倭人伝随想 倭人伝里程課題へのエレガントな解答の試み 再訂 2/4
2019/06/23 加筆2019/06/26 2020/05/06, 2020/10/12 2023/01/22
◯序章 「倭人伝」里程記事の前触れ
結構根強く出回っている誤解ですが、なぜか、倭人伝の道里行程記事の「從郡至倭循海岸水行」と書かれた「前触れ」で、まだ、帯方郡を出ていないのに、いきなり西に曲がって海岸に出て、何の予告もないのに、南に「水行」すると解した諸兄姉が多いのです。この八文字は、以下の行程の中に、前代未聞の「水行」行程があって、その際は、海岸の岸部から渡し舟で向こう岸に渡ると予告しているのであって、まだ、出発していないのです。その証拠に、所要期間も、並行する街道の道里も、立ち寄る宿場も書いていないのです。
念押ししますが、行程は、帯方郡から街道を南下するのに決まっていて、だから、わざわざ「陸」、平地を行くと説明しないのです。
◯第一歩 「倭人伝」里程記事の取っつきと結尾
いよいよ、行程は、郡を出て、整備された官道を進め、韓伝に書かれた諸国を歴訪しつつ、時に東を、時に南を向いて、全体として、東南方向に予告した「海岸」に到着するのです。郡から半島南端の狗邪韓国海岸までの略称「郡狗」区間です。区間は、七千里と明記されています。
この海岸は、「倭人」に属する大海の海岸ですから、既に韓国を離れているのです。言うならば、「大海」の北岸で、狗邪韓国は、「倭」と接しているのです。
因みに、行程道里記事は、まず、狗邪韓国に「到る」と通常の陸上行程の終わりを明記していて、そこから、予告の「水行」ですが、さりげなく「始度一海」、「又南渡一海」、「又渡一海」と書いて、「水行」と物々しくても、「死にそうな」長旅でなく、渡船の三度のくり返しで「怖くない」となだめているのです。
かくして、三度の渡海で末羅の岸に着いた時、郡から都合「万里」になることまでは、ほぼ異論が無いようです。そうでしょう?
もう、行程は「水行」しないのですが、念押しで「陸行」と書いています。以上の行程の仕分けが誤解無く読み取れるようにしているのです。
末羅国から伊都国に「到る」としているので、伊都国が格別の地位を得ていたことは明確です。この点、後ほど解明します。
郡から倭の「郡倭」全体は万二千里ですから、末羅国から倭は、計算上二千里と見えます。また、「郡狗」七千里ですから、計算上「倭」は末羅国から「郡狗」三分の一のあたりと見えます。
後ほど再確認するとして、ここでの議論は、万事概数でかなり幅があるものの「倭人」はそれを外れた「圏外」にはいないと明快です。以上、藤井滋氏が「『魏志』倭人伝の科学」(『東アジアの古代文化』1983年春号)で、四十年近い、とうの昔に提示しています。
安本美典氏が、藤井氏の意見を氏の主張の論拠としていますが、世間一般は、一向に耳を貸さないのです。
因みに、安本氏は、藤井氏の「倭人伝里」観に同意していますが、古田師が終生こだわった「魏晋朝短里説」の理性的な否定者です。
*明快な結論と混ぜっ返し~倭在帯方東南の否定
このように、倭人伝を適切に解すると、倭に至る行程が九州北部を出ないことは、遙か以前から知られていたのです。
この明快な読みは、例えば、明治期の白鳥庫吉師も認めていたようですが、そう認めて、倭人が、帯方東南の九州北部に決まって倭人がヤマトに行けない「倭人伝」里程説は、「纏向」説から見て、無礼で不愉快であり、金輪際、正確と認められないわけです。
以下、壮烈な混ぜっ返しが続いて、灰神楽になり、視界混沌と見えるのですが、沈着に心の目で眺めると、状況は何も変わっていないのです。
*名刀が鞘に収まらない話
と言う事で、冷静に、最後の「末倭」間を精査するのですが、世上好まれる直線的な解釈では、末羅―伊都―不彌―投馬―倭の間で、滑り出し三区間は予想通り、五百里、百里、百里の計七百里であり、残るは千三百里と予測されます。
残りは、不彌から投馬まで水行二十日に次に見える「水行十日陸行一月」の四十日を投馬から倭までの行程とみて、足して六十日と見る解釈が好まれていて、結尾の帳尻のはずがどえらい遠隔区間となります。
この解釈は、「放射説」に対する最強混ぜっ返しとされますが、一見して度外れです。全体の「郡倭」万二千里から「郡狗」七千里と「狗末」の渡海三千里を抜いた「末倭」二千里に六十日行程を含めるのは、度外れた不正解です。
このあたりで、善良な読者は、直線的な解釈のはずが、乱脈に巻き込まれているのに気づくのですが、そこから脱出しようと素人考えで、悪足掻きしているのが、世上の混乱した邪馬台国比定論「沼」なのです。
按ずるに、良く言われる「自然で単純な」読み方は、読者に混乱を与えて、行程を纏向まで引き延ばす方策ですが、どう「倭人伝」を読み替えた処で、丁寧にもつれを解けば、倭人を「纏向」に求める説は根拠を失っています。いい加減に降参すべきです。
と言って、問題の書き方がどうこう言うのはまだ早いのです。
◯概数基本のおさらい~誤解解消
この機会に概数記法を復習すると、倭人伝に頻出の「余」は、端数切り捨てでなく端数を丸めたのです。軒並み「余」が付くのはそういう意味です。五百里に「余」がないのは、きっちりという意味ではなく、ほぼ軒並み千里単位の里程なので、五「百里」の桁は端数で、大勢に全く関係無いと見たのです。本稿では、繁雑を避けて、「餘」を省略していますが、諸兄姉が端数切り捨てと誤解しないための方策でもあります。
仮に、陳寿が概数に強くなかったとしても、関係者は中国文明の威力で数字関係を知悉しているから、数字を誤記連発する愚は犯さないはずです。
◯第二歩 水行陸行のおさらい~誤解解消
なお、最終記事の都合水行十日、陸行三十日(都水行十日、陸行一月)を、水行なら十日、陸行なら一月と解釈するのは、「倭人伝」の里程記事として意味が無いので却下です。これもまた、善良な諸兄姉に混乱を催す攪乱工作でしょう。
正史「倭人伝」に求められているのは、公文書が洛陽から倭に至る所要日数です。騎馬の文書使が官道を疾駆する前提なので、官道の整備されていない行程の里数を知っても、意味はないのです。
「倭人伝」は、世上蔓延っているような魏使旅行見聞記ではないのです。
未完
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