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2023年2月23日 (木)

新・私の本棚 鳥越 憲三郎 「中国正史 倭人・倭国伝全釈」肆 1/10

中央公論新社  2004年6月
私の見立て ★★★★☆ 労作 必読 批判部分 ★☆☆☆☆ 2023/02/21 2023/05/27 2024/02/11

◯始めに
 本書の書評は、既に掲示していますが、不徹底と文句が付いたので、再度取り組みました。先行書評は見ずに、一から書き起こしているので、重複はご容赦ください。
 因みに、本稿は書評を手がかりとした随想録であるので、自ずと新規性については、限界があるとご了解いただきたい。もちろん、高い基準で批評されるのは、評者の勝手ですが、一度、洗面台で鏡に見入ってから、大声を出して欲しいものです。

 と言うことで、当然のことを明言しますが、ここでは鳥越氏の中文史料解釈、主として/専ら/ほとんど、魏志「倭人伝」評を述べます。当方は、鳥越氏の「三国志」評について云々する知識はないので、言及範囲が限定されていることをお詫びします。但し、限定された範囲、掘り下げを承知の上で、ここに公開した素人書評をご批判頂ければ幸いです。

 因みに、評点のからい批判部分は、鳥越氏の学識に対して補充されたものと見え、氏が専門としていた領域外に取り組む際に、助言と同意を仰いだため、結果として助言者の諸説に従ったと見うる点が多いように思うのですが、鳥越氏は、あくまで、氏の所説として、本書を書き起こしているので、氏の素人臭さの批判も書評として取り扱っているものです。

*総評
 氏は、従前に無い史料解釈を述べているとしていますが、氏が、魏晋代「学者」で無い以上、何らかの資料文献に従って解釈し、日本語に書き改めたものと見ますが、氏は、根拠資料を明らかにせず、よって頭から減点です。
 因みに、当方の知る限り、国書刊行会の労作を含め、先人の数編の労作があるから、獨断と見られる書き方は避けた方がいいようです。氏は、未踏の地に足を踏み入れたわけでは無いから謙虚であって欲しいものです。

*序奏~余談 「卑称」について
 卑弥呼は、東夷にあっては至高の存在でしたが、海北蛮夷に対して、あえて「卑称」したと見え、後世人は見習いたいものです。

*水行談義
 「水行」は、三世紀当時に先だって、中国圏に展開されていた水陸交通網、つまり、諸処に規定の間隔で宿駅、関所が設営され、行程道里と所要日数が規定されていた結構/体制であり、「倭人伝」は、そのような体制が、少なくとも、半島内に施行されていたと述べています。半島は、とうの昔から、「法と秩序」に守られた文明世界だったのです。

 本来の意義に従うと、「水行」は、「水」の「道」、「河川に従って形成された道」を言います。この点、当時の常識は「自明」故に述べず、東夷に於いて「常識」に従わない事例を述べたと見るのが史書筆法として最も普通です。

 この点、世上、中国古典書の筆法を知らないために、はなから誤解しているのは困ったものですが、みんな知らないから誰も指摘しないようです。それにしても、「聞いたことが無い」、「分からない」と高言するのは、自虐的な発言と見えるのですが、自覚されていないようです

*「植民地」の虚妄~借り物の世界観
 いや、そもそもそれ以前の氏の解釈は「異様」です。楽浪郡を「植民地」と解しますが、当時「植民地」など別世界の時代錯誤で実在しないのは自明ですが、意味不明のカタカナ語同様、サクラ咲いて蔓延っています。

*帯方「郡」創設~双葉の時代
 また、伝統ある楽浪郡の南部帯方縣を郡に格上げして、半島中部以南の「荒れ地」、つまり、天地の果て、万里の彼方を管轄させたのです。それまでは、郡で無く、単なる「縣」で、城壁石垣も脆弱で兵も乏しく、薄給だったはずです。そして、昇格し郡治となっても所在地は移動していないと見えます。すくなくとも、文書の送達先の「住所表示」は、不変だったと見えます。

 と言うことで、帯方郡は、漢魏晋制の本格的な郡で無く、いわば、遼東郡傘下の二級郡だったようです。草創期の帯方郡は、それまで、楽浪郡の南部で南方の韓、穢、倭を応対していた「帯方縣」を格上げしたものであり、県城を拡張したとも思えないのであり、領分も、特に代わっていなかったので、いわば、税収のない荒地を抱えた極めつきの貧乏郡で、城壁も郡兵も舞台の書き割りの可能性があります。
 要は、万事遼東郡に報告し、ご機嫌取りしていたのです。いや、それにしても、明帝景初の回復までのことですが、それまで「郡」と言えば、秦始皇帝創設の「遼東郡」、漢武帝創設の「楽浪郡」しか無かったのであり、まがい物の帯方郡は、後漢、曹魏の世紀の郡であったかどうか不明のまがい物であって、遼東郡の手先、走狗しか無かったのです。

 遼東郡公孫氏は、最盛期には、遼東半島から山東半島に渡海、進出し、戦国齊の北部を領有する「大国」になっていたのです。但し、過大評価は、禁物です。曹操の台頭で後漢中央が復興して、公孫氏の遼東郡太守の分を越えた黄海海南占拠を叱り飛ばすと、公孫氏は、曹操の軍事力、特に、騎馬軍団を多用した速攻の鋭さは、よく知っていたので、さっさと遼東本領に回復したのです。曹操は、法と秩序を重んじるので、遼東の地で郡太守の領分を守っている限り、取り敢えずは安泰とみたのでしょうか。

                                未完

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