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2023年4月 7日 (金)

新・私の本棚 岡田 英弘 著作集3「日本とは何か」 倭人伝道里 新考補筆

 岡田 英弘 著作集3 藤原書店 2014/01 
私の見立て ★★★★☆ 峨々たる労作 ただし毀誉褒貶交錯 2023/02/05 補筆 2023/04/07

◯はじめに
 本書では、氏の三世紀観が「倭人伝」道里記事談義の部分で煮崩れして、氏に不似合いな誤謬が露呈している。もちろん、素人には、是正提案は考えつかない。『「倭人伝」は魏朝記録者の歪曲』と断じられたのに従うなら、「三世紀の事実」は求めようがない。いや別に深遠な話をしているのではではない。武断のあまり、自傷しているのではないかという話である。

 本書は、岡田氏の業績の集大成である「岡田 英弘 著作集」の一巻であるが、岡田氏ご自身は、論説集大成の労を執ることができず、後継者諸兄姉が、諸著作を綴じ込んだ形式となっている。
 従って、氏の旧著の見解が、後著によって、つまり、氏自身によって克服されている場合も、旧著は上書きされず、金石文の如く威容が温存されているので、読者は、本書を「通読」して、氏の最終的な深意を読み取る必要がある。

*「従郡至倭萬二千里」の考察
 そのような変遷の一例として、氏の名言とされている「倭人伝」道里記事評価、つまり、『「郡から倭まで万二千里」という里数は、陳寿が魏志編纂にあたり、西方の大月氏国と対照し、鏡像として対称の物理的、かつ、象徴的位置に「倭人」を想定したために、一種「虚構」として設けられたものである』という深長な断言が、後年になって「ひっそりと取り下げられている」のだが、かくのごとく燦然とした氏の偉業の最終表現」が、理解されることなく読み過ごされているのは、大変勿体ないことである。二千年後世から知りうるはずのない、陳寿の内心の動機を、氏が勝手に代弁した」という「非礼」は、ここでは言わないこととしても、ということである。

 氏の後継者は、氏の前言撤回を押し隠すことなく、厳正に表明すべきと思うのである。
 即ち、史学者としての氏の業績を正当に顕彰するには、氏の最終見解に適正に言及すべきものと思うものである。

壱 資料の輻輳疑惑 (166ページ付近)
 第一例として、氏は、『倭人伝に明記の二回の「訪倭紀」の報告書が統一されず、陳寿によって、無批判に綴じ込まれたのが、現在の倭人伝の混乱の素因』という。当初表明された「倭人伝」は歪曲された』との視点が、大きく変わっているが、翻意の根拠は示されていない。
 多年に亘る「倭人伝」検証にあたり、先賢諸兄姉が、「倭人伝」考察の当然の過程として、『行単位で行文を精査し、想定される「出典」を仕分けして、解釈の筋を通している』のに対して、氏は、二件報告書が、「指揮系統の異なりで隔絶して相互検証不能であったため、不統一で交錯した」と納得/総括されていて、さっさと店仕舞いである。

*誤解の起源と継承~私見
 素人なりに、丁寧に魏志の記事を「綿密に」解析すれば、「郡から倭まで万二千里という里数 」は、「帯方郡が倭人に対して、郡への出頭を促した明帝景初時点で、既に皇帝に報告されていて、公文書記録に綴じ込まれていた」ものであり、陳寿にしろ誰にしろ、『後年に倭人記録を編纂したものは、其の記録を「無批判」に採用せざるを得なかった』と見える。ここで、「無批判」とは、訂正、改竄を許されず、また、郡から「倭人」への里数は「倭人伝」に必須の事項であるから、割愛もできなかった、という事態を物語っているから、氏の想定は、既に空を切っていたのである。
 確認するまでも無く、両次派遣の報告書は、都度、皇帝曹芳に提出され、公文書記録に収納されたのである。
 氏の批判の細瑾をつつくと、それぞれの「訪倭紀」の『原文は「門外不出」、「不可侵」、「不可触」』でも、「史官」は、要所に保管された副本を閲覧できるので、随時突き合わせることは容易であり、その意味でも氏の指摘は空転している。

*状況解析/文献考証
 「倭人伝」が東夷伝の掉尾であった「魏志」が、西晋皇帝に上申された時点において、洛陽官人は、後漢末期の献帝代に始まり魏代に至る事績に通じていたから、陳寿が、洛陽に保管されている公文書記録を偽る編纂を行えば、弾劾の声が上がっていたはずであるが、そのような記録は見られない。後の劉宋代に、皇帝命で「三国志」の校訂と補注を行った同時代の最高権威であった裴松之も、「郡から倭まで」の里数について、特段の注記を加えていない。「郡」とは、遼東郡なのか、楽浪郡なのか、帯方郡なのかという、当然の疑問も呈していない。

 裴松之の同時代に、先行する諸家の後漢書の集大成を行った笵曄は、恐らく、新規の編纂と見える後漢書「東夷列伝」に於いて、楽浪郡の檄、つまり、楽浪郡南界の帯方縣は、其の国、つまり、大倭王の居処である邪馬臺国を去ること万二千里と述べ、陳寿と同様の公文書記録、ないしは、先行史書の里数を承継したと見える。
 それが、どの時点のことなのか微妙だが、帯方郡の創設以前、とは言え、公孫氏が遼東郡に君臨していた時代、つまり、後漢献帝建安年間とも見えるが、明記すると、それは、時代として、魏の武帝とされた曹操の時代であり、正史としては、三国志の領分だと異議が出るので、あいまいに逃げているように見える。現に、笵曄「後漢書」に併設された司馬彪「続漢書」郡国紀に、「帯方郡」は登場せず、「楽浪郡帯方縣」でしかないから、時代区分は、そのように決まっていたものと見える。
 
 そのように丁寧に掘り下げると、「郡から倭まで万二千里という里数」 を、陳寿が、『「史実」、即ち、「公式史料」を離れて創作した』とする見解は、氏の早計な誤解であることが明確である。この点、岡田氏は、まだ、中国史に通暁していない時代に、武断を下し、絶大な世評を博したものの、何れかの時点で、ご自身の所見の不備に気づいたとしても、多年に亘って流通し、氏の不朽の賢察と喧伝されていたため、訂正する勇気を持たれなかったものと愚考する。

 言うまでもなく、以上は、状況証拠に類するもので有るから、却って/当然、強靱で拭いがたいと察しているのである。

 凡そ、官僚組織において、報告、審査、指示、記録の流れは、いわば、生命体の血管、神経、血流に相当する生命活動と同様の必須のものであり、絶えることなく維持されているが、それに気づかない後世の凡人は、異常時の変事が史書に記録されているのに着目して、そのような変則事態を常態と見てしまうようである。帝国の活動は、常に健全であり、健全であるからこそ、巨大な国家が、時に、数世紀に亘る長期に運営できるのである。そして、変事が募って、変事が当然になれば、国家は崩壊するのである。民間企業も、概して同様の規律で動いているが、ここでは、圏外なので、深入りしない。

 岡田氏が、事態の底流を見過ごしているのは、氏が、夙に指摘されているように、「近現代日本人は、二千年後世の無教養な東夷であって、三世紀当時の教養を有する知識人/官人でない」ので、無理ないものと思うが、史書に記録されているのは、その時代の国家上層部官人の視点で概括されたものであり、その概括の際に、当然国家視点にとらわれることはあるだろうが、丁寧な考察によって底流を見通せば、帝国の基礎は不偏不党であることが見えるはずである。私見御免。

*史官の本分
 そのような、往々にして語られることのない自明事項を抜きにしても、「正史編纂に際して、史官は、原史料を編集操作する」との「予断」は、深刻な誤解である。一歩踏み込めば、「徹底的に謹厳な史官は、徹底的に編集操作する」と断罪しているものである。

 誠に惜しいかな、岡田氏は、『「史官」の職務、天命に疎い』のであろう。ことは、(中国)史学の視点からは、「自明」であるが、ここで再確認すると、「史官」の「史実」は、第一に、帝室書庫に厳正保管されている「皇帝の承認を得た公文書」であり、「史実」を順当に承継するのが天命であって、小賢しい編集是正は「論外」である。原史料たる公文書資料は、いわば「史実」の根幹であるから、批判も是正もせずに、あくまで史料に忠実に史書を編纂して「後世」に伝えるのが『鉄則』である。

 このあたり、時代錯誤の「後生東夷」は、総じて、史官の責務の本質と重みに 気づいていないようで、困ったものである。
 正史編纂者の「深意」を知らずに、的確な史料解釈ができるはずがない。

 当時、「世界一」の文筆家である編纂史官が、『後生東夷に容易に見て取れるような「不備」に気づかないはずがない』のは明らかである。気づいていて、記事のほころびを繕わなかったのは、それが、史官の使命に反するからでは無かったかと思われる。つまり、史官は、公文書史料に改訂を加えず、要点を割愛せず、その上で、最低限の補筆を行うことにより、「史実」の承継に全力を費やしたと見るべきではないだろうか。
 当然、皇帝以下の有司高官も、史官の志が帝国の権威の証しであると承知していたから、史官の筆に手を出さなかったのである。漢武帝は、司馬遷の執筆に干渉して、自身と実父の帝位一代記を持ち去り以後執筆を禁じたため、千載どころか二千年先に至っても「不朽の悪名」を醸したのである。従って、これほど「表立った」干渉は絶後となったのである。

*不可侵資料
 公文書史料の基本として、当代、前代に拘わらず天子が認証した公文書は「不可侵」が、当然の大原則である。史官がこれを改竄したとする岡田氏の暴論は、「史論」上論外とせざるを得ないのである。
 ここで「史論」とは、当然「中国」であって圏外の蛮夷は含まない。当代天子は、前代天子から禅譲を受けたものであるから、公文書の「不可侵」原則も、維持しなければならないのである。
 断り書きしていないが、議論しているのは、三世紀、後漢魏晋代までの話である。晋代でも、西晋崩壊以降は、論義の外であり、当然、以後の劉宋以下も、同様に維持されたものかどうかは「わからない」。
 又、魚豢「魏略」は、曹魏の「正史」たらんとして編纂したものではないから、その思うところは「不確か」である。魚豢の筆は、当然、曹魏天子の視点であり、蜀漢宰相諸葛亮は、極悪非道の罪人であるから、そのように「偏向」していたことは、知られている。

 岡田氏の論考に戻ると、氏は、事ごとに明言されているように「中国」視点を志すものではなく、時に「天子と蕃王の交渉」なる時代錯誤で的外れな創作夢想を採用されているが、「倭人伝」論においては、そのような対等外交幻想は、論外とさせていただくのである。また、氏は、屡々、豊富な異世界/時代見識を掲げられて、ご自身がよくわかっていない三世紀中国史料の厳正さに、バラバラと疑念を振りかけていらっしゃるが、それでは、表層的な意見にとどまるから、時代の根幹に妥当な根拠を持たず、風が吹けば消し飛ぶものにとどまっている。勿体ないことである。

 以上、あくまで一例であるが、氏の墜ちられた陥穽は、ご当人に認識が無くても、それ以外の箇所でも、気づかないままにくり返し墜ちていると見て取れる。例えて言うなら、体中、痛々しい打ち身とあざだらけであるが、誰も看護しなかったようである。誠に、誠に勿体ないことである。

弐 大月氏/貴霜国の真相  126ページ
 第二例として、後世東夷の知りうるはずもない、三世紀曹魏/西晋首都雒陽の「政治的」な事情を、見てきたように、付加、粉飾されたので、折角の論義を形無しにする蛇足となっている。威勢が良い一刀両断を振るわれたので、少なからぬ読者の強い支持があって、屡々引き合いに出されるが、素人目には、一つの「虚構」と見える。
 合わせて、「陳寿が、史実を改竄した」と重大な非難が浴びせられているのである。

*見過ごされた見解撤回
 本書の谷間で、氏は「魏志に西域伝がないのは、倭人は新規、大月氏は旧聞で陳腐のため」慧眼を呈されている。ここで氏の示された卓見は、大向こう受け狙いの『大見得』とは無縁で冷静であり、一刀両断などではない。ここで、氏は、世上に溢れている陳寿の冤罪を雪がれたのである。そのような重大な提言が、ご自身の前言の余韻に打ち消されて、俗耳に通じないままに、読み過ごされているのは、勿体ないことである。

 本書に、前言撤回発言はないが、岡田氏の業績を総括する本書であるから、これは、決定的翻意、玲瓏晩節と見る。
 自然、『「倭人伝里程は月氏問題に無関係」の判断が高らかに示されている』のであるが、旧著御免で該当部分を遡行改訂はされていないから、見かけ上、一世風靡した武断は、燦々と健在である。

 と言うことで、当発言は、本来画期的な一大提言であるが、それ以降も、岡田氏の往年の壮語が、赫々たる偉業として語られているのは、岡田氏の本望なのかどうか、素人目には不審である。

 素人目には、大月氏は、元来匈奴と共に北辺侵略の盗賊で、西域亡命後も後漢西域都督に執拗に反抗し、ついには、西域から全面撤退させた主犯/元凶である。亡命寄宿先の貴霜国を併呑したか、されたか、盗賊国家か否か、大月氏の印綬を引き継いだか、盗んだか、まことにうさん臭いが、魏朝は、とがめ立てせず、奉っている。まさしく、「盗っ人猛々しい」というところである。
 長年、西域から退いていた後漢/魏は、暴れられるとうるさいので、手っ取り早く賓客扱いして懐柔したに過ぎない。

 破綻した後漢の西域都督を継承した曹魏は、西域の入口である河西回廊を占めた涼州の反乱、自立を平定できず、後には、涼州と蜀漢の連携で、さらに後退を余儀なくされていたので、「西域政策どころではなかった」のであるから、「涼州勢力を挟撃する大包囲作戦」として、「西方に友好大国ありとの虚構を構えた」と見えるが、むしろ滑稽極まる「誇張」の一幕と見える。
 いや、岡田氏は、当然そんなことはとうの昔にご承知のはずである。

 陳寿は、この悪漢に、大層な金印を授けた魏朝の愚行/不名誉の極みを隠したとも見え、岡田氏は、西域事情に疎いため、そのような背景を「軽視」したとも見える。大家の内心は、素人の知りうることではないから、何を言っても、やじうまの中傷と取られるかもしれない。

*対等の西域大国「安息」、「パルティア」

 因みに、西方で、漢が唯一敬意をもって接していたのは、その西の「安息」である。
 何しろ、班固「漢書」西域伝によれば、「パルティア」は、今日で言うイラン高原からメソポタミアにかけての広大な国土に、騎馬文書使が疾駆する街道と宿場を置き、皮革紙に横書きする文字、文書の「法と秩序」の世界であって、専守防衛の要として、その東界に当たる安息メルブ要塞に二万の大軍を常駐して、大月氏の再来に備えていたいたから、西域に溢れる小蛮夷などではなく、班固「漢書」「地理志」は、西域「諸国」で「唯一」敬意をもって、メソポタミアにあったパルティアの首都を「王都」と尊称していたのである。因みに、当時二万の大軍の半ばを占める一万人は、西方メソポタミアに侵略を企てた共和制「ローマ」の大軍を大破して降服させ、戦時捕虜として収容した者を、東部国境に移送して、この重鎮の守備の半ばを託したのである。方や、大月氏は、西域に到達した際に、騎馬軍団の急攻により、安息国を侵略、掠奪し、親征した国王を殺害した前歴を有しているから、只事ではないのだが、それは、漢書も後漢書も触れていない。

 ちっぽけな東夷の新参者は、別の意味で対等の筈がない。いや、釈迦に説法であったか。

◯まとめ
 かくのごとく、氏の史眼の理知的で広範な見識を活かす提言を模索したが、氏が知悉した異世界/時代の多大な見識は、氏を、却って三世紀中国の理解から遠ざけたようであり、誠に勿体ない。いや、「史書」を熟読されてはいるのだが、氏の世界観が、当時の中国の現実に適合整合していないので、見当違いの解釈になっていると見て取れるが、それ以上深追いしないのは「武士の情け」である。

 それにしても、思いがけない回天の兆し/好機であった第二例は、氏の深意に従い「大月氏」を倭人伝の道里「誇張」、陳寿改竄説の根拠とするのを、「ひっそり」と、しかし歴然/決然と撤回するのが、後継者が氏の晩節/名誉のためにとるべき「務め」と考える。


 賢明な読者諸兄姉には自明と信じているが、しばしば、一部の読者に当ブログの深意が誤解されるので、念のため追記しておくと、本稿は、岡田氏の偉業を賞賛するものである。大家の所説の一角を、敢えて公然と否定するのは、細瑾は、所詮細瑾であると指摘しているだけなのである。

 岡田氏以外にも、高名無比な大家の後継者が、大家の誤謬を取り繕うばかりで、いたずらに、大家の瑕疵を永続させているのを見ることが「少なくない」が、学問の道で、学恩に真に応えるためには、大家の誤謬を敢えて指摘/訂正する「忘恩の挙」に挑むのが、真の報恩であるように思うのである。

                                以上

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