« 新・私の本棚 鳥越 憲三郎 「中国正史 倭人・倭国伝全釈」肆 3/10 | トップページ | 新・私の本棚 鳥越 憲三郎 「中国正史 倭人・倭国伝全釈」肆 1/10 »

2023年2月23日 (木)

新・私の本棚 鳥越 憲三郎 「中国正史 倭人・倭国伝全釈」肆 2/10

中央公論新社  2004年6月
私の見立て ★★★★☆ 労作 必読 批判部分 ★☆☆☆☆ 2023/02/21 2023/05/27 2024/02/11

*帯方郡比定談義
 氏は、帯方郡を「漢城」(ソウル)と解していますが、当時、漢江河口部は、南北漢江の広大な流域から流下した厖大な川水、土砂のために、氾濫の絶えない扇状地であり、郡治を新設して石垣城郭造成などはしなかったと見えます。
 いや、現代では、南漢江上游(上流域)は、大容量貯水池(多目的ダム)によって治水されていますが、地域の峡谷は、蛇行する漢江が穿入蛇行の絶景を呈していますから、往時の暴れ川の様相が偲ばれます。
 半島中部西岸と山東半島東莱との往来は、漢城付近から、漢江河口部を越えて、さらに南下した、後世の唐津(タンジン)海港あたりの入り江と見受けられます。帯方郡は、この要所に高位の管理者を常駐したと見えます。また、恐らく、防衛のため、韓国に散在していたような山城を設けていたはずです。いや、短期間に強化したとは思えないので、既存の施設、組織を強化するにとどめたはずです。
 諸般資料から、ゆるりと推定されますが、「そうではない」と排他的に主張するなら、臆測や感情論で無く、確証を示して頂ければ幸いです。

 常識的には、帯方郡治は、黄海岸を結構離れた高台の陸地で、楽浪郡とは街道で緊密に近距離連携していたのではないでしょうか。何しろ、往時の帯方郡は、遼東郡支配下領域の南の端の帯方縣であり、遼東郡治から帯方郡治まで続いていた幹線街道の先に続いていた郡内街道の果てにあったものであり、あくまで、県の組織を嵩上げしたものと見えます。つまり、帯方郡治は、移動、新設されたものではないはずです。

 要するに、郡治は、地理的には北漢江上游(上流域)に近かったと推定しているものです。一路南下するには、北漢江利用が簡便ですから、郡治から東に移動して、荷物は、河流下りに委ねたものと思われ、逆方向も、さほどの苛酷な遡行では無いので、北漢江行程は、並行する陸道とともに、安定していたものと見えます。と言っても、これは、新規に造成したものではなく、楽浪郡時代からの継承と見えるのです。

 これは、あくまで、個人的な意見であり、くれぐれも、読者の意見を排除する意図はありません。以下同文。

*曇った「事実」
 因みに、先だって、氏は、前漢代朝貢の「事実」は無かったと根拠無しにおっしゃいますが、氏の語彙で、「事実」は「史実」、史書など公文書に記述された記録のようです。一般的な「事実」と主張されるなら、「無かった」とする史料を提示頂きたいものです。
 「倭人伝」は、「漢時」と「今」だけで具体的年代は不明です。いや、念のために言うと、中国史で「漢」は、大抵の場合、高祖劉邦から、最後の献帝まで、一続きの帝国なのです。正史で言うと、班固「漢書」と笵曄「後漢書」を一続きとみて、「司漢」、つまり、司馬遷「史記」と「両漢史」の二大史書と捉えることもあるくらいです。覿面に、「三国志」の存在価値は僅少化し、かくして、魏志「倭人伝」は、「海中一墨滴」と言われるのです。くれぐれも、「一墨滴」と「海水」が、対等などと言わないことです。

 と言うことで、氏は、中国古代史料に通じていないために、多年に亘りアジア各国の文化人類学的調査を重ねた鳥越氏にとって、「中國」は、眠れる獅子というものの、歯の抜けた老妄の獅子と速断したようですが、不明瞭な記事を元に、そのように断罪、断定するのは、いかにも軽率ではないでしょうか。率爾ながら、ご意見します。

*深追いの弁
 いや、この件に限らず、氏が、不慣れな分野について、不見識のままに、誤解交じりの記事を書いたことは、特に立証を要しません(諸賢にしたら、承知の筈です)が、世間には、当方が、いわば、武士の情けでお茶を濁した点まで論証せよという輩がいて、氏の名誉にならない点まで、書かざるを得なくなりました。

*批判の対象
 当たり前のことを繰り返すと、当方は、一回の初学の素人としてかねてから敬服している氏の広遠な学識と該博な著作全体を云々しているのではなく、ひたすら、氏の本分と思えない「倭人伝」解釈に限って見ると、氏の慧眼が曇ってみえると指摘しただけで、氏に対する尊崇は変わっていません。一墨滴で、氏の全学識を否定するなど、無謀の極みで、当方の最も嫌う独善です。その程度は、取り立てて言わなくても、理解できる読者を相手にしているつもりだったのですが、案外でした。

 また、本稿は、鳥越氏ご自身に問い掛けた態であり、横合いから、無教養な野次馬に介入を求めたものではありません。後世人が無批判に本書を承継しているので問題提起し、単に、少々是正頂きたいと表明しただけです。
 因みに、当方自称は「卑称」で、頭を下げたのを踏みつけるのは無礼です。

*率直な意見
 氏の見過ごしは、根本的には、「倭人伝」、ひいては道里記事解釈の出発点の誤解にあるものと見えます。当記事は、あくまで、漢魏代に遼東郡を介して洛陽に知られた「倭人」の身上の一部であり、俗に「帯方郡を魏の出先」と言い切ると、当記事は、郡から倭への文書使行程を予告/報告したのであり、正始とそれ以降の魏使の道中記ではありません。あまりたびたびは言いませんから、読み飛ばさずに、注目ください。

 誤解を前提に間違った理路から発したら、先に進むほど正解と乖離して、引っ込みが付かなくなるものであり、本来、出発地点で。熟慮を重ねて前途を見定めるべきです。ご自愛頂きたい。

*笵曄「後漢書」倭伝~司馬彪「続漢紀」郡国志
 率直なところ、先行した陳寿「三国志」東夷伝を先取りしたい」という、笵曄の思惑につられて、逆順紹介の不具合を呈しているのは、一読して不都合です。後世読者も、陳寿「三国志」魏志東夷伝倭条(と呼ぶ人もある)は、笵曄「後漢書」東夷列伝倭伝(なぜ、倭条と呼ばないのか不審)の冗長な二番煎じとみて、ろくろく顧みなかったと見えるのです。

                                未完

« 新・私の本棚 鳥越 憲三郎 「中国正史 倭人・倭国伝全釈」肆 3/10 | トップページ | 新・私の本棚 鳥越 憲三郎 「中国正史 倭人・倭国伝全釈」肆 1/10 »

新・私の本棚」カテゴリの記事

倭人伝道里行程について」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 新・私の本棚 鳥越 憲三郎 「中国正史 倭人・倭国伝全釈」肆 3/10 | トップページ | 新・私の本棚 鳥越 憲三郎 「中国正史 倭人・倭国伝全釈」肆 1/10 »

お気に入ったらブログランキングに投票してください


2024年2月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29    

カテゴリー

無料ブログはココログ