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2023年4月19日 (水)

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 9/9 三訂

「卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す」 PHP新書 2015/1/16
私の見立て★☆☆☆☆ 根拠なき推定の沼  2017/12/12 補充再掲 2020/07/08 2021/07/20 2022/06/21 2023/04/19

*蛇足 半島迂回の夢
 それにしても、著者の乱調ぶりは、禍福ない交ぜているようです。つまり、図4-2(77ページ)ですが、これは、ご自身で懸命に描かれたものですから、細部に至るまで責任を持たれるべきであり、「イメージ」と逃げられないのです。要するに、この地図に、著者の主張の矛盾が顕在化しているのです。

*不可能な無寄港航海
 自身で、当時の船舶航行では、二十から三十㌔㍍が一日の限界とされています。
 私見では、甲板、船室無しの吹きさらしでは、好天でも夜間航行できず、夜明けに出港、午後早々に入港、食料と水を補給し、乗員を休養させるものでしょう。
 漕ぎ船で、多数の漕ぎ手を常人とすると、相当丁寧な休養が必要でしょう。当ブログの別記事で、寄港地毎に漕ぎ手と船を替える乗り継ぎが、健全な常識と書いていますが、筆者は、鉄人揃いの連漕を想定されているようです。

 それにしても、ここには、朝鮮半島西南部の多島海を大きく迂回して無寄港で進む「画」を描いているのです。この間、一五〇㌔㍍程度を無寄港とした理由も、そのような行程を可能とする構成は、何も書かれていないし、何も見て取れないのです。極限の画餅症候群とでも言うのでしょうか。

 おそらく、氏の良心から、このような多島海を、連漕しつつ、時に応じて、寄港する画が描けなかったのなら、そのように明言すべきかと思うのです。いや、それでは、氏の力説する洛陽への長途航行の夢、渾身の一大ロマンが壊れるからなのでしょうが、それはそれで明言が必要では無いでしょうか。何しろ、倭使は、一貫漕行であり、黄海を縦断して、天津あたりに乗りつけて、海船で河水に乗り入れ、最後は、河水から洛水に入り、ついには、雒陽まで漕ぎ至ったことになっているのです。人間業では無いとしか云いようがありませんが、何も書き込まれていないのです。
 何とも、著者への信頼性を損なう愚策と思うのです。

*半島内陸行の示唆か
 と言うことで、氏の見識を信じると、半島西南部の航行は、頑張ってやり遂げるべき困難などでは無く、全く「不可能」であり、従って、倭国使節は半島内陸行したとの表現かとみられるのです。「春秋の筆法」でしょうか。凡人の知るところではないようです。
 その際、洛東江を上下したか陸行したかは、この場での論議の対象外です。
 いかに優れたと感じた着想でも、論証できない場合は、証拠不十分として断言を保留しなければならないのです。それが、商業出版物における筆者の品質「保証」と言うものです。

*書き残した提言
 幸い、著者は、不都合な証拠を覆い隠すような姑息な感性の持ち主では無いのですが、これほど自明な事実に目を向けないのは、もったいないと思うのです。因みに、史書で当然とされている山東半島と遼東、ないしは、帯方郡との渡海往来は、何故か、慎重にも明言していません。
 それでは、氏の力説する洛陽への長途航行説が壊れるからなのでしょうか。

◯まとめに代えて
 是非、改訂版では、自身の所説の限界に直面し、可能であれば、堂々と、本稿を論破して欲しいものです。

                              以上

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