« 新・私の本棚 岡田 英弘 著作集3「日本とは何か」 倭人伝道里 新考補筆 | トップページ | 新・私の本棚 「唐六典」「水行」批判と「倭人伝」解釈 三新 6/7 »

2023年4月 8日 (土)

新・私の本棚 「唐六典」「水行」批判と「倭人伝」解釈 三新 7/7 結語

 初稿 2019/07/14 改訂 2020/10/19, 2021/12/27 補充 2022/09/26 2022/11/10 2023/04/08

*あり得ない「沿岸」の旅~念押し
 万一、郡から狗邪韓国までの行程が、倭人伝に明記どころか、示唆すらされていない長期間、つまり、一日の範囲で収まらない、「海岸沿い水行」であったのなら、この間を「水行」何千里、何日と明記し、かつ、主たる寄港地を明記しなければ、行程明細の無い、杜撰な記事であり「道里」記事の用をなさないのです。況んや、行程に空前にして天下唯一の「海岸水行」道里があったら、当時最高の史官たる陳寿が、画期的で異例の行程を詳しく書き残さないはずがないのです。

*「海岸」沿いの不合理、棄却~念押し
 因みに、「海岸」も「沿海岸」も陸地であり、「海岸沿い」は「陸行」しかできないので「実行不能」です。正史解釈は、常に厳密とすべきです。
 古代史素人の一日本人の考えで恐縮ですが、「倭人伝」記事の「循海岸」は、岸を「盾」に「彳(行)」く「渡海」を、特に「水行」と「定義」しているのです。それなのに、史官の苦心凝縮の定義の真意を無視して「沿」海岸水行と、当時存在しなかった概念をねじ込む、力まかせの「読み替え」が通例です。要するに、問答無用の「改竄主義」であり、いくら無教養の素人談義でも、未来への展望の見えない困った事態です。確かに、古代人は反論できないので、「満場一致」の多数決のように見えますが、それでいいのでしょうか。

 仮に、「海岸沿い」を、史官が想像もしていなかった、「海岸付近から遠ざかった沖合の海中」と捉えても、岩礁や遠浅の浅瀬を「難なく」突っ切って一路航行することなど到底できないのです。(危ないとか言うものでなく、遭難必至です)諸兄姉の中には、多島海のただ中を突っ切る進路を描いて、恬淡としている例までありますが、当時の現地で同じことをすれば、一日として無事に済まないのです。

 また、引き続き断固「狗邪韓国に到る」と読むと、想定されているまで無理矢理進んだとして、その地点から対海国に渡海するのが、とてつもない、海流に反航する無理な逆戻りであり、自然の摂理である海流に反して至難/不可能な行程になります。
 当方が棄却している思いつきなので、途方もないよそごとながら、せめて実現性を言うなら、「倭人伝」に書かれている「狗邪韓国」寄港など、虚構として無視して、半島南岸を東方に進んで、海流に乗って対海国西岸に直行するのが、海人として無理のない当然の行程と見えます。後世の隋書「俀国伝」で、外夷への行人/使節として任じられ、隋の下級文官「文林郎」から起用された隋使裴世清は、素人ながら、半島南岸には立ち寄らず、一路対海国に直行しています。魏志を熟読して沿岸航路と理解していたら、断固、狗邪韓国に入港していたはずですが、下調べで、そのような廻り道は排除していたものと見るものです。

 重ね重ね、以上は、「倭人伝」道里行程「問題」に対する不審な「落第解答」です。これでは、百人が百通りに解答しても、全滅しかないのです。つまり、「倭人伝」の行程では、狗邪韓国海岸は、郡を発して以来、一路街道を南下して到着すると理解するのが「普通」であり、そう考え直すだけで、大勢の中から救済される勇者が出るのです。

*持続可能な事業形態の模索
 因みに、当ブログ著者の意見は、狗邪韓国~対海国~一大国~末羅国の三度の渡船は、それぞれが、最高最強の漕ぎ手を備えた軽量高速の定期便であり、一航海を終えて寄港すると、漕ぎ手がそっくり入れ替わって、新たな漕ぎ手で帰り船に挑むという解釈です。
 そもそも、渡船は、専用の軽装備で、甲板も、船倉/船室も、厨房設備も、大きな水樽もいらず、とにかく、『軽量の船体とそこそこ屈強な漕ぎ手で便船を仕立てて、荷物を少しでも多く積み、そして、短時間で完漕する』のが、海人ならぬ素人の見解です。たかが「渡し舟」について、別に、深刻に審議する必要はないのです。

 対馬で言えば、西岸の浅茅(あそう)湾に入った渡船はそこまでであり、「船荷を担いで陸越えした後、渡船を代えて先に進む」のですから、まことに、「地形の妙」と見えます。海峡越え専門の屈強な「上漕ぎ手」は北の中継港で下船して休養に入り帰り船に備える決まりであり、そこからは、「並漕ぎ手」に交代したとも見えます。要するに、「適材適所」という事で長年運用できたのです。

 以下、二度の渡海も、毎度、細かく乗り継ぎすれば、誠に無理のない運行です。一貫漕行「マラソン」完槽と決め込むと、海峡越えを漕ぎきれる「上漕ぎ手」の疲労が回復されず、業として持続できないことになります。太古以来、「駅伝」/送り継ぎが常識だったのです。
 もちろん、「野性号」冒険などで掲げた一千㌔㍍(?)完全制覇などと言うと、「できなくて当たり前」の冒険になってしまいます。

 一大国から末羅国への渡船の行程は短いとは言え、「上漕ぎ手」は、早々に交代して休養に入るのが上策であり、そのまま長々と、「難船しやすい沿岸を無駄に南下するはずはない」のです。何しろ、そのように漕ぎ伸ばした場合、帰り船は、難所にかかる前に延々と難船しやすい沿岸を漕ぐことになり、誠に不合理です。

 このあたり、沿岸水行と一貫漕行の度しがたい「不合理」を糾弾するための考察であり、「愚行を救済する」つもりで書いているのではないことは、くれぐれもご理解頂きたいのです。もし、各論者諸兄姉が、当方の「常識的な解釈」に異を唱えるのであれば、明確な論拠を示して頂きたいものです。それが、正史記事の普通の解釈に対して、堂々たる異議提示者に不可欠な義務です。

 念年には念を入れると、素人考えとして「倭人伝」は、子供じみた「半島半周」も、島巡りも謳ってないのです。
 
*「従郡至倭」の深意
 素人目には、書き出しで「自郡」でなく「従郡至倭」と書いた意図は、「郡から倭に行くには南東方向にまっしぐら」の形容と見えますが、「従」なる一字の意義が見過ごされています。「従郡至倭」は、単に、行程の始点、終点だけではないと見るものです。字義を丁寧にたどると、「至倭」とは、そのように進めば到着する、と明示しているものと思われます。
 陳寿の深意を案ずるに、後段の「自郡至女王國」「萬二千餘里」と違う形容を採用しただけではないと見るのです。史官の寸鉄表現を、二千年後生の無教養な東夷の素人考えで改竄するのは禁物と思うのです。

*明解な渡海
 ここで復唱しているのは、「倭人伝」限定の地域表現で、「従郡至倭」行程で、渡海を「循海岸水行」と宣告したのは、中原で普通の、橋の無い河川で街道を繋ぐ渡船と同様で説明不要と言う趣旨です。後の「参問周旋」記事では、渡海は対岸まで順次(海中「山島」でなく)大海(大きな塩水湖)の海中「州島」を辿ると念押ししているのです。

 太古由来の古代世界観では、「倭人」の在る山島を包含した「大海」は、「倭」と呼ぶべき「海」であり、韓地が南で「倭」と接していると書いたときは、「大海と接している」と書いたと見るべきです。
 また、「狗邪韓国」は、「大海」つまり「倭」と接しているので、「その北岸」は、『「大海」、「倭」の北岸』と見ると筋が通るのです。それでは、半島南部が「倭」の領域であったとする俗受けしている世界観と衝突しますが、少なくとも、郡を発して一路南下している道里行程は、狗邪韓国の南部海岸の崖で大海を望む「大海」世界観で書かれていると理解する方が、随分、筋が通ります。

 丁寧に書き付けると、当時の中原人読者は、決して、現代地図にあるような水陸の認識はできていないのです。また、帯方郡官人が、ある程度、半島南部の陸地形状を認識していたとしても、中原人読者の認識を超える異例の地理観なので、内陸奥地の蜀漢で育って、中原で仕官した陳寿が書き上げた「倭人」地理観には入っていないのです。何しろ、蜀漢は漢の後継者なので、中原世界の世界観を維持していたとみるべきなのです。

 陳寿の深意を、「二千年後生の無教養の東夷」が察するのは、大変困難ですが、丁寧に説きほぐし噛みしめることで、一歩ずつ近づけると信じているのです。何しろ、「倭人伝」に書かれた深意は、まずは、「倭人伝」を精読することから察するべきであり、「どこの誰が、どんなつもりで、いつ書いたかも知れない、遠隔の用例」は、いくら数多く集めようとも、大半は、「ジャンク」同然であり、数を山積しても、目方を稼いでみても、深意の手がかりは、まずは得られないのです。

〇倭人伝道里記事の意義
 当たり前で、やり過ごして来ましたが、「従郡至倭万二千里」道里記事の大要は、新参蕃王から郡への文書連絡の所要日数「水陸四十日」の根拠を明記した「実務本位」の記事です。(「万二千里」の由来は、別項で論じたので割愛します)

 倭人伝道里行程記事は、正史版夷伝の根幹ですから、しばしば倭人伝道里論で書かれているような、初回使節訪問の不確かなお手盛り「出張」報告書でもなければ、時代錯誤の遊び半分/冗談半分の旅行案内でもないのです。
 世間には、自分の思い込みを押しつけようとしている、例え話のできない現代人論者が懸命に書き上げたホラ話が出回っているのです。当方は、その手の言い包めには、端から疑念を抱いているので、素人読者を騙そうとする底意が見え見えであり、論者に対する不審感を募らされているものですが、何事も、頭から信じてしまう素人さんには、結構受けているのかと懸念しているのです。

 丁寧に指摘すると、無責任なホラ話は、健全な常識を働かせれば、容易に排除できるはずです。そのような意見を臆面もなく公開する論者は、ブラックリストに載せて、以後、真面目に聞き入らないようにしましょう。

 ホラ話が、耳鳴りするほどうるさいときは、席を立って顔を洗って出直しましょう。それで、「論争」は、随分大人しい物になります。

*箴言確認
 『「倭人伝」は、古代中国人である史官が、古代中国人である読者のために、古代中国語で書き記した公式文書です』

 古代の史官は、古代史官にとっての学識/常識に従い、現代人の「常識」など一切知らないのです。先入観、勝手な「思い込み」は禁物です。この点、先賢諸兄姉に始まり、伝統的な勘違いが、難なく継承されていると見受けるので、しつこく喚起した次第です。
 ついでながら、「二千年後生の無教養な東夷」なる尊称は、岡田英弘氏が、「堂々たる正史「魏志」に対して、現代日本人が罵声を浴びせている惨状」に対して、快刀乱麻の表現を物したのに、結果として倣うものであり、当ブログ筆者の勝手な独創の造語などではないのです。よろしく、ご了解ください。

                               以上

« 新・私の本棚 岡田 英弘 著作集3「日本とは何か」 倭人伝道里 新考補筆 | トップページ | 新・私の本棚 「唐六典」「水行」批判と「倭人伝」解釈 三新 6/7 »

新・私の本棚」カテゴリの記事

倭人伝道里行程について」カテゴリの記事

倭人伝新考察」カテゴリの記事

コメント

 今福殿。
 度々のコメントありがとうございます。
 非礼かとも思いますが、これが最後の覚悟で、特に念入りに反応しています。本当は、反論としたいのですが、貴コメントには、論理が見えないので、そう言い切れないものです。
 最初の文から当方の回答の深意を読み損ねていて仰天します。まず、当方は、別に貴兄の生徒でもなんでもないので、試験問題を提出頂いて解答する義理はありません。大事なことなのでご理解頂きたい。
 また、純朴に「陳寿の漢文を正しく日本語訳」することが可能と信じていらっしゃるのには絶句します。ここで対話している二人ですら日本語のばらつきが解消しないのに、一般人に普遍的に通じる「正しい」日本語訳などあり得ないと思うのです。貴兄好みの日本語で書けと言う事でしょうか。素朴に意見として、陳寿の記述を正確に理解するには、まずは、陳寿の真意/文意を理解する事が必須だと思うのですが、貴兄は、どのような技術で、漢字のずらずら並んでいるものから意味を汲み取るのでしょうか。
 次に重症なのは、文章読解には、筆者の深意の理解が肝要という素朴な提案さえ言下に拒絶されることです。そして、懸命に陳寿の編集方針を推定したのを当方の自己弁護(?)と断じていることです。まことに不可解です。
 糊塗は現代語ではないのですが、お肌にコンシーラーを塗りたくると解しますから主旨不明ですが、当方は貴兄の用語を学ばないといけないのでしょうか。論議は論理で進めるものではないのでしょうか。
 業界人の当然の知識かどうかを聞かれても、当方の生徒でもないから理解度は把握していませんので返事できません。NHKにでも世論調査を依頼されたらいかがですか。「水」など多くの文字の意味が日中で違うことは、中国語初学者が習うことだと思いますが、貴兄が運悪く習わなかったとしても、世間にかこつけてご自身の知識不足を自嘲するものではないのですよ。(糊塗とか屁理屈だとか反則攻撃を連発するから、反撃した冗談ですよ)
 毎度ながら、当方の中国語古文の理解力などについて講釈頂くには及びません。貴兄がそのように妄想されるのか不可解です。当方だけが堂々と意見公開している状態で一方的に評価、査定して頂く必要はありません。(他人から、この手の嫌みを言われるのが、隠れた趣味なのですか)
 当方が主旨を理解できないと率直に告白した「屁理屈」を平然と持ち出すのは無神経の極みですが、自爆発言に過ぎないので愚痴り返すことにします。当てこすりは、鏡に向かって自問されたらいかがでしょうか。(ということです)
 なお、随分噛みつかれていますが、当方は中島氏の見解は万全で無いと言っただけです。貴兄の住む精神世界ではそれすら許されないのでしょうか。中島氏が「浅慮」なる言葉を自身の脳内字書で解釈して、ご自身でけしからんというのなら別ですが、なぜ、脳内に別の字書を持っているはずの第三者が激高するのか不可解です。また、中島氏著書の書評に激高されるならともかく、言及しただけの記事に真っ向から噛みつかれると、(空恐ろしさに)鳥肌が生じかねません。(この言い回しを起用した意味わかりますよね?)
 因みに、当方は、古田氏の倭人伝旅程論が全面的に正しいなどと言ったことはないのです。また、半島沿岸航行論は、定説に近いため、多項目傍証付き論難を行っていますが、それは、怠惰に自明事項を無視しているのを論難しているのであって、だれかが反対しろといった指示を受けているものではないのです。
 この件の古田氏諸説批判、特に後半は、貴兄の独自の解釈であり、当方のブログ記事のどの点をどう批判しているのか理解に苦しみます。
 貴兄が古田氏所説全般に通暁しご自身の精神世界に適用して是々非々の見地から卓越した持論を形成されても、それは貴兄の意見であって古田氏の所説そのものでなく、当方が古田氏の所説をどう理解するかは当方の自由です。
 自明事項を指摘するのは何ですが、「地域」性は、「特殊」性の一種であり、あらゆる法則には例外があるという普遍的な「真理」の平明な表現に過ぎず、例外に厖大な例証などないのは自明だから、てんこ盛り、特盛りでよこせと言われても、ご冗談でしょうというしかないのです。
 貴兄の捨て台詞は、部分的には、当方の自説と同様ですから、多くは言いませんが、「批判」と非難は、全然別の言葉と意識されているのでしょうか。当方の「自説」は非排他的ですから保身は不要です。ご安心ください。
 弥名残惜しいですが、丁寧に言っても、当方の深意を理解していただけない場合は、それ以上はお互いの時間の無駄なので、適宜閉店させて頂くことにしています。
 なお、近々、中島氏の著書の書評を拡大再公開しますので、場違いな八つ当たりはこれぐらいにして、実記事をご笑覧いただいた上で、論議はそちらにお願いします。

以上

返信をありがとう。

 まず、貴方の問題は、陳寿の漢文を正しく日本語訳しなければ、陳寿の意図を第一に文献を読むなとと言いますが、それはとうてい無理だということを考えるべきです。
 たとえば、貴方は「陳寿は、倭人伝編纂にあたり、帯方郡作成の原資料の扱いに困ったものの、史官の本分に従い、勝手な改竄はせず、地域独特の特殊な用語、概念は、冒頭付近にそれとわかるように明記し、つまり、それらの「地域性」を明々白々にした上で「伝」としてまとめたもの」などと言う陳寿の意図として述べていますが、この解釈は単に自説を糊塗するための屁理屈論だと思いますよ。
  それから、 「水行」が古代中国漢文で「河川の旅」であることを中島氏だけでなく誰でもすぐわかるというようなことを述べていますが、中島氏が述べたから、貴方は中国漢文では「水」は「河川」の意味だなと分かって、これは中国漢文で常識だと理解したのであり、現在の日本の文献学者や考古学者が、中国漢文の「水行」を「河川の旅」と知っている方が何人いると思いますか。
 他に、貴方は中島氏を浅慮などと述べていますが、氏は「循海岸水行」という文章は「海岸に従って遂行し」という日本的な読み下しが誤訳だから「水行」は海とは無関係と述べており、単に古代中国漢文では「水行」は「河川の旅」という根拠だけでなく、「魏志倭人伝」の文章から論証している。氏は、「循海岸」は簡潔文であり「海岸を歩いた」という意味であるから、「水行」は「循海岸」とは無関係であると論評し、あなたの信じている「海岸に従って水行し」という読み下し訳は誤訳としている。
 あなたの思い込みのような推論(たとえば、陳寿はそれらの「地域性」を明々白々にした上でなど)で、自説の正当性を述べているのだが、どちらの姿勢が正当なのかということです。
 陳寿の意図などと言うものが、貴方にそう簡単に容易にわかるはずもないと思うべきですよ。
 ですから、 「魏志倭人伝」の「水行」だけは地域性の文句だなどと言うのは、論理性や客観性から屁理屈だと思いますがねー。自説を糊塗する。
 あなたは古田氏の朝鮮半島の陸行説を何とか自説として述べたいという気持ちが強いのでしょう。
ですから、あなたが中島氏の論証を浅慮などと言うのは古田氏が正しいと述べているのと同じでしょう。しかし、当時の古田氏は「水行」を「河川の旅」などとは全く知らなかったのですよ。あなたは誰でもわかると言いながら。だから、古田氏は「循海岸水行・・・」を海を航行して、それから、朝鮮半島を陸行したという説を述べた。それから、古田氏は不弥国からの「水行」が理解できない(海の航行では何千里も遠くになってしまう)ので、放射式記述を取った説を述べた。それから「船行一年」を海の航行と定義し、南アメリカなどとした。
 いずれにしても、自説を述べるときに地域性などと言う特殊性を根拠とするには、膨大な傍証が必要ですので、相手を批判、批難するのは慎重にすべきでしょう。
 
 

 今福殿。折り返しのコメントありがとうございます。
 今回は書いて出しでなく、ちゃんと時間と手間を掛けて推敲して頂いたようで、重ねて感謝します。
 当方の文献解釈の見方は、文献は文献自身の(著者の)意図を解して読むのが第一であり、同時代、ないしは、先行する時代の「教義」に頼るのは二の次というものであり、これは、解釈手順として、大変普遍的なものと信じますが、これが「日本」的なものかどうかは、見聞の狭い当方にはわかりません。
 別の箇所で「屁理屈」と指摘されていますが、他人の思考を「屁理屈」で片付けるのは、まさしく「日本的」「屁理屈」であり、ちゃんと相手の言い分を解して、このような自爆発言を抑制されたら良いと考えます。当方は、年だけ食っているものの、古代史学界の論争の相場を知りませんので、自分の理解する語義をもとに、以上のように思量します。
 ともあれ、当方の自説の一端を先ほど開示しましたので、貴兄の勝手に決めた意見はご勘弁頂きたい。
 当方が近来述べているのは、陳寿は、倭人伝編纂にあたり、帯方郡作成の原資料の扱いに困ったものの、史官の本分に従い、勝手な改竄はせず、地域独特の特殊な用語、概念は、冒頭付近にそれとわかるように明記し、つまり、それらの「地域性」を明々白々にした上で「伝」としてまとめたものと解しているのです。
 史記、漢書はもとより、三国志全体も読まなくても、当時の読者は、まず、文献自体を知的に精読したはずであり、現代の「日本」人ですら気づくような、倭人伝の独特な語法に気づいたはずです。素人考えの極みですが、何しろ、かの張明澄氏も、季刊邪馬台国誌の連載記事で、この点をたちまち見ぬいて指摘しているのですが、張氏は、古田氏を、某アイドルに例えて芸がない、国際的に通用しないなどと評して延々と揶揄するほど、奇特に鋭利な視点を誇示していたのは周知ですが、真顔の時は慧眼を呈していたのです。
 本題に還ると、おっしゃる議論は、初心者向けの浅薄な講釈であって、現実の文献の書かれ方を解していないものと見ます。とは言え、貴兄が自説に固執され、世論を巻き込んで孤説に対しての論議に勝とうとしているのは、むしろ当然ですが、議論のこちら側としては、年代物の手前味噌の押しつけは控え目にして、論議は論理的にお願いしたいのです。
 ということで、以上が当方の自説ですので、よくご理解頂きたい。
以上

 コメントの返信、ありがとうございます。

 あなたの「地域水行宣言」を読み落としているという視点ですが、尾関かおるさんのやり取りなどでも知っていました。この説の一番の問題は陳寿の「魏志倭人伝」というのは洛陽の都などの文人や史官が読むものとして陳寿は書いており、文句(水行)が(地域の)特殊性があるようなものでは中国の当時の文人や史官では「魏志倭人伝」が理解できないということになります。あくまでも『三国志」と言うのは中国の人々のための史書で、彼らが考えている「水行」=「河川の旅」という意味で陳寿は「魏志倭人伝」を書いているのは明白と見るべきでしょう。その意味では、あなたの「魏志倭人伝」理解は日本的な屁理屈論ともいえるでしょう。貴方も良く理解していると思いますが、陳寿『三国志』はあくまでも中国の史書であり中国の一般の文人や史官が理解できない特殊な定義の語句は使いません。これら常識の範囲です。
 それから、、古田氏に対して、「低俗で従来と変わらずできておらず」との述べたのは、貴方と同様に全否定をしているものでなく、次のようなことからです。氏は日本的な放射式記述説を採用し、邪馬台国が伊都国だとか、「船行一年」を従来の愚かな説「船で一年乗っていき」と言う説を採用し、南アメリカの事だとか述べていることです。古田氏は文節の間違いなどを指摘せず、従来の訳文(読み下し)を、そのまま採用(あなたも同様)して、誤記問題しか光を当てておりません(ただし、当時は、この問題は大きいもので古田氏の誤記問題は優れており評価はしている)。
 あなたは自説といいますが、重要なところは、貴方の自説は古田氏の述べた内容を補うというもので陳寿が「地域水行宣言」をしているなどとしているだけでしょう。その根拠は無い。あなたが文節の間違いなどまで論じられているなら良いですが。
 その意味で、古田氏の世界から脱皮する必要があると述べた。古田氏に何の悪意もありません。客観的に述べただけです。

 今福殿
 貴重なコメントに感謝します。
 当方の今回の記事に関し、かなりの部分が古田氏についての酷評で、何を言いたいのか理解に苦しみます。貴兄は、おそらく、洗面台で目前の人影に向かって愚痴をこぼしているようですが、当方は、そのような幻影は見ていないので、何のことやらわからず、言うだけ無駄です。
 例えば、古田氏に対して、「低俗で従来と変わらずできておらず」と決め付けていますが、故人の考えが今になって変わるはずもなく、自身の拵えた仮想論敵を非難しているように見えます。当方に無縁です。
 当方の近来の意見は、「誰でも欠点はある」です。ここ暫く、古田氏の所説の根底にある重大な誤解を糺していますが、故人の厖大な論考を全面否定するものではありません。
 「邪馬壹国」論議で、中島氏による、「水行」が河川航行であるという指摘は貴重ですが、太古以来自明の事実を、漢文に関して厖大な知見を有する諸賢が知らないはずはなく、自説の邪魔になるので無視してきただけです。
 因みに、古代史初心者である当方は、中島氏の著書書評にこと寄せて自説を書き立てるために花を持たせただけで、水行を論じるものが自然に気づいている(はずの)初歩的事項に過ぎないのです。
 当方の当面の結論は、中島氏の理解は浅慮であり、倭人伝解釈にあたっては、「循海岸水行」、つまり、倭人伝において、「水行とは、海岸に沿った航行を言う」、という「地域水行宣言」を読み落としているという旨述べています。これは、漢文読解力の問題でなく、文章読解力の問題です。
 当記事に述べた唐六典に対する意見は、中原王朝の国家制度として沿岸航行が官道として利用されていた形跡が全くない、という論点に利用しただけであり、寄港地など、不可欠な沿岸使節が整備されていない半島沿岸「海路」を、魏使が利用することはあり得ない、というものです。よくよく聞き分けてから批判頂きたい。
以上

 追記、
 以前のあなたの『甦る三国志「魏志倭人伝」―新「邪馬台国」論争への道 』(中島 信文 | 2012/10/1)の書評では、本に書いてある「三国時代くらいまでは中国ではまともな海洋航行は無かった」という中島氏の説明に大いに反論していましたが、
 ここでは、「つまり、五世紀を経た唐代に到るも「海路」は無かったのです。そもそも、官道に比定できる「海路」の用例は魏晋南北朝含め、存在しないのです」などと述べているように、中島説と同様のことを述べている。このような点を考えたら、今、唐六展などで解釈をしているが、今までのあなたの「魏志倭人伝」理解は数段、中島氏より劣るかもということも考えて中島氏作品を読むべきでは。

唐六典の「水行」記述については、『甦る三国志「魏志倭人伝」―新「邪馬台国」論争への道 』
(中島 信文 | 2012/10/1)』の作品で述べていますね。どうも、中島氏を無視して、ここは古田武彦氏を尊んでいるようですが、古田氏の「水行」などの解釈は低俗で従来と変わらず出来てもおらず、古田氏の「倭人伝」解釈というのは誤記問題くらいしか価値が無いし、古田氏の中国漢文の理解は中島氏より数段、劣ると言わざるを得ないでしょう。
 邪馬台国所在論議の鍵は、中島信文氏が解き明かした、この水行という文句の理解であり、そろそろ、貴方は古田氏から脱却すべきではないですかね。「魏志倭人伝」の解読は、知られていないが中島氏が今のところ最高の人物で、その点を有名とかではなく素直に認めて論じないと、近畿説が主流の今、まずいでしょう。古田氏の短里や長里などより、今は中島説を広めるのが重要では。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 新・私の本棚 岡田 英弘 著作集3「日本とは何か」 倭人伝道里 新考補筆 | トップページ | 新・私の本棚 「唐六典」「水行」批判と「倭人伝」解釈 三新 6/7 »

お気に入ったらブログランキングに投票してください


2024年5月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

カテゴリー

無料ブログはココログ