誅を加えているつもりかも知れませんが、司馬懿は、現地に、遼東郡の死者の「京観」を築いて軍功を公開したのですから、方向違いと言うべきでしょう。

*くたびれた「定番」の去るべき時
 この二件は、纏向説論者の好む、「定番」の古典的罵倒表現でしょうが、外界で通用するものではないので、何れかの世代で棄却すべき負の遺産でしょう。同学の先師の旧説の中で、安直な比喩(大抵は誤解)余談は、学問の世界では進歩に取り残された遺物、「レジェンド」となりかねないので更新されるべきです。

 子供に言い聞かせるようで恐縮なのですが、倭人に至る道里と倭人の戸数は、景初倭使を帯方郡に呼びつけ、洛陽に参上せよと指示する前提として、洛陽鴻臚寺が、時の皇帝曹叡に報告したものであり、正始魏使の帰国報告など無関係です。また、司馬懿は帯方郡の回収、皇帝直属配置に関与しなかったので、これまた無関係です。まして、西晋の陳寿の知るところでもありません。
 纏向関係者は、文献解釈、魏志文献読解に、とことん疎いので、改竄し放題なのでしょうが、NHK関係者が気づかないでいるために、事ごとに「定番」として蒸し返しされるのは、何とも情けないところです。

 と言うことで、当番組では、新証拠が展開されると期待したのですが、使い古した年代物の詭弁連発でした。今回の纏向論は、先進の気概の乏しい人材編成で随分損をした感じです。こうした前世紀定番の蒸し直ししか出せないのであれば、番組の時間浪費と思うのです。NHKが「とどめ」を刺してあげるのが、武士の情けというものでしょう。
 早急に「纏向邪馬台国」の存亡をかけて、世に問うべき「新説」を創出すべきではないでしょうか。それが、「纏向邪馬台国」の晩節を飾るものと思います。定番抗弁が「絶滅危惧種」に名を連ねないうちに、潔くすべきです。

 因みに、当ブログ筆者は、倭人伝が正確無比な記録文書だと言っているのではないのです。むしろ、入念極まる推敲を重ねた高度な「創作」文書であると信じています。

 この点は、登場した渡邉氏の表現が正鵠を得ています。陳寿は、読者たる西晋皇帝などの当代知識人に理解できる用語、表現を凝らして「倭人」伝を書き上げたのであり、そのために現代人には理解できない婉曲な表現になっても、それは「倭人伝」の本質なので、現代人が文句を言っても仕方ないのです。陳寿の綴った「設問」の真意を理解できない「落第者」が、門前山を成しているようですが、このように簡単に「降参」して、二千年を経た「問題集」を「落第者」流に書き換えるのは、視聴者に醜態をさらしていることになるのです。
 何とか、「思い込み」を棄て虚心で「倭人伝」世界に入門してほしいものです。

*闇談合露呈
 まして、収録終了後「オフレコで言いたい放題言い合おう」などとは、闇談合で抱き込もうとの、さもしい根性でもないのでしょうが、歴史を夜作る」のは、良い加減にしてもらいたいものです。視聴者が見ているのです。

 それにしても、「爆問」が最後に小声で漏らした総括は「史料の原文に戻って、最初から丁寧に考えなおした方が良い」という趣旨のようで、冷静で控え目でした。それが、入門を目指す「倭人伝素人」の採るべき(唯一の)道なのです。

 纏向論者は、抜群の知性と豊富な学識を正しい方向に駆使して、陳寿が「倭人伝」で描いた「倭人」世界像の理解に勉めるのが本務であり、視聴者、納税者に対する義務のように思うのです。

                              未完

新・私の本棚 番外 NHK BSP「邪馬台国サミット2021」新総集・再 3/3

[BSプレミアム]2021年1月1日 午後7:00, 【再放送】 5月30日 午後0:00,12月27日 午前9:14
 私の見立て ★★★☆☆ 諸行無常~百年河清を待つ        2021/05/24 補充 2021/12/27

*殿、ご乱心~出所不明史料の怪、また怪
 今回の番組で、何とも重症なのは、三国志学首魁渡邊義浩氏の「暴挙とも見える」「ご教授」です。折角、新説の疎漏を指摘する至言があったのに、このたびは、愚劣な発言になっています。勿体ないことです。

 正史の一章であり、文書史料として、この上なく良質に維持されている「倭人伝」の史料考証で、正史どころか、史書でもない、佚文と云うより、文書としての質が劣悪な断簡しかない後代の文芸書である「翰苑」を持ち出すのは、度しがたい場違いです。
 そして、この場では、論義されている「会稽東治東」ならぬ「会稽東冶東」の史料影印が、出所不明で投げ出されたのです。

 紹興本、紹熙本、汲古閣本、武英殿本、さらには、書陵部所蔵本まで確認しても「会稽東冶」と書いた魏志刊本は存在しないのです。それぞれ、刊本、つまり、それぞれ木版印刷本(刊本)ですから、個体差はなく、全て「東治」です。氏の提示史料は、どこで見つけたのか、その場では不明です。(不意打ち、闇討ちという事です)

 もっとも、このような異論の持ち出しは、「爆笑問題」ならぬ、古田武彦氏ばりの渡邊義浩氏「爆弾発言」で、これはまことに勿体ないことです。氏は、太鼓持ち気質なのでしょうか。

*「中華書局本」の闇討ち
 散々調べた後で、『諸刊本で「東治」と一致して明示されている「東治」が「中華書局本」で、なぜか「東冶」と「改竄」された』らしいとわかったのです。しかし、現代新作の異本ですから、それ以前は誰も知らないのです。

 また、部分拡大されると、何のことかわからないのです。たかが一史料にその通り書かれていると、このような低次元の提示を頂かなくても、氏がそのように主張すれば十分なのです。

 ともあれ、素人論者は、番組の流れで、不意打ちで表示されたら、史料出所に気づかないので、新発見かと思うのです。それにしても、史料の選択、表示に関する渡邉氏の判断は、どうなっているのでしょうか。
 NHKの制作方針も、一段と不審です。出演者の発言は、「ファクトチェック」無しで、言いたい放題にさせるのでしょうか。まるで、闇仕合です。

*「翰苑」史料批判の齟齬
 私見では、当時存在の「魏志」写本に会稽「東治」と明記されたものを、「翰苑」編者が単に「会稽」としたのは、世上、「東冶」に誤解する読者があって、無用な誤解を排除するため「東治」を削除したとも見えます。
 いや、単に、「翰苑」編者の手元に、誤写された所引が届いた可能性が濃厚です。そもそも、「翰苑」現存写本が、どの程度、「翰苑」原本を再現しているのかも、不明です。何しろ古代史学界で蔓延している「戯言」に追従すると、『「翰苑」原本は現存せず、「翰苑」原本を見た人間も、現存していない』のです。そして、「翰苑」現存断簡は、誤写、誤記、書き間違いが多発している「札付きのダメ資料」なのです。 

 「東治之山」の由来と見える「水経注」などの記事でも、禹后が会稽した山である会稽「東治之山」が、しばしば「東冶之山」と誤記されている史料があるから、古来、誤解の的です。

 ということで、「翰苑」は「東冶」「東治」のいずれかを正当化する史料ではありません。氏は、現代史料である「中華書局本」を持ち出して南宋刊本に反する「東冶」を正当化したのですが、本件は、一級史料と確立されている「倭人伝」を、不良資料で覆すという論外の暴挙であり、氏ほどの史学者としては、とびきりの愚行と思われます。

 氏は、陳寿「三国志」と袁宏「後漢紀」以外の史書は、本気で読み込んでいないのでしょうか。

*ついでの話
 別件ですが、氏の「黥面文身」解釈は、軽薄で的外れと見えます。「黥面」「文身」は、それぞれ、切り分けて慎重に考証する必要があります。図版の無い倭人伝の解釈に対して、出所不明の図版や年代、地域で繋がらない遺物を起用するのは不審です。
 当ブログ筆者は、一次資料に基づく仮説は、それなりに尊重しますが、出所、根拠不明の風説資料に基づく思い付きには、疑問を呈するものです。
 氏が堂々とぶち上げる論議が、不審を感じさせます。例えば、三世紀当時、倭で広く行われた黥面が、日本史で蔑視されているのは、どういうことでしょうか。因みに、中国で、顔面に黥するのは、罪人の徴とされていたのです。

 何れかの時点で、制度が変わったのなら、旧制の貴人が罪人となるので、歴史的画期的大事件ですが、そのような記録は残っているのでしょうか。まことに、不審です。

 また、倭人伝記事にある黥面文身の「水人」は、纏向では存在し得ないと思います。内陸の奈良盆地で、大量の魚鰻をどうやって捕らえたのか。いや、別に、氏が畿内説と決め付けてはありませんが、それほど力を入れるのであれば、説明が必要と思うのです。

 それとも、氏は、中国史書専任で、国内史書には一切言及しないと談合していたのでしょうか。うさん臭い話です。

 と言うことで、氏の問題発言としては、「史官嫌い」の次は、「お手盛り史料」ですが、世人が、渡邉氏に求めているのは、「香具師」紛いのはったりではないのです。視聴者は、氏ほどの学識・知識は持っていませんが、素人を侮るのは感心しないのです。

〇お仕舞い
 今回の「バトル」に直接関係はしないのですが、論争に適確な審判役がいないのも、この分野に泥沼の「バトル」が持続する原因と思えるのです。

*碩学の晩節~取りこぼし補充 2023/01/16
 一番印象に残っているのは、最後に、纏向博士の石野御大(石野博信師)が「レジェンド」(博物館財貨)の立場から、静謐な託宣を垂れていたことです。
 当コメントは、氏の晩節を飾る明言と思うので、さらりと紹介すると、『「倭人伝」に書かれているという「邪馬台国」の所在について論議するのはこの辺にして、歴史を語ろうではないか』というものだと思うのです。
 纏向出土の土器も、全国各地から持参されたなどの年代物のこじつけ議論を去って、吉備から持参、あるいは、将来されたかと、穏当な推定はありがたいのです。

 それまで、「談合」とか「大乱」とか、それこそ、治にあって乱を求める議論が漂っていましたが、氏の齎した柄杓一杯の水で、全て鎮火した感じです。ただし、後進の方は、石野氏の木鐸を担うのは、自分たちだと自負して新たな火種を掻き立てていたようです。

 後継者諸兄姉も、今からでも遅くはないから、三世紀における倭国広域連合「古代国家」の白日夢を、卒業して時代相応の考察を進めるべきではないでしょうか。今からでも遅くないと思うのです。もっとも、ただの素人がここでいくら提唱しても、何の効果もないのでしょうが

*悔いのない報道
 それにしても、NHKがなぜ当番組を「サミット」と呼んだのかも不審です。素人目には、「倭人伝」に関しては、「原典派」と「改竄派」の二派しかないように見えるのです。そして、一見与党、実は野党の「改竄派」は、『「邪馬臺国」と書かれた「倭人伝」が絶無である』という負の物証が、鉄壁のように聳えているものを、変則的な文献史料考証という「超絶技巧」で迂回してみせる必要があるのです。
 これに対して、一見野党の「原典派」は、確たる史料である「倭人伝」に立脚しているから、特に「超絶技巧」は必要ないのです。
 端から勝負は決まっているのに、理屈の通らない異論を唱えて、これを覆そうとするのは、どこぞの世界の寓話のようです。

 NHKは、長年、「変則的な」「超絶技巧」に荷担していますが、それで報道機関として、公共放送として、何の悔いもないのでしょうか。勿体ないことです。
                             この項完

今日の躓き石 毎日新聞記事批判 「わが町にも歴史あり・知られざる大阪」 /588

東高野街道/79 藤井寺市、羽曳野市 古墳巡り被葬者推理 /大阪  2023/01/14      2023/01/16

 古代史の話題になると脱線する毎日新聞記者は、またも暴言である。
宮内庁が指定する雄略陵は、津堂城山と岡ミサンザイの間に位置する島泉丸山古墳(同市島泉)だが、ここはその名の通りの円墳。この当時の大王墓は巨大前方後円墳なので、見当違いだ。

Wikipediaは、「丸山古墳」に関し以下の如く述べている。
 この丸山古墳は、出土埴輪より古墳時代中期の5世紀後半頃の築造と推定される[1][2]。古市古墳群では唯一の大型円墳である点で特筆される古墳になる[1]。被葬者は明らかでないが、前述のように現在は宮内庁により第21代雄略天皇の陵に治定され、隣接する島泉平塚古墳と合わせて前方後円形に整形されている。ただし立地・墳形・規模の点では疑義も指摘されており、雄略天皇の真陵を他古墳に求める説も挙げられている。

 あくまでも「疑義」であり、治定訂正はされていない。「推定無罪」原則から「疑義」が立証されるまでは、宮内庁治定が「正しい」とみるべきである。

 同記事に付説されているように、当該墓陵は、江戸時代以来の多年/多大な学術的考査の結果、適法、かつ、学術的に妥当な内容で公式治定されている。決して、記者の告発のように、「宮内庁」が「見当違い」に治定しているのではない。
 端的に言うと、毎日新聞が掲載した当記事の「断定」表現は、誰が見ても宮内庁誹謗である。

 少なくとも、全国紙なる報道機関の担当記者は、合理的な権限無しに、かつ、学術的な摘発無しに、単なる「臆測」に基づいて、全国紙の紙上で誹謗中傷すべきではない。毎日新聞は、多年の報道活動で、読者から絶大な信頼/信用を得ていて、今回の記事も、「真実の報道」として、受け入れられるものと想定されている。在野の無名の情報源、例えば、当ブログのように、世に知られることなく埋もれるものとは、比較にも何にもならない、絶大な権威なのである。本来、報道人として、責任重大と言うべきなのである。
 要するに、当報道は、宮内庁に対する「威力業務妨害」に類するものであるが、従来、宮内庁が、従来あえて訴追しなかったために、かくの如き暴言が出回っているものと見える。いやこれは、あくまで一民間人の推測であるが、そのようななれ合い紛いの行動は、納税者に対する背信行為と見えることを申し添えておく。

 本件は、不適切な報道であり、毎日新聞社は、謝罪/訂正を行うべきである。(社告せよとまでは云わない)
 
 念のため確認するが、当ブログ記事で摘発しているのは、毎日新聞社が流布した根拠の無い風評報道(「フェイクニュース」発信、拡散。「ファクトチェック」の欠如)であり、「当該報道の客観的な当否」を云うものではない。

 因みに、宮内庁の担当部門は、内閣府の一部局である宮内庁「書陵部陵墓局」であり、常識的には、其の言動/挙動に異議があれば、まずは、当該部局に是正を働きかけるべきであり、いきなり、全国紙上で「宮内庁」を指弾するのは、非常識、乱暴、かつ「見当違い」である。
 因みに、同記者の宮内庁誹謗は、今回記事が初出例ではない。

 ついでながら、「宮内庁」は、ここに称されている「巨大前方後円墳」なる「俗称」でなく、あくまで、「墓陵」として治定している。
 同記者の報道陣としてふさわしくない無思慮な勘違いは、毎日新聞社として、早急に教育/是正すべきであろう。


                                以上

2023年1月14日 (土)

新・私の本棚 藤井 滋 『魏志』倭人伝の科学  新釈 1/3

 『東アジアの古代文化』1983年春号(特集「邪馬台国の時代」)  大和書房
 私の見立て ★★★★★ 必読・画期的 2019/03/10 補充2020/03/20 2021/12/26 2022/11/11 新釈 2023/01/13

▢新釈の弁~長文注意 2023/01/13
 本稿の「新釈」では、四十年以前の藤井滋氏の論考への絶大な賛同と些細な異論を書き留めるため、『「倭人伝」道里行程記事が、伊都国を到達地としていて、帯方郡からの文書の受領地としている』との「作業仮説」を述べています。
 つまり、「従郡至倭」と書かれているのは、『帯方郡を発し、伊都国に到る「本行程」の道里と所要日数』との提言です。(部分的には、同様の趣旨の提言もあったかと思いますが、全体の「結構」は、「新規」かと思います)

 随分、「作業仮説」が積層しているので、相当場違いではありますが、この機会に当方の論理の階梯の確認もかねて、以下、少し、字数を費やして、明解にするようにします。

 「倭人伝」道里行程記事で、到達/到着地を示す「到」は、伊都国が「本行程」の最後と示しているものであり、それ以降の「至」とされている各国記事の行程道里、所要日数は、「本行程」外なので、計上されないとの見方です。つまり、伊都国の南の至近にあると想定される女王治所までの道里は「本行程」外であり書かれていないという解釈です。(なぜ、「倭都」と言わないのかは、別儀です)

 郡道里「万二千里」は、後漢末期に、東夷を統轄していた遼東郡太守公孫氏が、班固「漢書」西域伝の西界を飾る大月氏、安息など京師から万二千里程度の「道里」に在る西戎に倣い、「倭人」を東夷では最遠の蕃夷として、「道里」ならぬ里程を設定したものと見えます。公孫氏の「史官」ならぬ書記官は、あるいは、西域諸国の記事は、「西王母」などと同様に地平の彼方の幻像であり、実「道里」を積み上げたのではなく、概念として、里数を書いたと解した/誤解した可能性があります。
 そのため、倭人まで万二千里という「公孫里程」は、実道里」と関係無いものとされていたと見えますが、早々に、そのまま洛陽の公式記録に収録されたため、綸言と等しいものとして修正できなかったと見ています。事績としては、後漢末、霊帝、献帝時代のことのようですが、笵曄「後漢書」郡国志(司馬彪「続漢書」を収載)には、献帝建安年間の帯方郡創設すら収容されていないので、経緯が不明であり、公孫氏は、なにも報告していなかったと思われます。(綸言とは、天子の言葉であり、一切訂正ができないのです)

 「倭人伝」の道里は、「本行程」に沿って 順次里数を減算しても、伊都国で見かけ上「千五百里」を余していますが、これは、千里、二千里の大まかさ(概数計算)の按分/割り当ての「帳尻」であって、概数計算では「一致」していると見なせるものです。「倭人伝」道里行程記事は、郡道里「万二千里」が、「倭人伝」限定のものであることを示すために、記事冒頭で「狗邪韓国まで七千里」と臨時に定義し、いかなる里制にも無関係であると「明記」しています。陳寿は、魏志の記事で明帝の錯誤は書けないので、正史として許される範囲で、「麗筆」を振るったのです。(史官は、必要で許容されるなら、筆を振るうのです)

 そもそも、「倭人伝」道里は、新参の東夷の王に対して発する帯方郡文書が、郡から公式発送されて以降、何日で到達するかを公式に規定するのが必須事項であり、それには、倭人の文書受領日付として、伊都国の公式受領日付が必須なのです。必然的に、倭内部の送達日数は示していないと見るものです。(そのような運用は、曹武曹操の行動原理です)

 再確認すると、明帝景初年間ないしはそれ以前に、つまり、正始魏使の発進以前に、倭人への道里と所要日数は、綸言、つまり、皇帝公式記録となっていたものと思われます。要するに、魏使の大部隊を出発させる以前に、所要日数は知られていたと見るものではないでしょうか。所要日数を確認しないままに大部隊を出発させるのは、無謀/無法であり、実務として実行不能です。(どう考えても、入念な準備が必要なのです)
 つまり、万二千里の全体里数と全所要日数は、新帝曹芳の正始元年には、公式に確認/確定されていたものであり、以降の報告は、少なくとも、当記事には反映していないと見るものです。(「歴史」は、不朽なのです)

 以上、随分なことであり、諸兄姉に於いては、折角形成してきた所説に干渉されて、さぞかしご不快と思われますが、よくよくお気を鎮めて、ゆるりと御再考いただきたいものです。(できないことでしょうが、維持できない虚構を放棄して、早めの降参をおすすめしているのです)

*「冤罪」記~余談御免
 ついでながら、世上、万二千里の総道里は、二千年後生の無教養な東夷において、『西晋代に、陳寿が、魏志「倭人伝」記事を造作した』との「誣告」が、結構根強く出回っていますが、以上のように、この件は、早々に帝国公文書に記録されていて、陳寿は、史官の本分として、「史実」、即ち、公文書記録をそのままに記録する責務を負っていたので、かかる「造作」誣告は、不当、不合理で無法です。(「史実」とは何かとの論義でなく、陳寿にとって、『伝承すべき「史実」』とは、何であったかと言うことです)

 この「誣告」は、高名な岡田英弘氏が、早合点して言い立てた武断論見えますが、威勢の良い意見に検証無し、無批判に追従する形勢があって、見たところ、古代史界の一部で、止めどない「ご乱行」蔓延となっています。
 率直なところ、そのような追従は、氏の絶大な名声を大きく穢す汚点であり、まことに勿体ないことです。 (ご当人のご意見は、訂正しようがないのですが、氏の快刀・剛腕に心酔して、理屈抜きに追従している方達に、降参をお勧めしているのです)

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〇はじめに

 藤井氏の本論は、『東アジアの古代文化』各号影印版(テキストデータ無し)で有料公開の電子版を200円でダウンロード、閲覧できます。

*隠された珠玉の道里論

 「倭人伝」に書かれた「邪馬壹国」がどこにあったか探るとき、まずは道里論と思います。
 ただし、史料に忠実に議論すると、「畿内説が成立しないのが明解」なので、「畿内派」は道里論に正面から取り組まず、決定的議論の困難な誤記、誤解の水掛け論に逃げ込んで保身し、そのため、早々に切りを付けるべき論点が、持ち越しの繰り返しで押し入れの肥やしになり、数十年空転しています。
 当方は、別に生活がかかっていないので、正直な意見を以下に述べます。
 なお、自明ながら、里数などの各種数字は、概数です。

*支持者
 「邪馬台国の会」主催者である安本美典氏は、藤井氏の論考を折に触れ引用し、「邪馬台国」九州説のなかでも、末羅から二千里程度離れた朝倉にあったとする安本氏の「朝倉」説の裏付けとしています。藤井氏の主張が決定的なので、安本氏は賢明にも強弁の上塗りはしません。

*感慨
 当方は、ここまでほぼ独力で、「倭人伝」諸数字の意義を読解こうとしてきましたが、四十年前の先人を知って、自分の見識が裏付けられてうれしいと思うと共に、これほど明確に論証しても、古代史学界でほとんど顧みられていないことに、正直慄然たる思いになったのです。「ほとんど顧みられていない」と感じるのは、当論文を引用参照した論考がほとんど見られないからです。(安本氏は例外です)

 藤井氏が挑戦的に述べているように、本論は道里論解釈で群を抜いて決定的であり、それ故に、本論で明確に否定されている畿内説の支持者が、「賢明にも」論議を避けて風化を図ったと思われます。三十六計逃げるにしかずです。学術的な議論は、論争を経て前進するのですから、議論回避は「保守」どころか、「退化」「退嬰」です。これでは、当方の議論も埋没の運命にあるようで、暗澹としてくるのです。

*議論の核心
 それはさておき、本論文の核心部分について、以下批判します。
 藤井氏は「倭人伝」の数字から、次の見解を示していると見えます。

  1. これらの数字、道里や戸数の統計値は、概して、有効数字一桁であり、現代的な算用数字の多桁表記は避けねばならない。
  2. これらの数字は、したがって、厳密なものではなく「誤差」をたっぷり含んでいるから、そのように扱わなければならない。
  3. これらの数字に付されている「餘」は、端数切り捨てでなく、「約」に相当する中心値表現である。

*応用数学実践
 以上の見解は、いずれも、工学分野、「応用数学」の概数論に即したものと思われます。当方が学んだ電気工学は、厖大な厳密計算より、端的な実務計算を重んじていて、当方は、電気工学の徒として同感するものです。

                                未完

新・私の本棚 藤井 滋 『魏志』倭人伝の科学  新釈 2/3

 『東アジアの古代文化』1983年春号(特集「邪馬台国の時代」)  大和書房
 私の見立て ★★★★★ 必読・画期的 2019/03/10 補充2020/03/20 2021/12/26 2022/11/11 新釈 2023/01/13

*数学観の時代錯誤指摘
 さて、続いて展開される「倭人伝」解釈では、「倭人伝」編纂者が知るはずもない「余談にして蛇足」、つまり、「後世や他文明の数学観」が過剰に語られ読者の誤解を誘うと見えます。勿体ないところですが、当方の理解の彼方なので論評しません。
 中国では、後々まで零や多桁計算の思想が備わらなかったため、「原始的」、「不正確」との誤解を与えています。むしろ、それより、中国古代の精緻な数学を語るべきでした。

*「倭人伝」の「余」復誦
 当方が悪戦苦闘した「余」は、藤井氏により難なく展開され、心強くもあり、落胆でもあり、複雑な心境です。一介の素人が思い至る概念が、長年の論争で先例が見つからず、安本美典氏の紹介を見るまで、特に言及がみられなかったので、これは独創/孤説かと思いかけたのです。念のため復誦すると、倭人伝」の数字の大半、ほぼ全部に付く「余」は「約」であり、「端数切り捨て」でない概数だから単純に加算できるとの「合理的」な意見です。

*全桁計算の偉業
 全桁の加算は、多桁に加え、随時繰り上げが発生し「途方もなく大巾に」手間取ります。と言っても、笵曄「後漢書」収録の司馬彪「続漢書」郡国志などで、郡の戸数、口数は一の桁まで集計されているので、厖大な統計計算は、(当然)実行可能であったと思わせます。当然、経理計算の銭勘定は「一文」まで計算しますが、それが、文明の根幹だったのです。
 因みに、中国語で「経理」は、「会計計算」でなく「経営管理」であって、一段と高度な業務であり、現代企業の役職では部長格以上の役職です。日中の用語不一致の一例です。
 多桁計算は、算木計算の広がりを思わせますが、桁ごとに算木一組が必要ですから、高度の訓練を受けた計算役を多数揃えて、しかも、長期間かかり付けにすることを要したと思われます。それが、文明の根幹だったのです。

*「はした」の省略
 氏は明言していませんが、「千里」単位の計算で、百里単位は桁違いと無視できるのです。つまり、里単位で、7000、500と計算したのではないのです。(算用数字はなかったのです)

*有効数字の起源
 氏が言う「有効数字一桁」は、当時中国文明が依存していた「算木計算」のためです。ただし、氏が、一万二千を有効数字二桁と見るのは現代人の勘違いで、当時は、あくまで、「一」「万」「二」「千」でなく「十二」「千」であり、桁上がりしても千の桁にとどまっています。
 いや、普通は、算用数字で12,000,10,000で、有効数字の意識は無いから、ずいぶん丁寧な理解で感服するのですが、あと一息です。

*「奇数」愛好説の慧眼
 更に言うと、「倭人伝」に書かれた数値は、もともと不確かな元資料による概算計算によって得られたものか、推定されたものですが、有効数字が一桁どころか、不足していると見える1,3,5,7,10,12の「飛び飛びの丸め」が見て取れます。

 因みに、魏志の他の部分の記事では、正確に得られた数値を元にしていて、必ずしも、同様の推定が成立しない可能性がありますが、圏外記事について論評しません。
 松本清張氏が、「倭人伝の数字に奇数が多い」と見てとったのは慧眼ですが、実は、有効数字0.5桁と言うべき大まかな概数処理のため偶数の出番が少なくなったためです。誰も、指摘して誤解を正して差し上げなかったのは、氏のために遺憾です。
 中国人が「奇」数を高貴な数と見たのは、氏のおっしゃるとおりでしょうが、以上のように、「倭人伝」の概数が奇数に集まっているのは、そのためだけではないのです。担当者が、縁起担ぎで結果を書き換えたというのは、理不尽な冤罪です。

*「奇」の変貌
 確かに、「奇」は、本来、「奇蹟」などに残っているように、「極めて尊い」形容だったのですが、今や、「奇妙」もろとも、誤用の泥沼に沈んでいるのです。
 戦国末期、尾張の英傑織田信長は、嫡子(後の)信忠に「奇妙丸」と命名しましたが、これは、恐らく禅僧を通じ古典に通じた父親が、我が子に「至上の命名」を行ったのです。但し、同時代人にすら、そのように深い真意は理解されず、まして、現代に至る後世人には、まるでその主旨が理解されていないのです。誠に、現代語感で「奇妙」で「残念」な現象です。

*三国志「蜀志」の「奇才」は、絶賛
 半分余談ですが、三国志「蜀志」諸葛亮伝には、裴注も含めて、諸葛亮に対して(褒め言葉)「奇」が多用されていますが、中でも、諸葛亮が没し蜀軍が五丈原から撤兵した後、宣王司馬懿が蜀軍の陣跡を見て、「天下奇才也!」と驚嘆したのは、陳寿自身の用語ですから、当然、絶賛と見るべきなのです。
 と言うことで、陳寿は、中国世界の周辺に「四海」を置いたように、三国志編纂に於いて、純正古典用語を多用していたのです。いや、当然のことでした。

*「奇手妙手」今昔~余談
 余談ですが、当方のなじみ深い将棋の世界では、江戸時代以来、詰将棋集とともに序盤定跡を教える書籍が多数出版され、中には「奇手」を謳うものがありました。ところが、現代になって『「奇手」は、「珍妙」であるから画期的「新手」は「鬼手」と言うべきだ』と言い出した人があって、今日、「奇手妙手」は廃れて「鬼手名手」が支配しています。
 古典回帰して「奇手妙手」が、正しい意味で復活する日は来ないのでしょうか。因みに「妙」も、同様に大変な「褒め言葉」です。一方、「鬼」は、古典では、史料にまつわる不吉な言葉なので、中国語の正しい意味からすると、勿体ない誤用となっています。

                               未完

新・私の本棚 藤井 滋 『魏志』倭人伝の科学  新釈 3/3

 『東アジアの古代文化』1983年春号(特集「邪馬台国の時代」)  大和書房
 私の見立て ★★★★★ 必読・画期的 2019/03/10 補充 2020/03/20 2021/12/26 2022/11/11 新釈 2023/01/13

*「倭人伝」里数観の提示
 氏は、里数論だけで邪馬台国所在を突き止める観点で、帯方郡治から倭王治までを、郡~末羅と末羅~倭都に二分した前者が一万里、全体が一万二千里と明快で、倭王治は郡~狗邪韓を七千里とする「里」(七十五㍍)で末羅中心の二千里(百五十㌔㍍)半径の円周上(領域内部)と図示しています。
 つまり、「従郡至倭」の目的地である倭王治は、帯方郡治から(概して)東南方向で、円弧上に、なんとか限定できます。
 いずれにしろ、倭王治の所在を、九州島北部、北九州の「ある範囲」に絞り込む、まことに堅実な論理ですが、それを認めると立つ瀬のない「畿内派」は、藤井氏の提言を黙殺したのでしょう。

*精密地図の弊害~私見
 本記事に対して不満を言うと、概数観に相応しくない精密な現代地図と精密な線図は、読者に「理解」ならぬ「誤解」を与えていると危惧する次第です。苦言御免です。
 うるさく言うと、二千年前の地形を誰が保証しているのかという疑問もわきます。例えば、地図データで、二千年前の地形の正確さを保証している例は無いはずです。併せて、ご自愛頂きたいものです。
 と言うことで、藤井氏の展開した以下の道里論には、同意できません。

*概数計算の復習~私見 改稿 2023/01/14
 以上の里数は、すべて、現代人の想定外の許容範囲を持ちます。(「誤差」というと、余計な誤解を招くので避けます)
 全行程を万一千里~万三千里、郡~末羅を八千里~万一千里と見ると、末羅~倭都は両区間の差分になるので、許容範囲は、二千里「程度」と見えますが、概数計算すると「程度」の範囲が、むしろ広がるのです。つまり、この区間は、万里規模の概数里数の帳尻にあたり、短い里数に、全体の「程度」がのしかかってくるので、計算上、零千里~五千里の範囲と見え、現代人が慣れている概数に比べて、一段と大きなばらつきが想定されます。

 また、この区間が二千里(程度)とすると、末羅~伊都間の里数五百里は無視できず、伊都~王治所間を直行と見ると、世上言われるように倭人伝」記事だけで特定することは、「大変困難」、つまり、事実上不可能になります。

 このような現象が発生するのは、区間里数を加算して万二千里を得たという前提が正しくないことを思わせます。まず、万二千里の全体里数が存在して、それを、部分里数に、いわば「按分」、つまり、配分したものでしょう。大分すると、末羅~王治所間は、二千里で、許容範囲は、全体里数と同様ですから、倭人伝に書かれていない帳尻合わせは不要です。

 何しろ、陳寿が、正解の読み取れない、あるいは、「間違った」計算を書いたとなると、皇帝に上程した原稿は、審査官によって却下されて、厳重に書き直しを命じられるわけですから、現行刊本は、そのような厳格な査読に合格した明快な内容と見るべきなのです。

*道里、戸数の由来~私見
 いや、兎角議論の対象である全体里数「万二千里」は、恐らく、「倭人」を紹介する最初の機会に提出されたものであり、遅くとも、後に、全体戸数、国数などと共に、景初二年の洛陽行の際に、鴻廬に提出して東夷諸国「台帳」に記載されたのです。誰かが、勝手に根拠も無く創作したものではなく、また、別の誰かが正しい里数を「誇張」したものでもないのです。

 帯方郡は、一級郡たる遼東郡太守公孫氏の配下の二級郡から、皇帝傘下の一級郡に昇格したばかりでした。ということで、着任したばかりの新任郡太守が、公孫氏時代の資料を整理して、東夷管理体制を復活、構築しつつあった「帯方郡」としては、皇帝の督促を受けた以上、急遽召集した倭使を従えた上洛の持参資料の里数が、現実離れしていても、仕方ないところだったのでしょう。何しろ、本当に万二千里先と思って急使で督促したら、片道四十日程度で、さっさと参上したので、さすがに、万二千里は実道里でなく、形式的な形容とわかったでしょうが、既に、倭人の素性は皇帝に提出され、御覧を得たからには、最早訂正できなかったのです。また、陳寿の職業倫理から、公文書に書かれている倭人伝の公式道里や公式戸数を、勝手に改竄することはあり得なかったのです。

*郡文書送達考~一説提示 2023/01/14
 藤井氏は、ここでそのような曲がりくねった推理を展開しているわけでは無いので、ここは、余談/私見と理解いただきたいものです。
 郡治から倭王までの道里、日数の由来を推量するものです。

 「倭人伝」で求められているのは、郡太守が発した文書が、何日で「倭人」、具体的には、倭王の手元に届くか、という所要日数ですが、それは、倭王の手元に届く日数ではないと思えるのです。
 郡の発送日は、郡の文書担当が発送し、公文書に日付を記録するものであり、倭側の到達日は、倭王の文書担当が、受領確認日付を回答した日と見えるのです。

 「倭人伝」には、伊都国記事で、郡から届いた文書を確認する旨書かれているので、郡から伊都国(文書担当)までの道里と所要日数が、帯方郡に報告されていたと見るものです。伊都国から女王治所までの道里も所要日数も書かれていないのは、そのような背景によるものと見れば、筋が通ります。

 帯方郡と倭の間の取り決めとして、倭王が手元で文書を確認した時点を受領日とすると制度化していたのなら、伊都国から女王治所までの道里と所要日数が書かれていないのは、重大な不備になるのですが、倭人伝は、そのような不備を皇帝に報告しているのでは無いのです。
 法と秩序は、守るために制定されていたりであり、それ故に、遵守されていたとみるべきです。

*伊都国東夷都督説~異説救済策 2023/01/14
 因みに、以上の理屈で行くと、女王治所が、はるか東方にあって、延々と内部送達日数がかかるとしても、道里と所要日数に計上されないので、一応、辻褄が合うことになります。と言うものの、帯方郡の文書が、伊都国での受領から数ヵ月後に女王の手元に届くことは、帯方郡が認めることは考えにくいので、伊都国王は、一種全権代理として、帯方郡との交信を一任されていたことになります。あるいは、倭女王自体が、東方の本国の任じた西域都督というものかも知れません。まさしく、Die hard,Die harder,Die hardestです。

 いや、そのような制度は、前例のないものではありませんが、公式記録にとどめなかった理屈は見えません。

*論争の深い闇
 我に返って余談から回帰すると、氏の諸提起に反論があって、却下、撤回、克服などで消えていったのなら、論議済みになるのですが、いまだに、惰性で、例えば、「余」を解している例が少なくないので、がっかりしているのです。

 よく、邪馬台国「論争」は、百年を優に越えているといいますが、この件を見ても、「論争」などは存在せず、単なる水掛け論に終始している感があるのです。そして、論争の正道が地に落ちて、却って邪道が白日の下まかり通っていては、何年たっても、正解は出てこないのです。

〇まとめ
 氏は、結語で当時季刊「邪馬台国」誌連載 張明澄氏「一中国人の見た邪馬台国論争」を引用し、倭人伝」解釈は中国人まかせが一番と、ここでは、とてつもなく軽率です。
 「倭人伝」の漢文は、当代十五億の簡体字文化「中国人」の古典書無知の億万の民の理解を超える古文文法、語彙知識に加え、ある程度の、つまり厖大な古典教養が求められます。引き合いに出されていますが、張氏の延々たる連載記事迷走を見ると、張氏の欠格は自明です。
 藤井氏は、恐らく張氏記事を読み込んだわけではなく、従って、張氏連載の大半を占める度しがたい迷走が、まるで見て取れなかったようです。藤井氏の世評が泥にまみれるような、嘆かわしい発言です。
 いや、張氏の鉄砲は、時に的を射ているのですが、余りに、的外れが連続しているので、当連載記事を温存していた同誌編集部の的外れに呆れるのです。もっとも、同時代に読んでいなくて、古書で購入しているだけですが、頼りにしていたのは、榎一雄師の連載であり、こちらは、単行本に集約されているので、ほとんど、ゴミ箱の縁ですが、特集記事などが棄てがたいので、崖っぷちで踏みとどまっているわけです。
 あるいは、藤井氏は、「語学」とは、紙上の空論に過ぎないと見ているのではないでしょうが、「語学」は、全て、教養、教養、教養です。

 もちろん、「語学」の視点で「倭人伝」が解釈できないのに、すらすら理解している、あるいは、本気になれば、理解できるなどと、錯覚して論じている見当違いの論者は、はなっから論外で、これには、つけるクスリがないことは言うまでもありません。藤井氏が、そうした俗論の道連れになっていなければ幸いです。

*実論追求
 聞くべき議論は、空論でなく、実論、現実に密着した議論ができる人材を求めているのであり、その点には大いに同意しますが、古代史に関し教養、つまり、見識のある人物に限られます。軽薄な後代、異国概念の持ち込みは、とてつもなく迷惑です。
 藤井氏の本論のように、鋭い着眼と着実な論理展開で、問題点を核心に絞り込んだ議論が、正しい評価を受けていないのは、「倭人伝」論の深い闇、泥沼を思わされるのです。

 季刊「邪馬台国」誌編集著であった安本美典氏は、機会ある毎に本論を紹介していて、当ブログ記事は、氏の講義録、著書から原典を探り当てた記事ですが、安本氏の冷静な指摘にもかかわらず、両氏の慧眼は世上の関心は呼んでないようなので、敢えて、ここに注意を喚起しているものです。

                               以上

2023年1月13日 (金)

私の本棚 9 追補 鳥越 憲三郎 「中国正史 倭人・倭国伝全釈」1/2

 中央公論新社  2004年6月
私の見立て ★★★☆☆ 労作 必読 批判部分 ★☆☆☆☆ 2023/01/13

◯追補の由来
 最近、さるブログ記事の「倭人伝」現代語訳の偉業を目にしたが、足どりの乱れが「先人の偉業」をたどっている事に起因していると見えたので、原文参照に従って鳥越憲三郎氏の名著に到達した。

*鳥越氏「魏志倭人伝」解釈の弱点
 要するに、当該ブログ記事筆者は、鳥越氏の倭人伝解釈に忠実に追従しているが、同氏は、言外に自認されているように、専門外の中国史料の見識が乏しく、一方、明言されているように専門としている国内史料と東南アジア諸国調査成果に依存しているからこそ、先行諸兄姉と同様に「誤謬」の可能性があり、当該分野に精通した先賢諸兄姉の意見を仰ぐ趣旨であると本書の「深意」を理解すべきである。

 この点は、冒頭の鳥越氏「倭人」観表明に公明正大に明示されて、氏の「倭人伝」観の根幹であるので論義の対象外であるが、氏の「誤謬」の由来を明示している。
 いずれにしろ、氏の論考に対する無検証の追従は、氏の本意でなく不適当である。つまり、ここでは、同氏の論法を非難しているのでない。誰にも弱点はあるから、支持か否かを問わず、新たな所論提示に対する適格な評価は、追試、検証が不可欠である。

*追従記事の批判
 言うならば、『先賢諸兄姉の誤謬をなで切りにする鳥越氏の「誤謬」』を拡散したのは、当該ブログ記事筆者の不徳の致すところであり、鳥越氏を非難するものでは「一切」ない。
 ここでは、氏の「倭人伝」初心者「誤謬」を批判しているだけである。

*原文批判
 と言うことで、氏の著書に忠実に追従したブログ記事に、逐条批判を行うが、個人批判ではないので、ブログの特定は避ける。
 願わくば、追従者諸兄姉が、趣旨ご理解の上、御再考いただきたいというものである。

 対象は、原文の「卑弥呼以死…告諭壹與」の段落である。
・冢(つか) 墓
コメント
*誤解。文字どおり解すれば、倭人伝に書かれている「封土」、つまり、大地に穴を掘って棺を納めて埋葬した後、地を覆って盛り土している」のである。念のため、子供に言うような念押しをすると、「大作冢」とは、「大勢が寄って盛り土した」との意であり、「大冢」(大塚)を作ったと言う意味では「全く」ない。
 いずれにしろ、「盛り土」は、取り立てて言うほど高くもなければ、石積みしていないので堅固でもない。冢の「高さ」(丈度)を書いていない以上、言うに足りる「高さ」はなかったのである。誠に明快では無いだろうか。

・徇葬(じゅんそう)者 王の死にしたがって死んで葬られる者。
コメント
*誤解。まずは、意味不明である。多分、「強制的に後を追わされるが、生き埋めにはしなかった」という意味だろうか。
 いずれにしろ、「殉死」は、ほぼ強制殺戮だから、氏の解釈は、「倭人」の葬礼を野蛮の極みと弾劾しているのに等しいことになり、それは、魏志巻末としての「倭人伝」の位置付けに於いて、甚だしく異様である。
 つまり、陳寿が、そのような記事をここに置いて、魏志全巻を台無しにすることはあり得ない。少なくとも、「倭人伝」を貫く「礼」に篤い蛮夷との趣旨に反している。そうとしたら、余りに稚拙な破綻であり、少なからぬ知識人の目を逃れて、皇帝に上申されるものとは思えない。

 そもそも、そのような「思い込み」を排除し、原文、つまり「倭人伝」に書かれている文字を、『初級者にふさわしい謙虚な態度で、字義に忠実に、「素直に」、「普通に」、「するりと」解釈する』と、「徇」とは葬儀に「従う」、つまり、葬礼に参列した者の意と解すべきと思われる。それなら、徇葬者が何百人いようと異議を言う筋合いはない。故人の遺徳を讃える趣旨だから、たとえ、「倭人伝」の原史料が、徇葬者 「十人」を「百人」と言い整えていたとしても、それが「史実」であり、史伝の正道である。

 またもや、子供に説教するような書きぶりになってしまったが、「徇」は「殉」と異なる文字であるから、何としても、同じ意味ではないのは、「初歩的」(elementally)な事項である。

 当たり前のことを殊更言い立てるのは、誠に恐縮であるが、古代史書は、古典に精通した史官が、原史料を元に、門下生、同僚、先輩の批判を仰いで推敲しているから、稚拙な誤記はないと見るべきである。

                                未完

私の本棚 9 追補 鳥越 憲三郎 「中国正史 倭人・倭国伝全釈」2/2

 中央公論新社  2004年6月
私の見立て ★★★☆☆ 労作 必読 批判部分 ★☆☆☆☆ 2023/01/13

・奴婢 男のしもべと女のしもべ。秦漢以降、貧民の子を売買する奴隷市場が解放された。
コメント
*誤解。「奴」も「婢」も、単に雇用されている者の意味である。
 「倭人伝」に「奴国」があるが、別に、『奴隷』の国ではない。
 「秦漢以降…」が、どの時代か不明である。

  • 中国文明では、非自由民の『奴隷』身分は、後世に至るまで、身分制度の下層に長く存在した。ただし、級外なので、明示されていないように見える。
  • 『奴隷』市場の『解放』は、時の皇帝が「公認」したとの意かと見える。意味不明瞭である。後漢光武帝の布令などに基づく意見であろうか。文書の深意が特定できない断片的史料から、数世紀に亘る古代世相の全てを「するり」と達観するのは無謀である。
  • 中国には、太古以来、『奴隷』市場が存在したが、それは、市場(いちば)の常に従い、『奴隷』の処遇/相場を公知とし、平準化するために存在したのである。
  • 洋の東西を問わず、資産を持たない『貧民』を放置せず『奴隷』として雇い入れて寝食と「お仕着せ」を与えたのは、『貧民』救済であって強制労働ではない。『貧民』は、耕作地を割り当てられていない者という事だろうが、要するに、『下戸』の下で、『戸』がなくなった状態であるから、『奴隷』で上等なのである。
  • 西の「ローマ」では、『貧民』、つまり、無産階級で市民資格を有さない者の子弟の『奴隷』に市民子息と同列の教育の機会を与えて、護衛と学友をかねた守り役とし、無事成人の暁には登用したと見える。逆に、「ローマ」では、無産階級の者は兵役を免れていたのである。一方、中国では『貧民』は、軍務に逃れるのである。
  • 中国では、家庭内『奴隷』に対して、遵守すべき「任務」を明示して「契約」したと見えている。単なる強制労働ではないし「人身売買」でもない。「年季奉公」に近いかも知れない。
  • 「倭人伝」に「以婢千人自侍」とあるが、「國邑」の「戸数」が千戸代と見える城郭内に、強制労働身分と見える『奴隷』が、これほど多く存在していては、地域社会は、不平分子の反抗や勤労意欲の低下で破綻するか、停滞するか、いずれかで、誠に不合理である。
  • 因みに、中国史書で見かける「官奴」は、いわば級外公務員であり、自由に離脱できないが、老齢になっても「終身雇用」したとされている。
  • こうした事情は、中国古代史の常識である。
  • 鳥越氏は、『奴隷』をはじめ、もっともらしい現代語を古代史論に起用されるのを好まれるようだが、古代以来の中国史料で『奴隷』なる二字熟語は、まず見当たらない。
    ここまでの論義では、明快/手短で納得してもらえる反論ができなかったので、鳥越氏の言い立てる意味に合わせたが、率直なところ、古代史論議で用語が時代錯誤では、意思疎通できない「意味不明」状態になる可能性がある。そもそも、現代語で思考していて、古代史史料が適格に解釈できるとは思えない。不思議な、神がかりの読解力である。
  • もちろん、このような時代錯誤/思い違いは、国内史料を起点としている論者に相当多く、鳥越氏個人の「誤謬」ではないのだが、仕方ないので、ここで荒立てているのである。わかる人にしかわからないので、小声で呟いているのである。
  • 因みに、『奴隷』を振り回しての諸兄姉の主張は、大抵の場合、時代錯誤用語乱用の場合が多いので、趣旨を理解するためには、古代史用語への多重飜訳が必要になる。

・誅殺(ちゅうさつ) 罪をせめて殺す
コメント
*意味不明。説明不足だが、「罪」は、君主に背く大逆であり、「責める」のは、君主の行いである。

・宗女 同族の女。主に本家筋の女
コメント
*意味不明 まずは、「(君)主に本家」の意味が不明。卑弥呼は、王家の本家ではないとの主張か。「筋」の通らない戯文と見える。

・檄(げき) ふれ。さとしぶみ
コメント
*説明不足だが、君主が臣下に下すものである。

・告諭(こくゆ) つげさとす。
コメント
*説明不足だが、君主が臣下に下すものである。

◯まとめ
 此の後に、鳥越氏の段落解題が書かれていて、基礎となる(中国古代史)史料解釈が、知識不足のために乱調となっていると見えるが、当ブログの別項で批判している内容に重複するので、ここでは触れない。率直なところ、異郷の異邦人に関する知識/先入観/思い込みで「倭人伝」の解釈を強行するのが、どうにも無理であることが露呈していると見えるが、本稿の圏外に近いので、深入りしない。

 何にしろ、「倭人伝」の深意を解釈するのに不可欠な「常識」に欠けていると見える鳥越氏の提言「だけ」に「倭人伝」観の形成を依存することは誠に危うい。それは、同時代の現地情勢を把握できていない事を痛感している鳥越氏の本意ではないだろう。

 最後に念押しすると、以上の批判は、別人のブログに引用されている「抜粋」に対するもので、文書資料原文の全体(著書一冊)を熟読すれば、合理的な解釈が可能かも知れないが、文脈から切り離された引用による誤解は、どちらに責任があるかと言えば、引用者の反則行為であり、鳥越氏の知的財産権の侵害と見えるが、世上、浸透していない概念と見えるので、当記事読者に無理強いはしない。

                                 完

2023年1月12日 (木)

新・私の本棚 丸地 三郎 「魏志倭人伝の検証に基づく邪馬台国の位置比定」 再掲 1/2

 魏の使節は帆船で博多湾に 2012年6月         2020/06/03 再掲 2023/01/12
私の見立て ★★★☆☆ 玉座の細石(さざれいし)

〇はじめに
 当記事は、氏の個人サイト「日本人と日本語 邪馬台国」掲示のPDF文書であり、筆者の自信作のようなので、丁寧に読ましていただきました。正直、つまらない誤字、誤記があって評判を落とすのです。氏の台所事情もあるでしょうが、十年近く放置されているのは残念と思われます。

〇記事の旗印 匹夫の暴論にあらず
 氏の「倭人伝」論議の基本方針は、陳寿「三国志」魏志第三十巻に収録された「倭人伝」を基点として、考察を進めている点です。

*古代「浪漫」派の台頭と蚕食
 「倭人伝」論で。大変しばしば見かけますが、三世紀中国史料に対する門外漢が、「日本」古代史論を手に「倭人伝」論に侵入し、「史料批判」と称して古代「浪漫」を保全するための雑多な(泥沼)改竄の押しつけがあり、むしろ、俗耳には、学界世論の多数を占めて見えます。

 国内史料は、原本どころか権威ある公的古写本も見当たらず、「貴重な」現存写本を踏み台の「推論」が出回る「史料観」が「倭人伝」に波及するのに暗澹たる思いを禁じ得ません。まるで、異国の「トラ」さんのツイッターです。

 数を言えば、または、権威から言うと、そのような見当違いの暴論が史論を蚕食し、無批判な追従も盛んですが、氏は、そのような喧噪と無縁です。

〇苦言の弁
 ただし、それはそれ、これはこれ、氏の勘違いと思われる事項は、氏に対する敬意の表れとして、率直に指摘するものです。
⑴半島沿岸帆船航行の不合理
 氏は、なぜか、帯方郡から倭までの行程の大半を占める韓半島行程を、帆船沿岸航行と決めていて、当ブログ筆者が推進する陸上行程説に反対なのです。これは、二重、三重に不合理です。
 つまり、郡の官道が海上経路であった」とする不合理と、「沿岸を帆船航行できた」とする無謀な仮定が重畳して、混乱を招いています。

 氏は、文献に依拠して、三世紀黄海東部に帆船が出回っていて、帯方郡はそのような帆船を未知未踏の倭国航路に仕立てたと見ています。
 大胆不敵で、当分野で氾濫する暴論の類いですが、どんな船舶も未知の海域は、現代でも、水先案内人が不可欠です。

 隋唐代使節は、月日を費やして浮海し航路開拓したと報告したから、三世紀には未踏海域との証左です。

 氏は、帆船の未踏海域進出例として、バスコ・ダ・ガマをあげているが、重大極まる偏見史観です。ガマは、「インド/アラビア商船が、千年以上に亘り運用していたインド洋航路と港湾を侵略奪取した」掠奪船団の先駆けてあり、氏の史論の枕にふさわしい/似つかわしい先例と言えないのです。

*沿岸魔境
 半島西南部は、岩礁、浅瀬の多い多島海であることから、操舵の不自由な大型の帆船は入り込めませんでした。地元海人の水先案内と、それこそ、船腹に体当たりして進路を誘導する「タグボート」先駆の漕ぎ船でなければ/あっても難船必至だったから、事情通の青州船人は、帆船で南下する無茶はしなかったのです。つまり、現地の小振りの漕ぎ船なら、すり抜けられても、「大型の帆船 」は、船底や原則か破損したものと思われるのです。つまり、沈没しないまでも、浸水して航行不能になったものと、容易に推定できます。

*確かな船足
 「倭人伝」の對海国/一支国条で、「乗船南北市糴」と書かれているように、それぞれの港から南北の隣り合った海港まで運航する便船に荷を積んだのですが、明らかに手漕ぎ船です。また、区間一船でなく、多数往来のはずです。当時、代替手段がないので活発でした。

*両島の繁栄~人身売買妄想
 両島は、農産物不足を南北運送の船賃や関税で補い、相当潤っていたはずです。特に、對海國は、狗邪韓国で、市(いち)を立てて多大な利益を得ていたので、對海館なる倉庫管理部門を置いていたはずです。

 因みに、そのような考証を怠り、 島民が人身売買で食糧を得た」なる醜悪な妄想を、公開の場で述べる「大愚者」がいますが、万が一、人を売って食を得る事を前提とすると、早晩、両島は年寄りばかりの廃墟となるのは子供でもわかります。そして、両島が荒廃すれば行船は寄港地を失い、交易は途絶します。そのような事態にならないように、「倭人」の市糴は運用されていたと見るべきです。
 そうした子供でも不合理と見抜ける成り行きを想定するとは、両島関係者は、随分見くびられたものです。古代史の俗説でも、極めつきの妄説ですが、恥知らずにも、現地講演でぶちまける人がいたのです。
 古代人を侮るのは、ご自身を侮っていることになります。ご自愛ください。

 いや、これは、氏に関係ない巷の風評ですが、念のため、付記しているものです。

                               未完

新・私の本棚 丸地 三郎 「魏志倭人伝の検証に基づく邪馬台国の位置比定」 再掲 2/2

 魏の使節は帆船で博多湾に 2012年6月         2020/06/03 再掲 2023/01/12
私の見立て ★★★☆☆ 玉座の細石(さざれいし)

⑵「野性号」の成果と限界
 「野生号」ならぬ「野性号」は、もともと、船体が設計/加工のミスで、重量過大となっていて、さらに、船体吸湿で重量が増えて難航したようですが、本来、渡し舟は、それに相応しい軽量です

 日々、難なく漕ぎ渡れなければ、業として持続できないので、無用の重装はあり得ません。それぞれの区間で運行できる軽量であり、漕ぎ手人数の想定なのです。そして、全区間を、同一船体、漕ぎ手で漕ぎ続けるものでも無いのです。陸上競技分野で言えば、区間ごとに、一日単位で駅伝すれば良いのであり、漕ぎ手は、後退すれば良いのです。一方、交代できない乗客は、休養無しに連日漕行されたらたまったのものではないのです。もちろん、「マラソン」、あるいは、「スーパーマラソン」を、同一船体で、漕ぎ手無交代で、しかも、一定期間で漕ぎ抜けることは、論外なのです。
 本来、実験航海は、単に、何が何でも目的地に着けると実証すれば良いのでなく、実用に十分な荷物や乗客が運べることも、実証するものだったはずです。
 そもそも、実験航海難航の真因は、漕ぎ詰めの疲労の要素も大きいと思われるのです。それは容易に予測できることであり、なぜ、空前絶後の大航海の実証を企てたのか、意図不明と言わざるを得ないのです。
 何しろ、最大の難所区間を漕ぎ抜けて、可能性を「実証」すれば、後は、数日の休養を挟んでも良いので、全行路を完漕できるのは、実証のいらないものです。
 時代相当の配慮をすれば、渡し舟区間で別々に相応の船腹とし、適宜、漕ぎ手交代すれば、長年に亘り維持できるのです。

 いや、当時、「倭人伝」に記録されているように、盛んに南北乗船して市糴していたと言う事は、実験航海しなくても明白であり、曰わく言いがたい感想に囚われます。

 氏は、「野性号」報告が粉飾と感じたようですが、素人目には、関係者の志しを守るために「失敗」との発言を避けていますが、「実際には、このような航行は維持できない」との真意を秘めつつ報告したものと見えます。一度、丁寧に読み返して頂くと良いと思います。
 それを「為せば成る」と勝手読みして、「倭人伝」論に採り入れるのは、俗耳の聞き違いですが、誰も正さないので、報告粉飾に責任が回るのです。

⑶道里論 用語の整理
 倭人伝の里数と日数は表現を工夫が必要です。現代人、つまり、後世蛮夷の無教養なものは、里数は、「距離」、しかも、「直線距離」と決めつけて、「道里」、道の里の意義が取り違えられているから、論議がかみ合わないのです。しかし、倭人伝には、「距離」は登場しないのです。
 用語の時代錯誤は、論者にとって自滅行為です。

*「道里」の起源推定
 書かれている「道里」、二点間里数は、正史「郡国志」や「地理志」の公文書用公式数字であり、必ずしも実測と言い切れない、と言うか、大抵、実測などとしていない里数であるから、実測値復元は、端から無効です。

 まずは、全体道里「万二千里」は、公孫氏からの両郡回復早々に疾駆参内を命じた未見未知の「倭人」の王居処への道里を、新任郡太守が実際の道里と関係無い、途方もなく遠い「万二千里」と洛陽鴻廬に申告したものであり、やって来た使節から、郡の南方拠点狗邪韓国から海を跨いですぐそこと知らされ、既に皇帝の承認を得た道里申告を訂正することはできず、以後、陳寿に至る関係者が、辻褄合わせに苦労した「成果」と見られるのです。いや、そもそも、郡からの文書が「倭人」の郡との交信を代表する伊都国に届いていたので、よく調べれば、「倭人」に至る「道里」、文書送達の「所要日数」は、帯方郡に存在したのですが、新任の郡太守が、慌てて皇帝に報告したので「万二千里」とする「誤解」が伝わってしまったのです。

〇概数論再論
*「余」の効用
 後代感覚で、「道里」、「戸数」の「余」は切捨端数付きと誤解して、足すたびに端数が積もる「妄想」が広がります。今日、概数は、小学校算数の課題ですから、子供でもわかる不合理と疑うべきです。
 端的に言うと、みな概数中心値であり、端数蓄積を考える必要はありません。
 このようなことは、時代性のない、普遍的な事項であり、かつ、専門的な内容なので、字書に、明確に書いていないことが多いのです。

*概数の範囲
 倭地内行程は、百里単位で「余」がないが精測したのではありません。全体道里の計算で、百里単位は影響しないのです。まして、皇帝は、多雨委の内部の傍路諸國への里数に関心はないのです。関心があるのは、倭人に何日で連絡が取れるかという事なのです。

 是非とも、ご一考いただきたい。
 七千里と三千里の足し算で、百里単位は計算結果に影響しない端数です。
 七千里に五百里足しても七千里であり、更に六百里足しても七千里です。
 七千里は上下十㌫の範囲どころか、五千里程度から九千里程度とも思える漠然たる範囲で、百里単位の端数は大海の一滴です。
 七千里付近の五千、六千、八千、九千里がないから、そのようにとてつもなく広い範囲と見ます。

 実際の道里や戸数がわからないから、覚悟を決めて概数表示していますから、実情を知らない後世人が、史料の字面、倒立実像を見て、勝手に上下限界を想定するというのは、とてつもなく不合理なのです。
 まして、算用数字の多桁表示で、当時無視していた一里単位まで勘定するのは、深刻な時代錯誤です。算用数字は、「倭人伝」論義から、排除すべきなのです。

〇まとめ
 氏の取材範囲は、誠に豊富ですが、基礎固めとも言える得られた新規史料の「時代考証」、広義の「史料批判」が不足し、考察が迷走する点が多々見られます。現代人の常識で、ほとんど二千年前の文書史料が、的確に理解できることは「あり得ない」と言う覚悟が不足しているように見えます。もったいないことです。
                                以上

2023年1月11日 (水)

新・私の本棚 番外 愛川 順一 私の「邪馬台国」試論~1/2

魏志倭人伝より「邪馬台国」を読み解く 季刊「古代史ネット」第2号 2021/03/25
 私の見立て ☆☆☆☆☆ 勉強不足の我流空転      2023/01/11 2024/02/12

◯論評のお詫び
 当記事は、季刊「古代史ネット」第2号の記事ですが、論文審査、「ダメ出し」が不十分と見えるので、ここに、素人が、勝手に「ダメ出し」するものです。手短な記事だからこそ、丁寧な「ダメ出し」が必須と思う次第です。悪い癖は、一日も早く矯正するものでしょう。

*引用とコメント~意味不明の山、また山
8.さいごに
 釣り糸の縺れをほぐすために、無理やり引っ張ったり、穴をくぐらせて(「くぐらせたりすると」?)、却って難しくする事にもなりかねません。大きな観点(?)と、大きな流れを把握しつつ、常識的判断(?)で考える事が必要だと思います。

コメント:
 全文通じて、無理矢理こね回す「芸風」と見受けるので、「自嘲」かと心配します。「常識」欠乏症とご自覚の上としたら、随分、読者を馬鹿にされていることになります。ここまでの錯誤に自覚症状がないのでしょうか。ご自愛頂きたいものです。
 ついでながら、先賢諸兄姉を、ドンとひっくるめて「非常識」とは、大したものですが、その中に、理事たる愛川氏ご自身が入っていないとの「自信」はどこから来るのでしょうか。お手本にしては、随分不出来ではないでしょうか。
 それにしても、「観点が大きい」とは、年寄りにしてからが「初耳」です。「観点を把握する」のも、神がかりのように聞こえます。

 以下、まとめの各条を批判します、お手間でしょうが、なぜ、ダメがでたのか確認いただき、できれば、お手本を変えることをお勧めします。

7.まとめ
1.「帯方郡」から「邪馬台国」(?)までの距離(?)は萬二千里である。
コメント:
 「距離」が、古代では無意味な「直線距離」か、「倭人伝」で言及している「道里」(道のり)か、不明では論義にならないので、困るのです。
 ちなみに、「倭人伝」に「邪馬台国」がないのは、周知の事実ですから、堂々と論じる前に確認しておくものでしょう。

2.「帯方郡」から「伊都国」までの距離(?)は萬五百余里である。
「伊都国」から「邪馬台国」(?)までの距離(?)は、萬二千里から萬五百余里を差し引いた、千五百里未満(?)。直線(?)で千五百里未満(?)の距離(?)は、「周旋可五千里」の地図(?)の概念(?)と一致する。

コメント:
 概念も何も、当時「地図」はなかったから一致しようがないのです。もちろん、倭人伝に「未満」は無しですから「論外」、つまり、議論が成立しません。多分、「餘」の解釈を誤っているのでしょうが、氏がなぜそのように原文を離れて解釈したのか不明ですから議論できません。
 合わせて、「直線」でない「距離」の幻想が漂っています。さらに合わせて、「周旋」の理解に不都合があるようにも見えますが、説明がないので、手直ししようがないのです。
 ともあれ、大量の誤解山積で、つけるクスリが見つかりません。

 ついでながら、「余」は、その値の上下を含んでいるので、「萬二千餘里」から「正体不明」の「萬五百余里」を引いた結果は、「千五百余里」としか言いようがないのです。「倭人伝」には、「未満」なる時代錯誤は出てこないので、結局、意味不明です。

3.出発地は「帯方郡」であり、特定がない場合(?)は、距離(?)や日数の基準(?)は「帯方郡」からとなる。
コメント:
 出発点は、「郡」であり、これを「帯方郡」とする根拠は、ありません。不「特定」とは、何のことか、理解困難です。なぜ、そのように言い切れるのかも不明。いや、これは、当記事の全体を通してのことですが。「基準」は「基点」の誤解でしょうか。

4.「帯方郡」から「末盧国」(倭国の本土(?))までの日数は「水行十日」。
コメント:
 「倭国の本土」は、全く意味不明。なぜ、郡からの日数が「水行十日」 と書かれていると断定しているのかも不明。ちんぷんかんぷんで、頭が海の藻屑ならぬ、モズクです。

                                未完

新・私の本棚 番外 愛川 順一 私の「邪馬台国」試論~ 2/2

魏志倭人伝より「邪馬台国」を読み解く 季刊「古代史ネット」第2号 2021/03/25
 私の見立て ☆☆☆☆☆ 勉強不足の我流空転 2023/01/11

5.女王に従う「倭国」とは「邪馬台国連合国」(?)21国プラス6国(対馬、一大、末盧、伊都、奴、不彌)(?)と「投馬国」(?)である。これを「邪馬台国同盟国」とみる。(?)
コメント:
 意味不明の連発。とどめの「邪馬台国同盟国」は、皆目不明。連合国」は、まるで第二次大戦です。敵は「枢軸国」でしょうか。
 因みに、従属していれば、対等の関係ではないので、どう見ても「同盟」/「連合」はあり得ません。と言うか、「倭人伝」にそのような時代錯誤は書かれていないのです。

6.「邪馬台国」と「投馬国」の日数(?)は、それぞれが連合国家(?)である故、其の国を巡邏(?)する旅程。故に、「邪馬台国」の「水行十日、陸行一月」は、「帯方郡」から「末盧国」までの、「水行十日」(?)を差し引いた「陸行一月」であり、同様に「投馬国」の「水行二十日」とは「水行十日」で国を巡邏(?)する旅程である。
コメント:

 「日数」も、「連合国」ならぬ「連合国家」も「巡邏」も意味不明。三世紀倭人に「国家」などなかったはずです。日数論は、一段と意味不明です。

7.当時の近隣諸国との人口構成(?)からみて、大きさ、人口、国家形態が「邪馬台国」を連合国家。(?)
コメント:
 「近隣諸国 」とは何のことやら。「人口」は意味不明の時代錯誤、「構成」も意味不明です。(年齢構成か)國の大きさも意味不明。「国家形態」は、ますます不明。それにしても、文になっていないようにも見えます。「...との人口構成」も、何のことやら意味不明。それにしても、文末処理は、誤編集操作でしょうか。

8.女王国の境は第2の「奴国」(?)であり、南は「狗奴国」と接しており、戦闘状態にある。(?)
コメント:
 狗奴国は、女王国と不和、つまり、服従関係になかったと言うだけで、主語が動揺していて、趣旨不明ですが、「奴国」が「狗奴国」と「戦闘状態」にあったとは書かれていません。

9.東の海を渡って、千余里(以東)の所にも国があり、それも倭人である。(?)
コメント:
 「東の海 」は、意味不明、出所不明。
 東は、「倭種」であって、「倭人」には属していません。属していれば、詳細を報告する義務があります。ここでは、以東は、基準点を含まないようです。それとも、さらに千里、つまり、果てしなく進むという解釈でしょうか。

10.後の中国の史料では、畿内の大和王朝(?)は「日本」と名乗っており、筑紫城に居た倭奴国の後裔(?)。
コメント:
 「後の中国の史料」は、正体不明。「筑紫城に居た倭奴国の後裔」も「畿内の大和王朝」も、「倭人伝」に書かれていないので、確認不能。「日本」は、八世紀以後の新語で、これも、深刻な時代錯誤です。

11.中国の他の史料(?)と突き合せて読むことによって、3世紀以前の邪馬台国は倭国(?)であり、空白の4世紀(?)以降は日本(?)と名前を変えており、近畿(?)に拠点を置く大和朝廷(?)となっている事が窺える。(?)
コメント:
 「中国の他の史料」は、正体不明。何を突き合わせるのかも不明。三世紀以前」は、三世紀及びそれ以前の意味としても、それ以前、つまり、二世紀、一世紀等々のことは、「倭人伝」には明記されていません。魏代景初年間及びそれ以降を対象としているとして、結局は、三世紀の話がせいぜいです。
 因みに、当時、西洋風の「世紀」は知られていなかったので、陳寿に、「世紀」を意識した表現を求めても、無理というものです。

 もちろん、「倭人伝」に、四世紀及びそれ以降のことは「一切」書かれていません。「日本」は、「近畿」共々、藤原京、平城京及びそれ以後の用語であり、「倭人伝」論義に持ち込むのは、深刻な時代錯誤です。
 「大きな流れ」を見ても、何の話をされているのやら、「五里霧」中です。確か、本記事は「邪馬台国」私論だったのではないでしょうか。「圏外」乱闘は、ほどほどにして欲しいものです。

◯まとめ
 総じて、現代語とその誤用の氾濫で、折角の意欲的な提言が、あらぬ方に飛び散っていて意味不明です。先賢諸兄姉の山成す業績から、何も学ばなかったのか、それとも、よりによって、不勉強な論者のお手本を丸呑みしたのでしょうか。誰か、文章作法の講釈をしてくれる方がいないでしょうか。

 同号の塩田泰弘氏の論考は、長期に亘る考察の成果と見え、また、念入りに考証されているので、当ブログで賛同できない点に関して言及するときも、毎度、尊敬の念を持って批判します。えらい違いです。

 ぜひ、ご自身の意志で、先輩諸兄姉の「筆法」を学んで頂きたいものです。

                                以上

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