私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 2-2/3 再掲
『卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す』 PHP新書 2015/1/16
私の見立て★☆☆☆☆ 根拠なき憶測の山 2017/12/25 補追 2022/06/21 2023/04/19 2023/11/21
*河水河口迷路
遡行可能な支流と言っても、単なる支流に違いないから、よそものには判別しがたいものに違いない。まして、氾濫の度に水路が変わり、地元のものでなければ、遡行可能な支流の選択は困難を極めたはずである。
と書いたが、これは、端からあり得ないものだから、余計なお節介であった。
かくして、中原人の「海」は、何より河水河口部の泥水であり、還らずの魔界であったようなのである。
*「海路」考古学事始め
復習すると、古代中国語で「海路」なる熟語があり得ないのは、「路」の由来に基づく。
「路」は、元々、人里を離れた魑魅魍魎の住み処を通り抜けねばならないので、様々の手法で「除霊」した特別なものであり、海は、陸上の「路」と異なり、「除霊」などできないので「路」とできないのである。
言うまでもないが、以上は、中原の内陸部に閉じ込められていた古代中国人の世界観の中の「海洋観」であり、海をわが家の外庭程度に考えていた東夷の海洋種族の「海洋観」とは異なる。
*東冶「海洋観」
例えば、今日の広州、福州辺り、南シナ海岸地域に住んでいた人々の「海洋観」は、全然違っていたものと思う。
福州附近は、峨々たる山地が背後に迫っていて、農地に乏しい上に、交易の道も無く、その分、目前の海に親しんでいたはずである。
古代、こうした人々は、中原の人から、「南蛮」と思われていたから、意見を聞いてもらえなかったのである。偶然だが、福州は、当時「東冶」県と言われていたようである。
但し、会稽郡に属していた時点でも、東冶は、会稽から街道の通じていない遠絶の地であり、郡治との連絡は、「水」、即ち、河川経路しか無かったのである。三国東呉の治世下、会稽郡から切り離されて、建安郡となったのも、当然の成り行きだった。もちろん、そのような変革は、後漢どころか、曹魏にも報告されず、魏の公文書に東冶の情報は届いていなかったので、魏志には、東冶は登場しないのである。
*東莱「海洋観」
また、もっと身近な山東東莱は、目前の海中に朝鮮半島があるので、住民の「海洋観」は倭国人と近いものと思う。
ここは、戦国七雄の中でも大勢力であった齊の領域なのだが、結局、西方内陸地の奥深くにいた秦が天下を取って、齊は滅ぼされてしまった。
東莱から眺めると、目前に横たわっている海中の山島が「東夷」であった。齊の南にあった魯の住民であった孔子が、筏を浮かべて渡ると言ったのは、目前の島影だったのである。
一時、遼東の公孫氏が渡海侵攻したようである。
*中原井蛙の「海洋観」
秦の後、漢に政権が移っても、依然、中原、それも、長安付近の世界観が支配していた。そして、漢都が雒陽に移っても、依然、中原と言う名の巨大な井戸の底、大海(ひろいうみ)を知らない井蛙の世界であった。
未完
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