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2023年4月23日 (日)

03. 從郡至倭 - 読み過ごされた水行 改訂第六版 追記再掲 3/3

 2014/04/03 追記2018/11/23、 2019/01/09, 07/21 2020/05/13, 11/02 2023/01/28, 04/23
 おことわり: またまた改訂しました。そして、更に追記しました。3ページに分割しました。

*郡から狗邪韓国まで 荷物運び談義 追記 2020/11/02
 郡から狗邪韓国への行程は、騎馬文書使の街道走行を想定していますが、実務の荷物輸送であれば、並行する河川での荷船の起用は、自然なところです。
 と言う事で、倭人伝」の行程道里談義を離れて、荷物輸送の「実態」を、重複覚悟で考証してみます。
 以下、字数の限られたブログ記事でもあり、現地発音を並記すべき現代地名は最小限とどめています。また、利用の難しいマップの起用も遠慮していますが、関係資料を種々参照した上での論議である事は書いておきます。

 なお、当経路は、本筋として、当時、郡の主力であったと思われる遼東方面からの陸路輸送を想定していますから、素人考えで出回っているような、わざわざ黄海岸に下りて荷船で南下する事は無く、当時、最も人馬の労が少ないと思われる経路です。

 公式の道里行程とは別の実務経路として、黄海海船で狗邪韓国方面に向かう荷は、郡に寄る必要は無いので、そのまま漢江河口部を越えて南下し、いずれかの海港で荷下ろしして陸送に移したものと見えます。海船は、山東半島への帰り船の途に着きます。

 当然ですが、黄海で稼ぎの多い大量輸送をこなす重厚な海船と乗組員を、このような閑散航路に就かせるような無謀な輸送はあり得ないのです。まして、南下する閑散航路は、細かい舵の効かない大型の帆船の苦手とする浅瀬、岩礁が多いので、回避のために、細かく舵取りを強いられる海峡ですから、結局、帆船と言いながら、舵取りのための漕ぎ手を多数乗せておく必要があるのです。また、地域ごとの水先案内人も必須です。
 三世紀当時は、海図も羅針盤もないので、岩礁の位置はわからない、船の位置はわからないでは、岸辺に近づくのは、危険どころか、確実な破滅の道となりかねないのです。

 因みに、舵による帆船の転進は、大きく迂回はできても、小回りがきかず、特に、入出港時のように、船足が遅い状態では、ほとんど舵が効かないので、入港/出港の際には、漕ぎ手の奮闘で転進する必要があるのです。

 つまり、漕ぎ船と同様、寄港地を跨ぐ連漕は効かず、細かい乗り継ぎ/漕ぎ手交代が不可欠となります。
 と言うことで、半島航路に大型の帆船は採用されず、軽舟の乗り継ぎしか考えられないのであり、それでも、難破の可能性が大変高い、命がけのものと考えられます。

 一応、代案として評価しましたが、少なくとも、貴重で重量/質量のある公用の荷物の輸送経路としては、採用されないものと見えます。

*郡から漢江(ハンガン) へ
 推定するに、郡治を出た輸送行程は、東に峠越えして、北漢江流域に出て、川港で荷船に荷を積むまでの陸上輸送区間があったようです。郡の近辺なので、人馬の動員が容易で、小分けした荷物を人海戦術で運ぶ、「痩せ馬」部隊や驢馬などの荷車もあったでしょう。そう、駿馬は、荷運びに向かないし、軍馬として貴重なので、荷運びは驢馬か人手頼りだったものと思われます。とかく「駄馬」の語感が悪いのですが、重荷を運ぶのは、「荷駄馬」が、大量に必要だったのです。

 後世大発展した漢江河口の広大な扇状地は、天井川と見られる支流が東西に並行して黄海に流れ込み、南北経路は存在していなかったと思われます。(架橋などあり得なかったのです)つまり、郡から南下して漢江河口部に乗り付けようとしても、通れる道がなく、また、便船が乗り付けられる川港も海港もなかったのです。
 南北あわせた漢江は、洛東江を超えると思われる広大な流域面積を持つ大河であり、上流が岩山で急流であったことも加味されて、保水力が乏しく、しばしば暴れ川となっていたのです。
 郡からの輸送が、西に海岸に向かわず、南下もせず、東に峠越えして、北漢江上流の川港に向かう経路が利用されていたと推定する理由です。
 いや、念のため言うと、官制街道の記録を確認したわけでもなく、推定/夢想/妄想/願望/思い付きの何れかに過ぎません。

*北漢江から南漢江へ
 北漢江を下る川船は、南漢江との合流部で、「山地のすき間を突き破って海へと注ぐ漢江本流への急流部」を取らずに、南漢江遡行に移り、傾斜の緩やかな中流(中游)を上り、上流(上游)入口の川港で陸に上り、以下、一千㍍を超え、冬季には、積雪凍結の小白山地越えの難路に臨んだはずです。

 別の発想として、漢江河口部から本流を遡行して、南北漢江の合流部まで遡ったとしても、そこは、山地の割れ目から流れ出ている急流であり、舟の通過、特に遡行が困難です。(実際上「不可能」という意味です)
 と言う事で、下流の川港で、陸上輸送に切り替え、小高い山地を越えたところで、南漢江の水運に復帰したものと思われます。何のことはない、陸上輸送にない手軽さを求めた荷船遡行は、合流部の急流難関のために、難航する宿命を持っていたのです。
 合流部は、南北漢江の増水時には、下流の水害を軽減する役目を果たしていたのでしょうが、水運の面では、大きな阻害要因と思われます。

 公式行程とは別に、郡からの内陸経路の運送は北漢江経由で水運に移行する一方、山東半島から渡来する海船は、扇状地の泥沼(後の漢城 ソウル)を飛ばして、その南の海港(後世なら、唐津 タンジン)に入り、そこで降ろされた積み荷は、小分けされて内陸方面に陸送されるなり、「沿岸」を小舟で運ばれたのでしょう。当然、南漢江経路に合流することも予想されます。但し、それは「倭人伝」に記述された道里行程記事とは、「無縁」です。

 世上、「ネットワーク」などとわけのわからない時代錯誤の呪文が出回っていますが、三世紀当時、主要経路に人員も船腹も集中していて、脇道の輸送量は、ほとんど存在しなかったのです。
 因みに、当時山東半島への渡海船は、大容量で渡海専用、短区間往復に専念していたはずです。遼東半島と山東半島を結ぶ、最古の経路ほどの輸送量は無かったものの韓国諸国の市糴を支えていたものと見えます。

 と言うことで、漢江遡行に戻ると、山間部から流下する多数の支流を受け入れているため、増水渇水が顕著であり、特に、南漢江上流部は、急峻な峡谷に挟まれた「穿入蛇行」(せんにゅうだこう)や「嵌入曲流」を形成していて、水運に全く適さなかったものと思われます。従って、中流からの移行部に、後背地となる平地のある適地(忠州 チュンジュ)に、水陸の積み替えを行う川港が形成されたものと思われます。現代にいたって、貯水ダムが造成されて、渓谷は貯水池になっていますが、それでも、往時の激流を偲ぶことができると思います。

 そのような川港は、先に述べた黄海海港からの経路も合流している南北交易の中継地であり、山越えに要する人馬の供給基地として繁盛したはずです。

*竹嶺(チュンニョン) 越え
 小白山地の鞍部を越える「竹嶺」は、遅くとも、二世紀後半には、南北縦貫街道の要所として整備され、つづら折れの難路ながら、人馬の負担を緩和した道筋となっていたようです。何しろ、弁辰鉄山から、両郡に鉄材を輸送するには、どこかで小白山地を越えざるを得なかったのであり、帯方郡が、責任を持って、地域諸国に命じて街道宿駅を設置し、維持していたものと見るべきです。
 後世と違い、漢江流域は、「嶺東」と呼ばれる開発途上地域であり、万事零細な時代ですから、盗賊が出たとは思えませんが、かといって、宿駅を維持保全するには、周辺の小国に負担がかかっていたのでしょう。ともあれ、帯方郡は、漢制郡であったので、治安維持の郡兵を擁し、魏武曹操が確立した「法と秩序」は、辺境の地でも巌として守られていたとみるべきです。

 「竹嶺」越えは、はるか後世、先の大戦末期の日本統治時代、黄海沿いの鉄道幹線への敵襲への備えとして、帝国鉄道省が、多数の技術者を動員した京城-釜山間新路線の峠越え経路であり、さすがに、頂部はトンネルを採用していますが、その手前では冬季積雪に備えた、スイッチバックやループ路線を備え、東北地方で鍛えた積雪、寒冷地対応の当時最新の鉄道技術を投入し全年通行を前提とした高度な耐寒設備の面影を、今でも、しのぶ事ができます。
 と言う事で、朝鮮半島中部を区切っている小白山地越えは、歴史的に「竹嶺」越えとなっていたのです。
 それはさておき、冬季不通の難はあっても、それ以外の季節は、周辺から呼集した労務者と常設の騾馬などを駆使した峠越えが行われていたものと見えます。

 言葉や地図では感じが掴めないでしょうが、今日、「竹嶺」の南山麓(栄州 ヨンジュ)から「竹嶺ハイキングコース」が設定されているくらいで、難路とは言え難攻不落の険阻な道ではないのです。

*洛東江下り
 峠越えすると、以下の行程は、次第に周辺支流を加えて水量を増す大河 洛東江(ナクトンガン)の水運を利用した輸送が役に立った事でしょう。南漢江上流(上游)は、渓谷に蛇行を深く刻んだ激流であり、とても、水運を利用できなかったので、早々に、陸上輸送に切り替えていたのですが、洛東江は、かなり上流まで水運が行われていたようなので、以下、特に付け加える事は無いようです。

 洛東江は、太古以来の浸食で、中流部まで、川底が大変なだらかになっていて、また、遥か河口部から上流に至るまでゆるやかな流れなので、あるいは、曳き船無しで遡行できたかもわかりません。ともあれ、川船は、荒海を越えるわけでもないので、軽装、軽量だったはずで、だから、遡行時に曳き船できたのです。もちろん、華奢な川船で海峡越えに乗り出すなど、とてもできないのです。適材適所という事です。

 因みに、小白山地は、冬季、北方からの寒風を屏風のように遮って、嶺東と呼ばれる地域の気候を緩和していたものと思われます。

*代替経路推定
 と言う事で、漢江-洛東江水運の連結というものの、漢江上流部の陸道は尾根伝いに近い難路を経て竹嶺越えに至る行程の山場であり、しかも、積雪、凍結のある冬季の運用は困難(不可能)であったことから、あるいは、もう少し黄海よりに、峠越えに日数を要して、山上での人馬宿泊を伴いかねない別の峠越え代替経路が運用されていたかもわかりません。何事も、断定は難しいのです。
 このあたりは、当方のような異国の後世人の素人考えの到底及ばないところであり、専門家のご意見を伺いたいところです。

 因みに、当記事をまとめたあと、岡田英弘氏の著作を拝見すると、氏は、半島南北交通が竹嶺越えで確立されていたと卓見を示されているのですが、なぜか、郡使の訪倭行程を、俗説の海上行程と見立てていて、失望させられたものです。

以上

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