03. 從郡至倭 - 読み過ごされた水行 改訂第六版 追記再掲 2/3
2014/04/03 追記2018/11/23、 2019/01/09, 07/21 2020/05/13, 11/02 2023/01/28, 04/23
おことわり: またまた改訂しました。そして、更に追記しました。3ページに分割しました。
*「従郡至倭」の解釈 (追記 2020/05/13)
魏志編纂当時、教養人に常識、必須教養であった算術書籍「九章算術」では、「従」は「縦」と同義であり、方形地形の幅方向を「廣」、縦方向を「従」としています。つまり、「従郡」とは、郡から見て、つまり、郡境を基線として縦方向、ここでは、南方に進むことを示していると考えることができます。 いきなり、街道が屈曲して、西に「海岸」に出るとは、全く書いていないのです。
続く、「循海岸水行」の「循」は「従」と同趣旨であり、海岸を基線として縦方向、つまり、大海を渡って南方に進むことを、ここ(「倭人伝」)では、以下、特に「水行」と呼ぶという宣言、ないしは、「新規用語の定義」と見ることができます。
つまり、「通説」という名の素人読みでは、これを実際に進むと解していますが、正史の道里行程記事で典拠に無い新規用語である「水行」を、予告無しに不意打ちで書くことは、史官の文書作法に反していて、いかにも、読者を憤慨させる不手際となります。
順当な解釈としては、これを道里行程記事の開始部と見ずに、倭人伝独特の「水行」の定義句と見ると、不可解ではなく明解になり、道里行程から外せるのです。
*自明当然の陸行 (追記 2020/05/13)
と言う事で、中国史書として自明なので書いていませんが、帯方郡から狗邪韓国の行程は、明らかに郡の指定した官道を行く「陸行」だったのです。陳寿の編纂時点まで、古典書籍、及び先行「馬班二史」に公式の街道「水行」の前例がなかったので、自明、当然の「陸行」で、狗邪韓国まで進んだと解されるのです。
以下、臨時に採用した「水行」という名の「渡海」行程に移り、末羅国に上陸すると、限定的な「水行」の終了を明示するために、敢えて「陸行」と字数を費やしているのです。
「倭人伝」に示されているのは、実際は、「自郡至倭」行程であり、最後に、「都合、水行十日、陸行一月(三十日)」と総括しているのです。
ついでながら、先に言及したように陸行一月を一日の誤記とみる奇特な方もいるようですが、皇帝に上申する史書に「水行十日に加えて陸行一日」の趣旨で書くのは、読者を混乱させる無用な字数稼ぎであり、「陸行一日」は、十日単位で集計している長途の記事で、書くに及ばない瑣末事として抹消されるべきものです。水行十日は、当然、切りのいい日数にまとめた概算であり、桁違いのはしたなど書くものではないのです。
結構、学識の豊富な方が、苦し紛れに、そのような言い逃れに走るのは勿体ないところです。当史料が、皇帝に上申される厖大な史書「魏志」の末尾の一伝だということをお忘れなのでしょうか。ここは、途中で投げ出されないように、くどくど言い訳するので無く、明解に書くものと思うのです。
と言う事で、郡から倭まで、三角形の二辺を経る迂遠な「海路?」に一顧だにせず、一本道をまっしぐらに眺めた図を示します。これほど鮮明でないにしても、「倭在帯方東南」を、図(ピクチャー picture)として感じた人はいたのではないでしょうか。現代風に言う「空間認識」の絵解きです。当地図は、Googleマップ/Google Earthの利用規程に従い、画面出力に追記を施したものです。漠然とした眺望なので、二千年近い以前の古代も、ほぼ同様だったと見て、利用しています。
本図は、先入観や時代錯誤の精密な地図データで描いた画餅「イメージ」で無く、仮想視点とは言え、現実に即した見え方で、遠近法の加味された「ピクチャー」なので、行程道里の筋道が明確になったと考えています。倭人伝曰わく、「倭人在帯方東南」、「従郡至倭」。
中原の中華文明は、「言葉で論理を綴る」ものであり、当世風の図形化など存在しなかったのです。
未完
*旧記事再録~ご参考まで
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以下の記事では、帯方郡から狗邪韓國まで船で移動して韓国を過ぎたと書かれていると見るのが妥当と思います。
「循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國」
従来の読み方ではこうなります。
「循海岸水行、歴韓國乍南乍東、到其北岸狗邪韓國」
終始「水行」と読むことになります。
しかし、当時の船は沿岸航行であり、朝出港して昼過ぎに寄港するという一日刻みの航海と思われますが、そのような航海方法で、半島西南の多島海は航行困難という反論があります。
別見解として、『「水行」は、帯方郡から漢城附近までの沿岸航行であり、以下、内陸行』との読み方が提示されています。この読み方で著名なのは、古田武彦氏です。
これに対して、(山東半島から帯方郡に到着したと思われる)船便が「上陸して陸行すると書かれてない」という難点と合わせて、魏使は、高貴物を含む下賜物の重荷を抱えての内陸踏破は至難、との疑問が呈されています。特に、銅鏡百枚の重量は、木組みの外箱を含めて相当なものであり、牛馬の力を借りるとしても、半島内を長距離陸送することは困難との意見です。
このような視点は、「倭人伝」道里行程記事は、魏使、ないしは、帯方郡官人使節、正史使節の帰国報告に基づいているとする意見によるものですが、ここまで何度も説明したように、「倭人伝」道里行程記事は、明帝没後の正史使節の派遣以前に、新帝曹芳に対して、郡を発して倭に至るという「公式道里」を説明するために書かれたものであり、当然、正史使節の行程記事ではないのです。
*厳然たる訓戒
これでは板挟みですが、中島信文 『甦る三国志「魏志倭人伝」』 (2012年10月 彩流社)は、厳然たる訓戒を提示しています。具体的には、次の読み方により、誤読は解消するのです。
「循海岸、水行歴韓國乍南乍東、到其北岸狗邪韓國」
つまり、帯方郡を出て、まずは西海岸沿いに南に進み、続いて、南漢江を遡上水行して半島中央部で分水嶺越えして洛東江上流に至り、ここから、洛東江を流下水行して狗耶韓国に至るという読みです。
大前提として、中国古典書法で、「水行」は、河川航行であり、海上航行では「絶対に」ない、というとの定見が提起されていて、まさしく、「水行」を、海(うみ)に直結している諸説論者は、顔を洗って出直すべきだという、厳然たる訓戒ですが、諸兄姉には、なかなか、顔を洗わない方が多いようです。
*追記 2023/04/23:
ここでは、「循海岸」を「沿海岸」と同義と解し、「海辺を離れて内陸の平地を、海岸と並行して街道を進む」と解釈しているのであり、海船での移動を「水行」と呼ぶという「不法な」誤読を、鮮やかに回避しています。
河川遡行には、多数の船曳人が必要ですが、それは、各国河川の水運で行われていたことであり、当時の半島内の「水行」で、船曳人は成業となっていたのでしょうか。
同書では、関連して、色々論考されていますが、ここでは、これだけ手短に抜粋させていただくことにします。
私見ですが、古代の中国語で「水」とは、河水(黄河)、江水(長江、揚子江)、淮水(淮河)のように、もっぱら河川を指すものであり、海(うみ)は、「海」を指すものです。これは、日本人が中国語を学ぶ時、日中で、同じ漢字で意味が違う多数の例の一つとして学ぶべきものです。
まして、「倭人伝」は、二千年前に書かれた高度に専門的な文書(文語文)であり、今日、通用している口語寄りの中国語文とは、大いに異なるものなのです。
手短に言うと、『古代史書において、「水行」は河川航行に決まっている』との主張は、むしろ自明であり、かつ合理的と考えます。
ただし、中島氏が、「海行」が、魏晋朝時代に慣用句として使用されていたと見たのは、氏に珍しい早計で、提示された用例は、陳寿「三国志」の内容とは言え、「陳寿」が、編纂したものではない「呉志」記事なので、魏志「倭人伝」用語の先行用例とするのは、不適当と考えます。
同用例は、「ある地点から別のある地点へと、公的に設定されていた経路を行く」という「行」の意味でも無いのです。是非、再考いただきたいものです。
*追記2 2023/04/23:
「呉志」(呉国志)は、東呉の史官が、東呉を創業した孫権大帝の称揚の為に書き上げた国史であり、言うならば「魏志」(魏国志)には場違いな呉の用語が持ち込まれているのです。「呉志」は、東呉降伏の際に晋帝に献上され、皇帝の認証を経て、帝国公文書に収蔵されていたものであり、「三国志」への収録の際に、孫堅~孫策~孫権三代とそれ以降の「皇帝」称号廃却は別として、改変、改竄は許されなかったのです。もちろん、「魏志」の記事に「呉志」を引用することも許されなかった、と言うか、そのような引用は、あり得なかったのです。
つまり、「魏志」(魏国志) 倭人伝用語の先行用例検索では、「呉志」(呉国志) 、「蜀志」(蜀国志) は、除外すべきなのです。
この点の誤解は、古来、裴松之以下の後世史家が、揃いも揃って陥った陥穽であり、後世東夷である当世国内史家が陥ったとしても、無理のないところですが、諸兄姉に於いては、原点に立ち返って冷静に考えていただければ、ことの見極めのつくものと考えます。
そのような編纂方針が顕著なのは、後漢末、献帝建安年間の曹操南征時に生じた、俗に言う「赤壁の戦い」に関する各国志の食い違いですが、それぞれの「国志」が、各国の公文書に厳格に基づいて編纂されていて、陳寿が「三国志」を統一編纂していないことから生じたものです。
未完
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