新・私の本棚 鳥越 憲三郎 「中国正史 倭人・倭国伝全釈」肆 8/10
中央公論新社 2004年6月
私の見立て ★★★★☆ 労作 必読 批判部分 ★☆☆☆☆ 2023/02/21 2023/05/27 2024/02/11
「晋書」倭人伝
当史書は、唐代に編纂され、中国の天下を崩壊させた晋朝の荒政を非難する政治的な趣旨で「集団編纂」されているので、史書としての正確さの点で不満があります。但し、南朝滅亡時に、官蔵公文書は廃棄された可能性が高く、野史稗史の類いに頼っているものと危惧されます。
本編では、目に付く勘違いの訂正だけです。
ちなみに、一部で、「公的歴史書は、権力者の意図で編纂された政治文書」との暴論がありますが、中国では、王朝交代が常識であり、後代王朝が、いわば、尻拭いすることになっていて、当代権力者も、晋書編纂には、積極的に干渉したものの、行きすぎると、後代王朝に報復されるので、あくまで、例外と見えます。
12 ここで、「文帝」は魏代の曹丕と見るのは、あからさまに勘違いです。晋書「倭人伝」記事としては、晋高祖宣帝(司馬懿)の次男であった晋太祖文帝(司馬昭)と見るのが、誠に自然ではありませんか。これは、から、中央公論新社は、校正部門に人がいなかったのでしょうか。AI校正したわけではないでしょう。
沈約「宋書」
南朝宋、「劉宋」は発展途上の北朝を北伐すると共に、秦漢代以来の正史編纂を試み、宋書は、後継南齊代に刊行されています。つまり、南朝公文書、史書稿が健在であったので、三国志の後継に相応しい体裁を保っていたと見えます。同時代の沈約の単独編纂と相まって、信頼できると見えます。
因みに、劉宋代に後漢書を編纂した笵曄は、同時代に三国志を補注した裴松之共々、宋書編纂に参画してないと見えます。笵曄は、政権から遠ざけられ、地方に赴任していたので、公文書庫に立ち入れず参加できなかったとも見えます。
鳥越氏は、ここでは触れていませんが、正史としては、司馬彪「続漢紀」郡国志以来の地理志「州国志」が編纂され、「志」部を欠く三国志を補っています。但し、晋代に、樂浪/帯方両郡を撤収して半島から撤退した上に、対岸の山東半島からも撤退し、「倭」の行程道里は更新されていません。
*会稽東冶談義
「倭人伝」道里行程記事の解釈の参考になるのは、会稽郡南部、往年の東冶県です。
會稽太守,秦立,治吳。…去京都水一千三百五十五,陸同。
建安太守,冶縣,屬會稽。司馬彪云,章安是故冶,後分冶地為會稽東、南二部都尉。;南部,建安是也。吳孫休永安三年,分南部立為建安郡。
去州水二千三百八十。去京都水三千四十,並無陸。
宋書編纂者の沈約は、「班固馬彪」、つまり、班固「漢書」地理志、司馬彪「続漢紀」郡国志に続く「志」を企図しましたが、途中の陳寿「三国志」が志部を欠くため、各国志の本紀相当部から「州郡志」の記事を補充しましたが、概して、郡設立記事だけで廃止記事が無いので、厳密でないと歎いています。つまり、西晋崩壊時に建康に退避し損ねた公文書は、回復できていなかったのです。
*魏志「倭人伝」に於ける「会稽東冶」の幻影払拭
因みに、東冶は三国時代に消滅し、その健在な間も、当然、呉から魏に公式道里が報告されていなかったので、その地理情報は、陳寿の手元に届いていなかったと見えます。また、地理志、郡国志などで言う「公式道里」は、郡治に至るものであり、会稽郡治から遠隔の東冶県への道里など、知る由もないと思われるのです。何しろ、その間に陸路が存在しないので、陸道交通は無く、道里も不要というわけです。
また、陳寿が、魏志史料として、東呉領域の会稽郡東冶県の洛陽からの道里を、公式に知り得ていたという根拠は、ないものと見えます。加えて、東呉の治世間に、会稽付近の郡県の移動があっても、魏に知らされていないので、ますます、陳寿は、会稽郡東冶県の洛陽からの道里など、知らなかったのです。知らない道里と、虚実不明の郡から倭までの道里を、比較して案ずることなどできないのです。
結局、沈約「宋書」「州郡志」を読む限り、三国志「呉志」に、会稽郡/建安郡東冶県と洛陽の間の公式道里は、書かれていなかったと分かります。
つまり、陳寿が、「魏志」編纂時に、戦利品として所蔵されていた未公認の韋昭「呉書」を参照するという禁じ手を動員したとしても、魏志「倭人伝」に「会稽東冶」が登場することはあり得ないのです。
以上で、本件は終わりです。
*水(行)、陸(行)、「陸同」、「並無陸」
それはそれとして、いつ消滅したか分からない「冶県」の後継と見られる「建安太守」は、沈約「宋書」「州郡志」 に 「去京都水三千四十,並無陸。」と「里」抜きで記録され、「京都」建業~建安間は「水」のみで「並無陸」、つまり、並行街道が無いと明記されています。この区間には宏大な福建山地が聳え、断崖桟道しか街道を刻むことができないので、公式連絡は、水、つまり、河川行に絞ったと見えます。
会稽太守から、「京都」建康までは、江水(長江)経由であって、近傍に並行陸道が存在し、「去京都水一千三百五十五,陸同」と同一道里が書かれていますが、もちろん、「水」と言うものの川船の航路を律儀に測量したりしていないし、「陸」の会稽~建業公式道里も、秦漢代以来更新されていないと見えます。
文句を言われる前に言うと、「無陸」とは、狭く険しい桟道が、一切無かったというものでは有りません。桟道は、騎馬疾駆できないので、公式街道では無いという意味です。
未完
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