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2023年2月 1日 (水)

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ウィキ 「古代史の散歩道」2023/01/28 当記事 2023/01/31

◯始めに
 無名の論者のWiki記事を批判しても時間の無駄だが、一介の閑散ブログ主である当方記事に時間と労力を費やして批判記事を書いていただいたようなので返礼した。因みに、当ブログの署名はToYourDayなので、タイトルのパクリと合わせて二重の無礼であるが、無頓着に、引用符無しに万年好奇心少年の7文字を連呼した暴挙は、武士の情けでここでは問わない。

大作冢
万年好奇心少年は「念のため、子供に言うような念押しをすると、「大作冢」とは、大勢が寄っての意であり、「大冢」と言う意味では「全く」ない」と書く(参考文献14)。この部分の解釈は「大勢が寄って」と人数と解釈するものではない。石原道博は「大いに冢を作る」と大規模を示唆する(参考文献11)。小南一郎は「大規模に冢が築かれた」として、サイズが大きいと示す(参考文献12)。藤堂明保は「大規模に直径百余歩の塚を作っていた」とする(参考文献13)。つまり工事に従事した人数と解釈するのは誤りで、結果として作られた冢のサイズをいうのである。万年好奇心少年のいう「盛り土は、高くもなければ、石積みしていないので堅固でもない」(参考文献14)は解釈として誤りである。

 論者は、安直に「誤り」と裁定しているが、まず何より、当方が「鳥越氏ほどの先賢に、初歩的な事項を指摘することの非礼を詫びている」のを見落としているようである。当分野では、露骨に言わないと通じないようで、近来、角が立つ表現としているが、ここでは「魏晋代の史官に対して、後世の東夷の無教養な初学者が、安易に批判するのは不敵」とまでは表現しなかった。
 つまり、鳥越氏を尊敬して、同書で既に述べている同一文献、つまり、倭人伝内の「冢」を指摘していないが、論者は、知ってか知らずか、同一文献内用例を見逃しているか逃げているのか、素人目には不審である。
 何にしろ、批判対象の最大の論拠を(理解した上で)克服しないのは、論議の場で不都合である。
 例えば、当方は、「大勢」と言っているのは、倭人伝で紹介されている、いわば「家族葬」の姿と比較すると、「大勢」と言っているだけで、実際の人数は知る由もないから、数値化された「人数」を論じているのではない。不注意な読解である。「大勢」は、具体的な人数として勢力が特定できないときに、
不明瞭に論じる言葉である。例示された諸兄姉は、文書の流れとして、「径百余歩」に持ち込むために、話を「冢」の物理的な形状、つまりフィジカルを言おうとしているが、ことは、葬礼の記事であり、メンタルとして捉えるのが妥当ではないと思われる。論者の言うように、当時、目前に見えた「冢」のフィジカル、結果だけに囚われて、史官がこめた「礼」、つまり、メンタルを無視するのは、余りに、現代東夷の理解力不足を露呈しているのでは無いかと懸念する。
 先賢の箴言の如く、「倭人伝」は、三世紀の中原文化人が、同時代の中原文化人のために著述したのであるから、そのような観点で、著述者の深意を考察すべきでは無いかと思うのである。

 それにしても、批判の相手が長期間を費やした考察を、一向に理解しないで、つまり、無根拠で「解釈として誤り 」は、あまりにも「稚拙」である。子供であれば、「少年」を尊敬せずに罵倒しても許されると思っているのだろうか。世も末であり、この先いくら老妄しても、そこまでは墜ちたくないと思う。

 裁定前段で提示の先賢諸兄姉、各氏の諸論は、「倭人伝」文献解釈で、当方提示の論拠を認識していないので、正しく引用、評価されていないと思われる。その程度が分からないでは、子供以下である。

 以下、具体的に論じていくが、以上に述べた背景を理解できないのであれば、読むだけ無駄である。当方は、第三者読者の賢察を期待して、ここに公開しているのである。
 石原氏は、「冢」工事の規模の提起の点では、当方と基本的に軌を一にしている。「倭人伝」でそれ以前の「家族葬」に対し大規模なのであるが、比較対象を指摘していないので、単なる不明瞭な表現に過ぎない。
 小南氏は、断片引用を見る限り、『論者が「墓のサイズが大きい」と解したのは「サイズ」が三世紀にない言葉で不用意極まる』が、低次元の不明瞭発言となっているのを置くとして、本気で、つまり、マジで、「外形の大きさ」を論じたと言うなら、石原氏同様、何とどう比較した見解か明示する必要があると自覚していないのだろうか。自覚がなければ、言うだけ無駄である。
 藤堂氏は、「直径百余歩」と原文の「径百余歩」の数値を示しているが、いかんせん、三世紀倭人地域に於いて「径百余歩」が、いかなる数値か解明していないから、所詮意味不明と見られる。いくら熱心に意図しても、「倭人伝」の「冢」解釈を改竄できない
 藤堂氏は、「大きい」と不明瞭で無く、具体的であるが、「径」、「歩」が 解明されていない状態では、具体的な規模(形状の変形、誇張を含め)を全く数値化できないから、何を言っても、漠たる感想で、やはり不明瞭であり、学術的には、意味を成さない冗談/冗語でしかない。

 斯界の泰斗というべく諸兄姉に対して素人から言い立てるのはなんなのだが、中国正史のように、確固たる編集方針で編纂された文献については、当該文献の用例、特に、先立つ部分を最も優先して評価すべきではないかと思われるのである。(揚げ足取りされると困るのだが、諸兄姉の業績が、無策であったと総合評価しているのではない。たまたまの事例を言っているのである)
 つまり、この個所で「冢」なる用語の意味を斟酌する際には、倭人伝の直前の「冢」の用例を最も重要視すべきだとみるのである。特に、至近用例は、埋葬形式に関する記事であるから、そのものズバリとみるべきと思われる。当時の新規読者は、そうした手順で解釈を始めるものではないか。なら、現代、「日本」の諸兄姉も、文献解釈に当たって、素人に習うのを恥とせず、同様の手順を採用すべきものと思われる。少なくとも、文献解釈を公表されている諸賢は、「冢」をそのように堅実に解釈しているのであり、当方は、それにならうべくしてならっているのである。無学な素人の独学を侮られては困る。

 そのような状況を理解した上で、論者は「径百余歩」の正解を見通したと自負しているのだろうか。自覚していないのなら、それはそれでお幸せと言うしかない。
 学問的には、この記事の解釈で、「径」は、「冢」の外径とする説と、「冢」の占拠面積とする説と、どちらでもないとする説がある。俗に言う前方後円墳形状は、至近に書かれていないと言うか、三世紀当時、文明圏に存在しないので、外野で場違いであり、「倭人伝」解釈の論義に持ち出すのは、本来、学術的に非常識である。藤堂氏は、専門外については、当然、然るべき権威者と相談されたのであろうが、相談相手の意見を検証しなかったのか、できなかったのか、恐らく、俗説に染まったものと見えるのである。どんな専門家にも、限界は避けられないのは常識であるから、別に非難すべき事ではない。

 「歩」については、大別すると、素人考えの人の歩幅を基準とすると「歩」(ほ)する俗説系統と、中国古典資料を基に土地台帳の面積単位「歩」(ぶ)であるという正統派との「異次元」(一次元単位と二次元単位の混同)の二説がある。当方は、中國古典資料では、正答は解釈に挑んでいるので、「ぶ」に組みしていることは、機会ある毎に表明しているが、ここでは、議論の場に登場していないので、特に触れていない。
 中国古代史文献に疎い方は、知らないことの奔流で朦朧となることだろうが、そういう事情であり、くれぐれも、ことは、先に上がった諸兄姉の責任ではないので、そちらに始末を持ち込むものではない。

 結局、当方が書いたように「倭人伝」に照らすと、「冢」は、遺骸を地中に埋納した上に形成する「封土」、「盛り土」であり、地べたに盛大に盛り土した隆起に遺骸を収納するのではない。また、3世紀当時、曹操の影響下にあった中原官人の感覚としては、「無駄に大きい」のか、蛮人ならそんなものか、という程度なのか、どのように評価したのかよくわからないが、「倭人伝」は、倭人を侮蔑する目的で書かれたのではないから、さほどの不都合は書かれていないと見るものではないかと思われる。
 ちなみに、3世紀、ないしは、それ以降の現地人は、「冢」といわず、「大塚」とか「丸山」と「尊称」したようであるから、当時の「冢」の認識はどんなものか推定できるのではないか。いや、できないと言われても、どうしようもないのだが、それ以上は、任に余るので、ご勘弁いただきたい。 
 中国、朝鮮、東南アジアの現地調査をされた鳥越氏が、当記事をどう考えたか、目下未確認なので、意見は差し控える。

 ということで、倭人伝の「冢」は、「墳墓」では無く、「大塚」でも無く、「丸山」でもなく、又、まともな中国語では「絶対に」ない「前方後円墳」でも無いのは、明瞭である。文献解釈の一例として、よくよく噛みしめて欲しいものである。

 それにしても、よく知らないということは、この上なく幸せである。

*文献解釈の常道
「倭人伝」の文章解釈は、まずは、「倭人伝」自体によって解釈すべきだというのが、「基本の基本」(Elementary)と思うのだが、いかがだろうか。いや、思う、思わないはご本人の自由であるから、別に非難することは無い。ただ、その程度のことを知らないで、ボオッと生きている人は、その発言を信用できないと言うだけである。
 陳寿の語彙は、中国古典書を収容していたが、それでも、まず想起するのは、洛陽地域の教養人話法と思うのである。それが、知性というものである。いずれにしろ、まずは、「倭人伝」用例を尊重すべきである。

                              未完

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