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2023年4月

2023年4月30日 (日)

新・私の本棚 松尾 光 「治部省の役割と遣外使節の派遣を巡って」~古代日本外交の謎

別冊「歴史読本」 日本古代史[謎]の最前線 1995年1月刊 新人物往来社
私の見立て ★★★★☆ 堅実。賢明な史料考察 「日本」視点の限界

*お断り
 本記事は、下記書評と重複していますが、現時点で、一から書き出したものなので、もし、ブレがあったら、ご容赦ください。
 新・私の本棚 別冊歴史読本 日本古代史[謎]最前線 1/2

〇はじめに~中国史料解釈の原点確認
 当記事は当ブログ範囲を外れるが、漢日語彙の齟齬という観点から、日本史料の視点で中国史料を考察して生じた誤解を指摘する。刊行以来25年を経て、同様の誤解が世上に散見されているので、僭越ながら苦言する。

*国内史料視点の解釈~中国史料を不備との速断
 氏は、七世紀後半から整備された国内律令は、漢(中国)律令を模倣、翻案したため、漢制を誤伝したと解している。つまり、「外交」部署が、鴻臚寺と別部署に分かれて書かれた律令を唐代官制老朽化兆候と速断しているようである。

*用語解釈の誤解~文化解釈のずれ
 本記事副題は、当時、日本に(外国との)外交が存在したと決め込んでいるが、漢律令に「外交」は存在せず、模倣ではなく一種の誤解、曲解とわかる。
 秦漢代以来、漢蕃関係であり蕃夷は対等ではない。「外国」は蕃「国」である。「国」は、本来、漢代の「国」は、劉氏一族を頂いた分国であった。対して、蕃夷の「国」は服属するが「交」は無い。群小蕃夷は、美称で「蕃客」とされたが、「客」は、よそ者を応対する渉外活動の対象と言うだけである。

*鴻臚寺の役所(やくどころ)
 要するに、鴻臚寺は、無礼な蕃夷をあしらって服属させ、手土産を与えて、次は何年後、「それまで来るな」と厳命して送り返したのが、主務であった。
 端的には、氏が末尾に感慨を述べるように、漢に対等の外国は存在しない。(例外は、漢高祖劉邦親征軍を包囲して屈従の盟約を結ばせた匈奴である)漢蕃関係は「外交」を想定してないので対応する官制は存在しない。
 要するに、中国律令の備えた理念と法制、官制が整合した制度を、「外交」が必要である日本に、無批判で写し込むことが「無理」だったのである。

*律令模倣禁止
 本来、中国律令は、国外持ち出し禁止であるが、一つには、律令にいう「天子」を蛮夷の王に書き換えると、中国が蕃夷になってしまうからである。

*日本の対外関係
 日本は、対等とみられる高句麗、百済、新羅とは「外交」が可能であったが、お手本とした中国律令に、そのような蛮夷間交際に関するお手本がなかったので、日本は、これら諸國を「蕃客」扱いし、隋唐使節をも「掌客」の手に委ねた。隋唐使が、「客」扱いに激怒しなかったら不思議である。

*使人の使命
 裴世清は、文林郎(文官)の登竜門から俀国に赴いたのであり、日本書紀が造作したようにお門違いの蕃客接待の「掌客」に任じられてはいない。(隋書俀国伝)
 要は、正体不明の蛮王への使人は生還を期せないから、低位官人から選任したのである。但し、派遣に際しては、臨時に高位に任じて皇帝名代とした。高位の使節団員は、下級官人には本末転倒で服従できないからである。

 また、皇帝の名代が、派遣先で、原職は下級官人であることを名乗ることは、あり得ない。余り顧みられることがない事情を蒸し返すのである。

〇誤解の起源と継承
 中国人が中国人を統御するための律令を、土壌の異なる日本に無理矢理移植したために不合理が生じているが、それを、現代日本人の言葉と世界観で、正確に理解はできないことに、早く気づいて欲しいものである。

                               以上

新・私の本棚 松尾 光 「現代語訳 魏志倭人伝」壹 祢軍墓誌「本余譙」談義 再掲

 新人物文庫 .KADOKAWA/中経出版 Kindle版
 私の見立て ★★★★☆ 倭人伝訳文は ★★☆☆☆  2020/08/02 2023/04/30

〇はじめに 余塵顕彰
 本書は、倭人伝現代語訳の労作を展開しているが、ここに提示するのはその余塵である。しかして、肝心の倭人伝訳文は偉業ではあるが、俗説/定説どっぷりの凡々たる展開と見る。おまけ部分は、力作であって毀誉褒貶混沌であるが、本稿では触れない。

〇百済祢軍墓誌に関する考察
 墓誌本文については、別記事で詳報したので、当記事では省略する。ここでは、改行を追加して、氏の注記を引用する。
(2)日本の餘、扶桑に拠りて以て誅を逋がる
 
白村江の戦いに敗れた日本軍の残党ともいえるが、百済の残党とも読み取れる。

 というのは前項の『旧唐書』列伝劉仁軌伝の続きに「百済の土地を棄つるべからず。余豊は北に在り、余勇は南に在り。百済・高麗は旧より相党して援く。倭人遠しと雖も、亦相影響す【百済の土地を棄ててはならない。余豊璋は北(高句麗)におり、余勇は南(倭)にいる。百済・高句麗はもともと相党して助け合っていた。倭人は遠いとはいえ、亦おたがいに影響しあっている】」とあり「扶余勇は扶余隆之弟也。是時走れて倭国に在り、以て扶余豊の応を為す【扶余勇は扶余隆の弟である。白村江の戦いの時に戦場から逃れて倭国におり、それによって余豊璋の応援をしている】」とある。余勇はほかに見えないが、扶余隆の弟ならば余豊璋の兄か弟である。余豊璋とともに人質とされていた余禅広(善光)は日本に滞在し、帰国しないまま百済王の氏名(うじな)を得ている。この余禅広の実名が扶余勇だったのか。

 その当否はともかくとして、倭国では唐軍の侵攻を覚悟し朝鮮式山城・水城の防禦施設や烽火という情報伝達施設を造らせて本土決戦の日に備えているが、唐では高句麗と連携した倭軍による百済復興・唐軍挟撃の動きを警戒していた。


〇時代考証の試み~史料批判の第一歩
 史書の解釈で、時代考証が混乱しているのは気がかりである。

 何しろ「唐軍の侵攻を覚悟し」「本土決戦」と、現代諸兄姉には耳に馴染まない、言うならば、古代史には場違いな「大本営」用語が飛び出すが、ヤマトに王都防衛施設を大挙造成したとは聞かない。また、ヤマトが、比較的近場の百済残党を差し置いて、極北の高句麗とどう連携したか、誰の懸念か不審である。全知全能の神のごとき陰謀説は、華麗で俗耳に馴染みやすいが、限りなく後世人の妄想世界と見える。

 と言うように、さまざまな時代錯誤、視点のずれが露呈している。

〇早計、浅慮の俗説への適確な異論
 重大なのは、八世紀冒頭の公開以前で誰も知らない「日本」が墓誌に書かれたとの「俗説」である。

 舊唐書では、専ら「倭」であり、倭、倭人ないし倭国と気ままである。「日本」なぞ誰も理解できないから墓誌作者は「日本」余譙と書けず、氏の提起のように百済残党、「本藩余譙」を「本余譙」と縮めたではないか。私見では、墓誌構文としては、「于時日、本余譙」と三字句に読むものだろう。

 案ずるに、墓誌は、唐代当時最高の教養人を読者として想定し、「読者衆知の百済亡国後の残党の想定で書いた」のであり、読者にとって典拠不明の「日本」を書くはずがないと思う。

 して見ると、本件で早計、浅慮の俗説の粉塵の中、氏が文脈を丁寧に読み取った「百済の残党」は、燦然と筋が通っていると賛辞を呈したい。「俀国ヤマト説」など「党議拘束」の範囲外では、氏は、卓越した史料解釈を示すようである。

〇先行文献調査不備
 基本的な事項であるが、「祢軍墓誌」解釈は未踏分野でなく、論文の数は限られているから、逐一、確認が可能と思う。
 当ブログでは、素人なりに著名な先行論考を克服して、『祢軍墓誌に「日本国号不在」』と断じている。よくよく調べて書くべきではないか。

 私の意見 禰軍墓誌に日本国号はなかった 1/6  序論

                                以上

2023年4月29日 (土)

新・私の本棚 松尾 光 「現代語訳 魏志倭人伝」 参 通詞論 1/2 再掲

 新人物文庫 .KADOKAWA/中経出版 Kindle版
 私の見立て ★☆☆☆☆ 誤解と認識不足の露呈  2020/08/05 2023/04/29

〇はじめに
 当記事は、本書に追記された「通詞論」に関する批判である。
【Q】魏の使者と倭人は、どのようにして会話したか
【A】魏国の使者が倭国に来たときもそうだが、倭国の使者が魏国に赴いても、使者の出身国の言葉がそのまま通じることはない。まして、世界の真ん中にいると称する国の人が、蛮夷の言葉に通じているはずも、通じていようと努力するはずもない。

〇コメント
 問われたのは、魏使来訪時の会話方法と明快だが、氏は時代錯誤の自己満足のせいか、筋の通った説明を怠っているので、率直に指摘せざるを得ない。

〇「倭人」錯誤看過
 「倭人」を、倭人伝「倭人」でなく、倭の住民とみて躓き石をやり過ごす。

〇識字率ならぬ識語率
 倭の住民といっても、庶人の大半は「文字」を知らないし、一切教育されてないので、魏使の発言を理解できるはずはなく、また、身分の高い魏使と対話するのは、同様に身分が高く「文字」を解する高官だけのはずである。「会話」など、端からあり得ないのである。通人部って託宣をぶち上げたいのなら、しっかり、事態を想定する必要がある。

〇洛陽遣使談義
 洛陽に赴いた倭正副使は、当時倭人高官であり、当代最高の教養の持ち主であり、あるいは漢語を解したかも知れないが、概していえば、それ以外の倭王以下の高官は漢語を解せず、倭国使が漢語まじり倭語に通訳したはずである。
 ちなみに、倭王は、国王の教養として漢字の素養はあったと思われる。でなければ、国事報告の内容が理解できず、裁決、指示できないからである。
 言うまでもないが、当時、中国語の通じない蛮夷、倭に、中国人と国事を談じる「日本語」など存在しなかった。日本が影も形もないことは別として)関心を持っても、存在しない言葉を学ぶことはできないのである。

 三世紀当時、中国世界では中国が(唯一の)文明国であり、国事を語る言葉は中国語だけだったのである。「天下」も「世界」も、中国であった。松尾氏は、わけもなく中華思想を揶揄しているようだが、自身が不勉強で、誰かの意見に追従しているだけであり、つまり、見識が狭いために、自身の井戸の中に囚われていることに気づいていないのである。
 特に、三世紀どころか、中国太古以来の文字文化の堆積と当時の『外国』の「文字」が無く、したがって「文化」のない世界との隔絶を想到できないで、勝手な意見を垂れ流しているのではないかと危惧される。一度、顔を洗って出直して欲しいものである。

 因みに、「井蛙」は、必ずしも蔑視ではない。人はだれでも、「世界」と言いつつ、自身の知悉している「井戸」に籠もっていて、訪れる「客」によって、外界の見聞を広げているのである。それを自覚するかどうかである。

 一方、成語である「夜郎自大」は、いわば、見識の無い「お山の大将」が、来訪した「中国」使節に、「中国」も、「天下」を支配している自国に及ぶまいとうそぶいたことから来ている。氏の「夜郎自大」は、二千年の時を経ているものの、所詮、当時の基準であれば、無教養の蛮夷であり、時の「中国」を見下す資格はあるのだろうかと、疑問を唱えるものである。もちろん、武力闘争であれば、又、別であろうが、「中国」は、武でなく文で蛮夷を馴化しようとしたのである。

〇掌客の意義
 中国は、世界の外の「外国」つまり外道の来訪時、紛糾を避けるため、客として遇したが、客は、中国の「内国」として認知されるために懸命に中国語、中国古典を学んだのである。蛮人が中国人として認知されるには、四書五経を暗唱し、古典書に書かれた先哲の言葉に関して問答に耐えることが「目安」とされていたのである。
 それでも、帝都の蕃客受入部局鴻廬の下級官、実務担当者の「掌客」が蛮人に言葉と儀礼を教えて、宮中参内で大過ないようにしたのである。

〇掌客の実務
 蛮人との『会話』の最先端に位置する掌客は、最下級とは言え官人であるから、蛮夷の言葉に染まることは許されなかったが、通詞として蛮夷の言葉を解する官奴がいたとも思われる。通詞を介しなければ、漢語、漢儀礼を教えようにも、端緒がつかめないのである。会話に要する片言は覚えざるを得なかったであろう。

〇会話通訳の意義と限界
 以下、氏が図式化して論じているのは、会話通訳であり、同原理を国事の意思疎通に敷衍するのは、全くの見当違いで、氏の認識不足を露呈している。蛮夷は、高度な概念を表す言葉を持たないから、「通訳」は成立しないのである。いや、脳内に図式がなければ、文字や図で表しようはないのであり、氏は、読者に教授するつもりで、自身の浅薄な理解を示しているのである。

 また、日常会話の類いでも、両者の間に通じるものがなければ、通訳のしようがないのである。
 例えば、対面で行われる商取引では、数や通貨の勘定や月日の記法も、共通していたはずである。共通していなければ、言葉が通じても、意思が通じないことになる。言うならば、目前に「もの」があれば、互いに共通の認識を確認しつつ対話できるので、「通訳」の仕様があると言える。
 それにしても、簡単な日常会話は理解し合えたとしても、日常会話の延長の言葉や概念で、国事は語れない。「中国」と交際するには、中国語とその表す概念に通暁する必要があるのであり、それは、通訳や翻訳者のなし得ることでは無い。

 いや、ここまで説いている勘違いは、一般人、素人にはむしろ常態であり、民放の古代史番組で、司会者が番外発言として、同様の誤解をこぼしたのを聞いたことがあるが、氏のように中国史書の翻訳に挑むほどの玄人論者が、これほど簡単な原理を知らないままに過ごしてきたことが、不可解である。

                                未完

新・私の本棚 松尾 光 「現代語訳 魏志倭人伝」 参 通詞論 2/2 再掲

 新人物文庫 .KADOKAWA/中経出版 Kindle版
 私の見立て ★☆☆☆☆ 誤解と認識不足の露呈  2020/08/05 2023/04/29

〇文書論議
 文書交換は高度な筆談であるから、ここに書かれているようなお粗末な手配りはあり得ない。まして、国家の大事に無教養な野良通詞を雇うのは、失笑ものである。鞍作福利は中国古典に精通していたと同時に、その高度な概念をヤマト言葉に噛み砕いていたものと思われる。中国人と会話するためには、鞍作氏が創造したヤマト言葉によって思考できる人材が求められたのである。何しろ、ヤマトの側には、後世律令で確立するような国家規律の言葉はなかったから、その大半は、漢語で埋められていたはずである。

〇漢字現地化禁制
 因みに、漢字を自国風に発音して文章、会話を構築することは、文明の根幹に反するので禁じられていたのである。かな文字は、中国との交通が疎遠だったため見過ごされたのであり、至近の百済と新羅は、中国の規律に厳格に拘束されていたので、漢語の現地化などできなかったのである。
 今日でも、政治、経済などの高度な談義で、漢語や漢語風現代造語をヤマト言葉に置き換えたら、意思疎通できないのである。

〇児戯敷衍の愚
 ちなみに、「伝言ゲーム」なる、低級で陳腐な比喩が登場するが、事は、子供の遊び事ではないのである。正確な意思伝達の保証には、対面筆談による文意確認であり、つまり、都度伝達内容を検証し是正するのである。

 このような、児戯に属する低劣な比喩を持ち出して、古代人の叡知を見くびるのは、自身の無知を高言しているものである。

〇外世界の文化、文明
 史記大宛伝、漢書西域伝の漢武帝期の西域踏査記録で知られているが、西域のさらに西の果てに威勢を誇った「安息国」は、皮革に横書きで文字を書き付ける高度な文書制度を有し、数千里に広がる広大な国内に宿駅を備えた街道を隈無く整備運用し、常時、官制文書使を往来させ、漢使の東部国境到来時は、西境王都に急報し、想定日数内に国王から応対許可の指示が届いたと報告されている。

 縦書き漢字文書ではないが、巨大国家が、文書行政で秩序正しく運営されていたと知られている。其国は、銀銅貨が有り、計算集計技術が確立し、「法と秩序」も健在で、前世、女性一人で安全に長旅できたとされている。
 ただし、これは中原外の風聞であり、中国に皮革紙や横書筆記が伝わったわけではない。また、中国の基準では、先哲の古典書を読解していないものは、無知のものなのである。

〇まとめ
 文化、文明は、文字の上に構築される。単なる民族風習ではない。

〇魚豢の嘆き
 魏書第三十巻巻末に裴松之が補追した魏略「西戎伝」全文で魚豢の著作が伝えられているが、巻末で、魚豢のような知識人でも知りうる範囲の限られた池の鯉で外界を知り得ないと達観したが、現代人は知識を得るのに池を出る必要はないから、その場で認識を広め、かつ、深めて欲しいものである。

〇教訓
 古代史談義を現代人の言葉と概念で進めるのは無謀である。同時代概念を摂取し、内なる言葉と概念を整えた上で古代史料の言葉を取り込むべきである。氏の解説は、言葉と概念の貧困により意図不明の絵解きに終わっている。
 更なる境地に至るためには、情報源の「貧困」を理解いただいた上で、止まる木を選んで研鑽いただきたいものである。

                                以上

新・私の本棚 松尾 光 「現代語訳 魏志倭人伝」 弐 陳寿論 1/2 再掲

 新人物文庫 .KADOKAWA/中経出版 Kindle版
 私の見立て ★☆☆☆☆ 史料批判なき風聞憶測 2020/08/02 2023/04/29

〇はじめに
 当記事は、本書に追記された「陳寿論」に関する批判である。
【Q】『魏志倭人伝』の著者・陳寿とは何者か
【A】『魏志倭人伝』の著者である陳寿については、『晋書』巻八十二にその伝記が載せられている。このほかには格別の資料もないので、筆者の解説をまじえて、『晋書』の陳寿伝の語るところを紹介しよう。

〇史料批判なき筆者解説
 一見客観的な書き出しから流れ出す評言の大半は、俗説流布の根拠不明の誹謗中傷であるが、著者は、俗説風聞の史料批判を行わず、無造作に風評に追随し、最後に、個人的信条に筆を撓(たわ)めて敷衍し、結局、世上の誹謗中傷を正当化して結んでいると見えるのである。勿体ないことである。

〇蜀漢誤伝
 蜀の建国の意が示されていないのは、不用意である。蜀漢の視点から言うと、「漢高祖以来の伝統を継承していた漢朝が、逆臣曹氏に滅ぼされたので、蜀の地で漢の正統を保った」のであり、単に三国鼎立の最弱国ではない。建国以来、漢と自称していたのを、敵は「蜀」と呼び、創業皇帝劉備を先主、継嗣劉禅を後主と、皇帝から地方領主に格下げしたのは、魏晋朝の正統宣言による。

 陳寿は蜀漢の士人、史官として育成され、亡国の後、司馬氏の晋に仕官したが、蜀こそ正統の意識は保っていたのである。従って、陳寿編纂による「三国志」の「蜀国志」である蜀書は、蜀漢史官の視点で書かれているのである。また、呉書は、東呉孫氏政権の史官の呉書稿を、基本資料として採用している。

〇蜀漢亡国事情
 蜀は、皇帝劉禅が晋軍魏軍の前に開城降伏したため、臣下官人は、多くが身分、職を保つことができた。勿論、皇帝の代わりに魏の任じた太守が君臨し、旧蜀漢高官は職を免じられたが処刑されたわけではない。当然、旧来蜀官人は、新来魏官人の下につくが、亡国でその程度で済んだのはむしろ幸運である。

 因みに、諸葛亮の後継として蜀軍の北伐を指揮した姜維は、後主劉禅の指示に従い侵攻軍に降伏した後、敵の指揮官鐘会の戦後処理の補佐を務め、魏軍の内紛によって戦死したが、敗軍の将として刑死したわけではない。

 著者の余談に悪乗りしたが、蜀人の資質を論じたかったのである。

〇千石の米、一膳の飯
 千石事件については、古田武彦氏が冷静な解釈を発表している。千石の米とは、後世、室町時代や江戸時代に、沿岸航路で大量千石の米を大型帆船で運んだように、とんでもない大量の米である。一方、千斛(石)の米の価値は、言うまでもなく莫大である。無理に例えるなら、数千万円の価値である。

 金に飽かせて、功名のない父親の伝を正史に立てさせるというのが、どれほどの罪悪か思い知らせたのであり、賄賂で動かないと公表したのに等しい。当の兄弟も、大金を惜しんで無理押ししなかったし、この相場では、以後、持ちかける相手は出なかっただろう。一罰百戒である。

〇冤罪と誤断
 著者は、現代風経済観念から、莫大な賄賂なら陳寿も動いたろうとの評価のようだが、憶測による冤罪も良いところである。
 陳寿誹謗の記事にすら書かれていない「史実」を独自創作して、史論にあるまじき筆踊りである。ことは、筆曲がり、筆撓めを越えている。

 春秋時代以来、司馬遷を代表として、時には、皇帝の指示に刃向かって、文字通り馘首も怖れないという、伝統的な史官の根性を見くびったものである。

                                未完

新・私の本棚 松尾 光 「現代語訳 魏志倭人伝」 弐 陳寿論 2/2 再掲

 新人物文庫 .KADOKAWA/中経出版 Kindle版
 私の見立て ★☆☆☆☆ 史料批判なき風聞憶測 2020/08/02 2023/04/29

〇陳寿の諸葛亮観
 続いて、氏は陳寿の諸葛亮への感情を述べるが、普通に見て深い尊敬を抱いていたとみる。魏で諸葛亮は連年関中方面を侵略し続けた極悪人であり、魏略を書いた魚豢は、魏官人として当然、諸葛亮に敵意を示す記事を残している。
 魏官人の憤懣を引き継いだ西晋に於いて、旧敵国の巨魁たる「諸葛亮著作集」を上申したのは、大抵の決意ではない。
 因みに、魏を創始した武帝曹操は時代最高の詩人であり、孫子兵法の注釈を表した文人であるが、「曹操著作集」は残されていない。

 諸葛亮は、私心のない宰相であり、戦地にあっても政務に心身を労したが、軍人として、むしろ凡庸(非凡とは言えない)とみるのが妥当な人物評ではないか。その子についても、陳寿は、むしろ冷静に評価しているとみられる。これを害意と見、筆誅と見る者は、陳寿の器を見くびって、評者自身の狭隘な史眼を露呈しているものである。

〇三国志上申挿話の考証
 全体に、なぜか、陳寿を支持する筆勢が痩せているが、例えば、没後の三国志上申の際の識者の建言は、三国志六十五巻の大著の書写と皇帝上程を齎すものだから、識者は、身命を賭して推薦したはずである。
 著作とは、上申を想定してまとめていた三国志最終稿善本、美本を言う。つまり、陳寿原本を上申し、書写は控えと見るべきである。実務は、河南尹・洛陽令の采配であるが、六十五巻分の用紙、ないし、簡牘と墨硯は、官費で手配するとは言え、最高級の資材である。また、写本工は、在野の職人ではなく、皇帝書庫写本に任じられる当代最高の著名の人材だった筈である。何しろ、皇帝命で、金に糸目は付けなかったと見るべきである。

〇洛陽の復興
 まさかとは思うが、このような写本工の動員を、現代風の雇用形態とみていると困るのでわかりきったことを言う。
 まずは、写本工は高度な専門技術者であり、官営工房に多数の職人が常雇い、つまり、官人となっていると共に、周辺の下働きは、官奴として組織化されていたのである。つまり、簡牘書写と仮定すると、必要な竹簡なり木簡なりは、規定の尺寸、品質のものを、要求量納品する業者が必要であり、途中で、簡牘を保管する問屋めいた存在があって、それぞれの間のやりとりは、価格、数量、納期が協定されて運用されているのである。
 こたびのように、六十五巻に及ぶ特上写本の場合、国営工房に皇帝命が下って最優先で取り組むから、そこそこの納期で完了するが、それ以外だと、後回しとか、写本工不足とかで、随分期間を要するのである。

 大量の新規写本が粛々と行われたのは、曹操が、半ば廃墟としなっていた帝都洛陽を、献帝の威光を生かして、勅命で復興したからであり、魏が建国した文帝曹丕の時代も、後漢雒陽以来の長安、鄴、許都などの「都」を転々とした天子の威光が、雒陽を「首都」として、着々と往年の雒陽の威光が再建されていたからである。陳寿の時代には、既に晋に代替わりして、雒陽の活気は戻っていたから、かなりの数の写本工が、陳寿の結構広壮な旧宅を埋め尽くして、手分けして六十五巻の筆写を手がけたと思うのである。

〇洛陽の荒廃
 これも念のための背景確認であるが、かの霊帝の没後、雒陽は戦場と化して、最後は、暴君董卓の指示で、西方の旧都長安への遷都が強行され、董卓が、移転督促の目的で、雒陽に火を放ったので、一時期、雒陽は、廃都となっただけでなく、廃墟と化していたのである。
 そのため、献帝が東都雒陽に復帰と言っても再建が追いつかないため、後漢宮廷は、曹操一党の本拠、鄴なる地方都市に再興されたのであり、雒陽が国都に戻るまでには、さらに年月を要したのである。

〇士誠小人
 最後に、松尾氏は、陳寿に対して勝手に矮小化された心情を想定しているが、自身との器の違いに気づかない小人の誤解と言わざるを得ない。「(士誠小人也)『孟子』」と言うべきか。以下は、小人の史上の偉人に対する阿りとしか見えないので勿体ない。

〇東冶幻覚
 蜀は、地図上では「会稽」から見て長江(揚子江)の遥か上流であるが、地上では、とてもではないが、成都から会稽は見通せず、どの方角と言えない。また、東冶県は、一時会稽郡に属し、地図上、会稽の南とは言え、巨大な福建山地の南であり、交通至難のため、早々に会稽郡から分離され、建安郡とされている。
 と言う事で、東冶は、蜀都成都から親しく感じられるものではない。
 まして、これら地域は、三国時代の東呉、孫氏の領分で、敵地であった。心情的にも遠いのである。

 紙上の散策だけで、深く資料批判を行わず、事情のわからないままに、勝手な感慨を加えて、陳寿を戯画化するのは御免である。

〇政治的歴史観の蔓延
 一方、世上、「ためにする陳寿誹謗」が絶えないのは、こと「倭人伝」論に於いては、そこに書かれている倭人記事が、国内史書を基礎にした政治的な歴史観と衝突/相克/輻輳するからである。そこから、国内史書基準の世界観、つまり、政治的な歴史観は、国費によって正当化されて根強いのである。何しろ、三国志の校訂が丁寧に行われていたため、異稿、異本が無いに等しいことまで誹謗の種になっている」のは滑稽ですらある。そのような論者にとって、普通に倭人伝を尊重する論義は、「聖典」崇拝とすると、もう一つの誹謗の種になっていて、見苦しい物がある。
 そのような魔境では、論理でなく俗耳に心地良い響きを求めて小人跋扈するのである。松尾氏は、そのような歴史観迎合の魔境潮流に流されて満足なのだろうか。
                                以上

2023年4月19日 (水)

私の本棚 「古代史15の新説」 別冊宝島 その1 真藤豊

 私の見立て☆☆☆☆☆ 明らかな虚言     2016/11/28 2023/04/19

 「魏志倭人伝」の新たな読み方 真藤 豊

 本文前の惹句で、大きくずっこける。『「三世紀の現代人」が抱いた生活感覚』と妄言で引きつけたいようであるが、「三世紀の現代人」の意味も論者の言う「生活感覚」の内実も説かれないまま、どんどん書き進めていくから、趣旨は一切通じず、空振りと感じられる。いや、どことも知れない空き地で一人芝居しているだけであるから、「空振り」は、褒めすぎかもしれない。

 「真実は一つ」と、もう一つの妄言が登場する。何をもって「真実」とみるか説明されていないから、これも空振りである。真実は、一つ、二つと数えたてられるものではないとみるものもいるのである。古代史における真実は、当時の全世界森羅万象とその中に生きた無数の人々の思いと行動であり、論者が軽率に断言するような、たとえば、手のひらに載せて全貌を眺められる石ころのようなものではないと思うものもいるのである。

 そして、こんどは、「マクロの世界地図」の知識はなかった』と、大変大ぶりである。少なくとも、三世紀の史書編纂者である陳寿にとって「世界」とは、当時西晋の支配が及んでいた世界であり、その限りで「世界」の地理概念は把握していたものと想像する。「マクロ」とは、意味不明な言葉であり、空振りである。もちろん、三世紀当時に「地図」など無かったのである。

 以下、論者は、記事の視点と時代感を動揺させながら、論者の妄想世界を延々と展開する

 陳寿が東夷の国々を実見していなかったのは、むしろ自明と思える。そこで、記事は脈絡なしに、論者の視点を陳寿の仮想の部屋に移し、論者の幻視を展開しているようだが、その言うところによると、陳寿は何かを組み立てているらしいが、肝心の言葉が欠落しているので、何を組み立てているのかわからない。

 論者の夢想/心象/妄想に第三者の共感を得たければ、もっともっと念入りで筋の通った書き方が必要である。

 そこで、論者は、またもや脈絡なしに読書感想の世界に移転して、自身が個人的に感じ取った陳寿の浪漫や好奇心に酔っているのであるが、これも、著作に書かれているものでなく、読者の内面に浮かび上がった「心象」、つまり、完全に個人的な感想であり一種癒やしがたい「自己陶酔」と思われる。カウンセリングを受けた方が良いようである。

 陳寿の著作に触発されて、いろいろ幻想にふけり、粗暴な新説を思いつくのは個人の自由であるが、これは商業出版物、つまり、読者の金をもぎ取るものであり、ここで求められているのは、「新説」の丁寧な論証である。
 その後、混乱した時代/地理感覚の爆発連鎖である。

 倭人伝を引用して、「会稽東治」(かいけいとうち)とルビ打ちまでしているのだが、論者は、会稽は、今日の浙江省紹興市近辺。東治は今日の福建省福州市近辺で北緯二六度と断言している。誤植でもなければ誤記でもないと確信しているようである。

 つまり、論者は、確信を持って、従来の「東治」は「東冶」の誤記とする俗説を採らない、つまり、東治の位置は東冶の位置だとする、強引きわまる新説であるが、新説であることも言わなければ論証もしないので、普通の読者には、無知な論者の誤解の押しつけとしか見えない。

 倭人伝は、三世紀の中国人であった陳寿が、当時の読者であった、皇帝を代表とする知識人に上程した史書であり、丁寧に言うと、二千年後の「東夷」が、自身の乏しい教養で解釈するのに、「新説」など必要無いのである。

 以下、読み進めることができなかったは、筆者の「新説」が理解不能であり、理解を試みるのが無意味であるとわかったからである。怠慢かもしれないが、時間、労力を始め、資源の限られた世界であるから、徒労は避けたいのである。

 古人曰く、Ignorance is fatal。つまり、「無知にはつけるクスリが無い」という事態のように見える。
 「魏志倭人伝」を正確に理解するには、必要な基礎知識、教養を身につけることが不可欠なのである。
 「新たな読み方」など、一も二もなくゴミ箱入りである。

以上

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2023年4月17日 (月)

今日の躓き石 ゴルフ新星の汚点 「リベンジ」絶叫 毎日新聞の大汚点 悲しい続報

                                    2023/04/17

 今回の題材は、残念ながら、毎日新聞大阪夕刊4版のスポーツ面のゴルフ報道である。朝刊のない月曜日の夕刊なので、時間の取れた報道のはずなのだが、署名が違う、つまり、別の記者が、「リベンジ」を叫んでいて、どうも、毎日新聞社は、会社ぐるみ悪習に耽っていると見える。悲しいことである。

 今回は、選手の談話のベタ引用ではないので、選手には、責任がないように見える。もちろん、いずれにしろ、記事の文章に責任があるのは、毎日新聞の編集長なので、もともと、当記事は、前回共々選手を咎めるものではないのである。

 ちょっと厄介なのは、担当記者の語彙の混乱なのである。

 カタカナ言葉の「リベンジ」は、もともと、仇討ち、復讐、テロリストの正義であり、少なくとも、キリスト教世界では、厳重に禁じられているものである。キリスト教精神に意識がない日本人が、「リベンジ」と気軽に言うのは、各地で発生しているテロの連鎖に寄りかかっていて、大変「反社会的」であることに気づいていないのである。

 近年はびこっているダイスケ「リベンジ」は、そんな物騒な言葉を「再挑戦」の意味に、気軽に使うものであり、主として、野球界ではびこっているものである。とんでもない罰当たりな言葉を広めたのが誰かは、知っている人は知っているのでここでは言わないが、不滅の成果になりそうで、困っているのである。何しろ、MLB移籍などで、現地メディアの英語インタビューを受ける際に、言葉の意味を勘違いしたままで、revengeと口走って、激しい顰蹙を買っているのだが、太平洋のこちら側では、公共放送や全国紙で不勉強な記者などが口走って、当ブログで叩かれているのである。(編集者の指導/監督の不備が原因ではあるが)いや、公共放送や全国紙以外では、結構はびこっている暴言と思うが、当方は、暴言狩りしているのではなく、報道担当者の自覚を求めているだけである。

 当ブログの影響かどうか、ここ数年、無神経な「リベンジ」は、大分影を潜めているのだが、今回の連続記事には、一流メディアにおける根深い蔓延を知らされるのである。悲しいことである。

 ついでに言うと、今回の記事の「リベンジを誓った」というのは、「リベンジ」自体の誤解に加えて、異次元の誤解が露呈している。
 記者は、「ダイスケリベンジ」のつもりで気軽に使ったのだろうが、それなら、今回、トーナメントに出場した時点で、リベンジしているので、無効なのである。「仕返し」としても、前回覇者は、昨シーズン年間賞金王に輝いているので、ぶち殺してやりたくても、まるで手が届かないのである。くやしかったら、自分も、賞金王を目指すべきなのだが、必要なのは、とかく「因習愛好のメディア」が復讐心」などとはまるで関係無い「向上心」であり、それは、紙面の他の記事のスポーツでも見られる、尊い精神である。正直なところ、昨今の「リベンジ」報道を見ていると、選手がそのように発言するようにけしかけている担当記者の「影」が感じ取れる気がするのである。選手の発言だけ取り上げていると、事実の報道と言いつつ、実は「やらせ」ではないかとの疑惑が振り払えないのであるが、れそは、あくまで臆測としておく。

 加えて、「誓う」というのは、誰が誰に対して何を誓うものか、書かれていないのである。フェアプレーを誓うのなら分かるのだが、復讐を誓ってどうするというのか。復讐できず返り討ちに遭ったとき、どう申し開きするのか。「誓い」の重みがわかっていないのである。とにかく、誠に不可解である。
 このあたり、記者が、直前に食べたものが良くなかった「とか」、ついつい臆測してしまうすが、明らかに意味の通らないものである。
 全国紙の紙面は、修行中の半人前の記者が、「書いて出し」、無鑑査、無審査、無校閲では、困るのである。

以上

 

2023年4月16日 (日)

今日の躓き石 ゴルフ新星の汚点 「リベンジ」絶叫 毎日新聞の大汚点

                                   2023/04/16

 本日の題材は、毎日新聞大阪14版のスポーツ面のゴルフ記事、男子ゴルフ・関西オープンの途中経過で、「単独首位」にたった新星の『暴言』である。
 どうやら、昨年、最終日で崩れて勝てず、動揺し尽くし泣き出したメンタルヘルス失調の「弱虫」が、やたらと強がって、独り合点で「血の復讐」を誓っている「暴言」を、天下の毎日新聞が支持/支援して、見出しに始まって、結末まで三度も繰り返し、不吉な「血塗られた記事」にしている。いや、記事にして掲載したのは、毎日新聞だから、責任は持ってもらわないといけない。別に、当人を非難しているのではない。念のため、付け加えた。
 とうにんの発言だけ見ると、力み返っているが、最終日を残しているから、勝ったわけでもない、中途半端な「復讐宣言」である。昨年だって、勝つつもりで最終日を迎えたはずである。

 大人なら分かるはずだから、昨年最終日に崩れた原因は、誰を恨むべきものでもない、要するに、自分の未熟さである。それにしても、「血の復讐」を高言して、勝ったら、血祭りに、誰の首を切り落とすのだろうか。犠牲者の子供や兄弟は、当然「リベンジ」を叫ぶ、血の連鎖である。何とも、血なまぐさい、不都合な発言である。
 むしろ、放送報道禁止用語に近いのを知らない担当記者は、専門家でありながら、何も指摘せずに、若者の恥を天下/世界中に曝しているのである。昨年はアマチュアであったから、「成人」失格の、感情をむき出しにした、無様な醜態が、あるいは許容されたかも知れない。それにしても、今年は、一人前の「プロ」のはずであるが、読む限りは、依然として半人前である。
 プロは、「転向」などではない。まして、きれい事の「成長」でもない、別世界である。プロゴルファーに求められるのは、スコアだけではないのである。このような汚い言葉は、さっさと捨て去って欲しいものである。修行不足である。

 そして、このような不出来で無様な記事が、誌面を汚しているのも、全国紙の報道姿勢として、大変不満である。
 どうか、若者に、終生消せない汚名を着せないように、まともな報道をして欲しいものである。署名記事とは言え、後世に残るのは、当人の名前である。よくよく、記事の重みを考えて欲しいものである。担当記者には、指導してくれる同僚も上司もなく、毎日新聞には、校閲部門はないのだろうか。大変、大変、不満である。

以上

2023年4月 8日 (土)

新・私の本棚 「唐六典」「水行」批判と「倭人伝」解釈 三新 1/7 総括

 初稿 2019/07/14 改訂 2020/10/19, 2021/12/27 補充 2022/09/26 2022/11/10 2023/04/08 2024/02/01

□「唐六典」談義
 従来、「唐六典」については、陳寿「三国志」魏志「倭人伝」に無関係とみて敬遠していましたが、今回記事を起こしたのは、当分野の真面目な論者が、この史料を的確に理解できずに振り回されて道を誤る例が多いと感じ、詳しく説明した方が良いと見たからです。

□「唐六典」とは~Wikipediaによる (正立体部は、当記事での追加)
 「唐六典」は、会典(かいてん)と呼ばれる政治書の一種で、(太古以来施行されてきた中国の)法令や典章を記録したものであり、「唐六典」は、最初の会典に当たり、唐代の中央と地方の制度の沿革を記録しています。玄宗の開元十年(722年)から編纂され、『周礼』の分類に従って、理典・教典・礼典・政典・刑典・事典の六部からなり、開元二十六年(738年)に三十巻が成立しました。

*規定確認
 「唐六典」の卷三・尚書戶部は、「倭人伝」時代(三世紀)から五世紀程後世の編纂であり、社会制度、経済事情、地域事情など、背景が大きく異なる唐律令の一環として諸貨物運送の一日の里数と運賃を規定しています。
 丁寧に言うと、「唐六典」の規定は、唐帝国の「実務規定」であり、同時代の整備された「インフラストラクチャー」(インフラ)の上に成立していた規定でもあることは自明であり、これを、五世紀遡った三世紀の、しかも、皇帝天子の支配下を半ば外れた外国、夷蕃、辺境の倭人世界に適用するのは、無法というか、無謀というか、何重にも不合理の重なった見当違いなのですが、よく言う「俗耳」に訴えるようで、世に悪疫の如くはびこっているのです。

恐らく初めての「普通里」談義
 ここで採用されているのは、当然、国家制度として、周代以来長年に亘って運用されている「普通里」([あまね]く用する)です。
 基本的に一里三百歩(ぶ)、一歩六尺、つまり、、一里千八百尺です。
 当ブログでは、概数として、切りのいい、一尺25㌢㍍、1歩150㌢㍍、即ち、1.5㍍、一里450㍍を想定していますが、あくまで、あくまで、「想定」であって、現代で言う「正確」と言うものではありません。
 何しろ、「尺」については、参照できる「原器」が配布されていたものの、450㍍に及ぶ「里」の標準は配布されていなかったし、また、里の精度については、特に追求されていなかったのです。「倭人伝」道里記事に関して言えば、起用されているのは、せいぜい千里単位の概数ですから、暗算しやすい一里五百㍍に仮定していても、大して狂いは無いとも言えます。三世紀時点の実務上、数百里、数千里に及ぶ測量は、極めて困難(実際上不可能)なので、今日の感覚では「大雑把」と思われますが、実用上特に問題ない制度であったと見るべきです。
 
 また、基本の「尺」が変動しても、「里」は一定と見えます。著名な拠点間の道里は、先行史書、特に、正史の「郡国志」、「地理志」などの「志」が参照する「公文書」に、恒久的に銘記されていたので、天下が継承されている限り、主要「拠点」間の道里は、一度、皇帝の確認を得て公文書に記録された公式道里であれば、不朽、不変だったのです。
 王朝が禅譲されるということは、公文書記録が、不可侵記録として、代々継承されるという事です。

 もちろん、公文書記録は生命体ではないので、記録が継承されたと言うことは、関係部局の官人が、記録文書の書庫ごと引き継がれていたものなのです。

*真面目な長談義
 具体的に言うと、例えば、「洛陽」を帝国の中枢に置いた諸王朝は、皇帝が交代し、高官が交代しても、各地の土地台帳は、そのまま継承され、それだから、皇帝が交代しても、各地から上納される「税」は、変わりなく「洛陽」に納入されたのです。いや、細かく言うと、漢代以来、各地の農民は、地区の首長に銅銭で納税していて、各地首長から順送りに支配階梯を遡って、全土各地の銅銭が「洛陽」に運ばれていただけで、別に、各地収穫の穀物が洛陽に運ばれたわけではないのです。
 いや、「関中」と尊重された京師長安も、関東、河水流域で、輸送の便に恵まれた東都洛陽も、「麦食」の食糧自給ができず、華南、長江流域からの大量の「米穀」に依存していたのですが、それは、東西の大河の流通では足りず、運河の南北槽運に依存していたのですが、それはさておき、大量の米穀の流通は、水運に依存していたため、各地の水運の納期と運賃を全国制度として規定しなくては、帝国が成立しなかったのです。

 と言うことで、唐六典が「水行」と規定しているのは、主として華南の「米穀」を洛陽に運搬する「水運業」の規定だったのです。言うまでもないのですが、三世紀当時、と言うか、後世に至るまで、「倭地」に「水行」に値する河川運輸のインフラは存在せず、従って、唐六典の「水行」規定は、参考にならないのです。
 因みに、倭地に牛馬の運用が無かった以上、「陸行」のインフラも存在せず、倭地内の道里もまた、何の参考にもならないのです。
 唐代の「米穀」陸上輸送は、当然、膨大な量なので、騾馬/驢馬を起用した荷車による輸送であり、三世紀当時、倭地には、荷車の往来できる「街道」は存在せず、また、牛馬を駆使した輸送も存在しなかったので、参考にならないということです。

 以上、概説したように、唐六典に言う「陸行」「水行」は、三世紀、倭地に存在し得ない「インフラ」を不可欠な前提にしているので、書かれている漢数字は、一切、参考にならないのです。
 倭地の「陸行」と言えば、末羅国から伊都国までの五百里が念頭に浮かぶはずですが、陳寿の参照した公文書には、この間が魏制に沿った街道として整備され、騎馬で移動したとも何とも書かれていなかったと見え、全行程一万二千里とする見込みの倭地内部分二千里に対して、五百里程度と見なしたに過ぎません。何れにしろ、「倭人伝」に記載すべきは全所要日数四十日であって、渡海部分の「水行」十日を除くと、「陸行」三十日であると概要を示しておけば、用が足りていたので、深入りしなかったという事です。

 因みに、倭人伝に書かれている『「都」(すべて)「水行」十日、「陸行」一月』の規定は、郡から倭に到る文書使の許容日数を成文化しているのであり、どのような手段を採用しているか問うものではないのです。丁寧に言うと、行程が、騎馬武官のものであるか、徒歩の飛脚のものであるか、何も求めていないので、書かれている所要日数から行程道里を問うのは、意味がないのです。好例は、書かれている渡海日数であり、海上に街道は存在しないので、騎馬武官の歩数を求めても無意味なのです。まさか、帯方郡の文書使は、木製の蹄板(木下駄)を履いていて、海上を疾駆したというのでもないでしょう。(苦笑)
 いや、当規定に関する後世東夷の解釈は、誠に放埒を極めていて、景初/正始年間の魏使の訪倭行程の報告、つまり、重荷を背負った、不慣れな一行の実績を、公式日程として集約したものとの解釈が、結構有力であり、となると、そこに、高度に機能的な「唐六典」の規定を適用するのは、誠に不合理なのですが、結構、「安直」に適用されているものと見えます。
 これぐらい絶叫すれば、たれかの耳に届くでしょうか。それとも、現代風の「ノイズキャンセラー」に雑音扱いされているのでしょうか。

 大分、余談が長引いて、目蓋の裏を眺めていた方もいたでしょうから、つまらない冗談を挟んだのですが、お目覚め頂いたでしょうか。要するに、史料の字面だけ食いかじって論拠とする怠慢が横行しているので、警鐘を鳴らしただけですから、真面目にお怒りを頂いても、ご返事いたしかねるのです。

 なお、これは、本紀、列伝などの正史「記事」で書かれている「里」が、厳密に「公式道里」であったことを意味するものではありませんから、正史「記事」で、「記事」の時点の里制を検証することはできないのです。
 もともと、大抵の正史「記事」の「里」は、その際に厳密に測量したものでなく、差し支えない限り大まかな想定値なので、当てにしない方が良いのです。
 
*「公式道里」不変~「短里」制幻想の滅却
 古田武彦氏が、「度量衡」、「尺度」の体系と「里」(道里の「里」)は、連動していないと指摘されましたが、道里の「里」の「尺」に対する倍率が、実務上固定されてなかったという、言うならば「尺里非連動」提言は、一面の真実」を言い当てたと見えます。
 「度量衡」、「尺度」に関しては、秦始皇帝以来、官制の原器が各地に配布されて、それぞれ市中の商いに常用されている物差(尺)や錘、升を規正/是正/較正しましたが、「里」は、一里千八百尺の関係で、一応定義されていても、「尺」が変動するのに連動して、道里の単位である「里」が、厳密に規正されることはなかった(できなかった)のです。

 事情の一面だけ取り上げると、「里」には、周制を引き継いだ秦代以来、「一歩六尺」、「一里三百歩」と、一見文章定義があるように見えますが、根幹である「尺」には原器参照しか定義がないので、里」の厳格な定義はされていないに等しいのであり、従って、各地間の道里は、一度、郡国志原簿などの公文書に登記され、皇帝の上覧を得たら、「尺」の変動に関係されずに「不変」なのです。

 念のため言うと、史上言われている「尺」の変動は、たとえば、従前の九百九十尺を爾後の一千尺とするというような文章定義の「制度変更」ではないので、文書による通達はなく、新たに作成した原器の複製配布で、後は、現地実務で現物合わせするしかないのですから、これを「法改訂」とみるのは困難です。

*道里不変の原理~文明の根底
 以上の事情から、拠点間の公式道里は、太古以来、「公文書」に書き込まれていたので、「尺」の変動に連動して、換算・改定はされず、あるいは、「拠点」や蛮夷の王の居処が移動しても、「志」上の里数は維持され続けたのです。端的に言えば、「尺里非連動」 、「道里不変」と言えますが、その背景は簡単/単純ではないのです。

*舊唐書道里の謎
 一例が、「長安」~「洛陽」間の道里ですが、両地点は、太古の周代の「宗周」~「成周」以来の区間であり、宗周が、秦「咸陽」、漢「長安」と所在や名称が変わって、多少ならず天子の玉座の位置が変わっても、後世、唐で「京師」と呼ばれても、あるいは、「成周」が、後漢「洛陽」、唐「東都」などと呼ばれて、その位置も多少移動しても、道里原点としては不変であり、例えば舊唐書「地理志」でも、京師/西京~東都間は850里と古来のままに「決まっている」のです。

 重要な道里でありながら、五十里単位の概数という点で、「時代」を感じさせますが、それが「公式道里」というものです。いずれにしろ、既に登録されている「公式道里」は、不変だったので、舊唐書「地理志」に掲示されている「公式道里」は、それぞれの設定された「時代」が、うっすらとわかるのです。

*「倭人伝」道里の残照
 舊唐書「地理志」記事で、「倭国」への道里「去京師一萬四千里」は「格別」です。
 つまり、魏志「倭人伝」の公式道里「従郡至倭万二千里」が、まずは、洛陽始点道里と「誤解」されたものと見受けます。蕃王の居処までの道里は、洛陽の天子の視点であるべき」との観念が働いたものと見えます
 要するに、太古の思想が残されている「魏志倭人伝」「従郡至倭萬二千里」を、無法に時代に遡って改訂することはなく、長安「京師」から見ると、倭は「萬四千里」となると割り切っています。あえて言うなら、古来、京畿から「萬二千里」という遠絶の地のその向こうの領域は「萬四千里」と呼ぶという「格付け」が厳然と存在していたのを適用したのであり、倭人伝に書かれた「萬二千里」は、当然、東都洛陽天子起点と見ているのです。東都洛陽から、京師長安に天子の基点が変わったことを、「萬四千里」 と明示したのが、舊唐書原史料記録者の沽券とみています。明解ではないでしょうか。

 正史記事は、どのような基準に依拠しているかで、「道里」の意義が異なるので、高度な理性で解釈する必要があるのです。くれぐれも、千年、二千年後世の無教養な蛮夷の知識/見識で仕切らないことです。
 従前の諸兄姉の解釈は、時代相応の解釈という、大事な視点が欠けていたため、みすみす、底なしの誤解の淵に沈んでいるように見えるのです。

*公孫氏の無礼

 
公孫氏が、皇帝の代理として東夷を統轄する都督であれば、自身の居処、郡治を起点とする蕃夷道里を刻んでも、先例に従い許容されますが、公孫氏は、一級郡の太守として、都督気取りで、王に等しい権威を持っていたのです。
 配下に、漢武帝創設で「公式道里」を与えられていた楽浪郡を従えて「一級郡」太守気取りだったかも知れないのですが、少なくとも、帯方郡創設の画期的事跡は、洛陽に報告されていないので、洛陽から帯方郡への「公式」道里は、不明だったのです。

 「遼東郡」始点でなく、「王畿」、つまり、「天子居処」始点で「万二千里」と書いていたのかと見えるのです。公孫氏は、自ら天子気取りだったので、最後には、そのような「高貴な」言葉遣いをしていたのかも知れません。

*公孫氏の残光
 
遼東郡の公式文書類は、司馬氏によって破壊されましたが、帯方郡には遼東郡への報告に際して、太守通達の文書が回付されていて、景初初頭の皇帝直轄への移管とともに、郡志として洛陽に提出されたと見えます。

*曹魏明帝の昂揚/遺徳
 公孫氏時代の帯方郡文書が、明帝の手元に届いて、「従郡至倭万二千里」の道里が、実道里として「刷り込まれてしまった」ようにも見えます。明帝は、未曾有の遠隔東夷の参上とみて、厖大な下賜物を用意して、倭人を歓待したように見えます。
 そのような明帝の意気高揚は、景初二年末の明帝病臥と景初三年元旦の明帝逝去で急速に風化しましたが、明帝遺命として魏使による下賜物送達は、実行されたものと見えます。もっとも、魏使発進時点までに「従郡至倭万二千里」が実道里でなく、所要期間が四十日程度と知れたので、魏使派遣の実務は、むしろ粛々と実行されたようです。

 以上の顛末は、景初初頭の帯方郡回収、これに応じた倭人の帯方郡参上から、正始初頭、新帝曹芳の命を承けた魏使の倭到着までの異例ずくめの経緯が、一応説明でき、また、明帝が書き立てた「熱烈対応」が、新帝に至って急速に平静化した推移が、理解しやすいとみるものです。

 特に、倭人伝道里行程記事に於いて、未曾有の「従郡至倭万二千里」を毒消しするように「都水行十日陸行一月」として、都合四十日の、実務対応可能と見える所要日数が、重ねて報告されている事情が理解できると思うのです。

*よみがえる「萬里の東夷」
 先ほどの長談義を要約してみると、そのような前代未聞の背景事情を理解してかどうか、遙か後世の唐代史官は、「倭人伝」に示された「従郡至倭」を京師/王畿(長安)遼東郡から「倭国」までの公式道里とすらすらと解して、京師/王畿たる長安基点で「萬二千里」の一つ格上の「萬四千里」と表記したと見えます。古来、「萬里」の上は「萬二千里」が辺境であり、「倭国」は、その一段外の「萬四千里」の刻みとしたと見えるのです。

*記録なき道中記
 唐代に、東夷窓口の帯方郡は最早存在せず、初期の「倭国」使節が、どのような行程で、遙か西方の京師に参上したかは不明です。
 常識的には、景初遣使と同様、對海國から渡海して狗邪韓国に接した「倭館」に入り、洛東江沿いに「新羅道」を北上して小白山地を竹嶺で越え、唐代は、道なりに東の黄海岸海港に出て、新羅の提供した船便で山東半島に渡ったものと見えます。
 帯方郡が健在の時代は、小白山地越えの後、漢江沿いに北上したと見えますが、当時、郡の管理下の街道で宿場が完備していたので、郡の指示で移動する倭人使節は、安全で、道中費用負担も無い公用扱いと見えます。因みに、帝国辺境拠点からの行程の宿所は、拠点の役人が同伴していれば、すべて無料であり、むしろ、賓客扱いで厚遇されたとされています。

 唐代になると帯方郡は存在しないので、賓客扱いは無理としても、統一新羅が唐に服従している限り、新羅道は安全であり、半島内宿所と渡船の経費は「倭国」ー「新羅」の取り決めで、無理のないものになっていたはずです。
 このような事情は、当然のものですが、あまり見かけないので、常識的な成り行きを書き残すことにしたものです。

 いずれにしろ、唐史官が、「倭」公式道里は、歴史の彼方の公孫氏が始めた、蕃夷としての格を示す「見立て」の公式道里の「伝統」を貫いたとみると、唐代に至る歴代史官の筆に一筋の光明が見えます。

 あくまで、以上の推定は、すべて「状況証拠」ですが、強固に構成された「状況証拠」は、余程堅固な「物証」で対抗しない限り、何者にも克服できないのです。一度、ゆるりと咀嚼頂いて、ご講評いただければ幸いです。

*「公式道里」と言うエレガントな解答
 今回の解答例で、公式道里が実道里の反映とみると、魏晋朝の東都洛陽/遼東郡起点の「萬二千里」と唐代京師起点の「萬四千里」の間で、数世紀の時を隔ていても、「道里」の勘定が合わないのです。一方、史官は周制を暗黙の根幹としているので、持続されていた礼制に基づく「見立て」とする解釈であれば、公式「道里」は、二千里刻みの大まかなもので実測「道里」との連係を要しないので馴染みやすいのです。

 因みに、ここで正史に「京師ー倭国萬四千里」の公式道里が公刊されたので、以後の史書はこれに拘束されるのが原則ですが、唐代には、太古以来の史官の伝統は風化していたので、保証の限りではありません、何しろ、大唐は、魏(北魏)の流れを汲む蛮夷の後裔が、江南の漢人王朝を先行する大隋が打倒した後に成立したので、伝統的な「禅譲」が成立せず、南朝の伝統は、名実共に断絶していたのです。当ブログ筆者にとって、ほぼ追随の限界の「中世」世界です。
 そして、このあたり、意味不明で粗暴な「誇張」論からは、筋の通った回答は出てこないのです。

 と言うことで、今回は、「倭人伝」考証の圏外で、頬張っても消化しきれない「道草」を啄んでしまったのです。いくら、ツメクサを噛みしめるとほんのり甘くても、ものには限度があるのです。

                                未完

新・私の本棚 「唐六典」「水行」批判と「倭人伝」解釈 三新 2/7

 初稿 2019/07/14 改訂 2020/10/19, 2021/12/27 補充 2022/09/26 2022/11/10 2023/04/08

*歩制談義~余談
 同様に、全国各地の土地台帳に書き込まれていた「歩」(ぶ)は、個別の土地に基づく「徴税」の根拠であり、土地台帳は、まずは、戸主に対して付与される「地券」証書のもとであり、全国くまなく、厖大な戸数ごとに作成されていたから、大規模な再測量、再割り当てでもしない限り、既存土地台帳の変更のしようがなかったのです。もちろん、そんなことをすれば、折角長年維持していた徴税制度が崩壊して、徴税ができなくなる可能性があるのです。(つまり、国家として破産するのです)つまり、太古以来、帝国経済の根幹は、個別の土地から生じる「税」を、漏れなく収集することにあり、根幹たる土地台帳を改編するような制度変更は、不可能だったのです。

 税収を増やしたかったら、税率を変えるのが定番であり、それ以外にも、各戸戸籍を元に、成人男子、つまり、口数に課税する「人頭税」の増税で補填すれば良いのです。もちろん、増税は、広く不評を買うので、暴動鎮圧などに関し、余程の決意が必要ですが、各戸の土地部数を水増しするのも、端的に言えば増税であり、タダでは済まないのです。

 増収手段としては、塩鉄専売の強化など種々の手口はあり、「歩」を改定して土地税制の根幹を破壊するような「無意味な」徒労に取り組む事はなかったのです。もちろん、当時の算数教育の普及状態では、全国各地の土地台帳の歩数を、定率で水増しするのは、延々と掛け算して、土地台帳を書き換える必要があり、それは到底不可能です。
 あくまでも仮定の論義ですが、そのような難事と承知の上で、「歩」の調整を行うとしても、当時、高級計算官吏にも容易でなかった「乗除」計算を伴うため、全国各地で厖大な計算実務が発生するのですから、もし、そのような国家的大事業を実施したとすれば、皇帝命令が必須、不可欠であり、完了後は、各地から報告が上程されて、総括されて記録に留められたはずです。
 つまり、明確かつ厖大な公的記録が残るのですから、当代正史魏志、晋書に、何ら明確な記録がないということは、そのような国家事業は、一切行われなかったことを歴然と証しているのです。まして、周代以来の制度を連綿と述べたと読み取れる晋書「地理志」に制度変更の記事がないということは、あり得ないのです。

*歩制改革の不可能性~余談
 「なかったことがなかった」というのを実証するのは、見かけ上至難と見えるでしょうが、当然存在すべき記録が存在しないというのは、極めて強靱な状況証拠であり、これを論破するには、「あった」ことを証する断然、確固たる証拠を提出する義務が伴うのです。なにしろ、「強靱な状況証拠」は、もっとも強固な証拠なのです。

 このあたり、「計測」に関する専門的な学問分野で、既に議論されているのでしょうが、古代史里制論義で参照されているのを見かけないので、素人がしゃしゃり出て、えらそうな口ぶりで講釈を垂れている次第です。
 つまり、魏晋朝の一時期に里制が変更となり、一「里」が、六倍程度拡張/縮小して変更されたという「仮説」は、根本的に否定されるべきものなのです。
 因みに、口ぶりがえらそうなのは、野次馬の冷やかしの混同されないために、殊更身繕いしているのであり、別に、学位も役職もないので、このような町外れで論じている次第です。当然、排他的な断言などではありません。

*「水行」の意義
 「唐六典」で言う「水行」は、『海岸を発する「渡海」』を「倭人伝」に限定的に採用した「倭人伝」語法の「水行」と異なり、古代・中世中国語の標準定義通り「河川航行」であり、翻訳には厳密な注意が必要です。当然、「倭人伝」に書かれている「道里」は、全国制度を示すものではないのです。
 ついでながら、太古の「禹本紀」に書かれている「水行」は、単に、「禹后」が、河川の移動手段として利用したというだけであり、後世の「水行」とは全く関係無いのです。素人受けするかも知れませんが、同じ言葉でも、時代と環境が違えば、意味も意義も、まるで違うので、引き合いに出すのはとんだ恥かきと考えるべきなのです。

 東夷伝末尾の「倭人伝」に於いて、帯方郡の管轄地域で、独特の「里」と解釈される記事があっても、当然、それは、魏の全国制度を書き換える効力を有しないのであり、むしろ、帯方郡独特の事情で、そのような「里」で道里記事が書かれた公文書が残されていたため、陳寿「魏志」倭人伝、ないしは、先行の魚豢「魏略」が「倭人伝」独特の「里」を宣言し、「倭人伝」独特の道里記事を書いたと見るのが順当でしょう。
 絶対とは言いませんが、落ち着いて、よくよく考えていただければ、これが、諸説の中で、もっとも筋の通った解釈ではないかと自負するものです。いや、わざわざこうして記事を書き上げた以上、当人としては、そうした自負を当然確立しているのですが、世の中には、反発心を論争の主食としている方も少なくないので、ちょっとだけ外しているのです。くわばら、くわばら。

 そして、陳寿が慎重に書き上げた「倭人伝」「道里記事」が、筋の通ったものであったことから、「読者」は非難を浴びせていないのです。それに対して、後世の東夷が異議を浴びせるのは、傲岸不遜、不勉強ものの愚行です。

 「唐六典」の規定は、基本的に大河の上下(溯/沿流)で、「河」は河水、黄河、「江」は江水、長江(揚子江)です。「余水」は、それ以外の淮河などの「中小」河川でしょうが、「水」と銘記された以上は、水量はほぼ通年してタップリして一定で、喫水の深い、積載量の厖大な川舟も航行できるのです。
 規定外河川は、当然、規定外なので、全て不明ですが、要するに、規定するに足る輸送量が存在しないはしたで、規定におよばなかったのです。唐代、朝鮮半島は唐の領域外なので、当然、「唐六典」の適用外ですから、漢江や洛東江の事情がどうであったか、知るすべはないのです。

                                未完

新・私の本棚 「唐六典」「水行」批判と「倭人伝」解釈 三新 3/7

 初稿 2019/07/14 改訂 2020/10/19, 2021/12/27 補充 2022/09/26 2022/11/10 2023/04/08

*「水行」の前提
 水運が行われている河川には、諸処に川港があり、荷船は荷の積み下ろしをしながら川を上下し、荒天時は、随時寄港・退避します。
 「水行」では、大船を擁した地域ごとの業者組合(幇 ぱん)が強力です。日々の船舶運行予定が十分徹底されて、事故や紛争を防いでいたのです。条件ごとに運送料が規定されていて、槽運は船腹と船員を確保し、船荷安全と日程を保証し、船荷補償や遅延償金を請け負ったはずです。
 要するに、細目が規定された「公道」であり、「水道」を避けて「水行」と定義し、「おか」である「平地」つまり「陸」を行く「陸道」も「陸行」と定義したのです。もちろん、用語は、唐代になってにわかに制定したものでなく、古代、恐らく、秦漢代から維持されていたものと見えます。

*規定の起源

 そのように、「唐六典」の規定は、中原帝国の血流にあたるものであり、早ければ周代から運用されていた政府規定が、唐代に至りここに集約されたと見えます。王朝の変転を越えて、数世紀にわたって運用されていたはずです。

*規定外の辺境事情

 五世紀遡った未開の倭は、中国の圏外であり規定はなかったのです。
 後に、統一新羅となった韓国は、帯方郡管内時代、南北漢江と嶺東の洛東江が候補ですが、郡が水運を統御したという文献は見当たりません。
 もちろん、南漢江から洛東江に通じたわけはなく、特に、南漢江上流は、渓谷に嵌入蛇行の急流で航行できないのです。南漢江船便は、早々に陸送に転じて、小白山地の鞍部「竹嶺」を人馬で越えたと見ます。因みに、この経路は、弁辰鉄山の産鉄輸送に実用されたと見えます。

 以上は、現地を実地確認した上での見解ではないのですが、着実に考察すれば、実見に等しいのです。

*「水行」規定と「海運」の無関係
 この「唐六典」規定を、規定のない「海運」に当てはめるのは無謀です
 数字には、全て前提があり、無造作に流用すると大きな間違いを引き起こします。推定するに、大型の帆船を多用して安定した運行が可能な江水水運と、干満などにより、寄港ごとに中断される沿岸航行は全く異質です。

 まして、三世紀の東夷の地では、高度な造船業と運用が必要な帆船が得られず、手漕ぎ船に頼らざるを得ないと見られる半島多島海では、水運業者は成立しなかったと見えます。少なくとも、記録に残っていません。何しろ、帆船の前提である麻の帆布や麻縄が潤沢に手に入らなくでは、帆船航行事業は成立しないのです。
 倭地で、漕ぎ船が想定されているのは、理由があってのことなのです。
 因みに、大型の帆船で、帆布や麻縄の手に入らない漕ぎ船海域に乗り入れるのは、難船で帆を喪ったときに帆を再構築できないので、生還を期せない無謀な航海になります。まして、漕ぎ船海域の水先案内人は、帆船の操舵機能の限界を知らず、また、推進の限界も知らないので、とても、指示通りに侵入できないのです。言うまでもなく、大型の帆船が存在しない海域では、万一の難船の際に、代替の船腹は、いくら金銭を積んでも手に入らないので生還できないのです。

*倭人伝「水行」記事の独自性
 「倭人伝」に書かれている狗邪韓~対海~一大~末羅の区間は、それぞれが千里と里数が明示され、三度の渡海は、乗り継ぎなどの予備日を設定して都合水行十日と明記されています。いや、一字一句明記されていなくても、明快に示唆されていれば、明記に等しいのです。

 「倭人伝」の「水行」は海船による渡海であり、「唐六典」に見られる河川水運の長期間の「水行」と別です。半島に河川交通の記録はないのですが、辺境なので丁寧に説いたようです。史官は、宮廷調理人「庖丁」のように読者にあわせて「味加減」したのです。

 陳寿は、「倭人伝」道里行程記事に「唐六典」相当の「水行」規定を配慮したからこそ、正史外「水行」が、大河の槽運と混同されないように明記したと見えます。

 但し、正史道里は、悉く、当然、自明で、「陸上街道」「陸道」であり、従って、郡から倭に至る行程は、書かずとも、論証不要、自明の「陸道」ですから、道里記事の冒頭に「陸行」の断りはないのです。

 そして、道中三度の渡海は、日数計上するので、『他の区間と区別するために、便宜上、渡海を「水行」と呼ぶ』と、『「倭人伝」限定の例外用語を明記した』のであり、対岸に渡った末羅国で上陸した本来の「陸道」を、言わずもがなの「陸行」と明記しただけです。このあたり、史官の厳格な「規律」に従ったものであり、史官「規律」の存在すら察することのできない二千年後世の無教養な東夷は、沈黙すべきです。

 このあたり、中国で太古以来成立していた諸制度の例外規定として、無理なく沿わせる工夫であり、史官の苦渋の選択を、ゆるりとご理解いただきたいものです。それにしても、「例外」と明記した「例外」に、先例を要求するのは道理を知らないものにしかできない、法外な無理難題であり、くれぐれもご容赦頂きたい。

                                未完

新・私の本棚 「唐六典」「水行」批判と「倭人伝」解釈 三新 4/7

  初稿 2019/07/14 改訂 2020/10/19, 2021/12/27 補充 2022/09/27 2022/11/10 2023/04/08

*「唐六典」趣旨
 当規定は、唐朝が、軍用物資や税庸の輸送に際して、遅延を防止し、運賃高騰を抑え、一定とするために、一日行程と貨物種別の運賃基準を公布したものです。このような大規模な統制は、中原大国の「物流」の骨格ですが、この全国統制は、唐代に開始したものではなく、遅くとも漢代に確立され、以後、歴代王朝が維持してきた制度をここで総括したものです。また、漢代制度化の専売塩輸送も担当してきたでしょう。
 いや、一説によれば、専売制度は、漢武帝が、匈奴制圧のための軍費が、国庫を枯渇させかけたため、それまで、帝室が私用に当てていた専売塩収入を、国庫に移管したものと見えます。つまり、秦代にも、塩専売は行われていたが、帝室の私的な収入であったので、正史に書かれていなかった可能性があるということのようです。

*細目確認
 時代用語で言う「小舡」は、軽便小型帆船であり、時に、不審な「ジャンク」とされていて、随分古くから沿岸や川筋を帆走したとしても、ここに規定されているような、大型川船が、ほぼひっきりなしにに往来するような大河の「水行」による大量輸送には不向きで、里数、運賃の統制外となっていたと思われます。
 川船の海船転用は、安全面も関係して、困難(不可能)です。

 ちなみに、これら大河中下流には、遙か、遙か二十世紀に到る後世にも橋掛ができなかったので、南北「陸行」は、所定の渡し場、津(しん)から渡船渡河しました。もっとも、いくら大河でも、陸行日数や里程には計上しなかったものです。
 ちなみにの二乗ですが、近代的な大都市が、大河や入り江の両岸に分かれて展開していて、両岸の連絡が渡船に頼ったのは、現代になっても、各地に残っていて、オーストラリアのシドニーは、深く入り江に分断されていて、架橋が困難であったため、渡船(フェリー)交通が残っています。

時代確認
 ここで復習すると、ここで、「唐六典」規定と対比しているのは、三世紀、しかも、中原世界では無く、中華文明域外である「外国」、魏志「倭人伝」の世界、つまり、朝鮮半島とその南方の九州北部の話であり、併せて、その間、海峡を三度の渡海船で越える破格の行程も含めています。
 と言う事で、倭人伝」の視点からすると、書かれている里数や運賃の数字は、別世界のもので参考にならないのです。時代の違いだけなら、三世紀を推定することもできそうなのですが、地域事情/インフラが違うため、まるで参考にならないのです。この点、よくよく確認いただきたいものです。

 「唐六典」は、八世紀、奈良時代で、後期の遣唐使が荒れ狂う東シナ海を大型の帆船で越えて、寧波などの海港に乗り付けて上陸、入国し、官道を経て唐都長安に参上した時代ですから、まさしく隔世の感があります。
 何しろ、後期遣唐使は、目的地を外して漂着するのはざらであり、難破して着けなかった事も珍しくないのです。遡って、初期遣唐使は「新羅道」とされている内陸街道を移動した上で、最後、古来渡船が活発に往来していた半島西岸から山東半島への渡海など平穏な行程を利用し、海上移動は、せいぜい二日間程度の極めて短期間で、したがって、荒天も避けられたので、随分、随分危険が少なかったのです。何しろ、黄海は、内海(大海)も同然で、ほとんど、難船、漂流などの危険はなかったのです。まして、この区間は、帆船が早期に導入されていたので、少数の漕ぎ手が、入出港の際の操舵の役で起用されるだけであり、手軽に運用できたのです。

 安全極まりない「新羅道」を利用できなくなったのは、恐らく、百済支援で新羅を敵に回した事が、長年、切れそうで切れなかった両国の関係を、決定的に決裂させたのでしょうが、まことに、もったいない話です。この部分、一部、蒸し返しになりましたが、念のため書き留めます。

 それは、さておき、そんな風聞の聞こえる「唐六典」時代の「日本」の「水行」事情は、奈良時代の国内資料を見なければ、よくわからないのですが、「倭人伝」専攻の立場では、五世紀後の資料の考察は手に余るので、ご辞退したいのです。

                                未完

新・私の本棚 「唐六典」「水行」批判と「倭人伝」解釈 三新 5/7 資料編

 初稿 2019/07/14 改訂 2020/10/19, 2021/12/27 補充2022/09/26 2022/11/10 2023/04/08

◯資料編
▢唐六典 卷三·尚書戶部 中国哲学書電子化計劃データベース引用
(前略)物之固者與地之遠者以供軍,謂支納邊軍及諸都督、都護府。
 皆料其遠近、時月、眾寡、好惡,而統其務焉。
 凡陸行之程: 馬日七十里,步及驢五十里,車三十里。
  水行之程:
   舟之重者,溯河日三十里,江四十里,餘水四十五里,
   空舟   溯河 四十里,江五十里,餘水六十里。
 沿流之舟則輕重同制,
      河日一百五十里,江一百里,餘水七十里。
(中略)河南、河北、河東、關內等四道諸州運租、庸、雜物等腳,
  每馱一百斤,一百里一百文,山阪慮一百二十文;
  車載一千斤    九百文。
 黃河及洛水河,並從幽州運至平州,上水,十六文,下,六文。
              餘水,上 ,十五文;下,五文。
           從澧,荊等州至楊州,四文。
 其山阪險難、驢少虛,不得過一百五十文;
 平易慮,不得下八十文。其有人負處,兩人分一馱。
 其用小舡處,並運向播、黔等州及涉海,各任本州量定。

 ちなみに、「步及驢」の「歩」は、農地測量に起用される一歩(ぶ)即ち六尺(1.5㍍)などでは無く、痩せ馬、つまり、人夫の荷運びと言う輸送手段を言います。車(荷車)の里数が少ないのは、荷車自体が、大変重いためでしょう。登り坂になると、荷車の負荷が途端に大きくなるためでしょう。実務上は、後押しを入れて乗り切ったのでしょうが、後押しは、タダではないのです。

 「驢」(ろば)を規定しているのは、荷役に、主として驢馬を起用していた事を示しています。馬は、「獰猛」で荷役に適さず、また、騎馬疾駆の軍用に大変貴重であることから、荷役に、あまり向いていなかったので、専ら、従順な「驢」を利用したのです。
 このあたり、牛馬すら、満足にいなかった三世紀の倭地の東夷では、思い至らなかったでしょうが。

 「駄」、つまり本物の荷役馬(荷駄馬)、「驢」の荷は、二人で分けたようです。
 そうそう、空船の回送にも里数規定があったのです。

 と言う事で、全国一律というものの、「小舡」の利用や「渉海」(短い渡海)も含め、地域事情に応じた調整は、例外が許容されていたのです。
 何しろ、全国制度から見たら「はしたのはした」ですから、目こぼししたのです。何しろ、ほぼ全ての「河川」は、橋が架かっていなかったので、渡し舟は、当然、必要不可欠だったのですが、「はした」なので道里、つまり、行程里数に数えなかったのです。

                                未完

新・私の本棚 「唐六典」「水行」批判と「倭人伝」解釈 三新 6/7

 初稿 2019/07/14 改訂 2020/10/19, 2021/12/27 補充 2022/09/26 2022/11/10 2023/04/08

▢「倭人伝」解釈編~萬二千里の由来
 「唐六典」の史料評価を終え、「倭人伝」解釈に及ぼす影響を評価してみます。

*「唐六典」に「海路」不在
 「唐六典」は、帝国の通常業務の輸送経路、手段、費用を規定しています。里数は、所定の荷を一日で移動すべき距離であり、「陸行」、「陸道」は、ほぼ一様ですが、「水行」は、河水、江水、それ以外の川と大別して、それぞれの河川の上り下りで異なるなど、「水行」諸局面に合わせて規定しています。因みに、「水道」なる表現は、ここには存在しないのです。
 当然、「水」は「河川」であり「海」ではありえません。一部、無謀な論客が提起するように、「唐六典」の「水行」が「海路」なら、例えば陸行至難な会稽~東冶間等に「海路」官道が設定されたはずですが、「海道」の記録はありません。
 つまり、「海道」、「海路」の用例は、魏晋から唐代まで存在しないのです。

*追記 2023/04/09
 本項は、主張の論旨を鮮明にするために断言調にすると、時として自滅になってしまうという一例です。
 後記するように、南朝梁代に編纂された宋書「州郡志」には、会稽東冶縣の後身である建安郡と会稽郡の間の街道が、「水」のみで制定されていたと明記されています。そして、並行する「陸」がなかったと明記されています。つまり、その間は、陸上街道を設定できない難路であり、恐らく、何とか人が往き来できる「桟道」とか設営できなかったため、騎馬文書使が往来できず、また、街道沿いの宿場も設定できなかったため、漢制で言う街道、陸道が定義できなかったと見えます。
 但し、そのような異例の設営は、三国魏の知るところでなく、従って、魏志の編纂で参照できなかったので、「倭人伝」に影響していないという程度にとどめるべきだったのですが、書いていてしまったことは、仕方ないのです。以下、訂正もできないので、断言調が続きますが、論義の本筋は不変です。
 因みに、ここで言う「水」は、あくまで、河川交通であり、また、「水」と称しても、全行程が河川交通だけで連結していたのでなく、諸所で、渡し舟ならぬ「陸橋」行程で連結されていたものと見えます。知る限り、唐代に遣唐使一行として空海が移動した際の記録が残っていて、貴重な街道記になっているようです。

 同時代に存在しない概念に基づき時代を語るのは、個人的空想/妄想に過ぎません。

*「海路」再考~官道に不適格
 輸送規定とは別の趣旨ですが、官用の文書使や兵士が往来するのは、整備された官道の陸行であり、船による移動は想定されていないのです。
 官道の軍用運用には、順行、急行、疾駆の三段階が必要であり、文書使も、時に疾駆急行を必要とするので、当然の事として「陸行」と規定しているのですが、「水行」では疾駆(船上を駆けるのか?)はあり得ず、したがって、「水行」行程を官道と規定する事は(絶対に)ないのです。
 「陸道」、「陸行」は、路面を整備し騎馬に耐えるよう維持します。各駅は、食事と寝床の提供に加え、代え馬を常備しています。軍用疾駆ができれば文書急使も可能です。こうした官道、陸路の速度要件は、「河川航行」や「海岸沿い水行」では実現できないのです。官道は、速度本位、安全第一で、「潮待ち、風待ちのお天気まかせ」、「海が荒れたらおだぶつ」の「海道」は不採用です。
 沿岸航行が安全、安心と思う人は、死んだつもりで考え直して欲しいのです。

 当然、三世紀官道に「海路」はあり得ず、「唐六典」にも規定がないのです。

*半島内陸行の話~当然、自明で、書かれない話
 朝鮮半島沿岸に、未曾有・異例・破格・無法の「海道」があったとしたら、陳寿は、魏志東夷伝に特筆したでしょうが、そのような記事はありません。
 つまり、「歴韓国」は、当然、自明の陸道であり、狗邪韓国七千里と里数だけ示したのは、産鉄の搬送で、経路と所要日数が帯方郡に既知だったからです。いや、「倭人伝」が「明記」したのは、この間を陸行七千里と「想定した」と言うことだけであり、道里を測量した結果を書いているわけではないのです。言うならば、「倭人伝」に、当時の公的な現地里制は、明記されていないのです。

*「沿岸航行」の迷妄
 この間の空白を、現代日本人(二千年後生で無教養の東夷)だけに通じる暗黙の了解「沿岸航行」で埋めているのが過去の里程論の大半(すべて?)と思いますが、全部読んだのでないので、ここで断言などできず、数の多少も、「重み」も言いません。但し、素人考えでは、これが里制論混迷の主因の露呈と見えます。

 それにしても、現代人の普通の理解力で「倭人伝」が「すらすら」読めるとは度しがたい「誤解」です。その果ては、読み解けなければ、読み解けるように書き換える理屈が堂々提示され、世も末です。要するに、「神がかり」で、古代の真実を、既に知っているので、わざわざ訂正してやるというものです。いや、つまらないグチでした。

*深意考察の背景
 当ブログ筆者が、それなりに努力して陳寿の「深意」を考察したのは、当ブログ諸記事を「悉皆」熟読いただければ納得頂けると思います。いや、1800ページを全部読めと本気で要求しているのではありません。妄言多謝。m(_ _)m 

◯補足すべき事項~不合理な異議 2023/04/08
 ここで、時に聞かれる異議らしきものの取り扱いに関し、説明を加えます。

*呉志記事の適正評価
 「呉志」(呉書)は、陳寿が編纂した「三国志」の一部と見なされていますが、陳寿が責任編纂した「魏志」とは、別の史書であり、東呉の史官韋昭が編纂し、東呉皇帝が「正史」として受納したものを、東呉の降伏の際に、晋帝に献上し受容されたものであり、従って、単なる降伏文書/戦利品ではなく、晋朝皇帝の書庫に収納された一級公文書だったのです。
 因みに、識者に知られているように、「呉志」は江東孫氏の歴代事績を記録していますが、その際に、曹魏の歴代君主に対する誹謗、中傷の類いの発言があっても、改竄の手が加えられていないものです。(天子たる文帝曹丕を、実名「丕」で誹る記事が存在します)
 従って、陳寿「三国志」の解釈に於いて、就中、魏志「倭人伝」の解釈に際し、「呉志」用例は、あくまで、参考にとどめるべきであり、「倭人伝」と同等の意義を与えて、斟酌すべきではないのです。

*三国志「呉志」の位置付け再確認~史料批判の視点
 書かれているのは東呉政権の視点に立ったものであり、諸制度は東呉のものであり、曹魏の視点で書かれた魏志と一致せず、魏の諸制度とは整合していないのですが、一方、皇帝蔵書に収蔵されている「呉志」は、魏朝公文書に記録されている「史実」の一部なので、陳寿は、当然、編纂の際に改訂の手を加えていないのです。このような史料収録の姿勢を「無批判」と評する論者がありますが、陳寿は、史官としての資料批判を行った上で、「史実」として採用しているのであり、現代東夷論者の見識は、大変限られたものであって、陳寿を批判する見識を有しないとみられます。

 と言うことで、「呉志」に書かれている「史実」は、当然、魏志の「史実」と一致/整合していないと見るべきなのです。所詮、史書は、それぞれの視点で書かれているの原資料/公文書を集成/編纂したものであり、史官は、史料に修正の筆を加えず、「史実」を継承するのを使命としているので、しばしば一致しないのは当然であり、それを安直に「偏向」と称するのは、自身の偏向に気づかない「小人」の自白です。
 各史書間の異同、不一致の事例は、多々あり、件数の数だけでなく、それぞれの異同の意義の重みを加えて評価して、無視できないものがありますが、当然の事項なので、論証不要であり、ここでは触れないものとします。

 ここでは、魏志「倭人伝」解釈のための戸数記事、里数記事の検索に於いて、「呉志」記事は、格落ち、ないしは、除外すべきであると述べておくにとどめます。
 因みに、東呉は、長大な海岸部を有し、海船の南北往来が活発であったので、その世界観は、中原の内陸政権であった曹魏のものとは、大いに異なりますが、漢魏西晋代には、洛陽の知識人には受け入れられなかったというものです。
 東呉の世界観は、亡命政権となった建康の東晋に浸透し、後継の南朝諸国は、むしろ、積極的に、政権内部に採り入れたと見えますが、それは、時代背景の大きく異なる後世事例であり、時間を遡行して、西晋代の陳寿の世界観には、採り入れられていないのです。

*宋書「州郡志」の教え
 世界観の変遷の一例として、南朝梁代に編纂された先行王朝正史〔南梁〕沈約「宋書」州郡志に見ることができます。

 劉宋代の笵曄は、後漢洛陽中心の世界観で後漢書を編纂したため、「宋書」「州郡志」の内容は反映していませんから、後漢書「東夷列伝」には、会稽東冶とだけしか書き残していませんが、宋書「州郡志」によれば、南朝劉宋代に、会稽郡は会稽の周辺にとどまり、往年の会稽郡東冶県は、恐らく、後漢献帝の建安年間に建安郡に分郡されていて、建安郡公式道里は、「去京都水三千四十,並無陸」と記録されています。つまり、建安郡と会稽の間には、峨々たる福建山地が聳えていて、漢制に言う「街道」を設けて、文書使を往来させることができなかったので、河川船行による文書通信が公式道里であり、「京都」まで三千里とされています。「並無陸」てある以上、公式陸行は無かったのです。

*会稽東冶談義の不備払拭
 と言うことで、「魏志」に於いて、東呉管轄地域の諸郡道里は、端から不採用だったのですから、先賢諸兄姉の三国時代の道里論義は、空を切っていたのです。
 つまり、「魏志」編纂時の陳寿の地理観には、魏代統治範囲外で地理情報が得られていなかった「会稽郡東冶縣」の道里情報も何も「未知」であったので、「倭人伝」記事で、倭地の道里と対比して会稽東冶を想起することはなかったのです。誠に明快であり、決定的であると考えますが、いかがでしょうか。

 いや、これは、正史史料に異議を唱える側に、異議の正統さを立証する「立証義務」があるのであり、陳寿には、「会稽東治」を擁護するために、異議を考証する必要はないのです。

                                未完

新・私の本棚 「唐六典」「水行」批判と「倭人伝」解釈 三新 7/7 結語

 初稿 2019/07/14 改訂 2020/10/19, 2021/12/27 補充 2022/09/26 2022/11/10 2023/04/08

*あり得ない「沿岸」の旅~念押し
 万一、郡から狗邪韓国までの行程が、倭人伝に明記どころか、示唆すらされていない長期間、つまり、一日の範囲で収まらない、「海岸沿い水行」であったのなら、この間を「水行」何千里、何日と明記し、かつ、主たる寄港地を明記しなければ、行程明細の無い、杜撰な記事であり「道里」記事の用をなさないのです。況んや、行程に空前にして天下唯一の「海岸水行」道里があったら、当時最高の史官たる陳寿が、画期的で異例の行程を詳しく書き残さないはずがないのです。

*「海岸」沿いの不合理、棄却~念押し
 因みに、「海岸」も「沿海岸」も陸地であり、「海岸沿い」は「陸行」しかできないので「実行不能」です。正史解釈は、常に厳密とすべきです。
 古代史素人の一日本人の考えで恐縮ですが、「倭人伝」記事の「循海岸」は、岸を「盾」に「彳(行)」く「渡海」を、特に「水行」と「定義」しているのです。それなのに、史官の苦心凝縮の定義の真意を無視して「沿」海岸水行と、当時存在しなかった概念をねじ込む、力まかせの「読み替え」が通例です。要するに、問答無用の「改竄主義」であり、いくら無教養の素人談義でも、未来への展望の見えない困った事態です。確かに、古代人は反論できないので、「満場一致」の多数決のように見えますが、それでいいのでしょうか。

 仮に、「海岸沿い」を、史官が想像もしていなかった、「海岸付近から遠ざかった沖合の海中」と捉えても、岩礁や遠浅の浅瀬を「難なく」突っ切って一路航行することなど到底できないのです。(危ないとか言うものでなく、遭難必至です)諸兄姉の中には、多島海のただ中を突っ切る進路を描いて、恬淡としている例までありますが、当時の現地で同じことをすれば、一日として無事に済まないのです。

 また、引き続き断固「狗邪韓国に到る」と読むと、想定されているまで無理矢理進んだとして、その地点から対海国に渡海するのが、とてつもない、海流に反航する無理な逆戻りであり、自然の摂理である海流に反して至難/不可能な行程になります。
 当方が棄却している思いつきなので、途方もないよそごとながら、せめて実現性を言うなら、「倭人伝」に書かれている「狗邪韓国」寄港など、虚構として無視して、半島南岸を東方に進んで、海流に乗って対海国西岸に直行するのが、海人として無理のない当然の行程と見えます。後世の隋書「俀国伝」で、外夷への行人/使節として任じられ、隋の下級文官「文林郎」から起用された隋使裴世清は、素人ながら、半島南岸には立ち寄らず、一路対海国に直行しています。魏志を熟読して沿岸航路と理解していたら、断固、狗邪韓国に入港していたはずですが、下調べで、そのような廻り道は排除していたものと見るものです。

 重ね重ね、以上は、「倭人伝」道里行程「問題」に対する不審な「落第解答」です。これでは、百人が百通りに解答しても、全滅しかないのです。つまり、「倭人伝」の行程では、狗邪韓国海岸は、郡を発して以来、一路街道を南下して到着すると理解するのが「普通」であり、そう考え直すだけで、大勢の中から救済される勇者が出るのです。

*持続可能な事業形態の模索
 因みに、当ブログ著者の意見は、狗邪韓国~対海国~一大国~末羅国の三度の渡船は、それぞれが、最高最強の漕ぎ手を備えた軽量高速の定期便であり、一航海を終えて寄港すると、漕ぎ手がそっくり入れ替わって、新たな漕ぎ手で帰り船に挑むという解釈です。
 そもそも、渡船は、専用の軽装備で、甲板も、船倉/船室も、厨房設備も、大きな水樽もいらず、とにかく、『軽量の船体とそこそこ屈強な漕ぎ手で便船を仕立てて、荷物を少しでも多く積み、そして、短時間で完漕する』のが、海人ならぬ素人の見解です。たかが「渡し舟」について、別に、深刻に審議する必要はないのです。

 対馬で言えば、西岸の浅茅(あそう)湾に入った渡船はそこまでであり、「船荷を担いで陸越えした後、渡船を代えて先に進む」のですから、まことに、「地形の妙」と見えます。海峡越え専門の屈強な「上漕ぎ手」は北の中継港で下船して休養に入り帰り船に備える決まりであり、そこからは、「並漕ぎ手」に交代したとも見えます。要するに、「適材適所」という事で長年運用できたのです。

 以下、二度の渡海も、毎度、細かく乗り継ぎすれば、誠に無理のない運行です。一貫漕行「マラソン」完槽と決め込むと、海峡越えを漕ぎきれる「上漕ぎ手」の疲労が回復されず、業として持続できないことになります。太古以来、「駅伝」/送り継ぎが常識だったのです。
 もちろん、「野性号」冒険などで掲げた一千㌔㍍(?)完全制覇などと言うと、「できなくて当たり前」の冒険になってしまいます。

 一大国から末羅国への渡船の行程は短いとは言え、「上漕ぎ手」は、早々に交代して休養に入るのが上策であり、そのまま長々と、「難船しやすい沿岸を無駄に南下するはずはない」のです。何しろ、そのように漕ぎ伸ばした場合、帰り船は、難所にかかる前に延々と難船しやすい沿岸を漕ぐことになり、誠に不合理です。

 このあたり、沿岸水行と一貫漕行の度しがたい「不合理」を糾弾するための考察であり、「愚行を救済する」つもりで書いているのではないことは、くれぐれもご理解頂きたいのです。もし、各論者諸兄姉が、当方の「常識的な解釈」に異を唱えるのであれば、明確な論拠を示して頂きたいものです。それが、正史記事の普通の解釈に対して、堂々たる異議提示者に不可欠な義務です。

 念年には念を入れると、素人考えとして「倭人伝」は、子供じみた「半島半周」も、島巡りも謳ってないのです。
 
*「従郡至倭」の深意
 素人目には、書き出しで「自郡」でなく「従郡至倭」と書いた意図は、「郡から倭に行くには南東方向にまっしぐら」の形容と見えますが、「従」なる一字の意義が見過ごされています。「従郡至倭」は、単に、行程の始点、終点だけではないと見るものです。字義を丁寧にたどると、「至倭」とは、そのように進めば到着する、と明示しているものと思われます。
 陳寿の深意を案ずるに、後段の「自郡至女王國」「萬二千餘里」と違う形容を採用しただけではないと見るのです。史官の寸鉄表現を、二千年後生の無教養な東夷の素人考えで改竄するのは禁物と思うのです。

*明解な渡海
 ここで復唱しているのは、「倭人伝」限定の地域表現で、「従郡至倭」行程で、渡海を「循海岸水行」と宣告したのは、中原で普通の、橋の無い河川で街道を繋ぐ渡船と同様で説明不要と言う趣旨です。後の「参問周旋」記事では、渡海は対岸まで順次(海中「山島」でなく)大海(大きな塩水湖)の海中「州島」を辿ると念押ししているのです。

 太古由来の古代世界観では、「倭人」の在る山島を包含した「大海」は、「倭」と呼ぶべき「海」であり、韓地が南で「倭」と接していると書いたときは、「大海と接している」と書いたと見るべきです。
 また、「狗邪韓国」は、「大海」つまり「倭」と接しているので、「その北岸」は、『「大海」、「倭」の北岸』と見ると筋が通るのです。それでは、半島南部が「倭」の領域であったとする俗受けしている世界観と衝突しますが、少なくとも、郡を発して一路南下している道里行程は、狗邪韓国の南部海岸の崖で大海を望む「大海」世界観で書かれていると理解する方が、随分、筋が通ります。

 丁寧に書き付けると、当時の中原人読者は、決して、現代地図にあるような水陸の認識はできていないのです。また、帯方郡官人が、ある程度、半島南部の陸地形状を認識していたとしても、中原人読者の認識を超える異例の地理観なので、内陸奥地の蜀漢で育って、中原で仕官した陳寿が書き上げた「倭人」地理観には入っていないのです。何しろ、蜀漢は漢の後継者なので、中原世界の世界観を維持していたとみるべきなのです。

 陳寿の深意を、「二千年後生の無教養の東夷」が察するのは、大変困難ですが、丁寧に説きほぐし噛みしめることで、一歩ずつ近づけると信じているのです。何しろ、「倭人伝」に書かれた深意は、まずは、「倭人伝」を精読することから察するべきであり、「どこの誰が、どんなつもりで、いつ書いたかも知れない、遠隔の用例」は、いくら数多く集めようとも、大半は、「ジャンク」同然であり、数を山積しても、目方を稼いでみても、深意の手がかりは、まずは得られないのです。

〇倭人伝道里記事の意義
 当たり前で、やり過ごして来ましたが、「従郡至倭万二千里」道里記事の大要は、新参蕃王から郡への文書連絡の所要日数「水陸四十日」の根拠を明記した「実務本位」の記事です。(「万二千里」の由来は、別項で論じたので割愛します)

 倭人伝道里行程記事は、正史版夷伝の根幹ですから、しばしば倭人伝道里論で書かれているような、初回使節訪問の不確かなお手盛り「出張」報告書でもなければ、時代錯誤の遊び半分/冗談半分の旅行案内でもないのです。
 世間には、自分の思い込みを押しつけようとしている、例え話のできない現代人論者が懸命に書き上げたホラ話が出回っているのです。当方は、その手の言い包めには、端から疑念を抱いているので、素人読者を騙そうとする底意が見え見えであり、論者に対する不審感を募らされているものですが、何事も、頭から信じてしまう素人さんには、結構受けているのかと懸念しているのです。

 丁寧に指摘すると、無責任なホラ話は、健全な常識を働かせれば、容易に排除できるはずです。そのような意見を臆面もなく公開する論者は、ブラックリストに載せて、以後、真面目に聞き入らないようにしましょう。

 ホラ話が、耳鳴りするほどうるさいときは、席を立って顔を洗って出直しましょう。それで、「論争」は、随分大人しい物になります。

*箴言確認
 『「倭人伝」は、古代中国人である史官が、古代中国人である読者のために、古代中国語で書き記した公式文書です』

 古代の史官は、古代史官にとっての学識/常識に従い、現代人の「常識」など一切知らないのです。先入観、勝手な「思い込み」は禁物です。この点、先賢諸兄姉に始まり、伝統的な勘違いが、難なく継承されていると見受けるので、しつこく喚起した次第です。
 ついでながら、「二千年後生の無教養な東夷」なる尊称は、岡田英弘氏が、「堂々たる正史「魏志」に対して、現代日本人が罵声を浴びせている惨状」に対して、快刀乱麻の表現を物したのに、結果として倣うものであり、当ブログ筆者の勝手な独創の造語などではないのです。よろしく、ご了解ください。

                               以上

2023年4月 7日 (金)

新・私の本棚 岡田 英弘 著作集3「日本とは何か」 倭人伝道里 新考補筆

 岡田 英弘 著作集3 藤原書店 2014/01 
私の見立て ★★★★☆ 峨々たる労作 ただし毀誉褒貶交錯 2023/02/05 補筆 2023/04/07

◯はじめに
 本書では、氏の三世紀観が「倭人伝」道里記事談義の部分で煮崩れして、氏に不似合いな誤謬が露呈している。もちろん、素人には、是正提案は考えつかない。『「倭人伝」は魏朝記録者の歪曲』と断じられたのに従うなら、「三世紀の事実」は求めようがない。いや別に深遠な話をしているのではではない。武断のあまり、自傷しているのではないかという話である。

 本書は、岡田氏の業績の集大成である「岡田 英弘 著作集」の一巻であるが、岡田氏ご自身は、論説集大成の労を執ることができず、後継者諸兄姉が、諸著作を綴じ込んだ形式となっている。
 従って、氏の旧著の見解が、後著によって、つまり、氏自身によって克服されている場合も、旧著は上書きされず、金石文の如く威容が温存されているので、読者は、本書を「通読」して、氏の最終的な深意を読み取る必要がある。

*「従郡至倭萬二千里」の考察
 そのような変遷の一例として、氏の名言とされている「倭人伝」道里記事評価、つまり、『「郡から倭まで万二千里」という里数は、陳寿が魏志編纂にあたり、西方の大月氏国と対照し、鏡像として対称の物理的、かつ、象徴的位置に「倭人」を想定したために、一種「虚構」として設けられたものである』という深長な断言が、後年になって「ひっそりと取り下げられている」のだが、かくのごとく燦然とした氏の偉業の最終表現」が、理解されることなく読み過ごされているのは、大変勿体ないことである。二千年後世から知りうるはずのない、陳寿の内心の動機を、氏が勝手に代弁した」という「非礼」は、ここでは言わないこととしても、ということである。

 氏の後継者は、氏の前言撤回を押し隠すことなく、厳正に表明すべきと思うのである。
 即ち、史学者としての氏の業績を正当に顕彰するには、氏の最終見解に適正に言及すべきものと思うものである。

壱 資料の輻輳疑惑 (166ページ付近)
 第一例として、氏は、『倭人伝に明記の二回の「訪倭紀」の報告書が統一されず、陳寿によって、無批判に綴じ込まれたのが、現在の倭人伝の混乱の素因』という。当初表明された「倭人伝」は歪曲された』との視点が、大きく変わっているが、翻意の根拠は示されていない。
 多年に亘る「倭人伝」検証にあたり、先賢諸兄姉が、「倭人伝」考察の当然の過程として、『行単位で行文を精査し、想定される「出典」を仕分けして、解釈の筋を通している』のに対して、氏は、二件報告書が、「指揮系統の異なりで隔絶して相互検証不能であったため、不統一で交錯した」と納得/総括されていて、さっさと店仕舞いである。

*誤解の起源と継承~私見
 素人なりに、丁寧に魏志の記事を「綿密に」解析すれば、「郡から倭まで万二千里という里数 」は、「帯方郡が倭人に対して、郡への出頭を促した明帝景初時点で、既に皇帝に報告されていて、公文書記録に綴じ込まれていた」ものであり、陳寿にしろ誰にしろ、『後年に倭人記録を編纂したものは、其の記録を「無批判」に採用せざるを得なかった』と見える。ここで、「無批判」とは、訂正、改竄を許されず、また、郡から「倭人」への里数は「倭人伝」に必須の事項であるから、割愛もできなかった、という事態を物語っているから、氏の想定は、既に空を切っていたのである。
 確認するまでも無く、両次派遣の報告書は、都度、皇帝曹芳に提出され、公文書記録に収納されたのである。
 氏の批判の細瑾をつつくと、それぞれの「訪倭紀」の『原文は「門外不出」、「不可侵」、「不可触」』でも、「史官」は、要所に保管された副本を閲覧できるので、随時突き合わせることは容易であり、その意味でも氏の指摘は空転している。

*状況解析/文献考証
 「倭人伝」が東夷伝の掉尾であった「魏志」が、西晋皇帝に上申された時点において、洛陽官人は、後漢末期の献帝代に始まり魏代に至る事績に通じていたから、陳寿が、洛陽に保管されている公文書記録を偽る編纂を行えば、弾劾の声が上がっていたはずであるが、そのような記録は見られない。後の劉宋代に、皇帝命で「三国志」の校訂と補注を行った同時代の最高権威であった裴松之も、「郡から倭まで」の里数について、特段の注記を加えていない。「郡」とは、遼東郡なのか、楽浪郡なのか、帯方郡なのかという、当然の疑問も呈していない。

 裴松之の同時代に、先行する諸家の後漢書の集大成を行った笵曄は、恐らく、新規の編纂と見える後漢書「東夷列伝」に於いて、楽浪郡の檄、つまり、楽浪郡南界の帯方縣は、其の国、つまり、大倭王の居処である邪馬臺国を去ること万二千里と述べ、陳寿と同様の公文書記録、ないしは、先行史書の里数を承継したと見える。
 それが、どの時点のことなのか微妙だが、帯方郡の創設以前、とは言え、公孫氏が遼東郡に君臨していた時代、つまり、後漢献帝建安年間とも見えるが、明記すると、それは、時代として、魏の武帝とされた曹操の時代であり、正史としては、三国志の領分だと異議が出るので、あいまいに逃げているように見える。現に、笵曄「後漢書」に併設された司馬彪「続漢書」郡国紀に、「帯方郡」は登場せず、「楽浪郡帯方縣」でしかないから、時代区分は、そのように決まっていたものと見える。
 
 そのように丁寧に掘り下げると、「郡から倭まで万二千里という里数」 を、陳寿が、『「史実」、即ち、「公式史料」を離れて創作した』とする見解は、氏の早計な誤解であることが明確である。この点、岡田氏は、まだ、中国史に通暁していない時代に、武断を下し、絶大な世評を博したものの、何れかの時点で、ご自身の所見の不備に気づいたとしても、多年に亘って流通し、氏の不朽の賢察と喧伝されていたため、訂正する勇気を持たれなかったものと愚考する。

 言うまでもなく、以上は、状況証拠に類するもので有るから、却って/当然、強靱で拭いがたいと察しているのである。

 凡そ、官僚組織において、報告、審査、指示、記録の流れは、いわば、生命体の血管、神経、血流に相当する生命活動と同様の必須のものであり、絶えることなく維持されているが、それに気づかない後世の凡人は、異常時の変事が史書に記録されているのに着目して、そのような変則事態を常態と見てしまうようである。帝国の活動は、常に健全であり、健全であるからこそ、巨大な国家が、時に、数世紀に亘る長期に運営できるのである。そして、変事が募って、変事が当然になれば、国家は崩壊するのである。民間企業も、概して同様の規律で動いているが、ここでは、圏外なので、深入りしない。

 岡田氏が、事態の底流を見過ごしているのは、氏が、夙に指摘されているように、「近現代日本人は、二千年後世の無教養な東夷であって、三世紀当時の教養を有する知識人/官人でない」ので、無理ないものと思うが、史書に記録されているのは、その時代の国家上層部官人の視点で概括されたものであり、その概括の際に、当然国家視点にとらわれることはあるだろうが、丁寧な考察によって底流を見通せば、帝国の基礎は不偏不党であることが見えるはずである。私見御免。

*史官の本分
 そのような、往々にして語られることのない自明事項を抜きにしても、「正史編纂に際して、史官は、原史料を編集操作する」との「予断」は、深刻な誤解である。一歩踏み込めば、「徹底的に謹厳な史官は、徹底的に編集操作する」と断罪しているものである。

 誠に惜しいかな、岡田氏は、『「史官」の職務、天命に疎い』のであろう。ことは、(中国)史学の視点からは、「自明」であるが、ここで再確認すると、「史官」の「史実」は、第一に、帝室書庫に厳正保管されている「皇帝の承認を得た公文書」であり、「史実」を順当に承継するのが天命であって、小賢しい編集是正は「論外」である。原史料たる公文書資料は、いわば「史実」の根幹であるから、批判も是正もせずに、あくまで史料に忠実に史書を編纂して「後世」に伝えるのが『鉄則』である。

 このあたり、時代錯誤の「後生東夷」は、総じて、史官の責務の本質と重みに 気づいていないようで、困ったものである。
 正史編纂者の「深意」を知らずに、的確な史料解釈ができるはずがない。

 当時、「世界一」の文筆家である編纂史官が、『後生東夷に容易に見て取れるような「不備」に気づかないはずがない』のは明らかである。気づいていて、記事のほころびを繕わなかったのは、それが、史官の使命に反するからでは無かったかと思われる。つまり、史官は、公文書史料に改訂を加えず、要点を割愛せず、その上で、最低限の補筆を行うことにより、「史実」の承継に全力を費やしたと見るべきではないだろうか。
 当然、皇帝以下の有司高官も、史官の志が帝国の権威の証しであると承知していたから、史官の筆に手を出さなかったのである。漢武帝は、司馬遷の執筆に干渉して、自身と実父の帝位一代記を持ち去り以後執筆を禁じたため、千載どころか二千年先に至っても「不朽の悪名」を醸したのである。従って、これほど「表立った」干渉は絶後となったのである。

*不可侵資料
 公文書史料の基本として、当代、前代に拘わらず天子が認証した公文書は「不可侵」が、当然の大原則である。史官がこれを改竄したとする岡田氏の暴論は、「史論」上論外とせざるを得ないのである。
 ここで「史論」とは、当然「中国」であって圏外の蛮夷は含まない。当代天子は、前代天子から禅譲を受けたものであるから、公文書の「不可侵」原則も、維持しなければならないのである。
 断り書きしていないが、議論しているのは、三世紀、後漢魏晋代までの話である。晋代でも、西晋崩壊以降は、論義の外であり、当然、以後の劉宋以下も、同様に維持されたものかどうかは「わからない」。
 又、魚豢「魏略」は、曹魏の「正史」たらんとして編纂したものではないから、その思うところは「不確か」である。魚豢の筆は、当然、曹魏天子の視点であり、蜀漢宰相諸葛亮は、極悪非道の罪人であるから、そのように「偏向」していたことは、知られている。

 岡田氏の論考に戻ると、氏は、事ごとに明言されているように「中国」視点を志すものではなく、時に「天子と蕃王の交渉」なる時代錯誤で的外れな創作夢想を採用されているが、「倭人伝」論においては、そのような対等外交幻想は、論外とさせていただくのである。また、氏は、屡々、豊富な異世界/時代見識を掲げられて、ご自身がよくわかっていない三世紀中国史料の厳正さに、バラバラと疑念を振りかけていらっしゃるが、それでは、表層的な意見にとどまるから、時代の根幹に妥当な根拠を持たず、風が吹けば消し飛ぶものにとどまっている。勿体ないことである。

 以上、あくまで一例であるが、氏の墜ちられた陥穽は、ご当人に認識が無くても、それ以外の箇所でも、気づかないままにくり返し墜ちていると見て取れる。例えて言うなら、体中、痛々しい打ち身とあざだらけであるが、誰も看護しなかったようである。誠に、誠に勿体ないことである。

弐 大月氏/貴霜国の真相  126ページ
 第二例として、後世東夷の知りうるはずもない、三世紀曹魏/西晋首都雒陽の「政治的」な事情を、見てきたように、付加、粉飾されたので、折角の論義を形無しにする蛇足となっている。威勢が良い一刀両断を振るわれたので、少なからぬ読者の強い支持があって、屡々引き合いに出されるが、素人目には、一つの「虚構」と見える。
 合わせて、「陳寿が、史実を改竄した」と重大な非難が浴びせられているのである。

*見過ごされた見解撤回
 本書の谷間で、氏は「魏志に西域伝がないのは、倭人は新規、大月氏は旧聞で陳腐のため」慧眼を呈されている。ここで氏の示された卓見は、大向こう受け狙いの『大見得』とは無縁で冷静であり、一刀両断などではない。ここで、氏は、世上に溢れている陳寿の冤罪を雪がれたのである。そのような重大な提言が、ご自身の前言の余韻に打ち消されて、俗耳に通じないままに、読み過ごされているのは、勿体ないことである。

 本書に、前言撤回発言はないが、岡田氏の業績を総括する本書であるから、これは、決定的翻意、玲瓏晩節と見る。
 自然、『「倭人伝里程は月氏問題に無関係」の判断が高らかに示されている』のであるが、旧著御免で該当部分を遡行改訂はされていないから、見かけ上、一世風靡した武断は、燦々と健在である。

 と言うことで、当発言は、本来画期的な一大提言であるが、それ以降も、岡田氏の往年の壮語が、赫々たる偉業として語られているのは、岡田氏の本望なのかどうか、素人目には不審である。

 素人目には、大月氏は、元来匈奴と共に北辺侵略の盗賊で、西域亡命後も後漢西域都督に執拗に反抗し、ついには、西域から全面撤退させた主犯/元凶である。亡命寄宿先の貴霜国を併呑したか、されたか、盗賊国家か否か、大月氏の印綬を引き継いだか、盗んだか、まことにうさん臭いが、魏朝は、とがめ立てせず、奉っている。まさしく、「盗っ人猛々しい」というところである。
 長年、西域から退いていた後漢/魏は、暴れられるとうるさいので、手っ取り早く賓客扱いして懐柔したに過ぎない。

 破綻した後漢の西域都督を継承した曹魏は、西域の入口である河西回廊を占めた涼州の反乱、自立を平定できず、後には、涼州と蜀漢の連携で、さらに後退を余儀なくされていたので、「西域政策どころではなかった」のであるから、「涼州勢力を挟撃する大包囲作戦」として、「西方に友好大国ありとの虚構を構えた」と見えるが、むしろ滑稽極まる「誇張」の一幕と見える。
 いや、岡田氏は、当然そんなことはとうの昔にご承知のはずである。

 陳寿は、この悪漢に、大層な金印を授けた魏朝の愚行/不名誉の極みを隠したとも見え、岡田氏は、西域事情に疎いため、そのような背景を「軽視」したとも見える。大家の内心は、素人の知りうることではないから、何を言っても、やじうまの中傷と取られるかもしれない。

*対等の西域大国「安息」、「パルティア」

 因みに、西方で、漢が唯一敬意をもって接していたのは、その西の「安息」である。
 何しろ、班固「漢書」西域伝によれば、「パルティア」は、今日で言うイラン高原からメソポタミアにかけての広大な国土に、騎馬文書使が疾駆する街道と宿場を置き、皮革紙に横書きする文字、文書の「法と秩序」の世界であって、専守防衛の要として、その東界に当たる安息メルブ要塞に二万の大軍を常駐して、大月氏の再来に備えていたいたから、西域に溢れる小蛮夷などではなく、班固「漢書」「地理志」は、西域「諸国」で「唯一」敬意をもって、メソポタミアにあったパルティアの首都を「王都」と尊称していたのである。因みに、当時二万の大軍の半ばを占める一万人は、西方メソポタミアに侵略を企てた共和制「ローマ」の大軍を大破して降服させ、戦時捕虜として収容した者を、東部国境に移送して、この重鎮の守備の半ばを託したのである。方や、大月氏は、西域に到達した際に、騎馬軍団の急攻により、安息国を侵略、掠奪し、親征した国王を殺害した前歴を有しているから、只事ではないのだが、それは、漢書も後漢書も触れていない。

 ちっぽけな東夷の新参者は、別の意味で対等の筈がない。いや、釈迦に説法であったか。

◯まとめ
 かくのごとく、氏の史眼の理知的で広範な見識を活かす提言を模索したが、氏が知悉した異世界/時代の多大な見識は、氏を、却って三世紀中国の理解から遠ざけたようであり、誠に勿体ない。いや、「史書」を熟読されてはいるのだが、氏の世界観が、当時の中国の現実に適合整合していないので、見当違いの解釈になっていると見て取れるが、それ以上深追いしないのは「武士の情け」である。

 それにしても、思いがけない回天の兆し/好機であった第二例は、氏の深意に従い「大月氏」を倭人伝の道里「誇張」、陳寿改竄説の根拠とするのを、「ひっそり」と、しかし歴然/決然と撤回するのが、後継者が氏の晩節/名誉のためにとるべき「務め」と考える。


 賢明な読者諸兄姉には自明と信じているが、しばしば、一部の読者に当ブログの深意が誤解されるので、念のため追記しておくと、本稿は、岡田氏の偉業を賞賛するものである。大家の所説の一角を、敢えて公然と否定するのは、細瑾は、所詮細瑾であると指摘しているだけなのである。

 岡田氏以外にも、高名無比な大家の後継者が、大家の誤謬を取り繕うばかりで、いたずらに、大家の瑕疵を永続させているのを見ることが「少なくない」が、学問の道で、学恩に真に応えるためには、大家の誤謬を敢えて指摘/訂正する「忘恩の挙」に挑むのが、真の報恩であるように思うのである。

                                以上

2023年4月 3日 (月)

今日の躓き石 NHK「サイエンスゼロ」の非科学的提言紹介 「曇天革命の奇蹟」待望か

                                   2023/04/03

 本日躓いたのは、なぜ、NHKが公共放送の科学番組で、これほどあからさまに「でたらめ」なお話を広げるのかということである。いや、躓いたなどというものでなく、ごついレンガの壁であった。
 賑々しく提示された「課題」は、「太陽電池の変換効率が曇天時に低下する」欠点を解決し、これにより、利用できる電力量を拡大するというものである。

 しかし、これは、問題点を見損なっている。まず、太陽電池が、太陽エネルギーを電気エネルギーに変換する効率は、せいぜい十㌫程度であり、残りは、電池パネルを加熱しているのであるから、もともと、大して効率的なエネルギー源では無いのである。
 そして、曇天時には、降り注ぐ太陽エネルギーの量が、がた落ちであるから、自然、ほとんど役に立たないのであるが、それは、太陽電池の変換効率を上げてもどうにもならないのである。
 そもそも、「現存の太陽電池」の変換効率を、例えば、最高50㌫に改善できれば、つまり、五倍、十倍にすることができれば、曇天、雨天、降雪など、気にしなくてもいいのであるが、そんなことができないのは、周知の事実のように思える。出演者は、現在のシリコン太陽電池の変換効率は、100年近くかかっても、ほとんど改善されていないが、新素材は、急速に効率が上昇しているので将来性が期待できるなどとホラ話を捏ねているが、それは、非科学的な夢物語であり、所詮、成長が速ければ、短期間で天井にぶつかるだけである。

 そうした事情は、長年、何の変化もないことだから、大抵の関連技術者、科学者の知り尽くしていることなのだが、それを正直に言うと、政府からの支援(要するに税金からの支出)がなくなるので、今回の番組にあるような「呪文」を唱えて、視聴者を煙に巻いているのである。
 まして、新素材が低価格であろうと、太陽電池パネルの構造は頑丈でなければならないし、付随して、大容量の電力変換/蓄電設備/機構が必要であり、送電電線として、現在と同様の大量の銅やアルミを使用することに変わりは無いし、加えて、これまでに設置した太陽電池パネルの性能は、一向に改善されないのである。曇天時に変換効率が高い太陽電池が登場しても、何も改善効果はないのであり、何も改善効果が無い「新素材」の開発に「巨額」の費用/税金を投じても、それは、無駄遣いと言うべきであると考える。

 そのような「ごまかし」論法に、公共放送が加担するのはどうしたことか。巨額の財政赤字を抱えている国庫から、さらに、無駄遣いをさせるのは、NHKの姿勢として問題である。

 当方は、一介のやじうまであるから、公開されている気象データや表明されているであろう機器データを組み合わせて、年間の改善効果を算出して、経済的に評価することはできないが、これほど明らかな、暗算や筆算すら必要の無いような、明々白々な不合理を、科学的な追跡で批判しないのは、まずは、番組担当者の怠慢と思われる。

 以上、NHKには、もっと真剣に、最重要課題に取り組んでもらいたいのである。

 

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