03. 從郡至倭 - 読み過ごされた水行 改訂第六版 追記再掲 1/3
2014/04/03 追記2018/11/23、 2019/01/09, 07/21 2020/05/13, 11/02 2023/01/28, 04/23
おことわり: またまた改訂しました。そして、更に追記しました。更に、3ページに分割しました。
注記:
後日考え直すと、当初述べた「水行」行程の見方は間違っていましたので、書き足します。
*陸行水行論の整理
倭人伝道里行程記事の眼目である「従郡至倭」万二千里の内、半島内狗邪韓国まで七千里と明記されたのは、この間が陸上官道であり、海上や河川の航行のように、道里、日程が不確かな行程は含まれていないと判断されます。いや、実際には、その時、その場の都合で、「水の上」を行ったかも知れませんが、国の制度としては、そのような定義付けは、あり得ないということです。どうか、顔を洗って目を覚ましてほしいものです。
九州島上陸後は、末羅国で、わざわざ「陸行」と明記されていることもあり、専ら陸路で倭の王治に至ると判断されます。伊都国から後、「水行」二十日とされる投馬国は、明記されているように、行程外の「脇道」であって、当然、直行道里からも所要日数からも除き、従って、「都合水行十日+陸行一ヵ月」の膨大な四十日行程は、伊都国ないしは投馬国から倭王治に至る現地道里、日数では無く、全体道里万二千里に相当する所要期間と見るのです。
誠に簡明で、筋の通った読み方と思うのですが、とうの昔に「**説」信奉と決めている諸兄姉は、既に「思い込み」に命/生活をかけているので、何を言われても耳に入らないのでは、仕方ないことでしょうか。
因みに、『「都合水行十日+陸行一ヵ月」の四十日行程 』とする解釈は、根拠のある一解であり、筋の通った「エレガント」な解と見ていますので、この解釈自体に、根拠の無い難癖を付けるのは、批判には当たらないヤジに過ぎません。感情的な「好き嫌い」を聞いても仕方ないので、論理的な異議に限定頂きたいものです。また、当ブログは、一部にみられるように公的機関の提灯持ちを「任務」としているものではないので、「百害あって一利なし」などと、既存権益を疎外するものと難詰されても、対応しようがないのです。
巷間喋々されるように「水行なら十日、陸行なら一月」とか、「水行十日にくわえて陸行なら一日」とか、気楽な改竄解読は、さらに原文から遠ざかっているので、無意味なヤジに過ぎず、確たる証拠がない限り、本稿では、論外の口出しとして門前払いするものです。
当ブログでの推定は、榎一雄師が注力した「放射行程説」に帰着していると見て取れるかも知れませんが、当ブログは、特定の学派/学説に追従するものでなく、あくまで、『「倭人伝」記事の解釈』に基づいているのです。もちろん、特定の学派/学説を否定する意図で書いているのでもありません。敢えて、大時代な言い回しを採ると、脇道によらない「一路直行」説と呼ぶものでしょう。
*陳寿道里記法の確認
このように、考慮に値しない雑情報を「整理」すると、全体の解釈の筋が通ります。つまり、全行程万二千里の内訳として、「陸行」は総計九千里、所要日数は都合三十日(一月)となり、『郡から狗邪韓国までの陸上街道を七千里として定義された「倭人伝」道里』によると、一日あたり三百里と、切りの良い数字になり、一気に明解になります。
一方、「従郡至倭」行程の内訳としての「水行」は、専ら狗邪韓国から末羅国までの渡海行程十日と見るべきです。「水行」三千里の所要日数を十日間とすれば、一日あたり三百里となり、「陸行」と揃うので、正史の夷蕃伝の道里・行程の説明として、そう読めば明解になるという事です。
視点を変えれば、渡海行程は、一日刻みで三度の渡海と見て、前後予備日を入れて、計十日あれば、確実に踏破できるので、「水行十日」に相応しいのです。勘定するのに、別に計算担当の官僚を呼ばなくても良いのです。
倭人伝の道里行程記事の「課題」、つまり「問題」は、「従郡至倭」の所要日数の根拠を明解に与えると言うことなので、史官としては、与えられた課題を、与えられた史料を根拠に、つまり、改竄も無視もせずに、正史の書法で書き整えたことで、大変優れた解を与えたことになります。
当時、このような編纂について、非難を浴びせていないことから、陳寿の書法は、妥当なものと判断されたと見るべきです。
*道里行程検証再開
郡からの街道を経て狗邪韓国に至った道里は、ここに到って「始めて」倭の北界である大海の北岸に立ち、海岸に循して渡海するのです。
狗邪韓国から末羅国に至る記事は、「始めて」渡海し、「又」渡海し、「又」渡海すると、順次書かれていて、中原で河川を渡る際と同様であり、ここでは、大海の中の島、州島を利用して、飛び石のように、手軽に、気軽に船を替えつつ渡るので、まるで「陸」(おか)を行くように、「水」(大海の流れ)を行くのであり、道里は単純に千里と明解に書いているのです。
ここでは、敢えて、又、又と重ねることにより、行程は、渡海の積み重ねで、末羅国、そして、「陸行」で伊都国に到ると明快です。
各渡海を一律千里と書いたのは、所要三日に相応したもので、予備日を入れて「切りの良い」数字にしています。誠に整然としています。都合、つまり、総じて、或いは、なべて「水行」は「三千里」、所要日数「十日」で、簡単な割り算で一日三百里と、明解になります。諄(くど)いようですが、この区間は「並行する街道がない」ので、『「水行」なら十日、「陸行」するなら**日』とする記法は成り立たないのです。頑固な方に対しては、「それなら、渡船と並行して、海上を騎馬で走る街道を敷くのですか」と揶揄するのですが、どうも、寓話を解しない方が多くて困っているのです。
とにかく、倭人伝道里行程記事が、範とした班固漢書「西域伝」に見られない程、細かく、明解に書いたのは、行程記事が、官用文書送達期限規定のために書かれていることに起因するのです。それ以外の「実務」では、移動経路、手段等に異なる点があるかも知れません。つまり、曹魏正始中の魏使の訪倭行程は、随分異なったかも知れませんが、「倭人伝」は、それ以前に、「倭人」の紹介記事として書かれたのであり、魏使の出張報告は、道里行程記事に反映していないのです。
何しろ、明帝の下賜した大量、かつ、貴重な荷物を送り出すには、発進前に、「道中の所要日数の確認」と「経由地の責任者の復唱」が不可欠であり、旅立つ前に、「万二千里の彼方の果てしない旅路だ」などではなく、何日後にはどこに着くか、はっきりした見通しが立っていたのです。
もちろん、事前通告がないと、正始魏使のような多数の来訪に、宿舎、寝具、食料、水の準備ができず、又、多数の船腹と漕ぎ手の準備、対応もできないのです。どう考えても、行程上の宿泊地、用船の手配は、事前通告で完備していたはずです。
また、当然、各宿泊地からは、魏使一行到着の報告が速報されていたはずです。
「魏使が帰国報告しないと委細不明」などは、後世の無教養な東夷の臆測に過ぎません。
これだけ丁寧に説き聞かせても、『「倭人伝」道里行程記事は、郡使の報告書に基づいている』と決め込んでいて、そのようにしか解しない方がいて、これも、苦慮しているのです。「つけるクスリがない」感じです。
誤解の仕方は、各位の教養/感性次第で千差万別ですが、本論で論じているのは、「倭人伝」道里行程記事は、郡を発した文書使の行程/所要日数を規定したものであると言うだけであり、半島西岸、南岸の沿岸で、飛び石伝いのような近隣との短距離移動の連鎖で、結果として、物資が全経路を通して移動していた可能性までは、完全に否定していないという事です。事実、この地域に、さほど繁盛していないものの、交易が行われていた事は、むしろ当然でしょう。
ただし、この地域で日本海沿岸各地の産物が出土したからと言って、此の地域の、例えば、月一の「市」に、はるか東方の遠方から多数の船が乗り付けて、商売繁盛していた、と言う「思い付き」は、成り立ちがたいと思います。今日言う「対馬海峡」を漕ぎ渡るのは、死力を尽くした漕行の可能性があり、多くの荷を載せて、長い航路を往き来するのは、無理だったと思うからです。問われているのは、経済活動を行い続ける「持続可能」な営みであり、冒険航海ではないのです。
「海峡を越えた交易」と言うものの、書き残されていない古代の長い年月、島から島へ、港から港を小刻みに日数をかけて繋ぐ、今日の視点で見れば、本当にか細く短い、しかし、持続的な活動を維持するという逞しい、「鎖」の連鎖が、両地区を繋いでいたと思うのです。
いや、ここでは、時代相応と見た成り行きを連ねる見方で、倭人伝の提示した「問題」に一つの明解な解答の例を提示したのであり、他の意見を徹底排除するような絶対的/排他的な意見ではないのです。
「水行」を「海」の行程(sea voyage)とする読みは、後記のように、中島信文氏が、中国古典の語法(中原語法)として提唱し、当方も確認した解釈とは、必ずしも一致しませんが、私見としては、「倭人伝」は、中原語法と異なる地域語法で書かれているとおもうものです。それは、「循海岸水行」の五字で明記されていて、以下、この意味で書くという「地域水行」宣言/定義です。
史官は、あくまで、それまでに経書や先行正史(「馬班」、つまり、司馬遷「史記」と班固「漢書」の二史)に先例のある用語、用法に縛られているのですが、先例では書けない記事を書くときは、臨時に用語/用法を定義して、その文書限りの、辻褄の合った記事を書かねばならないのです。念のため言い足すと、「倭人伝」は、「魏志」の巻末記事なので、ここで臨時に定義した字句は、以後、無効になるのです。「蜀志」、「呉志」は、別の史書なので、「魏志」の定義は及ばないのです。その意味でも、「倭人伝」が「魏志」巻末に配置されているのは、見事な編纂なのです。
この点は、中島氏の論旨に反していますが、今回(2019年7月)、当方が到達した境地を打ち出すことにした次第です。
教訓として、文献解釈の常道に従い、『「倭人伝」の記事は、まずは、「倭人伝」の文脈で解釈すべきであり、それで明快に読み解ける場合は、「倭人伝」外の用例、用語は、あくまで参考に止めるべきだ」ということです。
この点、中島氏も、「倭人伝」読解は、陳寿の真意を探るものであると述べているので、その点に関しては、軌を一にするものと信じます。
追記:それ以後の理解を以下に述べます。
未完
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真摯なご返事、ありがとうございます。
当方は先史時代の古代日本の真実を知りたいという思いで研究をしているもので、「魏志倭人伝」の邪馬壹国への行程記述については、あくまでも当時の文人(史書家なども含めて)たちが書く、そして、読む古代中国漢文の基礎と基本、例えば、共通語や文章の制作方法から行程記述を正しく日本語訳しておきたいというだけです。 これが第一歩と考えて。
そして、 「魏志倭人伝」の邪馬壹国への行程記述についての貴方様と当方の違いというのは、
あなた様の述べているのは多くの仮説であり、
当方の述べているのは仮説や世界観などではなくて、「水行」という文句は『史記』に始まり『漢書』、『宋書』、『唐書』などや『水経注』など全て「河川の行程、旅」であるという統計学からの事実を述べているだけです。そして、史書である「魏志倭人伝」の邪馬壹国への行程記述については、当時の水行という文句は「河川の行程、旅」というのは共通語として素直に読んでいるというだけです。
そして、投稿したのは、貴方様の多くの仮説は尊重をいたします(だから読んではいます)が、古代中国漢字や漢文の基礎や基本から、そして、先の事実から逸脱しているのではないかと単に問題提起をしているだけです。感情論はほとんど述べていないと思っています。
余談ですが、
貴方様は陳寿をよく理解されているとは思いますが、陳寿を利用(例えば、陳寿は、このように考えているとか、陳寿の意図はこうだ)して、「魏志倭人伝」の邪馬壹国への行程記述についてだけはかなり自説をおぎなおうというのが気になります。それでは陳寿を真に大切にしているのではないかもしれないと思う次第です。
投稿: NN | 2020年5月16日 (土) 09時28分
nnさん
コメントありがとうございます。
前回に続き、遺憾ながら、感情的な指摘に見えて、お腹立ちは甘受するとしても、大変残念に思います。
最近、数年前の旧稿に屡々参照が入っているのをみて、慌てて、最新記事として更新しているだけですので、気長に見ていただけたら幸いです。
貴信でおっしゃっていることは聞こえていますが、小生は、貴兄の弟子でもないし、古田氏の弟子でもないので、見解の相違とお答えしておきます。
貴兄の「海」、「陸」の世界観は、豊富な見識に基づく強固な信念と思いますし、他人の世界観は、とやかく言うものではありませんが、小生も、倭人伝から広げて魏志、呉志の関係部分から、あちこち関連史料を読み込んでいるので、倭人伝は、陳寿が、帯方郡由来の原史料を、魏志に採り入れられるように苦吟を重ねた編纂の成果と見て、色々工夫して発言しているのです。
決して、陳寿を「バカにし出し」ているものでもないし、むしろ、いろいろの混迷は晴れて、エレガントな解に進んでいるもの自負しています。こうやって、ブログに書き出している以上、当人なりの思索を念入りに積み上げたものであり自信はあります。道里一万二千里を四十日と見て一日三百里平均、普通里で五十里と示唆するというのは、史官のフィクションとして、洛陽読者万人が納得する筋の通し方と思うのです。
郡から狗邪韓国は、漢制を継いだ魏制の官道であるから、洛陽士人の誰も水上を行くなどと思わないのであり、史官が「陸行」と明記したら、錯乱していると非難を浴びるだけです。古来、帝国に敷かれた道路網は、統一された車軌(荷車の軸幅)と駅逓制が確立されたものであり、全国一律の運用となっていたので、本来、道里を示すだけで、所要期間を得ることができたのですが、倭人伝の道里は、実際の行程が一切不明な時点で皇帝に提出された一万二千里の道里が一人歩きしたため、里数の勘定が合わなくなっていて、優先して参照される所要期間を明記するように倭人伝の書法を定めたとみて、初めて混迷が晴れたのです。(現在の所、魏晋朝短里どころか、地域里制もなかったと見ています。何しろ、史料に一切そのような制度は記載されていないので、随分、正当化するのに苦慮していたのです)
また、渡海水行説は、史書に例のない表記を、冒頭宣言で地域独自、倭人伝限り、つまり、魏志末尾までの約二千字に限り通用させるものであり、この場所にこのように書くしかないものと思うのです。宣言から先は読み替えるという行き方は公明正大、単純明快です。現代文であれば、「定義:以下、特に明言しない限り、[1.「水行」とは、渡海を言う]、[2.里とは、郡から狗邪韓国を七千里とする「里」とする]」とでも書くのでしょうが。
いや、小生の見方が、「正解」かどうかは別義ですが、以上の考察は、踏み絵になっている古田氏の「イメージ」に追従していないし、かといって、輻輳して排除するものではなく、また、貴兄のご高説を毀損する意図でもないのです。(この際「フィクション」作品は、お忘れください)
以上
投稿: ToYourDay | 2020年5月15日 (金) 22時11分
どうも、古田氏の説、邪馬台国の「南水行十日、陸行一か月」は一万二千里を意味するに囚われて、、どんどん、混迷の度を増している感じですね。そして、陳寿という史書家を蔑ろにして、バカにしだしたのかと思いますね。
①、もしも、帯方郡から狗邪韓国の行程、七千里が陸行ならば、陳寿は「循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國」などと記述せず簡易に、「陸行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國」と記述するでしょう。 百里と五百里でも、陳寿は陸行と記述しており、もしも七千里もの旅であれば、必ず陸行と書きますよ。
ですから、
*この行程が陸行であるのは自明なので陳寿は書いていませんなどというのは完全に欺瞞ですね、言い逃れの。書かないどというのは論理性もない言い逃れですね。
、補足ですが、以前にも書いたのですが、古代中国の「陸」という文字は、現代のような用法とは少し違い、海という文字に包含されており、この点が理解されていないようですね。『山海経』で理解されるようにr中国本土とその周辺の地は山と海という文字で表現されていることが理解されていない、山と陸で構成されているのではないのですよ。『山陸経』でないことを少し、お考えになったらよいのではないでしょうか。古代中国漢字では、「陸」という文字の本義は何か。
②、それから、投馬国記述などの旅の二十日とか一か月というのは期間であり距離などには換算はできません。技術系なら単位が違うというのは理解されるはずですね。
③、帯方郡から狗邪韓国の行程、七千里が陸行ならば、投馬国の「南水行二十日」も陸行に
しないと一貫性が無いですね。すると、投馬国は朝鮮半島にあることになるが。
が
投稿: nn | 2020年5月15日 (金) 20時36分