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2023年4月29日 (土)

新・私の本棚 古田史学論集 25 正木裕 「邪馬台国」が行方不明になった理由 補充

 古代に真実を求めて 古代史の争点 明石書店 2022/3/31 
 私の見立て ★★★☆☆ 課題山積に蓋をした軽率 2022/04/24 補充 2023/04/29

○はじめに
 正木氏の本記事は、まことに手短であるが、「倭人伝」道里記事解釈は、多岐に亘っていて手短に片付けられないはずである。氏は、世上の「総括病」に感染したか、百出議論が挙って「伊都国と奴国の比定」を誤って迷走していると「一刀両断」しているが、「諸説は全部間違い」との断言から始まる世上の勝手論者の手口と同様で、混同されて「損ですよ」と申し上げる。

 諸兄姉は定型文を複製して論じてはなかろうから、諸説は、百花斉放の筈である。正木氏が、全て読み尽くしたなら、後学のために指摘して欲しいが、氏は、ひと息に在庫一掃して「自説」を説く。賛同者は多くても、まとめて「自説」と見る。因みに、当ブログの議論は氏の決め付けと無縁と信じる。

 以下、「倭人伝」道里記事解釈に続くが、古田氏流「短里説」は控え目である。「短里」は自明であり、頑迷な「短里」否定論は、我田引水風の独善に過ぎず、殊更強調する必要はない。これで、纏向説は場外である。

*道里記事解釈の不備 2023/04/29
 初稿で言い漏らしていたが、氏が、「倭人伝」道里記事を、粗雑に書き換えていることに異議を呈したい。
 「➀帯方郡から...狗邪韓国に至る」と書き換えているが、原文は「到」である。「至」と「到」は、文字も意味も違うのから、不正確である。②,③,④は、いずれも「渡海」(倭人伝限定の「水行」)であるが、②「始めて」、③「又」、④「又」と、限定的に書かれているのを削除しているのは、不正確である。⑤でも、「末羅国に至る」と書き換えているが、原文は「到」であるから、不正確である。
 「倭人伝」道里記事で提起した用字は、行程の分岐、不分岐、到達、不到達を峻別するために、敢えて厳密に採用されているから、原文を維持すべきである。
 ここでは、具体的な論義を差し控えるが、史料原文を恣意をもって書き換えるのは、解釈不備に繋がっているものと考える。ご確認いただきたい。

*「方里」論の不首尾
 倭人伝の「方四百里」を、氏は古田氏追随で、一辺四百(道)里の方形と見なす。しかし、この書法は東夷伝独自であり、古来の「道里」と整合しない。史官は、典拠ある書式、語法を遵守するので、説明無しに「方里」を「道里」と同列に扱うのは、史官落第である。思うに、「方里」は「道里」と異次元である。 (道里は一次元、方里は二次元で、次元が違うという意味であり、現今の政治経済用語とは、次元が異なる)

 方形一辺が十倍なら、面積は百倍となり、桁の違う韓国と對海国の面積比較が、困難で当を得ないものとなると見るのである。冷静に読みなおして欲しいものである。

*「島巡り」の不備
 氏は、狗邪韓国から倭に至る途上の渡海道里の對海国に、一辺四百里の二倍を足す「道里」表現とするが、陳寿が想定していた魏志読者には思いもよらないことだろう。
 千里単位の概数で限定件数の「道里」は計算できるが、百里単位の端(はした)を埋め込まれては、解読に「労苦」を要する。陳寿ほどの史官が、魏志末尾の辺境蕃夷記事に、些事の「労苦」を持ち込むだろうか。
 渡海千里は、実「道里」でなく、国間千里に全て込みが常識と思える。

 元来、国間道里は、それぞれの首長間の文書連絡の所要日数を知るためのものであり、上陸することなく海中を往来するのは、無意味な道里稼ぎである。また、「倭人伝」の諸国邑は、本来、隔壁で囲まれているべき「國邑」が、海で隔てられていることにより、隔壁を持たないことを許容されているものだから、島を巡って上陸しないのは、首長居城の外壁を舐めて、首長に拝謁せずに歴訪と称するすることになり、大変、不適当である。本来、百里代の辻褄合わせは、無意味で無効であるから、不合理な「島巡り」は、すべからく撤回すべきである。

*「戸」の話
 東夷伝で、国土を「方何千里」と書いた高句麗、韓の両大国は、地形、地勢の制約で、中原基準の耕作地整備が至難なため、土地台帳から畝単位の農地面積を集計し、「戸」で把握困難な国力を表現したと見える。

 古来、「戸」は農地割当単位で、戸内の男子が牛犂、牛鍬を用いて耕す前提で、農地面積に基づく収穫量計算の要件であるが、東夷は、中原社会と家族制度が異なる上に、対象とする農地が、牛耕に適した平坦地か、山谷地かも、不明である。郡太守(公孫氏)は皇帝に戸数を報告しつつ「方里」を試行したと見える。倭人は牛耕なしの人力頼りであるため、「戸」の意義が不確かであるが、魏志に地理志がないので不明である。

*まとめ~「方里」再確認
 拙論では、「方里」は「一辺一里の方形面積」であり、各戸が耕作する農地面積を、戸籍台帳/土地台帳から集計したものと見る。これは「九章算経」読者の理解を得られるのである。

 いや、些末に巻き込まれたが、一番明解な論議は、『「方里」は、土地面積の単位で、「道里」とは「単位次元」が違うので混同してはならない』で決まりであり、以下蛇足である。論議は、明解第一と再確認した次第である。

 なお、本論では、「南至邪馬壹国女王之所 都水行十日陸行一月」の解釈で、「都」の一字をもって、「総て」、「都合」とする玄妙な用字を掘り下げていないのに失望したが、ここでは論じない。因みに、そのような解釈は、古賀達也氏の仮説として知られているが、支持が得られず、退蔵されているようなので、かねて、腹案としていた当方が、ブツブツ呟いているのである。

                                以上

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