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2023年2月

2023年2月26日 (日)

新・私の本棚 番外 makoto kodama 『「ToYourDay?」さんへの反論終了』

新・私の本棚 番外 makoto kodama 「ToYourDay?」さんへの反論終了 2023-02-25 17:32:23      初回 2023/02/25 23:57

◯引用とコメントのみ
どうやら、「ToYourDay」さんはもう歴史の話はしないようですね。
まあ、私的に考えた結果、「ToYourDay」さんは古代史論に関しては、邪馬台国論も『記・紀』に関する日本の古代史論も、私にまったく太刀打ちできないと判断したらしく、以降私に対する誹謗中傷のみに方針を変更したと思われます。

*当方の記事が読解できないと泣き言を言っていたのに、今度は、当方に関係ない発言で恐れ入ります。とは言え、ご壮健と拝察して何よりです。
『私的』、つまり、個人的、ときにはプライベートな日常雑感を、公(パブリック)の場に投稿するのが、ウェブログ、「ブログ」ですから、わかりきったことを説明戴かなくても結構です。

*「記紀」史料は原本が存在せず、原本を読んだものは生存していないので、貴兄も論義しようが無いだろうと配慮したのですが、当方は、いずれにしろ、無学、不勉強の素人であり、この場で論義できないと思う次第です。「倭人伝」は、紹熙本、紹興本などで、ほぼ確定しているのですが、「記紀」の「原本」は、どんな形で確定しているのでしょうか。「記紀」は、どんな日本語で書かれていて、読みやすいのですか、議論が分かれているのですか。そんなことを、詮索したくないから、論議の対象を仕切っているのです。分かりませんか。

*「邪馬臺国」については、貴兄に何の知識も無く、また、新たなに知識を身につけようと質問することもないのでは、本質的に、学問を学ぼうとする向上心も無いようなので、何を言っても受け付けないという態度ですから、一切論じるつもりはありません。

*当方のブログのポリシーは、中國史料である「倭人伝」論に、ほぼ専念です。知らなかったのですか?やっと悟って降参したのですか?「無条件降伏か」などとは言いません。質問ではないので、回答も要りません。


私には「ToYourDay?」さんの誹謗中傷に反応する義理もなく、歴史の話もしないようだから、馬鹿馬鹿しくなりましたので、勝手に討論を終了させていただきます。

*また、勝手に当方のブログ署名を改竄していますが、礼儀を守るのが、義理では無いでしょうか。相手を名指しすらできないようでは、誰のことを言ってるのか、分からないのですよ。もっとも、当方は「義理と人情を秤に掛けりゃ」、人情が重いと信じるものです。

つきましては、私のブログもかなり汚れてしまったので、今迄貴殿と討論した部分のブログは全て削除させていただきました。

*貴兄のブログは貴兄が誰にも命令されず、自分の意志で書いたのでしょうから、自分で書いて汚したと思おうが、ばらまいた火の粉のおつりと気づこうが、部外者である当方の知ったことではありません。鯱張ったご報告の必要などありません。わざわざ、謝罪していただく必要はありませんので、この手のご通告は、全て謝絶します。


但し、私は古田武彦説が間違っていることを確信しておりますので、古田説批判は引き続き続けていきたいと思います。

*当方は、貴方の確信について論義していませんのです。今回もそうですが、一切批判対象をハッキリさせないで、やみくもに攻撃しているのが、「うさん臭い」と指摘しているだけですが、このたびは、貴兄から説明の無いままで、「もうお別れですか」? いや回答して欲しいのではありませんよ。


勿論、貴殿による古田説批判ブログの削除命令に従うつもりは一切ありません。


*当方は、貴兄のブログに対して何の権限(Power)もないので、何の「命令」もしていないことは明らかです。一度厳しいことを言ったのは、不注意から第三者のブログを誹謗していて、ご注意申し上げても、一向に是正して頂けないので「是非に及ばず」強く指摘したのです。経過は、貴方が廃棄しても、残さず当方側に記録されています。ご心配なく。
*その件は、「第三者を巻き込むと、貴兄に予想外の影響が出ると懸念される」ので、きつく聞こえるようにメリハリを付けて言っただけで、いたわられていることが理解いただけないのは、想定内ですが、逆恨みに恐れ入りました。
*念には念を入れると、貴兄に対して、今後とも、命令することはありません。「命令には権限と責任が伴います」が、当方には無縁です。ご勘弁ください。その程度の分別も付かないで、良くおもてを歩けるものかと、感心したとしておきます。

*古田氏ネタのいちびりについては、当方には、古田武彦氏には、何の義理もないのですが、貴兄が、執拗に、見当違いに、やみくもに、当て外れで、勝手に、当てつけているので、誰にでも「冗談」と分かる形で、手厳しく揶揄させて頂いただけです。まさか、当てこすりが的を射ていたのではないでしょうね。いたわられても理解いただけないのは、予想通りですが、逆恨みに恐れ入りました。今回は、非難の矛先が来ていないのですが、言い忘れていて大丈夫ですか? いや回答して欲しいのではありませんよ。
 

*貴兄の発言が「言いがかり」であったことを証するために、当方のブログは、逃げ隠れせずに維持管理しますので、証拠隠滅しても無駄です。
*無教養な当方は、夏目居士の故事にならい、耳を「石で漱ぐ」だけです。

                                                  頓首

◯当ブログ読者の方に

 以上の通り、予告されていた『「ToYourDay」氏の批評に反論(其の一)』は継続されず、過去ログも、廃棄されたので、残念ながら、本件の応酬はここまでです。何やら、以上のように一方的な非難を頂いていますが、論争のならいで、最後の捨て台詞を相手に言わしておく訳にはいかないので、このように当方の総括を述べました。
 それ以上は、何もお知らせすることはありません。
                                以上

2023年2月25日 (土)

新・私の本棚 号外 ブログ記事 makoto kodama『「ToYourDay」氏の批評に反論(其の一)』 1/3

邪馬台国探訪 『「ToYourDay」氏の批評に反論(其の一)』2023-02-24 07:00:39 2023/02/25 1:21

◯今回は挨拶抜きです。 無礼を陳謝
 私のブログに対する長々とした批評、誠にありがとうございました。
 しかし、貴殿のブログを読ませて頂いた私が、何も心に残るものが無かった理由は、貴殿の話には何も新鮮な驚きが無かったことの証拠でしょう。

*どの記事に対する批評か、やじうまの方のために、ご面倒でも明記して頂けると幸いです。因みに、貴兄の「不感症」、「無感動症」、「朴念仁」を癒やす力は、持ち合わせていません。陳謝。

*もう一回だけ言いますが、当方は、貴兄の理解力がどの程度か知らないので、講評はしません。また、どのようにして、そのような放言を言いまくるのかも、知ったことではありません。
*いずれにしても、どんな顔で、他人に訓示を垂れているのか、いや、サイトでお顔を曝せと言っているのではないのです。

 とりあえず、貴殿の『魏志倭人伝』読解は間違いだらけと思われ、私の説に反しているばかりか、過去の多くの研究者の意見とも異なっており、貴殿にしか通用しない奇妙奇天烈な読解ばかりなのですが、御自覚為されておられるでしょうか?
*何を求めてそのようにおっしゃっているのか、知りたくもないので、千八百件あるブログ記事のどこまで読んでいただいたのか不明ですが、無意味な放言は大抵にした方がいいと言うだけです。色々おっしゃっても、根拠のない夢想の相手をしている時間は無いのです。

 多分、それらは全て、貴殿が古田説を無理に成り立たせる為に、偏向した読解をしているからであり、真実とはかけ離れた話なのですよ。

*未だに、貴兄が吊るし上げる「古田説」がどんなものか示されていないのでは、いくら頑張っても、貴兄の指摘の相手ができません。未だに、目に見える根拠を提示していないと気づいてないのでしょうか。


例えば、
> 漢文は、古典的な中国語であるから、字が違えば意味が違うのが鉄則です。
⇒ 私はこんな鉄則は聞いたことがありませんね。勝手に鉄則を決めないでください。

*聞いたことが無いのは、「無知」の自白です。これは、常識、自明です。常識を持ち合わせていないことを、堂々と高言するのは、理解できません。相手が理解できないことをあえて言い張るには、それなりの覚悟必要ですが、持ち合わせが少ないので、おわけすることは、とてもできかねませんので、ご容赦ください。

 多くの論者にとって、對海国が対馬国であるのは当たり前です。
 又、一大国は一支国の筆写間違いとされています。
 このように細かな文字の違いは漢文でもよくあることです。

*貴兄の名誉のために、不明瞭な発言では、いくら計算/計測/思量しても、何のことか理解できないと申し上げておきます。
*部分訂正のついでに言うと、「多くの論者にとって 」は、普通「。」までの局地的(local)な形容と読み取るものなののですが、貴兄の書き癖では、次の「又」によって受け継がれているとも見えます。但し、文末が、「とされています」ので、箍が外れています。それでは、高度な議論の役に立ちません。

 貴殿は對海と対馬、一大と一支も違う意味だと言い張るのですね。

*そうですよ。やっと理解できましたか。倭人伝解釈の初歩の初歩ですよ。次はようやく「初歩」に格上げです。
*ついでに言い足すと、「對海と対馬」、「一大と一支」の訛伝の理由が、同一のものか、別々のものか、当方には、よくわからないので、当方の主張として批判しないでください。

 また、私が「くだらん」と切り捨てたのは、「邪馬壹国」説のことですから、誤解無きようお願いします。私は邪馬壹国は耶馬臺国の筆写間違いだと以前から言っているのですよ。

*貴兄の誤解癖/気質/泥沼はよくわかっていますから、恥をさらさないように話題を外しているのです。目下の議論は行程道里記事の解釈ですから、半島陸行という「正論」と海上街道という「邪論」の論義と思ったのです。
*個人の情緒、情愛、気分に任せて乱暴に切り捨てるのは、ひたすら無法です。

*ご存知ないかも知れませんが、中國古典の「地理」論で、「邪」とは、東方方向に進むことを言うのです。別にも後世人の正しい、間違っているとは、直結していないのです。ここも、丁寧に、丁寧に、丁寧に話しています。

                                未完

新・私の本棚 号外 ブログ記事 makoto kodama『「ToYourDay」氏の批評に反論(其の一)』 2/3

邪馬台国探訪 『「ToYourDay」氏の批評に反論(其の一)』2023-02-24 07:00:39 2023/02/25 1:21

 つまり、この件を殊更に問題化したのは、古田氏とその信奉者だけなのです。

*へえ~、そうでしたか知らなかったとでも返すのでしょうか。何が殊更か分かりませんが、稚拙な「論拠」で反論し論義を泥沼にしたのは、反対派ですが、ことは、解釈できるかできないかという「問題」(question)なのです。

> 「『記・紀』は大部分が正しいことが記されている」とは当世には随分希で、多分新説なのでしょうが、これほど雑駁な提言を支持する方は、「ほとんど」いないのではないですか。
⇒ このような決めつけた話を言い張る貴殿は、津田左右吉史学にどっぷりと浸っているようですね。

*言い出しっぺがごまかしていては見苦しいところです。失言は失言です。当家の風呂場を盗撮しているとは知りませんでしたが、今回は、告発はしません。
*ちなみに、「津田左右吉説」はあっても、「津田左右吉史学」などないというのが、世評では無いのでしょうか。貴兄が、格別のご執着を示されている古田氏は、貴兄の愛好されている津田説に、随分批判的でした。どちらに組みするか、それが「問題」です。

 つまり、貴殿は自分の考えが多数派だから正しいと言っているのでしょうが、多数派が必ずしも正しいわけではありません。

*多数派に格別の意味は無いというのは、当方が言い続けている意見です。この堂々たる「パクリ」、無断盗用は、恥で無いのですかと言っておきます。要するに、貴兄の一本調子の論義に皮肉を投げかけたのです。


 例えば、津田史学では第10代崇神天皇以降が実在人物であり、それ以前の天皇は架空だと見做していますが、この件に関してはどうお考えですか?
 私は神武天皇以降の天皇が、全て実在したと考えていますから、上記のような話を持ち出すわけですよ。
 実際、邪馬台国畿内説派は倭迹迹日百襲姫命を実在人物としており、しかも卑弥呼だと言うのですが、その父親である孝霊天皇は架空の天皇としているのです。つまり、父親のいない人物が実在する。このことについてはどうお考えですか?

*本件の対象外、論外ですから、お付き合いしかねます。因みに、「上記」とは何のことですか。「処女受胎」説、いや、どうでもいいのですが。

> それは、とうの昔に測量されていたから、正始魏使現地測量説は、有名無実の空砲です。
⇒ また、御自分の空想(妄想)を正しいと決めつけていますね。
*正しいと思わなければ高言しません。貴兄は自身の虚言癖から他人も同様と決め込んでいるようですが、虚言癖で生き続けるのは困難なのですよ。

 まあ、そう考えるのが論者の常ですが、それでは具体的に測量は何時の時代に行われたのでしょうか?
*既に説明済みですから蒸し直しはしません。各千里の海上行程については、測量してないと明言しています。お得意の「スルー」ですか。いや、今回は、誤変換しなかったのでお許し頂きたい。「空砲」の意味はご承知ですか。

 もし、答えられないなら、里程はこの時の帯方郡使の報告でいいですね?

*相手の全否定を読み取れないで、仮定質問では、「ご勝手に」です。貴兄の手口を真似ると、無料だから、ブログ記事を全部読め、と言うところです。


> 折角、丁寧に、丁寧に説いたのですが、「分からない」と「ズル」されたようです。

                                未完

新・私の本棚 号外 ブログ記事 makoto kodama『「ToYourDay」氏の批評に反論(其の一)』 3/3

邪馬台国探訪 『「ToYourDay」氏の批評に反論(其の一)』2023-02-24 07:00:39 2023/02/25 1:21

⇒ 「分からない」ことを「ズル」と決めつけるのもかなり失礼ですね。

*よく振り返って頂いたら、多分おわかりになるでしょうが、「ズル」と書いたのは、貴兄が「スルー」と書いたのを、また誤入力かと思って試してみただけです。ほかでは、「切り捨てる」などと「自褒め」されていますが、ここでは触れません。

*正直言って、都合の悪いことを見事に読み飛ばしているのは、当然とは言え、絶妙芸です。「普通の言葉なら曲解されない」と言いたかったとも言えます。それを猿まねされたら、お怒りなのでしょうか。
*誤解の訂正は、貴方に見習って割愛するので、適宜読み替えてください。「スルー」は、貴兄の発案ですから自業自得でしょう。それにしても、「丁寧に」を二回は、「スルー」「スルー」でしょうか。「サラサラ」「サラサラ」でしょうか。

 貴殿の文は、例え丁寧に書いても、他人には殆ど理解できない下手くそな文です。

*貴兄は「他人」が、「客観的な第三者」という「芋」、いや「意味」と理解してないようです。また、貴兄に「下手くそ」と褒められても、気味悪いだけで、特に意味は無いのです。
*「丁寧に書いても」と書換挑発されたら、もっと「丁寧」に書くとお考えでしょうか。読解力がないと高言しておいて、こっそり媚びを売るとは、不思議な感性の持ち主です。それにつけても、「著書を買って読め」と強圧的な「営業」は自省されたようです。

 これでも私はかなり(勘)も交えて、読解困難な貴殿の作文を頑張って読んだのだから、その辺りも考慮に入れ、「ズル」と、一瞬で切り捨てるのはお止め願います。

*「これでも」かと目を剥いて、割り「勘」を提案されても、当方にはお手元が見えないので、「どれ」のことか「理解」はできません。伝わったのは、貴兄が、史学論者として、一人前の読解力に欠け、向上心も瓦解していることの辞任、いや自認、自白して、悲しくて、悲しくて、やるせなくなって、泣きを入れたというだけです。
*因みに、史学分野の学術論義に存在しない「スルー」の意味を理解しようと苦労したのですが、当方所持の辞典のどこにも明解はありませんでした。それで、「ズル」の誤変換という仮説を提示したものです。分かるかな。
*史論で、圏外の言葉を、語彙が異なって意志が通じないと分かっている相手に、無造作に投げつけるのは、みっともない手口です。体面でないので、問い返せないのですよ。せめて、自問自答されたらどうですか。誰も聞いていないところでですが。
*要するに、今回も本音が真っ直ぐに聞けなかったのです。まあ、古代史学会は、学会の態が無くて、ライ麦畑で投げっぱなし、言いっぱなしで聞くこと無し、「耳日曜」が大勢ですから、当方が、頑固でも、大勢順応の表れということなのでしょう。

◯まとめ~余談だまり
 相変わらず、根拠の無い臆測「反論」でやんぬるかな。
 多数派論義で分かるように、氏は、自分が、多数派こそ正義とつい今し方まで力説していたのを忘れて放言していて、誠に困ったものです。これでは、論義が進みません。誰と何の話をしているのか、認知が飛んだのでしょうか。大丈夫ですか。航海、後悔、いや公開する前に、「ちゃんと」黙読して読み返していますか。

 それにしても、持病の「古田説」礼賛は、今回も根性が入っていて、何か年代物の感情の縺れを思わせます。大丈夫ですか。

 以下、しょうもない鬱憤晴らしの冗談なので、聞き流し、「ズル」していただければ、むしろ幸いです。
 ひょっとして、当方が慌てて古田氏の全著作を買い付けると期待したのでしょうか。回りくどい「サクラ」、「ステルスマーケティング」で、ブログ主がどれほどの「利」をえるのか分かりませんが、自分の書庫に無い「古田説」の新説発掘を、赤の他人に押しつけるのは、動機不純と見えます。
 何しろ、某wikiサイトの家主に、当方は「百害あって一利なし」、つまり、「営業妨害は大迷惑で、おまえがいると大損する」と泣き出されたので、ついついその方向に目が行くのです。
 よそごとで、傍迷惑でしょうが、論争に私利私欲を交えていると「邪推」されると随分損をするのですよ。

 慌てて補足すると、自著の営業は当然中の当然ですから次元が違うのです。
 他人を動かすには、誠意あるのみです。
                               以上

2023年2月23日 (木)

新・私の本棚 番外 makoto kodama 「ToYourDay」さんへの返信(その三)

 邪馬台国探訪 「ToYourDay」さんへの返信(その三)  2023-02-21 05:25:38  初稿 2023/02/23

◯突然のご意見で戸惑いますが、今回の出典は、魏志東夷伝韓伝です。
景初中,明帝密遣帶方太守劉昕、樂浪太守鮮于嗣越海定二郡,
「以下略」
あれれ~!
原文深意を無視し、自説に都合よく解釈してるのは貴殿の方ではないですか?

*本件は、貴兄の先だっての「韓国乱」論義で引用時に、解釈を怠って「無視」したのを、当方が原文復元して、合理的と信じる「解釈」を提示したものであり、従って、この場では、この部分に関する貴兄の解釈は、一切示されていないのです。つまり、当方が提示した「解釈」には、貴兄の「お手本」がないのであり、ご指摘は場違い/唐突です。と「回答」しました。という是正は置くとして、ご不審は解消したのでしょうか?(質問には、回答ください)当方の回答が出し遅れていて、2023/02/24に部分的に追記したので、後日の回答で「大丈夫」です。

> 景初中、恐らく初頭に魏明帝は、公孫氏遼東郡配下となっていた両郡に新任太守を送り込んで、直轄郡とする「人事」を行ったのであり奪取などではないのです。
⇒ 何で公孫氏支配の両郡に魏が勝手に太守を送り込むのが、奪取でないのですか?しかも、この文は、二郡を定むと書いてあります。定むとは楽浪・帯方二郡を支配下に置く=公孫淵から奪取することですよ。
 明帝は公孫氏支配の楽浪・帯方の二郡を司馬懿の公孫淵総攻撃に先立って奪取し、太守だけではなく、兵も駐屯させたのです。更には荊州刺史毌丘倹に命じ、高句麗や烏桓を味方につけています。これを以て、明帝の魏は公孫淵包囲網を完成させたのです。公孫淵はこの時点で既に、滅亡は避けられない運命に陥っていたのです。

*ここまでは、当方の論旨を取り入れたカンペを読み上げていて、大筋に文句はありません。なぜ、些細な勘違いにこだわるのか、誠に困ったものです。

 勿論この策は、司馬懿仲達が考えたものであり、明帝は司馬懿の懸案に従って、命令を発していたのでしょう。

*説明不足と言われると随分情けないのですが、もともと、帯方郡は、明帝の臣下であり、単に遼東郡太守の配下から外して、皇帝直轄に格上げとしただけです。単なる人事異動を、「勝手」、「奪取」は、的外れで滑稽です。秦漢以来の郡制を知らずに、何が、「もち」の「ろん」なのか、不思議です。なぜ無理するのか、不可解です。
*これを、司馬懿の懸案(献策?)と解するのは、貴兄の酔余の思いつきに過ぎず、よく言って勘違いでしょう。
*「本当に」司馬懿の功績なら、韓伝に「明帝の指示により」と書くのでなく、明帝紀に「司馬宣王」の功を滔々と書くでしょう。世間では、陳寿は、司馬懿以下の司馬氏に媚びていたと、勝手に思い込んでいる人がいますが、この記事の扱いに、そのような深意は、一切見て取れないのです。貴兄の読解力の限界を示唆するのは、不届きでしょうか。そうは思わないので、子供に言うように念押しする義務を感じたのです。
 それは、もちろん、高度な史料解釈であり、「訳」(わけか?)などではないのです。いわば、大人の解釈です。小人に分かるかな。
*当方は、相手の知識、経験の不足を攻撃するのは、不本意なので、本件の追求はここまでです。

 以上、貴殿の場合は何か書き込む毎に、貴殿が敬愛する古田説を無理に成り立たせる為に、間違った訳をしていることを露呈し、ぼろを出してるだけのようですね。
 もうこれ以上、噓をつくのは、そろそろお止めになられたら如何ですか?
 なにしろ、古田説自体が間違っており、成り立ちようのない駄目説なので、いくら庇っても、庇いきれるものではありません。

*相変わらず、自信がなくなると「古田大明神」の裾にすがって泣き出すのは、大人の態度では無いでしょう。ここに来て、言葉がだぶついて、目が泳いでいます。ネタ切れですか。
*今回、貴兄に求められたのは、『両郡回収が司馬懿の献策という「思いつき」の論証』であり、説明に窮して逃げ出して悪態を吐くのは誠に困ったものです。せいぜい、見解の相違で済むのに、場に粗相するのは困ったものです。
*せめて「古田説」なる「妖怪」の内容を明示すべきではありませんか。それとも、古田師の著書全部を買い付け、自力で、捜索せよというのでしょうか。困ったものです。
*当方は、間違いがあってもウソはつかないので、貴兄の言は、見事な罵倒、誣告です。(褒めているのではないことを念押しします)何でもないことに動揺し、取り乱して、天下、そして後世に恥をさらさないように、ご自愛ください。当ブログの方針に縛られているので、醜態とは言いませんが。
                                以上

新・私の本棚 番外 makoto kodama 「帯方郡から邪馬台国への道程」1/5

  帯方郡から邪馬台国への道程 当初『古代史の散歩道』について NEW!2023-02-22 16:38:47 補筆2023/05/28

◯始めに 2023/02/23
 氏は、なぜか、ブログ名を誤記し続けているので、これでは、「第三者に迷惑がかかる」とだけ再確認しておきます。
 と言うものの、忽然と訂正されて、後追いで訂正していますが、見落としがあったら、ごめんなさい。
 閲覧する人があるので、勘違いされないように、補足しました。なお、あくまでご参考ですが、ブログ名「パクり」の悪質なかたは、「新古代史の散歩道」と改名しましたが、「パクリ」に変わりは無いのです。弱いものいじめは可愛そうですが、「可愛そう」と、「パクり」の被害者から憐れみを買うようでは、世も末です。恥を知るべきですが、これは、余談です。
 ついでながら、その方は、Wiki騙っていて、本来ブログ・ランキングの違法参加ですが、規則に従うわけでけなく、どんな魔法を使ったのか、Wikiを解体し、ブログに再構成しています。Wikiを「立ち上げて」、知恵を貸してほしいと広く宣言していたはずが、いつの間にか、単なる個人の覚書ブログに転進していて、Wikiに参加しようとしていた人には、とんだ肩透かしです。
 何とも、恥知らずな変節です。いや、「貴兄」には、全く関係ない余談ですが、プログ世界の「闇」を、ご参考までお知らせしているだけです。2023/05/28
 
*本文
 今後は、論義の場なので、二人称を「貴兄」としています。
 折角、コメントを頂いた「ToYourDay」さんには、出来るだけ返信しようと思うのですが、
「ToYourDay」さんの書き込みの大部分は私への誹謗中傷であり、そんなものに私が答える必要はサラサラないので、罵倒は流石にスルーさせていただきました。
 そして、一応学術的要素が少しは見られる部分だけお答え致しましょう。

*どこが「誹謗中傷」なのか「ズル」引用発言で分かるのでしょうか。
*一般読者の理解のために、「誹謗中傷」発言(告発か?)を字数分析いただけると、「大部分」と激昂される意味が明確になるので幸いです。
*それにしても、(血液?)「サラサラ」とは、老骨にはうらやましい限りです。いや、(血液?) ネバネバとしたら、大事件です。

> 「隋書」と言うからには「俀国伝」のことでしょうが、同伝に「倭人」は登場しません。
*隋書全体を読めというご指示には従えないので「伝名」確認しただけです。毎度の早合点で閉口します。

⇒ 「俀国伝」に「倭人」が登場しないとはどういう意味でしょうか?
*論旨明瞭として提示した拙文を読み返していただければ幸いです。
 もしかして倭人と俀國、或いは俀人とは別物だと仰られるのですか?
仮定の質問にはお答えできません、と言いたいところです。この発言を形式的な質問と誤解したら、また叱られそうなので、首をすくめておきます。
 俀国も倭国も同じものです。「ToYourDay」さんは細かなところばかり拘るので、大局を見失い、何の発見もないのです。
*わかりきっていますが、大局は細部に立脚するので、まずは細部から議論を始めるのです。「大局」は、貴兄の信奉教義で絶対神聖、不可侵なのも関係しています。

*「着眼大局着手小局」は、味わうべき先賢の至言です。当方は、新発見を目指しているのではなく、原文原解釈の復元を進めているのです。ご指摘は、誤解とは言え「名誉」です。と言うものの細かなことに「ばかり」固着できていたとしたら、さらなる「名誉」です。

*因みに「倭人伝」に「俀国」と同水準で「倭国」と書かれていないのです。そして、隋書に「俀人」はないのです。ちょっとむつかしいのですが、意味が分かりますか。
 初心者事項なので、確認を控えていたのですが、かなり誤解していて、おかげで、議論がかみ合わないようなので、わかりきったことを確認します。
 漢文は、古典的な中国語であるから、一つ一つの文字が、実は「単語」であり、字が違えば意味が違うのが鉄則です。一方、緩やか、ゆるゆるな日本語の漢字は、融通が効いて、言い換えが大変豊富であり、大違いなのです。このあたり、それぞれ違う規則に従っているのです。そのあたりの違いが分かりますか。

*いや、以上の書き分けは、大抵の日本の論者は、大して気にせずに読み過ごしているので、貴兄だけが取り違えているわけではないので、個人的な批判と取らないでほしいのです。また、貴兄の周辺の方も、同様な誤解に耽っている可能性が高いのです。
 貴兄が、ことさら気づかなくても、別に恥ではないのです。だから、別に批判を個人攻撃と取る必要は、サラサラないのです。

*史官である陳寿は、三世紀当時と古来との用語輻輳を避ける工夫を凝らしているので、当時の「読者」のつもりで明解して頂きたいものです。
 大変むつかしいのは分かりますが、古典書を書いた方の教養は、今日の「日本人」の無教養とは、別世界なので、勝負を挑む必要は無いし、勝負して、後れを取っても、恥でもなんでもないのです。

 例えば、邪馬台国が邪馬壹国だとしてもたいした問題ではありません。
 こんなくだらんことに必死で拘る処も教祖様の古田氏ゆずりですね。
*これは、既に先賢諸兄姉の一部で説かれている革命的な卓見ですが、ぜひ、貴兄も、このような閑散地での発言とせず、堂々と発言頂きたいものです。多分、「くだらん」と切り捨てられた「邪馬台国」派の皆さんから、厖大な非難が殺到するでしょうが、当方の知ったことではありません。
 因みに、ことの重大さが分かっていないのに、「必死」というのは、他に攻撃材料がない、行き詰まりの自白でしょうか。
 これまで、どれだけ多くの人々が、倭人伝に存在しない「邪馬台国」の弁護という労苦に耽っていたか、まさか知らないわけではないでしょうから、このような暴発は、避けるべきです。

*因みに、言うことがなくなったあせりからではないでしょうが、名物の「教祖様」発言は、貴兄の個人崇拝趣味丸出しで応答に困ります。
 何か、個人的な思い入れがあるのでしょうが、それは、ご自分の内面で解決した方が良いでしょう。
 今回の指摘は、要するに、その一点に過ぎないのです。
*読み返して頂ければ分かるように、当方は、特定の説(?)にこだわらず、初心の目で原文改竄の風潮に異議を唱える「イロハのイ」です。分かりますか。本当に、分かりますか。

                                未完

新・私の本棚 番外 makoto kodama 「帯方郡から邪馬台国への道程」2/5

  帯方郡から邪馬台国への道程 当初『古代史の散歩道』について NEW!2023-02-22 16:38:47

*線路は続くよ、どこまでも
> 古田武彦氏は、俗に「九州王朝説」とされる一説を提示していて、

 要するに、隋書の「俀国」は、「倭人」の後裔だとしました。
つまり、卑弥呼~壹与の系統が、「倭の五王」を越えて続いていたと見たものです。

⇒ 卑弥呼~壹与(天照大神)の系統が「倭の五王」を越えて続いていたと見るのは、『記・紀』も同様です。

*折角、貴兄の斬新な解釈ですが、卑弥呼も壹与も「倭の五王」も、古事記、書紀に不在なのは周知、常識、イロハのイです。

 逆にそうではないとする説を立てると、『記・紀』に逆らうことになります。
 私は、天照大神の系譜が現在迄続いてはおらず、天皇家には何度も断絶があると考えているので、『記・紀』に逆らっています。
 断絶の一つが、仲哀天皇と神功皇后及び応神天皇の間です。
 なにしろ、神功皇后と応神天皇は武内宿禰の力を借り、仲哀天皇の血族を全て滅ぼしているので、この系譜は元々連続性がまったくなかった処を、『記・紀』が神功を仲哀天皇の皇后とすることで、無理に天皇の系譜を保たさせたと考えられます。
 私は応神天皇を実際は新羅からの渡来人、即ち融通王=弓月君であり、元々が秦氏の王だったものと考えています。つまり、日本は本来秦氏政権です。
https://ameblo.jp/makoto-kodama/entry-12453726689.html タイトル不明

*何やら、当面の論義外に、大層な字数を費やしていますが、無関係の冗語は「ズル」します。くわばらくわばら。

 ところで古田氏の「九州王朝説」は大和王朝とは別に、九州には倭の五王の王朝があったとする説ではなかったですかね?

*やっと、現世に回帰されたようで、同慶の至りです。
 当方は、議論の手がかりに、周知と思われる「一説」に言及しているだけで、貴兄の所信を踏みつけないように、遠回りしているのです。

 つまり、応神や仁徳及び履中、反正天皇などは倭の五王ではないのです。しかし私は応神は最初九州に王朝を作りましたが、途中から河内に東遷したと考えています。
 つまり、『記・紀』は大部分が正しいことが記されているのであり、古田氏の如く、「倭の五王」は応神や仁徳及び履中、反正ではないとする飛躍しまくった説を騙るのは、あまりにも想像力が豊か過ぎると云うものです。

*「『記・紀』は大部分が正しいことが記されている」とは、当世には随分希で、多分新説なのでしょうが、これほど雑駁な提言を支持する方は、「ほとんど」いないのではないですか。まず、「古事記、日本書紀一体」論は、世人から見捨てられているのではないですか。
*「まくった」「想像力が豊か過ぎる」とは、誰の「尻」に追従するのでしょうか。大丈夫ですか。
*いずれにしろ、貴兄の自己宣伝は、貴兄サイトでは仕方ないとします。
*ともあれ、無関係な雑談で貴重な行数を空費しましたねと指摘します。手元の貴著を開く気が無くなっています。

> それに比べれば、正始魏使が延々と、道里を測量したとの空想譚は罪がない方です。
 誰が考えても、狗邪韓国から末羅国までは、測量のしようがないし、
 奴国、不弥国、投馬國は、魏使が立ち寄っていないので、
 結局、道里が分かるのは、帯方郡から狗邪韓国までの街道であり、
 それは、とうの昔に測量されていたから、正始魏使現地測量説は、有名無実の空砲です。

*折角、丁寧に、丁寧に説いたのですが、「分からない」と「ズル」されたようです。
*因みに、空砲は大変高度な国際儀礼です。念のため。

                                未完

新・私の本棚 番外 makoto kodama 「帯方郡から邪馬台国への道程」3/5

 帯方郡から邪馬台国への道程 当初『古代史の散歩道』について NEW!2023-02-22 16:38:47

*批判を続ける
⇒ どうやら貴殿は古代人の能力を過小評価するのは、かなり妄想力が豊かな方のようですね。

*追従頂いても、文法が乱れている上に、用語が、少なからず意味不明なので喜べません。
 「能力」、「妄想力」って何ですか。普通の日本語で無いと、お相手に、と言うか、世間に、伝わらない可能性が高いのですよ。
*当方の提言の大局を理解できないのに、いきなり些細な点を「過小評価」と断定されていますが、根拠無しの主張はするなと天の声に叱られそうです。

 でも古田説信者には、そのような論者が多いのですよ。何故なら、そう考えないと古田説が成り立たなくなるからです。
*「古田説」なる「妖怪」を偏愛されて、潜入捜査でもしているのか。確固たる統計数値管理を確保されているようですが、「妖怪」/「亡霊」の実体は何ですか。貴兄は、格別の熱意で、古田氏の、確か30冊近い著書を読破されてのご意見でしょうが、一般読者にそれを見習えとは、あんまりです。
 因みに、貴兄は、「古田説」論者を大勢知己とされているようですが、「古田説」の情報源なのでしょうか。

 狗邪韓国から末魯国迄の測量ができないとは、海の上の測量は出来ないと言っているのでしょうが、当時の海人族は、測量の為の様々な技術を持っていたはずです。
*「当時の海人族」は、引用符無しの不意打ちで、貴兄の独創の独自用語のようですが、当方は、にわかに、具体的に認識できないので「様々な技術」とどんぶり勘定されても、何のことやら分かりません。「根拠無しの主張はするな」と、叱られそうです。
*大相撲の技ならともかく、「はず」の決め技は感心しません。要するに、そのような技術は、実在しなかったと半ば自認して、損しています。

 なにしろ、実際に『魏志倭人伝』には里程が記されていますからね。
*何が「実際」なのか。先に挙げた趣旨説明が「無理解」でしょうか。自分好みの情報だけ取り出すのは、貴兄が、「密かに」私淑されている古田氏の手口と、丸見えですよ。

https://www.yachting.com/ja-jp/news/how-to-judge-distance-at-sea タイトル不明

*突然、水平線の向こうから担ぎ出されているのは、yachting°comマガジンに掲載された「海上での距離の測り方」なる記事のURLだけの引用のようです(然るべく特定されていないので、確認困難)が、このような形で貴兄の「実際に…里程が記されています…」発言の責任を押しつけられて、記事筆者はご迷惑と思います。いや、多分ご存知ないのでしょう。何の相談も無し(注記無しなので、そのように思われる)に、引き合いに出されて、責任を問われるのは、だれが考えても、不本意でしょう。

 同サイトには、特に権利関係の掲示はありませんが、と言うことは、同サイトの記事は著作権が有効な「著作物」であり貴兄が引用を「ズル」(「スルー?」)したのは無理からぬところですが、このように、第三者の曲解を誘う示唆は、同記事の利用として、「かなり好ましくない」ものと思います。因みに、当方は適法に引用しています。

当記事は、あくまで、海図、羅針盤をはじめとする現代科学機器を備えた練達の船乗りのご意見であり、同一状況での「天の声」として、なぜそれが三世紀の状況に適用できると考えられたか、素人は、理解に苦しみます。三世紀に、海図、羅針盤,六分儀などは一切無かったし、 メートル法/SI単位は無かったし、海里も無かったし、そもそも、当時の里の長さが問われているのに、この「立証」記事は、誠に不可解です。
因みに、三世紀当時、高精度の羅針盤どころか、磁石も無かったのです。
因みに、貴兄が頑として根拠とされるなら、ご自身で記事筆者に、趣旨確認頂きたいものです。本件の論義は、それまで脇に置きます。

[引用開始]
 私たちの目は、対象物との距離によって、次のように見分けることができます。
400mまで:衣服の細部、見慣れた人など  [中略]
2,000mまで:中型の孤立した樹木
4,000〜5,000mまで:道路や家屋など
ただし、これは船から陸地が見えている場合、たとえば島と島の間を航行する場合などに限られる。しかし、外洋では距離の測定はより複雑で、常に誤差が生じる。その精度は、航海士の経験に比例する。例えば、経験上、ボートから1海里離れた物体は、視界の良いところでは手の届く範囲に見えるが、視界の悪いところではもっと遠くに見える。
[引用終わり]

 記事を熟読しても、とても、とても、貴兄が当然とされている「測量」にほど遠い、「あやふやな目測」でしかないのです。いや、「倭人伝」は、陳寿の適切な配慮により、無用な端(はし)た里数を記載せず、千里単位の「どんぶり勘定」なので、このような命がけの精緻な目測は、「はなからいらない」のです。
 ついでに言うと、当時は、遠方から視認できる「道路」、「橋梁」はなく、遠目で見て取れる背の高い建築物も無かったのです。どんな手段で、千里の果ての地形を精測できたのか、ご教授頂きたいものです。(誰か、言葉の通じる人が、回答してください。「スルー」は、ご勘弁ください)
 こうした理不尽な主張は、「倭人伝」原文に、「縁」がない風聞として、早々に引き取って頂きたいものです。

                                未完

新・私の本棚 番外 makoto kodama 「帯方郡から邪馬台国への道程」4/5

 帯方郡から邪馬台国への道程 当初『古代史の散歩道』について NEW!2023-02-22 16:38:47

*ヨット話続く
*海上での対象物との「距離」の、大変大雑把な、但し、実務に差し支えない程度の認識方法として示唆頂いていますが、あくまで、現代でのヨット航海の話であり、これは「測量」とは、全く別のものです。三世紀時点の公式道里測量方法として時代考証技法として有効かどうか、再確認いただくことをお勧めします。要するに、無茶なこじつけは、早いこと卒業することです。そうで無いと、何を主張しても、信用されないどころが、耳を貸してもらえなくなるのです。

*例えば、対馬から韓国釜山付近までの「距離」は、5,000㍍を随分超えているように見え、素人考えでも、水平線効果や霞による認識の困難性が、随分あるかとも思われますが、三世紀に於いて、そのような状況での「測量」を証するのは貴兄の義務なので、当方は手を出しません。お大事に。

これを出来ないと決めつけるのは、単に貴殿が思考停止に陥っているだけでしょう。
*ご心配頂いていますが、取り敢えずまだ脳死には陥っていないので、救急車に無駄な出動を促すような発言は、控えて欲しいものです。因みに、貴兄から「貴殿」と呼ばれるのは、独自用語の罵倒なのかと、不安になります。一度、精密診断を受けたら良いのでは無いですか。

*因みに、当方の言っているのは、合理的な判断として、魏志が、重要任務の途上で、高度に困難な海上道里(?)測量したとは、とてもとても思えないと言っているのです。これは、当時の諸資料に総合的に基づく判断なので、異議があれば、第三者に迷惑をかけないように、具体的に有効な証拠を提示して欲しいものです。

倭人伝の三度の渡海行程は、一律千里であり、これが、「測量」されたものでないことは、むしろ「通念」と思うのですが、なぜ、そうでは無いと思うのでしょうか。勝手に「測量」したと決め付けておいて、それが、中国古代の「普通里」(四五〇㍍程度と想定)と測量値が整合しないと、古代人を非難しているのか、誠に不可解です。

但し、海上の距離計測は歩数を数える陸上に比べどうしても、誤差が多くなります。
六倍近い齟齬は、「誤差」などと呼べないのは、学術的に明らかです。

だから、『魏志倭人伝』は陸上の里程の方が、海上の里程よりも長くなっているのです。
とれとれの新説のようですから、早速論証してください。

> ついでながら、魏晋と交渉のあった「倭人」は、国名、王名、王城の位置、戸数、道里を公孫氏を介して魏朝に報告することによって、中国王朝の臣下と認められ、魏明帝から「親魏倭王」印綬を受け取っていたので、最早、所在不明の夷人ではなかったのです。
⇒ 倭人は夷人です。

*文意を取りこぼして当方が「アホで間抜け」と言いたいように読めますが、まずは、当方の意見は「最早、所在不明の夷人ではなかった」と、丸ごと理解いただきたいものです。それが、初歩の初歩です。古代史学の幼稚園です。大分、「聞きかじり症候群」が浸透しているように見受けますが、大丈夫ですか。

 貴殿は古田説が成り立つように最早、所在不明の夷人ではなかった偏向した考えばかりされるので、そのような珍説に陥るのでしょうが、「倭人伝」が「東夷伝」の中に記されていることからも、倭人が夷人であることなどは当たり前の話です。

*「当たり前の話」で理解度を確認したので、早速報復されていますが、ここだけは、読めているようです。「偏向」云々は、個人それぞれで異なる「世界観」の問題なので、ことさら、貴兄の主観を言い立てても、自爆になるだけです。大丈夫ですか。

                                未完

新・私の本棚 番外 makoto kodama 「帯方郡から邪馬台国への道程」5/5

 帯方郡から邪馬台国への道程 当初『古代史の散歩道』について NEW!2023-02-22 16:38:47

*線路は、まだまだ続く
*「独自で新奇の説」と評価頂いて光栄です。理解できない主張を批判する心境は、気の毒としか言いようがありません。それにしても、困ったときの定番「古田説」頼みは、忠誠宣言としても珍妙なものです。貴兄の住まうこの古井戸の中での意見では、何の役にも立たない「お追従」と見えますから、失礼させて頂きます。

 ところで、「倭人が公孫氏を介して、魏朝に報告した」とは何事ですか?
 そんな大間違いの読み方をしているのは貴殿だけですよ。
*「貴殿だけ」とは、二人きりの場でと言う事でしょうか。随分屈折した言い方ですが、大丈夫ですか。当方の「仮説」の当否は、貴兄一人に決めて頂く者ではないのです。

*公孫氏は、後漢建安年間から魏景初年間あたりの漢魏制郡太守であり、所管地域の夷人を仕切る義務があったので、取り次ぐも取り次がないも、公孫氏の権限内だったのです。貴兄が、何を元に判断されているのか不明、不可解です。貴兄の知己が、何を知っていて何を知らないかも、当方には不明なので、論義できません。

 貴殿の解釈は古田説を成り立たせようとするバイアスが掛かっているから、そんな妙な訳を思いつくわけですよ。

*当方は技術者上がりなので、「バイアス」は大変な褒め言葉です。
貴兄が広く信者を募っているのであれば、何が言いたいのか意味が通じない可能性が高い、生煮えの独自カタカナ語で無く、「普通の日本語」で語ることをお勧めします。と言いつつ、絶「妙」との賛辞は感謝します。

 倭国は長い間公孫氏に邪魔されて、後漢や魏との交易が出来なかったのです。
「長い間」とは、いつからいつまで、何年間を称しているのでしょうか。数値化していただかないと理解も同意もできないお願いするのは、別に「罵倒」にはあたらないと思いますが、貴兄の辞書は不可解なので断定はしません。
 要するに、後漢と言っても、「曹武」曹操が仕切っていた後漢献帝建安年間であり、公孫氏の天下は、二代皇帝明帝曹叡に滅ぼされたので、ほんの一瞬に過ぎなかったのです。
*当たり前のことを言うのも辛いのですが、中原王朝が、仲介抜きで蛮夷と「交易」とは、何とも名状しがたいものです。大丈夫ですか。

倭人伝を含む東夷伝は、遼東公孫氏が討伐に値したとの趣旨で書かれているので、正確な理解には、十分注意する必要があるように思量します。

*当方の提案では、「公孫氏は、倭人の存在と素性は報告済み」と見たものです。でないと、明帝指揮下の新太守の進言で倭使を招聘しても、洛陽から上洛許可が出るのが早過ぎないでしょうか。もしもし、分かりますか。

 ところが景初二年(AD238)魏が楽浪・帯方二郡を奪取して倭国との道を開くと、この時を待ち構えていた卑弥呼は、大急ぎで魏に貢献使を送りました。だから貢献物が生口十人と僅かな布だけと云うしょぼいものになってしまったのです。
*貴兄は、倭使の貢献ならぬ手土産を「しょぼい」と速断しますが、その場にいなかったのに、後世東夷の私見の押し付けは如何なものかと思量します。倭人は、ぶっ殺された公孫氏への献上並に、精一杯豪勢なものを意図したはずです。
 「奪取して」、「道を開く」、「待ち構え」とか、何の記録もない事柄で、話を盛り上げるのは感心しないものです。

◯総評 補筆2023/05/28
 同氏が、当方が念入りに書き込んだ論説の文字を読み解けないのは、大分分かってきたので、最後のお願いとして、以上の反論を上程したものです。
 当方の掲載した記事は、かくのごとく全文記録され、相当長期保存するので、読者各位におかれては、氏の発言が当方の助言への応答として妥当かどうか、個別に検討いただければ、幸いです。匙投げカウントダウン状態です。

 なお、今般(2023/05/28)、閲覧回数が伸びたので、苦心の論点を読み過ごされないように、補強しましたが、趣旨は、一切変わっていないので、よろしくご了解頂きたいものです。
 最後に確認すると、当方が、氏のブログ記事に、丁寧な批判意見を出したのは、氏においては、知識、教養、文章独解力が不足していると思われるのに、特に関わりのない事項で、特に通暁していない「古田説」を罵倒しているからであり、よくよく言い聞かせても、感情に流されて、耳を貸さないからです。
 氏の理解力は当方の責任範囲ではないので、話が通じなかったのは、人のなし得る最善の努力を超えていたからであると独り合点して、締めくくっています。

                               以上

新・私の本棚 鳥越 憲三郎 「中国正史 倭人・倭国伝全釈」肆 1/10

中央公論新社  2004年6月
私の見立て ★★★★☆ 労作 必読 批判部分 ★☆☆☆☆ 2023/02/21 2023/05/27 2024/02/11

◯始めに
 本書の書評は、既に掲示していますが、不徹底と文句が付いたので、再度取り組みました。先行書評は見ずに、一から書き起こしているので、重複はご容赦ください。
 因みに、本稿は書評を手がかりとした随想録であるので、自ずと新規性については、限界があるとご了解いただきたい。もちろん、高い基準で批評されるのは、評者の勝手ですが、一度、洗面台で鏡に見入ってから、大声を出して欲しいものです。

 と言うことで、当然のことを明言しますが、ここでは鳥越氏の中文史料解釈、主として/専ら/ほとんど、魏志「倭人伝」評を述べます。当方は、鳥越氏の「三国志」評について云々する知識はないので、言及範囲が限定されていることをお詫びします。但し、限定された範囲、掘り下げを承知の上で、ここに公開した素人書評をご批判頂ければ幸いです。

 因みに、評点のからい批判部分は、鳥越氏の学識に対して補充されたものと見え、氏が専門としていた領域外に取り組む際に、助言と同意を仰いだため、結果として助言者の諸説に従ったと見うる点が多いように思うのですが、鳥越氏は、あくまで、氏の所説として、本書を書き起こしているので、氏の素人臭さの批判も書評として取り扱っているものです。

*総評
 氏は、従前に無い史料解釈を述べているとしていますが、氏が、魏晋代「学者」で無い以上、何らかの資料文献に従って解釈し、日本語に書き改めたものと見ますが、氏は、根拠資料を明らかにせず、よって頭から減点です。
 因みに、当方の知る限り、国書刊行会の労作を含め、先人の数編の労作があるから、獨断と見られる書き方は避けた方がいいようです。氏は、未踏の地に足を踏み入れたわけでは無いから謙虚であって欲しいものです。

*序奏~余談 「卑称」について
 卑弥呼は、東夷にあっては至高の存在でしたが、海北蛮夷に対して、あえて「卑称」したと見え、後世人は見習いたいものです。

*水行談義
 「水行」は、三世紀当時に先だって、中国圏に展開されていた水陸交通網、つまり、諸処に規定の間隔で宿駅、関所が設営され、行程道里と所要日数が規定されていた結構/体制であり、「倭人伝」は、そのような体制が、少なくとも、半島内に施行されていたと述べています。半島は、とうの昔から、「法と秩序」に守られた文明世界だったのです。

 本来の意義に従うと、「水行」は、「水」の「道」、「河川に従って形成された道」を言います。この点、当時の常識は「自明」故に述べず、東夷に於いて「常識」に従わない事例を述べたと見るのが史書筆法として最も普通です。

 この点、世上、中国古典書の筆法を知らないために、はなから誤解しているのは困ったものですが、みんな知らないから誰も指摘しないようです。それにしても、「聞いたことが無い」、「分からない」と高言するのは、自虐的な発言と見えるのですが、自覚されていないようです

*「植民地」の虚妄~借り物の世界観
 いや、そもそもそれ以前の氏の解釈は「異様」です。楽浪郡を「植民地」と解しますが、当時「植民地」など別世界の時代錯誤で実在しないのは自明ですが、意味不明のカタカナ語同様、サクラ咲いて蔓延っています。

*帯方「郡」創設~双葉の時代
 また、伝統ある楽浪郡の南部帯方縣を郡に格上げして、半島中部以南の「荒れ地」、つまり、天地の果て、万里の彼方を管轄させたのです。それまでは、郡で無く、単なる「縣」で、城壁石垣も脆弱で兵も乏しく、薄給だったはずです。そして、昇格し郡治となっても所在地は移動していないと見えます。すくなくとも、文書の送達先の「住所表示」は、不変だったと見えます。

 と言うことで、帯方郡は、漢魏晋制の本格的な郡で無く、いわば、遼東郡傘下の二級郡だったようです。草創期の帯方郡は、それまで、楽浪郡の南部で南方の韓、穢、倭を応対していた「帯方縣」を格上げしたものであり、県城を拡張したとも思えないのであり、領分も、特に代わっていなかったので、いわば、税収のない荒地を抱えた極めつきの貧乏郡で、城壁も郡兵も舞台の書き割りの可能性があります。
 要は、万事遼東郡に報告し、ご機嫌取りしていたのです。いや、それにしても、明帝景初の回復までのことですが、それまで「郡」と言えば、秦始皇帝創設の「遼東郡」、漢武帝創設の「楽浪郡」しか無かったのであり、まがい物の帯方郡は、後漢、曹魏の世紀の郡であったかどうか不明のまがい物であって、遼東郡の手先、走狗しか無かったのです。

 遼東郡公孫氏は、最盛期には、遼東半島から山東半島に渡海、進出し、戦国齊の北部を領有する「大国」になっていたのです。但し、過大評価は、禁物です。曹操の台頭で後漢中央が復興して、公孫氏の遼東郡太守の分を越えた黄海海南占拠を叱り飛ばすと、公孫氏は、曹操の軍事力、特に、騎馬軍団を多用した速攻の鋭さは、よく知っていたので、さっさと遼東本領に回復したのです。曹操は、法と秩序を重んじるので、遼東の地で郡太守の領分を守っている限り、取り敢えずは安泰とみたのでしょうか。

                                未完

新・私の本棚 鳥越 憲三郎 「中国正史 倭人・倭国伝全釈」肆 2/10

中央公論新社  2004年6月
私の見立て ★★★★☆ 労作 必読 批判部分 ★☆☆☆☆ 2023/02/21 2023/05/27 2024/02/11

*帯方郡比定談義
 氏は、帯方郡を「漢城」(ソウル)と解していますが、当時、漢江河口部は、南北漢江の広大な流域から流下した厖大な川水、土砂のために、氾濫の絶えない扇状地であり、郡治を新設して石垣城郭造成などはしなかったと見えます。
 いや、現代では、南漢江上游(上流域)は、大容量貯水池(多目的ダム)によって治水されていますが、地域の峡谷は、蛇行する漢江が穿入蛇行の絶景を呈していますから、往時の暴れ川の様相が偲ばれます。
 半島中部西岸と山東半島東莱との往来は、漢城付近から、漢江河口部を越えて、さらに南下した、後世の唐津(タンジン)海港あたりの入り江と見受けられます。帯方郡は、この要所に高位の管理者を常駐したと見えます。また、恐らく、防衛のため、韓国に散在していたような山城を設けていたはずです。いや、短期間に強化したとは思えないので、既存の施設、組織を強化するにとどめたはずです。
 諸般資料から、ゆるりと推定されますが、「そうではない」と排他的に主張するなら、臆測や感情論で無く、確証を示して頂ければ幸いです。

 常識的には、帯方郡治は、黄海岸を結構離れた高台の陸地で、楽浪郡とは街道で緊密に近距離連携していたのではないでしょうか。何しろ、往時の帯方郡は、遼東郡支配下領域の南の端の帯方縣であり、遼東郡治から帯方郡治まで続いていた幹線街道の先に続いていた郡内街道の果てにあったものであり、あくまで、県の組織を嵩上げしたものと見えます。つまり、帯方郡治は、移動、新設されたものではないはずです。

 要するに、郡治は、地理的には北漢江上游(上流域)に近かったと推定しているものです。一路南下するには、北漢江利用が簡便ですから、郡治から東に移動して、荷物は、河流下りに委ねたものと思われ、逆方向も、さほどの苛酷な遡行では無いので、北漢江行程は、並行する陸道とともに、安定していたものと見えます。と言っても、これは、新規に造成したものではなく、楽浪郡時代からの継承と見えるのです。

 これは、あくまで、個人的な意見であり、くれぐれも、読者の意見を排除する意図はありません。以下同文。

*曇った「事実」
 因みに、先だって、氏は、前漢代朝貢の「事実」は無かったと根拠無しにおっしゃいますが、氏の語彙で、「事実」は「史実」、史書など公文書に記述された記録のようです。一般的な「事実」と主張されるなら、「無かった」とする史料を提示頂きたいものです。
 「倭人伝」は、「漢時」と「今」だけで具体的年代は不明です。いや、念のために言うと、中国史で「漢」は、大抵の場合、高祖劉邦から、最後の献帝まで、一続きの帝国なのです。正史で言うと、班固「漢書」と笵曄「後漢書」を一続きとみて、「司漢」、つまり、司馬遷「史記」と「両漢史」の二大史書と捉えることもあるくらいです。覿面に、「三国志」の存在価値は僅少化し、かくして、魏志「倭人伝」は、「海中一墨滴」と言われるのです。くれぐれも、「一墨滴」と「海水」が、対等などと言わないことです。

 と言うことで、氏は、中国古代史料に通じていないために、多年に亘りアジア各国の文化人類学的調査を重ねた鳥越氏にとって、「中國」は、眠れる獅子というものの、歯の抜けた老妄の獅子と速断したようですが、不明瞭な記事を元に、そのように断罪、断定するのは、いかにも軽率ではないでしょうか。率爾ながら、ご意見します。

*深追いの弁
 いや、この件に限らず、氏が、不慣れな分野について、不見識のままに、誤解交じりの記事を書いたことは、特に立証を要しません(諸賢にしたら、承知の筈です)が、世間には、当方が、いわば、武士の情けでお茶を濁した点まで論証せよという輩がいて、氏の名誉にならない点まで、書かざるを得なくなりました。

*批判の対象
 当たり前のことを繰り返すと、当方は、一回の初学の素人としてかねてから敬服している氏の広遠な学識と該博な著作全体を云々しているのではなく、ひたすら、氏の本分と思えない「倭人伝」解釈に限って見ると、氏の慧眼が曇ってみえると指摘しただけで、氏に対する尊崇は変わっていません。一墨滴で、氏の全学識を否定するなど、無謀の極みで、当方の最も嫌う独善です。その程度は、取り立てて言わなくても、理解できる読者を相手にしているつもりだったのですが、案外でした。

 また、本稿は、鳥越氏ご自身に問い掛けた態であり、横合いから、無教養な野次馬に介入を求めたものではありません。後世人が無批判に本書を承継しているので問題提起し、単に、少々是正頂きたいと表明しただけです。
 因みに、当方自称は「卑称」で、頭を下げたのを踏みつけるのは無礼です。

*率直な意見
 氏の見過ごしは、根本的には、「倭人伝」、ひいては道里記事解釈の出発点の誤解にあるものと見えます。当記事は、あくまで、漢魏代に遼東郡を介して洛陽に知られた「倭人」の身上の一部であり、俗に「帯方郡を魏の出先」と言い切ると、当記事は、郡から倭への文書使行程を予告/報告したのであり、正始とそれ以降の魏使の道中記ではありません。あまりたびたびは言いませんから、読み飛ばさずに、注目ください。

 誤解を前提に間違った理路から発したら、先に進むほど正解と乖離して、引っ込みが付かなくなるものであり、本来、出発地点で。熟慮を重ねて前途を見定めるべきです。ご自愛頂きたい。

*笵曄「後漢書」倭伝~司馬彪「続漢紀」郡国志
 率直なところ、先行した陳寿「三国志」東夷伝を先取りしたい」という、笵曄の思惑につられて、逆順紹介の不具合を呈しているのは、一読して不都合です。後世読者も、陳寿「三国志」魏志東夷伝倭条(と呼ぶ人もある)は、笵曄「後漢書」東夷列伝倭伝(なぜ、倭条と呼ばないのか不審)の冗長な二番煎じとみて、ろくろく顧みなかったと見えるのです。

                                未完

新・私の本棚 鳥越 憲三郎 「中国正史 倭人・倭国伝全釈」肆 3/10

中央公論新社  2004年6月
私の見立て ★★★★☆ 労作 必読 批判部分 ★☆☆☆☆ 2023/02/21 2023/05/27 2024/02/11

*楽浪郡幻想~笵曄の華麗な創作
2.氏は、楽浪郡の「檄」に無頓着ですが、漢武帝時に楽浪郡を創設した時点の長安から洛陽を経た公式道里、「樂浪郡、雒陽東北三千二百六十里」が記録され、郡治移動に関係なく維持されたから、楽浪郡治は、倭道里基準点とはなれないものと見えます。
 そのため、樂浪郡南方の帯方縣治を「檄」としたと見えます。よって倭の万二千里、狗邪韓国の七千里は、魏志を引き写したのです。後漢霊帝期までに、郡から倭に至る道里は知られていなかったので、臆測したのです。

*喪われた帯方郡創設記事
 後漢末各郡地理を記録した司馬彪「続漢書」郡国志に、帯方郡は書かれていません。帯方郡創設は、後漢献帝建安年間で、本来、直ちに所管官庁に報告され、同郡国志に記載されるはずが、実際は欠落していますから、唐代に、同郡国志を収容した笵曄「後漢書」東夷列伝倭伝の倭道里記事の出典/根拠は不明です。もともと、笵曄の東夷列伝「倭伝」情報源は不明ですから、笵曄の創作かと懸念されます。
 要するに、南朝劉宋代に、後漢書東夷列伝/倭伝に利用できる公文書は、魏志倭人伝以外に無かったと見えます。鳥越氏の本意は不明です。
8.「倭奴国奉貢朝賀」記事は、笵曄「後漢書」光武帝本紀の引き写しですが、当然、「倭奴国」なる蕃王が洛陽に参上したと見るべきで、「倭」の一構成国である「奴国」が朝賀することはあり得ないと見えますが、氏は、漢制の厳格さを知らないと見えます。東夷列伝で、「倭国」は、「倭奴国」の略称とみる方が合理的です。

 同時代史書 袁宏「後漢紀」光武皇帝紀によれば、同様に「(中元)二年春正月…丁丑,倭奴國王遣使奉獻」ですが、笵曄「後漢書」東夷伝の独自部は、掲示していませんから、根拠となる史料が存在していたかどうか不明です。
 なお、氏は、「倭の奴国」が、倭国の極南界と解していますが、よりによって、最南端の国が代表し遣使したとは不可解です。まして、其の国が、半島南端、倭国から五千里の彼方の狗邪韓国を併合とは、氏の勘違いでしょう。
 それほど抜群の強国なら、周辺諸国をも統一支配したと見えますが、それなら、「大倭王」「邪馬臺国」とは、何なのでしょうか。

 世上周知のはずの「春秋左氏伝」によれば、「臺」は、最下級の身分であって、手ひどい蔑称ですから、陳寿のような正式の史官は避けるでしょう。
 総じて、辻褄の合わない急普請と見え、氏のために惜しむものです。

陳寿「三国志」「魏志倭人伝」アットランダム
1.國邑
 国郡のことと暢気ですが、中国古代では、「国」も「郡」も、九州島を楽楽収容できる巨大領域です。
 氏の認識では、到底、戸数千戸台の倭人の国邑」、つまり太古周代の様相を適確に理解できるはずはありません。
 陳寿は、同時代読者が誤解しないように、現地の様相を周代初期に例えているのですが、笵曄等、後代論者には理解されなかったと見えます。ただし、但し、周代の「國」邑は、隔壁/城壁で囲まれた聚落であり、「倭人」の「國邑」は、州島、つまり、渡し舟で渡る「中之島」なので、隔壁/城壁がない、いわば、むき身の貝のような存在であると明記しています。

2.虚妄の始まり~無かった砂浜
 鳥越氏が想定する長途の海上航行船舶は、甲板に保護された船倉/船室が不可欠であり、浜に引き摺り上げる小型の船ではありません。
 当時、砂浜は、韓国大河河口に限定と推測します。というものの、海上航行は、当方の知ったことでないので、深入りはご遠慮申し上げます。この無理の是正に厖大な努力が費消されるのは、見たくありません。
 この際、正解に至るのに是正策は不要です。漢代以来、楽浪郡、帯方郡に至る公式街道は、遼東郡から一路南下であり、「倭人伝」行程は、当然、自明、説明するまでも無く「陸上街道」です。

 論外の事項をあえて論じると、当時、山東半島との船舶往来は、遼東半島から渡船で乗り入れるものであり、韓、穢、倭専任である帯方郡の管轄外なのです。また、帯方郡南方の後の「唐津(タンジン)」からも、山東半島行きの渡船が出ていたようですが、海岸沿いの手漕ぎ船による航行は、実際上不可能です。
 いずれにしろ、騎馬疾駆の文書使往来を前提とする官制「公式街道」が、海岸に出て、手漕ぎ船で南下航行することはあり得ないのであり、「倭人伝」は、帯方郡を発した公式街道を書いているので、そのような不法な行程は書かれていないことを念頭に明記すべきです。

                               未完

新・私の本棚 鳥越 憲三郎 「中国正史 倭人・倭国伝全釈」肆 4/10

中央公論新社  2004年6月
私の見立て ★★★★☆ 労作 必読 批判部分 ★☆☆☆☆ 2023/02/21 2023/05/27 2024/02/11

*現代人の常識、晋代史官の非常識
 以上で先触れしたように、陳寿始め、洛陽史官や同時代読者は、「公式街道が海に出る」など、一切念頭にありませんから、後に、狗邪韓国の海港から南に渡海する事態の予告として、ここで、「渡海」即ち「水行」なる新規概念を史書書法に従って導入したのです。
 当たり前のことを言うのも億劫ですが、当伝に至るまで、公式街道の「水行」はなかったので、後段で「水行」を予告なしで持ち出すと、不当書法として排斥される危険、と言うか、確実な事態が想定されました。だから、そのように未曽有の特別事態に適合する特別な書法としたのであり、前例のない事態に、先例などあり得ないのです。
 これも、言って聞かせるしかないのですが、異例の「水行」は、後に全行程総括で全工程を「水行」「陸行」と分類・明示するための前提であり、街道「陸行」区間と並行する街道のない「水行」区間を峻別した周到なものなのです。
 素人には分かりますまいが、当時の官制は万事命がけだったのです。

*街道維持の責務~帝国の動脈/骨格
 「陸行」区間の保全管理による期間厳守は、郡太守の責務であり、失態は更迭の危険をはらんでいますから、厳格な「陸行」区間と天候等不可抗力の遅延が許容される「水行」区間を区分したと見るのが「自然」です。
 以上は、後漢瓦解の根源が「規律」、「法と秩序」の崩壊にあったと確信していた魏武曹操の遺令であり、孫の明帝曹叡も厳格に守ったと見るべきです。以上の大人の理屈が理解できないなら、勉学に励んで貰うしか無いのです。

*止まり木を選ぶ
 と言うことで、鳥越氏は、ご自身の教養の不足部分を時代考証で補う労苦を厭われて、いずれか、先学の諸兄姉の教示を仰いだようですが、批判精神が行き届かなかったものと見え、不都合な「誤解」を継承しているため、師弟もろともに、「誤解」の泥沼に呻吟していて、誠に、残念です。以下同文は、略します。
 因みに、「諸兄姉」と匿名ですが、(順不同で恐縮ですが)『中国太古/古代史分野に於いて学識豊かな白鳥庫吉、内藤湖南、貝塚茂樹、宮崎市定諸師、また、漢字学の権威である白川静師を代表として、中国史料に関して、当然教示を仰ぐべき諸師』は除外されます。もし、鳥越氏が、ご自身の見識の由来を述べることを忌避されたのなら、その理由を明記する義務が有るものと推察します。

*余談~南岸航路の疑問
 鳥越氏は、暢気に、韓国西海岸を経て南端の狗邪韓国に至ると「異説」に唱和していて、口ぶりは明快ですが、素人目にも、それでは、西岸の南方、耽羅までの難所が、何かの奇蹟で乗り切れても、南岸は別の難儀であり、理解に苦しみます。
 率直なところ、「異説」の仮想船団が、なぜ、当時、往来が活発と推定される對海國を目前に、大きく北方に迂回して、狗邪韓国に入港したのか不可解です。当経路は、当方の想定外で深入りしませんが、途轍もなく不思議です。
 いえ、この難点は、「異説」の唯一の難点ではないので、ここを言い抜けするのは、無意味です。もし、「異説」を主張されるのであれば、先に述べた頑固な難点を克服する必要があります。

*隋書「俀国伝」参照
 当方の好まない後世文献参照ですが、周知の隋書「俀国伝」によれば、隋使裴世清は大型の帆船で航行し、狗邪韓国故地に立ち寄らず、對海國後裔と知れていた對馬を経てか、一大国後裔の壱岐に乗り入れていますから、操船/操舵困難な外洋航行用帆船を、無理に、狗邪韓国旧地に寄り道する必要は無いのです。手漕ぎ船では、帰途が一段と困難です。安全、確実な陸路を踏破する行程の果てに狗邪韓国に着くから、そこから、対海国、一大国、末羅国と三回に分けて、手漕ぎの渡船の便船で渡る行程道里が書かれているのです。以下、末羅国で上陸して、本道、つまり、陸上行程に戻るのです。
 つまり、数世紀先行する、航行能力で未発達な「用船」が、難所に乗り入れて窮する可能性の高い航路を、貴重で、しかも重大な、つまり、目方と嵩の大きい荷物を積んで、未知の難航に挑んだかと、人ごとながら大変不可解です。

 余所様の提案のボロ隠しは、ご辞退申し上げます。

                                未完

新・私の本棚 鳥越 憲三郎 「中国正史 倭人・倭国伝全釈」肆 5/10

中央公論新社  2004年6月
私の見立て ★★★★☆ 労作 必読 批判部分 ★☆☆☆☆ 2023/02/21 2023/05/27 2024/02/11

*「乍南乍東」の一解
 氏は、南下する際、上陸の際に東に進むことと解していますが、誠に策士策に溺れるです。出港で西に向かうのをお忘れですし、先に述べたように、南海岸では、全く通用しません。敵は、方位に疎い漢民族です。「倭人在帯方東南」ですから、郡を出た官道は、東ないしは南の方向に進むに決まってるのです。
 きまりが悪いのか、氏は、この下りを駆け抜けます。因みに、都合悪いところを端折るのは、誰でもすることで、氏を非難しているのではありません。

*魚豢「魏略」談義
 因みに、氏は、しきりに、陳寿が魚豢「魏略」を参照したとしていますが、史官は、漢魏公文書を編纂して正史としたのであって、魚豢「魏略」のような非公式文書は、公式文書欠落時の緊急避難です。裴注で追加されたが、陳寿が没にしていたと推定される諸資料を見れば、全て明解です。
 氏は、中国正史の編纂がいかなるものか、ご存知ないようですが、それは、氏が教示を仰いだ先賢諸兄姉の落ち度であるから如何ともし難いのです。

*「首都」の怪~国産熟語の不合理
 ついでに言うと、氏は、古代壱岐國に「首都」があったと時代錯誤に耽っていますが、同時代用例では、「首都」とは、魏文帝が、「漢代以来皇帝の滞在した諸都の発令文書が交錯して各地の機関が困惑したのを是正した」際、長安、許昌、鄴など旧「都」を有効と認めた上に、洛陽を首たる都、「首都」と称したのであり、氏が誤解されているように蕃王居処を「都」とするのは、不敬/死罪です。
 因みに、もし、一大国に王城が認められていたら、城名が記録されそうなものですが、そのような記事はないのは、氏も承知のことと思われます。時代錯誤というのは、そうした複数の要因を指しています。
 中国語にない蛮夷文字を「国字」と言い、例えば、辻、峠などが相当します。恐らく、中国語が不自由な百済で「ふりがな」めいた補助文字と並んで、発明・常用された国字が、中国から厳禁され、海を隔てた当地で生き残ったとみられます。差し詰め、「宮都」は「国語」であって、「倭人伝」論義には禁句、ついでに言うと、後世の日本式律令も厳禁です。

*混迷の所在比定
 氏は、根拠無しに、つまり、ここに至る文献解釈にないのに「邪馬台国」を伊都国から往復一ヵ月の遠隔地に追い、郡使などが一旦伊都国に待機したと見ていますが、そのような隔絶は、「倭人伝」読者に理解不能です。

*渾身の大河ドラマ~鳥越流「邪馬台国」比定
 氏は、独創の大河ドラマを創出して、末羅国から伊都国、奴国、不弥国と海岸沿いに海船を発たせますが、そのような大作は、「倭人伝」に書かれていません。氏は、ドラマを正当化するために、記事中の方角を無根拠で改竄していますが、それは無理というものです。自分の気の済むように史料を改竄するのは、当業界の通俗であっても、史学者として最後の隠れ家でしかありません。
 「最後の隠れ家 」 は、大抵の場合無意味です。

7.投馬国行程は、ハッキリと「南」ですが、氏は当然「東」とにべもありません。一度だけ言うと、魏使一行の大半は、帯方郡住民であって多分漢族では無く、幾度か倭と往来しているので、そのような子供じみた錯覚は持ち合わせないはずです。

*止めどない「延喜式」依存症
 続いて、氏は、定番となった「延喜式」を持ち出しますが、数世紀後の街道整備された時代の法的規定を三世紀の蛮夷に持ち出すのは乱暴です。まして、同規定は帆船航路が整備された時代であり隔世と言うべきです。
 どうにもこうにも、氏は、相談相手を間違えていたと見ざるを得ません。

                                未完

新・私の本棚 鳥越 憲三郎 「中国正史 倭人・倭国伝全釈」肆 6/10

中央公論新社  2004年6月
私の見立て ★★★★☆ 労作 必読 批判部分 ★☆☆☆☆ 2023/02/21 2023/05/27 2024/02/11
 
*行程談義
 氏は、先だって、投馬国を吉備に比定し退路を断っているので、続く「南邪馬壹国」に窮しているはずですが、何とか、言いくるめにかかっています。

8.「南邪馬壹国女王之所都」と決め打ちして、次なる「水行十日陸行一月」を「吉備なる投馬国」から「その南方の邪馬壹国」の所要日数としています。

*「女王之所都」の無法
 「女王之所都」と解するのは「通俗」で、氏の独創ではありませんが、『陳寿が、東夷蕃王に「都」の栄誉を与えて、魏文帝の洛陽首都と同等に遇した』と非難するのは、途轍もありません。あまりひどいので、繰り返しました。

*明解な解法~西晋史官には自然な読み
 そのような見当違いは、「南邪馬壹国女王之所」、「都水行十日陸行一月」と普通に/素直に/時代相応に解すれば氷解し、誤解は発生しないのです。
 それにしても、本来、ここで、「邪馬壹国」が比定され、以下の議論で利用できますが、氏は、別の思い込みに合わせて諸処の解釈を曲げています。

*野獣の径(みち)
 文書解釈の本道を外れ困ったものです。古代史で、「道」を外れると泥沼や草ぼうぼうで野獣の「径」に入り、天下無道と納まり返っていられません。
 続いて、氏は「三国志」道里書法について訓戒を垂れています。厖大な「三国志」全体で検証された偉業に感謝しますが、根拠は開示されていません。まして、「三国志」全体の水行・陸行の記事』が、「全て延喜式の後世東夷の旅費規程に従っている』というのは、幾ら何でも無謀です。
 陳寿が一人で、「三国志」の全道里記事を書いたわけではないし、もちろん、陳寿が「延喜式」を読んだわけもないのです。「三国志 
」の記事は、それぞれの記事の報告者が書いたものが集大成されていて、中には、太古(夏殷周代)以来の「金科玉条」も在るのです。
 又、夫々の記事は、別に、都度、測量して書いているわけでもないのです。大事なのは、帝国内の重要な拠点が、京師なり、首都から、何里と決まっているかという事であり、それが、正史に収容され、継承されているのです。
 この点、安直な誤解が支配的であり、氏が、通説に体制順応しているのは、やむを得ないと考えますが、それでも、あえて、率直な苦言を呈さざるを得ないのです。

*「自女王国以北」の捻転
 「自女王国以北」も、行きがかり上「曲芸」解釈し「以西」としますが、氏の解釈に従うと、既出の国が全て「以西」で、奇観を呈しています。陳寿が、そのような混沌を是正せずに、皇帝に上申する構想だったとは、何とも、当時天下無双の史官に対して、二千年後生の無教養な東夷が振りかざす、無謀な誹謗中傷となります。
 もっと、単純、明解な説明だったと考えて頂けなかったのが、残念です。

 当方の提言では、「倭人伝」道里行程記事は、郡を発して一路南下し最終的に倭人への行程を述べているのであるから、狗邪韓国以後、対海国、一大国、末羅国、伊都国の本筋の行程であり、「女王国以北」とは、女王国自体は別儀として、行程上の対海国、一大国、末羅国、伊都国の四国であり、余傍、つまり、脇道の奴国、不彌國、投馬国は、含まないと明記しているので、誠に明解なのです。だれも知らない現地地理情報はいらないのです。

11 なぜか、念押しされていませんが、氏の説にしたがうと、狗奴国は、女王国の南方なのか東方なのか、ともかく、はるか彼方に狗奴国が在ると主張されていると見えますが、氏は、方位確認を放りだして次に進みます。

12 「男子無」以降は、邪馬壹国風俗とされますが、結構南方らしい温暖な海岸の佇まいと見え、まして、氏の主張される邪馬壹国から、方向感覚がずれている漢族が、なぜ、「会稽東冶」の方角が正確に分かるのか不思議です。

15 なら盆地南部は、夏、暑く、冬、寒いので、なぜ「温暖」か不可解です。

24 唐突に「東洋」ですが、三世紀当時にあり得ない、時代によっては大変不穏当な表現なので、史学談義では、せいぜい時代錯誤と言うべきです。

28 景初二年/三年談義ですが、氏が、限られた知識を絞って、景初三年とするのは悲痛です。文献誤解が祟っていて、とても採用できません。史料は、原文によって解すべきと言う、基本則をど忘れされているようです。

 「魏志」明帝紀引用は、司馬懿による遼東太守公孫氏の討滅を言いますが、帯方郡は南方であり、遼東戦局と直接連動しません。別記事で、明帝は、司馬懿の遠征軍と別に渤海湾で兵船建造し、軍兵・食糧を送り、別途、いち早く樂浪、帯方郡に帝詔を発し、公孫氏郡太守を更迭、新任太守を着任させたと明解です。

*魏帝の自然/東夷の不自然~急使日程算段
 目的は、遼東半島以南の公孫氏勢力(両郡郡兵主体)による妨害の予防であり、従って、景初初年に、両郡は魏明帝指揮下だったでしょう。倭人は、帯方郡新太守が、急使で急遽参上を命じたので即応したのでしょう。
 おそらく、その際に、末羅国から伊都国、そして、その南至近境の女王国の「道程」がつたわり、万二千里の行程道里でなく、実際の所要日数四十日を見きわめて、皇帝下賜物の到達に要する日数が確認できたものと見えます。
 
 先帝明帝曹叡の遺詔を奉じていた雒陽の諸官は、雒陽から倭までの所要日数を確認した上で、輸送部隊を組織したはずです。じつに明解ではないでしょうか。

 ちなみに、簡単な日時計を設ければ、その地での南北、東西を知るには、日中が晴天な日が一日あれば十分で、中学生の夏休み宿題にもならないほどの「初歩的」課題であり、三世紀当時、正しい東西南北を知らない東夷はいなかったのです。

                                未完

新・私の本棚 鳥越 憲三郎 「中国正史 倭人・倭国伝全釈」肆 7/10

中央公論新社  2004年6月
私の見立て ★★★★☆ 労作 必読 批判部分 ★☆☆☆☆ 2023/02/21 2023/05/27 2024/02/11

*さらば骨董所説(レジェンド)
 氏の「倭人伝」道里に関するご意見は、実は、諸郡地理交通不明時代の遺物(レジェンド)であり、早々にお蔵入りした方が氏の名誉に相応しいのです。急使で、通常四十日行程の九州の倭と交信して、始めて半年程度で対応できるのです。検算をお勧めします。

 なぜ、「万二千里」以上に「水行十日陸行一月」が要件かは、鳥越氏ほどの知性があれば、若干の思考で理解できる筈ですが、もし、理解できないようなら、地理情報の読解力不足であり、以後の議論が成り立ちません。

30 氏は、大夫難升米が、倭の高官/有司と認めていますが、国使として、女王が大権を委ねるには、最高重臣と見るのが普通です。むしろ、宰相/大宰であり、一度に大夫二人が抜けて、女王も心許なかったものと思われます。
 因みに、「大夫」は魏制官名と重なって不都合なので、「倭人」は、官名詐称の誹りを丁寧に避けて、「倭大夫」と称したはずです。「倭人伝」には、「倭大夫率善中郎將」なる官名が登場しますが、「倭大率」と略称し、さらに簡略化して「一大率」と称したかとも見えます。いや、つまらない思いつきです。
 中国側遣使は、蕃王と接見すべき対等者(Counterpart)でなく、そもそも新参蛮夷への漢使行人は、現地で殺されるのも覚悟の下位官人が多いのです。行人は皇帝名代ですが、それは、一時的な威厳に過ぎません。別に、皇帝に列する高官になったわけではないから、別に、蕃王に接見する必要はなく、仮に接見しても上座に着かなくても良いのです。

31 天子の買い叩き
 氏は、ここで突然たたき売りに出て、詔書に明記されている銅鏡百枚が、その三分の一程度と断じます。困ったものです。詔書は、最高文書であって、千載まで伝えられるから、皇帝が嘘つきとの証拠を残すなど論外です。
 また、いかに蛮人でも、銅鏡の枚数を数えること位はできるから、女王が銅鏡を配布する際に、魏帝が嘘つきだと吹聴されることになるのです。皇帝の面子は、そんなにつまらないものではないのです。

 そもそも、百枚は、倭人の要求ではないし、三十枚としたかったら、詔書をその通りにしたらいいから、氏の筋書きは無用の恥さらしに見えます。あるいは、明帝の詔書/遺詔を、少帝曹芳が曲げたとの強弁であり、誠に理不尽です。このあたり、氏が、中国史書の前提を解していないための誤解であり、もし、助言者の誤指示であれば、共々、譴責されるべきです。

 いずれにしろ、ここで力み返って銅鏡の枚数にこだわるのは、実質、効果ともに、不確実です。

*無理な括り付け~新鏡説の不備
 ついでながら、一部俗説のように、この時渡来したのが、所謂「三角縁神獣鏡」としたら、新規意匠、新規大型化、新規製造方法では、戦時体制の魏朝の手に負えないのです。それこそ、十枚に値切り倒すのではありませんか。
 要するに、漢代制作品の在庫一掃とみたら良いのではありませんか。中国は、鏡に対する特別の敬意をもっていなかったので、不人気な時世では、死蔵に近い形で退蔵されていたとも見えます。とは言え、青銅材料が逼迫して、新宮殿装飾品の用材が不足しても、鋳つぶされなかったのは、
幸運だったのでしょう。

*ありふれた蛮夷厚遇
 漢代以来、無名の群小蛮夷の来貢の際にも、正使、副使、随員にまで、印綬を渡すのが定例であったようです。果ては、蕃王臣下の下級「王」に、印綬を渡したとされています。金印というものの、中国古代の用語で、「金」は「黄金」でなく、「金銅」ですから、一山いくらで、「倭某国王印」も授与できたと見えます。もちろん、そうした些事にくらべれば、正始下賜物は、普通の厚遇と見えます。

36 「大作冢」の正解候補
 ここで、「大作冢考証」で、大規模墳墓は存在しなかったと断じて痛快です。

*殉葬反省会
 また、『当時の葬礼に「徇葬」は無い』とは、氏の見識に裏付けられた小気味よい正解であり、「勝手に」「殉葬」など、世上溢れる改竄の愚は犯していないのに、「徇葬」解釈を誤ったのは、氏の不慣れな、漢文解釈での細やかな勘違いであり、仕方ないのです。

 「径百余歩」は、氏の値切り癖で仕切られていって、何はともあれ、大幅縮小のようですが、五分の一なのかどうか、値引率が不明では何とも申し上げられません。中国計量史は、かなり込み入っているので、氏が持て余しても仕方ないのでしょう。然るべき専門家諸兄姉の意見で解決するかも知れませんが、まだ、定見は出ていないので、やっぱり持て余すかも知れません。

 大分お疲れのようです。当方も、限界に来たので、ほぼ閉店です。

                                未完

新・私の本棚 鳥越 憲三郎 「中国正史 倭人・倭国伝全釈」肆 8/10

中央公論新社  2004年6月
私の見立て ★★★★☆ 労作 必読 批判部分 ★☆☆☆☆ 2023/02/21 2023/05/27 2024/02/11

「晋書」倭人伝
 当史書は、唐代に編纂され、中国の天下を崩壊させた晋朝の荒政を非難する政治的な趣旨で「集団編纂」されているので、史書としての正確さの点で不満があります。但し、南朝滅亡時に、官蔵公文書は廃棄された可能性が高く、野史稗史の類いに頼っているものと危惧されます。
 本編では、目に付く勘違いの訂正だけです。
 ちなみに、一部で、「公的歴史書は、権力者の意図で編纂された政治文書」との暴論がありますが、中国では、王朝交代が常識であり、後代王朝が、いわば、尻拭いすることになっていて、当代権力者も、晋書編纂には、積極的に干渉したものの、行きすぎると、後代王朝に報復されるので、あくまで、例外と見えます。

12 ここで、「文帝」は魏代の曹丕と見るのは、あからさまに勘違いです。晋書「倭人伝」記事としては、晋高祖宣帝(司馬懿)の次男であった晋太祖文帝(司馬昭)と見るのが、誠に自然ではありませんか。これは、から、中央公論新社は、校正部門に人がいなかったのでしょうか。AI校正したわけではないでしょう。

沈約「宋書」
 南朝宋、「劉宋」は発展途上の北朝を北伐すると共に、秦漢代以来の正史編纂を試み、宋書は、後継南齊代に刊行されています。つまり、南朝公文書、史書稿が健在であったので、三国志の後継に相応しい体裁を保っていたと見えます。同時代の沈約の単独編纂と相まって、信頼できると見えます。
 因みに、劉宋代に後漢書を編纂した笵曄は、同時代に三国志を補注した裴松之共々、宋書編纂に参画してないと見えます。笵曄は、政権から遠ざけられ、地方に赴任していたので、公文書庫に立ち入れず参加できなかったとも見えます。

 鳥越氏は、ここでは触れていませんが、正史としては、司馬彪「続漢紀」郡国志以来の地理志「州国志」が編纂され、「志」部を欠く三国志を補っています。但し、晋代に、樂浪/帯方両郡を撤収して半島から撤退した上に、対岸の山東半島からも撤退し、「倭」の行程道里は更新されていません。

*会稽東冶談義
 「倭人伝」道里行程記事の解釈の参考になるのは、会稽郡南部、往年の東冶県です。
 會稽太守,秦立,治吳。…去京都水一千三百五十五,陸同。
 建安太守,冶縣,屬會稽。司馬彪云,章安是故冶,後分冶地為會稽東、南二部都尉。;南部,建安是也。吳孫休永安三年,分南部立為建安郡。
 去州水二千三百八十。去京都水三千四十,並無陸。

 宋書編纂者の沈約は、「班固馬彪」、つまり、固「漢書」地理志、司馬彪「続漢紀」郡国志に続く「志」を企図しましたが、途中の陳寿「三国志」が志部を欠くため、各国志の本紀相当部から「州郡志」の記事を補充しましたが、概して、郡設立記事だけで廃止記事が無いので、厳密でないと歎いています。つまり、西晋崩壊時に建康に退避し損ねた公文書は、回復できていなかったのです。

*魏志「倭人伝」に於ける「会稽東冶」の幻影払拭
 因みに、東冶は三国時代に消滅し、その健在な間も、当然、呉から魏に公式道里が報告されていなかったので、その地理情報は、陳寿の手元に届いていなかったと見えます。また、地理志、郡国志などで言う「公式道里」は、郡治に至るものであり、会稽郡治から遠隔の東冶県への道里など、知る由もないと思われるのです。何しろ、その間に陸路が存在しないので、陸道交通は無く、道里も不要というわけです。

 また、陳寿が、魏志史料として、東呉領域の会稽郡東冶県の洛陽からの道里を、公式に知り得ていたという根拠は、ないものと見えます。加えて、東呉の治世間に、会稽付近の郡県の移動があっても、魏に知らされていないので、ますます、陳寿は、会稽郡東冶県の洛陽からの道里など、知らなかったのです。知らない道里と、虚実不明の郡から倭までの道里を、比較して案ずることなどできないのです。
 結局、沈約「宋書」「州郡志」を読む限り、三国志「呉志」に、会稽郡/建安郡東冶県と洛陽の間の公式道里は、書かれていなかったと分かります。
 つまり、陳寿が、「魏志」編纂時に、戦利品として所蔵されていた未公認の韋昭「呉書」を参照するという禁じ手を動員したとしても、魏志「倭人伝」に「会稽東冶」が登場することはあり得ないのです。
 以上で、本件は終わりです。

*水(行)、陸(行)、「陸同」、「並無陸」
 それはそれとして、いつ消滅したか分からない「冶県」の後継と見られる「建安太守」は、沈約「宋書」「州郡志」「去京都水三千四十,並無陸。」と「里」抜きで記録され、「京都」建業~建安間は「水」のみで「並無陸」、つまり、並行街道が無いと明記されています。この区間には宏大な福建山地が聳え、断崖桟道しか街道を刻むことができないので、公式連絡は、水、つまり、河川行に絞ったと見えます。
 会稽太守から、「京都」建康までは、江水(長江)経由であって、近傍に並行陸道が存在し、去京都水一千三百五十五,陸同」と同一道里が書かれていますが、もちろん、「水」と言うものの川船の航路を律儀に測量したりしていないし、「陸」の会稽~建業公式道里も、秦漢代以来更新されていないと見えます。

 文句を言われる前に言うと、「無陸」とは、狭く険しい桟道が、一切無かったというものでは有りません。桟道は、騎馬疾駆できないので、公式街道では無いという意味です。

                                未完

新・私の本棚 鳥越 憲三郎 「中国正史 倭人・倭国伝全釈」肆 9/10

中央公論新社  2004年6月
私の見立て ★★★★☆ 労作 必読 批判部分 ★☆☆☆☆ 2023/02/21 2023/05/27 2024/02/11

「梁書」概観のみ
 南朝の梁は、半世紀に及ぶ武帝時代の繁栄が、その治世末期に大暗転し、大規模な反乱軍に帝都を長期に包囲された挙げ句、屈服したため、政府の統治機構が破壊され荒廃しています。
 後継「陳」は、南朝の残骸に過ぎず、北朝を統一した隋に打倒され、公文書庫を破壊されたので、天下国家としての形跡を残していません。
 梁書は、唐代に散佚梁文書類を集成したものであり、諸処に難点があると見えます。但し、要注意と言うだけです。

「隋書」「俀国伝」
 氏は、ここで、中国史書解釈に未確認国内史書を導入して不法と見えます。

*隋書の意義
 隋は、江南で叛旗を掲げていた不当な僞天子「南朝」を打倒し、中国正統の天子となったので、「東晋」、「宋」(劉宋)、「齊」(南斉)、「梁」、「陳」の公文書を正当に継承せず/むしろ廃棄し、隋書を編纂した唐代史官は、三国志以降の「正史」を継承するのでなく、単に、野史、稗史扱いとしています。以下略

 一方、国内史料は、隋使対応記録に関して随分不正確で、典拠としたと見える公文書記録が、杜撰だったものと見えます。(腐っても鯛の)中国正史との比較は、論外です。

*隋書を基点とした解釈
⑴隋書は、隋使派遣記録ですが、国内史料は「大唐」と誤記しています。
 隋使が未来王朝を語ることは無いので、国内史料の誤りとなります。
⑵隋書は、隋使を「文林郎」とし、国内史料は「鴻臚寺掌客」とします。
 隋使が官位等を誤認することはあり得ないので、国内史料の誤りとなります。

*裴世清談義~「二字名の禁」解除
 「裴清」と「裴世清」の違いは、一つには、隋代まで「二字名の禁」があって、本名が裴世清でも、公には「裴清」と名乗らなければならなかったのかとも思われます。隋代に太原留守の高官であった「李淵」(一字名)のこどもたちは、李建成、李世民、李元吉と二字名になっています。要するに、過渡期の画期だったのです。

*裴世清談義~僻諱
 あるいは、二郎、つまり、次男であった李世民は、天子になる想定をしていなかったので、父が、ありふれた「世」、「民」で命名していたため、第二代皇帝に就職するに際して、「天子の実名は一切使用禁止」という「僻諱」に従うと、日常生活に重大な支障を生じるのを危惧して、僻諱を強制しないと布告していますが、臣下は、自身の実名から「世」を取り除いたようです。
 太宗李世民の就職(CE626)後、裴清と改名したとも見えます。

*文書上の裴「世」清
 もちろん、先立つ、隋代、唐高祖代、李世民は、高官李淵の次男坊であり、僻諱と無縁でしたが、隋煬帝の文書では「裴世清」と書かれていたものの、隋書編纂時は唐代なので、史官が僻諱したと見えます。正史は、史実無修正が大原則ですが、僻諱は例外なのです。

 と言うことで、隋使として、皇帝の名代である使者について、隋書「俀国伝」で「文林郎裴世清」は問題ないのですが、行人として蛮夷の地で任務に就いている間、官位として最下位に近い原職を表明することはないのです。まして、官名詐称はあり得ませんから、「鴻臚寺掌客裴世清」は、国内史料の誤りとなります。
 国内史料には、本来禁じられている「官名詐称」で国内に「掌客」なる部署を創造していると見られますが、「掌客」とは、蛮夷の持て成しの職を言う下級職なので、隋使に対して、とんでもない蔑称であり、もちろん、そのようなとんでもない官職を、隋使の前で語ることは、もっての外であり、国内史料は、明らかに、何らかの錯覚に基づいて書かれていることになります。

                                未完

                                以上

新・私の本棚 鳥越 憲三郎 「中国正史 倭人・倭国伝全釈」肆10/10

中央公論新社  2004年6月
私の見立て ★★★★☆ 労作 必読 批判部分 ★☆☆☆☆ 2023/02/21 2023/05/27 2024/02/11

*「客」に関する重大な勘違い
 ことのついでに言い直すと、鴻臚寺掌客は、「客」つまり言葉ができず礼儀知らずの野蛮人を遇う小役人であり、蛮人慣れしていても外交官」ではありません
 これに対して、「文林郎」は、将来文書管理に従事する若者の初任職であり、軽輩とは言え、未知の蛮夷への使い、行人の職に相応しいものです。
 以上、色々調べましたが、国内史料は何かまがい物の情報(フェイク)によって書かれたようです。あるいは、中国視点の官名/官制を、自大趣味でそのまま取り込んだのかも知れません。(中国王朝が、律令文書の持ち出しを厳禁としたのも無理ないことです)

*国内史料の迷走
 そのせいか、国内史料には、隋使の応対のために、急遽、鴻臚の「掌客」を、高位、中位、下位と三人揃って新設していますが、まずは、「掌客」の意味が、蛮人の接待係であり、つまり、隋使を蛮人扱いしていると知らず、また、「掌客」は最下位職に過ぎないと知らなかったことを隋使に伝えたとは思えないのです。掌客の上司は、相応しい官名/官位で呼ばれるべきであり、一律に「掌客」と名のることはあり得ないのです。現実的に云うと、竹斯、奈良の両所に、所定の権限、予算、人員を与えられた接客組織が必要であり、とても、「掌客」担当者一名では、実務に到底対処できないのです。

 因みに、官制の鴻臚寺」自体も、仏教施設/組織などではなく、半ば野蛮人対応専門部門なので、「鴻臚客館」は迎賓館ではないのです。因みに、この誤解は、随分後まで持ち越されたようですが、隋唐使以外は、新羅、高句麗、百済といった「客」を相手にする「掌客」なので、問題は表沙汰にならなかったのでしょう。

⑶隋書は、倭使同行も百済王都立寄も書いていないのに、国内史料は、隋使同行で百済王都に立ち寄ったとあり、これも、国内史料の誤りとなります。

⑷隋書は、皇帝名国書の持参など述べていませんが、国内史料は倭使が持参していたものが百済国都で強奪されたとしています。「持参していない国書を、立ち寄らない場所で奪われることはない」ので、国内史料の誤りとなります。
 当時の状況から見て、中華の天子が、足下にも及ばない蕃王に、玉璽を印した挨拶状を出して、対話を求めるなど、絶対にあり得ないのです。前世で、魏明帝が倭王に帝詔を提示したのは、一方的な宣告であり、対話などではないのです。

 以上、それにしても、単なる誤記などではないので、国内史料は「史実」公文書記録が無く、隋書を参照せずに浅知恵で創作したと見えます。
 憶測するに、冒頭の「大唐」よばわりから見て、唐新州刺史高表仁来訪の記録が手に入ったので、懸命に焼き直したものと見えます。

 隋の天子に使節を送るのであれば、教養豊かな渡来人を動員して、国書を作文したものと見えますが、先ずは、控えの書面の保存は必須であり、それが国庫に保管されていなかったというのは、どう考えても不可解です。以後の文書交換も、国使の報告も、一切保管されていなかったとすれば、奇怪です。
 また、唐使来訪時の記録の流用にしても、実際に唐使を接待していれば、もうすこしそつの無い改稿ができたはずです。

 要するに、国内記録は、裴清来訪記録の信頼度が、見いだせず、高表仁来訪記録も、ずいぶん虚構の香りが漂っています。

 いや、当方は、素人なので、率直な意見が表明できますが、鳥越氏は、諸般の事情から、そのような指摘ができなかったとも見えます。
 聞くところによれば、国内考古学分野では、先行分野を限定して、分野外に容喙しないという美風があるようですから、鳥越氏も、仕方なく、言及を避け、保身したとも見えます。
 以下略

 同様の齟齬は、国内史料の諸処に見られますが、ここまでで当否を判断できるので、以下相手しません。このように、信頼できない史料に基づく議論は、徒労と思われます。

 鳥越氏は、いずれかの諸兄姉から教授を受けたと見えますが、教授内容の史料批判が不十分であったと見えます。

舊唐書 倭国(日本国)
 氏は、「倭国」は、京師(長安)を去ること一万四千里とあり、倭人伝道里郡から倭まで万二千里との差分計算ができない』のに窮してか、原点が違うとはぐらかしていますが、終点は同一かと問い返したいところです。
 案ずるに、太古以来、「公式道里」は、あくまで、天子の権威の及ぶ「距離」を示す形式的/概念的なものであり、陳寿「三国志」「魏志」が、「倭人」までの公式道里を「万二千里」と書いたのを金科玉条としつつ、魏代「首都」が雒陽であったものが、唐代は「京師」(西安付近)を基点としたので、「万二千里」の領域より一段と遠隔の「万四千里」としたものと見えます。要するに、「公式道里」が実道里でないことは、史実として認められていたものと見えます。
 そのような形式的に示された「公式道里」について、「明細」として提示された道里も含めて、「現地地理」に即して検証することは、史学として、まったく意味が無いと見えます。いや、投石、爆竹、トマトケチャップなどのご寄付は、謝絶します。

以下略

◯まとめ
 以上、鳥越氏の本来の名声を毀損するものではなく、氏が、適切な助言を受けられずに、詰めの甘い本書を世に出したことを悼みました。

 鳥越氏の支持者らしい匿名人物からの非難に対しては、以上のダメ出しは、鳥越氏を支持する「そちら」の役所(やくどころ)と思うものです。異議に対して無分別に攻撃するのは、品が無いのです。それにしても、鳥越氏の著作の是正、集約は、成されていないのでしょうか。

 と言うことで、重複を顧みず、二、三度目のお務めですが、当方の玉稿ダメ出しは、本来お門違いであり、ダメ出し不足は、ご容赦頂きたいものです。

                                以上

2023年2月20日 (月)

新・私の本棚 号外 ブログ記事 makoto kodama『「ToYourDay」さんへの返信(その二)』

邪馬台国探訪「「ToYourDay」さんへの返信(その二)」2023-02-18 19:08:37 初稿 2023/02/20

◯不思議な記事削除
 どうも、当方の意図は曲解されているようである。前回記事で、当方は、氏の改竄/削除引用を警戒して、全文引用という非常識な手法をとったが、そのため、氏の記事削除差替に気づいたのである。おかげで、また、苦言を呈させられたのである。手のかかることである。

*無法な改変
 氏は、原記事を削除差替しているが、『「ToYourDay」さんへの返信(その二)』に(その一)は存在しない。記事削除で「重大な警告」に対応したのか、していないのか、何も触れていない。「不可解」である。
 因みに、「重大な警告」とは、『これは、単なる言い争いで無く、「第三者に迷惑をかけて、最悪、法的な問題になる可能性が高い」と指摘した』ものであり、氏の好む日常用語の「警告」とは、全然別の話である。氏の理解力に限界があるから、公の場で恥を欠かせないようにとどめる。どう説明したら氏が理解できるか、素人には見当がつかないので、有り体に『(聞き手に理解できるように)「説明できない」』と言うしかない。それにしても、せいぜい、曲解されるものである。

 因みに、一般読者は、タイトルで記事を特定するから、原記事が削除され、そのあとに、別記事が公開されたと見るものである。
 今回の記事には、「公開ブログに誤りがあると納得したときには、記事を削除する」との趣旨の明言があるから、氏は、誤記と納得した旧記事を削除したと見えるが、削除の理由を示していない。当方は、根拠無しに「警告」など発しない。(別に、愚考を述べて氏のご高説を否定、削除などしようとしていないから、氏の誇張癖を察して「普通に」解するしかない

*警告文の実体
 多分、氏は、またまた「訳が分からない」と逃げるだろうが、当方の今回の「警告」を全て表示すると以下の通りである。当方としては、別ブログ主から抗議がくるような厄介事を避けるべく「免責」しただけである。これで、当方に被害は及ばない。

 *重大な警告
 当方は、「古代氏の散歩道 など」のプログで私見を公開しているのであり、「古代史の散歩道」なる別ブログとは一切関係ありません。

 氏が、またまた見過ごして、気まずいことにならないように大書、色づけしたが、当プログの芸風でなく、つまり、表現は本意では無い。

*不吉な追記
 今回、原記事削除差替のどさくさ紛れに追記されたのは、以下青字部分と見える。

 たぶん、この二つの文を古田氏が同列に考えたのは、そう考えることで、自説が上手くまとまるからでしょう。
 そして貴殿の如く、この古田氏の考えをあたかも金科玉条の如く、妄信する論者が多数出てきているのもまた事実と云うものです。
 私はこの風潮に危機を感じ、二つのブログを書き込んだのであり、もし私が自説が間違っていると納得したら、自説を削除もしますが、貴殿の警告文からは少しもそのようなことは思わないので、二つのブログは残存させていただく次第であります。

 当方が、氏のブログ記事に、論理崩壊の「危機」を感じて「忠告」を投書したのは、当然、件(くだん)の二件の記事の公開後であり、氏が、いかなる手段で当方の考えを事前に察知したのか、誠に不可解である。当方が、貴兄の「たぶん、……でしょう 」とする解釈を知るすべはなかった。

 加えて、当方が氏に対して、何やら「警告文」を発したことにされているが、そのような事実はない。冤罪/誣告である。氏の格調、品位に似合わない、不出来なブログ記事は、取り下げたらどうですかと言う程度である。氏のブログは氏のブログであり、咲こうが枯れようが、本来、当方の知ったことではない。京のわらべ唄で有名な「ほっちっち」である。
 先に見本を示したように、「警告」の開始/宣告があって「警告の本文」があって、締めくくりがあって、必要であれば、警告に従わないときの措置を明示して、初めて「警告」文なのである。以上、誤解が無いように、明確に宣言した。2023/02/22 3:09
 当然、警告した側には、警告したことに対して、責任が発生する。よい子は、真似しないように。

 因みに、当方も、本質的でない記事補充は、特に追記と断らないことが多いが、以上の内容は、あたかも、当方が、従来から氏のブログに干渉していたとの印象を「新たに」導入している重大な追記であるので、誠に迷惑と考える、だけである。別に警告はしていない。
 氏の期待に反して、今回も、「警告」などしない。

                                以上

2023年2月19日 (日)

新・私の本棚 番外 ブログ記事 makoto kodama「古代史の散歩道さんへの返信(その二)」1/6

邪馬台国探訪「古代史の散歩道さんへの返信(その二)」 2023-02-18 19:08:37   初稿 2023/02/19

◯回答の弁~長文六ページ御免
 拙記事に関して折角回答頂いたので、ブログ記事の形で回答します。
 但し、拙稿のかなりの部分を削除して、言いやすいところを取り上げるのは、貴ブログ読者に失礼ではないでしょうか。少し難易度を落としました。

*引用とコメント全文
再び、「古代史の散歩道」さんから返信がありました。

*重大な警告
 当方は、「古代氏の散歩道 など」のプログで私見を公開しているのであり、「古代史の散歩道」なる別ブログとは一切関係ありません。
 第三者の誤記について、本来、当方には一切責任はありませんが、知っていて放置すると、同罪になりかねないので、危惧しています。
 少なくとも、これで二回目の警告を発しているので、当方に波及しないものと信じています。
 近来好まれる「誤爆」なので再発防止策としてしつこく指摘しますが、他人からとやかく言われるのがお気に召さないで、今回も無視でしょうか。そうした部分を隠しておいては、貴兄に対する信用が毀損されないでしょうか。

うもありがとうございます。
そこで、礼儀として今回も更に返信したいと思います。
ところで、今回は余計な非難や罵倒に過ぎない部分は無駄と思われるので排除して、純粋に学術的論争のみに書き込みを絞りたいと思います。

*うまく逃げていますが、率直に言って、「今回も」回答できない部分を避ける常套手段と言われかねません。当方は、今回も、自衛策として全文引用します。
 「余計な非難や罵倒に過ぎない部分」に大事な情報が含まれているという「論拠」は、先に述べたとおりです。貴兄が、何を「非難や罵倒」として排除し、何を残したか。貴ブログ読者に示す義務はないのでしょうか。

> 「倭人伝」が、郡から倭までの道里行程を、「万二千余里」と「水行十日、陸行一月」と両様に書いているというのは、「倭人伝」の文書主題に関わるものであり、大変高度な文書解釈ですから、貴兄の読解力が及ばないのであれば、それもまた一説と受け止めて頂きたいと考えるものです。
⇒ 貴殿が「大変高度な文書解釈」と称する部分は、貴殿が「根拠を説明できない」ことを、上手く誤魔化しているだけの言葉です。

 お褒めに預かって恐縮ですが、所詮、貴兄が、倭人伝解釈に不可欠な知識教養に欠けていることを自覚せずに応答に窮して、有る事無い事ぶちまけているのを、言い逃れしているようにも見えます。「根拠が説明できない」と言ったのは、「つけるクスリが無い」とまでは言えなかったと言うだけです。当方は、正直本舗なので、「上手に」ごまかすのは下手くそで、大体は、頭も尻も隠せないのです。

 しかし、私なら、「万二千余里」と「水行十日陸行一月」は全く関係ないことの「根拠」を明確に説明できますよ。
 七世紀に記された『隋書』には「夷人は里數を知らず、但日を以て計る」と記されており、倭人を含む夷人たちは卑弥呼時代から四百年も経過した隋時代になっても、相変わらず日数で距離を数えていたらしいから、卑弥呼時代の倭人は当然日数で距離を伝えていたはずです。つまり、帯方郡使は、不彌国迄、里数を計測しながら辿ったのに対し、日数で記される「南投馬国へ至る水行二十日」と「南邪馬台国へ至る水行十日陸行一月」は帯方郡使が伊都国において、倭人から伝聞した話に他なりません。

追記 書き漏らしたので、慌てて書き足します。
 「隋書」と言うからには、「俀国伝」のことでしょうが、同伝には、「倭人」は登場しません。古田武彦氏は、俗に「九州王朝説」とされる一説を提示していて、要するに、隋書の「俀国」は、「倭人」の後裔だとしました。つまり、卑弥呼~壹与の系統が、「倭の五王」を越えて続いていたと見たものです。貴兄は、一見、「九州王朝説」を支持しているように見えますが、そんなことを言って「大丈夫」ですか。いや古代中国語で「八尺の巨漢ですか」と言っているのではなくて、現代日本語の「それで良いですか」という意味ですが、こっそりとは言え、古田説を支持しても大丈夫ですか。
 それに比べれば、正始魏使が、延々と、道里を測量したとの空想譚は罪がない方です。誰が考えても、狗邪韓国から末羅国までは、測量のしようがないし、奴国、不弥国、投馬國は、魏使が立ち寄っていないので、結局、道里が分かるのは、帯方郡から狗邪韓国までの街道であり、それは、とうの昔に測量されていたから、正始魏使現地測量説は、有名無実の空砲です。
 ついでながら、魏晋と交渉のあった「倭人」は、国名、王名、王城の位置、戸数、道里を公孫氏を介して魏朝に報告することによって、中国王朝の臣下と認められ、魏明帝から「親魏倭王」印綬を受け取っていたので、最早、所在不明の夷人ではなかったのです。
 それにしても、貴兄は、九州王朝説を支持しているのでしょうか。「相変わらず」の一言で、お里が知れるのです。

追記終わり

 

                                未完

新・私の本棚 番外 ブログ記事 makoto kodama「古代史の散歩道さんへの返信(その二)」2/6

邪馬台国探訪「古代史の散歩道さんへの返信(その二)」 2023-02-18 19:08:37   初稿 2023/02/19

*「イロハのイ」
 「倭人伝」解釈の根底、「イロハのイ」として、七世紀の後世文書である隋書の記事は「根拠」たり得ないのです。まして、誤解、誤訳に満ちた『貴兄の「当然」は信用できない』と見る「根拠」です。「つまり」以降も、貴兄の個人的な随想に過ぎません。失望するだけです。不勉強過ぎと言わないといけないのでしょうか。

 その根拠として、伊都国は「郡使の常に駐する所」と記されており、倭国を訪れた(仮の)帯方郡使は必ず伊都国に駐在していたはずなのです。

 ここでも、とくに意味があると見えないのに用語、構文を操作して「うさん臭い」のです。例えば、郡使は、「行人」つまり、往き来する官人であって「駐在さん」ではないでしょう。郡太守の代理人が常駐していたら、倭王が皇帝に直訴するはずはないのです。古代史の常識として。

 それに対し、「郡より女王国に至ること萬二千余里」の文は、実際に倭国の王都・邪馬台国を訪問した魏の正使梯儁らが、自らが辿った帯方郡から邪馬台国迄の距離を計測し、帯方郡に報告した話を陳寿が採用したものと思われます。
 因みに私は、「南水行十日陸行一月」と書いたのは、景初三年に倭使を倭国に送還した(仮の)帯方郡使であり、「郡より女王国に至ること萬二千余里」と書いた魏の正使梯儁らとは異なる別の帯方郡使だと考えています。

 貴兄の私見が述べられているだけで、合理的な根拠が示されていないのには失望しました。
 既に述べたように正始「魏使」が洛陽を発つ前に全所要日数が皇帝の元に報告されていたものと見るのが合理的な常道です。「万二千里」は、倭使の上洛を認める前提として、「遅くとも景初年間に皇帝に報告されていた」と見るのが、合理的な常道です。
 魏は、秦漢以来の国家制度を継承、維持していたので、正体不明、所在不明の蛮人を洛陽に呼びつけるはずはなく、まして、帝詔を下して、大量の下賜物を宛先不明の受け手に送りつける謂れはないのです。途上の宿駅・海港に到着予定を知らせて、準備させる必要もあるのです。魏の国内であれば、途上の関所に、通過予定を知らせる必要もあるのです。こんな風に、子供に言うような言い方は好まないのですが、知らないくせにぐずぐず他人を批判して言い訳するのは、素人目にも誠に見苦しいのです。
 このあたりの大事な理屈が理解できなければ、倭人伝を正確に理解する要件に欠けていると見ざるを得ませんが、どうせ、解釈不能な事項は、「根拠」理解不能として無視されるのでしょう。そのような姑息な論争回避は、ありふれているので、特にどうということはないと思っていらっしゃのでしょうが、ここでは、かけがえのない貴兄の信用がかかっているのです。
 そうそう、貴兄は、万事露骨に言わないと回答がないようなので、改めて明言しますが、「景初三年に倭使を倭国に送還した」などと断言するのは、山成す異説を踏みつけにした臆測であり、ちと不用意な失言です。多分、『「学術的」な一語一語が大事な論義と無縁な気楽な日常生活を送られている』せいでしょうか。よくよく、自力で過去の諸兄姉の所説を確認して残らず「克服」して欲しいものです。いや、角が立つ言い方をしたので、貴兄の感情線を刺激して回答文から削除されて、何も伝わらないのかも知れません。まあ、当方は、何も失うものは無いで、「ほっちっち」でしょうか。泣く子と地頭には勝てないのです。

詳しくは拙書
【「魏志倭人伝」の正しい解釈で邪馬台国論争遂に決着】
をどうぞお読み下さい。

                                未完

新・私の本棚 番外 ブログ記事 makoto kodama「古代史の散歩道さんへの返信(その二)」3/6

邪馬台国探訪「古代史の散歩道さんへの返信(その二)」 2023-02-18 19:08:37   初稿 2023/02/19

*答のない質問
 折角のご教示ですが、ここに示されているのは、貴兄の根拠の無い臆測であり、それが正しいとする「根拠」が検証可能な形で示されていないので、意味のないものです。世人は、同様に根拠不明な提言を聞かされてどう思うものか、当方には分かりません。

 つまり、「南水行十日陸行一月」と「郡より女王国に至ること萬二千余里」は全く関係のない文であり、それが私が古田説を「根拠がない」と云う理由です。

 たぶん、この二つの文を古田氏が同列に考えたのは、そう考えることで、自説が上手くまとまるからでしょう。

 度々、当ブログで繰り返すように、自身の諸説に沿うように史料解釈するのは、当然のことであり、非難するのは見当違いです。むしろ、なぜ、「全く関係のない」文と断定して、根拠ならぬ理由としているのが、不可解です。引用文は、貴兄の解釈であり、原文引用でないのも、困ったものです。

> 韓国内陸行否定の根拠に上げられている一文は、明らかに、その時点限りの特異な事情だと言うことは明らかです。帯方郡は、漢魏晋代の「郡」であり、治安の維持、街道の保全は、郡太守の責務であるから、異常時にそれが達成できなかったから、殊更、皇帝に報告したものです。どんな事情で、異常事態報告の一文に執着するのか不審です。因みに、郡太守が責務が果たせないと判断されたら、小帝王とも言われる郡太守も、一片の帝詔で更迭されるのですから、手段を尽くして街道を維持したのです。

⇒ なにか、訳の分からないことばかり、語っておられるようですが、基本的に帯方太守弓遵が韓兵に殺された話は、『魏志韓伝』に記されています。
『部従事呉林以楽浪本統韓國 分割辰韓八國以與楽浪 吏譯轉有異同 臣幘沾韓忿攻帯方郡崎離營 時太守弓遵楽浪太守劉茂興兵伐之 遵戦死 二郡遂滅韓』
 この文を、かいつまんで説明すると、
 景初中、魏が楽浪帯方二郡を公孫氏から奪取すると韓の有力者に対し、臣智と云う官職を与えて懐柔していたが、正始六~七年頃、呉林と云う役人が魏本国からやってきて、「元々、楽浪郡に従属していた辰韓はその八国を分割して、元の如く楽浪郡に従属すべきだ」と云ったことを、通訳が上手く臣智たちに伝えることが出来なかった為に、混乱した臣智は怒って兵を集め、崎離營と云う帯方郡の官庁を攻めた。この戦いで弓遵は戦死したが、楽浪帯方二郡は遂に韓を滅ぼしたとされているのです。
 このような当時の韓の実情を熟知していたらどう考えても、
「魏の権威を韓国民に知らしめる為に、倭国への下賜品を見せびらかしながら堂々と行進した」
なんて、現実を無視した能天気な考えが出てくるはずはないのです。

 またもや、お得意のはぐらかしに閉口します。高度な、つまり、古代史論議で当然の「史料批判」を怠っている上に、当方の質問にまともに答えずに、「訳の分からない」、つまり、貴兄の限定された知識、語彙で「理解できない」としていながら、遮二無二質問をすり替えて、しかも、例の通り「かいつまんだ」説明が、要点を取りこぼしていて、杜撰のてんこ盛りです。
 当解釈を誰に教わったのか不明ですから、是正策を提言したくても仕方ないので、貴兄の勝手な理解としますが、もし、誤解の出典があるなら、そちらに文句を言って頂きたいものです。
 それにしても、普通に読めば理解できるはずの同時代人の説明を、「理解しない」、「理解しようとしない」というのは、困ったものですが、別に、貴兄が自認されている読解力不足を、殊更批判非難しているのではないのは客観的に明白と思うので、被害者意識に逃げ込まずに、ここんとこは、削除しないでください。
 貴兄は、当方が前便で、当史料が当てにならない、別資料での裏付けが不可欠であると示唆したのに無頓着で、それに加えて困ったことに、史料自体の正確な解釈を知らないで、根拠無しに威張っているようなので、仕方なく次回分で噛み砕いて説明しますが、後は自力で咀嚼してください。

                                未完

新・私の本棚 番外 ブログ記事 makoto kodama「古代史の散歩道さんへの返信(その二)」4/6

邪馬台国探訪「古代史の散歩道さんへの返信(その二)」 2023-02-18 19:08:37   初稿 2023/02/19

*勝手に添削
 貴兄の講釈は、「実情」と称して、無理な部分引用で、根拠の無い推測を言い立てているので、先行部分から引用し直します。
景初中,明帝密遣帶方太守劉昕、樂浪太守鮮于嗣越海定二郡,諸韓國臣智加賜邑君印綬,其次與邑長。其俗好衣幘,下戶詣郡朝謁,皆假衣幘,自服印綬衣幘千有餘人。部從事吳林以樂浪本統韓國,分割辰韓八國以與樂浪,吏譯轉有異同,臣智激韓忿,攻帶方郡崎離營。時太守弓遵、樂浪太守劉茂興兵伐之,遵戰死,二郡遂滅韓。
 ゆっくり考えれば、貴兄の解釈は、原文深意からずれています。景初中、恐らく初頭に魏明帝は、公孫氏遼東郡配下となっていた両郡に新任太守を送り込んで、直轄郡とする「人事」を行ったのであり奪取などではないのです。
 新任太守は、大家から下戸に至るまで手土産などで懐柔し、当座は、司馬懿軍の後方支援として、山東から遼東への物資送付、増援のために、郡兵を強化していたので、景初年間に挙兵反抗は「無かった」のです。
 続く正始中期、五年あたりと示唆されていますが、早々に反抗は平定されたと思えます。もちろん、正始早々の魏使は、未来を予見せず、淡々、粛々と「難船・水死」の恐怖と一切無縁で、毎夜、揺れ動かない寝床で、船酔いも知らず、塩っぱい潮風も知らず、そして、肝心なことですが、所要日数の読める「街道」を進んだと見えます。
 因みに、街道は、帯方郡設立以前から狗邪韓国まで通じていたものと見え、公孫氏時代も、諸韓国と「倭人」とは、決して放置されていたのではないのです。
 いずれにしろ、聞きかじりの安直な判断は性急であり、大局を見るべきです。ここも、淡々と批判しているだけで、誹謗中傷はしていないでしょう。
 普通に考えても、他人の意見に適当に反論しておいて、相手に、意見のダメ出しをさせるというのは、いいご身分だと思う次第です。これは、個人の率直な感想であって、別に非難しているのではないのです。
 ついでながら、「倭人」は「韓国」に相当するものであり、『「倭」の人間』などと素人臭い、見当違いの解釈をしないことです。

「魏の権威を韓国民に知らしめる為に、倭国への下賜品を見せびらかしながら堂々と行進した」
なんて、現実を無視した能天気な考えが出てくるはずはないのです。

 どのような手段で、貴兄がどのような超能力で三世紀の「現実」を確認できたか、論拠が示されていません。所詮、古田氏の勇み足に染まった、同次元の脳天気に過ぎません。これが貴兄の言う論拠なのでしょうか。それとも、応答に行き詰まって、暴言に逃げたのでしょうか。
 因みに、古田氏は常人なので、改めて言うまでもなく三世紀の「現実」を見たわけはなく、魏明帝が、その際、倭に至る梯である韓を懐柔したであろうという大人の判断を示したものです。子供じみた反感で安直に論じるのは、貴兄の感性の限界を露呈していて、心ある読者の信用を無くすだけです。他人の同意できなければ、別に、同意しなければいいのです。これも、批判ではありません。

> それにしても、一片の記事で、正始初頭に街道往来ができなかったと断じて、何の根拠もない、実行不可能と決まっている沿岸航行に、世上の論者がどうして執拗に執着するのか不可解/残念ということです。

 既に述べた反論の趣旨を理解してから、応答頂きたいものです。当方は、「東夷伝が、両郡太守の誇張のかたまりで、全く信用できない」という趣味はないので、合理的な解釈に努めたのです。正直なところ、折角の解説を読もうとしない貴兄に、本来要らない解説を長々と書かされて不満ということです。賛成、反対は、読者の自由ですから、一切気にしないのです。
 ご返事がありませんが、全て根拠が必要という貴兄の持論に反しています。

                               未完

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邪馬台国探訪「古代史の散歩道さんへの返信(その二)」 2023-02-18 19:08:37   初稿 2023/02/19

*また一つの愚答(My humble opinion)
⇒ 何で、『魏志倭人伝』には「海岸に沿って水行し、」と、ハッキリと書いてあるのに、わざわざ陸行にしてしまう必要があるのですか?

 なぜ、倭人伝の深意が理解できないのに、「ハッキリ」と断言するのが不可解です。原文は、「循海岸水行」であるから「沿って」と不合理な誤訳文を根拠にするのではなく、原文に随った解釈に従うべきではありませんか。
 史官は、「先行する諸書と公文書記録(史実)にしたがって史書を書くしかない」のであり、それを知らないで勝手に現代人解釈で「ハッキリ」などというのは、不遜と言わざるを得ません。なぜ、当時としても難解な文書を、現代人がすらすら読めるのか、毎度不思議に思うのです。
 それにしても、ここで「わざわざ」とは、倭人伝が解読できないことを示していて、自爆もいいところです。これは、批判ではありません。

 この説などは明らかに古田氏の誤訳であり、この誤訳を正当化する為に、あーだのこーだのと韓国内陸行を当然の話の如く言い張る古田信者の思考方式は、完全に古田真理教に染まっていると言えますね。

 「この説」が何のことかよくわからないので、反論がむつかしいのです。また、貴兄は「古田信者」として、名簿に名を連ねているのかも知れませんが、当方は、部外者なので、根拠不明な発言に対応できないのです。ご勘弁ください。
 既に説明したように、当方は、古田氏の誤解を指摘する立場であり、貴兄のように古田氏所説に染まっている方にとやかく言われたいものではありません。どうか、古田氏頼りを脱却して、乳離れして欲しいものです。
 それは偏見であり、独り合点で「明らかに」などと恥ずかしい言い草をとるのでは、全てに根拠が必要という貴兄の持論に反しています。

> 郡街道が沿岸と並行して海上に設けられていたというなら、然るべき先例が必要です。
⇒ そんなものは必要ありません。

 それは、性急な偏見であり、全てに根拠が必要という貴兄の持論に反しています。まさか、認知症でもないでしょうから、単なる勘違いでしょうか。

 「古代史の散歩道」さんも、一度古田説をすべて忘れて、『魏志倭人伝』だけから、純粋に考えられては如何ですか?『魏志倭人伝』の本質が見えてきて、古田説が如何に欺瞞に満ちた説かが理解できると思いますよ。
 当時、移動様式として、水行は第一選択で、当たり前の行程でした。現在でも漁師は日韓共に嵐の日以外は、普通に伝馬船で海岸沿いを水行しています。

 「当時、移動様式として、水行は第一選択」と同時代人でもないのに、軽々と断言している割には、現在の漁師は、余程でなければ手漕ぎの伝馬船を離れて、エンジン付きの漁船で移動しているのを無視しているのは、むしろ滑稽に見えます。また、論じている三世紀に、そのような便利な漁船は存在しないのです。いや、存在しても、燃料がないので、実用にならないのです。現代事情なら、第一の移動手段は自動車に決まっています。いや、現代情勢は、一切参考にならないと言うべきです。
 子供に言うようで恐縮ですが、中国古代史で、「水行」は、大河を堂々と行くことを言うのであり、「水」は「海」でないことは、三世紀ならぬ現代に至る中国人には、常識中の常識です。また、高度な概念で恐縮ですが、倭人伝で「海」は、現代人と異なる概念を示しています。何しろ、読者は、現代語で言う「海」を知らなかった中原官人ですから、初心者は、慎重に言葉を選ぶ必要があるのです。
 要するに、貴兄は、当記事に書かれていることが「よく分からない」と自認しているのに、「古代史を語るのに要する言葉を知らない」ことを「自覚」していないのです。これは、正当な批判であって、非難などではないので、逃げないでほしいものです。

                                未完

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邪馬台国探訪「古代史の散歩道さんへの返信(その二)」 2023-02-18 19:08:37   初稿 2023/02/19

*圏外用例お断りの弁
 ついでに言うと、三国志に収録されている「呉書」(呉志)は、東呉の史官が、海にも川にも通じた東呉皇帝のために書いたものなので、同時代用例として持ち出さないようにご注意頂きたいものです。これまで、無効なコメントが付いたことがあるので、貴兄が恥をかかないように露払いしました。

 だから沿岸航行を実行不可能と決まっていると言い張るのは、現実の世界ではない、古田教祖様の脳内における単なる妄想に過ぎません。
 しかも、古田説は「海上郡街道」なんて奇異な話を捏造しないことには説が成り立たなくなるようですね。

 これは、貴兄の鯱張った応答を「揶揄」した「疑似餌」であり、この字句は読み取っていることを確認したものです。うまく釣れてホッとしています。
 丁寧に言うと、「水行」の根拠として求められるのは、現代の東夷の漁師が「伝馬船」で往き来するというような風評ものでなく、古代帝国の根幹としていた「街道」として維持されていたことを堂々と示すことを求めているのです。貴兄を見込んで高い基準を擬したものですが、回答として三世紀ならぬ現代の風評を論拠として提示されるのは、貴兄の方針に反しています。
 それにしても、「奇異」は、歴史的な語法で絶賛口調であり、一瞬安心させておいて、どっと冷水を浴びせる「サプライズ」戦法と思わなかったのです。見事な詐話作法です。

 因みに私は、「南水行十日陸行一月」と書いたのは、景初三年に倭使を倭国に送還した(仮の)帯方郡使であり、「郡より女王国に至ること萬二千余里」と書いた魏の正使梯儁らとは異なる別の帯方郡使だと考えています。

 貴兄の臆測は、資料原文の順当な解釈に反したものであり、見当違いであることは、既に述べましたが、貴兄のほろ酔いの理解を越えていたためか、眼鏡の度が合っていなかったのか、とにかく、読み飛ばされたようで残念です。貴兄の汚い言葉遣いで言うと、誠に懲りない「誤解派教祖殿」となりそうですが、当方は、そんなことは、思っていても言いません。

詳しくは拙書
【「魏志倭人伝」の正しい解釈で邪馬台国論争遂に決着】
をどうぞお読み下さい。

 当方は、「営業」しているのではないので、「広告謝絶」としておきます。

◯終わりに
 またも無視されて、無駄を承知でご注意します。
 史料は、史料批判した上で提示するべきものです。念のため言うと、史料批判とは、勝手放題に難癖を付けることを言うのではありません。文献全体を解釈して、深意を知るものです。今回の「韓国反抗史料」は、それ以前のもので、明らかに時代錯誤で無効なものですから、そんなものを表通りに持ち出すのは、史学者にとって「逃げ恥」ではないかと、素人ながら懸念するものです。
 安易に、断定口調を起用しないことです。断定口調は。論者が自信のないときに多発されるものです。
 「古田氏」非難は、多分、一回ごとに懸賞金が出るのでしょうか。何にしろ、後世に残るのは貴兄の発言ですので、せいぜいご自愛いただくことをお勧めします。これも、非難しているものではありません。
 方や、古田氏の提言の積み上げは、真摯なお弟子さんたちによって、丁寧着実に進められているので、その動向を見めた上で、学問的論争を挑まれたらいかがでしょうか。

                                以上

2023年2月18日 (土)

新・私の本棚 番外 ブログ記事 makoto kodama「古代史の散歩道さんへの返信」

                                                2023/02/18
◯回答の弁
 拙記事に関して折角回答頂いたので、ブログ記事の形で回答しますが、随分冷静にみせて、丁寧な、そして、よく読み返した回答に驚きました。貴兄は、古田武彦氏に、随分、格別な情感を抱いているようで、そのような私情に溺れて、書き飛ばし同然の二件を公開されたことを忘れたようですね。これだけ丁寧に書けるのに、何で、粗雑に書き殴ったのか不明です。古田氏の月命日に一献傾けたのでしょうか。瞑目。

 また、冷静を装いつつ、くり返し、当方が怒って書いていると、眼前に目撃しているかのように書いていますが、それこそ、事実無根の与太話です。それとも、当家の書斎を盗撮しているのでしょうか。大抵、このような見解は、ご当人の内面の反映に過ぎないのです、それなら、別に盗撮しなくても、お見通しでしょう。
 貴兄の周囲では、論争の喧嘩手順で先例があるのでしょうが、喧嘩腰に逃げるのでなく、先例より前に目の前の記事を読んで、やんわりと揶揄されていることが理解できないようです。教育的指導が読み取れないのでしょうか。これでは、折り返し感情論を咎めるしかありません。売り言葉に買い言葉。罵倒と見えるのは、当方の批判を非難ととり、非難を罵倒ととる、貴兄の内面の反映に過ぎないのです。

*道里行程論談義~所詮一解
 本題の道里行程論ですが、「倭人伝」が、新来の「倭人」に関する初出の記事である以上、帯方郡から倭に至る行程が本題であり、途中で枝分かれしている行程は、本題ではない、傍線であることは、「倭人伝」の記事から見て当然の理屈であり、それを現代の論者が便宜上どう呼ぼうと、何も非難には当たらないと感じたものです。僅か、十ヵ国に満たない行程諸国ですから、当時の皇帝、高官になったつもりで、冷静に考えれば、順調に読み解けるはずです。何を怒り狂っているのかと口まねしたいところです。
 また、「倭人伝」が、郡から倭までの道里行程を、「万二千余里」と「水行十日、陸行一月」と両様に書いているというのは、「倭人伝」の文書主題に関わるものであり、大変高度な文書解釈ですから、貴兄の読解力が及ばないのであれば、それもまた一説と受け止めて頂きたいと考えるものです。誤読したければ、好きなように誤読すればいいのであり、相手の深意を解することなく、名指しで非難するのは感心しないと言うだけです。

 また、「倭人伝」の書法は、先行する正史にはない独自のものなので、他に前例を求めるのは賢明ではありません。古田武彦氏が広く用例を捜索することを第一義に立てたので、それに囚われて無批判に追従されている方がいるようで、このように特異な事例にまで、前例を求めるのには難儀します。無批判の古田武彦氏追従は、いい加減にして欲しいものです。

 韓国内陸行否定の根拠に上げられている一文は、明らかに、その時点限りの特異な事情だと言うことは明らかです。帯方郡は、漢魏晋代の「郡」であり、治安の維持、街道の保全は、郡太守の責務であるから、異常時にそれが達成できなかったから、殊更、皇帝に報告したものです。どんな事情で、異常事態報告の一文に執着するのか不審です。因みに、郡太守が責務が果たせないと判断されたら、小帝王とも言われる郡太守も、一片の帝詔で更迭されるのですから、手段を尽くして街道を維持したのです。

 当方は、「倭人伝」行程道里記事は、景初中に原文が書かれていて、後代の正始魏使の道行記事ではないという「普通の理解」であり、また、平易明解に書かれていて、特に前例を要しないという意見です。それとも、古田武彦氏の教えに倣って、三國志全文を読めとおっしゃるのでしょうか。
 それにしても、一片の記事で、正始初頭に街道往来ができなかったと断じて、何の根拠もない、実行不可能と決まっている沿岸航行に、世上の論者がどうして執拗に執着するのか不可解/残念ということです。郡街道が沿岸と並行して海上に設けられていたというなら、然るべき先例が必要です。

*最後のお願い
 と言うことで、当方としては、これが最後ですよと、時間をかけて具体的に批判する記事を書いたのに、読んだら意見があるはずの誤字指摘にも、無法な地図でっち上げの非難にも無反応で、感情的な暴言連発だけでは、つけるクスリが無いのかと思われます。ひょっとして、他人の書いた記事は、一切、読み解けないのではないかと心配します。
 また、当方は、古田武彦氏が「邪馬台国」と言わないという当たり前のことを指摘しただけです。何も、場違いなことは言っていません。このあたりも、他人の書いたことを読み損なうくせが出ているようです。

 定番ですが、同時代の日本人が丁寧に書いた文章が理解できないのに、三世紀中国人が同時代中国教養人のために書いた「倭人伝」が理解できるはずがないのではないかというのが、年寄りの苦言です。

*古田武彦氏所説談義
 念のため言うと、当方は、古田武彦氏の山成す所説に対しては、他の論者の諸説に対する意見と同様に、是是非非であり、その一角である「倭人伝」解釈のそのまた一角であって氏の所説の出発点でもある「道里行程記事解釈」は、穴だらけであると具体的に論じています。

*届かない趣旨
 貴兄の今回の二文を改めて批判したのは、素人目にも、感情的に書き飛ばしているだけで非論理的であり、実は、タイトルで名指しした批判対象の「古田武彦」説が、まるで理解できていないと見てとったからです。ただし、稚拙な議論と言うのは差し障りがあるので、丁寧に論じたのですが、どうも、少々きつく言わないと届かないのかと釘を刺し、論点が見やすいように、千八百ページを超える手前味噌記事で、始めて文字背景色づけまでしたのですが、趣旨が届いていないようです。

◯まとめ
 「暴言は、無能な論者の最後の隠れ家」という諺が思い浮かびましたが、そろそろ、穴蔵から出てきたらどうでしょうか。
 ロナルド・レーガン元合衆国大統領の名言に随い、ここでは、論者の知識・経験不足を批判するのは控えることにします。
 そうそう、当ブログの筆者は、「プロフィール」に書かれているように、「ToYourDay」であり、ブログ名は「古代氏の散歩道 など」です。「古代氏の散歩道」は、別人の別プログであり、誤爆注意と申し上げます。因みに、なぜ、このように紛らわしいブログタイトルが存在するのか、不可解ですが、取り敢えず、事実は事実として報告します。

以上

*追記 コメント遮断のお詫び
 失念していましたが、以前、やりとりしたときに、貴兄が、感情的に滾ってきて、つまらない、喧嘩腰のコメントを連発したので、これでは、引っ込みがつくまいということで、謹んで遮断したものです。今回の記事を見ると、相変わらずのようなので、今後とも、コメントは遮断し続けるものとしましたが、要するに、コメントだと暴言連発になるよう気質のようなので、此の方が、読み返しが入って、まだしも良いと見たものです。
 因みに、今回の回答は置くとして、先行する二本の書き飛ばし記事は、貴サイトを汚しているので削除をお勧めするものです。そもそも、今回の発端は、その点にあるのです。

以上

 

 

2023年2月15日 (水)

新・私の本棚 番外 ブログ記事 makoto kodama「古田武彦氏の道程論は本当に成立するのか?」 !追記

                        2023/02/05
「古田武彦氏の道程論は本当に成立するのか?」 makoto kodama  2023/01/27 !追記 2023/02/15 !追記 2023/02/19

◯はじめに

 当方のブログへの批判/誹謗では無いが、古田武彦氏の「道程論」に対する批判と見せかけて世間の関心を呼ぶものの、実は、いい加減な括りで、広く罵声を浴びせているので、当方の提言にまで「とばっちり」が及んで巻き添えを食っては溜まらない。「身に振る火の粉」ではないにしても、無法な意見を放置して、同意、結託しているとの感じを与えることはできないとみて、否定的にコメントした。アメバブログは、ログインしないとコメントできないので自記事とした。別に、一人前の記事と見ているわけではない。

 !追記 当記事に回答/コメントがないので、内容がまるで理解できていないのではないかと心配して、もう少し丁寧に書いています。当記事を、もし「非難」と決め込んで、傷ついて泣き寝入りしているとしたら、それは、それは、気の毒なことですが、言ってもわからないと思ったら、手間暇をかけて批判しないのです。「負けないで」

*本文
 タイトル直下で提示された地図「古田説による帯方郡から邪馬台国へ至る道程」が、止めどない饒舌汚濁の端緒です。
 !追記 「端緒」とは、ほんの始まりで、後に続くという意味です。念のため。ここで逃げ出されたら、何も言うことはありません。
 !追記 「三世紀には、現代風の地図はなかった」ので、「倭人伝」記事が、現代地図に普通に、すらすらと「載る」というのは、とてつもなく悪い冗談です。読者を「愚弄」しているように思います。個人の感想ですが。
 !追記 まして、「古田説による帯方郡から邪馬台国へ至る道程」 とは、途方も無い勘違いです。古田武彦氏が著書で明確に提示した「説」を、全く理解できないままに、ご自分の脳内に「古田説」なる「亡霊」を作っておいて、好きなように切り刻んでいるのは、「一人遊び」に過ぎません。どうかも人前で恥をさらさないで欲しいものです。

1.提示地図は、制作者不明のカラー地図に、「主線行路」、「傍線行路」と創作が書き込まれていますが、扱いに困惑します。(爆笑)
  盗用とは不穏なので、論者が創作し公開したものと解します。
  古田氏は、人も知る紹熙本墨守ですから、地図上の「邪馬台国」「対馬国」は論外です。(大爆笑)
  要するに、論理的に締結されていない浮遊ゴミであり、でっかい邪魔物なのですが、同氏のブログには、毎度のように「本論と関係しない」雑画像が掲示されているのです。(印象操作の常習犯と言いたくなるところです)
 !追記 「制作者不明」というのは、盗作/盗用ではないかという趣旨です。あからさまに言うと、無断利用は、犯罪の始まりです、という意見です。地図出典を明示し、出典の規約に従っていることを示してください。
 !追記 古田氏の第一書は、『「邪馬台国」はなかった』なので、ご当人が無節操に迎合して「邪馬台国」と書いたというのは、古田氏の人格を全面否定する、とんでもない「非難」です。そして、紹熙本にない「対馬国」は、それに次ぐ「非難」です。紹熙本を否定するなら、「倭人伝」なる紹熙本独特の伝名を使用すべきではないのです。(個人の意見です)

 !追記 「古田武彦氏の道里説」と言うのは、以上のようなあからさまの「非難」の対象にはなりませんが、どこで知ったのかという疑問が湧いてきます。

2.古田氏の言として、いろいろホラ話を書いていますが、出典不明では、根拠の無い誹謗です。(爆笑)よい子は他人を誹謗するときは、出典を書きましょう。因果応報です。
 !追記 古田氏が第一書で展開したのは、「帯方郡から狗邪韓国までは、陸上行程であって、船旅などではない」という明確な「提言」です。古田氏の意見は、(当ブログの別記事で、具体的に指摘しているように)幾つか、些細な勘違いを含んでいて、そのまま、「絶対正しいというわけではありません」が、貴兄が「提言」の意味を全く(?)理解していないのは、残念な見過ごしです。これは、良くある「見過ごし」なので、特に、「非難」するのではありませんが、当然、批判の対象です。
 !追記 続いて重大なのは、「狗邪韓国から末羅国(誤字注意)」まで、又々付きの三度、渡し舟で渡海水行して移動し、末羅国(誤字注意)で上陸し、「最終的に本来の陸行に切り替え」、以下、「倭に至るまで水行はない」というキッチリした解釈です。
 !追記 以下の行程で大事なのは、古田氏の提言では、「末羅国(誤字注意)~伊都国~不彌国と移動した後、不彌国から南に移動して、邪馬壹国(誤字注意)に至る」という「順当」な読み方です。(当ブログの別記事で、具体的に指摘しているように)古田氏のこの解釈の細かい点に異論はあるのですが、大事なのは、古田武彦氏は、「狗邪韓国~對海国(誤字注意)~一大国~末羅国~伊都国~不彌国~邪馬壹国(誤字注意)」と進む一途な行程が、倭人伝の道里行程記事の主眼であって、「投馬國は通過しない」という見切りです。この点が読み取れないまま、勝手な解釈で「古田武彦氏の道里説」と称するのは、「最低限の読解もできていない」ことの自白であり、とても、論争喚起の火元にならないのです。
 !追記 ここまで手厳しいのは、タイトル及び本文で、見当違いの非難を猛爆していながら、ご自身の手落ちに気づいていないからです。

3.「下賜品を山賊の襲撃から守る為にも当時魏使団に水行は必然だったのです」とは、根拠薄弱であり、見てきたような「だぼら」ですが、単発風評は「必然」と放埒に断定する根拠には、到底なりません。よくいい加減なネタでブログを書けるものです。(爆笑)
 !追記 「」内の発言は、根拠不明の上に、とんでもない勘違いです。それで十分です。と言うのも、同様の暴論を飛ばしている論者を散見しているので、ご自身の責任として非難できず、批判にとどめるのです。といって、ドブにボウフラが湧くようなもので、一々見ていられないのです。所詮、当人の恥さらしだから、見なかったことにしているのです。とにかく、色々忙しいので、全部指摘している時間がないのです。

4.「近頃では邪馬台国九州説派でも…古田武彦案を引用した説が大人気であり、自説に都合が良いからとして、安易に飛び付く論者が多いようです。」と、またまた風評を飛ばしていますが、「特に根拠はない」ものと見えます。
  一部では、「古田説」は、絶滅危惧種との風評が聞こえますが空耳でしょうか。あるいは、「邪馬台国」説は「死に体」との風評も、どこかの空の下で聞いた気がします。よい子は、野次馬の囀りには、耳を貸さない方が良いのです。
 !追記 「」内の発言は、根拠不明の風評依拠で、単なる寝言としか言えません。「古田武彦案」は、初出で、何のことか意味不明な上に、「大人気」とくだを巻くのは、見当違いです。多いという以上、一人や二人ではないでしょうが、三人以上は「たくさん」なのでしょうか。とにかく、何人が、「安易に飛び付く」軽業に勤しんでいるのか、聞いてみたいものです。

5.古田氏が、倭人伝の「行路里程記事」の諸国を、「主線行路」、「傍線行路」としているのは、氏が解した倭人伝記事を述べただけであり、それを「勝手に分類し、自説の都合に合わせて好きに使い分ける説はあまりにも恣意的であり、到底納得できる説ではない」と自身の貧弱な主観を押しつけるのは、まさしく「勝手な恣意」と自爆しているものです。
 各研究者とも、百出している諸論から「自説に都合の良い提言を採用する」のは、恣意という名の「自由」であり、誰でもやることです。その際にどれだけ苦闘したか知りませんが、代案が、実現不能の夢物語と悟ったらもう戻れないのでしょう。
 まして、それを「借り物」とは、困ったものです。「借り物」は返すものですが、どうやって古田氏に返せば良いのでしょうか。(爆笑)

 論者が、ご自分に都合の悪い諸説をご高説にどんどん採り入れたら、それは、自爆趣味であり、到底世間の同意は得られないでしょう。

6.「根拠が不明なこの説は、果たして本当に成立するのでしょうか?」とは、無礼な押しつけ質問ですが、古田氏ほどの論客が、根拠無しに妄想を公開して、弱みを作ったと思うのが、なんとも不思議です。「本当に成立するか?」と問い掛けたら「そう信じたから提言した」と真っ当な回答が帰ったはずですが、氏の存命中に問い掛けたのでしょうか。「死人に口無し」では、研究者として稚拙です。それとも、古田氏に、ご自身の安易好き?の人格・自画像を投影しているのでしょうか。(爆笑)
 「この古田説」(実は、倭人伝行路里程記事の解釈例に過ぎない)を否定するなら、一刀両断、堂々と論破すれば良いのです。反論されることは無いので好きなだけ論破してください。

 なお、『この古田説では「邪馬台国へ至る南水行十日陸行一月の起点を帯方郡に、終点を萬二千余里先の邪馬台国に置いています」』とは、素人の誤解丸出しで失笑です。古田氏提言の『郡倭全行程が「水行十日陸行一月」』は、所詮一解とは言え順当であり、世界に支持者があるのは当然です。勿論、不支持者もあり、どちらの頭数が多いか問われたら、総選挙でもしないと無理ですが、どの道、学説正否は多数決でないから頭数数えは、言うだけ無駄でしょう。

 !追記 念には念を入れるとして、古田武彦氏が第一書で提言した「提言」は、古代史に関して、知識、見識に富む古田氏が、大変な労力と思考を費やした「論考」を、内容を理解しないまま、思いつきで、無知なやじうまのように非難しているものであり、とても、容認できるものではありません。(個人の意見です)
 !追記 とは言え、あからさまに非難しないように言葉を選んだのですが、何を批判されているか分からないということなので、ガチガチ書いたものです。反論はお受けしますが、ちゃんと理解したと分かる、まともな文章にして欲しいものです。
 !追記 念を入れると、古田氏が提言しているのは、道里記事が、郡から倭までの一万二千里を、別の言い方で、都合水行十日、陸行一月と総括しているのであり、どこぞの誰かが誤解しているように、「ここで急に起点を帯方郡としたものではない」のです。
 !追記 又、投馬國行程は、不彌国から分岐した余傍と見ているので、日数にも里数にも関係しないのです。この基本的な解法に気づかないでいるようでは、議論になりません。
 !追記 さらに念を入れると、当記事は、貴兄が、タイトルに勘違いの「古田武彦氏の道程論」を血祭りに上げているので、それは、「虚偽申告」ですよと「告発」しているのです。「非難」のようなきれい事ではありません。

◯まとめ
 ゴミネタは、尽きないものです。素直に「是非に及ばず」でいいのです。
 ついでにもう一太刀浴びせると、「九州説派」なる「妖怪」を「保護」しているようですが、そのような妖怪など実在しないのです。実在しているというなら、具体的に論者と所説を列記してください。真っ当な論者は、手の届く限り、具体的に示しているのです。具体性、根拠の無い漠然とした表現で印象操作するのは、当節、特定派閥の得意としている言い逃れですが、よい子は、真似しないでほしいものです。(個人の意見です)
 多分、「九州説派」 は、論者の被造物/創作でしょうから、今後、「九州説派」は、無断引用にならないかと心配です。

                               以上

2023年2月11日 (土)

新・私の本棚 番外 ブログ記事 makoto kodama「古田案は水行主体の行路でも成り立つのか?」

 邪馬台国探訪 makoto kodama「古田案は水行主体の行路でも成り立つのか?」2023-02-05
                             2023/02/11
◯始めに
 勝手な言いがかりと言われないように、(ほぼ)全面引用です。教育指導のための資料利用は、著作権の対象外です。

*引用とコメント
Makotokodama
*滅多に見られない「非凡」でしょうか。県境入り白地図など三世紀に存在しないので無意味です。
 末羅国~投馬国が万余里、図で帯方郡~末羅国と同様に意味不明の表示ですが、由来は不明です。主張した人間を批判すべきです。
 薩摩国、都万国は、当記事の議論には無意味です。未知の南西諸島に投馬国を置く思いつきは「非凡」な神がかりですが、問題外です。

古田案(邪馬台国へ至る南水行十日陸行一月の起点を帯方郡に置く)の場合、
古田氏の言う魏使団に韓国内や対馬と壱岐内を陸行させる説は前回指摘した如く、一切成り立ちませんが、この発想を使った説には他に魏使団に韓国内を陸行させず、上の図のように、水行主体に邪馬台国への道程を辿る説もあります。

*「案」か「説」かは別儀として、第一書『「邪馬台国」はなかった』で「邪馬台国」を否定した古田氏に「邪馬台国」と言わせるのは、前回同様、随分難儀です。
 古田氏は、魏の官吏でないので、魏使に「陸行させる」ことはできず、他の論者も同様です。道程を「辿る」とは、重ねて意味不明です。
 又、倭人伝道里記事を、魏使の実際の道程と見る「仮説」は、古田氏ならずとも、大半の論者に共通して同意していて、ほぼ定説と化しているようですが、倭人伝を丁寧に考証すれば分かるように、単なる早計の勘違いで無効な臆測です。

 と言うものの、古田氏が主張していない「発想」を、お手盛りで古田氏に塗りつけるのは無茶ですよ。 

しかし、この説の場合には、投馬国へ至る南水行二十日の起点を何処に置くかが問題となります。

誰がどこで唱えたか分からない、勝手な思い込みと見える「説」の論義は、無駄です。
 投馬国に至る行程の始点は、榎一雄説は伊都国、古田説は不弥国と立説しています。この場の思いつきとは、格が違うのです。
 又、古田氏の言う「水行十日、陸行一月」は投馬国に関係ないので、 何の問題も無いのです。つまり、貴論は、空振りです。

仮にその起点を邪馬台国と同じ帯方郡に置いたなら、帯方郡―末魯国が水行十日だから、末魯国―投馬国は残り水行十日となるが、帯方郡―末魯国と末魯国―投馬国は同じ萬余里だから、投馬国は沖縄辺りに置かざるを得なくなり、薩摩国(鹿児島)や都万国(西都)のような、九州本土内に置くことはまず不可能です。

*何か、しきりに呪文を唱えていますが、それにしても、「邪馬台国と同じ帯方郡」とは、これまた「非凡」です。
 倭人伝全道里 都合「水行十日、陸行一月」の「水行十日」は、狗邪韓国~末羅国三度渡海で満腹で、これ以上消化できません。少し説明すれば小学生でも分かる理屈です。全道里の勘定に入っていない投馬国を投げ出しても解決しません。

いずれにしても、邪馬台国へ至る南水行十日陸行一月の起点を帯方郡に置く説は、古田氏が単に自説に都合良く距離を合わせる為に思いついただけと思われ、何の根拠もない説なのだから、どう頑張っても成り立ちようがありません。


*根拠が読み取れないのは、視力の問題なので、不問とします。
 「古田案」と矮小化しながら「説」とは「猛省」したのでしょうか。
 古田氏の動機はご推察通りでも、動機の否定は論争上無意味です。

つまり、深く考えもせず、単に自説に都合が良いからとして、安易にこの考えを自説に取り入れている論者の方々は、猛省する必要があると思うのであります。

自分の論説に都合の良い知恵を採り入れるのは、誰でもすることです。考えが深いか浅いか、他人の知ったことではないのです。
 全体に情感豊かな書き飛ばしで文章が泳いでいますが、論義は論理的に進めたいものです。「猛省」は、し過ぎることはないのです。
 当稿が、手厳しく皮肉になっているのは、凝り固まった思考をほぐせるように熱いお灸を据えているのです。不謝(謝礼不要)。

                              以上

2023年2月 7日 (火)

新・私の本棚 番外 ブログ記事 sinfu「卑弥呼はすでにお婆ちゃん?」

卑弥呼はすでにお婆ちゃん? 「中国語学習と邪馬台国研究と家電修理等」 2022-08-28
私の見立て ★★★☆☆ 丁寧な労作 ただし前途遼遠      2023/02/07

◯はじめに
 別記事の総まとめの補習授業です。改行削減御免。
*補足(2023/02/09)言い忘れの追記です。
 「お婆ちゃん」は、大変な、重大な勘違いです。生涯不婚の巫女(みこ)には、「お婆ちゃん」と親しんでくれる孫は、「一人もいない」のです。もっと、丁寧に書くことをお勧めします。

*引用とコメント
(卑弥呼)年已長大
広く一般に解釈されている説は もうすでに年老いてる、すでに年寄りだ、すでに年取ってる、のように解釈されていて 私も、 テレビ·雑誌·書籍等で多くはそのように説明されていたので いままで卑弥呼の年齢はすでに高齢だと思っていました。

*「広く一般に」と国民大勢めかしていますが、卑弥呼論義は、「極めて限定」されているでしょう。それとも、数で数えるのでなく、目方で量るのでしょうか。大勢の人の「解釈」が、なぜわかるのでしょうか。いい加減なことを行って風評を掻き立てている人の口まねは、感心しないのです。

しかし 中国人にこの箇所を確認したら すでに年老いてる、すでに年寄りだ、すでに年取ってる、すでに高齢 の意味にはならないという

*どんな中国人に聞いたか不明です。意味を知りたかったら、辞典で「長大」を引くものでしょう。

素直に解釈すれば すでに大きくなっている、すでに成人してるのイメージだという

「イメージ」は、インチキカタカナ語ですが何の意味でしょうか。中国人も同病なのか。「大丈夫」ですか?「もう子供じゃない」が普通の表現です。中国人が『素直』とは、初耳です。

すでに年取ってるなら(卑弥呼)年已長老と 老の単語を使うとどの中国人も教えてくれます

*どんな「中国人」ですか。十億(十万万)人の意見は、聞けるはずがないでしょう。日本語側で言うと、『すでに年取っている』との日本語表現はありません。

年已長大は、その人がイメージしているより大人になってる場合、たとえば幼い時を知ってるがその後久しぶりに会って、成長して大きくなった姿を見れば長大を使うし、ただ単に長大をつかえば成人しているイメージの様です

一つ目の「イメージしている」は、「想像している」なのでしょうが、二つ目は「絵姿」のようです。英語で、「image」は、主の御子の姿のことです。それにしても、『その人』とは、どの人でしょうか。

この箇所、年已長大のこの後に,無夫婿、夫(婿)は、いないという言葉があり、
子供じゃなく卑弥呼はもうすでに成人した女性だが結婚はまだしてない(旦那はまだいない)ということを伝えたかったのだと思います

古代上流社会で、女性は早婚であり、成人となっていても、配偶者がいなくて実家の親元にいるというのは、未婚(まだ)ではなく、(当然)不婚の意味と解されます。勿論、嫁ぎ先で、旦那をなくした後家さん、つまり、婚家を継いで、残された子供を後見しているという意味は、全くありません。

確かに『卑弥呼は歳をとってお婆ちゃんだが、夫はいない』とは一般的には言わないし、書かない。その様な訳では文章的に意味がおかしいので、やはり 『卑弥呼はすでに適齢期を迎えていたが夫はまだいない』という風に解釈したほうがいいかもしれません。

すでに適齢期」と「文章的に意味がどうこう」は、日本語として理解困難です。それ以前に、『國』を代表する女王に対して『歳をとってお婆ちゃんだが、夫はいない』の侮辱発言は、親魏倭王に列されている高貴な女性に対して、『根本的にあり得ない」のです。タレントのゴシップをSNSに曝しているのではないので、失礼にならないようにご注意下さい。

私が不思議に思うのはなぜ「卑弥呼はすでに成長(成人)している」と解釈した人が居たと思いますが、その人達の説はキャンセルされて、「卑弥呼はすでに高齢である」と解釈をした人達の説が何故まかり通ったかということです。

東夷の一部で文章理解に関係ない「卑弥呼」像が「相伝」されています。「長大」は、「成人する」(最近成人した)「動詞」で、已に/早々に誤解です。それにしても、勝手な「キャンセル」で、損料は発生しなかったのでしょうか。意図/意味不明です。
 まかり通ったと見えるのは、「人達」が、公道(Highway)の真ん中でのさばっているからであり、別に「まかり通って」いるのではありません。まかり通っているのなら、とうにどこかに着いているはずですが、どんより居座っているだけなので、何も変わらないのです。

今ネット上でもこの件とは関係なく、いろいろ情報が有りすぎてどれが本当で、どれがフェイクなのか 問題になっていますが

*「ネット」は「全く」無関係です。すべて真偽の判断が必要です。それにしても「有りすぎ」は賞賛か。困った風潮です。

ネットのない時代に (卑弥呼)年已長大→(卑弥呼)すでに年老いてる。のような間違った情報(解釈)がどうして拡散してしまったのか(まかり通ってしまったのか)? 私にはとても気になる疑問の一つです。

*疑問を持っていただけのはずが、いつの間にか、「間違っている」と一刀両断していて、奇怪です
 推定できるように、信念の人は「間違っている」と自省しないので、延々と俗耳、つまり、批判力のない一般の方に刷り込んで相伝しているからです。貴兄は、そのような祖師体制と縁が薄いと見えるので、ここでえらそうに「指導」しています。

 卑弥呼若年説は、とりあえずは、古田武彦氏の提言で有名であり、無断引用は失礼です。勿論、賛同している方は、一人や二人ではありませんが、何人いるか知らないし、身体検査もしていないので、数的にも量的にも、そして、一番肝心な質的にも、評価しようがありませんので、同説の評価に繋がる表現は控えます。

 以上の「先生」は、現代の日本語でも中国語でもなく、本来の意味である「先に生まれた年上の人」、「年長者」というだけです。古代中国語で、「老」は、豊かな知識をもち尊敬を集めている年長者という意味で大変な尊称です。

                                以上

2023年2月 4日 (土)

新・私の本棚 番外 ブログ記事 sinfu「光正解釈説 総纏集」 1/10

光正解釈説 総纏集 「中国語学習と邪馬台国研究と家電修理等」2018-04-16 13:20:00
私の見立て ★★★☆☆ 丁寧な労作 ただし前途遼遠      2023/02/03

◯総評
 世上の諸論で、本論は、珍しく「定説」の悪影響が少ないのに大変感心した。ただし、未熟な点が多くこれほどの明確な提言が、五年にわたって放置されているようなので、ほっておけないので、勝手に「指導」することにした。せめて、論議の対象になる「大人」(おとな)の論義の形にしてほしいからである。

 「指導」の内容は、善意の研究者に参考になると思うので、全文引用に近いこととした。教育用途では、著作者の許諾無しで引用利用できるという規定に則している。因みに、当方は、当記事によって何の利益も得ていない。なお、原文尊重のため、改行が過多であるとの見解はそれとして、手を入れていないのは、当然のことと思う。

 言うまでもなく、「指導」は、当人が読解しなければ何も意味は無い。所詮、当方に何の「害」も「益」もない。通りすがりの野次馬のことは知らない。

*引用と添削      長文御免
倭人在帶方東南大海之中
 ( 倭人は帯方の東南方面の大海の中に在ります。)
從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
(郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を歴て、南に行ったり又東に行ったりすると、その<倭国の>北岸の狗邪韓国に到る。七千余里。)
・意味が不明瞭な「又」を足すのは、余計です.
 一方、『「到」其北岸狗邪韓國』の「到」の解釈がすっ飛んでいます。記事一本でも、辻褄を合わすのに大変な労力が必要なのです。
 倭人が「在る」とは、意味不明です。

(從郡至倭)
 群[郡]から倭に至るには・・・と書いてあり
(從郡至邪馬台国)
 群[郡]から邪馬台国に至るには・・・とは表記してません、なので魏志倭人伝は邪馬台国への道程を書いたのではないことがわかります。
・つまらない誤字はともかく、趣旨は、ご指摘の通りです。それなら、なぜ、わざわざ念押しするのでしょうか。なら、何を書いたのでしょうか。いたって、「自然」な質問でしょう。

 倭国とは倭国という実在する1つの国家があるのではなく、倭人が住んでる所の地域(場所)と解釈したほうが良い。
古代史文献を論じて、「実在する」とは不穏当です。
 「倭人」は、人を言うものではありません。「倭国」とは書かれていません。三世紀当時、東夷に「国家」などと言うものはありません。要注意。

 以前ソ連国がありましたがソ連国という国家がどこかの場所にあったのではなく、連合国の総称として使われてました。
「ソ連国」などと言う国は、一切存在したことがありません。要注意。
「連合国」(United Nations)は、合衆国、英国などの戦時軍事同盟を言うのであり、不適当な言い方です。また、それ自体「総称」であり、さらに「総称」と重ねるのは、間違いです。要注意。

 倭国も倭人が住んでる場所の総称として使用していたと思います。
・「倭人」は、人を言うものではありません。「住んでる」とは、何のことでしょうか。
  「倭国」が、「場所の総称」とは、なにかの勘違いでしょうか。この説明は、聞かない方が良かったのでしょうか。

                               未完

新・私の本棚 番外 ブログ記事 sinfu「光正解釈説 総纏集」 2/10

光正解釈説 総纏集 「中国語学習と邪馬台国研究と家電修理等」2018-04-16 13:20:00
私の見立て ★★★☆☆ 丁寧な労作 ただし前途遼遠      2023/02/03

 到其北岸狗邪韓國の其はその前の從郡至倭の倭を指します。
・「其」は、北「岸」という以上、「大海」の岸、海岸ではないでしょうか。もっとも、「大海」を「倭」と解するには、念入りな説明が必要でしょう。

 また狗邪韓国まで群[郡]から7000里[七千餘里]とだけあり、狗邪韓国の説明は有りません。
 ゆえに、狗邪韓国はまだ倭人が住んでる所ではないとわかります。
・「狗邪韓国は韓国である」と言うだけです。韓伝には、「弁辰狗邪」とあるだけで詳しい説明はありません。ますます、「倭人伝」で説明する理由が無いのです。とは言え、同国内に「倭」人が住んでいなかったと断言できるものではありません。因みに「まだ」が、不可解です。

 始度一海 千餘里 至對海國 
 (狗邪韓国から始めて一つ海を越すこと千里余りで対海国に至る。)
「一海を渡る」改竄するのは好ましくありません。以下同様。

 魏志倭人伝はこの対馬国から戸数とか環境等を説明を始めてます。
原文が「対海国」と書いているのを、原文にない「対馬国」と改竄するのは、好ましくありません。「環境等」は、意味不明です。以下同様。

 魏志倭人伝は倭人(倭国)の紹介してる条ですので、この対馬国から倭国ですよと説明が始まってます。
・「倭人」は「倭国」ではありません。「倭人伝」は、「伝」であり、単なる条ではありません。
 因みに、狗邪韓国条は、海岸を離れた時に、つまり、海に出たときに「倭人」に入国する趣旨と見えます。
 對海國は、そこから始まっていますが、何もそのような文字はありません。對海國に「至る」の意味ではないので、勘違いしないように注意が必要です。

 又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國
 (対馬国から又、南へ名を瀚海と曰う海をひとつ渡る。千里余りで。一大国に至る。)
・「一海を渡る」の理解が混乱しています。「瀚海」を渡るとは書いていません。もっと、丁寧に、緻密に読み解く必要があります。
 
 又渡一海 千餘里 至末盧國 
 「一大国から又、一海を渡る。千余里。末盧国に至る。
 又渡一海と書いてあり、この箇所には方向の表示がありません。
 そして中国船は九州本土の末盧国に着きました。
「一海を渡る」の理解が、引き続き混乱しています
・「方向が無い」のは、普通のことであり、重複の削減でしょう。一字一字が切実です。二回「又」と書いたので、埋め合わせに一字減らしたのでしょう。
『「中国船」が末羅国に着いた』とは、唐突で不可解です。なぜ、原文を、そう書き換えて読むのでしょうか。
・以下も、そのようなことは書かれていません。付け加えると、当時は、「九州」「島」と知れていなかったのです。因みに、「本土」は、「九州」が「国」に等しいものと示唆しています。口は慎んだ方が良いのです。

 この後の説明は今、中国船がある末盧國が基準点で説明してます。
・改めて見なおしても、末盧國が基準点とは、同意できません。「至る」である以上、通過点と見るものでしょう。
『今、ある「中国船」』は、三世紀のことか、21世紀のことか、何のことなのか、いずれにしろ、不可解です。原文に書いていないことを書き立てるのは、不適切です。

                               未完

新・私の本棚 番外 ブログ記事 sinfu「光正解釈説 総纏集」 3/10

光正解釈説 総纏集 「中国語学習と邪馬台国研究と家電修理等」2018-04-16 13:20:00
私の見立て ★★★☆☆ 丁寧な労作 ただし前途遼遠      2023/02/03

 自動車を運転する方は、大きな交差点で、右に行くと何処何処、左に行くと何処何処、まっすぐ行くと何処何処、斜めに行くと何処何処と書いてある表示板を思い浮かべていただければご理解しやすいと思います。
 また、観光地、ハイキングコースなどで岐路がある場合矢印表示で右矢印は至何処何処、左矢印は至何処何処、まっすぐは至何処何処と書いてある道案内の板を思い浮かべると理解しやすいと思います。
・折角字数を費やしていても、何の説明なのか読者に伝わらず、全く不可解です。ご提案のような「全部文章で書いた案内板」が、この世のどこかにあるとも思えません。「大きな」交差点も、的外れで無駄口です。
 「自転車を運転しない方」でも、ナビゲーターとして同乗することはあるので、その意味でも意味不明です。折角理解しかけていたのをかき混ぜられて、説明を聞かなければよかったと思わされるのです。

 東南陸行 五百里 到伊都國
 「(末盧國から)東南方向に五百里行くと伊都国に到る。」
「到る」とある以上、伊都国が当面の終着点と見るべきと思われます。
 東南至奴国 百里
 「(末盧國から)東南方面は奴国に至る。百里です。」
・以下、末羅国起点の道案内とするのには、同意できません。
 東行至不彌國 百里
 「(末盧國から)東に行くと不弥国に至る。百里です。
 南至投馬國 水行二十日
 「(末盧國から)南は、投馬国に至ります。船で20日です。」
 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
 「(末盧國の)南は女王の都の所、邪馬壱国に至ります。船で10日、陸路で一月です。
「女王の都の所」とする「俗解」は、蛮夷の「王」、しかも蛮習である「女王」の王治に、太古の周王の「所都」に並ぶ至上の尊称を付していることになり、公文書である「倭人伝」の用語として、大変、大変不都合です。これでは、東都洛陽に住まう「天子」に匹敵する扱いであり、そのように不敬を語る史官は、失格してしまいます。(本当に、首を切り落とされるかも知れません。頓首。)
 「俗解」は、いくら大勢を占めていても、安易な誤解であり、正解としては、句読を改め、「都」を次の文頭に送り、単に「女王の所」と解すべきと思われます。いや、世界中の大半の読者が誤解を読まされているので、ここで正解を説いても、伝わらないとは思うのですが。

 すべて末盧國からの道案内的な説明箇所になってます。
・全体として、不可解であり同意できません。普通に読めば、「至る」末羅国は通過点、「到る」伊都国が到着点で、そこからの道案内と見えます。別記事で、現代中国人の講釈を引いていますが、古文解釈として、適切とは見えません。聞く相手を間違えています。
 それぞれに、(末盧國から) と素っ頓狂な追記を付けて、ますます意味が分からなくなっています。
 解釈に際して、陳寿の書いていないことを書き足すのは、止めた方が良いでしょう。 「道案内的な説明箇所」の意味が不明瞭です。

 この箇所の説明をわかり易くする為にさらに不必要な個所をカットすると下記になります。
 東南到伊都國  東南至奴国  東至不彌國  南至投馬國  南至邪馬壹國

 東南は伊都國  東南は奴国  東は不彌國  南は投馬國  南は邪馬壹國
 こうすると、わかり易いと思いますが、ただ方向のあとに国名が書かれてるだけです。(並列に書かれてる)
原文を無残に改竄していて、明解になった/したとご満悦のようですが、これでは、先ほどまでうっすら分かりかけた気がしかけていたのが、全く意味不明になっています。「カット」(削除改竄)したために、原文の要点がなくなっているからです。古典的な警句として、「赤ん坊を湯浴みさせた後、湯と一緒に赤ん坊まで流すなよ」と言うのがありますが、大丈夫でしょうか。あるいは、カツブシを煮立てたとき、「湯」の方を棄ててしまう「長屋の花見」の落語ネタの方が身に沁みるかも知れません。くわばら、くわばら。と言うことで、改竄して示された文例には、全く同意できません。
 世上、大抵の研究者は、自説の裏付けとするときは、引用文を部分削除して、勝手に改竄するので無く、()に入れるとかして、『「不必要な個所」を隠さない』ようにしています。それとも、それでは、こじつけがバレると心配しているのでしょうか。
 いずれにしろ、ここで無駄に十行が費やされているのです。(紹介では、改行を節約しています。)

                                未完

新・私の本棚 番外 ブログ記事 sinfu「光正解釈説 総纏集」 4/10

光正解釈説 総纏集 「中国語学習と邪馬台国研究と家電修理等」2018-04-16 13:20:00
私の見立て ★★★☆☆ 丁寧な労作 ただし前途遼遠      2023/02/03

・「カット」、つまり削除(改竄しても)されているのは、道里などの要件であり、不必要な「ゴミ」ではありません。要件を削除して理解せよとは、改竄同然の理不尽です削除改竄しても、行数には差がないので、再掲載は、単なる行数、紙数稼ぎとも見えます。
・本論に還ると、「到」と「至」が、使い分けられていますから、違う意味と解すものと思われます。

 たとえば、其南、又南、次南とかの様に次に繋がる文字が有れば、移動してると理解できますが、上記の並列の書き方で伊都國の次は 奴国に行って、次は 不彌國に行って、次は 投馬國に行って、そして邪馬壹國に行くと解釈するのは不自然です.
・総じて、「何が自然か」の説明が必要です。ここは、原文解釈を試みているのであって、貴兄の理解を云々しているのではないです。

 どこにも連続(連動)して移動するとわかる言葉が使われていません。
《また、そこから東南に行って、又、そこから今度は東に行って、またそこから南と解釈するには無理があります。》
ごっそり削除して全体の意味がわからないようにしておいて、ことさら用語を言うのは不可解です。「そこ」の乱用も、筋の通らない話です。
 古代史論考では、普通に言うと「無理」なことを押し通す、難易度極上の「曲芸」が「至芸」として、絶賛されるようになっているように見受けます。なぜ、「又」「また」と書き換えるのかも、不可解です。

 魏志倭人伝の始めの所で狗邪韓國から対馬国に至る箇所には始度一海と有り、次に対馬国から一大國に至る時は 又南渡一海 と又の表示があり、一大國から末盧國至る時は 又渡一海と又の表示があり、何々して何々とわかりますが、
当記事に於ける「又」の意義を適切に理解されている点には同意します。
 ちなみに、「又」は、「さらに」の意味ですが、「さらに」の語意として「次に」なのか「それとは別に」なのかは、不確定です。
 読者は、文脈を理解した上で、目的地への行程を一路描いた記事であると見ると、初めて「次に」と理解できるのです。
 とは言え、尻切れ蜻蛉では困ります。

 東南 到伊都國 (東南に行くと伊都國)  東南至奴国 (東南は奴国)   東行至不彌國  (東に行けば不彌國)  南至投馬國(南は投馬國)
 南至邪馬壹國(南は邪馬壹國)
 この箇所は、ただ単に東南はどこどこ、南はどこどこ、とただ文を並列に書いてあるだけで、
 どこどこに行って、そこから何処何処を示すことばがない。
蒸し返しの行数稼ぎはいい加減にして頂きたい。「行くと」「行けば」の気まぐれな使用/使い分けも不可解です。
 ここでは、「到った」伊都国以降は、すべて「至」として、道案内しただけとの解釈が有力です。
 古来、倭人伝に示された帯方郡からの行程は伊都国で終わり、邪馬壹国は行程外」という見解が示されていますが、論理的な反論は見られません。

 そうしたいなら、たとえば、
 東南 到伊都國 (東南に行くと 伊都國に到り)  又東南至奴国  (又、東南に行くと奴国)  其東行至不彌國 (其の東に行くと不彌國) 
 其南至投馬國(其の南に行くと投馬國)  又南至邪馬壹國(又さらに南に行くと邪馬壹國)
 という風に書かれていれば移動していることはわかりますが、この箇所にはその様には書かれていないのですべて末盧國からの場所説明になっています。
蒸し返しばかりで、さらに行数が進み、ページが変わり、原文改竄の過程が見えなくなっています。早く結論を言うべきです。
 聞いている方は、半分居眠りしているはずです。
・ふと見ると、背理法的に、不適当なお手盛り改竄例を提示した上で、「この箇所」とするお手盛り改竄例と比較して論じていますが、お手盛りとお手盛りの紙相撲で勝負されても、何とも言いがたいのです。
・以下、強引に「末羅国起点」の放射行程説を唱えて、榎一雄師の所説を踏み台にしていますが、榎師は、漢書などの典籍を踏まえて多大な考察を経た上で、伊都国が、当時、地域の政治経済の中心であったとの判断から、行程の要であると学会に対して提言したものであり、後世のものは、榎説を精査した上で、「不都合を指摘して、新説を有意義な改善説として提言するのが義務」と思うのです。榎説の原文は、読んだのでしょうか。
 先賢諸兄姉の所説を理解すること無く、お手製、お手盛り新説は、ちょっと、安直ではないでしょうか。

                                          未完

新・私の本棚 番外 ブログ記事 sinfu「光正解釈説 総纏集」 5/10

光正解釈説 総纏集 「中国語学習と邪馬台国研究と家電修理等」2018-04-16 13:20:00
私の見立て ★★★☆☆ 丁寧な労作 ただし前途遼遠      2023/02/03

・書かれていない字を補って改竄しているのは、理解の努力があと一息との現れです。いずれにしろ、日本語の「行けば」と同様「行くと」は仮定法であり移動しているとは解せないのです。「場所説明」とは何の意味でしょうか。

 東南陸行 五百里 到伊都國   「末盧國から東南方向に五百里行くと伊都国に到る。」
 東南至奴国 百里            「末盧國から東南方面は奴国に至る。百里です。」
 東行至不彌國 百里          「末盧國から東に行くと不弥国に至る。百里です。
 南至投馬國 水行二十日      「末盧國から南方面に船で20日で投馬国に到ります。
「到ります」とは書いていません。

 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 
 「末盧國の南方面は邪馬壱国に至ります。女王の都とする所。  船で十日、陸路で一月です。」
・最後に、重大な改竄を施して、それを前提にしているので、丁寧に指摘します。
 まずは、句読を改めて、正確に、
 南至邪馬壹國女王之所。<改行> 都水行十日陸行一月。 
 と句読すべきと思われます。三世紀正式史書は、蕃王治所を「都」と称しなかったのです。
・「都」は、次行に送って、「都合」と解するのが、自然なものと思われます。

 この箇所の「水行十日陸行一月」を説明します。
 この「水行十日陸行一月」を水行十日して、
 その次に陸行一月費やして女王国に至ると解釈してる説が多数ありますが、
 よく考えて頂ければ、どうしてそのように解釈されるのか判りません。
多数」、つまり、二、三なのか、十なのか、百なのか、千なのか、数すら掴めていない、山成す先行諸説を理解できていないことを吐露していて、理解する努力の不足は感心しません。

 水行十日陸行一月」をたとえば、
 「水行十日後陸行一月」、とか
 「水行十日又陸行一月」、
 「水行十日再陸行一月」とかの連動してますよと判る語句が有れば理解できますが、
 並列に「水行十日、陸行一月」とだけ書いてあれば、普通は水行なら十日、陸行なら一月かかる、と解釈できます。
 中国語学習的に例文を挙げれば、たとえば
 坐飞机要一个小时,坐新干线要三个小时。
 飛行機なら1時間、新幹線なら3時間
 开车去要一个小时,走着去要半天。
 車で行けば1時間、歩いて行けば半日(長い時間)かかるとなり、連続して動作してない(連動してない)表現になってます。
 なので、この箇所「水行十日陸行一月」は、水行十日更に陸行一月ではなく、水行なら十日、陸行なら一月。と解釈致します。
・聞くまではうっすら理解できていた気がしますが、どうにも、錯綜した例ばかりで、もう無理です。
 古代史談義では、簡体字、「略字」は禁物であり、少しでも原文に近い、正体字「本字」に統一すべきでしょう。普通の日本人読者は、「略字」が読めないのです。
                               未完

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光正解釈説 総纏集 「中国語学習と邪馬台国研究と家電修理等」2018-04-16 13:20:00
私の見立て ★★★☆☆ 丁寧な労作 ただし前途遼遠      2023/02/03

いくら、個人的に理解しやすいとしても、三世紀に存在しなかった「簡体略字と現代中国語日常文」で説明するのは、不合理です。当方の属する戦後一桁世代は、正字の「漢文」しか習っていないので、簡体字は、嘘字、宇宙人の文字なのです。新中国は、文化大革命と簡体字で、伝統の華夏文化を破壊したので、日本人に古典を教える資格はないと見えるのです。
・又、先に述べた「業界標準」ものの大きな見落としのせいで、本来、「都水行十日、陸行一月」であることを見過ごしているので、以上の議論は、全て空転していて、いわば、無効です。この部分は、「都合」、つまり、総日数を書いていると解するのが、伝統に忠実で、自然なのです。
 ていねいにいうと、「都」には、多様な意味があって、天子の住まうところと言う意味は、例外であり、前後関係から明らかで無ければならないのです。むしろ、「総て」の意味で使われる例が、圧倒的に多数なのです。
全行程四十日の長旅を仕分けすると、「水行」と解されるのが十日、残り三十日は「陸行」、都合、計四十日というのが、普通の解釈でしょう。読者、つまり、皇帝と周辺の有司、高官は、要するに、まずは、と言うか、それが総てというか、「行程の全体で何日かかるのか知りたがっている」のであり、提案の読みは、先賢諸兄姉の熟慮の成果でしょうが、読者にしたら悉く悪い冗談としか見えません。

 自女王國以北   女王国より以北は
正確に読むと、伊都国、末羅国、一大国、對海國の周旋五百里の四ヵ国と理解できるのですが、おわかりでしょうか。因みに、「以北」には、女王国は入りません。女王国は別格ということも、理解の助けになるでしょう。

 其戸數道里可得略載   その戸数、道程,距離は簡略には記載できるが
 其餘旁國遠絶         その他の隣国は交流が遠ざかっているので
・丁寧に飜訳すると、四ヵ国に限り、『戸数と道里は要件の一部であり、口数、つまり、成人男子の人数に欠けているが、あえて「略載」した。』と言う意味と思われる。
 ご理解のとおり、「遠絶」は、道のりや交流を言うのでなく、交流が疎遠であると言っているのです。別に、近しかったのが疎遠になったと言う事ではないのです。何しろ、余傍の国は、大半、道里紹介も無いので、遠い、近いは分からないのです。勿論、古代史料で、隣国は無意味です。ご注意下さい。

 不可得詳            詳細を得ることはできない(詳しくはわからない)。
と言うことにしているのです。「略載」すらできていないので、忙しかったら読み飛ばしてくれの趣旨です。
 全国七万戸の大勢を占める二万戸と五万戸の有力国の戸数、口数、道里が完備していないのは、不可解ですが、報告しない理由があったのであり、追求されないために、言い訳していると見えます。要するに、四ヵ国以外は統轄できていないとの表明なのです。

 次有斯馬國   次有巳百支國   次有伊邪國   次有都支國   次有彌奴國   次有好古都國
 次有不呼國   次有姐奴國     次有對蘇國   次有蘇奴國   次有呼邑國   次有華奴蘇奴國 
 次有鬼國     次有為吾國     次有鬼奴國   次有邪馬國   次有躬臣國   次有巴利國 
 次有支惟國   次有烏奴國    次有奴國     此女王境界所盡

                                未完

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光正解釈説 総纏集 「中国語学習と邪馬台国研究と家電修理等」2018-04-16 13:20:00
私の見立て ★★★☆☆ 丁寧な労作 ただし前途遼遠      2023/02/03

  (そして女王国より北にある国を次有り・・次有り・・と続けて紹介してます)
 次に斯馬国有り。  次に巳百支国有り。  次に伊邪国有り。  次都支国有り。   次に弥奴国有り。  次に好古都国有り。
 次に不呼国有り。  次に姐奴国有り。    次に対蘇国有り。  次に蘇奴国有り。 次に呼邑国有り。  次に華奴蘇奴国有り。
 次に鬼国有り。    次に為吾国有り。    次に鬼奴国有り。  次に邪馬国有り。 次に躬臣国有り。  次に巴利国有り。
 次に支惟国有り。  次に烏奴国有り。    次に奴國有り。    ここは女王の境界の尽きる所。
 この奴國は 前出に「東南至奴国百里」とあり、末盧國から東南100里のところにあるともあり、ここは女王国に属す一番端であるとも書いてあります。
・随分の行数稼ぎで、呆れます。楽譜めくりならぬ、巻物転がしの手がくたびれるし、大体、巻物がふくれて嵩張るし、ろくなことは無いのです。
・誤解しているようですが、「倭人伝」は、倭に至る行程と行程上の列国四ヵ国を報告しているのであり、それ以外の余傍の国は問題外です。
末羅国が地理的な女王国南端から百里とは、随分強引な解釈です。

 この奴國は2万余戸と記載があるのでかなり大きな国であると思います。
初出の「奴国」は、既に、行程外の余傍の国として、除外されているので、この論義は無意味です。「倭人伝」記事の女王国余傍記事に、細かいことをいうはずはないのです。「かなり大きな国」とことさら言う意味が分かりません。全国七万のうち、二万戸は、大変大きいかと思われますが、意味不明です。

 其南有狗奴國 (不屬女王)   その南、狗奴国有り。(女王に属さず)
 其南の、其を女王国(邪馬台国)と解釈してあるものが多くまかり通ってますが、其南の其は文脈から素直に読みとれば奴國としか解釈できません。
・この「其」を前出の「自女王國以北」の「女王國」と解するのは無理で、列記した女王国に属する「諸国総体」の「南」というものでしょう。

                                未完

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光正解釈説 総纏集 「中国語学習と邪馬台国研究と家電修理等」2018-04-16 13:20:00
私の見立て ★★★☆☆ 丁寧な労作 ただし前途遼遠      2023/02/03

 もし、女王國の南と示したいなら其南有狗奴國ではなく其を書かず、南有狗奴國とすればそういう意味にはなります。
 すなわち、
 自女王國以北次有~、次有~、次有~。             南有狗奴國
 (女王國より北には~有り、次に~有り、次に~有り。  南には狗奴國有り。)
 とすれば女王國の南には狗奴國があると読めます。
 しかし、この文章は、其南有狗奴國と其南と書いてあるので
 其南有狗奴國の前に書いてある次有奴國 此女王境界所盡
 の奴國の南としか解釈できません。
 日本語(和訳した文章)で確認した方がわかりやすいかも知れません。
 女王国より以北は その戸数、道程,距離は簡略には記載できるが
 その他の傍にある国は交流が遠ざかっているので 詳細を得ることはできない(詳しくはわからない)。
 (そして女王国より北にある国を次有り…次有り…と続けて紹介してます、)
 次に斯馬国有り。  次に巳百支国有り。  次に伊邪国有り。  次都支国有り。   次に弥奴国有り。  次に好古都国有り。
 次に不呼国有り。  次に姐奴国有り。    次に対蘇国有り。  次に蘇奴国有り。 次に呼邑国有り。  次に華奴蘇奴国有り。
 次に鬼国有り。    次に為吾国有り。    次に鬼奴国有り。  次に邪馬国有り。 次に躬臣国有り。  次に巴利国有り。
 次に支惟国有り。  次に烏奴国有り。    次に奴國有り。   ここは女王の境界の尽きる所。
 「その南」には狗奴國があります。
とすれば、「奴國の南に狗奴國有り」と読みとれます。
 「その南」とせず単に 「南」には狗奴國があります。
 だと女王國の北には**国有り、南に狗奴國有り
で、「女王國の南には狗奴國有り」と読みとれます。
 其(奴國)の南には狗奴國 がある。
と解釈したほうが、自然な解釈です。

・先賢諸兄姉に、改行を毎回挟むという正史記事の書き方を指導されているのですか?
・またまた行数稼ぎしていますが、むつかしい理屈は抜きで、これらの諸国があって、「それが女王国の全体であり、その向こうに狗奴国がある」というに過ぎないのです。原文を自己流に書き換えて論じる「改竄」手法は感心しません。
・「倭人伝」が、そのように読めと強制しているなら、当時、ここで、「倭人伝」はゴミ箱入りでしょう。つまり、国名羅列は、読み飛ばしてくれと書いているのです。按ずるに、全体で二千字の中に列記しているのは帯方郡文書に書かれていて、魏志編纂方針で割愛できなかったに違いありません。

 

 

                                未完

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私の見立て ★★★☆☆ 丁寧な労作 ただし前途遼遠      2023/02/03

・またまた行数稼ぎしていますが、むつかしい理屈は抜きで、これらの諸国があって、「それが女王国の全体であり、その向こうに狗奴国がある」というに過ぎないのです。原文を自己流に書き換えて論じる「改竄」手法は感心しません。
・「倭人伝」が、そのように読めと強制しているなら、当時、ここで、「倭人伝」はゴミ箱入りでしょう。つまり、国名羅列は、読み飛ばしてくれと書いているのです。按ずるに、全体で二千字の中に列記しているのは帯方郡文書に書かれていて、魏志編纂方針で割愛できなかったに違いありません。

 そして、次は
 (自郡至女王國 萬二千餘里 )
 郡より女王国に至る。万二千余里。
 自郡至女王國 萬二千餘里
 (郡より女王国に至る。万二千余里)
 この箇所を説明します。
 この箇所には、郡から女王国(邪馬台国)まで
 万2000里余りであると書かれてます。
 万2000里余りと万の前に数字がありませんが、
 1万2000里余りと解釈した方が自然でしょうか。
 この1万2000里を文中から推計しますと、
・初心者の素朴な意見として受け止めると、このような場合、一字節約するのが、「自然」でなく、知的な常識なのです。

横着して、原文にない三桁区切りの「算用数字」まじりで書いているための混乱なのでしょうか。漢数字では一万二千も、万二千も同一です。
・以下、またもや字数稼ぎには閉口します。巻物時代の再現でしょうか。

 從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
 (郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を歴て、南に行ったり又東に行ったりすると、その<倭国の>北岸の狗邪韓国に到る。七千余里。)
 郡から狗邪韓國まで7000里余り。
 始度一海 千餘里 至對海國
 (狗邪韓国から始めて一つ海を越すこと千里余りで対海国に至る。)
 狗邪韓國から對海國は1000里余り。
 又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國
 (対馬国から又、南へ 名を瀚海と曰う海をひとつ渡る。千里余りで。一大国に至る。)
 對海國から一大國は1000里余り。
 又渡一海 千餘里 至末盧國 
 「一大国から又、一海を渡る。千余里。末盧国に至る。
 一大國から末盧國まで1000里余り。
 ゆえに、郡から末盧國までは
 7,000余里+1,000余里+1,000余里+1,000余里=10,000余里となります。
 郡から女王国(邪馬台国)は1万2000里余りと記載されているので
 末盧國から女王国(邪馬台国)は12,000余里-10,000余里=2,000余里
 という、数式が成り立ちます。

 ・数式に算用数字と等号の乱用は、「倭人伝」書法の重大な誤解であり、以下の推定が大きく曲がっています。
原文が餘里付きの千里単位概数と書いているのですから、せめて、誤解を防ぐために≒とし、漢数字の千里・万里単位とすべきです。
「魏志倭人伝は邪馬台国への道程を書いたのではない」と書いたのを、お忘れでしょうか。行数稼ぎで、ページが飛んで失念したのでしょうか。

                               未完

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光正解釈説 総纏集 「中国語学習と邪馬台国研究と家電修理等」2018-04-16 13:20:00
私の見立て ★★★☆☆ 丁寧な労作 ただし前途遼遠      2023/02/03

 ゆえに、末盧國から女王国(邪馬台国)は 2,000里余りになります。
概数計算しているのに「ゆえに」は、どえらい勘違いです。万二千余里は、千里、二千里を呑み込んでびくともしない大まか里数と思われるし、七千余里、千余里も同様に大変、と言うか、時代相応、環境相応に大まかと思われます。書いた人に合わせていくべきではないでしょうか。
三度の渡海各千余里は、海上であり、絶対測定不可能です。
・結論として、万二千余里から七千余里と千余里を三度引いた後に何が残るか、絶対に予想不可能です。

 光正解釈説で解釈した内容をまとめると
① 末盧國から東南へ五百里歩いて行くと 伊都國に到る。
② 末盧國から東南へ百里で奴國 
③ 末盧國から東へ百里で不彌國 
④ 末盧國から南へ水行二十日で投馬國
⑤ 末盧國から南へ水行で行けば十日、陸行すれば一月で
  女王が都する邪馬壹國
⑥ 女王國より北には 順に、
  斯馬國 巳百支國 伊邪國 都支國 彌奴國 好古都國 不呼國 姐奴國 對蘇國 蘇奴國 
  呼邑國 華奴蘇奴國 鬼國  為吾國 鬼奴國 邪馬國  躬臣國 巴利國 支惟國 烏奴國 奴國が有る
⑦ 奴國は女王国の端である
⑧ 奴國の南には狗奴國が有る  (女王国には属していない)
⑨ 末盧國から女王國は2,000里

・原文は無改行です。それにしても、「⑥ 女王國より北」は、不可解です。その他は、何の「順」なのでしょうか。
 原文の誤解は、できるだけ減らして欲しいものです。
・突如、餘里抜きの算用数字2,000里になるのは、数字自体の由来が不明なのに合わせて、異様な表現で不可解です。
・そして、不可解な尻切れ蜻蛉です。「総纏集」の態を成していないのでは、それこそ、締りがないのです。 
・以上で、誤解の罪の軽いところで、「歩く」とは誤解です。中原では、馬車、時に騎馬です。数千里の徒歩行で、帯方郡を出た指令文書が倭に着くのに、何ヵ月かかかるやら。予測不可能です。

 ついでながら、現代中国語で現在地からどこかへ「行く」に相当するのは、「去」ですが、大変、大変、大変古くから常用されている漢字なので、古典漢文では、色々な意味があり、現代用法に囚われると文意を見失います。

・出過ぎた物言いとなりますが、「倭人伝」構成を推定すると、この女王国記事で正始の魏使派遣の事前説明記事は締めくくられ、以下、狗奴国風俗と見え、後日の訪問取材と見えます。

末羅国起点放射行程新説の不合理と「水行陸行」迷走、「女王が都する」錯誤は兎も角、水行・陸行の川船十日と街道歩行三十日並列は、理不尽の極みです。相談相手を間違えたように見えます。出発点で追分を誤ると、荒れ地に迷い込んでいくだけで結論に近づけないものです。

◯まとめ
 以上、「総纏」とあるのを真に受けた全力指導です。総じて、以上に書いたような初心者向けの査読(作文指導)がされていないのは、困ったものです。延々とダメ出しを続けさせられては、大抵の方は、口を挟まないでしょう。それでも、生徒が理解して取り組んでくれたら良いのですがね。

 独学で形式の整った文章を書くには、先賢諸兄姉の著作に「謙虚に」学ぶ必要があります。勿論、過ちを踏襲する必要はありませんが、学ぶことは多いはずです。

                                以上

2023年2月 1日 (水)

新・私の本棚 外野 ウィキ 「古代史の散歩道」続考 seit2023 1/4

ウィキ 「古代史の散歩道」2023/01/28 当記事 2023/01/31

◯始めに
 無名の論者のWiki記事を批判しても時間の無駄だが、一介の閑散ブログ主である当方記事に時間と労力を費やして批判記事を書いていただいたようなので返礼した。因みに、当ブログの署名はToYourDayなので、タイトルのパクリと合わせて二重の無礼であるが、無頓着に、引用符無しに万年好奇心少年の7文字を連呼した暴挙は、武士の情けでここでは問わない。

大作冢
万年好奇心少年は「念のため、子供に言うような念押しをすると、「大作冢」とは、大勢が寄っての意であり、「大冢」と言う意味では「全く」ない」と書く(参考文献14)。この部分の解釈は「大勢が寄って」と人数と解釈するものではない。石原道博は「大いに冢を作る」と大規模を示唆する(参考文献11)。小南一郎は「大規模に冢が築かれた」として、サイズが大きいと示す(参考文献12)。藤堂明保は「大規模に直径百余歩の塚を作っていた」とする(参考文献13)。つまり工事に従事した人数と解釈するのは誤りで、結果として作られた冢のサイズをいうのである。万年好奇心少年のいう「盛り土は、高くもなければ、石積みしていないので堅固でもない」(参考文献14)は解釈として誤りである。

 論者は、安直に「誤り」と裁定しているが、まず何より、当方が「鳥越氏ほどの先賢に、初歩的な事項を指摘することの非礼を詫びている」のを見落としているようである。当分野では、露骨に言わないと通じないようで、近来、角が立つ表現としているが、ここでは「魏晋代の史官に対して、後世の東夷の無教養な初学者が、安易に批判するのは不敵」とまでは表現しなかった。
 つまり、鳥越氏を尊敬して、同書で既に述べている同一文献、つまり、倭人伝内の「冢」を指摘していないが、論者は、知ってか知らずか、同一文献内用例を見逃しているか逃げているのか、素人目には不審である。
 何にしろ、批判対象の最大の論拠を(理解した上で)克服しないのは、論議の場で不都合である。
 例えば、当方は、「大勢」と言っているのは、倭人伝で紹介されている、いわば「家族葬」の姿と比較すると、「大勢」と言っているだけで、実際の人数は知る由もないから、数値化された「人数」を論じているのではない。不注意な読解である。「大勢」は、具体的な人数として勢力が特定できないときに、
不明瞭に論じる言葉である。例示された諸兄姉は、文書の流れとして、「径百余歩」に持ち込むために、話を「冢」の物理的な形状、つまりフィジカルを言おうとしているが、ことは、葬礼の記事であり、メンタルとして捉えるのが妥当ではないと思われる。論者の言うように、当時、目前に見えた「冢」のフィジカル、結果だけに囚われて、史官がこめた「礼」、つまり、メンタルを無視するのは、余りに、現代東夷の理解力不足を露呈しているのでは無いかと懸念する。
 先賢の箴言の如く、「倭人伝」は、三世紀の中原文化人が、同時代の中原文化人のために著述したのであるから、そのような観点で、著述者の深意を考察すべきでは無いかと思うのである。

 それにしても、批判の相手が長期間を費やした考察を、一向に理解しないで、つまり、無根拠で「解釈として誤り 」は、あまりにも「稚拙」である。子供であれば、「少年」を尊敬せずに罵倒しても許されると思っているのだろうか。世も末であり、この先いくら老妄しても、そこまでは墜ちたくないと思う。

 裁定前段で提示の先賢諸兄姉、各氏の諸論は、「倭人伝」文献解釈で、当方提示の論拠を認識していないので、正しく引用、評価されていないと思われる。その程度が分からないでは、子供以下である。

 以下、具体的に論じていくが、以上に述べた背景を理解できないのであれば、読むだけ無駄である。当方は、第三者読者の賢察を期待して、ここに公開しているのである。
 石原氏は、「冢」工事の規模の提起の点では、当方と基本的に軌を一にしている。「倭人伝」でそれ以前の「家族葬」に対し大規模なのであるが、比較対象を指摘していないので、単なる不明瞭な表現に過ぎない。
 小南氏は、断片引用を見る限り、『論者が「墓のサイズが大きい」と解したのは「サイズ」が三世紀にない言葉で不用意極まる』が、低次元の不明瞭発言となっているのを置くとして、本気で、つまり、マジで、「外形の大きさ」を論じたと言うなら、石原氏同様、何とどう比較した見解か明示する必要があると自覚していないのだろうか。自覚がなければ、言うだけ無駄である。
 藤堂氏は、「直径百余歩」と原文の「径百余歩」の数値を示しているが、いかんせん、三世紀倭人地域に於いて「径百余歩」が、いかなる数値か解明していないから、所詮意味不明と見られる。いくら熱心に意図しても、「倭人伝」の「冢」解釈を改竄できない
 藤堂氏は、「大きい」と不明瞭で無く、具体的であるが、「径」、「歩」が 解明されていない状態では、具体的な規模(形状の変形、誇張を含め)を全く数値化できないから、何を言っても、漠たる感想で、やはり不明瞭であり、学術的には、意味を成さない冗談/冗語でしかない。

 斯界の泰斗というべく諸兄姉に対して素人から言い立てるのはなんなのだが、中国正史のように、確固たる編集方針で編纂された文献については、当該文献の用例、特に、先立つ部分を最も優先して評価すべきではないかと思われるのである。(揚げ足取りされると困るのだが、諸兄姉の業績が、無策であったと総合評価しているのではない。たまたまの事例を言っているのである)
 つまり、この個所で「冢」なる用語の意味を斟酌する際には、倭人伝の直前の「冢」の用例を最も重要視すべきだとみるのである。特に、至近用例は、埋葬形式に関する記事であるから、そのものズバリとみるべきと思われる。当時の新規読者は、そうした手順で解釈を始めるものではないか。なら、現代、「日本」の諸兄姉も、文献解釈に当たって、素人に習うのを恥とせず、同様の手順を採用すべきものと思われる。少なくとも、文献解釈を公表されている諸賢は、「冢」をそのように堅実に解釈しているのであり、当方は、それにならうべくしてならっているのである。無学な素人の独学を侮られては困る。

 そのような状況を理解した上で、論者は「径百余歩」の正解を見通したと自負しているのだろうか。自覚していないのなら、それはそれでお幸せと言うしかない。
 学問的には、この記事の解釈で、「径」は、「冢」の外径とする説と、「冢」の占拠面積とする説と、どちらでもないとする説がある。俗に言う前方後円墳形状は、至近に書かれていないと言うか、三世紀当時、文明圏に存在しないので、外野で場違いであり、「倭人伝」解釈の論義に持ち出すのは、本来、学術的に非常識である。藤堂氏は、専門外については、当然、然るべき権威者と相談されたのであろうが、相談相手の意見を検証しなかったのか、できなかったのか、恐らく、俗説に染まったものと見えるのである。どんな専門家にも、限界は避けられないのは常識であるから、別に非難すべき事ではない。

 「歩」については、大別すると、素人考えの人の歩幅を基準とすると「歩」(ほ)する俗説系統と、中国古典資料を基に土地台帳の面積単位「歩」(ぶ)であるという正統派との「異次元」(一次元単位と二次元単位の混同)の二説がある。当方は、中國古典資料では、正答は解釈に挑んでいるので、「ぶ」に組みしていることは、機会ある毎に表明しているが、ここでは、議論の場に登場していないので、特に触れていない。
 中国古代史文献に疎い方は、知らないことの奔流で朦朧となることだろうが、そういう事情であり、くれぐれも、ことは、先に上がった諸兄姉の責任ではないので、そちらに始末を持ち込むものではない。

 結局、当方が書いたように「倭人伝」に照らすと、「冢」は、遺骸を地中に埋納した上に形成する「封土」、「盛り土」であり、地べたに盛大に盛り土した隆起に遺骸を収納するのではない。また、3世紀当時、曹操の影響下にあった中原官人の感覚としては、「無駄に大きい」のか、蛮人ならそんなものか、という程度なのか、どのように評価したのかよくわからないが、「倭人伝」は、倭人を侮蔑する目的で書かれたのではないから、さほどの不都合は書かれていないと見るものではないかと思われる。
 ちなみに、3世紀、ないしは、それ以降の現地人は、「冢」といわず、「大塚」とか「丸山」と「尊称」したようであるから、当時の「冢」の認識はどんなものか推定できるのではないか。いや、できないと言われても、どうしようもないのだが、それ以上は、任に余るので、ご勘弁いただきたい。 
 中国、朝鮮、東南アジアの現地調査をされた鳥越氏が、当記事をどう考えたか、目下未確認なので、意見は差し控える。

 ということで、倭人伝の「冢」は、「墳墓」では無く、「大塚」でも無く、「丸山」でもなく、又、まともな中国語では「絶対に」ない「前方後円墳」でも無いのは、明瞭である。文献解釈の一例として、よくよく噛みしめて欲しいものである。

 それにしても、よく知らないということは、この上なく幸せである。

*文献解釈の常道
「倭人伝」の文章解釈は、まずは、「倭人伝」自体によって解釈すべきだというのが、「基本の基本」(Elementary)と思うのだが、いかがだろうか。いや、思う、思わないはご本人の自由であるから、別に非難することは無い。ただ、その程度のことを知らないで、ボオッと生きている人は、その発言を信用できないと言うだけである。
 陳寿の語彙は、中国古典書を収容していたが、それでも、まず想起するのは、洛陽地域の教養人話法と思うのである。それが、知性というものである。いずれにしろ、まずは、「倭人伝」用例を尊重すべきである。

                              未完

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ウィキ 「古代史の散歩道」2023/01/28 当記事 2023/01/31

徇葬
万年好奇心少年は「狥葬者奴碑百餘人」(三国志原文)について、『字義に忠実に、「素直に」、「普通に」、「するりと」解釈する』と、「徇」とは葬儀に「従う」、つまり、葬礼に参列した者の意と解すべきと思われる』と書く(参考文献14)。この解釈は誤りであるからその理由を書く。第一に、三国志夫餘伝に「其死、夏月皆用冰。殺人徇葬、多者百數」と書かれる。はっきり「殺」と書かれている。第二に小南一郎は「奴婢百人以上が殉葬された」と解釈している(参考文献12)。石原道博は「殉死する者は奴婢百余人」と明快である(参考文献11)。藤堂明保は「殉葬した男女の奴隷は、百余人であった」と少し踏み込んでいる(参考文献13)。つまり、原文は殉葬があったとしか解釈できないのである。万年好奇心少年の解釈は誤りといえる。

 論者は、「誤り」と裁定しているが、まず何より、当方が、「徇」の字義に依拠していることから逃げているのが不審である。批判対象文献の最大の論拠を克服しないのは、まことに不都合である。
 論者は、陳寿「三国志」東夷伝扶余伝の「殺人殉葬」用例を唯一の根拠としていて、つまり、該用例が、孤立した異様な用例である可能性を無視して、「はっきり」書かれていると称しているが、「はっきり」の意味は、不明である。陳寿は、崩し字で編集指示したとは思えない。

*文献解釈の基本
 精緻な、つまり、高度な文献解釈の基本の基本として、「字が違えば意味が違う」のであり、特に、偏が異なる字は、相互に明確に異なった意味を持つというのが、絶対原則であり、ここでは、根拠無しにその絶対原則を乱したと史官を非難している。従って、学術的に見て、論者の意見は「誤り」である。要するに、文献解釈の基本を外した素人考えである。

 論者が回避している文献解釈であるが、野蛮極まる風俗記事の一環として書かれている扶余伝の「殉葬」用例は、閑静である「倭人伝」には、不都合であり、編者の各戸樽石、真意を見過ごして、誤字、誤写とする蛮習に賛同できない。

 要するに、小南、石原、藤堂の三氏は、それぞれ、原文を「殉葬」と改竄した時点で翻訳者としての分を越えて不適切である。ちなみに、「殉葬」なる用語は、中国古典書で希と見える。論者はご存じだろうか。
 『小南氏は、「奴婢百人以上が殉葬された」と書いている』と言うが、勝手に字を書き換える「改竄」に陥り、文法文意を誤解している。以下同文は略す。
 「徇」は付き添い進むことをいい、「殺された」という意味にはなり得ないから、小南氏は、翻訳者の良心に従い字を変えたかとも懸念される。
 『石原氏は、「殉死する者は奴婢百余人」としている』が、論者から明快と評されている。ただし、論者が素人考えで「明快」と感じたのは、論者ないしは同好の氏の「思い込み」に随うかのように、改竄解釈されているからである。よくよく、一字一字を吟味すべきである。
 『藤堂氏は、「殉葬した男女の奴隷は、百余人であった」とし、論者から「少し踏み込んでいる」と酷評されている』が、「ちゃんと踏み込まなかった」ことが「誤り」なのか、藤堂氏ほどの先賢にしては、不可解である。因みに、奴婢が「現代用語の奴隷」とは、到底思えない。もし寝る藤堂氏が冷静であれば、言い回しを変えたはずである。

 と言うことで、論者は、今回、四例を提示したが、いずれも、当方の基本的な論拠を克服してないので、論拠として不備であり、いかにも無意味である。『字義に忠実に、「素直に」、「普通に」、「するりと」解釈する』と揶揄されて、論者が平気なのも「鉄面皮」である。次第に刺激的な発言が増えるのは、不可避である。

 どうか、異論を提示する際には、丁寧に論拠を自己監査して頂きたいものである。論者は、勘違いされているようだが、当方は、思いつきを書き連ねている論者Wikiブログの教育的指導役を請け負っているのではない。

                                未完

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ウィキ 「古代史の散歩道」2023/01/28 当記事 2023/01/31

万年好奇心少年は、白石太一郎氏の講演「考古学からみた邪馬台国と狗奴国」を一部引用して、批判を行っている(参考文献15)。当該講演を筆者は聞いていないので、ブログに提示された引用が正確かどうかは定かではない。また講演自体は刊行や公表もされていないので、内容を確認できない。そこで引用が正確なものと仮定して、内容に問題がないか以下に検討する。

邪馬台国の所在地論争について
まず「(白石氏の)専門外の文献史学に対するご指摘」(参考文献15)についてであるが、「基本的には文献史学上の問題である。ただ『魏志』倭人伝の記載には大きな限界があり、邪馬台国の所在地問題一つを取り上げても、長年の多くの研究者の努力にもかかわらず解決に至っていない」と白石氏が語ったとされる。この発言は白石氏としては不思議なものではない。その証拠に白石氏は著書で「(魏志倭人伝)史料だけでは邪馬台国の九州説と近畿説の決着がつかない」(参考文献16,p.70)と書いている。
万年好奇心少年は「文献史学による合理的で単純明快な『問題』解明が妨げられ、世人の疑惑を招いている」と書いているが、文献史学だけで言われるような合理的な解明は誰にもなされていない。故に白石氏が「問題」解明を妨げていると書くのは不当である。白石氏はむしろ考古学の助けにより、文献史学の限界を突破しようとしているのである。

大型前方後円墳の出現年代
大型前方後円墳の出現年代が3世紀中葉に遡るというのは、現代の考古学研究者の過半に及ぶ共通認識となっている。したがって、白石氏の説明は誤りとは言えない。万年好奇心少年は「力まかせに無根拠の幻想を捏ね上げ、思い込みを正当化するべきではない」と書くが、この大型前方後円墳とは箸墓古墳以後の古墳をいうので、批判する場合はまずそれらが3世紀中葉ではないことを証明しなければならない。それなくして「無根拠の幻想」と書くべきではない。批判するなら、まず自分の主張が正当であることを証明しなければならない。
考古学的な研究の成果にもとづき、邪馬台国と狗奴国の問題を考える
万年好奇心少年は「手前勝手などんぶり勘定」と評するが、その主張の根拠は示されていない。万年好奇心少年は考古学的研究の内容を知らずして、不合理な批判だけを声高に言っているだけである。なお白石氏の講演の論拠は白石太一郎(2013)に詳しく語られているから、そこに記載されている根拠自体に正当に反論しなければ、正当に批判したことにはならない。(参照 2023年2月1日))

 当方記事に明記したように、白石氏講演は、『吉野ヶ里歴史公園 特別企画展記念フォーラム「よみがえる邪馬台国『狗奴国の謎』」講演記録 2012年10月13日』として、吉野ヶ里歴史公園のサイトで2019年時点で公開記事であったが、氏の著作物を全文引用するのは違法なので、「公開の会場講演を適法に部分引用した」ものである。公開中止の趣旨は知らない。

 当方ブログ記事URL記載割愛の趣旨は不明である。いずれにしろ論者は、当方の記事を批判しているので、以下、応答する。
 論者は、末尾で「白石氏の講演の論拠」と言及しているので、論者は当方の記事公開時点に実見したかと懸念される。

                               未完

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ウィキ 「古代史の散歩道」2023/01/28 当記事 2023/01/31

*批判の根幹
 白石氏講演に対する批判の根幹は、当該記事の冒頭で明言しているように、氏の権威を援用した考古学成果の操作による文献解釈の圧迫であり、白石氏が、考古学分野の頭領であるとしても、その権威でもって文献解釈を「指導」するのが合理的かどうかは、所詮、見解の相違と言わざるを得ない。
 勿論、白石氏ご自身に代表される、に師事する実務研究者ご一統の発掘研究成果を難詰しているのではない。

 「大型前方後円墳の出現年代が3世紀中葉に遡るというのは、現代の考古学研究者の過半に及ぶ共通認識となっている。したがって、白石氏の説明は誤りとは言えない。」と、論者が、気色ばんで弁護せざるを得ないように、この意見は、素人目にも首尾転倒して、お手盛りである。
 近年、白石氏が強引に主張し「現代の考古学研究者の過半」が、相対的弱者として追従したかと懐疑するのであり、挙手で過半数としても、「主張」が学術的に正当と言えない。学問は、多数決ではない。鉄則は自明である。

 考古学の定則で遺物(遺跡)に紀年がない限り、考古学は絶対年代を確定できない」のも鉄則であり、「三世紀中葉」に「遡らせた」という発言は、自慢話の「軍功」自慢であって、学問的な主張とは思えないのではないか。
 要するに、本稿は、白石氏の頭領、研究組織の指導者としての器量と采配を批判しているのであり、そのような権威主義的な学問研究のあり方は、公共研究機関として、納税者の負託を裏切っているというものである。

 顕著なのは、白石氏が、我流の「倭人伝」の文献解釈を造作するとともに、造作された文献解釈を、さらに我流に引き寄せていることであり、それは、考古学界の泰斗として、遺物考古学の本分を逸脱しているという、大変高度な批判である。

 これは、批判の対象と何の所縁もないと見える無名の「歴史マニア」、現代風に尊称すると「マキムクオタク」略して「マキオタ」のやじうまが、横合いから小賢しく口を挟むことではない。素人の出過ぎた発言は、当方のブログだけで十分ではないか。

*批判の由来
 因みに、白石氏の旧著に対する批判を先だって公開していて、当方は、白石氏の業績や権威は承知の上で、偶々、当時は無償で参照できた講義公開を批判したのは、片言を捉えた、うろ覚えの聞きかじりによるものではない。
 白石氏に向かって、いまさら当たり前のことを言うのも何だが、本講演は、主催者の請託に全力で答えたものであり、氏が、見識を傾けた最善の内容と感じたのである。九州説牙城で九州説賛同者が大勢を占めると予想される講演で、一段と、説得力をこめたと見るから、真剣な批判に値するのである。いわば、NPB日本シリーズでの監督采配批判である。然るべき尊敬は、言わずとも当然である。

 とは言え、素人目にも、言外紙背も含め、一部行きすぎが見えたので、書き上げたのである。

                               以上

新・私の本棚 白石太一郎 「考古学と古代史の間」再掲 1/2

新・私の本棚 白石太一郎 「考古学と古代史の間」再掲 2/2

新・私の本棚 白石太一郎 「考古学と古代史の間」再掲 1/2

            筑摩プリマーブックス154 筑摩書房 2004年
      私の見立て★★☆☆☆ 参考のみ          2017/02/10 2018/12/10

*はじめに
 本書を購読したのは、近年顕著な「古墳時代の開始吊り上げの主たる提唱者が、本書著者白石太一郎氏である」という風説を確認しようとしたものです。結論を言うとまさしくその通りで、著者は肯定的な確信犯だと言うことです。

 言うまでもありませんが、当ブログ筆者の意見は、本書で公開されている論理の進め方に一般人として異論を唱えるもので、学術的な当否は対象外であり、まして、本書著者の権威を傷つけようとしているものではないのです。

*「考古学」と「古代史」の狭間
 本書冒頭の述懐で、古代史分野と一般人が捉える学術分野は、「考古学」と「古代史」の、ずいぶん土台も筋道も異なった二分野に分かれていることが、素人にもよくわかるように、説かれているのです。

*議論の分かれ道
 そうした前提が説明された後で、本書著者は、文献資料である魏志倭人伝の解釈と考古学の知見をすりあわせ、古墳時代の開幕を3世紀前半であると判断し、この判断に従うと、倭人伝の邪馬台国は、奈良盆地の一角ヤマトを本拠としたとの論理を述べています。この論争に良くある「決まり」主張です。

 もちろん、その際に、先に述べた、考古学の見る遺物、遺跡は、他の遺物、遺跡との相互年代、つまり、どちらが古いか新しいかという判断はできるものの、「絶対」年代、つまり、西暦何年であるとか、中国のどの王朝の何年という断定はできない、という考古学への定評を克服したと主張するのです。明確な結論が端的に導き出されると言うことは、その形成過程が「結論」に向かう強い指向性を持って進められていたのではないかと思われるのです。

*自然科学的手法の限界

 しかし、援用されている自然科学的時代判定は、どんなデータをどのような方法で検定したか明記されてないので一般論で批判するしかないのです。
 言うならば、考古学の持ち分である遺物、遺跡鑑定でなく、第三者である自然科学の観点からの判定ですから、その判定は、自然科学視点で支配され、考古学の立場から責任をもって検証できないと思われるのです。つまり、本書著者が慎重に遠ざた文献史学の年代検定同様、「部外者」見解なのです。

                             未完

新・私の本棚 白石太一郎 「考古学と古代史の間」再掲 2/2

            筑摩プリマーブックス154 筑摩書房 2004年
      私の見立て★★☆☆☆ 参考のみ          2017/02/10 2018/12/10

*「考古学」における科学的測定法
 データねつ造に至らないまでも、依頼者所望の結果を出すのが受託した科学者の仕事なのです。測定方法選択段階で測定結果が予想されることは珍しくないので、希望するデータが出るよう測定方法が塩梅されることは珍しくないのです。
 
 また、判定の条件設定は主観に左右されるのです。専門機関といえども、依頼元の意図が肯定される判定を出さねば依頼元を裏切ると考えて、測定方法を調整しデータ解釈を演出することはざらにあることです。依頼の際に強調することもあるだろうし、あうんの呼吸で忖度させることもあるのです。
 
 考古学者は、自身の学識知見には責任を持てても、自然科学的測定は、畑違いで責任外ですから、くれぐれもお手盛りにならないように、依頼からデータ受け入れまで慎重に扱うべきなのです。

*早計な判断
 そこまで言うのは、本書は、自然科学的判定によって古墳年代を比定していると見えるからです。更に、その判断を元に、文献資料解釈を決めているのです。そのような成り行きは、古典的な言い方では曲筆です。

 本書著者は、考古学者としてかくかくたる名声を得ている方と思いますが、一読者には、他分野の見解が耳に心地良ければ丸ごと受け入れるのは、考古学者の使命をおろそかにしているように見えるのです。

 しかも、ご自身で、最初に述べたように、考古学者の見識が揺らぐ原因として、外部分野見解の安易な取り合わせがあることを見抜かれているのですから、なおさらに、本書の主題となる「曲筆」は痛々しいのです。

*素人の意見
 当ブログ筆者は、遺物、遺跡を実見していないので、諸文献を精読して自分なりの意見を形成します。つまり、先賢の高説を元に文献を読み解くのですが、その限り、倭人伝に九州北部の局地的政権である倭が描かれているとする意見に大きく傾いています。
 本書著者は、深い学識で、ヤマトにあった地方政権が全国政権として広く統括するに至った「歴史の必然」を示されて、当ブログ筆者は深い敬意を持ってその展開を眺めるものです。
 ただ、そのような議論を文献資料とつなぎ合わせるために、たとえば、箸墓の造成に、卑弥呼の没後十年かけたとされるのはもったいない話です。
 堂々たる議論でも、文献資料を無理な解釈で歪めさせるとすれば、その発端となる、自然科学的判定を造作する進め方に賛同できかねるのです。
 まして、考古学を基本とした見解で、乱世の続く文献解釈を快刀乱麻のごとく武力平定するというのは、何か初心を忘れているように思うのです。

*最後の聖戦か
 思うに、本書著者は、ヤマトに対する絶大な愛着で冷徹な判断が妨げられていると見るものです。そのような先入観から遠い当方には、愛着に起因する先入観に立つ議論は学術上の論議として採用しがたいのです。

*主観的科学観
 当ブログ筆者の科学観は、そのような外部見解は、考古学者自身の見解形成に丸呑みして採用すべきでない、と言うものです。自然科学の判定が信用できないという話でなく、自身の学識および知見の範囲外のものは、(素人なりの)検証無しに受け容れるべきでない、というものです。
 当ブログ筆者は、工学系訓練を受け、企業内で技術的実務に携わり、場数はある程度踏んでいると考えてください。その背景から、科学技術的な測定と見解は、測定機器の高精度化とデジタル化によって客観的なものと思われがちですが、実は主観の影響を大きく受けると考えるのです。

 特に、先に述べた第三者機関は、業績を向上させるためには、いわば顧客である考古学者の意を迎えざるを得ないのであり、時には、「考古学者の意に沿わない判定結果であれば却下される」危険を示唆/明言されるものであり、それこそ、「高位の第三者機関」による厳正な研究成果監査が必要と思うのですが、考古学者からは客観性を危ぶまれる成果発表しか無いようです。

                           以上

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