初稿 2019/07/14 改訂 2020/10/19, 2021/12/27 補充 2022/09/26 2022/11/10 2023/04/08 2024/02/01
□「唐六典」談義
従来、「唐六典」については、陳寿「三国志」魏志「倭人伝」に無関係とみて敬遠していましたが、今回記事を起こしたのは、当分野の真面目な論者が、この史料を的確に理解できずに振り回されて道を誤る例が多いと感じ、詳しく説明した方が良いと見たからです。
□「唐六典」とは~Wikipediaによる (正立体部は、当記事での追加)
「唐六典」は、会典(かいてん)と呼ばれる政治書の一種で、(太古以来施行されてきた中国の)法令や典章を記録したものであり、「唐六典」は、最初の会典に当たり、唐代の中央と地方の制度の沿革を記録しています。玄宗の開元十年(722年)から編纂され、『周礼』の分類に従って、理典・教典・礼典・政典・刑典・事典の六部からなり、開元二十六年(738年)に三十巻が成立しました。
*規定確認
「唐六典」の卷三・尚書戶部は、「倭人伝」時代(三世紀)から五世紀程後世の編纂であり、社会制度、経済事情、地域事情など、背景が大きく異なる唐律令の一環として諸貨物運送の一日の里数と運賃を規定しています。
丁寧に言うと、「唐六典」の規定は、唐帝国の「実務規定」であり、同時代の整備された「インフラストラクチャー」(インフラ)の上に成立していた規定でもあることは自明であり、これを、五世紀遡った三世紀の、しかも、皇帝天子の支配下を半ば外れた外国、夷蕃、辺境の倭人世界に適用するのは、無法というか、無謀というか、何重にも不合理の重なった見当違いなのですが、よく言う「俗耳」に訴えるようで、世に悪疫の如くはびこっているのです。
*恐らく初めての「普通里」談義
ここで採用されているのは、当然、国家制度として、周代以来長年に亘って運用されている「普通里」(普[あまね]く通用する里)です。
基本的に一里三百歩(ぶ)、一歩六尺、つまり、、一里千八百尺です。
当ブログでは、概数として、切りのいい、一尺25㌢㍍、1歩150㌢㍍、即ち、1.5㍍、一里450㍍を想定していますが、あくまで、あくまで、「想定」であって、現代で言う「正確」と言うものではありません。
何しろ、「尺」については、参照できる「原器」が配布されていたものの、450㍍に及ぶ「里」の標準は配布されていなかったし、また、里の精度については、特に追求されていなかったのです。「倭人伝」道里記事に関して言えば、起用されているのは、せいぜい千里単位の概数ですから、暗算しやすい一里五百㍍に仮定していても、大して狂いは無いとも言えます。三世紀時点の実務上、数百里、数千里に及ぶ測量は、極めて困難(実際上不可能)なので、今日の感覚では「大雑把」と思われますが、実用上特に問題ない制度であったと見るべきです。
また、基本の「尺」が変動しても、「里」は一定と見えます。著名な拠点間の道里は、先行史書、特に、正史の「郡国志」、「地理志」などの「志」が参照する「公文書」に、恒久的に銘記されていたので、天下が継承されている限り、主要「拠点」間の道里は、一度、皇帝の確認を得て公文書に記録された公式道里であれば、不朽、不変だったのです。
王朝が禅譲されるということは、公文書記録が、不可侵記録として、代々継承されるという事です。
もちろん、公文書記録は生命体ではないので、記録が継承されたと言うことは、関係部局の官人が、記録文書の書庫ごと引き継がれていたものなのです。
*真面目な長談義
具体的に言うと、例えば、「洛陽」を帝国の中枢に置いた諸王朝は、皇帝が交代し、高官が交代しても、各地の土地台帳は、そのまま継承され、それだから、皇帝が交代しても、各地から上納される「税」は、変わりなく「洛陽」に納入されたのです。いや、細かく言うと、漢代以来、各地の農民は、地区の首長に銅銭で納税していて、各地首長から順送りに支配階梯を遡って、全土各地の銅銭が「洛陽」に運ばれていただけで、別に、各地収穫の穀物が洛陽に運ばれたわけではないのです。
いや、「関中」と尊重された京師長安も、関東、河水流域で、輸送の便に恵まれた東都洛陽も、「麦食」の食糧自給ができず、華南、長江流域からの大量の「米穀」に依存していたのですが、それは、東西の大河の流通では足りず、運河の南北槽運に依存していたのですが、それはさておき、大量の米穀の流通は、水運に依存していたため、各地の水運の納期と運賃を全国制度として規定しなくては、帝国が成立しなかったのです。
と言うことで、唐六典が「水行」と規定しているのは、主として華南の「米穀」を洛陽に運搬する「水運業」の規定だったのです。言うまでもないのですが、三世紀当時、と言うか、後世に至るまで、「倭地」に「水行」に値する河川運輸のインフラは存在せず、従って、唐六典の「水行」規定は、参考にならないのです。
因みに、倭地に牛馬の運用が無かった以上、「陸行」のインフラも存在せず、倭地内の道里もまた、何の参考にもならないのです。
唐代の「米穀」陸上輸送は、当然、膨大な量なので、騾馬/驢馬を起用した荷車による輸送であり、三世紀当時、倭地には、荷車の往来できる「街道」は存在せず、また、牛馬を駆使した輸送も存在しなかったので、参考にならないということです。
以上、概説したように、唐六典に言う「陸行」「水行」は、三世紀、倭地に存在し得ない「インフラ」を不可欠な前提にしているので、書かれている漢数字は、一切、参考にならないのです。
倭地の「陸行」と言えば、末羅国から伊都国までの五百里が念頭に浮かぶはずですが、陳寿の参照した公文書には、この間が魏制に沿った街道として整備され、騎馬で移動したとも何とも書かれていなかったと見え、全行程一万二千里とする見込みの倭地内部分二千里に対して、五百里程度と見なしたに過ぎません。何れにしろ、「倭人伝」に記載すべきは全所要日数四十日であって、渡海部分の「水行」十日を除くと、「陸行」三十日であると概要を示しておけば、用が足りていたので、深入りしなかったという事です。
因みに、倭人伝に書かれている『「都」(すべて)「水行」十日、「陸行」一月』の規定は、郡から倭に到る文書使の許容日数を成文化しているのであり、どのような手段を採用しているか問うものではないのです。丁寧に言うと、行程が、騎馬武官のものであるか、徒歩の飛脚のものであるか、何も求めていないので、書かれている所要日数から行程道里を問うのは、意味がないのです。好例は、書かれている渡海日数であり、海上に街道は存在しないので、騎馬武官の歩数を求めても無意味なのです。まさか、帯方郡の文書使は、木製の蹄板(木下駄)を履いていて、海上を疾駆したというのでもないでしょう。(苦笑)
いや、当規定に関する後世東夷の解釈は、誠に放埒を極めていて、景初/正始年間の魏使の訪倭行程の報告、つまり、重荷を背負った、不慣れな一行の実績を、公式日程として集約したものとの解釈が、結構有力であり、となると、そこに、高度に機能的な「唐六典」の規定を適用するのは、誠に不合理なのですが、結構、「安直」に適用されているものと見えます。
これぐらい絶叫すれば、たれかの耳に届くでしょうか。それとも、現代風の「ノイズキャンセラー」に雑音扱いされているのでしょうか。
大分、余談が長引いて、目蓋の裏を眺めていた方もいたでしょうから、つまらない冗談を挟んだのですが、お目覚め頂いたでしょうか。要するに、史料の字面だけ食いかじって論拠とする怠慢が横行しているので、警鐘を鳴らしただけですから、真面目にお怒りを頂いても、ご返事いたしかねるのです。
なお、これは、本紀、列伝などの正史「記事」で書かれている「里」が、厳密に「公式道里」であったことを意味するものではありませんから、正史「記事」で、「記事」の時点の里制を検証することはできないのです。
もともと、大抵の正史「記事」の「里」は、その際に厳密に測量したものでなく、差し支えない限り大まかな想定値なので、当てにしない方が良いのです。
*「公式道里」不変~「短里」制幻想の滅却
古田武彦氏が、「度量衡」、「尺度」の体系と「里」(道里の「里」)は、連動していないと指摘されましたが、道里の「里」の「尺」に対する倍率が、実務上固定されてなかったという、言うならば「尺里非連動」提言は、「一面の真実」を言い当てたと見えます。
「度量衡」、「尺度」に関しては、秦始皇帝以来、官制の原器が各地に配布されて、それぞれ市中の商いに常用されている物差(尺)や錘、升を規正/是正/較正しましたが、「里」は、一里千八百尺の関係で、一応定義されていても、「尺」が変動するのに連動して、道里の単位である「里」が、厳密に規正されることはなかった(できなかった)のです。
事情の一面だけ取り上げると、「里」には、周制を引き継いだ秦代以来、「一歩六尺」、「一里三百歩」と、一見文章定義があるように見えますが、根幹である「尺」には原器参照しか定義がないので、「里」の厳格な定義はされていないに等しいのであり、従って、各地間の道里は、一度、郡国志原簿などの公文書に登記され、皇帝の上覧を得たら、「尺」の変動に関係されずに「不変」なのです。
念のため言うと、史上言われている「尺」の変動は、たとえば、従前の九百九十尺を爾後の一千尺とするというような文章定義の「制度変更」ではないので、文書による通達はなく、新たに作成した原器の複製配布で、後は、現地実務で現物合わせするしかないのですから、これを「法改訂」とみるのは困難です。
*道里不変の原理~文明の根底
以上の事情から、拠点間の公式道里は、太古以来、「公文書」に書き込まれていたので、「尺」の変動に連動して、換算・改定はされず、あるいは、「拠点」や蛮夷の王の居処が移動しても、「志」上の里数は維持され続けたのです。端的に言えば、「尺里非連動」 、「道里不変」と言えますが、その背景は簡単/単純ではないのです。
*舊唐書道里の謎
一例が、「長安」~「洛陽」間の道里ですが、両地点は、太古の周代の「宗周」~「成周」以来の区間であり、宗周が、秦「咸陽」、漢「長安」と所在や名称が変わって、多少ならず天子の玉座の位置が変わっても、後世、唐で「京師」と呼ばれても、あるいは、「成周」が、後漢「洛陽」、唐「東都」などと呼ばれて、その位置も多少移動しても、道里原点としては不変であり、例えば舊唐書「地理志」でも、京師/西京~東都間は850里と古来のままに「決まっている」のです。
重要な道里でありながら、五十里単位の概数という点で、「時代」を感じさせますが、それが「公式道里」というものです。いずれにしろ、既に登録されている「公式道里」は、不変だったので、舊唐書「地理志」に掲示されている「公式道里」は、それぞれの設定された「時代」が、うっすらとわかるのです。
*「倭人伝」道里の残照
舊唐書「地理志」記事で、「倭国」への道里「去京師一萬四千里」は「格別」です。
つまり、魏志「倭人伝」の公式道里「従郡至倭万二千里」が、まずは、洛陽始点道里と「誤解」されたものと見受けます。「蕃王の居処までの道里は、洛陽の天子の視点であるべき」との観念が働いたものと見えます。
要するに、太古の思想が残されている「魏志倭人伝」「従郡至倭萬二千里」を、無法に時代に遡って改訂することはなく、長安「京師」から見ると、倭は「萬四千里」となると割り切っています。あえて言うなら、古来、京畿から「萬二千里」という遠絶の地のその向こうの領域は「萬四千里」と呼ぶという「格付け」が厳然と存在していたのを適用したのであり、倭人伝に書かれた「萬二千里」は、当然、東都洛陽天子起点と見ているのです。東都洛陽から、京師長安に天子の基点が変わったことを、「萬四千里」 と明示したのが、舊唐書原史料記録者の沽券とみています。明解ではないでしょうか。
正史記事は、どのような基準に依拠しているかで、「道里」の意義が異なるので、高度な理性で解釈する必要があるのです。くれぐれも、千年、二千年後世の無教養な蛮夷の知識/見識で仕切らないことです。
従前の諸兄姉の解釈は、時代相応の解釈という、大事な視点が欠けていたため、みすみす、底なしの誤解の淵に沈んでいるように見えるのです。
*公孫氏の無礼
公孫氏が、皇帝の代理として東夷を統轄する都督であれば、自身の居処、郡治を起点とする蕃夷道里を刻んでも、先例に従い許容されますが、公孫氏は、一級郡の太守として、都督気取りで、王に等しい権威を持っていたのです。
配下に、漢武帝創設で「公式道里」を与えられていた楽浪郡を従えて「一級郡」太守気取りだったかも知れないのですが、少なくとも、帯方郡創設の画期的事跡は、洛陽に報告されていないので、洛陽から帯方郡への「公式」道里は、不明だったのです。
「遼東郡」始点でなく、「王畿」、つまり、「天子居処」始点で「万二千里」と書いていたのかと見えるのです。公孫氏は、自ら天子気取りだったので、最後には、そのような「高貴な」言葉遣いをしていたのかも知れません。
*公孫氏の残光
遼東郡の公式文書類は、司馬氏によって破壊されましたが、帯方郡には遼東郡への報告に際して、太守通達の文書が回付されていて、景初初頭の皇帝直轄への移管とともに、郡志として洛陽に提出されたと見えます。
*曹魏明帝の昂揚/遺徳
公孫氏時代の帯方郡文書が、明帝の手元に届いて、「従郡至倭万二千里」の道里が、実道里として「刷り込まれてしまった」ようにも見えます。明帝は、未曾有の遠隔東夷の参上とみて、厖大な下賜物を用意して、倭人を歓待したように見えます。
そのような明帝の意気高揚は、景初二年末の明帝病臥と景初三年元旦の明帝逝去で急速に風化しましたが、明帝遺命として魏使による下賜物送達は、実行されたものと見えます。もっとも、魏使発進時点までに「従郡至倭万二千里」が実道里でなく、所要期間が四十日程度と知れたので、魏使派遣の実務は、むしろ粛々と実行されたようです。
以上の顛末は、景初初頭の帯方郡回収、これに応じた倭人の帯方郡参上から、正始初頭、新帝曹芳の命を承けた魏使の倭到着までの異例ずくめの経緯が、一応説明でき、また、明帝が書き立てた「熱烈対応」が、新帝に至って急速に平静化した推移が、理解しやすいとみるものです。
特に、倭人伝道里行程記事に於いて、未曾有の「従郡至倭万二千里」を毒消しするように「都水行十日陸行一月」として、都合四十日の、実務対応可能と見える所要日数が、重ねて報告されている事情が理解できると思うのです。
*よみがえる「萬里の東夷」
先ほどの長談義を要約してみると、そのような前代未聞の背景事情を理解してかどうか、遙か後世の唐代史官は、「倭人伝」に示された「従郡至倭」を京師/王畿(長安)遼東郡から「倭国」までの公式道里とすらすらと解して、京師/王畿たる長安基点で「萬二千里」の一つ格上の「萬四千里」と表記したと見えます。古来、「萬里」の上は「萬二千里」が辺境であり、「倭国」は、その一段外の「萬四千里」の刻みとしたと見えるのです。
*記録なき道中記
唐代に、東夷窓口の帯方郡は最早存在せず、初期の「倭国」使節が、どのような行程で、遙か西方の京師に参上したかは不明です。
常識的には、景初遣使と同様、對海國から渡海して狗邪韓国に接した「倭館」に入り、洛東江沿いに「新羅道」を北上して小白山地を竹嶺で越え、唐代は、道なりに東の黄海岸海港に出て、新羅の提供した船便で山東半島に渡ったものと見えます。
帯方郡が健在の時代は、小白山地越えの後、漢江沿いに北上したと見えますが、当時、郡の管理下の街道で宿場が完備していたので、郡の指示で移動する倭人使節は、安全で、道中費用負担も無い公用扱いと見えます。因みに、帝国辺境拠点からの行程の宿所は、拠点の役人が同伴していれば、すべて無料であり、むしろ、賓客扱いで厚遇されたとされています。
唐代になると帯方郡は存在しないので、賓客扱いは無理としても、統一新羅が唐に服従している限り、新羅道は安全であり、半島内宿所と渡船の経費は「倭国」ー「新羅」の取り決めで、無理のないものになっていたはずです。
このような事情は、当然のものですが、あまり見かけないので、常識的な成り行きを書き残すことにしたものです。
いずれにしろ、唐史官が、「倭」公式道里は、歴史の彼方の公孫氏が始めた、蕃夷としての格を示す「見立て」の公式道里の「伝統」を貫いたとみると、唐代に至る歴代史官の筆に一筋の光明が見えます。
あくまで、以上の推定は、すべて「状況証拠」ですが、強固に構成された「状況証拠」は、余程堅固な「物証」で対抗しない限り、何者にも克服できないのです。一度、ゆるりと咀嚼頂いて、ご講評いただければ幸いです。
*「公式道里」と言うエレガントな解答
今回の解答例で、公式道里が実道里の反映とみると、魏晋朝の東都洛陽/遼東郡起点の「萬二千里」と唐代京師起点の「萬四千里」の間で、数世紀の時を隔ていても、「道里」の勘定が合わないのです。一方、史官は周制を暗黙の根幹としているので、持続されていた礼制に基づく「見立て」とする解釈であれば、公式「道里」は、二千里刻みの大まかなもので実測「道里」との連係を要しないので馴染みやすいのです。
因みに、ここで正史に「京師ー倭国萬四千里」の公式道里が公刊されたので、以後の史書はこれに拘束されるのが原則ですが、唐代には、太古以来の史官の伝統は風化していたので、保証の限りではありません、何しろ、大唐は、魏(北魏)の流れを汲む蛮夷の後裔が、江南の漢人王朝を先行する大隋が打倒した後に成立したので、伝統的な「禅譲」が成立せず、南朝の伝統は、名実共に断絶していたのです。当ブログ筆者にとって、ほぼ追随の限界の「中世」世界です。
そして、このあたり、意味不明で粗暴な「誇張」論からは、筋の通った回答は出てこないのです。
と言うことで、今回は、「倭人伝」考証の圏外で、頬張っても消化しきれない「道草」を啄んでしまったのです。いくら、ツメクサを噛みしめるとほんのり甘くても、ものには限度があるのです。
未完