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2023年1月14日 (土)

新・私の本棚 藤井 滋 『魏志』倭人伝の科学  新釈 3/3

 『東アジアの古代文化』1983年春号(特集「邪馬台国の時代」)  大和書房
 私の見立て ★★★★★ 必読・画期的 2019/03/10 補充 2020/03/20 2021/12/26 2022/11/11 新釈 2023/01/13

*「倭人伝」里数観の提示
 氏は、里数論だけで邪馬台国所在を突き止める観点で、帯方郡治から倭王治までを、郡~末羅と末羅~倭都に二分した前者が一万里、全体が一万二千里と明快で、倭王治は郡~狗邪韓を七千里とする「里」(七十五㍍)で末羅中心の二千里(百五十㌔㍍)半径の円周上(領域内部)と図示しています。
 つまり、「従郡至倭」の目的地である倭王治は、帯方郡治から(概して)東南方向で、円弧上に、なんとか限定できます。
 いずれにしろ、倭王治の所在を、九州島北部、北九州の「ある範囲」に絞り込む、まことに堅実な論理ですが、それを認めると立つ瀬のない「畿内派」は、藤井氏の提言を黙殺したのでしょう。

*精密地図の弊害~私見
 本記事に対して不満を言うと、概数観に相応しくない精密な現代地図と精密な線図は、読者に「理解」ならぬ「誤解」を与えていると危惧する次第です。苦言御免です。
 うるさく言うと、二千年前の地形を誰が保証しているのかという疑問もわきます。例えば、地図データで、二千年前の地形の正確さを保証している例は無いはずです。併せて、ご自愛頂きたいものです。
 と言うことで、藤井氏の展開した以下の道里論には、同意できません。

*概数計算の復習~私見 改稿 2023/01/14
 以上の里数は、すべて、現代人の想定外の許容範囲を持ちます。(「誤差」というと、余計な誤解を招くので避けます)
 全行程を万一千里~万三千里、郡~末羅を八千里~万一千里と見ると、末羅~倭都は両区間の差分になるので、許容範囲は、二千里「程度」と見えますが、概数計算すると「程度」の範囲が、むしろ広がるのです。つまり、この区間は、万里規模の概数里数の帳尻にあたり、短い里数に、全体の「程度」がのしかかってくるので、計算上、零千里~五千里の範囲と見え、現代人が慣れている概数に比べて、一段と大きなばらつきが想定されます。

 また、この区間が二千里(程度)とすると、末羅~伊都間の里数五百里は無視できず、伊都~王治所間を直行と見ると、世上言われるように倭人伝」記事だけで特定することは、「大変困難」、つまり、事実上不可能になります。

 このような現象が発生するのは、区間里数を加算して万二千里を得たという前提が正しくないことを思わせます。まず、万二千里の全体里数が存在して、それを、部分里数に、いわば「按分」、つまり、配分したものでしょう。大分すると、末羅~王治所間は、二千里で、許容範囲は、全体里数と同様ですから、倭人伝に書かれていない帳尻合わせは不要です。

 何しろ、陳寿が、正解の読み取れない、あるいは、「間違った」計算を書いたとなると、皇帝に上程した原稿は、審査官によって却下されて、厳重に書き直しを命じられるわけですから、現行刊本は、そのような厳格な査読に合格した明快な内容と見るべきなのです。

*道里、戸数の由来~私見
 いや、兎角議論の対象である全体里数「万二千里」は、恐らく、「倭人」を紹介する最初の機会に提出されたものであり、遅くとも、後に、全体戸数、国数などと共に、景初二年の洛陽行の際に、鴻廬に提出して東夷諸国「台帳」に記載されたのです。誰かが、勝手に根拠も無く創作したものではなく、また、別の誰かが正しい里数を「誇張」したものでもないのです。

 帯方郡は、一級郡たる遼東郡太守公孫氏の配下の二級郡から、皇帝傘下の一級郡に昇格したばかりでした。ということで、着任したばかりの新任郡太守が、公孫氏時代の資料を整理して、東夷管理体制を復活、構築しつつあった「帯方郡」としては、皇帝の督促を受けた以上、急遽召集した倭使を従えた上洛の持参資料の里数が、現実離れしていても、仕方ないところだったのでしょう。何しろ、本当に万二千里先と思って急使で督促したら、片道四十日程度で、さっさと参上したので、さすがに、万二千里は実道里でなく、形式的な形容とわかったでしょうが、既に、倭人の素性は皇帝に提出され、御覧を得たからには、最早訂正できなかったのです。また、陳寿の職業倫理から、公文書に書かれている倭人伝の公式道里や公式戸数を、勝手に改竄することはあり得なかったのです。

*郡文書送達考~一説提示 2023/01/14
 藤井氏は、ここでそのような曲がりくねった推理を展開しているわけでは無いので、ここは、余談/私見と理解いただきたいものです。
 郡治から倭王までの道里、日数の由来を推量するものです。

 「倭人伝」で求められているのは、郡太守が発した文書が、何日で「倭人」、具体的には、倭王の手元に届くか、という所要日数ですが、それは、倭王の手元に届く日数ではないと思えるのです。
 郡の発送日は、郡の文書担当が発送し、公文書に日付を記録するものであり、倭側の到達日は、倭王の文書担当が、受領確認日付を回答した日と見えるのです。

 「倭人伝」には、伊都国記事で、郡から届いた文書を確認する旨書かれているので、郡から伊都国(文書担当)までの道里と所要日数が、帯方郡に報告されていたと見るものです。伊都国から女王治所までの道里も所要日数も書かれていないのは、そのような背景によるものと見れば、筋が通ります。

 帯方郡と倭の間の取り決めとして、倭王が手元で文書を確認した時点を受領日とすると制度化していたのなら、伊都国から女王治所までの道里と所要日数が書かれていないのは、重大な不備になるのですが、倭人伝は、そのような不備を皇帝に報告しているのでは無いのです。
 法と秩序は、守るために制定されていたりであり、それ故に、遵守されていたとみるべきです。

*伊都国東夷都督説~異説救済策 2023/01/14
 因みに、以上の理屈で行くと、女王治所が、はるか東方にあって、延々と内部送達日数がかかるとしても、道里と所要日数に計上されないので、一応、辻褄が合うことになります。と言うものの、帯方郡の文書が、伊都国での受領から数ヵ月後に女王の手元に届くことは、帯方郡が認めることは考えにくいので、伊都国王は、一種全権代理として、帯方郡との交信を一任されていたことになります。あるいは、倭女王自体が、東方の本国の任じた西域都督というものかも知れません。まさしく、Die hard,Die harder,Die hardestです。

 いや、そのような制度は、前例のないものではありませんが、公式記録にとどめなかった理屈は見えません。

*論争の深い闇
 我に返って余談から回帰すると、氏の諸提起に反論があって、却下、撤回、克服などで消えていったのなら、論議済みになるのですが、いまだに、惰性で、例えば、「余」を解している例が少なくないので、がっかりしているのです。

 よく、邪馬台国「論争」は、百年を優に越えているといいますが、この件を見ても、「論争」などは存在せず、単なる水掛け論に終始している感があるのです。そして、論争の正道が地に落ちて、却って邪道が白日の下まかり通っていては、何年たっても、正解は出てこないのです。

〇まとめ
 氏は、結語で当時季刊「邪馬台国」誌連載 張明澄氏「一中国人の見た邪馬台国論争」を引用し、倭人伝」解釈は中国人まかせが一番と、ここでは、とてつもなく軽率です。
 「倭人伝」の漢文は、当代十五億の簡体字文化「中国人」の古典書無知の億万の民の理解を超える古文文法、語彙知識に加え、ある程度の、つまり厖大な古典教養が求められます。引き合いに出されていますが、張氏の延々たる連載記事迷走を見ると、張氏の欠格は自明です。
 藤井氏は、恐らく張氏記事を読み込んだわけではなく、従って、張氏連載の大半を占める度しがたい迷走が、まるで見て取れなかったようです。藤井氏の世評が泥にまみれるような、嘆かわしい発言です。
 いや、張氏の鉄砲は、時に的を射ているのですが、余りに、的外れが連続しているので、当連載記事を温存していた同誌編集部の的外れに呆れるのです。もっとも、同時代に読んでいなくて、古書で購入しているだけですが、頼りにしていたのは、榎一雄師の連載であり、こちらは、単行本に集約されているので、ほとんど、ゴミ箱の縁ですが、特集記事などが棄てがたいので、崖っぷちで踏みとどまっているわけです。
 あるいは、藤井氏は、「語学」とは、紙上の空論に過ぎないと見ているのではないでしょうが、「語学」は、全て、教養、教養、教養です。

 もちろん、「語学」の視点で「倭人伝」が解釈できないのに、すらすら理解している、あるいは、本気になれば、理解できるなどと、錯覚して論じている見当違いの論者は、はなっから論外で、これには、つけるクスリがないことは言うまでもありません。藤井氏が、そうした俗論の道連れになっていなければ幸いです。

*実論追求
 聞くべき議論は、空論でなく、実論、現実に密着した議論ができる人材を求めているのであり、その点には大いに同意しますが、古代史に関し教養、つまり、見識のある人物に限られます。軽薄な後代、異国概念の持ち込みは、とてつもなく迷惑です。
 藤井氏の本論のように、鋭い着眼と着実な論理展開で、問題点を核心に絞り込んだ議論が、正しい評価を受けていないのは、「倭人伝」論の深い闇、泥沼を思わされるのです。

 季刊「邪馬台国」誌編集著であった安本美典氏は、機会ある毎に本論を紹介していて、当ブログ記事は、氏の講義録、著書から原典を探り当てた記事ですが、安本氏の冷静な指摘にもかかわらず、両氏の慧眼は世上の関心は呼んでないようなので、敢えて、ここに注意を喚起しているものです。

                               以上

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